石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
10月の世田谷村日記
 九月三〇日 日曜日
 第一回AO入試実施。面接試験だけで入試に代替させる試みで、学生の余りの元気の無さ、内発的想像力の弱さへの危惧から生まれた実験の一つである。集中的な面接だけで人間の力はある程度わかることを再確認した。すぐに効果が得られる事はない。十年くらいかかるだろうが、良い試みであるように思った。アッという間に時が経ってしまい、何もできないママに九月は終ってしまった。

 九月二九日
 午後講評会。久し振りに大学へ行く。三年生の課題を見る。悪い。ひどく悪い。図面だけが悪いのではない。学生の人間そのものも悪い。大学という場所のリアリティがすでに希薄なのだ。一つも見るべきもの、批評するに足るものはなかった。夜、古谷入江宮崎と食事。

 九月二八日
 朝、三階から眺めていると遠くの森が揺れ動いている。風が強いらしい。ガラスの屋根ごしに屋上の雑草がゆれているのが見える。
 九時前稲田堤の現場へ。アンモナイトやガラス、諸々の物体の埋込みはほぼ終っていた。すぐにコンクリート打設が始まる。午後二時現場をはなれる。生がわきのコンクリートに柿渋をブチまける仕上げを実験してみたが、うまくいきそうだ。最期まで見ることはできなかったが、後は運を天に任せるしかない。現場にいると体が生々としてくるのがわかる。
 夕方、建築会館へ。伊勢天武天皇、浄土寺浄土堂重源、密庵席小堀遠州、法隆寺岡倉天心、桂ブルーノタウト、万博岡本太郎、と昨年十一月から連続六回続けてきたシンポジウムの今日が最終回。浅田彰、藤森照信、隈研吾、磯崎新パネリスト、鈴木石山司会ですすめた。毎回会場は満員で、今日はことさらに若い人が多かったように思う。誰もが本能的に不安なのだろう。
 九時終了。六本木中国飯店で事務局の坊城野村五十嵐を交じえ、食事。いつも磯崎さんがスポンサーになってくれているが、これは今のところ甘えるのが自然だろう。
 がしかし、鈴木藤森石山も五十半端を過ぎているのだから何とかしたいもんだ。浅田彰はしかし座談、討論共に名手だなアレは。話題のつくり方、タイミング等見事だ。まわりにも気を使って、しかも使い過ぎず。余程浅田孝が仕込んだに違いない。浅田彰を見ていると、丹下健三の仕事における浅田孝の役割がどれ程のものだったのかに想いをはせざるを得ない。丹下健三という人は驚く程にそのような人間に恵まれてきたのだろう。藤森の天衣無縫振りも板に付いてきた。これからの彼の動向は興味津々である。西欧型の知識人とは別の、さりとていかにもな日本型でもない。縄文を意識しているところは岡本太郎風でもあるが、何故か大陸を、ユーラシアを想わせるところがあるのに気付いた。諏訪と大陸とは何処かで結びついているにちがいない。

 九月二七日
 朝、渡辺さん夫妻来所。住宅づくり打合わせ。総工費を全部あづかる事にした。設計施工請負いである。責任重大だ。夫妻共に私を信頼して下さっているようだから、期待を裏切らぬようにしたい。午後星の子愛児園現場、一F床コンクリート打。床にアンモナイト等を打込むのでスタッフ、学生が現場作業。檜垣、坂口以外は全く使いモノにならない。つくる本能がない。ノコギリも使えないで、建築ができるのか。明朝のコンクリート打に間に合わせるためには多分徹夜作業になるだろう。実際に実物を作ろうとするのに、取り組み方が甘いのをイヤという程知っただろう。
 夕方、佐藤健、馬場昭道来宅。
 ウーロン茶でソバを喰う。酒を飲まぬ日は本当に体調が良い。お茶で酔えれば、それにこした事はないのだが。佐藤健の歩く歩幅が小さくなっているのが気になる。
 明朝は九時に現場行。キチンと仕事が終わっていることを望む。

 九月二六日
 早朝、富士山聖徳寺へ。上九一色村役場、建築確認申請、夕方星の子愛児園定例。深夜帰宅。

 九月二五日
 朝から晩まで世田谷で打ち合わせ、およびスケッチ。三階と地下を登り降りして暮らす。坂口に描かせていたホームレスハウスのドローイング出来上った。仲々良く出来ていてアイツはこういう事で飯喰っていけるのじゃないかと思わせるくらいだ。
 夕方十四人のスタッフに全員プロダクツのスケッチを課す。一時間半で椅子のデザイン照明のデザインを提出せよというもの。部品を少量発注してそれを組み合わせることだけで多様な姿の製品ができるなんて夢の又夢だな。自転車のデザインもいつかやってみたい。

 九月二四日 何故だか休日
 午後東大安田講堂で学会の講演会。気楽に構えていたらチョット雰囲気が怪しくて、東大の正門入って直線状に安田講堂に入ってゆくと何だか身構えてしまうのだった。原広司さんが大チョンボの遅刻して、トリだった筈の内田祥哉先生が私の前の講演を受け持っていた。原さんの建築は年々大仰なモノになってチョッと時代錯誤気味のように思うのだが、こういう取りこぼしがあるのが救いだ。遅れてやってきて「今日は何なんだ」だって。しかし安田講堂は話す側にとっては見事な空間であった。扇形の平面と二階のせり出しの感じ、キチンとした緊張感があって、マアこれが大学が大学らしかった時代の中心的空間であり、場所であった事が良く理解できた。学長あるいは文部大臣でもここで一度演説した人間は病みつきになっただろうと思われる。演者への集中度が凄いのだ。天井のデザインも平面形をそのまま写したもので抑制されていて良い。ディテールの装飾も銀行なんかのゴテゴテがなくて良い。塔状になった外見の垂直性と比して内部は水平性が勝っていて、それが抑制された力の表現になっている。東大は見込みのある学生に在校中にここで一度演説させたら良い。学生はたちどころに安田講堂の意味すなわち東大の意味を理解するだろう。
 これに比べると大隈講堂はやっぱり、何だか女々しいよね。長谷川尭のメスの視覚だったか、神殿と獄舎であったか、アノ直観の初めの一歩は正しい。大隈講堂は講演していてもこれ程の集中力を感じられない。空間の構造が弱くできている。天井や個々のディテールも妙にしなだれかかってくる様なところがある。根本的には東大のキャンパスには正門から安田講堂への軸があるのだが早稲田のキャンパスには軸がない。全然ない。大隈講堂はいきなり町の片隅にポツンと建っている。創設者の精神が健在である頃はそれで良いが、創設の精神が失われてくるとそれではたちゆかない。そこで建築の役割が生まれる。大学のシンボルは創設の精神の収蔵庫なのだ。だからキチンとしていなくてはならない。安田講堂は前の庭が妙に小市民的な公園風になっているのが傷だが、まだキチンとしている。
 早稲田キャンパスは風前の灯火である。建築の価値を不動産の価値としかとらえられぬ人間にキャンパスを任せているから、早稲田は沈んでゆくのだ。はからずも、安田講堂を体験して早稲田の弱点を良く知らされた。晩飯は神楽坂で鈴木博之と。四方山話に花が咲いた。鈴木博之の良いところは人格がまさに安田講堂的であるところだ。安田講堂に足がはえて歩いているようなモンだな。こういう人物は早稲田には居ない。

 九月二三日
 終日家から一歩も出ず。藤森の天下無双を通読。縄文建築のくだりが圧巻だ。タテ穴住居と樹上住居つまり高床住居を住み分けていたのじゃないかというのは藤森でなければ言えない。堀立て柱の起原はナマの樹だというのも本当かも知れないと思ってしまった。ナマの神木にサヤ堂かけたのが伊勢の始まりだなんて、よくまあそんな恐ろしい新説ブチ上げるなとも思うが、そうなのかと思わせるところが凄い。この本は宣伝しなくても売れるから俺の駄文は必要ないと思うが、やっぱり書かなきゃならんのだろうな。面白い本を面白いと書いても仕方ないのだから、ここは一つ工夫がいるようだ。
 しかしスタスタと足早に走る藤森、何処まで辿り着くつもりなのだろうか。そうだ、それを予測する駄文を書いてヤレ。

 九月二二日
 朝、スタジオ・ヴォイス取材で中里和人さん達来宅。写真をとる。屋上菜園の花や野菜を丹念にとっていたのが印象的だった。藤森照信の「天下無双の建築学入門」なる本の宣伝文を書く〆が接近してきたので今夜は筑摩から送られてきた部厚いゲラを読まなくてはならない。丁度、仏教入門にもアキてイヤ気が指していたので良い頃合だ。先ずパラパラとめくってみると、これが面白そうで徹夜で読んでしまいそう。藤森の本では最近の「タンポポの綿毛」が圧倒的に良かったが、ここんところ彼は絶好調である。老人力を使い果たした時には阿弥陀の手に糸引いて極楽往生するのだ、とまでホラを吹いていた。アイツは書評慣れしてるから、こんな事は朝飯前の仕事なんだろうが、私は大変である。
 しかし、藤森はすっかり人民的作家になってきたな。安藤忠雄が国民的作家であるとすれば、マア藤森は国民という感じではなくって、敢えて古くさく人民的支持を得ているな。
 読み始めたら、この本は大変な本だよ。建築の起原に関する新説がゴロゴロ書かれている。

 九月二一日
 鶴見俊輔長田弘の対話「旅の話」再読。馬上の孤独の章で、砂漠についての発言があり、共感したが、対話形式の限界もあり、砂漠は攻撃的であるというところで話しはすすまない。その先が知りたかった。鶴見氏の言葉の端々にイスラムの狂信的なものへの直観があったように思う。アメリカでは大統領の議会演説があり、いよいよタリバン政権に向けて総攻撃が始められるようだ。イスラムの狂信的なものを過小評価しては危険なように思うが、大勢はもう大型の土砂崩れのようなもので、簡単には元に戻れないだろう。
 午後東大松村研で会合。夕方鈴木博之とチョッと会う。その帰り、晩飯は難波和彦と市ヶ谷で。難波さんの奥さんは楽しみにしていた一ヶ月程のイタリア旅行をキャンセルしたそうだ。勿論ハイジャックへの恐怖からだが、身近なところまでテロは影響しているのを感じた。私も十月初旬の沖縄行をキャンセルした方が良いか。イタリア行より、余程危険なのは確かだ。
 仏教入門の本、渡された八册まだ読み切れない。概説総論入門の類ばかりで、中にはひどくつまらない本も混じっていた。アト二冊ほどだから、やっつけてしまおう。

 九月二〇日
 台風十七号接近。しかし東方海上に抜ける模様で関東には上陸しない。最近天気が気になるようになった。屋上菜園と二階三階の建築様式のせいだ。視覚的にも体感的にも内外のシキリが無いので、いってみればアウト・ドアで暮しているようなものだ。生活が天気で左右されている。菜園は荒れ放題で、ヘチマが急成長し、黄色い花を沢山咲かせている。週末には手入れしなくてはならないだろう。昨日から我家で使う椅子のスケッチを始めているのだが、うまくゆかない。寸法の決め方が建築とは少しちがうからだろう。建築のスケッチには最初スケールが入らなくても展開してゆくことができるが、家具ではスケールが最初から入ってないとわからない。
 鈴木博之邸の新築祝に三つ椅子を作ったが、全部うまくいかなかった。自分の椅子ができそうだったら、今度はできるだろう。あんなひどい出来のモノをあげなくて本当に良かった。アレは古代エジプトの書記官像をモデルにした椅子だったが、今度はもうチョッと肩の力を抜いてやってみよう。
 朝十時、飯島洋一君取材で来訪。短時間ではあったが初めて色々と話しをした。モダーンリヴァイバルの連中から随分と攻撃されていたようだが、時のメインストリームを批判するというのは良い評論家としては不可欠な条件なのだから飯島君はやるべき事はやったのだ。陰ながら応援してゆくか。

 九月十八日
 昨夜、佐藤健と三軒茶屋のうなぎ屋でメシを喰う。東大病院での手術の様子を詳細に説明してもらった。肝臓の手術は驚くべき進歩をしているようで先入観として持っていた不安は少し消えた。シルクロード行の件はアフガニスタンが不安な状態になっているので、本当は近付かぬ方が良いと思うのだが、言ってもきかないだろうな。しかし、東大病院の先生に相当おどかされた様で、酒はキッパリ止めたようだ。私もなんとか酒抜きで自由自在に附合えるような境地に早く辿り着かなくてはならない。大酒喰って平気の平左な体力の持主でない事は自分が一番知っている。
 今日は午後一番で世田谷村のこれからの工事について近所の人たちに説明する会を持った。さすがに工事が長びいているので近所の人たちは何事かと思っているらしくて、今日説明できたのは良かった。屋上の菜園の土ぼこりの事なども指適されたが、これにはキチンと対処しなくてはならぬだろう。屋上緑化は国も都もすすめようとしている事だが、まだまだ解決しなくてはならぬ問題は多い。近所附合は大事だと痛感した。しかし、皆さん世田谷村の内に入られてようやく安心された様で、きっとアノ中で何やってるんだろうの不安もあったのだろう。屋上で換気扇を六台廻したのが、何なんだアレはの疑心暗鬼を引きおこしたにちがいない。

 九月十七日
 日本仏教史読み進む。えらい事始めちゃったなと後悔することしきりだが、今やめてしまったら、たった三日の禁煙、禁酒の類だからみっともなくて止めるわけにはいかない。しかしどうやら仏教史の問題点はチョッとわかってきた。中世精神を律する無常、もののあわれ等の心性は本覚思想と呼ばれる考え方が母体になっていたようだ。無常を悲哀とする価値観は本覚思想によって超えられた。仏教思想本来の性格を考えるならば、それは無常を克服すべき対象としてとらえるべきものだった。それが本覚思想では一転して全てのこの世の現象を肯定的にあるがままの自然として肯定的にとらえようとする。この全てを「仏」としてとらえる考え方自体は、もともとのインドの仏教には無かったもので、言ってみれば日本独自の、日本仏教史に独自なものだった。仏教全体から見れば異端としか言いようのない性格が、日本仏教を規定する基本的性格であるとすれば、それは謂はゆる日本的なモノであるとされてきたモノの性格の基本構造ではないか。モノの姿に構造を見ようとしない現代にもそれは続いていよう。  朝、定例の打合わせ。
 夕方、佐藤健の見舞にゆく。
 ホームページの「支援センター」に早速反応があった。

 九月十五日
 昨日「室内」の眼ざわりデザインの連載にかこつけて、毛綱モン太の反住器論を書いた。追悼文の代りである。
 人は確かに死んでしまってからの方が、むしろ生きている時よりも輪郭がはっきりする。毛綱を書きながら、若い時のすでに忘れていたディテールがどんどん浮上してくるのに驚いた。
 アメリカがアフガニスタンのタリバン政権に向けて報復戦争を準備しているようだ。タリバン指導者が、アフガニスタンには巡行ミサイルで破壊するに価するものは何も無いと述べていたのが印象的だ。砂漠にミサイルを打ち込んでも何も破壊できない。ヴェトナム戦争でアメリカが勝てなかったのは、ヴェトナムの密林と田園だった。高価な武器やシステムを使用して破壊するだけの経済的価値が無かった。砂漠にはもっと何も無い。全国土のほとんどを荒涼とした山岳地帯と砂漠で占めるアフガニスタンはヴェトナムよりも余程やっかいな場所だろう。破壊する以前に、すでに自然によって破壊されているような気配がある。  アメリカが自国のネヴァダ砂漠を核爆発実験場にしたのは、そこが破壊されても構わないと値踏みしたからだ。アフガンは全土がネヴァダ砂漠状の国だ。ヴェトナムの二の舞い、あるいはそれ以上の無益な戦いになるだろう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、共にその宗教的観念を生みだしたのは砂漠だ。全て砂漠の宗教なのだ。ワールド・トレード・センターに象徴されるニューヨークは都市の象徴だ。しかも資本主義経済が作り出した新しい都市である。都市と砂漠は余りにも価値観がちがう。そのことにアメリカは想像力を働かせなくてはならないのだ。
 ブッシュ政権を生みだしたのはアメリカの内陸部の保守的な人々であった。今度の多発テロの主舞台に選出された、ボストン、ニューヨーク、ワシントンはゴアを支持していた。つまりアメリカもその内奥は決して一つではない。アメリカは都市と砂漠が同居する国家だ。インディアン居留地のネイティブ・アメリカンの生活はほぼアフガニスタン的であると聞き及ぶ。
 眼には眼を、歯には歯の報復の方法は上手なやり方ではない。砂漠対トマホークでは最初からバランスを失なっている。

 九月十三日
 昨日、一昨日とTVの前に釘づけになってしまった。NYワールド・トレード・センターとワシントンアメリカ国防総省へハイジャックされた旅客機が突込むという仰天すべきテロが起きたからだ。湾岸戦争の時は遠い砂漠の国で現実離れした電子戦争が引起こされて、私達もそれをTVの映像で、まるでコンピューターゲームのように眺めていた。
 今度のテロは同様にTVの映像から知ることができたのだが、まるで湾岸戦争のそれとは異なっていた。良く知っているニューヨーク、よく知っているワールド・トレードセンターに、よく知っているボーイング767、757旅客機が体当たりして、映像なのに全てが生々しかった。
 超高層ビルが主舞台になった映画の代表作はタワーリング・インフェルノそしてダイハード1等がある。古き良き時代ではフランク・ロイド・ライトをイメージさせるゲ−リ−・ク−パーの摩天楼があった。それらは良く出来た物語りであったが、人間と超高層ビルの物語りであった。人間が人間としてまだ描かれていた。今度のテロには人間が登場しない。ラディンというスーパーテロリストのグループの仕業らしいが、それも影に隠れている。突込んでいった旅客機も旅客機の形をしているが、それはニューヨークという巨大都市と比較して見てしまうので、その内に多くの人間が居るとは切実に感じられない。私はトマホークミサイルを実見した事がないが、TVの映像でワールド・トレード・センターをブチ抜いて破裂するボーイング767は、ミサイルのようにしか見えなかった。そのミサイルの中に六〇数名の人間が居た、生々しさはTVの映像からは伝わって来なかった。しかしながらその映像は異様に生々しかった。コンピューターゲームの類のそらぞらしさとは異る世界があった。
 これは都市と砂漠の戦争なのだ。
 その間にヒューマンな、つまり近代的な人間的スケールは介在し得ない。都市というイデオロギーと砂漠というイデオロギーが衝突している。
 今の段階で(事件当日から三日目)犯人をイスラム原理主義者グループであると決めつけるのは早計であろうが、映像から受ける印象は極めて原理的なニュアンスがある。標的に都市と国家のシンボルが選ばれているからだ。資本主義市場のシンボル・ワールド・トレード・センターとアメリカ合衆国の国家権力のシンボル・ペンタゴンである。
 このテロは二十一世紀そのものの基本的性格を暗示しているような気がする。ブッシュ大統領のTV映像は説得力が無かった。アメリカは国家の威信をかけて報服するのだろうが、それは原理によって超高層ビルに突込むという観念に対抗できるのだろうか。二一世紀は民族間戦争の時代だと予測する人もいるが、より端的には宗教(イデオロギー)戦争の様相を帯びてくるのではないか。まだうまく言えないけれど、それはキリスト教とイスラム教の戦いという枠をすでに超えて、都市という宗教的観念と砂漠が生み出す観念との戦いなのではないか。

 九月八日 土曜日
 聖徳寺のアイデアがようやく出現してきた。屋根の一部が参道からのラインと合体して、長い花畑になるというモノ。墓地の花畑と屋根の花畑が一体となれば、死にゆく人々へのいささかのなぐさめになるだろう。 

 九月七日
 朝九時渡辺さん夫妻世田谷に。杉並の家について打合わせ。お二人共に自分の世界を持っていて良く意見を述べてくれるので面白い。大体要求は現段階では出尽くしたと思われるので構法のデザインに進んでゆく。スタイルは大方世田谷村の感じで良いのかも知れない。クライアントをあなどってはいけない。彼等は一瞬のうちに世田谷村の価値を見抜いている様子がある。これまでの私はどちらかと言えば、クライアントをリードしてきた。そうせざるを得ない感じがあったのだが、渡辺夫妻と対面していると、私の立場と、彼らの立場が完全に平等になっている風がある。これは良い事だが、私の今までのやり方の修正を本格的に考えなければいけない。彼等が本当に何を求めているのかを二ヶ月くらいで知る必要がある。
 子供たちにも会う必要がある。
 奥さんは台所を自分で作る。亭主はヘイとデッキと床貼り、子供三人は子供のコーナーをつくる。それを私のスタッフが補助する。子供の参加が重要だ。小中学生の頃に家づくりに参加するという体験はどれ程に、子供の想像力を刺激するか計り知れない。
 渡辺さんの家の現場では「子供家づくり教室」を実現しよう。土、日は一家で家づくり、なのだ。
 あの年代で家を作れるのは珍しいのだろうが、家作りには一番良い年代ではないかとも思う。私の世田谷村はもう、少し遅きに失した嫌いがある。子供が年を取り過ぎていて、家作りに参加できなかった。小中学生の頃だったらと思う。ともあれ、渡辺さんの家作りを家族による家作りの第一号とする。
 聖徳寺計画、松崎町森文再生計画、α社長若松社屋計画、それぞれ打合わせ。
 ようやく夏のワークショップの疲れが抜けてきた様な気もするが、油断大敵だ。夜、高木、松井両君が結婚します、のアイサツに来てくれたが、地下室での宴会はほどほどにしてアトは若い諸君に任せて引上げた。

 九月六日
 研究室は千客万来。  夕方、新宿でオゾン館長若宮氏、川島氏と会い、十一月六日からのA3ワークショップTOKYOの打合わせ。
 夜、東北から佐々木所長、高橋工業社長上京。世田谷で色々現場の悩みを聞く。もうすでにゼネコンには面白く、好奇心に溢れた仕事をする意欲も、人材も居なくなったという事を目の当りにしているってコト。
 佐々木・高橋とは運よく巡り会ったのだが、この運も放っておけば散ってしまう。たいした事は出来そうにないが、アトリエ海の成長には何がしかの事をしたい。  ゼネコン以外の建設方法を探る一つの方法だろう。

 九月五日
GA杉田インタビュー。星の子愛児園について話す。杉田が聞き上手になっていて、こちらも思はず、あらぬ事を口走ってしまった。どうも杉田は生(せい)のデザインというような事を考えているようで、モダーン・リヴァイヴァルは死のデザインだと規定しているような気配があった。その当りを突込まれたが、良く解らなかったので笑ってごまかした。しかし、若い編集者で俺を手こずらせる奴が出てきたなと実感した。杉田の良いところはいつも真正面から来ることだ。変に斜に構えたり、いささかの遊びも無いところが良い。若さの才気換発なんてアッという間に消えてゆくのだから、正面からくるのが一番なのだ。しかし、アイツ何を考えているのか、いささかの好奇心が湧く。

 九月四日
 今日まで世田谷村で休み。
 十一月のワークショップ各先生方に講議の依頼。鈴木、安藤、松村、難波、各先生の了解を得る。眼に余る甘え振りは自覚しているのだが、彼等が居ないと事は動かない。郊外住宅が近代そのものの成果であったということを踏まえて、脱近代の情報の過剰をベースにした、サヴォワ邸とは異なるタイプの「都市内住宅」をテーマに、それを具体化してゆく事を目標とする、機関誌が必要だ。鈴木博之編集長で創刊したい。
 夜、山本夏彦さんの了解を得る。
 山本さんは毛綱を惜しんで下さっていて、私の、三五才の毛綱は天才だったというのに同意してくれた。死んだ人間は誰かが彼を記憶しているうちは生きている。
 幽迷界を生きる山本夏彦翁がその典型だ。この人は生きているのに、すでに死んでいる人だと自分で言う。言い張る。しかも最近は声まで何故か幽界の響きを帯びてきたようで、電話からもれ出てくるのは人間の声とも思えぬ雷公のいかづちか、あるいは不動明王の雄たけびとも思える音なんである。これ迄おなじみの山本翁のブツブツとくぐもる陰々滅々とした声が、雷公の声程に異常に大きくなっている。ガラガラゴロゴロした声に成長しているのだ。驚くべきエネルギーである。編集長になって毎月〆に、追われてヘトヘトだが、毎号一〇〇〇部づつ売り上げをのばすのだと、ゴロゴロ声で宣言していた。不気味である、尋常ではない。「まあ、アンタのたのみじゃ断れないよ。」と言って下さって、十一月九日六時三〇分からの山本夏彦のレクチャーが決まった。
 この幽迷界の快人は六〇才を過ぎて天才になった珍らしい人なのだ。

 ところで山本さんは今、何才になったのだろう。八〇才はとおに超えたと知っているが、まさに明るいお化けだ。

 九月三日のつづき
 しかし、通夜の席で聞いたことだが、毛綱は五年前からガンで、しかもそれを本人が知っていたのだと言う。家族にも、母親にも知らせるなと言っていたらしい。
 私が深大寺で最期に会った毛綱は、だから自分で自分の行末を知っていた毛綱だったのだ。精彩が無いどころじゃなかった。しかも幸福そうだった家族はそれを知らなかった。俺の眼はフシ穴であった。

 九月三日
 朝刊に毛綱の死亡記事が小さくでていた。あっけないものだ。

 九月二日
 昨夜帰京。早速屋上に上る。雑草が予想以上に繁茂して野菜は埋もれがちになっていた。植物の生命力は凄いものだ。が、この生命力は大地から切り離された空中で発露されているわけで、いわば人工の土地をベースにしている。大地と言っても地球の断面図で考えれば土はほんの表皮一枚程度のものなのをおもった。
 今朝再び屋上に上る。朝の光の中で見る菜園は繁茂したという状態をすでに通り越して荒廃した感じにさえなっていた。過剰さは不気味なだけだ。人の手が入らぬ自然の過剰さは危い。マアしかし小さな屋上菜園の荒廃過剰からそんな事考えちまう私って者も馬鹿なんだね。しかし、たった二週間の不在で、こんなに植物が育ってしまうとは、子供の頃の原っぱの驚きと同じ様な驚きだった。

 二階で、久し振りにくつろいでいたら、藤塚光政から電話があった。八時くらいか。毛綱モン太が今朝死んだと言うのだ。仰天を通り越して、一瞬時間が氷りついた。

 毛綱と最期に会ったのは数年前の正月、深大寺のソバ屋で偶然にだった。黒い中原中也を想わせるようなマントを着て、しかし、それだけがいかにも毛綱らしい、なんと言うか周囲とは慣じまぬ、孤絶感があった。家族と一緒だった。幸せそうにしていたが、普通の親父を演じている毛綱を見て少し悲しかった。天才がこんなことしちゃだめなんだとすぐに思った。私が知っている三〇そこそこの天才毛綱はそこには居なかった。思い起せば私の方も家族づれだったのだから、「イヨイヨ、ギャング振りが板に付いてきたな」と私を相変らず、からかう毛綱の方も、こんなところで家族とソバ喰うお前は見たくネェと思っていたのかも知れない。精彩が無かった。
 最近の毛綱は精彩が無かった。
 私が知っている毛綱はキラキラとまぶしく輝やく者だった、才能というモノがあるとしたら間違いなくこんなモノなんだろうと、私は毛綱に会う度に感じさせられていた。私の二〇代後半のほとんどはこの男との附き合いが全てであった。
 「反住器」はそのまま「反近代」の旗印でもあった。私の二〇代三〇代はこの男の背中を眺めながら走ることに終止した。しかし、途中で私は追う事を止めた。東洋的シンボリズム、具体的には真言密教のマンダラをイコンとして建築を構築しようとする毛綱の造形力の凄惨なエネルギーに、とても私の微々たる小才は追いつかぬ事を内心知っていったからだ。私は本来の私に戻った。
 北国のゆうつと名付けられたプロジェクトがあって、毛綱の、天才にありがちな深いメランコリーを良く表わしていた。密教への深い傾倒は直観的に南海の深いブルーのエロスを想わせるが、毛綱の天才はそれをも裏切った。毛綱は南海のエロスを北国のメランコリーに移動させたのだ。釧路市立博物館、湿原展示館等、釧路での幾つかの建築が毛綱の絶頂期の建築であった。天才特有の資質を持って、毛綱はそれ等を若い時に成し遂げてしまった。あまりにも強いシンボリズムは強烈に光り輝やくが命も短かった。短くしてしまったのは戦後五〇年、徹底的にアメリカ化を自己推進してきた、ニセアメリカの居留地としての日本という悪場所だ。毛綱の鮮烈な才能、北国のゆううつは余りにも鮮烈であったが故に、押しつぶされ、踏みつぶされた。
 しかし、何といっても毛綱が毛綱である由縁は「反住器」だ。反住器によって毛綱は死ぬことがない。毛綱の、天才に特有な早熟振りを示して、余りあるこの住宅は、日本の小住宅がほとんど初めて世界の建築になって、しかも先頭を走っていた、稀有な一点である。
 毛綱は無念だったろうと憶測する。
 一時代を余りに短かったけれど画し、光り過ぎて続かず、最近はモダーン・リヴァイヴァルの群ばかりだ。私は毛綱に出会ったお陰で才能とは何かを知った。天才はやはり何処かに居るのだと知った。
 モダーン・リヴァイヴァルは歴史的必然なくしておきている。凡才の群によって後戻りさせられている。毛綱はそれを知っていただろう。「今に、バチ当たるぞ」と怒りを込めてつぶやいていた。雑魚の群、イワシの群の慣れ合いでモダーン・リヴァイヴァルは引きずられている。
 若い頃の真の友人だった毛綱の死は、私にとっても他人ごとではない。一日一日を大事に、しかも効率良く生きなければならない。無駄が無駄のママなのだ今は。私の特色は膨大な無駄だ。その大きな無駄をタダの無駄に終わらせぬ方法が必要で、その必要は切迫している。チョッとつかみかかってはいるのだけれど。
 毛綱が戦線から抜けてしまった。だんだん人数が減っていく。

 午後、佐藤健の家に行く。佐藤健も体調を崩し、十月には手術だと言う。何と言う事だ。「阿弥陀の道」探検隊構想を聞く。龍谷大学、仏教伝導協会と毎日新聞社の共同プロジェクトでタクラマカン砂漠を中心に天山南道、天山北道を巡り、西安、敦煌、樓蘭、クチャ、カシガル、ヤルカンド等を巡る計画で、インド、ペルシャも視野に入れた大計画だ。
 原始仏教、大乗仏教をアショカ大王以前、以後と明快に説いて教えてくれた。年内は、この人物について仏教の勉強をする。岩波ジュニア新書 世界の宗教、日本の宗教、新潮文庫 日本仏教史、岩波新書 仏教入門、平凡社 キリスト教その本質とあらわれ、新潮選書 仏教とキリスト教、世界宗教事典、東京大学出版会 宗教学辞典、以上八冊渡される。一週間で読破できるか。ジュニア新書は中学生向けだから、読めるだろうが、十年早く始めていれば良かった。
 「世界の宗教」から読み始める。

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