『建築がみる夢 - 石山修武と 12 の物語』
2008. 6.28 〜 8.17

世田谷美術館「建築がみる夢」開催録

12 Architectual Visions

世田谷美術館「建築がみる夢」日記 

Architectual Visions

『建築がみる夢 - 石山修武と 12 の物語』
 ご来場ありがとうございました

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サルスベリ
世田谷村

12 Architectual Visions
Akira SAKATA live in SAM

Architectual Visions 12 LECTURES at SAM

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workshop for children

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"ISHIYAMOUNTAIN OPERA" workshop

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Architectual Visions ASAKUSA Project

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Architectual Visions ASAKUSA Project

Architectual Visions ONINUMA Project

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Chinese New Year at Beijing project

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HIROSHIMAHOUSE

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SETAGAYAMURA

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a guide map

Architectual Visions Architectual Visions

a guidepost, ONINUMA project

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ASAKUSA project

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ONINUMA project

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ONINUMA project

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ASAKUSA project

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T-Island project

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ASAKUSA project

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T-Island project

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ASAKUSA project

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T-Island project

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T-Island project

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ASAKUSA project

  

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 酔仙山田脩二の写真

 トンレサップ湖

 世界最大級の水上集落がある湖である。山田脩二は風景の主役に雲をキャッチした。雲は水蒸気だから、湖と雲は一体なのである。
 山田脩二はそんな理屈は一カケラも言わぬけれど映像がその考えを、本人の考え以上に物語っている。

  

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鬼沼計画 時の谷ホール

  

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鬼沼計画 光風水塔

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グアダラハラ計画

  

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世田谷村

  

 二〇〇七年七月から二〇〇八年三月五日現在迄に描いたドローイングは二百二十点程。大小取り混ぜた状態である。平均して、大体一日一点チョッとのペースである。銅版は二十五点程。出来るか出来ぬか解らぬが、三、四、五の三ヶ月で総量を五百点、銅版五〇枚に迄持ち込みたい。  矢張り、一日三点製作しなければ達成できぬ。こんな作業は一生にもう何度も出来ぬから、充電の意味も込めて挑戦してみる。これはもうスポーツだな。三月六日早朝三点描く。計画案でもなく、絵でもなく、設計図では勿論の事ない。自分としては脳内モデルを描いている積もりだが、そのモデルはどうやら膨大な集積回路状にならざるを得ないもののようだ。脳と連結した手を限界に近い迄使い切ると何処に辿り着くかの実験らしきか。
 しかし、出現してくる形態らしきの殆どはどうやら、これらしきを作りたいなと切望しているモノや事の断片らしきなのである。もう少し、深いドローイングを描けないものか。
 建築は他人様の力が無いと立ち上がらぬが、ドローイングはその言い訳が一切きかぬ。脳の、身体の力そのものが赤裸々に表れるだけだ。

  

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 美術館の入口ロビーにチョッと面白い事やってみようと考えた。高さ 5m 位の山をつくり、その山の中に子供が入り込めるようにする。大理石の壁があるから、それが山に変身してしまうの理屈だが、理屈はとも角、これは面白そうなのでやれるところ迄やってみたい。
 ところで、その山の案内図を作ってみようかと思い付いて、フトつぶやいたら何故か異様に渡辺と吉田が乗ってしまった。これが私には意外であった。若い人が乗ってくるのは珍しくもあり、不可思議でもある。アッという間に石山寺縁起やら三仏寺やらの境内案内図などを参照して、こんなんでどうでしょうの、アイデアを沢山出してきた。ビックリした。これが時代なんだなと思った。きっと建築の設計より、はるかに、と言うべきか、別口の興味をかき立てられたに違いない。
 美術館を観光地の山に見立てる。展覧を山の伽藍配置として更に二重に見立てて、その案内図を洛中洛外図とまでは言わぬが、物見遊山の山岳観光案内図として仕立て上げる。この作業には少なからぬ知識とサンプル情報が必要となるが、彼等はコンピューターを使い、そんな事はいとも簡単にやってのけてしまう。
 テラーニのダンテウムがダンテの神曲のシナリオに触発されての想像力の発露であったのを思い出したりもした。テラーニがそうであった如くに、明らかにル・コルビュジェとは別口の想像力を働かせたがっているのだ。どうやら、コルビュジェの強過ぎる造形力には若干背を向けたがるのだが、テラーニの、さして強い意味は無いかも知れぬ、ひとひねりの如くには触指を動かされるらしい。
 この、ひねり、こそがポイントなのであろう。直接的にアイデアや模倣のアイロニーを持ち出すのではない。かと言って知識の操作のスノビズムに落ち込むのでもない。
 何だろうか、彼等の乗りの源は。
 美術館と観光とを同じに視ようとする工夫らしきへの共振では無さそうだ。その類はマルセル・デュシャンが勿体振った仕草でやり終えてしまっている。「泉」の影響圏は途方も無く大きい。それだけだったら、彼等は、それこそ白けてしまうだろう。
 まだ思い付きにしか過ぎぬが、地図を模造する事、美術館での展示そのものを大きな自然(山)と、幾つかの伽藍の溶融した状態として見る、視点の浮遊状態のようなものに、彼等は興味を示したのではなかろうか、と、私としては深読みもしたくなるのである。
 しかしながら、異世代の正体を垣間見る思いをした事はたしかで、かくの如き世代論は有効であるかも知れない。
 足を地につけぬ、一種の浮遊状態の如きを、ベンヤミンだったら、どの様に言い表わしただろうか。

  

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世田谷村

  

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 ドリーファンクジュニアの引退試合からの帰り径、夜道を歩きながら、ひと気の少ない街路や立ち退きで灯りがポツンポツリとしかつかなくなった住宅団地の風景にとても親近感を覚えた。
 相撲の引退は断髪式である。まげに鋏を入れる。リングからの引退はテンカウントである。対照的だ。断髪式は極論すれば身内の会である。相撲部屋という小さな村の会である。観客はないがしろにされてはいないが、遠い存在である。テンカウントはボクサーやレスラーと観客の別れの会である。どちらも別れの会である事に違いはないが、印象にへだたりがある。
 寂し気な夜景に特別な親近感を覚えたのは、明らかに引退のテンカウントの余韻が跡をひいていたからだろうが、時代にも夜風がヒンヤリと吹いているのも間違いない。ヒンヤリしたシニカル風は大方の知識人の好むところでもあり、これは趣味であると言っても差しつかえない。この根深い趣向、悲観的趣向、芸術分野でワビ・サビ趣向、今風に言えば何も表現せぬというミニマリズム志向、フラット趣向を乗り超えるのは、だからといっても大変な仕事になってしまう。
 6月28日からの世田谷美術館「建築がみる夢」では、その辺りの根深い問題にも一石を投じたいと考えている。

  

setagaya-mura 世田谷美術館石山修武展大入り計画進行録

石山修武研究室
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