石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
8月の世田谷村日記

 七月三十一日
 朝、久し振りに地下でゆっくり紅茶を飲んでいたら、すっかり十時の大学への来客の予定を忘れてしまった。十一時あわてて研究室へ、渡辺夫妻が辛抱強く待っていて下さった。まことに面目ない。
 杉並善福寺に家を建てたいのだと言う。黒テントの関係者らしく、人脈もだぶっていて、ちこくもしたしこれは断れない。八月、佐賀行前にプレゼンテーションできたらと思う。キッチンが作業部屋のようなというのと、子供三人夫婦二人の仕事部屋が欲しいと言うのがユニークだった。劇団の楽屋のようなと言うのを聞くと現場感覚が好きなんだろうと思う。

 七月三〇日
 午後、二川幸夫伊東豊雄両氏来宅。夕方GAにて対談。伊東豊雄の「表現が消えている。久し振りに石山らしい建築。でも部分部分に趣味的なところがある」二川幸夫「精度に問題がある。」と言う批評をいただいた。
 「ここしばらくは芸術家としての表現活動であった。」という伊東さんの評は正しい。この人の分析力はつねに正常に働いている。本来なら未完の状態で見てもらうのは失礼だと思ったが、二川幸夫の今しかないの直観にゆだねた。伊東さんもこんなボロボロ状態で見せやがってと思ったに違いないが、そこはゆとりで大人の批評をしてくれたように思う。

 七月二八日
 朝、五時過に眼ざめるクセがついてしまった。下の古いボロ小屋で眠って、上の新しい家に上ってゆく生活が続いている。古い家と新しい家が積層状態であるので、上手く言えぬがまだこの状態から足を抜け切れない。家族は皆下で寝るのを好んでいる。長男次女が時々上で休み、寝ている様だが、それはあくまでキャンプ状態であって、生活と呼べるような代物ではない。どうやら人間は皆身の廻りの環境に対しては異常に保守的な動物であるらしい事はここでも又、再認識された。自分の家を建ててみてわかったことの一つに予想以上に身の廻りの環境に左右される自分がいると言うことだった。建築設計という仕事は生理学的視点から組み直す必要がある。が、それは私の役割ではない。もう十年若かったらギリギリやれただろうに。失ってしまった年月を今はただただ冷徹に眺めて、できればそのことを誰かに伝えたい。
 朝七時十五分、眠くなったので仮眠。

 七月二七日
 天候悪く写真撮影は今日も休み。夜半にかけて台風が来るようだ。屋上の樹や野菜が心配である。若い人達の危険に対する本能的な直観力が著しく減退しているのを感じる。全ての対応が模型感覚でペラペラだ。構造的鈍感さやトンチンカン振りは全てそこからやってくる。コンピューターによる映像技術の進化はその事にますます拍車をかけるだろう。映像は決して人間に危害を加えない。自然は時に荒々しい裸の暴力として現実化する。台風、地震などの危険は生々しくリアルなものだ。しかも必らずやってくる。必らずやってくる危険に対しての本能が用意されていない。
 ヒモの結び方や、他愛ない自然との附合い方の数々は皆両親が教えてくれた。私の両親は勿論、戦中派で父親は中国大陸で兵士として働いた。子供の頃、父親と銭湯にゆくと父の背中に沢山の傷跡があってそれが人の眼を引いていたのを覚えている。父は戦争で破傷風になっていてその手術の跡なのだった。その荒々しい傷跡は何かを私に教えてくれたような気がする。父は戦争のことは多く語らなかった。余程のコトがあったのだろうと思う。それでも背中の傷跡が荒々しい戦争の現実を私に教えてくれたように思う。裸足で原っぱを駆け廻って、ガラス片で足を切ったりすると、母親が眼の色を変えて心配してくれたのは、父の事があったからだろう。戦争に関する私の本能的な拒否感覚はそうやって生まれ育てられた。抽象的な思考や映像にルーツがあるわけではない。
 歴史学は考えてみればその様な残された具体物から様々に想像力を働かせて少し昔の事実を推測することだろう。瓦のカケラ一つから古代の建築の全体を知ろうとすることであり、これは恐竜の骨や歯の一部からその全体が想像されている現象に等しい。
 健忘症が現代病の特産物である原因は一つにその様な歴史を模索するカケラさえも打ち砕かれて粒子状になっていいる事ではないか。全ての物質は原子記号に還元されるわけだが、その還元された原子記号によって現象が再構成されようとしている。電子によって現実の物体をなぞろうとする事が時代の潮流としてあるが、それには一定の枠が必要である。危険に対する感覚の消失はそれを物語っている。この事はもう少し考えてみる必要がある。

 七月二六日
 昨日より、 世田谷村GA取材。
 今日、午前中ほぼ写真に耐えられる状態に仕上げる。素人ばかりでよく仕上げた。
 昨日久し振りに雨が降る。乾き切った土に雨がしみ込んで、土ぼこりをあげるのを見た。昔、子供のころ吉井川沿いの母の故郷で毎夏この土ぼこりの匂いをかいでいたのを思い出した。三階の寝室に父親が使っていた机をあげて使い始めた。

 七月十九日
  世田谷村狂奏曲はつづく。職人のような仕事をさせているうちに、性格が見る見るうちに変って大人になってくれた奴がいる。全く鈍いままの無表情状態が続いている者もいる。最近つくづく痛感するのだが無表情状態には何種類かのタイプがあって、自己防衛型の者と、ただただに鈍い奴、それと自分が表現できぬ奴の三種類に分別できる。
 自己防衛型の人間にも何種類かがある。得体の知れぬ自意識を持っていて、それから自由になれぬ人間。自分は少し特別だと言う誤解に基づく者。次に単にコミュニケーションが下手なだけの奴。この一連の能面現象は少し危険だ。早晩そのお面は壊れるしかないからだ。。鈍い奴は何を言っても無反応だ。お前は鈍い、石ころだと言ってもキョトンとしてまわりを見廻している。自分のことでは無いのじゃないかのポーズだけが残る。ただただ差別化されることを恐れて、いるだけの奴。この能面現象、仮面現象は特殊なモノではなくもうすでに一般的なものになっているのじゃないか。誰もが多からず、少なからずそんな仮面をかぶっているのだが、少し昔までは時にその仮面劇をする自分を笑ってみせる演技力があった。その演技力を私達はそこはかとない個性として、あるいは個人の特別な性格として楽しんできたのである。しかしその仮面から演技力が抜け落ちたとしたら、地のママに仮面と実体が一体化してしまったとすれば、そこには何の実質もない。仮面と思えば実体であると逃げる。実体だなと思えば仮面ですと逃げる。ずーっと逃げ続けるという本性が浮かび上がってくるだけだ。逃げ続けられるわけがない。

 七月十八日
  世田谷村の工事もだいぶ進んで、ようやく先が見えてきた。スタッフ、院生の作業でいわゆる仕上げ工事をすすめた。
 二〇代にネジ式と呼んで直観的に始めた事が今に続いている。長野愛知県境に作った治部坂キャビン、渥美二連ドーム、卵形ドームそして菅平の開拓者の家。著作としては「バラック浄土」「秋葉原感覚で住宅を考える」で考えていた事がようやくある程度の形になって出来上った。
 今になって理解できるのだが、この建築(のようなモノ)の一番大切なことは未完成であり続けることだ。私もそれを望んでいるし、家族同居人達の最近の言動を見ていると、どうやらそうならざるを得ないだろう。  暮してゆくこと、生きてゆくことは常に身のまわりに空間を作ってゆくことだ。その空間は今の様な時代では情報空間として把握されたり、昔は視覚的な空間としてだけ考えられてきた。眼に見える空間ばかりが空間の全てではないことの認識は最近のことだ。
 先日鈴木博之と話していたら彼が面白いことを言っていた。
「ケイタイで話している人間はそこに居るようでいて居ない。だから都市のいたるところにプカプカと穴が開いていて、その穴が閉じたり開いたりしている。つまり点滅している。それが今の都市空間であって、我々がそこに在ると思っている空間の実体は実はボコボコに穴が開いているのだ。」
 なるほどそうなんだ。
 空間は侵蝕されている。  居ながらにして居ない。実体が実体でなくなる。神戸の酒鬼バラ少年言うところの透明な存在としての僕、はすでに日常的に漫延していると言はねばならない。
 世田谷村で試みているのは、部分の作り方を変えることで、全体をゆるやかに解放してゆこうとする試みだ。私という主体によって細部という細部が知り抜かれている。そのことで何が変るか、あるいは変った関係が出現するのかの実験である。知り抜かれている細部の集積としての全体が在る。
 身の廻りの空間をできるだけ自分の手でつくろうとする事は、すなわち知覚できるテリトリーをできるだけ拡張してゆこうとする事だ。わたしの身の廻りの空間はわからないモノの巨大な集合である。都市も住居も総体としては迷宮になっている。その迷宮を迷宮にしたままではいけない。先ずは一番身近である筈の住居から、わかる状態の空間へと作り直してゆく必要があるだろう。

 七月十六日
 十四日は藤森照信学会作品賞の祝賀会だった。司会役をおおせつかった。祝辞は磯崎新丸谷才一赤瀬川原平鈴木博之、安藤忠男細川元首相。会場は三井開東閣。落ち着いた良い会だった。
 二次会は東京飯店を磯崎さんにとってもらい、十名程で、路上観察学会グループと建築家グループが丁度半々で、源平合戦の趣きあり。これで友人達の各種受賞は一段落した。

 七月十三日
 猛暑続く。朝七時より屋根に上り、野菜に水をやる。ビートルズにフールオンザヒルの唄があったが、私の場合はフールオンザルーフだな。
 グレープフルーツの樹が強風で倒れたので、その修繕をしたり、月見夢を助けおこしたりで、何だか良い人間になったようでまことに面目ない。秋に収穫できる晩まきのキューリの芽がでていて、この部分は鉄板の熱がぢかに伝わり易い部分なので水を絶やさないようにしなくてはならない。屋根の上の人型フレームもできたので、カラス防護のネットを張らなくては。すでにトマトの一部とピーマンがやられている。
 朝八時三〇分朝食。十時大学。今日は大学院の最終講議だが、何故だか気分がのらない。聴いている学生の体温が低いのが伝わってくるからだ。

 七月十二日
 松崎町の倉の件で佐藤健に電話したら、彼の「阿弥陀の道」プロジェクトに参加するように言はれた。秋に二週間程、タクラマカン砂漠、敦煌に旅することになりそうだ。

 七月十一日
 夕方より建築会館にて「批評と理論」小委員会の連続シンポジューム。第5回はブルーノタウトと桂離宮。杉本俊多、藤岡洋保、岡崎乾二朗、進行役、磯崎新、石山修武、何とか5回目まで辿り着いたが、相変らず会場はほぼ満員で、しかも淡々として満員なのである。焦点を結ぶことの無い時代の過し方としては二つの方法しかない。無理矢理に、いささかの強引さをもって主題を仮定し、その主題の有効性を演技してみせる方法。次に何も仮定せずにそんな時代が通り過ぎるのを待つ方法。
 「批評と理論」は本来主題の消えてゆく時代に消滅すること自体を主題にしようとする意図があるように思えるが、会場の淡々とした満員振りを観察するに、そのこと自体が一種の教養としてとらえられているような気がする。
 建築は存続するだろうが、その存続するであろう建築の中には「近代建築」は入っていない様な気がする。ブルーノタウトを考えて、教養主義に落ち入らぬには その消滅の予感をもっと生々しく露出させなくてはならぬのだが、それには会場の淡々とした遠まきの関心が邪魔なのだ。

 七月十日 つづき
 午後、日本フィンランドデザイン協会会合。出版、展覧会共に金集めが先決であろう。「静けさ」を主題とする展覧会を二〇〇三年にTOKYOで開催しなくてはならぬのだが、仏教関係の諸団体をスポンサーとして考えるのも面白いのではないか。

 七月十日 (火)
 北海道ヘレンケラー記念塔、来週全て完成するとの報入る。 世田谷村、ヘレンケラーと期せずして二物件が完成する事になった。

 七月九日 月
 星の子愛児園地鎮祭。明日から世田谷村工事がまとめの段階に入り、それの準備で忙しい。決めなくてはならなぬ事が山積されている。

 七月七日 (土)
 昨日、唐桑町長になった佐藤和則がやってきて、久し振りに飲む。一九八八年の唐桑臨海劇場からの付合いだから、もう十二年になるけれど、全然変らない人だ。唐桑での試みも今もっと鮮明に行う事が出来れば生き返らせることができるのだが・・・・・。
 支援センターのDMをホームページに代えて再出発させる第一号は唐桑ものがたりにしようかと考えている。
 今日は朝五時に起きてしまい、屋上に上った。野菜に水をやり、ボーッとして過す。午後、プラムの木を鉢から屋上に上げる。カロライン・ジャスミンの鉢を代えた。
 学生がカーテンの生地(木綿)にカキ渋を塗ってくれて、上手くゆけば良いのだが。階段、台所の大理石とどく。中村船具の手スリの部品とどく。
 家のコト、すこしばかり眼に見えてすすむ。

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