過去の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
4月の世田谷村日記

 三月三一日
 早稲田バウハウススクール佐賀は今日で終了。昨日の最終講評会は最後まで残った六〇名程の学生の全ての作品を批評。佐賀で四回目の春のワークショップの質は高かった。不思議なもので、これが学校の始まりなのが良く実感できる。このような事をしばらく続けてゆくと伝統と呼ばれるようなものが生まれるのだろう。
 堀干し祭りの実行を含めて、子供のIT教室、伊万里ものづくり教室の開催と盛り沢山な内容であった。やってみて、これが一人で出来ることの限界であろうと知った。早く、スタッフが育って欲しいとつくづく思う。
 スクール開校期間中に川崎市のプロジェクトを同時にこなさなければならず、東京へ三回出掛けた。昨夏のワイマール往復二回よりは楽であったが、これも又、ほぼ体力の限界である。玄界灘の近くで限界の連続をやると言う、洒落ですよコレワ。
 佐藤健が我孫子の病院から駆けつけてくれて、良い講義をしてくれた。有難い。真栄寺境内に御堂を作ってくれと頼まれた。見事な野の花のような御堂を作ってやろうと考えている。
 三月十四日から十八日間の佐賀生活であったが、古川貞二郎内閣副官房長官、間島公三郎佐賀県人会会長、そして台北の李祖原、ベルリンからグライター、ワイマール・バウハウスからカリン・ヤシケなど、様々な人物が集まって下さった。感謝したい。そう言えば山田脩二も飛び入りで乱入してきたな。
 二週間前の事が遠い昔のように思えるが、これはどうした事なのだろうか。
 色んな事をやり過ぎる欠点もここまでくれば我ながらもう後戻りできるボーダーを超えている。ますます、やり過ぎるしか無いだろう。六月TOKYO・GAでのスクール開校、そして、プノンペンのひろしま平和スクール。何とか乗り切らねばならない。
 東京に帰ると、フィンランドの連中が来てるんだね全く。しかし、栄久庵さんも俺以上に大変なんだろうと思うと、やるしか無いのでしょう。
 今日は安藤忠雄さんの講義と、井本知事の授与式でスプリングスクールは終了。
 早朝、ホテルの窓から朝日がゆっくりと登るのを感じていると、休まる。

 三月十五日
 第四回早稲田バウハウス、(第七回環境教育ワークショップ)開校。参加者七〇名。
 近代建築そして現代の特質について講義。話している最中にフット別のアイデアが湧くのが楽しい。楽しくなければこんなコトやってられないからね、マッタク。
 朝の二講は菅波茂AMDA代表。アジア医師連絡協議会を作り上げた達人らしく、わかりやすく「難民」について考えを教えていただいた。
 AMDAとの協同プロジェクトを実現したい。ザンビアの機動病院、カンボジアのエイズ病棟。アト二ヶ程余計に体があればなと思う。
 午後二時半出題。
 今回のワークショップは佐賀空港沿いのクリークでの「堀干し」がメインになるだろう。地元の人たちとの連ケイを強めなくてはいけない。
 夕方、佐賀ワイマール会の連中と会食。
 「堀干し」の中心メンバーである。
 松尾建設権藤氏と話す。将来の九州アジアでの仕事の中心メンバーとして考えているのだが、本人は知らない。夜九時過ホテルに帰る。
 こうしてなんとか、ワークショップも始動した。
 十六日はクリティークの後は完全休養する。十七日内閣副官房長官古川貞二郎氏、東京佐賀県人会会長真島公三郎氏をお迎えする公開シンポジュームでは、ハッキリと佐賀県人に伝えなければならない。ゆっくりと全力を尽すこと。

 三月十四日
 昨日「室内」「スタジオボイス」二本原稿書く。我ながらはかどった。隅田川のミニマムハウスについて書く。0ゼロプロジェクトの具体的指針を得たように思う。
 朝から早稲田バウハウス開校準備に追われる。有明海沿いの「堀干しプロジェクト」サイトを見学。海風が気持ちよい。少し年をとって山から海へと志向が傾いてきているのだろうか。ただただ体力が落ちているだけの事かも知れない。海を眺めているのに体を動かす必要はない。山岳は体を動かさないと眺望も得られないから。要するに感傷は禁物である。三年目にして佐賀の空気に慣れじんできたのだろう。
 夜、会食の席で、TOKYOスクールのプランの骨子固まる。どうやら自分は沈思黙考型の人間ではない。人と会って、飯を喰って雑談している時に良いアイデアに出会うタイプの、つまり雑談型宴会型の人間らしい。俗人であるという事でもある。
 八〇歳以上の人間、つまり人生の達人ばかりをそろえたスクールを開校してやろう。
 六月GA、十一月TOKYO GAS。磯崎さんに大野一雄を紹介していただこう。武基雄さんにはクラスメート立原道造を語ってもらう。太田博太郎、石元泰博、松原泰道、各氏の名が挙がる。すぐにも動き始めなければならない。老人老婆を主役にして、磯崎、山口勝弘、栄久庵憲司諸氏等はまだ若手で出演できないと言う構図だ。コリャ、面白いゼ。四〇、五〇はまだ鼻垂レで、ましてや三〇代なんて者はミジンコであって、姿形も視えないのだと言う事をハッキリさせてやろう。

 三月十三日
 北九州早稲田研究所、第一回会合。古市徹雄、坊城俊成、若松α研究所社長、高木正三郎、野村、森川、石山。これに李祖原、張永和、ヨルク・グライターが加わって、実質的運営メンバーが勢ぞろいだ。研究環境は著しく劣悪だが、最悪の状態から頑張ってみるのも一興だろう。
 夕方、北九州市役所。高木の車で佐賀へ。途中、落日が美事だった。九州の空の様子はやっぱり東京とはちがうなと実感する。
 夜、佐賀着。ホテルニューオータニで食事。

 三月十二日
 朝、世田谷村地下MEETING。
午後隅田川スーパー0ゼロハウス見学と学習。川合健二との遭遇以来のセカンドコンタクトかも知れない。  夕方、新宿の病院に渋井さんお見舞。B型肝炎だそうで僧侶の頭をそるカミソリからの感染かも知れぬと言う。感染も一つのコミュニケーションなのだから現代の複雑さの現れかも知れない。

 三月六日
 三日広島行き、ひろしまハウス建設センター発足。シンポジューム開催。帰りに京都に寄って東寺を訪ねる。五重塔の拝観。三十三年ぶりの公開で沢山の人が集まっていた。内部は完全な曼陀羅になっていて、それが立体なので良く理解できた。
 仙台、伊東さんのメディアテックの隣に小さな建築を作らなくてはならなくて、マ、大変である。鉄の固まりにするつもり。
 北海道十勝の現場が気がかりだが、動けない。富士山麓の墓地計画、観音堂の設計にそろそろ取り組まなければならばい。
 三月十三日より九州に行くので、いくつかのプレゼンテーションを片付けなくてはならない。C・Y・LEEとの中国での共同プロジェクトの具体化を三月中に軌道に乗せる。
 住宅を何軒かやっているが、まだまだスタッフのスピードはのろい。

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