石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
9月の世田谷村日記
 八月三十一日 つづき
 午前中 講評会のつづき。
 午後一時 井本勇佐賀県知事来校。
 修了書授与式。
 スクールは全日程を終了した。
 今夏も事故が無かったのが一番。病人も出なかったのを感謝する。

 八月三一日
 昨日朝十時過から夜十一時まで講評会。終らず、ワークショップ最終日の今日、午前中九時半から講評会続行。不思議なことに、学生の作品の質は毎年毎回上っている。
 今年の収穫はオレゴン大学三一才の学生エレン・レスター君。彼の提案は社会化できる。すぐに実現に向けて動こう。マイノリティとミニマムデザインそして建築の再生と都市との関係がバランス良く提案されていた。
 佐賀が駄目なら北海道でやってみるか。レスターのプランをプロジェクト化するプログラムを組んでみる。
 今朝、学生に提案してみるのが第一歩。折角、日本中から一〇〇人も集まっているのだから、この機会を逃すことはない。
 W・Bプロジェクトの二号としよう。一号は有明クリーク・計画だった。学生は皆、忘れてしまっているだろうが、アレもいつか現実化してやる。
 レスター案を第一STEPとして私のホームページに掲載。学生に参加を求め、日本中にネットワークを張る。IT連絡網を使用する。松崎町のITロフト計画に、この案を組み込む。北海点字図書館を北の拠点。唐桑町を東北の拠点。松崎町を中部の拠点。難波さんを大阪の拠点。藤野さんを宮崎の拠点とする。勿論、ホームページ責任編集は丹羽太一。早稲田・バウハウスの卒業生がすでに六百人いるから、それを核にすれば良い。

 八月二八日
 午後一時宮脇愛子講議。うつろいの世界分布状態は予想を超えるものがあるが、そこに辿り着いた芸術家の精神の持続力を学生達は理解しただろうか。

 十一月六日に開催するTOKYOでの早稲田・バウハウス・スクールの概要をまとめ始める。このスクールの目的をより明確にする必要があることと、参加者をより特定する事が求められている。建築家デザイナー・工務店職人の既存勢力の外(そと)に新しい設計施工者を作り出さなくては駄目だ。これは理論だけを言ってるとアレギザンダーの二の舞になるから実験的具体物を作り出し、それへの段階的な解決案を求めてゆく方法を取るつもりだ。家具づくり、家づくり、の二講座から始めて、九月十五日に参加者募集、十月中旬募集〆、課題送附、二週間の予備演習を経て、十一月六日、対面式スクールの開始。年四回開講、スクーリングを通して新しいタイプの設計施工者を育成する。工務店経営者、設計事務所主宰者、および、その潜在的な予備経営者、設計事務所員が主要な参加者として望ましいが、学生の参加も拒否しない。早稲田・バウハウス・スクールを介して直接社会にプロポーザルしてゆくのが理想であろう。独自なウェブサイトを持ち、参加者はある程度の水準に達したら自分の案をそこに登録できる。登録された案は実現可能なモノとし、予算もそしてコストも公開される。公開されるコストには設計料、コンストラクションマネージメント料、そしてサブコン、各種職人のリアルコストが公開される。要するにプロジェクトに値段がついている形式を作る。
 積算能力がキチンとある設計者、デザイナー集団を組織化する。
 通俗的な実務能力の育成と共に、大事なのは一般的教養、趣味の教育であろう。
 テキストの用意を急ぐ必要がある。
 コスト編、趣味教養編の二本立てから始めるか。材木のコストについて、特にその流通については野村・松本にテキスト作りを依頼する。趣味教養編は森川に、趣味は極めて構造的に形作られていて、決して先験的なものばかりではない事のテキスト作りを依頼しよう。納まりのテキストは高木に、イームズ自邸のディテールを調べさせ、又、現在の一般的な商品化住宅のディテールを参照することから始める。

 八月二六日
 夜、宮脇愛子さん一行佐賀到着

 八月二五日
 休み。今日は午後三時に子供のIT教室の修了式に出て、佐賀の子供たちに「御苦労さん」を言ってあげよう。
 本当は子供たちこそ、新しい形の教室が必要なのだろうが、私にはそれに本格的に対応する力も才質も残されてはいない。今はこれ位で限界なのだ。マイノリティーの最大勢力は子供である。誰か、これをネットワーク化する構想を作ればよいのに。
 家作りの主体に子供の遊びを取り入れられれば、凄いことになるのだが、杉並の渡辺さんに提案してみようかな。
 星の子愛児園の鉄骨現寸検査が八月三一日で、これはどうにも行けない。松本に任せるしかない。図面が送られてきたので、今日チェックしよう。

 八月二四日
 第一講ヨルク・グライター ベルリンに出現したピラミッドすなわちカイロの街並みから始まり、ヨーロッパの博覧会の歴史を介してテーマパークの出現の意味を説いた。近代とは何か近代化とは何かが主題だ。ニーチェの永劫回帰と近代化の特にその技術の直線的進歩の矛盾に触れ、テーマパーク的表われは技術の直線的進化を修正、鈍化させようとする歴史的必然であるとする考えだ。必然と言うのが誤解を招く言葉ならば歴史的自然とでも言おうか。
 第二講 渡辺豊和 空間の病理
 この建築家の自説を曲げぬ事の持続には信頼のおけるものがある。しかし、豊和さんの曲げぬ自説をいくらかアナクロに見せてしまう程に時代の、資本主義市場の原理は強いのだ。レクチャーの最後に彼が彼の子供に言ったという、子供といったってもう京大を出て建築家になろうとしているのだが、「お前、俺と同じことはするなよ、頭を使うより、肉体を使う建築家になれ」というのは実に良かった。豊和の説く論理の全体はあやしいものだが、時に溢れ出るインスピレーションの輝きはおとろえを知らない。
 午後、唐津の子供もの作り教室へ、唐津の子供たちに話をする。広島の造形作家木本一之さんが唐津まで来ていて、話をした。今回のワークショップでの良い出来事の一つであるかも知れない。
 夜、高木正三郎のミニレクチャー。ゆっくり育ってくれれば良い。この人はゆっくりと言うのが実に大事だ。ウサギは皆走り疲れて、バタバタと倒れるのだ。倒れぬウサギは本当に走り抜くのだから、これは高木正三郎の敵うものではない。四十才で頭角を現わし、五〇才でいぶし銀のように光る。これが彼の理想的なプログラムだろうな。

 八月二三日
 昨日中間講評会。当り前の事だが百名全部に対面した。来春の佐賀ワークショップは講評会を全公開にしよう。三年間やってみて色々な事がわかった。この経験は直接的で具体的なものだ。何らかの形で生かす。大学が抱え込んでいる問題そして地域の問題。それを体で実感できたわけだが持続してゆく事の困難さも又、痛感している。佐賀の八頭司さんが県の小さな仕事を頼まれていて、何とか上手くやってもらいたい。社会人の学生が佐賀に建築を作れば、それは考えてみればW・Bの成果という事になるからだ。それで良い。が、しかし、一人で考えなければならない事が多い。
 エネルギーの最大効率を考えるべ時だろう、エネルギーは無限ではない。
 第一講、若松裕之ITと生活 第二講隅研吾
 初めて隅研吾のレクチャーを聴いた。この人の特色は深く問題に没入しないという本格的な特色を持つことであることが解った。どんな風にでも移り変ってゆくことができるという逆説的に本格的な資質を持っているのだ。
 午後、ベルリンから来たヨルク・グライターと楽しいおしゃべり。夕方、渡辺豊和来校。6時より森川嘉一郎のレクチャーを三人でプレ・ビューしてもらう。磯崎さんから、すでに聴いていた秋葉原、渋谷そしてガレージキット論。すでに起きている事象を異常な精密さで解釈しようとする変テコリンな情熱の形。二年位後に彼は初めてのクラッシュを迎えるだろう。彼の研究は最初から、良く生きることの不可能性を証明しようとしているものだからだ。モダーンデザインがただ単に良い趣味という階層に属しているものに過ぎないことを特異な場所に現われている特異な現象への直観をベースに説明しようとしている。
 夜、グライター、豊和という異様な組合せで食事。今日は疲れていながら面白かった。ニーチェ・テーマパーク・モダナイゼーションというグライターの研究のテーマ設定の意味がようやく少しわかった。

 八月二二日
 今日は昨日に続いて中間講評会。グループ設計の作品に対応する。良いモノが出てくれればいいのだが。W・B子供のためのIT教室今日から開講。

 八月二一日
 ワークショップ七日目。
 第一講梁先生、第二講高橋晶子
 午後、中間講評会。バウハウスの学生の、単純にいえば誠実さが際立っている。何故か。このワークショップも五回目で、二回生三回生と連続して参加している学生も多い。彼等の進歩が楽しみと言えば楽しみであるが、総体としては良くない。

 八月二〇日 つづき
 ワークショップ六日目 第一講中原大学黄先生コートヤード。第二講伊東豊雄。第三講安藤忠雄。伊東豊雄のレクチャーはその構成が実に見事だった。メキシコの建築家オゴルマンによる典型的モダニズムの事例から、画家でもあった彼がたどったライフスタイルと絵の中に棲むという自分のアイデンティティの表明。絵を描く自分と建築を作る自分との対面そして自己分裂。次にチャールズ・イームズ自邸。表現をしない表現。自分の表現を消してゆく表現の可能性。繰り返し彼が述べていたモダニズム建築の支持層の薄さの問題点は重要だ。かってトム・ウルフがバウハウス批判グロピウス批評をした、単純なポピュリズムに陥らない方法が本当にあるのか。表現しない表現という可能性が建築家によってなされるのか。どうやら伊東豊雄は困難な問題を引受けようとしているようだ。ベルギーのプロジェクトはそんな問題を拓くものになるかも知れない。メディアテックの先に歩き始めている伊東豊雄を見た。
 安藤忠雄のレクチャーはいよいよその人間の際立った大きさ、特異さにみがきがかかってきた。司馬遼太郎記念館の白いステンドグラスのアイデアなどは安藤が新境地を開き始めていることを物語っている。すでに仕事を獲得することに思い悩まずに、自在な自分を表現する楽しみの中にいることがわかる。又、誰も彼のような語り口で自己の仕事を語ることができない。モダニズムがその発生時から所有していた問題、支持基盤の薄さという問題に安藤も又その人間全体で対峙している。
 ソウル大学の梁 (Yoon-Jae Yang) 先生、建築家の高橋晶子さん到着。夕食を共にする。

 八月二〇日
 朝五時に目覚める。台風が接近しているらしいが、その気配はまだ無い。
 新聞にギリシャ政府が英国にエルギン・マーブルの返還を正式に求めたとの記事があった。アテネオリンピックの大きな目玉としてギリシャが提起した大問題だが、これは博物館の王としての大英博物館の屋台骨を揺るがしかねない問題になるだろう。アクロポリスの丘のパルテノン神殿は建築の王として依然君臨し続けているが、それはヨーロッパ史が世界史であるという前提があるからで、建築史の王としての意味しかない。王はすでにミイラになっている。そのミイラがエルギン・マーブルによって歩き出したのだ。エルギン郷がこの古代彫刻をパルテノンから持ち出したのは一七九九年のことだから約二百年前の出来事だ。紀元前五世紀のパルテノンの部品が二千年の時間の流れの中で二百年前に事故にあったわけだ。
 ギリシャ政府もオリンピックを機に考え抜いた事だから、イギリスは何らかの対応を迫られるに違いない。この問題は近代的な博物館という制度そのものの大矛盾の本質を一気についていて興味深い。
 二十一世紀の初頭、このような民族国家間の文化的紛争が噴出するのではないか。台湾の故宮博物館の収蔵品も当然中国は返還を要求するだろうし、日本の博物館にも様々な朝鮮半島の出土品があるだろう。全部火種になる可能性がある。

 住宅設計について
 住宅設計を本格的に再開する。設計をするだけではもう面白くない。住宅作りを依頼主と共にするやり方を確立する。
 例えば、子供部屋の壁貼りくらいは依頼主の子供達にやってもらう。オヤジのコーナーは大工さんと一緒にオヤジがやる。台所まわりはお母さんも参加する。庭は一家でガーデニングする。
 世田谷村の実験を介して理解できたのは、住宅という環境の非商品性の問題であった。非商品性とは未完である状態であり、それはそのまま改変可能であることにつながる。住宅は人間の生活と共に変化してゆく。あらゆる住宅は変化する。いわゆる竣工時は、始まりに過ぎない。住宅設計を完成品を作ることを目標としない。施主のライフスタイルの変化と共にある、そんな状態を設計にとり込む。そして、その状態を設計製作する。セルフビルドの概念をより安易で慣じみやすいものにする。インテリアは誰にでもできる世界なのだから、そういう風に開放してゆく。週休二日はすでに確立している。人間は一般的に手持ちの時間の三分の一はすでに自分だけの時間として所有している。その三分の一の時間を一ヶ月、あるいは二ヶ月家作りに便用してくれたら良いのだ。それでコストは又大幅に落ちるだろう。床を含めた骨組み、その表皮、外壁のこと、そして設備。これはプロに任せる。内装の一部に施主の手を借りる方法を一般化する。私のホームページを介してコンタクトしてくれる人々が少しづつ出現してきた。この人たちは新しい人種だ。ある意味では情報を自主的に取捨選択できる人々でもある。私が今、九州佐賀のホテルで早朝、書いているこの言葉がアッという間に多くの人に伝わっている。このリアリティは生かさなくてはならない。
 人間の一生の中で、要するに家作りにいか程の時間を賭ける意味があるかの、これは問題なのだ。金がある人は金をかければ良い。金を充分に持たぬ人は時間をかければ良い。家を作ることにどれ程の価値を見出すかということではないか。
 家作り、つまり人間主体の環境づくりの問題は遺伝子改変による人体改造の問題や、クローンの問題、生命工学が抱え込む問題と同じに重大で基本的な人類の問題だと思うけどね。
 大学で教育を受ける時間の何がしかは、オヤジの家作りを手伝う。それが一生の生きる形式の中に組み込まれている。そんなのが理想かな。ともあれ、具体化してホームページにプレゼンテーションしてみよう。
 杉並の渡辺さんの家作りがこんなやり方の第一号になってくれれば良いのだが。
 という訳で渡辺さんに連絡して九月に入って打合わせという事にする。

 八月十九日 日曜日
 休み。ホテルでゴロ寝。色々と考えよう。疲れがズーッと回復していないような気がする。中原大学の黄先生来校。夕食を共にする。

 八月十八日
 佐賀ワークショップ四日目
 午前中第一講東大の松村秀一の住宅論。都市住宅の規定から始まり産業構造の近未来を示した。郊外住宅がいはゆる日本の住宅像の典型でそれはすでにマーケットとして飽和状態だ。その認識を前提にして論が展開された。イームズでの仕事に関するイメージは私にも大変参考になった。
 第二講はオレゴン大学ケビン・ニュートの講義。フランクロイドライトの日本建築に対する直観からスタートして場所と建築の関係を様々に示した。日本ではこのような日本建築論を示せる人はいない。イギリス生まれの日本学が今、オレゴンにいる。
 午後はシンポジューム。松村・ニュート両先生は東京とオレゴンに帰った。このワークショップの講義の質は建築関連のものとしては日本最高のものだろう。isの連載はとうとう穴を開けてしまった。でもどうしても書く時間をとれなかった。六時間あれば書けたのに、その六時間が作れなかった。山内さんには本当に申し訳ない。ゴメンなさい。ゴメンですむことじゃないのだろうが、不可能だった。どこかで二回分書いて送るしかないな。オレゴンのチャーリー・ブラウンにも不義理をした。東京に戻ったら約束をはたそう。もしかしたら、能力を超えたことをしているのかも知れない。たぶん、そうなのだろう。こちらの態勢を立て直さなくてはならぬ。

 八月十七日
 佐賀ワークショップ三日目。今日は森正洋先生のレクチャーのみ。少しのんびりできる日だ。第二課題の出題に関しては新しいシステムをとろうと思う。少くとも五回生は個別の課題を作るべきだろうし、これからのリアルな生き方の相談にも乗らなくてはいけない。三回生以上の人間の個別相談日としよう。

 八月十六日
 佐賀ワークショップ二日目
 第一講難波和彦第二講石山、難波箱の家と石山自邸。初日の鈴木博之との組合わせと、難波和彦との組合わせのトライアングルは良かった。午後三時第一課題講評会。百名の学生を全部把握するのは至難だが、これをしなければワークショップの意味はない。批評をしている時の学生社会人の顔の輝きや、眼の色を見れば大体その人間の人格はわかるようになった。要するに五回のW・Bワークショップ通算八回目の催事を介してわかったのは、建築設計の優劣、能力を問うよりも、人間そのモノの、敢えて言えば人格品性そのものを設計を介して二週間にわたって問うていたということだ。もちろんこちらも問われている。普通の大学教育ではそれができていない。大学はすでに教育という事を深く考えれば崩壊している。教師で喰っているだけの人間はそれを知らぬ。この三年間の経験は私にとっても大事だ。参加してくれた教師達も皆ワークショップの行末を危惧しているだろう。このスクールは何とか続けなければならない。続けるためにしなければならぬ事を考える。この問題に対面するのが八月の私の課題だ。世田谷村の課題でもある。結論はもう本能的には知っているのだが、それを実行するか否かは私自身のライフスタイルにも関わってくるから、簡単には決められない。夜十一時講評会修了。

 八月十五日
 朝九時、鈴木博之講議。十時四十分、石山講議。参加学生百一名のワークショップ順調に滑り出す。
 午後、課題開始。例年通り、「死を待つ母の家」今年は2回生以上の参加者のために、「シングル・マザーの家」をオプションでつけ加えた。明日、三時までに提出せよと言うハードなものだが、この課題は全ての参加者の人格が表れるのでいつも面白い。
 午後、三時ホテルで休養。室内の原稿書き上げる。少しづつ肩の荷が降りてゆくのが嬉しい。我ながら単純だ。

 八月十四日
 早朝五時半起床。愛子さんが窓から手をふって送ってくれた。もう一泊する家内とテラスでタクシーを待つ。結局、軽井沢の磯崎山荘では自分の悲力と怠けグセを思い知らされたようなものだ。しかし、もともと本を読んで磯崎さんに追いつけるものではないのだから、これも又、私は私と覚悟するしか無いのは知れた事でもある。五〇代の厳しさをイヤと言う程に思い知った。
 磯崎さんのギフの計画の話しを聞いていて、施主のセルフエイド系のアイデアが少しまとまった。要するにモノを作ること自体の面白さは私にばかりあるのじゃない、あなたにもあるって事。それをやさしく実利的に説きおこす方法の問題だ。
 七時五九分東京着横須賀線で鎌倉へ。
 九時半鎌倉近代美術館。リチャード・バックミンスター・フラー展見学。清々しい展覧会だった。一九三〇年〜五〇年アメリカが最もアメリカらしかった頃の特大の個人だ。その交友関係も含めて充足した人生であった事が了解できる。二〇〇一年現在はRBFの生きた時代よりも、現実自体が虚構化している。バスタブユニットの展示や、ウィチタハウスのモデルに見られる実物をつくった時代のアメリカの匂い。たち込める実物の匂いが会場に感じられた。肉筆、肉声で考え、コミュニケーションしていたフラーを感じる事ができた。部厚いカタログ、ユア・プライベェート・スカイを買って帰る。午後一時前世田村に帰る。バウハウス大学のエトリンガーが来ていてムニャムニャ何か言っているが佐賀へ出掛けねばならぬ。置去りにして出発。遂にこの男とはコミュニケーションできなかった。仕方ない。肩肘はって国際交流するつもりはない。
 十七時五五分のANAで佐賀へ。明日から百四名の参加者と共にW・BWORKSHOPが始まる。空港で難波和彦さんと会う。機内でオレゴン大学のケビン・ニュートと会う。十九時半佐賀空港着。佐賀ニューオータニーに投宿。鈴木博之さんと再会。飛行機の中で読売新聞の原稿書き上げたので気持ちが少し楽になった。〆原稿の数々がプレッシャーで辛い。

 八月十三日
 朝、磯崎さんが友美に三冊本をプレゼントしてくれた。昨年来五十嵐太郎がインタビューしていたもので、篠山紀信との建築行脚全十二巻のチョッとした焼直しだと思っていたら、全く新しい形式のもので仰天した。七〇才の人間のやることじゃない。何故こんなに勉強するのか。全十二巻のシリーズのボリュームを想像すると膝が落ちる。全く自分が恥かしくなった。こんな所でゆっくり休んでいる場合じゃない。開放系技術論、磯崎新論共に進行していないのを恥じるのみ。
 少しばかりジッとしてようかと思い始めていた自分をふるい立たせなくてはならない。夜にでも一人で帰京しようかと家族に相談したら、勝手にしなさいバカと言われた。こいつ等は全く男の辛さってものを理解していない。

 八月十二日
 午後軽井沢磯崎山荘へ。押しかけ休養。正子友美も一緒。霧にまかれて予想以上に涼しい。
 例によって磯崎さんが料理を作る。この大建築家の不思議な一面。絵描きになりたかったそうだが、それを許す程頭脳がルーズではなかった。だから、絵を描くように料理の手を動かしているのだ。ボンゴレが異常にうまかった。根深いイタリヤ好みがよく現われている。
 宮脇愛子さんは佐賀のW・Bワークショップに無理を承知で来ていただくので、それの打合わせ。結局二六日〜三〇日まで来ていただく事になった。人生を語っていただいて良い慣録で、本当はお好きな様に、お好きなスタイルでお話下されば良いのだけれど、矢張り打合わせの形式をとるべきで、これは礼儀である。

 八月十一日
 今日から休みのような状態に入る。
 夕方、鈴木博之藤森照信が来宅するので楽しみだ。四時、にわか雨降る。丁度、来客のための涼気を呼んでくれて良かった。
 五時前、両夫妻到着。
 鈴木さんは鈴木さんらしく、藤森さんは藤森さんらしく世田谷を見てくれた。五〇も半端をこえると、次第に附合っている友人の数が減ってくる。知り合いの数は加速度的に増加するのだが、友人は減少する。附合い にはエネルギーが必要だから、そのエネルギーが減少するという事なのだろう。エネルギーはで減少する、しかし蒸留されて濃度は濃くなってくる。
 鈴木藤森共にある種の天才だ。私には無いモノを多く持っている。若い頃には弱干の競争心もあって何とか私に無いモノを学んで得ようとしたが、今はもう手遅れだ。無いものは無いモノで仕方がないと思うようになった。私は私であり、鈴木藤森共にどうしようなく鈴木藤森である。鈴木は都市に生きる樹木で、藤森は山野に生育する樹木に例えられる。都市の大樹は複雑に生い茂る。空気の汚染や地下水脈の枯涸と常に闘わねばならない。人工的に生きる知恵が必要だ。鈴木博之の面白いところはその人工が自然に才質の中にあったことだろう。藤森照信は俗に言う、自然児である。しかしそれはターザンの如き野性を意味しない。鈴木のような人工と相対して際立つ野性なのだ。藤森は近代的自然を備えている。
 それ故この二人は極めて新しい相対性を所有している。相対的自我、あるいは相対的私性と呼ぶべきものだ。私性という事に関して双方共に極立っている。そこらに転がっている建築家芸術家作家の私性の枠をはるかに超えた私を持っている、あるいはそれを自覚しているようなところがある。この自覚こそが現代の特質だろう。
 自分は他の人間とチョッと異る何か、歴然とした私というものを所有しているという自覚。それはある種のエレガンシーを持たぬと鼻持ちならぬ者になるのだが、二人はそれをヴェールにくるむ才質も持っている。秘かに自分本来の赤裸々さから隠れていようとする本能がある。ともあれ、驚くべき私性の持主であることに間違いがない。奥さん方が御一緒だったので、又そのことがそれぞれの私性を際立たせた。
 十時半まで寄合いは続いた。久し振りに楽しい一日だった。

 八月十日
 朝九時杉並の渡辺さん夫妻世田谷村に来る。 
 私のホームページを見て住宅作りの相談にみえた方だ。今日はこんな家をどうでしょうの、打合わせで、私の住宅作りへの考えを少し聞いていただいた。できるだけ大きな家を安く作るのが、私の基本方針で、その為に私のところのスタッフが一部施工もする、すなわち世田谷村方式について話しを聞いてもらった。世田谷村を見てもらいながらの話しで、解ってもらえたような気がする。その方式に同意していただけたら私の住宅作りの第三ステップの始まりとしたい。
 板橋の6軒の住宅も秋から本格的に再開したい。設計事ム所としてだけでなく、かと言って工務店になり代るというのでもない。建築家が大工職人労務者の真似事をしても仕方ない。しかし設計図を作成するだけでは住宅の本質、つまりコストの問題に接近することはできない。設計を含めたモノを作れる人材をより多く育成しなければ駄目なんだ。建築家が出現する以前の棟梁のような人間がある種の理想型なのだろうが、棟梁は親分的なそしてその親分的な位置が永続する、永続させねばならぬようなイメージがある。そうではなくてもっと気楽な感じが良い。三〇代で年に三軒住宅を設計施工したら年収一千万円になるくらいの感じだ。三十代で始めて三十年間働く。一生に九〇軒から百軒の家をつくる。決して欲張らない。人生としては結構充実していると思うが、どうだろうか。

 八月九日
 富士嶺聖徳寺へ。上九一色村役場確認申請手続きの件を確認。前村長の渡辺さんに会う。温厚な人物であった。いよいよ聖徳寺の現場が始るが、平穏に事がすすむことをいのりたい。夕方六時帰京。
 高橋工業社長世田谷村に来る。
 鉄製の墓について打ち合わせ。高橋社長も会社のカジ取りがむづかしい時だろうが、頑張ってもらいたい。独特な技術を持った鉄工所を目指すしかないだろう。

 八月八日
 朝六時屋上菜園に上る。ナスが充分大きく実っていた。カラスがスキあらば侵入してやろうという跡がいたるところにあって、油断ならぬ。しかし育ちつつある野菜のそばにうづくまっていると気持が安らぐのが我ながら照れてしまう。年のせいでなければ良いのだが。昔から原っぱ状態が好きだった。ペンペン草が生い茂る原っぱに錆びたドラムカンが捨てられていて、何故か月見草がポッカリ花を咲かせている。誰もいない。風が吹いている、そんな状景である。蒸気機関車に代表される古い機械を懐かしむのとは少しちがう。もう少し何も無い状態。
 モヘンジョダロの遺跡の風景はそれに近かったがあそこは何も無さ過ぎた。ナーランダは建築の残ガイがハッキリ残り過ぎで、ヒンズーの寺院の遺跡にはそれが無い。人の匂いが満ちている。仏教寺院の遺跡のなにがしかにはそれに近いモノが在るように思うがよくわからないママに時が過ぎている。多分、わたしの「地」なのだろうと思うがそれを突きとめてゆくとチョッとヤバそうなところに行きそうなのでとまどっている。今秋の「阿弥陀の径」でアジア最奥の地にでかけるが、それが原っぱ状態を考える関門になってしまうのではないか。
 好ましいと思う状態に脈絡があり続けるのならそれは考えてみる必要がある。
 午前中大学で研究室の公開プロジェクトのウェブサイト用の編集作業。ウェブサイト用情報は段階的に降下してゆく感じが必要で、フト考えてみれば一ノ関ベーシー菅原正二のファックス文体はそれに適していると思われる。
 早稲田バウハウススクールはそろそろ次の展開を考える時期に来た。毎年夏冬と有能な先生方に佐賀まで足を運んでもらうのも心苦しくなってきたからナァ。ツィンマーマン、バウハウス大学学長から是非ワイマールに来て欲しいとの連絡が入っているが、その体力気力が今は無い。
 午後GA杉田君とヘレンケラー記念塔の発表に関して打合わせ。

 八月七日
 地下は学生が休みに入り静かになった。スタッフだけが仕事をしている普通の状態に戻った。院生の中で一人モノになりそうな奴がいて、今日からキチンと育ててみようと思っている。
 昨夜は六時から学会で東大の松村秀一を中心にしたグループが提出していた文部省科研費が内定したので会合が持たれた。要するに都市に発生しつつある使われないオフィスビルを住居に代えてゆこうとする計画で、これからの時代の中心的なテーマだ。三年がかりの研究で面白くやれそうだ。港区長の原田敬美氏も委員として参画しており、何とか三年間でモデル計画を実現する糸口をつかみたいものだ。ブラジルのサンパウロ市で体験した都市の中心部の空洞化が東京大阪でも起こりつつあるわけで、計画という生産的概念がすでに修正せざるを得ない現実を物語っている。
 一日どんよりとした曇天で、この家で暮していると空の状態と気分が重なり合ってくるから不思議である。

 八月六日
 少しばかり涼しくなってしのぎやすい。  昨日西調布の中川先生とお目にかかり、聖徳寺のこと話す。他にも人間が沢山いたので突込んだ話はできなかった。八月中にもう少し話しておいた方が良い。上九一色村役場とコンタクト。やはり国立公園内山林なので確認申請が必要らしい。
 九月からの、そして二〇〇二年度からの研究開発の具体的なアイテムを決めた。八項目あった。全て自主的に、あるいは企業と協同して進めているものだ。新らしい力が欲しい。関心のある方は是非ともコンタクトしていただきたい。それぞれのアイテムは順次公開する。
 八月十一日世田谷村顔見世。鈴木博之、藤森照信両氏を皮切りに御招待することにした。難波和彦、松村秀一大野勝彦野辺考一は秋になってから招待しよう。こんな事するのは初めての事なので、アトは自然に千客万来でゆく。ヘレンケラー記念塔のオープニングその他は秋になってゆっくり考えたい。

 八月五日 日
 今日は一日休養。流石に時々休みをとらなければ危くなってきた。朝六時起床。屋上菜園に水をやる。つゆ草のブルーの小花と月見草のイエローの花が何とも気持が良い。植物の成長は順調で今は完成予想の六割ぐらいだろうか。のんびりと2階の吹抜けのところで何もしていない。昼過ぎに台湾の中原大学生が三名見学にくる予定があるが、他は何も無し。家の中にセミが飛び込んできて、一生懸命ないている。セミの寿命はセミになってから三日程とうろ覚えている。コイツは何日目のセミかな。

 八月三日
 今日は午後便で帯広。十勝ヘレンケラー記念塔の竣工検査。昼過ぎ光が指して来たので二川さん来着。坂下に色々教えながら撮っていた。おわりまで立会いたかったが飛行機の時間があるので途中で失礼する。
 六時四十分帯広空港着。驚いたことに東京三十五度に対して十四°Cであった。久し振りに気持の良い空気とキリ状の湿り気に触れて体が嬉しがっているのが自分でもわかった。
 空港にはいつものように北海点字図書館の後藤さんが迎えて下さって夕闇の中を現場へ。どうやら、やっぱりこの建築は上手くいっている。外はパーフェクト。内に二、三問題があるがこれは修正できる。本当、自分でこんなことウェブサイトに書き記す、おろかさは充分にわかっているのだが、それでもこの塔は上手くいった。ここまで上手くいくと誰にも視せる必要がない位だ。ヘレンケラー記念塔と名付けたのは点字図書館の歴史からだが、眼でモノを視ない人達の為にと思って建てたのだから、彼等彼女等が眼で視ないで多分、体感のようなものでこの塔を感じてくれる筈だから、本来的には眼の見える人にもそうして欲しい。つまり視せない のが一番なんだが、そうもいくまい。
 内部も上手くいっている。体全体を使って空間をたどってゆく感じが素直に出ている。屋上の空間も上手くいった。一層目のフードとダクトが少し問題だが直させれば良い。
 倉本と檜垣は誉めてやらなければならない。良く極寒の地で五ヶ月頑張った。
 同時に世田谷村とヘレンケラー記念塔ができて、世田谷村はまだ途中だから比べられぬが、今のところはヘレンケラーの方が圧倒的に良い。
 つくりながら思っていたのだが、私の中に矛楯相反する二つの何かがあって、一方を世田谷村、つまり自邸で、一方をこの塔でと考えていた。二つの建築でテンションを張って私の少し遅れた中年期をやっていみようと考えていたが、こりゃ全然目論見が外れた。ヘレンケラー塔の方に世田谷村はくるまれてしまっている。どういう事なんだコレは。
 言ってみればコレは五重の塔、三重の塔の類のモノだ。機能があって、ない。基本的にはゲストハウスだろう。最上階五層は空に開いた内部、ホロ尻岳が遠く眺められる窓がある。四層は茶室。内外が混入している。三層はガランとした空間、ほとんど闇である。二層は水まわり、ホロ尻岳が眺められる風呂があって色々な隅がある。一層は砂利じき。内外の区分けをなくした小さなサロン、ここで食事ができる。地下は倉庫。五層をつらぬく垂直方向の窓があって、各層に雨の音や風の音、光のぬくもりが感じられるような工夫がある。星の子愛児園、聖徳寺はこれを超えられるだろうか。

 八月二日
 昨日GA撮影修了。
 秋からの仕事に関して少し考えなければならない。無駄な事をしている時間はあんまり残されていない。思えば沢山無駄とも思える事をやってきた。振り返れば塁々たる残骸の山である。しかしその残骸の山に時々花が咲くのが面白い。菅平の開拓者の家も私の自邸によって枯れかけていた花が又咲いた。この径はしかし厳しい。年令と体力と、ようするに自分の力と時間との追いかけっこになるからゆくか戻るか熟考する必要がある。でも、行かなくちゃしょうがないんだろうな。
 午後星の子愛児園第一回定例。コスト、工期共に極度の難工事だが何とか乗り切ろう。夕方日本フィンランドデザイン協会会議。2002年の「静けさ」をテーマにした展覧会の打合わせ。
 夜GA坂下より電話あり。二川氏より又、撮り直しを命じられたとの事。おまけに二川氏御本人も撮るのだと言う。光栄な事だが、坂下に「お前の写真には風が感じられない。」と名人上手に特有の科白を吐いた後で、名人登場となるわけで大丈夫かなと要らぬ心配をする。しかし、とにかく工事途中の建築ながらそれでも名人を引っ張り出せたのは我ながら何とも嬉しい。この感じは恐らく他人にはチョッと気違いじみた風に受け取られるだろうが、このオヤジが元気なうちに熱が出る程にうならせてやるのが一つの目標なのだから、バカと思われても仕方がないことなのだ。下の家を取り払ったら鈴木博之藤森照信にも見て貰わなくてはならない。

7月の世田谷村日記

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