石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
12月の世田谷村日記
 十一月三〇日
 朝ゆっくり世田谷ですごす。最近あまり本を読んでいないことに気付く。本を手にしてもページをすすめてゆく粘着力がない。頭が弱くなったのかと思うが、どうもそれだけではないようだ。中途半端な読書は害はあっても益がない。三、四冊パラパラ読んでも身につかぬが、三、四〇冊読み続けてゆくと少しづつ身についてくるのがわかる。スポーツのトレーニングと同じことだ。頭脳にも反復練習をほどこさなくてはならないらしい。アト、気持の問題があるな。好きなコトは吸収するのが速いが、関心の薄いモノは体が受けつけない。来年は日経新聞の半年間の連載が始まるので、ソロソロウォーミングアップしておいた方が良さそうだ。
 今日は昼過ぎに大学へ、NHK取材ロケ最終日。そのアト宮城県まで行く気力があるか、どうか。新幹線の片道ニ時間半に本を読めたり、スケッチできるのは魅力なんだが。朝は、星の子愛児園の遊具、家具のミーティングをしなくては。
 朝のミーティングはいつも通り、何でこの人達は考えを展開させるのにこんなにモタモタしなけりゃならんのかと、あきれ返るがマア辛抱辛抱。遊具なんて一番面白い筈なんだがなあ。月曜までの作業の指示をかなり具体的にした。昼過ぎからのロケは時間に追われながらのものだったが、最後新大久保駅裏の雑居街を歩くというシーンでおわり。そのまま駅から電車に乗って東京駅へ。NHKTVのスタッフとはたった三日間のお附合であったが、面白かった。世田谷村オリジナルの椅子をインターネットに流し始めたが、もう注文があったそうで、まさに情報の時代だな、を実感する。
 十五時十六分の東北新幹線でくりこま高原へ。

 十一月二九日
 朝六時起床。温泉へ。誰も来ていないだろうと思っていたら、沢山な人だった。みんなおじいさんばっかり。おじいさんはみんな早起きなんだなあと他人事のように考えていたら、早起きして温泉につかってデレーンとしている私がそこにいた。体だけは確実に老いているが、気持がそれについていかない。しかし、おじいさんの多くは腹まきしたり、もも引きはいたり、今はズボン下というのかね、皆下着を多く身につけている。体温の維持が大変になるのかなあ。俺も体が冷えるようになったら本格的な老人という事か。
 今日も快晴である。太陽の光が指してくると嬉しくなるという単純さは何なのか。太陽神信仰の古代神道をあながち馬鹿に出来ないのだ。色んな単純さを馬鹿にし過ぎてきたのが今の日本社会の体たらくを生んだ元凶の一つか。祈るとか、手を合わせる、うやまう、という感情の元は何なんだろうと思う。そう言えば、一昨日だったか、淡路島の山田脩二に電話したら、珍しくカゼ声で元気が無かった。来年春のワークショップには山田脩二に来てもらおうと決めた。脩ちゃんの路線が今の時代にはベストではなくともベターなのだ。
 今日は朝九時にロケ出発だと言っていたな。一ノ関べーシーの菅原正二は元気でやっているだろうか。三〇日宮城県のリアス会に出るようだったらべーシーに寄ってみようかと思う。
 昼前ロケの合間をぬって安良里のハンマの土地を見にゆく。陽当りの良いイイ土地だった。ハンマの父親母親タマちゃんにも会えた。結局ロケは岩地、石部集落まで廻って夕方四時過ぎまでかかった。夜七時三〇分頃世田谷に帰る。
 岩地集落のエネルギーファーム計画何とか具体化してみたい。

 十一月二八日
 昨日は渡辺さんとの契約。日本学術会議生活環境設計シンポジウム。今日から三日間NHKTV取材。室内十二月号が送られてきて、仰天。私のニヤついた顔をはじめ、家族研究室スタッフの面々が皆笑っているのが表紙になっていた。普段笑わぬ人間まで笑っているので何かの記念にはなるだろう。
 十時NHK取材チーム来宅。インタビューは山根さん。TVは本当に重労働だ。三日間とりづめに撮って三〇分番組だからね。しかしながらTV番組の製作クルーというか、少数構成のメンバーの活力にはいつも驚かされる。この活力の源はなんだろうか。短時間で色んな事を決め続けてゆかなければならぬプレッシャーがそうさせるのか、現代の力の最前線だからなのか。夕方四時過ぎまで撮影とインタビュー。松崎へ向けてBOXタイプの車にスタッフと同乗して出発。こんな風に現場の連中と一緒に動くのは決して嫌いじゃない。八時過ぎ松崎着。森さん、ハンマ、トシちゃん、小林君、昔なじみの友達が迎えてくれる。ハンマ、トシちゃんと会うのは久し振りで、嬉しい。ハンマが何やら相談があると言うので、何だ何だと思ったら、家を建てる相談に乗れとの事。前から時々出ていた話だったが、奥さんのタマちゃんが俺に依頼するのを恐がっているのだと言う。我家が出ている雑誌を見てさらにその恐怖に加速がついてしまったのだと言う。でもねハンマよ西伊豆に残り少ない漁船の船長稼業のお前の家は俺が作らんで誰が作るのかと、ハンマの家は俺が作ってやるのだ。
 しかし、ハンマの奴、自分ですでに色々考えているらしく、平面図などを何枚も俺に押しつけてよこした。しかし安良里の快漁師ハンマの自邸は考えるに面白そうだ。考えてみれば森さん、小林、トシちゃん全てまだ自分の家建ててない。皆、俺が作ってやらなければならないのだ。この宿命からは誰も逃れられないのである。町営サンセット・ヒルいつもの宿直室二〇一号室で休む。

 十一月二六日
 昨日は松崎町長選挙。朝、役場の森さんよりFAX。前議長職の深沢氏当選。石田氏僅差。現職森氏は最下位であった。松崎町のまちづくりの仕事はどうなってゆくことやら、町長しだいで大きく変るからなア。
 世田谷村オリジナル・チェアーは「セロリ」と名付けて十二月十七日に発売することにした。第一回配付は四〇脚。

 十一月二五日 日曜日
 快晴、朝椅子の学習。昼、富士嶺聖徳寺へ。杭打ちの筈が現地の手配が間に合わず、又も何が何だかわからぬ現場行になってしまった。スタッフをゆらり温泉につからせに行ったようなもんだ。富士山は雪をかむり実に雄大であった。が、富士山を間近に眺めるとヒマラヤを想い出してしまう。K2やアンナプルナを間近に仰いだ時の驚きは富士山をささやかな地ブクレだと知らしめてしまう。大きさに対する感動は建築にもある。デッカイ建築をやってない。建築のデカサに対する感受性を失くさないようにしなくては。デッカサは力だ。
 夜七時半東京に戻る。宗柳で食事。

 十一月二四日 土曜日
 三連休だが昨日は家で休んだ。今日は又動いた。朝横須賀へ。午後西調布。
 世田谷村オリジナルのアルミ椅子の写真が出来てきた。三六枚撮って、オッと思えるのは三ショットだけだ。この世田谷の始めての椅子が何より良いのは軽い事。アールトの木の椅子よりも軽いんだ。足許のゴムガスケットの部品も安藤が工夫して何とかなりそうだ。高橋工業の溶接精度が上げられる見込みがつけば、発売できるだろう。十二月中旬には間に合わせたい。
 明日は聖徳寺現場。百基程の墓のデザインもまとまりそうだし、何だかようやく気合が入ってきた。
 星の子愛児園の現場は二階まで鉄が組み上がった。年内に三階の鯨が上がるかどうか。十二月二七日の上棟式の日程だけ決まっている。月曜日の午後は明治通りのコンヴァージョン計画の具体化について野村に指示しなくてはいけない。いけない、いけないの連続だ。
 日記をメモしながらつくづく感じるのは、又も仕事人間に振り子が戻ってしまってるって事。こんなにあわただしい日々を送っていてはいけない。もっと普通の人間との附合いをキチンとしなくちゃいけない。俺のまわりは変人ばかりだ。それで俺も変になってしまってる。そうとうに変なんだ、この事態は。変は変で筋を通すのも生き方だろうが。

 十一月二三日
 昼、レウ・ベレズニッキ、佐賀新聞梅木氏来宅。レウは私のところに2年程いたウクライナ生れのカナダ人で、生来の漂流人間だ。今はアメリカのミネアポリスで働いているという。上海のイ・フェイ・チャンと電話で話す。サンパウロ大学のマリア・セシリアから来年六月にブラジルに来いとの手紙が来た。どうしようかな。妙に浮いた一日であった。

 十一月二二日
 昨夜は大阪でコンヴァージョン委員会ミーティング。午後東京へ戻る。夕方赤坂で鈴木・原口氏と会食。沖縄行のスケジュールを決める。

 十一月二〇日
 朝から地下室で沢山のスケッチ。スタッフに渡す。夕方、聖徳寺アイデア出現する。これでゆく。霊園と呼応して凄みがあるぜコレワ。
 午前中高橋工業からアルミ椅子の試作品着。心配していた座り心地および安定性はOK。溶接部ディティールに問題あり、早速高橋工業へ、もう一回試作品を作ってくれるよう連絡。細かい指示をする。何とか商品になるよう努力してみよう。明日丹羽太一へホームページ用のレイアウトを考えるよう指示するつもり。今日は色んな収穫があった。良い疲れ方をした。 

 十一月十九日
 早朝三時、シシ座流星群を見る為に屋上に上る。娘とその友人と三人で鉄板の上であお向けになって見た。寒かった。今日は朝から夕方まで地下室。九州大学の宮本一夫先生から突然住宅設計の依頼。福岡のネクサスの石山棟に住んで下さっている方で、奥様からもごていねいな手紙をいただく。感動してしまうような内容であったので、喜んで引受けさせていただく事にした。私のネクサス棟で育ったという娘さんに早く会ってみたいものだ。宮本先生は考古学が御専門だし、娘さんの描いた絵や、奥様の言葉のハシバシから察するに、“地面”が、そして都市内の自然が主題なのかなと想像した。子供と一緒に家を考えてゆこうという考えも素晴らしい。まだお会いしていないが、良い依頼主であると直観する。九州研究所の野村と世田谷の安藤の組合せで進めようと思う。
 諸々のエスキスはあんまりうまく進んでいない。あまりにもエスキスしなければならぬモノが多過ぎて、集中できない。
 星の子愛児園に登場させるモンスターの一つは模型作りを指示した。スタッフに、たのむぜ、楽しんでやってくれよと祈るような気持だ。面白くやれないと仕事は上達しないんだよ。

 十一月十八日 日曜日
 二日程早稲田の学生相手の日が続いた。卒論発表会と製図講評会。70人ほどの学生相手に必死で底割れを防ごうとしているのが現状だ。皆同じようにしか見えない。抜きん出た者が居ない。あるいは異物が見当たらない。そうとしか思えない私の問題もあるのだろうが、大学という場所の不可能性を痛感する。できる事なら何とかしたい。何とかする為の糸口を呈示したいのはやまやまなんだが。やっぱり凄い建築作ってみせるしかない。世田谷村に来ていた東大の木内は今想えば出色の人材だったな。人柄心根が良かった。
 世田谷村を諸々の活動の心棒にする方針は変わりがない。今日は一日中エスキスができる。モンスターの設計に目途をつけたい。

 十一月十五日
 早朝から大学で幾つかの会議。自分自身の価値観をしっかり持たぬと何も視えてこない世の中になった。学内事情への対応も同じ。私は謂はゆる先生のアウトサイダーである事を忘れぬようにしなければ、学内政治に巻き込まれて消耗してしまう。消耗するくらいなら先生はやめた方が良い。問題意識が明快な、すなわち良い建築を作り続けて、初めて私のアイデンティティが在ることを肝に銘じる。製図採点の後、夕方、再び先生方と会議。世田谷村の仕事が気になって仕方がないが、時間が取れない。今はスタッフを信頼するしかない。

 十一月十四日
 諏訪行。スタジオボイス取材。中里和人等と。藤森の神長宮守矢史料館。何度も来ている建築なのでわざわざ足を運ばなくとも書けるのだが、気持ちを休ませてやろうと考えて取材に同行した。時々、こんな事が必要だ。夜十時帰宅。夜半二時まで寝て、ノコノコ起きて室内原稿書く。諏訪へ行く車の中で突然、武甲山を書こうと思い付いたのだが、朝五時修了。又も、〆過ぎてのすべり込みである。でも考えていた放置自転車を書くのよりは良かったように思う。室内の目ざわりデザインの連載は仲々、調子が出ないままに毎回苦しむばかりだが、もうすぐいいきっかけをつかみそうな予感がある。今はそのきっかけがつかめぬままにいるので、やたら大物を相手にお茶をにごしているが、近々、具体的に身近なモノをやる。本当に目ざわりだと考えているモノをやりだしたら、我ながら物騒だと思うよ。これ以上友人を失くしたくないし。敵は増えてもかまわないけど。

 十一月十三日
 ワークショップ最終日。西谷章、制震構造の考え方。構造の側から建築がコンピュータ制御のロボットになるという。小池一子講義。小池さんの母親の話と、その母親が残したクララ洋装スタジオの改造の話。松村秀一のイームズ邸への親近感と同じ視線を感じる。何を今視ているのかが、何を発言しているのかよりも大事な人なんだなと痛感した。
 ワークショップの収穫は他の何よりも慶応大学図書館千村君の参加と、彼の身障者としての空間の認識の仕方への考え方の深化だった。彼の考え方は開放系技術論の展開にとっても重要なものになるだろう。又、各先生方の進化振りが私をひどく励ました。停滞していてはいけない。

 十一月十二日
 朝、古谷誠章レクチャー。ワークショップを通して3度目のカルロ・スカルパ。高熱をおしての講義で申し訳なかった。一回毎に古谷のスカルパ理解が深まってゆくのを感じることができる。日本では成熟してゆくタイプの建築家は出現していないが、古谷はそれを自然に行っているようだ。六十過ぎた古谷の建築はきっと味わいの深いものになるにちがいない。
 写真が良かった。毎回同じ対象を論じながら使用するスライドが異なっている。というよりも明らかに深化している。スカルパの光の動きに対する直観、影を背景とするテクニックなどを学ばせてもらった。
 午後、佐賀県大和町町長来校。夕方、二川幸夫講義。二川氏も珍らしくカゼで熱があるらしく、それでも二川節は変りなく、皆に驚きと元気を与えてくれたように思う。開口一番。「俺は世界で一番建築を知っている。」何故かこんな科白が皆の顔をゆるませるのだ。大徳寺真珠庵が恐い空間であるとの話は初めて聞いたのと、桂離宮への評価がネガティブであるのを新鮮に聞いた。

 十一月十一日 日曜日
 九州宮崎市へ日帰り行。ここ二日は日記をメモする時間も無かった。九日は松村秀一講義。彼のレクチャーも日進月歩で少しずつ進化している。住宅を作る世界の仕組みを読み解きながら、そこに歴史観が入っているところが他の東大内田研究室の人たちにはないところだ。市場機構補完の方法という概念が今回初めて出てきた。そして松村の予測では、高度な加工能力のパーソナル化、高度な加工能力の国内余剰、そして国際流通の現実の中で世界を知ることが大事だとする。このあたりの認識は私の考えとほとんど同じなのだが、何かが大きくすれちがっているような気もする。松村は国家の枠を保持するシステムとしての産業というブットイ尾底骨を保持しているが、私は世界を生活者(消費者)を基本的な単位として、できうる限り考えようとしている。
 夜の講義は山本夏彦翁。やっぱり人気があって、会場は超満員になった。真面目と正義は困りものという持論をとかくこの世はダメと無駄の語り口で話した。会場に発生し続けた笑いの質は仲々のものだったように思う。とすればまだ見込みはあるのかね。講義のあと会食、ゆかいだったと一言。一夜を楽しんで下さっただろうか。八十五才というから怪物だな。
 十日は梅沢良三講義。G・エッフェルのマリア・ピア鉄道橋、ギャラビ鉄道橋そして、それらの統合としてのエッフェル塔を巡る講義。梅沢さんは橋をやりたくて仕方ないのが良くわかった。
 ヨルク・グライターの講義は非常に面白かった。ニューヨークをゴシック都市であるとして、ワールドトレードセンターの廃墟にゴシック聖堂を見ようとする。そしてヨーロッパモダニズムは廃墟への熱烈な関心から生み出されたとする。ピラネージの廃墟好みはピラネージのテクノロジーへの関心と表裏一体だと言う指摘もあった。日本には廃墟はない。故に日本のモダニズムとヨーロッパのそれとは全く異なるものだと言う。磯崎の有名な孵化過程のモンタージュは日本に廃墟が無いことの認識とそれに付け加えられていた橋のような絵は不在を補完する日本テクノロジーであるとも指摘した。グライターの理屈も日進月歩に進化中でスリルがある。私も停滞するわけにはいかない。
 夜の講義は宮本茂紀さん、椅子の話し。
 グライターのレクチャーは英文のレジュメを再読する必要がある。
 そして、今日十一日の宮崎行。講演会。具体の元永定正さんと会った。七九才の関西人。現代っ子ギャラリーも上手に使われていて、具体の連中の良い拠点になり始めているようで安心した。もう、ヘロヘロに疲れて夜半帰宅。現代っ子ギャラリーのデッカイ奴をやりたい。

 十一月八日
 ワークショップ三日目、藤森照信レクチャー。藤森照信は日本の近代住宅史を用意してくれたが、たっての願いで建築家藤森の建築論をお願いすることにした。最近作も含めて自作を論じてもらうことにした。建築することの祝祭性の話しが新鮮であった。鈴木博之のラスキンのレクチャーのうち労働の質、つまり喜びという話しを遠くのものとして聞いた者には、それが藤森の建築の中に不思議な形で存在することに気付いただろうか。
 千村文彦君のための各種装置を考え始める。ワークショップ参加者の身体障害者の一人だ。身体の延長としての建築の第一歩。コンピュータのキーボードをヒットするために口にくわえた棒を使っている。そのためのマウスピースや釣竿のピースを転用したワリバシ状の棒、そしてキーボードに接触するための小指の先くらいの部品、これらは彼にとっては身体の延長としての器具だ。それ等のモノを丹念にデザインしてみることを試みてみよう。何かがわかる筈だ。午後千村君のグループにショートレクチャー。サンパウロ大学でのワークショップの体験を話す。あのリオデジャネイロから来た女学生、まぶたが垂れ下がってくる病気の人のための眼鏡をデザインしていた女性はその後どんな風に仕事を展開しているのだろうか。マリア・セシリアもサンパウロ大学で相変わらず頑張っているだろうか。
 夜の講義は栄久庵憲司さん。道具と家について語っていただく。栄久庵さんの話しは西欧型の論理にのっとったものではなく、東洋の、時に仏教のニュアンスをベースにしているので、いつ聞いても新鮮だ。天井と壁と床は不自由だと断言したのが面白かった。つまり道具あっての空間だと考えているのだ。栄久庵さん流に言えば家は道具の収蔵庫だということになる。少しずつ彼の道具論がいかに建築をそして建築論を包摂しようとする意図を持つものであるかがわかってきた。ある新しい分野を作った人間の情熱の大きな形をみる思いがする。茶室は道具の容れ物だと言う指摘も面白かった。たしかに茶室は茶碗や釜や茶筅等が主役の舞台セットでもある。
 ヨルク・グライター、ドイツより到着。明朝ホテルのロビーで会う事にする。

 十一月七日
 ワークショップニ日目
 難波和彦氏講議、難波流のモダニズム論。次弟に論は精密になってゆく。箱の家シリーズを進行過程に沿いながら見続けているが、難波さんは自らが別種のハウスメーカーになっている事を自覚すべきだ。篠原一男は明らかに住宅作家であった。作家としてのスタイルを決めて、住宅は芸術であると宣言し、それを実行した。難波さんのスタイルも今のところ明らかに住宅建築家であり、そのポジションを作家性を外した技術を沿わせて、確立しようとしている。作家として芸術性を中心に表現しないと彼のスタイルを決めているから、今のところ技術が表現されていると割り切ろう。飛躍して言うが技術は現代では作家が私有することはほとんど不可能だ。ビジネスそのものであるからだ。ハウスメーカーはそれをブラックボックス化して商品としてのパッケージとして売る。難波さんはそれを「箱の家」というブランドですでに売っているのだが、設計料をとるという旧来のスタイルで難波本来の倫理性を守っているのが現状だ。つまり、旭化成の箱の家はビジネスそのもので、難波さんの箱の家はビジネスになり始めているのに旧来の建築家の論理倫理でビジネスとは別の体系を表現しようとする。
 難波さんが歴史に残るとすれば住宅設計を作家性を超えたところで新種のビジネスにするしかないのではないか。ベンチャービジネスの一つとして住宅設計を枠付け、そして設計料をいただくというシステムそのものを解体してゆくしかないのじゃないか。
 私の住宅設計も同様な問題に対面しているのはいうまでもない。
 夕方、安藤忠雄のレクチャー。
 学生の顔が皆生き生きとしている。スーパースターの役割はこれだ。広く建築を学ぼうとする人々に希望のようなものを与えてくれればそれで良い。パリのセーヌ河をサイトにしたコンペを勝ち取ったその案を見せてくれた。遂に世界の中心に辿り着いたのだという感を深めた。もう建築の良し悪しを論ずる水準ではないところに安藤はいる。
 シラク大統領の犬の名前は「すもう」というらしい。 

 十一月六日
 朝九時より新宿オゾンでA3ワークショップ。レクチャーは私の開放系技術論と鈴木博之の建築における転換点。鈴木はジョン・ラスキンの思想、特に建築の七燈をひきながら自身の史観を説いた。労働の質に関して私も今日の講義でモリスをひきながら考えていたことなので良く理解できた。建築は時間の結晶でその時間は人生の結晶でもある、それ故に建築は保存しなければならぬという論理だ。又、鈴木はモリスはラスキンが構築した理念の実践者であると位置付け、共に時代の転換期の深層を形づくったとした。
 「建築の世紀末」にはじまる鈴木の単騎独行が深く、そして広く進んでいるのを感じた。レジュメにはレクチャーよりも広く語りたかった彼のヴィジョンが示されており、その短い言葉の並べ方から憶測するに、大転換期である今の特質を、教育、建築家像、建築、人生の意味という極めて総合的な視野から考えようとしているのが良くわかった。さすがである。友人を誉めても一銭の得にもならぬが、マア五〇半端を過ぎてなお傾聴するに価するレクチャーは稀少でもあり、良い時間を持てた。参加者、聴講者はほぼ百名程度で、四〇名程のプロジェクト参加者を得た。研究室の丹羽太一も含めて、千村さんという車椅子の障害者の参加を得た。小さなチャンスである。大事にしたい。参加者各自は大半が自分で家を建てたいという意欲を持った人なのでワークショップは面白く展開できそうだ。世田谷村の活動との結節点を作れるかどうかがポイントだ。広島の木本さん今日から世田谷村泊り。聖徳寺のプロジェクトに参加してもらうつもり。
 夜、鈴木、難波両氏と新宿の台湾料理屋でビール飲んで疲れをなだめる。

 十一月五日
 開放系技術レクチャーメモ作り。明日からのA3ワークショップのためのノートを作る。

 十一月四日
 午前中井上邸見学。井上房一郎氏の孫井上健太郎氏に会う。房一郎さんのこと、その他面白い話を色々とうかがえた。田中角栄も井上房一郎のところで土建屋修業していたのだそうで、高崎観音建設現場のことなどしていたらしい。そんなこともあり新幹線高崎決定には角栄の力が働いただろうとも洩れ聞いた。そんな話を聞いているとアントニン・レイモンド設計の井上邸が生き生きしてくるのだった。レイモンドの井上邸は日本ではない。日本的なものでもない。一種のドライな合理主義が底に流れていて、それは井上房一郎氏の持っていたものではあるまいか。
 昼、そばきりで昼食。磯崎新が指定した店で、井上房一郎がそば好きで、藤岡にあった店を高崎に引越しさせたものと聞く。鈴木博之、隈研吾、中川武そして磯崎新。少々酒も入っておいしいそばをいただく。
 午後シンポジウム。超満員で立見の方が多いくらいの盛況であった。宮脇愛子さんが自身の群馬近代美術館での展覧会のオープニングで来られていた。終了後、宮脇愛子展オープニングレセプション。新幹線で帰る。

 十一月三日
 昨夜は久し振りに富永譲に会った。世田谷に帰ると日本女子大学住居学科の学生が何人かいて富永ゼミの最中だった。我家でゼミとは光栄である。次女が富永ゼミで指導いただいているので御礼方々近くのソバ屋宋柳で食事した。
 熊本アートポリスでのとんでもなっかった苦労話など聞く。皆それぞれの苦難を乗り越えているのがわかる。しかし富永はいい顔になっていたのに驚いた。難局災難は人を育てると言うが全くその通りだと。イイ酒飲んでる富永の顔を見ながら感嘆した。アートポリスのコトで五年くらい遠回りしてしまった。でもコルビュジェも戦争の時はほとんど仕事してない、休んでたんだと教えてくれた。休まないと長生きできないよ全く。私の場合は余りにも難局対面回数が多過ぎて苦労というものにマヒしてしまった感がある。イイ格好するんじゃないけど苦労を苦労と思えぬ鈍感さが身についてしまっている。苦労ブランドのパンツをはいているようなもんだ。マア冷静に考えてみれば、わざわざ難局を呼びよせている風もある。こんな事自慢したってしょうがないけどさ。
 富永は要するに品がいい。建築家は特に下品な奴や下品なオバサンが多いからその品の良さは際立っている。槙さんと近かったから、立居振舞いが似てきたんだろう。俺は逆立ちしたってああはなれないね。
 スタジオボイス十二月号に中里和人の世田谷村が掲載されていて、やっぱりGAの写真とはちがう。駐車場のヘイを中里は乗り越えて撮っていたから、南の野菜畑のネギの群が前に入って、非常に感じのイイものになっている。小屋の力を再発見した中里の眼が世田谷村にも働いたのだ。これから先も世田谷村の取材は続くだろうから、写真家の世田谷村コレクションを作ってみよう。藤塚流、中里流とかね。
 今日は夕方高崎に行く。中川武先生が地元の人たちと仕掛けているシンポジウムのため。国民文化祭の一環だと言う。どっちがついでかわからぬが前橋の元左官大将森田兼次さんと久し振りに会えるだろう。それが楽しみである。
 ツリーハウス、ヘレン・ケラー記念塔、星の子愛児園、ひろしまハウス、聖徳寺。五部作を一つのプロジェクトとして早急にまとめてみる。義手、義足の研究とこのプロジェクトは何処かで合体する筈だ。
 六時半高崎ホテルメトロポリタン。森田さんと会えた。中川武先生とも合流して群馬県の方々と会食。

 十一月二日
 朝から三名のスタッフが杉並渡辺邸の土工事監理へ。来年の三月は地下のスタッフ十五名のほとんどが各現場でモノを作っているスケジュールだから、地下は空っぽになるだろう。皆、陽焼けしてたくましくなって帰ってくる事を望む。頭脳労働も肉体労働も資本主義社会では金に換算され何の区別も無い。ある意味ではドライな効率主義が廻っている。それなのにそれが分離してしまう現実こそが問題だ。分離する現実は私達の幻想からやってくる。もちろん肉体労働ばかりでも非現実的である。自分で考えることに参加した、つまり設計した物体を、自分で作ろうとする、その一翼を担おうとする意欲の中にこそ新しい労働の質が生成する。働くこと、仕事すること遊ぶことの新しい意味が生まれる。金のためだけにもう誰も働いてはいない。ウィリアム・モリスが遠くに視ようとしたユートピアは実は今、フリータ−社会のはじまりとして現実化している。

 十一月一日
 朝九時より学科会議。学校の会議の大半は無駄なものだが、最近は様変りした。時々、キチンといなければ何が起きるかわからぬ状況がある。建築学科の将来を誤らぬようにしなければ。落し穴がボコボコ開いているのを痛感している。小事の中に大事ありの連続だ。午後世田谷に戻る。基礎工事屋さんと面談。夜渡辺夫妻と打合わせ。世田谷村オリジナルハウスでもある渡辺さんの家は鉄骨・屋根工事と基礎工事合わせて五百六十万円でまとまりそうだ。マネージメントを数えている平山がゆっくりではあるが大人になってきた。今がキチンとさせる潮時かも知れない。責任持たせて任せてみよう。渡辺さんの杉並の家は計画通りある種の住宅の原型にするつもりだ。少くとも繰り返し、注文がくるようにまとめてゆきたい。プランをフリーにしなければならないだろうな。それは、ハウスメーカーのフリープランのやり方を踏襲しなければならない。夜十一時三階に上る。
 市根井君も一人でコツコツ自邸の木軸のきざみをしているようで、色んなところに隠れて進行中の現場があるのを忘れないようにしなくては。アッという間に十月は過ぎた。時間ばかりが通り過ぎてゆく。次女の友美が岐阜で妹島和世のマルチメディアラボを日帰りで見学してきた。考えるところがあったようだ。建てたばかりの建築が使われなくなってしまうのは建築家の責任重大だが、私だって他人のことは言えない。取り壊されたものもあるし、ゴーゴーと音が聞こえるくらいの非難を浴びたこともある。妹島は初めての逆風だろうが、何とか乗り超えてゆくだろう。家族は家内・長女・次女と日本女子大の出身なので、皆妹島びいきだ。私もいつの間にかそうなっているらしい。まことに多愛ない。本当にそう思っているのだから俺も人のイイおじさんだな。我ながら馬鹿だ。馬鹿ついでに、自分の娘が建築やろうなんて思ってるのを知ったのは最近のことだが、娘は私より余程独立心だけは強そうだから、極く極く自然に建築家になるんじゃないかと思う。それが良い事なのかはともかく私は応援することもできないし、教えることもしない。基本的には無関心なのだが、娘も私のことは全く無関心みたい。そんな風に他人の事を全く気にしない風を観察していると、奴は建築家になると思う。娘と競争する位まで柔らかい状態に頭を保持してないと、娘にケタぐられる、あるいはKOされるなんて事が起きかねない。アト十五年くらいか。それまで位だったら、まだ闘っていられるだろう。

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