石山修武 世田谷村日記 | |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 | |
6月の世田谷村日記
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五月三〇日 | |
久し振りに世田谷村にいる。ここはまだ未完なのに体も気持も休まるのが不思議だ。屋上の菜園づくりが本格的になる。何を植えるか勉強しなくてはならぬが、植物、野菜、農園に関しては学生の知識とほとんど変りがない。どうやって急速に学ぶことができるか考えねばならぬ。 二階のカロライン・ジャスミンの成長が著しい。三階テラスのグレープフルーツ、プラムの樹も五月になって元気を取り戻したが、今年も果実を実らせる気配はない。 都市内小型農菜園に関する資料の収集から始めるか、世田谷区役所の一坪農園のまとまったデータがあるか調べてみよう。 星の子愛児園の図面チェックで収穫あり。大津がしばらくの留守中に大きな進歩をとげていた。展開図の大半を一人で描き切り、きちんと誠実にまとめていた。ここまで到達すれば教えやすいのだ。設計、デザインは講義を受けて上達する類のものではない。自分で吸収して、自分で自分を熱させてゆかねばならない。聖徳寺プロジェクトを一人で任せてみよう。 照明器具デザインのオリエンテーションをもうすこし具体的にしなければ皆の手が動き始めないかも知れない。 一.自分で作れるコト 二.複製が容易なコト 三.安価なコト 四.完成品、又は部品が容易に箱づめできて送れるコト 深夜、世田谷村階段ハンドルの図面チェック。
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五月二八日 | |
朝十時福岡アジア美術館。その後北九州早稲田研究所へ。 久し振りに野村、森川K、高木諸君と再会。山の上の草原のガランとした研究所に何人かを放り出したのだが、予想に反して何とかショゲないで頑張ってくれている。オヤという感じで見直した。これなら何とかなりそうではないか。七月にはキチンとしたプログラムを作ろうとしているのだが、私の方こそキチンとしなければならぬ実感が強くわき出した。やっぱり、この世代の私の弟子は優秀だ。 野村君にはカンボジヤ・プノンペン・ひろしまハウス・オープニングの企画を以来。森川君には北九州研究所のホームページオープンを依頼した。二週間単位で研究のリズムを作らせる必要がある。 夕方アルファ若松社長、李東植氏等来室。一ヶ月に一、二度必らず九州に来るスタイルを確立しよう。有為な人材の活用は私の役割だ。佐賀早稲田バウハウスとの関係もダイナミックに動かしてゆく必要がある。二一時三〇分福岡発最終便で東京に戻る。 昨夜は日野啓三の短編集「梯の立つ都市、冥府と永遠の花」読了。死を予感した作家が様々な自然と深い関係を持ってゆく過程がわかる。
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五月二七日 | |
午後便で福岡へ。ハイヤット・リージェンシーホテルロビーでソウル大学梁銃在教授、古市徹雄氏等と待合わせ。まめ丹にて会食。今夏のワークショップについて打合わせ。
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二十二日 | |
一人で現場を丹念に見て廻り、最終確認の、その又確認をする。 ウナロム寺院境内の、この場所に建築を建てる機会を得られた事を感謝したい。 午後、アンコールワットより学生戻る。元気そうで良かった。ただし三名の女子学生がシェムリアップに残ってしまった。しかも、一番鈍感なのが三名だ。恐ろしいのは危険を危険と思わぬ鈍感さなのだが、マ仕方あるまい。もう大人なのだから、自分の事は自分で仕末してもらうしかない。 夕方、空港へ小笠原氏に送ってもらう。 ここ数年来無かったくらいに良く休養した五日間だった。 ほとんど何も考えずに、モンスーンの風に吹かれて良く眠った。流石に我ながら、いささか年を取ったから、妙な感傷や、感慨にふけることもなく、ただただひたすらに休み、休み、休み。 テラスで休んでいるすぐ隣が自分の建築現場なので、さらに休みが深くなるような気分もある。建築家のただの貧乏症なのかも知れないが。未完の現場が持つ、不可思議極まる力だなコレワ。きっと完成してから、ここに来て泊ってもこんな気分は味わえないのだ。 プノンペン空港の待ち合い室で、平岡さんに再会。香港経由で帰国との事。呼びとめられて、石山研の女性が三人バイクタクシーで動き自由行動をとってしまうだろう旨を告げられ、非常に心配だと、残念だと警告されてしまった。全く面白ない。アノ馬鹿女たちは本当に何を考えているのか。日本の若い女性がどれ程、鈍感腰軽ギャルだとモノ笑いになっているのをアレ程教えたと言うのに。もしも、何事も無く戻ってきたとしても、これからの私のプログラムからは彼女たちは外そうと決心した。馬鹿は自分の馬鹿を自覚できぬと永遠に馬鹿のマンマなのだ。つける薬の無い馬鹿の恐ろしさを教えられる。 バンコク経由で二十三日午後成田着。
「ひろしまハウス」の第一の意味はプノンペンのウナロム寺院境内にある事。生きている仏教寺院境内に建つ建築だと言うことか。なにしろ周囲は非近代の群だ。ストゥーパもゲートもナーガの彫刻も、何もかもに濃い意味があって、しかも私には理解できない。アジア、それも南アジアの建築の特色は、ほとんど自然との区別がつかなくとも人間は生きてゆけるという事だろう。自然の力が豊かだから人間は一年中裸で暮すことができる。大方のヨーロッパの建築のように厚い壁で自然と人間の生活の場所を区切る必要がない。むしろ区切らぬ方が快適ですらある。ウナロム寺院境内で少しばかり暮してみて良くわかった。雨期が始まったばかりのシーズンだったが、わたしは昼も夜も建築の外で暮していた。それで快適に暮せた。雨さえしのげれば南アジアの建築に壁は必要ない。時に少しばかりのプライヴァシーが確保できれば、それで良い。それ故に「ひろしまハウス」には一切ガラスを使用しない。窓は光と風をとる穴でよい。ガラスは風をさえ切るので自然の力を使うのに適した材料ではない。
ツリーハウス。十勝ヘレンケラー記念塔、ひろしまハウス。聖徳寺霊園。星の子愛児園。
書き継いでいる磯崎新論のタイトルは変える必要があろう。磯崎自身の言説にもあるように「都市破壊業KK」について述べている磯崎を誰も本気だとは信じなかった。何年か前に、北京の人民大会堂で毛沢東の矛盾論をミッキーマウスの自己撞着として徹底批判しようとした磯崎も然りである。磯崎の利ハツさにだまされてはいけない。磯崎の利ハツさ、聡明さは彼にとって誇るべきモノでは、どうやら無い。彼は自身の利ハツさを本当はかなぐり捨てたい類の人種なのではないか。彼は自身の知性、知的能力を時にわずらわしく想う、革命家の精神を持つ破壊者でもある。日本のリーディング・アーキテクトである事がその正体にいつも衣をかぶせ続けてきた。彼は丹下とは異るタイプの人種である。そのカオスを書き切れたらと思うのだが、タイトルが良くなかった、磯崎新論ではダメだ。
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二十一日 | |
午前中ひろしまハウス駆体工事の補修箇所を全部チェックする。所々二〇センチくらいの間違いがあるが、別に驚かぬように決めてしまった。アジアだ。デザインの精密さを叫んでも仕方ない。大らかさ、良い意味での大まかさを学ぶしかない。二階、三階、四階、屋上を巡り、完成像に大きな狂いがないかをチェックする。まだまだわからぬところもあるけれど、狙い通りになってくれる可能性があるのを確信する。仕上げを、どれ程荒々しくできるかがポイントだろう。 夜は小笠原氏と日本のNGO経営のオリガミレストランでトンカツを喰う。腹をやられていたS君もようやく快方に向い一安心。何年前だったか、ラウンド・アンナプルナのハードトレッキングで高熱を出し、ラマ教寺院で三日程寝込んだ事を思い出したりした。恐らくあの時は腸チフスになってたのだろうが、四十二、三度の高熱が三日間続いて、天井のチベット絵の原色がサイケデリックに高熱の中に浮いたり、沈んだりしていたのを記憶している。病は人に普段気付かぬ事を教えるものだから、S君はウナロム寺院の三日の発熱を上手に役立てられたら良いだろう。体も気持ちも健康な人間の大半はただの馬鹿なんだから、上手に病気状態が続けられたら良い。
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二〇日 | |
S君、発熱完全にダウン。これで早く東京に帰る私のスケジュールは壊れた。マ、たまには良いだろう。一人つきそいで居残りさせて、他の学生は二泊でアンコールワット見物へ出掛けた。午前中、ナショナル・ミュージアム。古代クメールの、特に彫像の美事さに驚く。エジプトの彫像との類似があるような気さえした。ヒンドゥーのリンガで牛の顔を上手に組み込んだモノがあってそれも見事だった。
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十九日 | |
学生の大半は下リをして、体調を崩しているのが判明。恐れていたことが現実になった。ヤッパリ、今の学生にはアジアの風は合わぬのか、無暴だったかと心配するが、もう仕方ないのだ。小笠原さんと原因を話し合うが、私も小笠原さんも何ともないのだから、メシや水に原因があるわけでは無さそうだ。学生の抵抗力の弱さを再認識して、今の日本社会のひよわさを真の当りにした感あり。幼稚園、小学校あたりの教育、そして親の育て方も悪いに決まっているのだ。丁度、私くらいの年の親達なのだから、考えてみれば私達の世代の弱さにつながるのだろう。我が家の長男も、昔カルカッタからの帰りにゲロゲロ吐いていたから、あんまり他人の子の事も言える立場ではない。しかし、アノ時ウチのガキは五才くらいだったのだが、五才も二〇才も同じか、今は。
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十八日 | |
朝、五時半起き。久し振りに深く眠れたような気がする。渋井さんのところの子供達が起きて掃除を始めるのと同時に起きるのだが苦にならぬ。トレンサップ河の方向の朝焼けが美しい。六時過に、ゾウリをはいて、少し歩いてタンメン、レストランへ。美味である。小笠原さん、まことに人なつこい人で近来稀にみる好人物である。渋井さんと同種族の、要するにガキ大将がそのまま大人になったタイプの人間で、最近は日本では滅多に会えない類の人間である。七時半より、ひろしまハウス現場で学生達とレンガ積み。意外に学生も良く動く。昼食後も働くが、コレは少し無理かも知れない。何しろ暑い。こちら風に過ごさなければ体がもたぬだろう。明日から午後は昼寝と自由時間にしようと決める。夜は九時にはゴロリと寝てしまう。良く眠れる。余程、我ながら東京では疲れているのだろう。東京じゃロクな暮らしをしてネェーな、とブツブツ言いながらいつの間にか眠った。
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五月十七日 | |
午前の便でバンコク経由プノンペンへ。全て定刻通りで何の感慨もなし。プノンペン空港に学生が出迎えてくれた。三〇分程待つうちに香港経由の平岡広島前市長グループと会う。広島グループ旅行社のバスでウナロム寺院へ。彼等はホテル、私は学生達と渋井修ハウス泊。私の院生、広島から参加の学生、総勢十五名。ここはもっと密度高く空間を使えば三〇名は合宿できるな、の実感を得る。屋根の上のテラスにゴザをしいて寝る。風通し良く実に快適である。カヤを吊った。夜中雨が降ったかも知れぬが、眠り続けた。 ここで小笠原ナリアキ氏に初めてお目にかかる。六十四才のオリジナル、ヒッピーの面影あり。アジア中を歩き廻って身体でユーラシアを知っている人物のようだ。
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五月十日 | |
夕方、建築会館で批評と理論シンポジューム出席。その後、磯崎、福田和也、鈴木氏等とイタリア料理屋で会食。磯崎さんの元気さに仰天する。
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五月七日 | |
フランス行はキャンセル。
午後、馬場昭道、佐藤健と新真栄寺建設の予定サイトへ。
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五月六日 | |
朝、ホテルにイフェイが来て、彼女の台北での仕事を見て廻る。上海に行くのは矢張り相当な覚悟のようで、なんとか成功してもらいたい。昼食は中山グランドホテルで飲茶。李が車とドライバーを終日つけてくれて、助かった。桃園空港より中華航空でTOKYOへ。羽田着後、機体トラブルで荷物の受取りが遅れたが、深夜に世田谷に辿り着いた。まことにハードなゴールデンウィークであった。
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五月五日 | |
久し振りの午前中の空白タイム。午後のレクチャーの準備。午後一時からのレクチャーには李祖原も来て二時間。来場者は多くなかったが、自分の考えを述べた。李祖原の建築についても触れた。そうする事で私と彼の共有するモノと、それぞれの立場を明快にしてゆく必要がある。
これから、アジア、特に中国の仕事をしてゆく為にはそれは必然だ。
夕食は台北市建築師協会の幹部達と。李が食べるなと言うので、ひかえた。中原大学生も参加して、又もサヨナラのあいさつ。夕食後李に連れられて本格的なアワビ料理へ、上等な味であったが、流石に二度の夕食はつらい。折角の美味の大半を残してしまった。李祖原とこれからの戦略について率直に話し合う。
夕食後、ホテルのバーに席を移し、話を続ける。建築家同士の話はやっぱり全部建築の話になってしまう。しかし、楽しかった。
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五月四日 | |
朝はゆっくり十時まで寝た。昼食後、車で三〇分程の大渓、新南老街を案内していただく。台湾、日本共に明治大正の建築は面白かった。それぞれに固有の文化と外来文化とが本気で衝突していた。それは実ワ、いつの時代にもあった事なのだが、それが生々しいところがこの時代の良さだった。でき上がりは要するにキッチュなのだが、キッチュがキッチュのお決まりの枠を踏み越えてしまっているのが良い。 それと比較すれば今の建築は発散しているエネルギーが小さい。細部への努力が変な方向へ行ってしまってる。それと、最も重大なのは装飾の可能性を放棄し続けていることだろう。コンピューターの能力はきわめて装飾的なものへと向うだろうに。 午後三時半より講評会。中庭で。 中原大学5年生は最後になって良く頑張った。学生は眠っちゃ駄目、ハードにヤレのアジテーションを正面から受け取めた。彼等にとって私は異人で、普段の生活に突如侵入してきた他者だ。私に最も適した役割だが、それがミニマムなスケールで良く機能した。 彼等のセルフビルドのオブジェクトがこれからどんな意味を持つか。教育の面白いところだろう。教育は建築設計と同じに実に興味ある仕事だ。 夕方六時より学生、先生たちとさよならディナー。良い四日間だった。ディナーの後、車で台北市へ。夜十時市内のホテル着。明日のオープンレクチャーはこのホテルの一階のようで楽だ。
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五月三日 | |
朝八時三〇分学生の仕事を見て、九時第2回目のレクチャー。自作を中心に三時間のレクチャーで少し疲れた。明日の台北市でのオープンレクチャーのプログラムが少し気になる。昼食後宿舎で休む。台湾に来て六日目だが疲れは峠を越した。何よりも時差がなくて熟睡できるのがありがたい。そんな意味でもアジア地域での仕事はアメリカ、ヨーロッパでの仕事よりも私には合理的であるような気もするが、マそれはこれからの問題だ。
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五月二日 | |
朝、学生と共にワークショップの材料を調達すべく町へ出る。メタルメッシュの店があってその種類の多さに感心する。昼食は学内のレストラン。午後先生方との公開座談会。夕方、学生の仕事を見て、夕食は町で客家料理。李祖原が夕食を気にしてくれて来てくれた。わたしのインタビュー記事がチャイナタイムズに出ていて知らせてくれた。 曽先生がオーナーのワインバーでワインを少し飲んで宿舎へ。疲れがとれてきた。 そう言えば昼にイフェイ・チャンが台北からわざわざ来てくれて久し振りの再会。イェール大学でのレクチャーでの出会い、そしてTOKYOでの私のスタッフとしての一年半を介して思うのだが、二〇歳をこえたら人間はもう変わらない。あのママで行けるところまで行けば良い。 一〇日には上海へ仕事を移すということでC・Y・LEEに紹介する。張伊琲の上海での成功を祈りたい。中原大学では李祖原は時々批判の対象になっているようだ。アカデミーで批判されるのは建築家にとっては誇りである場合もあるから、それを知ってどうと言う事もない。
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五月一日 | |
朝八時四十五分、中原大学の黄先生がホテルにてピックアップ、一路中原大学へ。五日間の在台だが、体が持つのかフッと不安になる。一時間程で中原大学に着く。 学科長、校長とあいさつの後、校長先生とランチ。学科間の交流を進めることで合意。アジアでの実質的な大学間交流は大事だ。仕事の進出は二の次にしなくてはならない。その事はキチンと自覚しておく必要がある。建築家は仕事には弱いのだから、他人は他人、私は私のやり方で鈍重に行くしかない。建築家である事と教師である事を両立させる事の複雑さを肝に命じる事。 午後一時、第一回目のレクチャー。熱心な反応があった。 レクチャー後、建築学科五年生学生八名のワークショップ。率直かつ熱気がある。水準は高い。わたしの話がドクドクと吸収されてゆくのを感じる。教師のダイゴ味である。この感じは設計とはちがうのだ。直接、人間に接し誘導する快楽とでも言おうか。 夕方、先生方学生達の歓迎パーティー。飲会に誘われたが、この日はついに疲労のピークで宿舎に帰った。飲みに行ってたらどうなっていた事やら。九時には倒れるように寝た。キャンパスは平和だ。
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