石山修武 世田谷村日記 | |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 | |
5月の世田谷村日記
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四月三〇日 | |
朝七時半、ホテル発。李祖原の五百八メーターのハイライズビルディング、台北フィナンシャルビルディングの現場へ。熊谷組所長の説明を受ける。この超高層ビルが完成する二年後には世界の建築潮流はどうなっているのか一沫の不安が横切るが、友人は友人である李の未来を祝福したいと思う。 昼間の便で高雄市へ。高雄の二本の超高層ビルを見学。李とは十七年位の附合いになるが、アッという間に彼がアジアのハイライズキングになるのは予想していたとは言え、仰天すべき出来事でもある。オーナーと会見し、その後高雄港の責任者と昼食。李のアジア中華人世界の人脈の広さを再び実感する。この建築家はこのママ中華人世界に巨樹を建設し続けるのであろう。 船をチャーターしてくれて、港を巡る。船からの李のハイライズの姿が良かった。高雄港がアジア貿易の中心になるのだと言う説明を受けたが、前途は容易ならざるモノがあるだろう。しかし、日本がアジアの東北端に位置することも良く理解できた。 十六時二〇分の便で台北に戻る。李祖原事務所で彼の最近作に関するレクチャー。その後意見交換。 九時過ホテルに戻る。 二川幸夫氏ウィスキーを痛飲。ハードな 二日間のハイライズの旅で、なんだか痛飲が必要な気分であったのだ。
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四月二十九日 | |
李祖原氏の案内で台中へ。台中市内のレストランで昼食。凄いメニューに一同感嘆。後で聞けば案の定昨夜台北から李祖原が直接コックに指示をしていたとの事。ベジタリアンになっても李の舌は相変らずのモノだ。昼食後、プーリの中台禅寺へ。途中山岳の風景が樹木もなく荒涼としていて、まるで禅画の山水図だねなんて呑気な話をしていたが、なんと台中大震災の爪跡で、山の樹木は全てそぎ落とされたものであった。無知は恐い。 中台禅寺はCY・LEE(李祖原)の最新作で、あまりの巨大さに呆然とする。この建築家の巨大さへの希求の源は何か。私とはまるで異る建築観が在るのを実感する。時間が遅くなったので中台禅寺の大導師とディナーになった。台湾仏教界の大導師である。台中の議員さん達も一緒であった。台湾政界との太いパイプがあるのがわかった。李登輝氏等、現総裁までの額が並び立ち、ただの仏教徒の長だけではないのが歴然としている。LEEが台湾の中枢に在るのがわかる。不思議な建築家である。建築家は自然に権力に近寄っていく性向を持つのだろう。私にはどうしてもできない事だが、李は李の径、私は私だ。とやかく言うことではない。この大導師は李のメディテーションのマスターでもある。当然のことながらディナーはヴェジタリアンフードである。おいしかった。色々と土産をいただく。メディテーションに関する英語ヴィデオ等。IT部局、建築部局 、国際部局などを備えた一大仏教組織である。台北への帰途車の混雑に巻き込まれ、台北晶華飯店に辿り着いたのは深夜一時半。ハードな一日だった。
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四月二十八日 | |
朝、早大大隈講堂で理工学部新入生へのレクチャー。新しい時代の技術観について話す。若い学生に話す事の大事さは少しづつ了解できるようになったような気がする。手を抜かずに全力で話さなければならない。 午後二時十五分羽田発中華航空で台北へ。二川幸夫氏等同行四名。桃園国際空港には李祖原氏が迎えてくれた。超多忙な人なのに、この人物のホスピタリティにはいつも驚かされる。真似をしようと幾度も試みるのがいつも駄目だ。体力気力ともに及ばぬ。夜は同氏とディナー。その後同氏設計の国民党本部等見学。
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四月二十二日 日 | |
昨夜は北海点字図書館の後藤氏等と会食。偶然ではあったが、塔の職人さん達や仁科建設の社長さん達と一緒だったので楽しかった。職人は良い。やはり商人とはちがう気質がある。何処のソバがうまいかで大騒ぎをした。 実ワ、四月に入ってからの日記は北海道でまとめて書いている。日記つまりメモも出来ないような暮しはイケない。それがわかっていながら時間が無い。時間を盗まれてしまっている。 開放系技術論、開放系デザイン論、磯崎新論、全てネットに流し始めてみようかと考えた。「塔」の現場の職人さんが私のウェブサイトをヒットする時代なのだ。さて、朝七時三〇分、ホテルの二階に降りて朝食をとろう。ゆっくりした一日でありますように。午前中、ヘレンケラー塔現場打合わせ。十九時二十五分JAS一五八便で帰京。その前に、十六時より雨山の小部敏一ログハウス訪問。良いオーディオの音を二時間程聴かせていただく。岩手一ノ関ベーシーの菅原昭二に久し振りにTEL。十勝に優れモノの音アリと伝える。菅原のベーシーの音は空前絶後のモノであるが雨山の小部サウンドも良く独力でここまで辿り着いたと感嘆した。音はまるでベーシーとは異なる。良い音の世界にはそれぞれの性格があることを学んだ。それにしても、わたしのオーディオサウンド初体験はベーシーの音であったのだから、その幸運には感謝しなくてはならない。 しかしながら、それぞれの径に、それぞれの達人がいることは嬉しいことだ。次に十勝を訪ねる時は雨山でゆっくり音を聴きながら過すつもり。良い二日間の北海道であった。 二十三時、世田谷村へ戻る。
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四月二一日(土) | |
北海道十勝。
ヘレンケラー記念塔現場。帯広空港に倉本檜垣が迎えてくれる。二ヶ月ぶりに十勝にやったスタッフと会う。 十勝連峰には雪があるが、北海道にも春がやってきている。一ヶ月程工程が遅れているが、この塔は期待通り良い物になるのを確信した。プロポーション、スケール全てに狂いが無い。考えていた通りのモノになっている。五層の内部も完全に把握した。色々と嫌なことや、不安があっても、こんな時には建築やってて良かったナと心から思う。 私の処女作である「幻庵」を完全に乗り越えられるだろう。小品ではあるが、私のベストにもなるだろう。庭というか、幌尻岳に面した林の中の道の計画をキチンとしなくてはならない。小さくてしなやかなのが時代の風に吹きさらされているのが良い。 ツリーハウス、ヘレンケラー記念塔、ひろしまハウス、星の子愛児園、聖徳寺霊園と、一つの流れが出現してきたのも頼もしい。 来週から、台湾中原大学、ヨーロッパでのレクチャーなどハードなスケジュールに突入するので、少し休息が必要だ。というわけで、帯広駅前のホテルで昼寝を決め込んだ。忙中閑。 先程、ヘレンケラー塔の中を足場頼りによじ登ったが、普段使わぬ筋肉を使って、体の一部が眼覚めた感がある。空間とは異る身体的な何かを主題にした建築であることを確認できた。モダーンデザインは視覚に頼り過ぎたきらいがある。このシリーズではそれを治療している。 帯広駅前の風景は実につまらぬもので、何処の小都市にもあるくたびれた感じが、新しくできたばかりなのに漂よっている。少し年をとって、色んな体験をして、旅というのが私の中で日常になってしまったのだろう。移動という事の中に新鮮さが視えない。世田谷村でジッとしている方が新鮮なのだ。我ながらオカシイ。
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四月二〇日 | |
午後、院生のエスキス、チェック。世田谷組の学生とは力の落差が出てしまうのは仕方のない事だ。
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四月十七日 | |
二度目の学部レクチャー。前期は院のレクチャーも重なり、厳しい。仕事も忙しくなり時に逃げ出したくなるが、忙しければ忙しい程、レクチャーには力を入れなくてはならぬ。それでなければ「先生」やってる意味がない。
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四月十四日 土 | |
外房一宮海岸でスタジオ・ヴォイスの取材。厳しいスケジュールの中で一日時間をとったが、こういう時間は大事なのだ。人間、遊ばなくなったら終りです。サーファーの手作りの家で、二人の息子の手作りの室が面白かった。自分の部屋を自分の好みで作りあげるとそれは芸術になってゆく。「室内」の連載と共に、わたしには良い刺激になっている。
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四月十日 | |
仙台にて本間俊太郎元宮城県知事と会食。汚職容疑で収監されて以来のことである。「超獄」という句集を出版され、いただいた。獄舎の体験は私にはないが、本間さんも痛烈な体験をされた。出獄後のインドでの句も良かった。 偉そうなことは言えぬが、人間の附合いはドン底の時のモノが最も信用できる。失意の人、逆況の人こそ大事にしなくてはならない。唐桑町長選でDr佐藤が当選。八八年から続けた臨海劇場運動のリーダーである。あの劇場は私のキャリアの中でもことさらな異彩を放つが、昔の仲間が社会の表舞台に浮上してくるのは頼もしい。
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四月九日(月) | |
毎週月曜日の世田谷ミーティングも、ようやくにして定着した。川崎市の「星の子愛児園」の実施設計に追われ始めているが、若いスタッフだけで何とか乗り切ってみようと決心した。院生はほとんど使いモノにならぬが、その原因は私自身の教育方法にもあるのはハッキリしているのだから、事態は複雑だ。
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四月八日(日) | |
午後早稲田リーガロイヤルホテルで初めての石山研同窓会。七五名程のOBが集まった。初期メンバーに会えて懐しかった。何とか皆やっているようで心強い。母船を強くしておかねば、OB会は成立しないから、責任もある。
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四月五日六日 | |
伊豆半島西海岸松崎町、日本フィンランドデザイン協会主催の景観シンポジューム。大沢温泉ホテル泊、町役場のいたれり、つくせりのもてなしで皆さんには楽しんでいただけたと思う。特に町役場がすすめている花畑を小一時間歩いてもらったのが良かった。人工物と共に森や草花の大事さがわたしたちも良く理解できた。「花畑を歩かせてもらいたい。」とフィンランド側から発言があった時は少々驚いたけれど。一週間全部おつき合いしたかったが、佐賀のワークショップが終わったばかりで仕事が山積しており不可能だった。
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