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世田谷村の屋上の畑に降る雨は集められて、一本の大きな樋に流れ込む。大雨の時にはそこから水がドーッと流れ落ちて壮観である。世田谷の滝と、勝手に名付けている。
雨の日の翌朝、その滝が氷結して不思議なオブジェクトを作っているのを見た。氷滝である。流れ落ちる水が飛散して氷結した、いわば運動の瞬間が形になったものだ。
世田谷村の二の滝はいつか小型水車を廻して、発電し、水は全て循環させる予定なのだが、今は金が無くて出来ない。
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その15
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二月十三日山口先生を訪問。世田谷美術館でのコラボレーションについて相談するでも無く、相談のようでもあり。山口先生は一葉の写真を下さった。
「ベトナムハウスだよ。」
カンボジアのひろしまハウスの話は大分前にした。二川幸夫の写真(GA)も差し上げた。先生の頭の中ではプノンペンに現に在るひろしまハウスはいつの間にやらベトナムハウスになって変化しているようだ。お話しした当初からメコン河の水の色について、深い関心を示された。
「メコンの色は濃いグリーンだろう、それが感じられる。」
と、ひろしまハウスの創作の本質もつかれた。直接民主主義のモデル建築という常識のレベルを超えて真の芸術家に特有の深いダイビングを示された。ひろしまハウスの本質はそれが建つ場所にあり、他ではない事を示された。
ひろしまハウスはメコン河とトンレサップ河が合流する地点にあるウナロム寺院の境内に建つ。東南アジアでは二つの大河が合流する地点は聖なる場所、聖なる者が生まれる場所だというコスモロジーがある。それを先生は直観されたのだ。
いただいた写真はスケッチブックに描かれたドローイングである。
「五感の家を感じる、ヒンヤリ」と書いてある。まさに私がひろしまハウスの空間について直観的に作りながら、言葉に出来なかったことであった。
今の先生は不動明王であるから、動かない。頭脳が進化独立して何億光年の距離時空を飛ぶ。東南アジアまではアッという間に移動できる。二川幸夫の写真と、私の話から先生は五感の建築をかぎ取った。
おまけに、ドローイングには「蚊はブンブンさわる、蚊は何処に・・・するか」と印されている。「ひろしまハウス」は小動物達も平和に住み暮せるようにの想いもあった。小鳥が休める凸凹を壁に設けたし、ニワトリや犬や猫もゴロリと自由に使えるようにとデザインした。それを先生は蚊はブンブンとどこに居るんだと、言葉にしている。
五感の建築、すなわち本格的なエコロジー建築である。
環境芸術家フレデリック・キースラーを著した山口勝弘先生からの何よりの花向けの言葉である。
カンボジア、プノンペンまで流れて来たメコン河の色は実は茶色である。でも山口勝弘が濃いグリーンであると言うのだから、その土色はたまたま茶色を擬態しているのであって、中身は緑がかった色素の構成なのだろう。つまり、その辺の事を十二ひとえとつぶやいているらしい。
メタフィジック・シミュラークルらしきに触れた感あり。
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その14
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『立ち上がる。伽藍』のページが一向に進行、展開していない。気になってならないのだが、実力だから仕方無い。毎日、毎週展開できるだけのエネルギーが不足しているだけだ。しかし、当初考えていた通りに、その一部、冒頭部分の比較的まとまりの良いパーツは、先日手を入れて、六月二十八日からの世田谷美術館カタログの第四章に編入した。冒頭部分、すなわちT市のY先生をXが度々訪ねるという下りである。不思議なもので、このパーツにはかなりの愛着があった。文体も私としてはそれ程にウェットでもホットでも無く、殊更今様に、つまりお気取りして新古今調でやってみた。エーッ、あれが!との叱声は甘んじて受ける。が、要するに少々気合いが入っていて、捨てようにも捨てられなかった。冷静に考えれば、気取りが過ぎた。フーッと現実から浮いた感じを狙ったのだが、それが読者にあんまり受け容れられず、やはり想っていた程にヒット数は延びなかったのである。そこで、あのパーツに少々手を入れて「建築が見る夢」のシナリオに組み入れてみた。小さな力業を必要としたが面白い仕事だった。その組み変え方を今、オープンにするのは余り得策ではない。
今、私は二月中に二百二〇枚の書き下しをする事になって、かなり追いつめられている。二月六日現在、まだ六十五枚しか書けていない。あと、最小限百五十五枚書かねばならない。単純計算で一日八枚のペースになる。とても設計の仕事の合間にという、やっつけ仕事で出来るものではない。たった今だって、コレを書きながら一日八枚の計算を割り出して、ヒヤリとしているところなのだ。
今のところ、展覧会のカタログは二分冊として、一般書店にも並べられるようにしようと相談している。一冊はキチンとした記録としてのカタログ。もう一冊は絵巻物風、あるいは漫画、アニメ風を入れた、物語りスタイルにと、欲ばっている。
当初は、描きためているドローイングのキャプション程度を、書けばいいかと安易に考えていたのだが、出版社から、それでは売れませんぞ、と直言された。すぐに、そうだろうなと受け入れた途端、一気に最低二百二〇枚は書いてくれなければ、どうにもならんと押し込まれてしまった。
で、現在、その四苦八苦の最中に居る。
「立ち上がる。伽藍」の書き初めへの愛着は何であるかと考える。
あの書き出しは、夢うつつそのものを想定した事自体への精神科医的分析状のものだったのではないかと気がついた。夢判断自体を対象としてその全体を把握したいという欲求が書かせた。そう割り切ったら組み変えは高速で可能になった。今は、自分にも納得できる、気取りが一切けずり取られたものとして書き直された草稿が手許にある。
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その13
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「苔事件6」
一月十一日夜のミーティングで、院生達が製作した何とも言えぬ、本当に何をか言わんや、言えず、言えぬまま、なりと<言う>類の苔物件は誠に面白かった。日記にも記した如くにこんな馬鹿な事を三〇才になっても四〇才になっても忘れぬようにいてくれれば良いのだが。院生達にはこれ等の物件にネーミングしてごらんと、かなり高度な、全く高度な課題を出して、次の課題へと進む事にした。苔作りに没頭して貰っては困るのでもある。本当は困らないのだが、少しだけ困ってしまうのだ。要するに、設計してごらんと言われたら、設計という世間に行き渡っている常識の枠に何の疑いもなく入り込んでしまう怠惰さを、時に疑えよ、という事です。
学生に課した課題に教師が答えられないというみじめさは避けなければならないので、先ず教師としての答えを出そうと思う。出さなければならない。要するに、これ等の苔々は「値段のつけられない、それでも価値だ」と言う他はない。
山口勝弘だったらメタフィジックと言うのだろうし、これ等は全くマルセル・デュシャンをブチ超える可能性そのものであると、真面目な顔をして言いたい。実に面白い。
これ等の物件というか、群れなす馬鹿馬鹿しさこそアートの存在の意味の中枢でしょう。マルセル・デュシャンが泉と名付けて便器を美術展に出展したのは美術史の画期であった。これは誰でも納得している。
で、院生達の苔である。これらをデュシャンを超えるものでは無いとするであろう世間の常識、あるいは良識とは何者であろうか。といきなり設問の方向を変える。そうすると言いたい事の軸が明快になる。
デュシャンの便器が歴史的事件になり得たのは、ただ一つの理由からで、デュシャンがあの事件をうまく使って、ただただ有名になったからである。デュシャンが無名のままであったなら、やはり便器は便器のまんまであり続けた。すなわち、双方共に無名であり続けたであろう。
苔共を作った院生達は、当然無名の青年達である。だから、これ等は実に馬鹿馬鹿しい、ただただ得体の知れぬ無駄なものとしてしか、今は存在していない。あるいは、逆に、無名の青年達の得も言えぬ輝きを持っている。
この性格こそがメディアの意味そのものである。
我々はそのモノの意味を伝えられて初めて、その意味を知る。あるいは知った状態になるとも誤解するのである。つまり、物は、そこに在るだけでは意味を成さない。つまり価値を形作らない。別の言い方をすれば、子供の落書きと、ピカソの落書きの意味の違いは、ただ一点、良く伝えられているか、伝えようともしていないかだけに絞られるのである。
で、万が一、私が世田谷美術館の反対を押し切って、これ等の苔物体を千一個、たったの八個ではなく、百個でもなく、千個でもなく、千一個、美術館に並べ立てたとする。あるいは美術館の床全面に苔をしきつめて、さらにその上に千一個のこれ等の物体を並べ立てたとする。千夜一話の物語りの如くに。それは確実に事件となる。世田谷美術館として中位のスキャンダルにはなるであろう。アッという間に私や院生は有名になってしまう。苔むす馬鹿教授と学生達の惑乱などとはやし立てられ、そして。アッという間に事件は忘れられてゆくだろう。
が、万が一、あるいは千が一にも私が狂った如くに頑張って、何処かに苔むす建築を苔だらけの庭と一緒に作品として実現させたとしよう。それは一気に逆転してしまい、私はいきなり苔巨匠になり上がり、学生達も、仲々凄者であると折紙、のし紙、なんかがベタベタと貼りまくられる羽目になるのではないか。
しかし、なんである。私にはそんな勇気の持ち合わせは全く、これっぽっちも無いのであるから、世田谷美術館は安心して良いのだ。と、言いつつ世田谷方面に去るという結末になるか、どうかはまだ解らないのである。
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その12
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一月九日、たまプラーザに山口勝弘先生を訪ねた。六十三才にもなって緊張したり、身構えたりする事や、相手も殆んどいなくなってしまった。気持の問題はいささかの個性の違いによるものもあるだろうが、つまる処相手次第、状況次第である。
山口勝弘先生に会う時はいつもいささかの緊張を伴う。俺とした事がおかしいと思うのだが、こればかりは実に自然な事でもあるので、いかんともしがたい。先生が病を得て、回復したまプラーザでリハビリテーション生活を送る以前を思い返すに、かくの如きは無かったと記憶する。もうウロおぼえの記憶ではあるけれども。そんな事を考えるに、やはり先生の今の得も言えぬ力、すなわち六十三才の私を緊張させて止まぬ力の如きは、倒れて回復されつつある、そのプロセスが生み出したものなのだろうと思わざるを得ない。
先生は今、しきりに今の自分はヴァーチャル世界そのものである、と言う。チョッと前はこうおっしゃっていた。
「私は今、幽閉された幽霊なんですよーッ」
あるいは
「マア、一種のゴミ的存在ですね。そうじゃありませんか。」
そんな表現をしていたのが、
「私は今、ヴァーチャルなんです。」
の表現に変化してきたのである。
だから、私は緊張して止まぬのである。油断しているヒマが無いからだ。油断どころか、流れる時間にスキらしきが無い。流石瀧口修造門下、実験工房の強者である。車椅子に乗っても強者は強者である。自分自身がヴァーチャルであるという実感に辿り着いた先生の知力に私はどうしても気押しされてしまうのだ。
そのあたりの感じは以前から充二分に身近なものとしてせまってきていたので、その気分は『立ち上がる。伽藍』の始まりの部分に、いささか抽象的に書いておいた。実験工房の強者をゲートに据えているのだから、先張り書くスタイルだって出来るだけ抽象的に、今流行の言い方で言えば透明に似せなければと考えたのだが、これは余りうまくゆかなかったので書き直さなけらばならぬだろう。山口勝弘先生だって次第に表現の仕方、呼び方を変化させているのだから、書き直すのは当然の事でもあり、方法としても面白いのかも知れない。
ともかく、先生は自分を幽霊、ゴミからヴァーチャルな存在へと変化させつつあり、更にはメタフィジカルな存在へと完成させようとしつつあるように感じる。
世田谷美術館での展覧会は私にとっても変化、変身の最初のゲートだとうっすらと直覚してはいた。だからこそ力を入れようとしているし、実際少し計り異常に熱も入れ込んでいる。その変化は身の振り方とかの類のものではなく、まだどうも上手く言えぬのだが山口勝弘的変化を成し遂げようと試みているのである。
脱建築家を単純に試みようとしているのではない。芸術家に変身しようとしているのでもない。勿論生活派エッセイストになろうとしているのでもない。それ等が迷路状に入り込んで、錯綜とした総体になり始めているのである。自分自身を今から幽体状態へと進化させたいと試みている。まだ荒っぽい表現の仕方しか出来ないけれど、この、試みようとしている事は、要するに身心脱落脱落心身というが如きだな。
山口勝弘先生のヴァーチャルってのも、そんな世界なのではないかと、これは一月の考えの状態である。
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世田谷村西の、地下室の屋根部分に自生している苔である。「苔運河」と呼んでいる。
良く良く見ると雨の日にはモヤがかかり、白い水蒸気のひだの中に行き来する船やらが沢山見えるではないか。
不愛想なコンクリートに苔が生まれてくると実に色んな風景が見えてくるから不思議だ。
世田谷村の屋上には残念ながらまだ苔は生まれていない。苔が避けているに違いない。
今、資料を集め初めているので、近日中にこの「苔運河」の苔の正体をつきとめるつもりである。世田谷美術館のオープンまでには「苔むす人」とまで呼ばれるように努力したい。
今、2008 年 2 月に発刊予定の「セルフビルド」中里和人氏と共著の、ゲラチェックをしている最中だが、世田谷村に大きなコケモンスターを作り、それを付け加えようかどうか、一人コケみたいに優柔不断に、しかしジットリとなやんでいる最中だ。
21 世紀は苔の時代です。
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この写真は残念ながら昨年末のものだ。年が明けて、この部分は見事に整理されている。その状態は近日中にお見せしたい。
下の畑と呼んでいる部分と、南の道路との境には塀や垣根を作らないと決めた。それで、これも残材廃材の瓦を使って境界とした。色んな種類の瓦を組み合わせて、それでも、この作業は何日かを要したのである。
仲々大変であった。
淡路島の山田脩二はんには悪いけれど、石山はあんまり瓦が好きではない。
好きでやった仕業では、これはないのだ。でも塀はイヤだ、どうしてもイヤだ、仕方なく廃物の瓦を並べた。
通りがかりの御婦人が「素敵ですね」の声を掛けてくれた時は心底ビックリした。仕方なくやった事が素敵だなんて。でも、散歩する犬達には評判良いようで、片足あげて小便する奴が多いようだ。犬の小便まみれの瓦となっている。しかし、瓦を埋めてからウンコをしてゆく犬だけは居なくなった。
人間達よりも余程敏感なんだろう。
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2008 年 1 月 7 日の世田谷村の姿である。藤野忠利さんから、毎日のように送られて来る大入絵馬が西の壁で、風にゆれている。2007年末の余りの華やかさに少々ひるんで、大作 10 点は遂に蔵入りとした。それでも、毎日道行く人の足を止めて見入る数は、どうかな、そんなに増えてはいないかな。
ほとんど毎朝、石山はこの西壁の手入れを余儀なくされる。やり始めた事だから仕方ないのだが、脚立を立てて上の方までよじ登り、絵馬を吊り下げるのは仲々危うい作業でもあり、落して大ケガなんて無様な事にならぬように気をつけている。
三日程前から、金属製の壁の下が少々、目障りになってきたので、沢山廃材で余っている瓦を並べてみた。
大入絵馬の力に押されての作業である。
又、朱色の構造材の基礎部分には瓦をくだいて、とってつけたような処理もしてみた。
道端でこんな作業をしているオッサンを通行人はケゲン深げに見て通り過ぎる。
何がしかの家で、朝夕の食卓の話題になっているのかも知れない。
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その11
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「苔事件5」
で、我々の苔計画、と言うよりも苔販売計画はどうなのか考えてみたい。すでに、サイは振られてしまっているけれど、チョッと用心して、大丈夫なのかをチェックしたい。
NTVより電話が入って、突然明日の朝、世田谷村に来たいと言う。何日か前から散歩番組の話があり、あんまり気はすすまなかったのだが、今度は積極的に引き受ける事にした。
だって苔計画宣伝のチャンスではないか。京王線途中下車の旅という番組なんだが、それに登場して、思い切り苔の事話しちゃおうという算段なのである。TV局は大体いつも横暴でTVの都合でしか物を考えぬのだが、今度はこちらにも都合があり、ほんの数分ではあろうが出ちゃうつもりなんである。
TVカメラは十五日朝に入るらしく、その日は丁度向風学校の連中と世田谷村で打合わせを予定していたので、向風学校も一緒に出ちゃおうという目論みをしている。
そうでもしなけりゃTVに登場しちゃう意味は無い。
当然、作ったばかりの大入り絵馬ギャラリーは登場しちゃうだろうね。だって玄関口にブラ下がっているんだから、風に吹かれて。二階のでっかい空間は、取り散らかしているので取材は難しいから、三階のワタシの仕事コーナーに上る。そこでは向風学校の連中が苔計画の作戦を立てているという具合にしたい。アッチの都合もあるだろうが、こっちの都合もあるんで、今朝うまく折り合いたい。
振り返ってみれば世田谷村は何度も何度もTVに登場しちゃっているが、今度が一番、考えようによっては面白い。途中下車の散歩がいきなり苔番組になってしまう位にやってみたい。が、あっちの都合も随分あるだろうからな。
向風学校の安西とは苔本の内容について話し合う予定である。いきなり世田谷美術館で苔芸術を売り出すのは、当然余りにも乱暴極まる話しだ。それくらいの事は解っている。意外と良識の人なのだ。
だから、出来れば来年六月に「苔芸術」に関する蘊蓄本を出したい。内容はいかにして苔が芸術になり得るかというもの。超芸術トマソンの二番煎じの感もあるが、庭園論、壺庭考、箱庭エッセイ。菌類について、湿り気の必要性、水ごり、みそぎマテリアルとしての水、風景論等が入り交じったものにする。
美術館で苔芸術を売る迄の奮闘記も当然軸になるのである。これは売れる、まさに大入りである。そうならねばならん。しかし、これは熟考すればする程に馬鹿馬鹿しくなってしまうのである。もう、思い切って本の具体的な構成を考え始めちゃうのが一番のようだ。
自転車で通りかかった御婦人から大入り絵馬をキレイですねなんて言われた事を思い起こすならば、当然、地域の人にも何らかの方法でコミュニケ―ションをしてゆかねばならない。あんまりベタつくのは趣味ではないので地域誌、ミニコミ等と連絡をとってみよう。絵馬ギャラリーは良い糸口になるかも知れない。世田谷村の中迄人がズカズカと入り込んでくるのは嫌だが、道端でのあいさつ程度の附合いのつもりで始めたい。そういえばNTVのスタッフも世田谷のミニコミ誌で世田谷村の事を知ったと言ってた。そのミニコミ誌を私は知らないのが、いかにも現代的だな。何を何処で書かれ、言われているのか解らないのだ。
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その10
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「苔事件4」
ところで、昨夜の世田谷美術館担当者との打合わせの感触では、「苔はせいぜい二千円止まりでしょう。二千円超えてはいけませんよね」の発言もあった。
でも二千円では美術にならんのではないか。美術とは、要するに道端の石ころを路傍の石と呼んでみたり、ただの落書き状のモノを「美しいのではなかろうか、見方によっては」とか、「面白いとも言えなくはない。」とか呼んでみる事に過ぎない。
先程、世田谷村の道端ギャラリーに宮崎の藤野忠利大入り大明王の大入り絵馬を吊るしていた。自転車で通りかかった御婦人が自転車を停めて、
「ステキですね。私、先生の写真持ってるんです。」
「そうですか、ありがとう。」
と不思議な会話を残して走り去った。アノ、会話からおしてはかるに、私はこの地域では少々風変わりな、変哲オヤジとして名をチョット成しているのかも知れない。しかも、この大入り絵馬は私の描いたモノで、当然あるだろう、と受け止めているのは明白である。イカン、イカン、これでは地域に対して墓穴を掘るばかりだ。
あそこの変人先生、今度は変な絵馬描いて、道端に並べ始めたわよ。イヤーネ。の噂まで聴こえるようだ。これでは、洗濯物のパンツ干しても、何か絵馬なのかしら、何て思われてしまいそうだ。私は大入り絵馬の作者ではない。これは遠く九州宮崎から送られてきた、郵便アートなので、あくまで作者は藤野忠利なんである。私はこういう類いのモノは作らない。
もうチョッと常識人である。大入り絵馬なんて作らないし、作れない。しかし、送ってくる人間がいるのだ。送るのが、恐らく楽しみな人間なんだろう。こういう縁起モノの類いは簡単には捨てられない。ただの絵らしきの類いは、エイヤと思い切れば、ゴミとして捨てられる。ゴミと芸術作品とは限りなく類似品でもある。同じ棚に並べられてしかるべきモノなのだ。
例えは悪いが、立小便の名所に小便禁止とあり鳥居マークが印されていたりすると、何となく遠慮してしまうの類である。何しろ絵馬らしき形をしているだけで、何か普段の生活には薄い祈りの気持ちが、そこに在るように思ってしまう。
ましてや藤野忠利の娘の藤野ア子は今、癌と戦っている。そこで戦っている日常を絵本にして出版した。この世田谷美術館大入り計画進行録の出発に記した通りだ。
芸術家はやっぱり、「俺が、ワタシが、」の人種である。要するに愚者である。自己表現の自我そのものを言うに等しい。又、そうあってしかるべきだ。しかしながら、やっぱりそこにはある種の洗練がなければならない。それが無いとどうしても人間がイヤしくなってしまう。
実ワ、ここら辺りの語り口も少しイヤしい。上から見下した説教口調の匂いが在る。反省。
大入り絵馬が風に吹かれて、タヌキの金玉の如くに、風に吹かれてブーラブラの状態は、これは藤野忠則の新境地なのではないか。
苔芸術の値段についての話に戻ろう。利休のワビ茶にもそのような問題がつきまとった。利休は堺の商人でもあった。右のモノを左に移すだけで利を得られる事、又、それを人々が望んでいるのをよおく知っていた。後にカール・マルクスがドイツ・イデオロギーで述べた如くの一種の真理である。だから、利休好みの茶器の何がしかは朝鮮半島の土俗のモノを、そのまんま移送した趣がある。朝鮮半島の農家の生活雑器をそのまま茶室に持ち込んだりもしたようだ。馬の小便壺を床ノ間に飾ったりの類いである。
デュシャンが便器を美術館に持ち込んで泉と名付けたのは日本では更に念入りに利休が、その手付きを示していた。
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その9
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「苔事件3」
まだまだ苔の件が頭に住みついて家出してくれない。出て行ってくれるまでにアト一両日はかかるだろう。昨日は研究室のYに苔モデルの設計にとりかかるように指示してしまった。Yは院生である。大学院まで来て苔の設計かよ、と自然な疑問と不快感を持たれたら当然良くない。
そういう事は最近少し計りわきまえてきた。
「苔のモデル、盆栽のようで盆栽じゃない、ミニマムなランドスケープだと思ってくれ。わかる?」と尋ねたら、コックリうなづいてくれたから、感じは通じたのであろう。この、感じが通じるという感じが一番大事なの。
真剣なおかしみの如き、初冬の日だまりの中の満腹な猫のオナラの如き、ガスが充満してしまって突如一気につむじ風の如くに抜けると言いましょうか。すぐに影響されちまった金子兜太の俳句の如きでありたい。決して和歌の如くではない。あくまで現代俳句の世界に接近するって感じだよ。感じです。感じてくれ。
Yには八ヶ月前に鬼沼の「時の谷」設計の中に課題を与えた事がある。時の谷の中に極小な建築モデルを考えてごらん、というモノであった。当然、そんな課題は院生になりたてのYには本意がつかみかねただろう。小さな、インドのジャイプールのマハラジャジャンタール天文台の天体に延びる階段の、チンケな模型を作ってきた。これは誰でも考えつく類の水準である。古池やかわず飛び込むドボーンの世界である。
ただ、その模型にキリギリスだったか、クソバッタであったか定かではないが昆虫の姿がかぶさった絵を作ってくれたのを憶えていた。モスラやガメラの世界だ。コイツ、もしかしたら解りかけの入り口位には立っているのかなと思った。
普通はそれでお仕舞になる。そしてお互いにそんな事件は忘れてしまう。時間はそうして無為に流れてゆく。ところが、私はそんなささいな事を決して忘れないという無駄な才を持っている。こんな自慢にもならぬでもやっぱり自慢をしてしまうのが大入り俗人の証しなのだが、地だから仕方ない。
Yにはその後、杉並N幼稚園の「天の川計画」にも参加させた。案の定、小さな水車小屋計画に仲々のモノを発揮した。仲々のモノって何だと言われれば、それは本来の才質だと言うしかない。特に水車小屋の中の床のアイデアなんかはYの本性が出ていて面白かった。それは実現できぬ類のものであったが、キリギリスの階段を出してきたのと同じ気質が流れていたのである。
で、今回の苔庭園モデル担当という事になったのである。こういう事は面と向って本人に言えば良いのだが、私が対面して肉声で言うと何だか怒って叱っている風になってしまうので、こうしてマアコンピューターに代弁させているのだ。実にどうでもイイ心使いであろうが。
つまり、デザイン担当者も決まった。
「ミュージアム、ショップで大体幾らくらいで売るんでしょうか」という質問も良ろしい。実に良ろしい。この質問には実ワ、ハッキリ答えられないのだが、まだ、でも私は先生でもあるから、答えられなくても答えなくてはいけないので、「苔っていっても、アートだからね。値段はあって、無いんだよ。二千円から一万七千円位までかな・・・・。」
と、とり敢えずは厚かましく、鉄面皮に答えておいた。一夜明けてみれば、仲々いい線いっていたんじゃないだろうか。苔庭園に立つ人間や小建築の模型も入れての値段なんだから。そこに立つ人間は当然、買っていただいた人間、御本人である。それに自分を託すのである。それが箱庭を手入れする醍醐味であろうから。
だからと言って、その人間模型を透明にしたりなんてバカな事は一切考えてはいけないのだ。ただただ盆景風にならぬ、の一点に考えを集中すれば良い。盆景風になる恐れは充分にある。だって元々、そもそも盆景なんだから。
しかし、それを箱庭だ、ミニマムランドスケープだ、飼い猫ならぬ、飼い庭園だと言いくるめなければならない。その強弁こそがアートなんだから。チョッと古いけれど、マルセル・デュシャンの泉だなコレワ。ルーツは。それを更に湿気たっぷりに、いつくしんでゆくのである。
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その8
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「苔事件2」
二〇センチメーター角くらいの平箱。あるいは小さな、手のひらに入ってしまう程度のお皿くらいが良いという者もいる。その辺りは考えをつめていない。
鬼沼行のつれづれにT社長に相談した。T社長のところは世界中の民芸、小物、アクセサリーを輸入販売している部門を持っている。だから、苔芸術を作る枠というか額縁のようなもの、あるいは皿の如くがあるのでは無いかと思い付いたから。T社長はすでに共に富士ケ嶺造園の社長がこっそり作り出している苔類は見ている。反応をすぐに見せるような人物では無いから、あのメルセデス・ベンツ数台分もの金を注ぎ込んで飼育している苔が商売になるのかどうか、T社長がどう考えたのかは知らぬ。でも聞けば、
「先日、アノ、山本カンサイっていう人がね、突然、原宿の店にやってきて、アジアのアクセサリー類沢山買っていった。何に使うんですかって聞いたら、コレで何かアートみたいなの作ってニューヨークで売るんだって言ってましたね。アートにするには何か枠みたいなのがいるから、それ作れるかって尋ねられたそうです。」
そうか山本カンサイは苔じゃなくって、アジア工芸品を枠の中に納めようとしてるのかと、でも苔の方がズーッと芸術だよね、と胸をなでおろす。こういう勝手は自由だから、胸なでおろそうが、胸はろうが勝手なのだ。
「それでその枠というか箱の材料、社長のところにあるんですか。」
「そんなモノ、いくらでもありますよ。タイの古民家の瓦だってあるし、インドネシアの家の屋根板もあるし、チーク材だってある。インド産の素焼きの皿だってすぐに作らせるよ。」
「美術館で売れますかね。」
「私の店じゃどうかなって思うけど、美術館ならね。面白いかも知らんな。私、そっちの方面は関心ないから解らんけれど。カンサイさんはニューヨークでそれを百万円位で売るんだって、言ってたからナァ。」
「そうか、カンサイさんはニューヨークで百万円か。」
「気合い入ってますよって、言ってた。」
「そうか、ファッションは気合いだよな。でも苔はアートだからな・・・ブツブツ」
苔を人に着せるわけにはいかない。だって苔人間には毎日毎時水をかけねばならないから。4月8日にお釈迦様に水をかけたら花まつりだけれど、人間にかけたら水ゴリ、みぞぎだもんね。みそぎファッションなんて絶対に当らネェな、コレワ。いくらなんでも。
しかし、絵だって枠に入れば絵画になる。美術館に入れば芸術になるんだから、苔も大事だが、苔を納める枠も大事なのだ。これは自分だけで考えてちゃ駄目だ、とミカンキンカン直観の三段飛び、を敢行。早速、研究室の女の子に考えてもらう事にする。と十二月十日早朝に決めた。あの娘達はこういうの考えるの上手いからナ。
「中国に焼物の人間やら、建物やらの小さいのがありますよ。苔の中に置いたら面白いんじゃないですか。」
と、T社長。
確かに、面白そうだな。でもベトナム田園風景盆栽になっちまうかも。しかし、ヨーロッパには陶製の建築模型がおみやげ物で売り出されているな確かに。バルセロナのガウディのコピーものなんかは仲々のすぐれ物があるし。苔とガウディは合わないけれど、苔とミニ人間、ミニ小屋なんかは実に合いそうだ。
これはモデルを早速作り始めてみよう。
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その7
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「苔事件1」
苔の事が頭に棲みついて離れない。昨日十二月八日の鬼沼の現場行でも、T社長とその話になってしまった。鬼沼の現場の進行状況は勿論、世田谷美術館の展覧会の軸になる。軸というのは十二の伽藍計画の現在進行形の発表が軸であり、その十二の計画案の中でも、かなり大事なものとして位置づけているのだ。それに関しては「立ち上がる。伽藍」をヒットして下されば象の足をなぜる位の感じは得られるであろう。こちらとしては象どころではなくマンモスの感じでやっているのだから、少し計りの大口はお許しいただきたい。
大口と言えば、昨夜読んだ三島由紀夫の作品自己解説は大変面白かった。「サド公爵夫人」、「わが友ヒットラー」の、それぞれ大当たりした演劇の台本書きの自己解説なのだが、久し振りに読み直して、やはり恐るべき才能を我々は早くに失ってしまったのを再び痛感した。
三島由紀夫には批評家としての才と、創作家としての才が同居していたのは良く知られるところだが、この自己作品解説にはその双頭の蛇振りが良く表われていて凄みさえ感じさせる。三島の中の高貴な部分と俗な部分さえ露らさまに表現されてしまっている。俗な部分、すなわち三島由紀夫の大入り部分である。
と、三島由紀夫まで大入り計画に引っ張りこもうというズサンさで、次第に追い込まれている自分を痛感するのである。
三島が自ら解説したかったのは「サド公爵夫人」と「わが友ヒットラー」の双方の戯曲が対として構想されているというコンセプト自慢である。もう、鼻がピクピクしている表情まで視える位に自慢している。女だけの役者五人でサドを、男だけの役者四人でヒットラーを戯曲化したんだぞー。その双方を結びつけるのはフランス・ロココ趣味と、ドイツ・ロココ趣味なんであーる。その双方をもってヒットラーという二〇世紀のモンスターに対峙したんだぁー。と得意満面状態なのである。満面過ぎて、三島独特の堅苦しい優等生振りが何処かにすっと飛んで、ああ、やっぱり三島の戯曲は小説よりも余程良い、コレはガキ大将だ、天才だと、しみじみ解ってしまうのです。
「苔計画」と取り敢えず呼ぶ事になる、ビッグピロジェクトではないプロジェクトだって実はそういう処があるのですぞ。と小さな見栄を切らしていただこう。
苔販売を芸術の形式に仕立てて世田谷美術館ミュージアム・ショップの場を借りて行うのは、三島の戯曲の自己解説に似せているのだと先ず一発ブチかましたい。何だ、何だ、どうしたんだ、何処が似ているんだバカ者がと言われるであろう、言ってくれなければ話にもならない。言ってくれて初めて演目が進行する。つまり幕が開けるのだ。マア、しかし、これは今のところは誰も言ってくれはしない。これは理の当然である。
私が向風学校の連中と「苔屋(これもかりの屋号である)」開店をすすめるのは、こんな理由からなのである。
とここで、向風学校の若者達に充分に「苔屋」出店計画いついて話も、説明もしていなかった事に、今、気付いた。彼等がもしも、これをコンピューターで読んだら、当然それを望んでもいるのだけれど。彼等も彼等なりに忙しそうだから、全く読んでいない可能性もあるから、今朝早速読むように連絡したい。つまり、ここに書いている事はやった事の残りかすばかりではない。今、頭の中で炭火程度のものではあるが、チロチロと燃え始めている思い付きをも記しているのです。
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その6
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十二月六日夜、向風学校安西直紀の苔写真にいたく感動する。コレは、いきなり、銭になると、又もいつもながらの大ジャンプ状態が生まれた。こんな直観の一つも当っていたら貧乏してネェな。と、つぶやきつつ、自分の大入り願望も根深く藤野忠利的である事を痛感する。要するに大俗人なんだ。
向風学校製作の苔を世田谷美術館のミュージアムショップで売ろうじゃないかの、バカアイデアが生まれてしまった。担当のN氏に言い出すべきか、まだ黙っているべきかを5秒程悩む。が来週の月曜日に会うので話しちゃえと決断。こういうバカな事は決断が速いのだ。本当にバカだ。
安西の苔写真は、コレワ充分に芸術の域に達している。美しいし、苔への眼線に温度がある。それに山口勝弘先生も瀧口修造も 21 世紀はメタフィジカルシュミラークルだと、まだ充分に理解できんのだが、そんな事を予言されている。解んなくてもこれは信じた方が好い。メタなんとかが何であるかを解らなくても、感じは解る。
つまらない日々の流れの中にもある苔を、国宝だと言っちまう様な事だ。安西がわざわざ銀閣寺の苔探勝に出掛け、国宝銀閣寺の連中が苔ミュージアムを庭園内に作り出しているのを発見してしまった。
銀閣寺は苔を幾つかのカテゴリーに勝手に分類している。
銀閣寺の大切な苔
とても邪魔な苔
ちょっと邪魔な苔
の類だ。
銀閣寺の大切な苔は Very Important Moss つまりVIP扱いとされている。これにはヤマゴケ、ウマスギゴケ、ホウライゴケ等が属する。
とても邪魔な苔には、ゼニゴケ、ジャゴケ、クモノスゴケ、タカネカモシゴケが仕分けされている。名前も何故か邪悪な感じがしてしまうではないか。
ちょっと邪魔な苔にはハイゴケ、タニゴケ、ギンゴケ、サナダゴケがいる。名前も、やはり、どうでもいいようなのが並んでいる。
こういう世界が要するにメタシュミラなんとかの世界なんだろう。
南方熊楠の苔の博識と、ネーミングの妙、そして勝手なカテゴリーに分けながら、同時に一気なバーチャル世界を現前させてしまう。
国宝銀閣寺の連中に出来て、向風学校に出来ぬという理由は何もない。山口勝弘が淡路の山勝工場で室内に舞い込んだ枯葉だと思ったら、葉に擬態したガであった、を体験し、擬態とメタフィジックの関係を直 観した如くは実は万人の日々なせる術でもあろう。その辺りの理屈はいずれヒマな時に考える事としよう。
先ずは、世田谷美術館に苔を持ち込みたい。出来ればその苔をアートとして売りたい。富士嶺造園のオヤジさんの力も借りてコケ入りアートとして一分野を築こうではないか。
苔商店、コケヤなんて模擬店も出来れば出したいね。そこで、銀閣寺にとても邪魔な苔類とされている、ミズゼニゴケなんかを大入りゴケとして売り出す。センニチゴケを永遠の愛なんて名前つけて結婚式用に売り出す。無茶苦茶売れて、世田谷美術館にはお金ザクザク、向風学校もニッコリ、富士嶺造園のオヤジさんも在庫一掃でニンマリ、となるであろう。そうありたい。そうなってくれ。そうなるベシ。そうはならんよ。と、クールになったらおしまいよ。
次の一歩を踏み出してみようか。
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その5
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八〇歳の老アバンギャルドに最大級の敬意を払いながら、それでも言明しなくてはならない事もある。山口勝弘の今現在を理解できなければ、プラネタリウム計画にはそれ程の意味はあるまい。毎日飛んでいる世界中のエミレーツ航空便はプラネタリウムが亜宇宙を飛行しているんだから。
つまり、事程左様にメディアアートそのものにはおのずからなる限界がある。技術は技術によって乗り越えられるからだ。美術館の中にインスタント・プラネタリウムを置いて稼働させたってそれは一時の話題ではあるが、それでしか無い。その事自体はいずれ時が経てば技術の初歩的成果としてだけ残る事になるばかりだろう。
だから、石山展にプラネタリウムを置くだけだったらそれ程夢中になる事もない。問題はそのプラネタリウムの中身だ。つまり、山口勝弘のプラネタリウムに希求する気持ちの動きそのものだろう。それには大きな価値があると考える。私の未来にとっても人間にとっても。
それは何だろうか。短い山口勝弘の言葉の端々と、彼の膨大な仕事の積み重なりの関係の編み目の中に視てゆくしかない。
山口勝弘の独自性は表現そのものの価値を芸術家の主体にだけ与えるものとしなかった事に意識的であったことだ。観る者、それを楽しむ者にも参加による表現がある事を意識していた。石山の言う開放系技術とその点では通底している。
ならば、プラネタリウムの中身では、その事を伝えなければ意味が無いのではないか。ガウディや宇宙的ドローイングの映像流すよりも余程骨格がハッキリしているのではないか。山口勝弘制作の映像ひろしまやアントニオ・ガウディを投射するのよりも余程これは良かろう。
そうだ。もう一つの天の川があったな。子供達の天の川計画。N幼稚園の天の川計画があった。まだまだ施工中の、子供達とお母さんによるセルフビルドの水車小屋がある。プラネタリウムの中にあの水車小屋を建てちまおうか。I園長にお願いして部品をバラバラにして提供してもらい、アレをドームの中に作ってみたらどうだろう。それに山口勝弘の映像が重なり合う。ガウディでも何でもOKだ。プラネタリウムの使い方はこれを先ず検討してみたい。
先程、台北のC.Y.LEEから電話があった。いつ北京に戻って来るかって言うので、年末か年始に行くと答えた。北京オリンピック以降の北京モルガンとの関係も再構築しなくてはならない。オーナーのM.Kにも展覧会のスポンサーになってもらおうと考えているのだが、やっぱりメディアアートだろうな。これは技術とからんでいるから金になり易い。
まだまだアイデアは入り口ゲート部分でグルグル廻っているだけだが、入り口の一端は穴が開いた様な気がする。山口勝弘とI園長、そしてその組み合わせをメディアにしなくてはいけないな。全体がキチンとまとまるのは来春になってしまうだろうから、確信に近いレベルまで辿り着いたものから実現化への径をたどらせたい。
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先ず、導入部分のキーワードを仮定した。わかりやすく言えば宇宙・水車小屋。天の川である。さらに要約すれば夢の入口。中身、つまり伝えるべきメッセージはメディアの開放系化であろう。このプランは良いと思う。子供達も観客として意識的に対象化したいと考えていたから。
「イノセントであり続けるドリーム」でも良い。
宮沢賢治の童話世界から、老アバンギャルドの宇宙への夢迄。あんまりひねらずにポッとあれあ良い。これが最初のゲート。
はじまりも無ければ終りも無いと言う人もいるけれど、はじまりがあれば終りらしきもあると考えたい。
終りの会場は、石山のこれ迄の記録を集約すると決めている。切り口は開放系技術。幻庵、開拓者の家、伊豆の長八美術館と松崎町。岡山・国際交流館、リアス・アーク美術館、ヘレン・ケラー記念塔。現代っ子ミュージアム。そして、プノンペンの「ひろしまハウス」。
これからの不確定な「未来」と化石になっている「過去」をつなぐPROJECTは唯一、「ひろしまハウス in プノンペン」、これが未来と過去をつなぐ唯一の媒介だ。
しかし、こんな事をメモしたって、世田谷美術館により多くの人が来てくれる可能性は全く無いな。実に大入り計画はむづかしいのだ。本当に、情報だけで美術館を大入りにするのは難しいのだ。気取って、むづかし気な事を書けば書く程、記せば記す程、人の足は遠のく。この原理はコンピューターによるコミュニケーションをかなり古くからやっている身にとっては痛い程わかっている筈なのだがなあ。
しかし、嫌なものは、嫌なんだから仕方が無い。
でも、コンピューターによるコミュニケーション、つまりはこのサイトの充実が展覧会の成否をにぎっているのも自覚している。出来れば大入り進行録のサイトは毎日更新した方が良いくらいなのだ。
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その4
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どうも展覧会の全体をうまく構成出来ない。で、一日集中して考えてみたが、それでもまとまらない。その事は世田谷村日記R369に記した。この記録はその先の考えである。
今月、つまり二〇〇七年十二月及び二〇〇八年一月は山口勝弘のプラネタリウム計画と、どう石山展をドッキング出来るのか、のアイデアを作り込まなくてはならない。それはどうやらハッキリした。二十一世紀はメタシュミラークルな時代になる、と先生の師滝口修造はアンドレ・ブルトンのシュールレアリズムの二〇世紀とは異なる展望を持っていたとの手紙もいただいた。その間のディテールを探るのは私の役割ではない。
「アッ、そうなのか、それなら、それやってみましょう。御一緒に。」
が私みたいなバカには丁度良いのである。
私のプラネタリウム論の始まりは、実ワ、二〇〇七年初めのイスラムの旅の記録にある。フェズ、メクネスへの旅。その旅の始まりはエミレーツ航空のアラブ首長国連邦ドバイへの飛行機であった。エアバスの内部がプラネタリウム状になっている、オイルマネーが作り出したモバイルプラネタリウムであった。
エアバスは成層圏を飛行するように設計されている。地表から十KM位の亜宇宙とも呼ぶべき圏域である。機体の窓からは宇宙の深淵が眺められる。銀河だって手に取るように視える。
その機内の円い天井に銀河がLEDで作り込まれている。美しく、しかしキッチュにプラネットの如くに点滅もしている。機体は円筒形断面でしかも長いから、肉眼で視える銀河よりも余程、銀河らしく視えるのだった。砂漠の民がオアシスから見上げる銀河のようなものだろう。つまり、イスラムのモスクの装飾宇宙がヴィジュアルにグラフィカルに表現されている。
イスラム建築の最良に属するものはこれは明らかに宇宙のメタファーである。建築の内外共にそうだ。つまり建築全体が宇宙である。とすれば、変な問題が発生するんだなあ、実に。
山口勝弘が言うように二十一世紀はメタシュミラークルな美学が、シュールレアリズムの美学にとって代わるだろう、というのは何となく解る。今の建築の大半の美学はシュールレアリズムである。最良のものはね。そこらに転がっているモノはそれを意識さえ出来ぬ類のモノである。
山口勝弘はメディア・アーティストである。フレデリック・キースラーを習い環境芸術家の看板を挙げてもいるが、やはり尽きるところメディア・アーティストという事になるだろう。
メディア・アートを要約すれば電気テクノロジーを使った表現という事になる。ヴィデオ、コンピューター、各種映像機器を使った表現である。
恐らく、エミレーツ航空の機内に銀河を出現させた機器及びソフトウェアは最高の水準に属するものであろう。なぜなら最高度の機器が使用されているだろうから。オイル・マネーの結晶だからだ。アト、二、三十年は続くのだろうか、この状況は。しかしそれより長い事はあるまい。
それは、ともかく。
オイルマネーが結晶したメディア・アートの一種であるのに違いはあるまい。山口勝弘的世界の産物である。それを、美術館で展示するか、成層圏を飛行する円筒形の中で表現するかの違いがあるだけだ。どちらかと言えば、これはエミレーツに分がある様に考える。アートとして考えていない分だけ、よりアート的価値が高いと思われる。現代は、あらゆる分野でノンフィクションがフィクションを凌駕している現実の中に在るのを良く示しているのだ。
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その3
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具体美術の面々、つまりは大入り藤野忠利さん達の事を書いていたら、案の定頭が混乱してきた。筆先からビールスが侵入してきたのであろう。混乱を混乱とも思わぬナチュラル・ゴミ・ビールスである。ナチュラル・ゴミ・ビールス。
すなわち別名ゴミラクル自然菌であり、今時のエコロジーバカは共生思想と呼んだりしている。本当にアイツ等は大バカだ。世の中バカだらけだ。勿論、私だってブツブツバカである。ブツブツバカ。すなわち批評的無為派、シニシズムの根元でもある。
こんな事書いていても世田谷美術館は一向に大入りにならない。客足は遠のくばかりである。無理をしてでも前向きに、観客動員方向へ話しを向けなくてはならない。
まだどうなるか解らないのだけれど、山口勝弘の小プラネタリウムが世田谷美術館に登場したとする。これはいかにも唐突である。山口勝弘先生が登場するのはそれ程唐突ではない。年長の友人であり、数少ない先生でもあるから、賛助出演の形だと納得すれば良い。助演にしては強過ぎて、主演たるべき私がビビっているだけだ。人生五〇年、下天の夢を宇宙と見切る老アバンギャルドと張り合うのは、それは皆さんが考える程には甘くはないのだ。
背中に色んな背後霊がくっついてもいる。
滝口修造、フレデリック・キースラー、マーレビッチ・・・・・。デュシャンからシュプレマティズム(至高主義者達)まで、おまけにユダヤ教の中枢、神秘主義的傾向までも。こんな人と張り合うのは無謀とも言える。むしろ無知であると、そしられるであろう。
私には具体美術派の面々程のクソ度胸の持ち合わせは無い。そしられたりするのには慣れてはいるんだが、平気でいられる程の者ではない。
だから何か工夫が必要だ。
展覧会そのものは「夢」を中心に据えたいと考えている。美術館そのものが夢の収蔵庫でもある。美術、芸術は芸術家美術家が表現するだけのものではない。そんな能天気な時代はもう終わっている。美術は時代の鏡だ。大体、美術館が無ければ、もう美術芸術はとうに無い。美術館(メディアも含めた)があるから美術は美術でいられる。つまり美術という階層が出現する。美術館は美術という枠の囲い込み装置である。
その問題に挑んでいたのは、実ワ、東の実験工房、西の具体美術派であった。
東方は滝口修造指揮の許、頭でその問題を解こうとした。西方は吉原治良指揮下身体ごとその大問題に対面した。要約してみれば大方そんなところだろう。
今、その精神は実験工房の老アバンギャルド、山口勝弘と具体の最若年大入りバカ藤野忠利に引継がれている。白髪一雄や堀尾貞治に引継がれている。
で私の展覧会の中枢は「夢」である。じゃあ世田谷美術館で実験工房と具体美術をブチ当てたらどうなんだ、と私の単細胞がそそのかす。
じゃあ、私の立場はどうなるのか。私だって、初めての大きな個展である。回顧展する程の大家じゃあないし、回顧する、振り返るのは好きじゃない。と一人で勝手に問題を作り出して、その架空の問題を解こうとしている。全く我ながらバカである。もっと単純に、すんなりと個展やった方が世間の通りも良いだろうし、世田谷美術館にも迷惑かけないだろう。と一人で考え込んでいる。どうするか。
山口勝弘のプラネタリウムに関しては今日(十一月二十五日)の午前中にたまプラーザの山口勝弘の部屋を訪ねて相談する予定だ。アト、一時間半程したら出掛けなくてはならない。
又、思はぬ展開になるかもしれない。スンナリとはいかないぜコレワ。
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その2
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山口勝弘先生とのコラボレーションスペースを作る事を決心する 1
心から、先生と呼べる程の人間はそれ程に多くはない。又、日本で数名であろう。先生と呼ばれる程の馬鹿は無し、の金言もある。それを言っちゃあお仕舞よ、なのであるが、私なんかは、その馬鹿先生に属するのである。
山口勝弘先生は心から先生と呼べる先生の一人である。
特に、先年病に倒れ、車椅子の人になってからの先生は凄味を増して、別格の人間になられた。その姿、その精神に遭遇し、いたく感動した私は、「立ち上がる。伽藍」の構想を得たくらいだ。この大連載は途中停止しているけれど、当然これは途中停車しているだけであって、途中下車してしまったわけでは全くない。この銀河鉄道のオンボロ列車みたいのは、ガタガタ、ゴトゴト走り続けるのである。
銀河鉄道で思い出したが、山口勝弘先生には銀河庭園と名付けられた兵庫県立美術館での個展が、たしかあった筈だ。先生の大仕事であった、フレデリック・キースラーにも銀河系計画なるプロジェクトがあるのを想い起こせば、この銀河系宇宙への憧憬の如きものが、両者を結びつける絆となっているのだろう事がうかがい知れる。
先生から最近いただいた知らせによれば、「宇宙とは本来バーチャル、一種の仮想上の存在ではないか」とメモが附されていた。夢は宇宙をかけめぐる、山口勝弘展二〇〇七年神戸ビエンナーレに際してのものだ。
スゲーナと思った。
織田信長だぜ、先生の今はと考えた。信長が桶狭間の決戦に際し、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢まぼろしのごとくなり」と唄い、舞い、死を覚悟の出陣に及んだらしいというのは誰もが知る。要するに、現実の人世はバーチャルだと、それならば死さえ夢、幻なのだと、つまり死んだって生きたってさ程の違いはない、と、一気に思いつめ、下らぬ実人世を一気に哲学の水準まで引き上げてしまった。
つまり山口勝弘先生も又、信長の能の境地にジワリ、ジワリと登りつめていたと言う事だ。
「僕はね、ここに幽閉されているんだ。もう幽霊ですよ僕は。」
と、真剣な顔でおっしゃる先生には誠に鬼気迫るものを感じていたのだ。何度も、モンテクリスト伯のダンテスが幽閉されていた如くの部屋に訪ねたが、私が余りにも馬鹿状態であると、先生はカーテンの閉め切られた窓の方に車椅子を向けたきり、振り返ろうともしないのであった。背中を向けたまま数十分なんて事が良くあった。
でも、今の先生の予言者の如き言葉の裏に、私は常にリアリティーを感じてもいたのだ。
「滝口修造先生が僕の変化する光の作品に、ヴィトリーヌと名付けてくれた時、滝口先生は飾り窓の比喩をダブらせていたんだよ。飾り窓の女の窓だよ。」
なんて面白い事も話して下さった。
実験工房の人達も今に生き残る人はわずかになった。あの人達は実に知的でクールだったようだと感じられるのも、山口勝弘等を媒介するしか不可能になってもいる。芸術家だって、その点だけは我々デザイナーバカらしきと同じで、時代が与えてくれる場所の枠から決して自由ではないのだ。
磯崎新がディレクターなんかやってられないよと自ら降りた、横浜トリエンナーレで私は具体美術の堀尾貞治さんに初めてお目にかかった。横浜トリエンナーレで自体は磯崎も言うようにゴミ、ガラクタの山であったが、その中でも具体の堀尾のゴミが一番覚悟の上のゴミ、すなわち確信犯のゴミなのであった。
当然、宮崎の藤野忠利は具体派であるから、堀尾とは友人で我々は中華街でメシを喰ったりしたが、具体の連中と、実験工房の人々とはコレは何か種属が異なる位の、細胞構造にズレがあるのではないかとさえ疑ったのでもあった。彼等の脳細胞は標本として解剖され、調べ切るべきであろう。その比較学的究明は人間の脳の、あるいは身体の組成と創造力との関係を解きあかす門(ゲート)になるかも知れない。
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その1
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私の友人は皆少し計り変り者だ。少し計りどころではない変り者もいる。
宮崎の藤野忠利さんはかなり重度の変り者だ。でも危険人物では、勿論ない。この人は芸術家だ。芸術家は皆変り者だが、実のところそうでない奴もいるにはいる。商売上手な商社マンみたいなのも居る。
藤野さんは絵を描いたり、拾ってきたモノで作品らしきを作り続けているが、当然、それだけでは喰えるわけもないから、画塾を開いて子供達に絵を描いたりするのを教えている。と言うよりも、一緒に遊んでいる。現代っ子センターといって、宮崎のみならず、仲々その名は日本中にひびいている。外国にもひびいている。何故、ひびいているかって言うと、やっぱり藤野さんが変り者であるからだ。
どういう風に変り者かと言えば、この人は気が向いた時に勝手に、メイル・アートと称して変なモノを送ってくる。スルメに切手を貼って送ってきたり、流木の小さいのを送ってきたり、いつかはスイカの皮まで送ってきた。古着のドテラが送られてきた時は、流石に家の者は顔をしかめて、「何とかならないの、このままでは家中ゴミだらけになるじゃないの」と怒りを露わにした。「どうにかならんかナァ」と友人の宮崎出身のお坊さんに相談したら、「アレはどうにもならん、病気だ。気のすむ迄やらせるか、ハッキリ送らないでくれというしかない」と答えた。彼も被害者だった。
でも送り主の藤野さんは自身満々の芸術のつもりなんだから仕末が悪い。
芸術ってのは本当に仕末が悪いものなのだ。
心地良いモノなんて、芸術ではないのかも知れないと、フッと思ったりもするようになった。
藤野忠利さんは関西を中心に派を構えた具体美術の最若年に属してもいる。具体派とは、端的に言えば、あんまり小むずかしい事は考えずに、バカな事をやってやろうじゃないかの精神の連中だ。代表的な作家の一人に白髪一雄がいる。この人は手で筆を使い絵を描くのではなく、足で絵の具をキャンバスに塗りたくり、絵を描いた。天井からロープを吊る下げて、ぶら下りながら足で絵具をこねて、それで世界的になってしまった。
藤野さんはその絵を幾つかコレクションしていて、これはもう一財産です。これ迄は貧乏でしたけれど、これからはお金ザクザクです、大入りですよと明るく笑う。バッカじゃなかろか。
でも、半分は本気であるらしい。
で、大入りアートなるものを始めてしまった。ウチには、今は、それが続々と送られてくる。大入りという、呑気な二文字が様々に描かれているだけのものだ。ただし、大入り座布団も送られてきて、これは唯一役に立っている。
実にバカ気ていて、エジプトまで出掛けて、ギザのピラミッドを背景に白いロバの背中に大入りマーク入りのマットをかけて、その写真を送ってきたりもする。真白くデッカイ、他人のロールス・ロイスに大入りマークがついていたりするのもある。パリの街路に大入りが歩いていたり、もう、ひとつひとつ説明していたら、こちらの頭もおかしくなってしまう位だ。
でも、不思議な事に、それが何年も続いてやってくると、何か心がほのぼのとしてもくるのだ。これには我ながら驚いた。家中に大入りマークの何やらが置かれているだけで、何だか本当に気分も大入りになっている様な気分になる。
大入りビールスに感染してしまったのだろうか。セキも出ないし、寒気もしない。金は無くても廻りは大入りなんだから、コレは実に芸術なんである。本当のところは、私も含めて人間は皆バッカじゃなかろか種に属しているのだろう。
それは、ともかく。
何しろ藤野さんは大変人だ。しかも、お金ザクザクの夢も捨てない大俗人でもある。だって大入りアートなんてそれの真骨頂だろう。
藤野さんには二人娘がいる。その一人が藤野ア子さんだ。大きなドテッーとした娘で仲々美人だが、別にどうという事はない。普通の人だ。オヤジと比べればね。
小さな頃には天才少女と、もてはやされたらしい。バカオヤジに絵を教育されれば、誰でもひととき天才になっちまうのは宿命である。ア子さんもその径に入り込んでしまった。
でも天災は忘れた頃にやってくると言われるが如くに、天才もそれ程ゴロゴロいるわけではない。マア、私の視るところ、ア子さんは天才と呼ぶ程の者ではない。色彩感覚の明るさに恵まれた、恐らくそれは宮崎独特の光の明るさによるものだろうが、上手な色彩画家である。
その藤野ア子さんが今度絵本を作った。それが例によって藤野忠利さんから送られてきて、それで私は初めてア子さんが癌と闘っていた事を知った。
私は逆境の内でそれでも闘い続けている人が好きだ。自分はどうもその手の強い精神の持主では無い事を知っているからだろう。それだけでオロオロと尊敬してしまう。今度も、そうだ。そうか、あのア子さんが癌と闘っているのかと知っただけで、その絵が違うモノに視え始めた。
私の友人の一人である、毎日新聞記者佐藤健は癌と壮絶に闘って、それでも運命に逆らう事はかなわず、死んだ。その一部始終を生涯一記者の自負を持ちながら、新聞に連載公開して多くの人々を励ました。私はその一部始終を近くで見届けて、多くを考えさせられた。
彼はその頃、最後の仕事だと覚悟して「阿弥陀が来た道」という大連載記事を新聞に書き続けていた。仏教東漸(東伝)の経を阿弥陀仏という日本独自の宗教的イコンを鍵にして探ろうという、意欲的なものだった。
「一緒にシルクロードへ行こうな」
と、言われていたので附合うかとは考えていたのだが、彼が癌になり、しかも末期癌で、余命幾ばくも無いらしい事を知り、その旅への同行は私の悲願とも大義務ともなった。
シルクロード・敦煌の旅が彼との本当に最期の旅となった。敦煌の砂漠で壮大な落日の刻を見納めにしたかったのを知っていたので、私は彼に従った。毎日、彼は落日の刻を待っていた。今、思い返せば凄い旅であった。医者から、いくら止めたって行くんでしょう、と言われての旅だった。旅の途中、何時行き倒れたって仕方の無い旅でもあった。毎日、毎時が死と同行の旅でもあった。
そんな体験を経ているので、私はいささか極限状態には強いのだ。少なくともオタオタせぬ風を装う事はできる。
藤野ア子さんの絵本を忠利さんから送っていただいて、だから私はエーッ、そうだったのかと思いはしたけれど、仰天したりはしなかった。マ、仕方ないな、頑張るしか無いよねと考えただけだ。
しかしである。
同時に、この絵本は売れて欲しいと熱烈に思ったのである。数々の体験が生み出す直観である。この絵本は売れなければならない。しっかりとした理由はなくとも、なにしろ売れて売れまくり、藤野家が大入り状態にむせ返る程にならねばならない。
と、そう考える事にしたのである。
それで、そう考えるのに乗じて、かねてより藤野忠利が熱烈にそう望んでくれた、私の二〇〇八年六月からの世田谷美術館大入り計画への準備運動にもしたいと思い付いた。他人の癌を使うなんて、と言うなかれ。これは藤野忠利流の大入り計画の始まりなのだ。
私の初の個展でもある、世田谷美術館での展覧会までアト、半年である。色んな準備をしてはいるが、どれもいまひとつバカバカしさが足りない。バカバカしさ、すなわち華である。
それで、藤野忠利の娘、ア子さんの癌闘病記念絵本の出版をきっかけに、私の方もバカバカしく、ニギニギしく活動を始めたいと考えた。その活動自体をいささか公開する事によって、更にバカバカしく、展覧会そのもののプレビューにしたい。予備展といったものに仕立て上げたいと考えたのである。
第一回の予備展の報告は、だから、長々しくお話してきたの如くに、大入りアーチスト、宮崎の具体美術家にして、現代っ子センター、現代っ子ミュージアム主宰者でもある藤野忠利の娘、元天才少女画家、今、闘病の画伯藤野ア子氏の絵本販売への大協力をもって当てる。
ここ迄、読んで下さった方は何しろこの絵本を手にして下さい。すなわち買ってちょうだい。お頼み申し上げる。求め方は以下の通りである。
一人で何冊買って下さっても一向に差し支えないのです。
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ア子さんのリボン
藤野 ア子 著
鉱脈社
2007年10月 発行 1,260円(1,200円+税)
ISBN 978-4-86061-237-5 (4-86061-237-X)
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購読申し込みは 鉱脈社 じゅぴあ編集局 まで
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