過去の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
7月の世田谷村日記

 六月三〇日
 今日は一日ゆっくりと休み。午前中たまっていた原稿を二本書く。
 早朝、むらさき式部二本、松葉ボタン一、かづら一木を屋上にあげた。
 午後、地下室で打ち合わせ。

 六月二八日
 昨日から十勝。ヘレンケラ−記念塔現場。外部は完璧なんだが、内部の工事が遅々としてすすまない。どうした事か。スタッフの貼付けもそろそろ限界に来ているので手を打たねば。檜垣には申し訳ないがもう少し残ってもらい、倉本他は引き上げさせよう。3月から4ヶ月よく頑張った、と言うか、良く居続けたと思う。
 このスタイルは続けたい。宮崎の現代っ子ギャラリーもそうだったが現場に貼り付いて建築を作ることが、どれ程人間を成長させるか計り知れぬものがあるのだ。それにこの建築はそうしなければできなかった。
 私も若かった頃菅平の開拓者の家でそう言う体験をした。現場に通い続けて気が付いたら十年程の歳月が経っていた。あの体験が私に何を与えたか。あるいは何を失わせたのか。失ったものはハッキリしている。金のために建築を作る心構えだ。これは多分とても大事なことで、今はつきつめて言わない。金のためにではなく建築を作るとはどういうことなのか。菅平の農家の仕事では、最初にもらったわずかな設計料の他に金は一銭も貰わなかった。毎年、菅平からトラック一台分ほどのレタスや、豆や、何やらが送られてきて、どうやらそれが私の労働に対する報酬なのであった。それが満足だった。作りたいモノを作りたいように作らせて貰っているのだから、銭金の問題で動くのではない。そう言う風に割り切っていた。銭金は他のもっとボロイ仕事でかせいでいた。それはそれで良かった。
 今は年をとって、もう少し賢くなった。工事金額の全てをあつかって、その中で裁量すれば良いと決めた。
 ヘレンケラー記念塔はそれへの準備飛行なのだ。
 どうしても設計者がやりたい事。それがあればその部分は設計者の設計施工でやれば良い。それが建築の全体であるならば全部自分で作れば良い。コレは意外に簡単なことだ。ヘレンケラー記念塔は原則として全て分離発注をした。その事で様々な事を学んだ。
 聖徳寺の計画は全ての工事を請負うつもりだ。檜垣には造園工事一式を請負わせる。その為に十勝で四ヶ月、工事の諸々を体験させたのだ。
 産業としての建築ではない概念。B・フラーのドーム理論のような、C・アレキザンダーのアーキテクト・ビルダー理論のような、チャールズ・イームズの自邸での試みにも似た。それ等の試行を全て横つなぎにするような、そうしてそれを産業としての建築に全て対抗させる戦略。その要は何か。
 今朝は現場でその事を話してみたい。

 最終便で東京へ。
 何とか外構工事の全てのポイントを押えた。アプローチの土盛りの高さ形状も決める事ができた。アトは運を天に任せるしかない。90%は完全にコントロールできた。もういいだろう。これでダメなら、私がダメなのだ。

 六月二〇日
 昨日は昼にカンボジアの渋井修さんと会って、ひろしまハウス建設のこれからの事など相談。夕方横浜で星の子愛児園入札の件で打合わせ。
 東京圏では横浜マツダ研究所の建築が私の建築としてあるが、アレは建設費(コスト)までコントロールできなかったから満足なモノにはならなかった。早稲田観音寺は小さい。
 星の子愛児園は今の私の研究室には丁度良いスケールの建築で、今年の前半はコレで楽しめるだろう。七月一日の着工に向けて、先ずコストコントロールから始めなくては。世田谷村で開発した鉄のモノコックボディーや開口部キット、これから開発する照明器具キット等を組み込み、価格体系の一部を震わせてやる。時期的には開放系技術をわかりやすく示すに今は良い。ゼネコン改変への一矢を提案することになるだろう。
 ツリーハウスヘレンケラ−記念塔・ひろしまハウス・星の子愛児園の流れは、コレで出来る。治療する建築の治療の対象はゼネコンでもあるのだから、ゼネコンの使い方をキッチリと示さなくては。
 今夏の早稲田・バウハウス・スクール八月末の五日間は宮脇愛子さんが来校されるので、それに合わせて教師をセレクトしなければならない。山口勝弘高橋悠治に頼むか、一気に若がえさせるか思案の最中だ。アートの世界も圧倒的な人材不足だねマッタク。
 世田谷村屋上で考案中のビニールハウスパイプを使った、えんどう豆の防護ネットは笑っちゃえる形にしたい。かかしが歩いているみたいな。面白おかしい緑の物体が毎夏、我家の屋上に出現するのは地域サービスだ。家を眺めて笑ってもらえりゃあ、これにこしたことはない。建築版愛宕山だね。志ん生の語り口の。  藤森照信の「一本松の家」はギャグだけれど、ウチはせめて落語まで持って上りたい。
 午後銀座で毎日新聞編集委員佐藤健、真栄寺住職馬場昭道、両氏と食事。佐藤健の阿弥陀の道プロジェクトの壮行を祝す。

 六月十八日
 朝から森をふるわせるようなセミしぐれ。音は感覚を直撃するのがよくわかる。テラスで磯崎夫妻と朝食をいただき、軽井沢駅へ。愛子さんの「うつろい」はこの山荘のモノが実ニ自然で、ステンレスワイヤーに緑や空の光が写り込む様は、その細部のゆらめきが深く圧巻である。
 午後一時過、世田谷村に帰る。
 三時、小池一子さん来宅。学生十名ほどと一緒に。未完の家を案内する。まだ工事中で時期早尚なのだが、小池さんじゃあ断われない。今の世田谷村は屋上が一番面白くて快適だ。
 夕方、大学へ、学科将来構想に関しての委員会。
 深夜、世田谷村の屋上に上る。日に日にさやえんどうの芽がのびているのに驚きかつ頭を抱え込んでしまう。土の問題が片付かぬからだ。土量が明らかに不足しているのに種をまいてしまったのだが、種まきの時期はすでに遅きに失している。明朝、土に関して最終指示をして、野菜に関しての大方のアイデアをまとめなくてはならない。

 六月十七日 日曜日
 朝七時三〇分東京発、車で菅平へ、高速道路を二時間半程で菅平高原正橋さんの家着。九時間がかりで辿り着いていた二十年程の昔が夢のようだ。コルゲートシートの鉄の家は、赤く錆びついて予期していた以上に農家の生活をにじませていた。川合健二さんが見たら、本当に喜こんだろうに。
 午後、写真家の中里さん、スタジオヴォイスの編集部と共に、軽井沢の磯崎新さんの家を訪ねる。地球を一まわりしてきた割には磯崎さんは元気そうで、驚いた。
 夕食を宮脇愛子さんと共にして、わたしは磯崎家泊。夜、磯崎さんの幾つかの構想を聞く。全てリアルで面白かった。

 六月十六日
 川崎市の「星の子愛児園」入札が間近になった。極めて公共性の強い建築だから、様々な制度の制約があるが、基本的には施工の方法を変えることを試みたいと考えている。
 開放系技術はつきつめて言えば、人間主体の環境を構築するための方法論だ。個人の住宅や私的な建築でそれを試みるのは容易だ。現に私の世田谷村はその事例の一号である。
 公共建築にどのように適用可能かの戦略を考えているのだが、目前にその問題を解く鍵があるわけだ。「星の子愛児園」の施工の一部に開放系技術の体系を共存させる事を考えたい。施主にとっては良い建築を安価に入手できる事になるのだし、建設会社にとっても私の体系を取り入れることで、新しい形式を持つ競争力を得ることになるからだ。

 六月十五日
 「瀬戸際六人組」
 窓際族は大企業の高齢者に在るだけではない。私の研究室の何分の一か、と言うよりもほぼ半数は「いつやめるの大学院」とそそのかされているのである。何もただただ居るだけの大学院では意味がない。なにかを一生ケン命にやってこそ大学に居る意味がある。
 私は我ながら手抜きをしない教師だから、ハッキリしない大学院生にはハッキリ言う。「退学した方がイイヨ、早く」って。当初は皆眼をパチクリさせて驚いた。その驚き方を見て、ハハア、教師は皆学生に甘いのが普通なのを知った。
 私は建築家だから、別に院生が一人も居なくたって構わない。十人も二十人も居たら迷惑なくらいだ。しかし普通は大学の教師は手持の学生数を誇るきらいがある。だから時に商店まがいに学生を呼び込んだりする。二流三流の屋台のオヤジみたいなものだ。
 私の学生だった頃はそんな教師が居た。私は腹の底からそんな教師を軽蔑していたから、大学院の研究室は一番人気の無かった建築史研究室を選んだ。それは正解だった。私はそこで田辺泰、渡辺保忠の二人の先生に出会った。学問の厳しさをさとされて、それで学問方面は止めて建築家になった。
 そんな個人的な歴史を持っているから、私はクライアントにはおもねるけど、絶対に学生にはおもねない、チヤホヤしない教師になった。
 それだから、私が言う「もう学校やめなさい、授業料払ってまで居る必要は何処にも無いよ」は正直な本音なのだ。
 瀬戸際六人組はよくよくそれを知ってもらいたい。
 一生ケン命になれないのも才能なのだから、そしてこんな事まで言われて危機感さえも持たぬのは、鈍感を通りこした、トンチンカン、ボーフラみたいなものなのだ。
 それでも気力を尽してラストチャンスを頑張ってもらいたいとも思う。

 六月十五日
 昨夜、「室内」の眼ざわりデザイン原稿書く。この連載を書くのは楽しみの一つなのだが、毎回毎度、素材を決めるのに四苦八苦している。編集担当の長井美暁には悪いけれど〆日にならなければ書けないのは怠けているばかりではない。無数にあり過ぎる素材のセレクションの吟味に手間取っているのだ。
 「室内」「スタジオヴォイス」に書いた隅田川のホームレスハウスの反響が大きくて、図面を送れのメールやら手紙が舞い込んでいる。このホームページに図面は掲載するので、今のところはそれでお許しいただこうと考えているので悪しからず。
 世田谷村の屋上にデザインされた土を載せた。途端に屋上に取付けた大きなトヨから雨水が一切流れ落ちなくなった。トヨにつけた穴が土でふさがれたからだ。当然そのことは予測していたから、穴にはネットを貼って土の流出対策とした。が、しかし雨が降っても水が流れ落ちてこない。丸まる一日の雨降りにもピクリとも反応しない。このママ水が屋上に留まり続けたらその重量は馬鹿にならない。もう一度、屋上載荷の土の重量計算をやり直しさせた。二十九トンまでOKと言ってくれた構造設計の梅沢良三さんにも再確認した。
 二日目の夕方、ようやくトヨから雨水が流れ落ち始めた。色々とデザインした土に雨水が浸透し、それが一杯になって水をバイパスさせるのに四十時間以上かかったのだ。土は面白いと思った。
 これから、野菜を育てるわけだが、その重量計算はどうすればよいのか。何故、野菜は育つのか、どのようにエネルギー保存則が野菜内部で働いているのか、知りたい事が又、一つ増えた。
 雨のなか屋上に上ってみたら、計算通り、トヨの穴から水がチョロチョロと湧き出していた。しかし、湧き出していない穴もあるようだから、土中ですでに水の道が出来始めているのかも知れぬ。大地のミニチュア現象が屋上に出現しているらしい。掘り返して水の流れを確認したいところだが止めておこう。野菜の育成の大小でそれが解るかも知れない。

 六月十一日
 今日は終日、世田谷村で打合わせ。
 夕方、中川武教授と建築学科将来構想に関して打合わせ。学科内複合領域コースの実現の可能性について話し合う予定。
 世田谷村二Fのクローセットユニットの直径、今度のモデルでは小さ過ぎるような気がする。
 屋上に本格的に土が上がり始めたが、吸水の問題、排水の問題をキチンと解決しなくてはいけない。野菜畑はカラス対策も必要だ。
 三Fのプラムの樹の下にトマトの苗が育ち始めているが、何故こんなところに、いきなりトマトが芽を出すのか不思議だ。今年も、グレープフルーツの樹にアゲ羽蝶が卵を生みつけ始めた。

 六月十日 日曜日
 朝八時発、富士嶺、上九一色村聖徳寺へ。土地の再確認。午後は住職を交えて様々な相談。太陽、風エネルギーによる〇ゼロエナジー・プロジェクト。雨水蒸留、浄化方式の実践にテーマを絞り込んだ方が良いかも知れない。宗教的空間に焦点を合わせるのは避けなければならない。

 六月九日 土曜日
 朝、2階のガラン洞空間に上ったら、円形収納ユニットの原寸図がセットされていた。チョッと大き過ぎるなコレワ。思い切って半径三〇〇MMくらいカットした方が良い。原寸を作らせて良かった。まだ私のスケール把握能力も大したもんじゃないね。
 九時からミーティングを始める。
 午後は三年製図の講評会。年々、学生の設計能力が落ちているのを痛感するが、要するに突出した人材を発見できるか、できぬかが教師の役割なのだから、更に言ってしまえば建築家の役割だ、波風も立たぬ人材の群ではどうにもならぬ。又、低い水準の学生に合わせて幼稚園みたいな事を批評しても仕方ない。駄目なモノは駄目なのだ。駄馬を走らせても見苦しい。ロバをサラブレッドに改良するのは不可能である。大学院大部屋構想を実現するためには、先ず石山研内に複合領域コースを作ることではないか。その為には次に、研究室横断の院生を作る必要がある。

 (六月八日)つづき
 夜、乃木坂のギャラリー間、難波和彦「箱の構築」展オープニングへ。松村秀一、中谷礼仁等と会う。久し振りに高橋晶子さんとも会えて良かった。パーティくらい苦手なものは無いので、できるだけ出ないようにしているのだが、難波さんのは出る。

 六月八日
 早朝、世田谷村の建具のアイデアを思い付く。忘れないようにスタッフに図面化させよう。考え付いてしまえば、なんだ、ということなのだが、そうそう思いきったアイデアは浮んでくるものではない。

 六月七日
 夕方、プノンペン・ウナロム寺院の渋井修さん世田谷村にて夕食を共にする。

 六月六日
 朝七時起床。ホテル内の天然アルカリ、モール温泉に入る。現場にはアトニ名程応援に寄こした方が良いかも知れない。倉本と相談してみよう。
 今日は終日現場で内部仕上げのチェック、およびマンパワーの計算をして、六月中の全ての完成、というよりも第一期工事の完成に辿り着かせたい。ここまでくれば第二期アンモナイト美術館、第三期アウトサイダー自然体験館の建設に向けて努力したい。

 フト、思い出したのだが、つい先だってのプノンペン・ウナロム寺院の現場で、東のストゥーパに取り付けられていた鐘がモンスーンの風でカランカランと鳴っていた。法隆寺でも何処でも日本の寺院にブラ下げられている小さな鐘が鳴るのを聴いた事がないのだが、アレは日本では装飾になっているのか。東南アジアの風の力と、日本の風の力とは差があるのか。帰京したら早速、プノンペンと十勝の風力についてデータを集めてみよう。

 倉本、ヒガキと帯広市内のコーヒーショップで朝食の後、現場へ。内外を見てまわる。全てOK。計算ちがいは何処にもない。アトはコチョコチョとした思い付を排除してゆけば良い。
 外まわりに関して弱干の指示をしたが、もうあまり手を加えぬ方がよいのは歴然としている。
 まわりは世田谷村の屋上と同じに野菜畑にするのが良い。変な芝を貼ったり、いかにもな造園デザインはしない。雨の路をサラリと作って終りにしよう。
 帯広発最終便で東京へ。
 夜ふけて、世田谷村に帰る。

 六月五日
 朝、二年生レクチャー、午後一時より四年Mマスター1ゼミを済ませて、十七時のJASで帯広へ。
 二年レクチャーはプログラムを変更して、サイモン・ロディアのワッツタワー、内田さんの庭、そして国分寺の岡邸に関して話した。内田さんの庭に関してはスタジオ・ヴォイスの最新号に書いているが、十五才の少女達のファッションに相通じる問題をはらんでいるのを直観している。しかし、同様の事例が展開してゆく可能性に確信が持てないでいるのも正直なところだ。
 十勝ヘレンケラー記念塔で試みたことのひとつは、衣装的装飾の問題だろう。現場のスタッフが黒い塔に貼りつけたアルミ片が、どうしても変だと言うので、今、確認する為に飛ぼうとしているのだが、確信に満ちて大丈夫なのだ。スタッフが変です、と言ってくれなければ困るのだ、私の建築は。変です、は未知につながる。恐らく、狙い通りになりつつあるだろうと思う。黒い塔がにぶく光る断片をまとっている。歴然として装飾的断片であるのだが、その装飾は空白を埋める模様ではなく、自然の細部の奥行を人間に実感してもらう装置として働くのである。身を飾り立てるばかりではなく、それを眺め、体験する人間に、日常にただただ流れるように体験している自然に、ポッカリ穴が開いて、もう一つの自然が在ることをガイドする仕掛としての装飾である。建築的な骨格や変化しない表情だけで、それを望む事はできない。宮沢賢治が風の又三郎にまとわせたガラスのマントのような、ルイス・キャロルのアリスの国の鏡のような、それが在ることによって、空の青さや、雪の白さが、更に深く理解できるような、人間の、卑弱な視覚を増殖させるような、そんな仕掛である。
 飛行機の出発がいささか遅れているので、日没前に、塔の表情をチェックするのは不可能かも知れぬが、星の光でも金属片に反射する光の感じはつかめるだろう。
 しかしながら、この塔は「静けさの塔」と名付けられた楽器として設計されている事がより重要な事である。
 すでに、フィンランドセンター発行の
 静寂:日本ーフィンランド 
 に記した事だが、(参照 ) QUIETNESS JAPAN  FINLAND

この塔は視覚デザインをこえた六感七感を働かせる事で、より重要な価値が生まれるように設計されている。具体的には風や雨や雪氷によって様々な音が生み出されるようにデザインされている。その事を再確認するためにも現場へ出掛けている。スタッフにも、その事を思い出させなければならない。
 十九時、飛行機は三〇分遅れで帯広着。クライアントの後藤氏、スタッフの倉本、ヒガキ空港に迎えに来てくれる。
 まだ光があるので、現場に行く。月は満月だから暗くなっても姿はチェックできただろうが、光はまだ眼には充分であった。
 案の定、塔は計画通り、計算通りの姿で建ち上っていた。外壁のジグゾーパヅル状のアルミ板も全く問題ない。予想通りの出来栄である。
 美の規準の不思議さについて考えざるを得ない。未知のモノは誰もが美しいとは感じないのだろうか。見慣れぬモノには誰もが通常の美を感得し得ないのか。
 この塔に関しても、それが言えるのか。私にとっては計画通りの”美”なのに、人はそれにとまどいを感じるのであろうか。ともあれ、たった五分で十勝に来た目的は達せられたのだが、すでに帰る便もなし。スタッフの腹をいっぱいにしてあげる義務もあるから、焼肉を喰い、銀河街のそば屋で山菜を喰べ、倉本等をねぎらう。
 彼等も、現場から逃げ出さずに良く辛抱していると思う。倉本はこの半年程の体験を生かして、キチンとした建築家になってくれれば良い。キチンとした建築家の条件の一つにグレードを知っている事があるのだが、この塔の現場では、全てのグレードが異常に高かったのだから、その感覚を時々、思い出してくれれば、それで良いのだ。
 ヒガキはアプローチ部の施工を自分なりに良くやり遂げていた。これならば、私の狙い通りに、良い庭師として育てられそうだ。
  十一時ホテルチェックイン。

 六月四日
 朝の、のぞみで京都へ。
 京都に着くまでに、私の院生のプログラムを作ってしまおう。世田谷に居る連中は問題ないと割り切っておくしかないか。二名程弱い女性がいるが、もうすこし辛抱してみよう。
 N棟プログラム
 オレゴン大学とのコンペ案作成は最後までやらせる。良いモノが出そうにないが仕方ない。
 六月十一日までは森文実測図の作成。
 六月十二日より夏休み前までは篠崎を頭にして、倉の再生計画に二名。森文の再生計画に六名。割りあてる。
 夏休みは八月十五日〜九月一日まで全員何らかの形でSAGA・早稲田バウハウスに参加させる。
 九月初旬、必要が生じれば世田谷組とN棟組の入替えを行う。九月は十一月末までの第二段階プログラムを組む。マスターコース2年は十月より修士論文、修士計画に取り組ませる。
 二〇時一〇分、のぞみ京都発で帰京。

 京都造形芸術大学の講義は冷汗モノであった。渡辺豊和が例によって、誰にも紹介せず何の予備知識もなく、無防備にレクチャーを始めてしまった。二時間程のおしゃべりの中で、やたらに反応して面白がってくれるオジさんがいて、おまけに異常に頭の切れる司会のオジサンがいるナと思っていたら、それが何と、学長の芳賀徹であり、国際日本文化センターの山折哲雄であった。双方共に比較文学、日本宗教学の巨匠である。  聴衆にそんな人物がいるとも知らず、私は調子に乗って、山岳寺院論から、重源まで、ホラを吹きまくったわけで、穴があったらもぐりたいの感は極まっているのである。渡辺はチャンとそういう事は私に伝えなくてはいけないのだ。知らぬが仏の私がタダのバカである以上に、伝えぬ渡辺も、マヌケ以外の何者でもないのである。
 が、しかし、そんな巨匠が会場に居ても、居なくても、私のレクチャーは変え様が無かったのかも知れないのだ。
 これからは見知らぬ場所での講義には、念には念を入れ過ぎヨの教訓を得ながら、東京に戻りつつあるのでアル。

 六月三日
 昨夜は久し振りに西伊豆の旧友たちと会って、楽しい時間を過した。それでも二十二時前にはホテルに戻ってすぐに寝てしまった。早朝五時半に露天風呂入浴。七時半朝食。八時森文現場。午前中は役場隣の関さんの蔵で過す。蔵は百五十年前のモノと言うが、造りはしっかりしていて、関さんによれば土佐の職人の手で左官仕事が成されたと言う。何処かに土佐じっ喰が使われていたのだろうか。江戸末の職人たちの活発な交通がうかがえて興味深い。
 蔵の前の畑がちょうど世田谷村屋上と似たスケールで、実に様々な野菜が植えられていて、役場の職員に教えられたところでは、約十五種の野菜が育てられているとの事。いんげんは高く生い茂り地面に濃い蔭を落し、 つるの姿も美しい。一夏に大量の収穫が見込めると言う。きゅうり、なす、トマト、かぼちゃ、大根、すいか、パセリ、珍しいところではアスパラが植えられていた。アスパラは三年間はダメだそうだが難しくはないらしい。世田谷村の屋上を野菜畑にする計画の具体的な類似例に出会ったというわけだ。やはり、水の問題は大きいようで、なんとか井戸水を屋上に上げられぬか再考したい。
 菜園用の高床小屋も必需品であるのを痛感した。松崎町を歩いて、野菜畑を幾つか取材した。
 昼に森文実測を切り上げる。古建築の実測は学生に大きな勉強になるのは気付いていたが、院のプログラムにきちんと組み入れた方が良い。短い講評の後、午後一時散会とする。小林君のところでそばをいただいて帰京。二〇時過東京着。六月から、来年二月までの研究室プログラム作成を急ぎたい。
 世田谷、N棟、S棟、九州、松崎、大きくは五セクションで、それぞれに独自なプログラムが必要である。スタッフに関しても、従来の設計事務所の所員の如き立場はうまくないだろう。徹底したプロジェクト志向型のプログラムを作るが、要は能力才質がハッキリしない人間をどのように処するかが要であろう。

 六月二日
 松崎町行。朝八時前新宿待合わせで、西口地下のコーヒーショップで時間つぶし。つぶせる時間があるのに顔がゆるむ。
 Aアーキテクト・ビルダー コース
 B生活環境情報コース
Aは独自な工務店経営者育成。Bは、例えば映像作家、編集者育成を目指す。この二つのコースを研究室本来の建築家育成の他に設ける。  大学院、プログラムの設計。  昼前、松崎町着。伊豆の長八美術館前に総勢二二名程が集まる。新しい道と古い道の話をした後、森文の実測を始める。すでに作られたモノへの畏敬、すでに在るモノの尊厳といった事を感じてくれれば良いのだけれど。牛原山サイドの蔵の内部は実にしっかりしていて、ここはコンピューターを使うのにはモデルになるだろう。二部屋は確保できる。中通り側の母屋の使い方が難しい。キッチン、バスルームは改造して、やはり美術館側に小さな新築部分がないと、この計画は生きない。呼吸するガラスと土と木の壁の組み合わせかな。建具は全てアルミで。動く部分と動かぬ部分をハッキリと分離する。中庭部分は松とカエデだけを残してあとの樹木は整理する。床は瓦か。水が湧いていたから、浅い池を作る可能性がある。
 再生技術職人育成センターを目指して、松崎町で小集会を企画しても良いか。職人データベースは登録制で会費を取らなくてはならぬだろう。検索も幾つかのゲートを設計する必要がある。野村、松本の組み合わせか。

 六月一日
 院レクチャー、アルヴァ・アールトの建築とフィンランド。次回レクチャーはルイス・カーンのブリティッシュ・アート・ミュージアムとノーマン・フォスターのセンズ・ベリー・アートセンター。2つの現代建築の光を介して現代を考える。
 午後、六月四日京都造型芸術大での講議準備。
「京都・レクチャー」
 一.コルビュジェとサントリーニ
 二.ミースのバルセロナパビリオン
 三.アルヴァアールトとフィンランド
 四.ルイスカーン、ノーマンフォスター
 五.一九九五年の事件と日本の変革史、重源、山岳寺院
   阪神淡路大震災とオーム真理教、ドラキュラの家
 六.治療する建築、近代建築の修理 
   ツリーハウス、十勝ヘレンケラー記念塔 
   ひろしまハウスINプノンペン
 七、 開放系技術、開放系デザイン
 直角と曲面  
  岡山国際交流館、リアス・アーク美術館
  鳴子早稲田桟敷湯、観音時、北区清掃工場
  マツダ横浜、現代っ子ミュージアム
 個別解の建築
  耳岩の家、岡邸、増井邸、その他住宅
 世田谷村の実験
 六月二、三は伊豆松崎町、近藤邸「蔵・ギャラリー」滞在。伊豆森文、民家実測。
 問い合わせは、伊豆松崎町役場。 0558-42-1111
 六月六日は十勝ヘレン・ケラー記念塔現場
 問い合わせは北海点字図書館、後藤氏。
 http://www.abix.co.jp/tenji/
 聖徳寺庭園、十勝の庭、星の子愛児園庭、そして世田谷村の庭。
 大小とりまぜて計画がそろったので、庭の計画に筋道を与えなければならない。α社長宅の地下にも庭が現れるのではないか。
 現実には庭はいまだに建築の外として建設業界では受け取られているから、どうしても金が投下されるチャンスが小さい。先ず庭から金が注入されるルートを発見し、なおかつ、その先に金が行き止まり、プールされる対象としての「庭」の分野を捻出する必要がある。その方法を考察するのが遠周りなようで、かえって近道になるだろう。スタジオ・ヴォイスで連載中のシリーズがどうやら「庭」の感じに一番近いような気がするが、もう少し突き止めてみるか。

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