石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2002年1月の世田谷村日記
 十二月三一日
 朝、世田谷村に走駒、鶴と二双の掛軸をかける。片山南風の掛軸も出てきた。家内の亡くなった母の家が熊本では旧家だったので、何やらゴロゴロあったらしい。趣向という程のものではないが、少しばかり室内をデザインして何とか正月らしくなってきた。床の間のようなコーナーをいづれしつらえたい。
 来年まずしたいのはホームページのスタイルを変えること。その編集によって私の仕事の全体がもう少し視えやすくしたい。
 二〇〇二年の仕事のページを作り、今のWORKのページを除去する。二〇〇二年は
(A)WORK for マイノリティ、@ツリーハウス A十勝ヘレンケラー記念塔 B星の子愛児園 CひろしまハウスINカンボジア D聖徳寺霊園 E森の学校 これらの実現した建築、進行中の建築を一つのパースペクティブの枠で全体を構築する。現代っ子ミュージアムもこの枠に組み込んだ方が良いかも知れない。
(B)都市 @明治通りコンヴァージョン(展覧会の記録も含む) A沖縄計画
(C)保存、再生 @松崎町蔵 A伊豆森文邸再生
(D)住宅 @世田谷村の進行記録 A渡辺邸 B藤井邸 C宮本邸
(E)プロダクツ @セロリその他の家具の流通 A支援センター商品の開発と流通
(F)早稲田・バウハウス佐賀の展開と名称の変更。
(G)開放系技術論の進行
(H)作家論
(I) 連載その他諸等々の記事の取り組み。
日記から検索できるシステムも取り入れた方がよいかも知れない。
 午後プノンペンの仲根さん来宅。ひろしまハウスの今後の事など話し合う。ひろしまハウスの建設運営は一種の市民運動だ。運動を良く持続させるためには清濁合わせ呑む許容力と、それでも最低限の理念を確認し続ける事が大事だ。二〇〇一年の仕事の終わりを「ひろしまハウス」の相談ですませた事は良かった。
 夕方、正月休み(元旦だけ?)に読む本を買いにブラリと出掛けて、それで今年は暮れた。

 十二月三〇日
 カンボジアJETRO仲根さんより電話。明日午前中に何処かで会いましょうという事になる。一月六日よりプノンペンだが「ひろしまハウス」もようやくカンボジア日本人会、大使館が関心を持ってくれるようになった。この流れを逃さないようにしたい。二〇〇二年5月に上棟式のようなセレモニーをしたいと考えているのだが、それを機会にもっと世界の人々に知ってもらう方法を考えたい。今度のプノンペン行は現地で大使館、日本人会その他色んな人に会う必要があるな。十七時中央林間で近藤理事長と待ち合わせ。駅近くの森を歩く。すでに陽は落ちて暗闇だったが面白かった。一人で秩父の山に野宿した事もあったな。あの頃はセンチな少年だった。今は森の闇におののいたりはしない。きちんと鈍くなっている。この森に保育園をはじめ、様々な何かを作ってゆこうというのが近藤さんの考えだ。十八時南林間の料理屋で地主の古木さんと会食。森の学校みたいなのを考えてみようと決めた。ツリーハウスを作ったのがようやく陽の目を見る可能性がある。

 十二月二九日
 九州宮本さんの家の考え方がまとまり始めたので電話しておこうかな。待ちかねていると思うから。朝九時五〇分日暮里駅待ち合わせ。スタジオボイス取材。谷中の路地を歩いて二階建の少しくたびれた風のアパートへ。急な階段を登り、廊下を曲がり、小さな部屋に辿り着く。ムラタ有子さんを訪ねた。一人暮らしの女性画家。何も無い部屋。マイナスしている室内。この女性は感覚的に現代の日本の構造、というよりも構造のあり得ない構造のようなものを上手くとらえていると思った。大竹伸郎のファンらしいがそれを言う事のアッケラカンさが不思議だ。文章作家だったら川上弘美の感じ。当代の流行のアーティストのほとんどは怪しいのだぜ。ムラタ有子さんの部屋についてはスタジオボイス2月号を読んでいただこうか。今日は書けぬから、明日書いてみよう。生きるエネルギーを0に近づけてゆくようなライフスタイルなんだ。いかにも今風である。日本には居たくないと言うのも良かった。淡々とした部屋で淡々とした女性だった。墓地に面したアパートはつげ義春の李さん一家を思い起こすが、あの泥くさいシュールレアリズムはこのアパートにはない。生身な感じが全て脱色脱臭された風がある。何処にも臭いが無い。取材後天王台の酔庵へ。佐藤健との恒例の忘年会。千村君が来ていて勝新の兵隊やくざを見せられていた。可哀想に。今年は泊まらずに八時頃失礼した。馬鹿な事をして楽しむというのもお互い卒業したのかも知れぬ。真栄寺の馬場昭道とも会えた。佐藤健もきっと一人で本を読みたいのだろうと思ったこともある。

 十二月二八日
 屋上菜園の北側に木のサクを作った。土ぼこりが隣家に飛ばぬためのものだが、良い目隠しにもなって、菜園にいる一人の時間がより濃密なものになった。アロエやブーゲンビリヤの霜よけにもなるだろう。午後渡辺邸現場。鉄骨工事は終了していた。世田谷と同じような家なので屋上が良い。内部に壁柱がないのを最後までどう生かせるか。いよいよ来年は渡辺ファミリーとのセルフビルドが始まる。子供三人に何をやってもらうかが楽しみだね。

 十二月二七日
 午前中大学へ。熊谷組横浜支店長来室。年末のあいさつだが、ゼネコンは大変だろうと察する。しかしながら単純極る真理があって、ドン底の時に径を拓く者が次代を造る。変革期には当事者はその実感が薄い。実感などと言うものはいつも想像力がつくり出すものなんだろう。モノから作り出される、あるいは出来事状況が作り出す実感(リアリティ)などと言うモノは無い。それに対する私たちの想像力がリアリティという観念を構築している。瞬時の連続の中で。ウーム。何となく年末だ。我ながら臭いことを言ってる。昔小林秀雄が花の美しさとやらについて述べたスタイルだコレワ。年末感は不思議に人間を底の浅い哲学者風にしてしまう。私の人生も年末にならぬよう注意したい。
 GA54号が送られてきて、私のヘレンケラー記念塔が出ていた。案の定内部の写真が良かった。それはともかく、鈴木伊東が対談していて、俺のことを建築原理主義者だと決めつけている。修武ビンラディンとかオサマラン石山だとか、いいように楽しんでやがる。鈴木はポルポトで伊東は世阿弥なくせに、そんな異人達から楽しまれたくないぜ。彼らこそ巧妙きわまるセオリストなのだ。しかし時間がたっぷりあって今日はGAを隅から隅まで読んだ。建築は今、どん底である。当事者である我々はまだそれを充分に知らない。しかし氷河期にも生き抜いた種があることを肝に銘じよう。建築家は絶滅寸前の恐竜みたいなものだろう。しかし、簡単に絶滅させてはチョッピリもったいない種であることも確かなんだろうと、いささか解ってきた。簡単な希望を言う愚かさは避けねばならないが、生き延びる方策について、来年は少しばかり演じ、しゃべる必要がある様だ。書き散らした駄文が活字になって幾つか送られてきた。本当に恥ずかしい。こんな事書き散らしていては私の明日はないだろうと殊勝に反省はするのだが、多分好きなんだろう駄文を書き散らすのが。まったくどうなる事やら。
 中里和人が松浦武四郎の一畳敷の小屋を見つけてきた。簡単な資料がFAXで送られてきたのだが、一読これは面白いモノだと感服した。探検家武四郎の桁外れに知的な面を良く表している小屋だと思う。極北の小屋かも知れないコレワ。すぐにも取材に行きたいと思ったのだが、その小屋があるICUが冬休みに入ってしまって不可能との事。残念だ。松浦武四郎の人生そのもの旅=探検であったことが実に知的に表現されているもので、コレワいいぞ絶対に。年明けに必ず見よう。
 先日結婚した高木正三郎の父親高木栄三郎氏よりごていねいな便りと、いただきものが届いて、恐縮してしまう。義理固い家系なんだ。高木もゆっくり成長しているようで心配はしていないが、他人の数倍今は勉強してもらいたいと思う。チャラチャラした作品みたいなモノなんか作らなくても良い。本格的な勉強を積み重ねて欲しい。三〇代とはそういうものだ。すぐに建たなくとも良い。本格的なプロジェクトを作成して、それを本格的に自己解析する才を今のうちに育てておく必要があるのだ。誰に見せるでもない、自分の内に分厚く積み重ねておけば良いのだ。それが無い奴は必ず消えてゆくよ。

 十二月二六日
 朝七時朝食。九時チェックアウト。宜野湾市へ。市長基地施策部長課長と面談。普天間航空基地返還に伴うズケラン地区のまちづくりに関して意見交換。二〇〇二年夏のワークショップに関しても協力支援を依頼する。ズケラン地区を案内してもらう。太平洋を望むスケールの大きな土地である。土地柄に合ったスケールの事を考えなくてはならぬだろう。アジアのことをするには良い所だという感想を持った。
 午後二時過の便で東京へ。これで今年の仕事はほぼ終了だろう。世田谷に帰ったら横須賀市からインタビューの結果が来ていて、残念でしたという結果。仕方ない。次頑張ろう。しかし、あの敷地は良かったな。

 十二月二五日
 朝九時一〇分の全日空で沖縄へ。昨日、一昨日と良く休んだ。ほとんど何もせず。文庫本を一冊読んだだけ。良い二日間だった。只今高度三千五〇〇FeeT。南へ飛ぶ飛行機特有の光に溢れたブルーの中に浮いている。
 十二時過那覇空港着。昼食後ニ時半沖縄市役所へ。ワークショップIN沖縄の可能性について話し合う。五時名護近くのザ・ブセナテラスなるリゾートホテル着。いかにもなリゾートホテルで気持は一向に休まらないが、それでもテラスからの海、多分こちらは東シナ海だろう、その、いかにもな海の荒れぐあいが良ろしかった。色んな楽しみ方があるものだ。久し振りにスケッチをする。空港でセキュリティチェックに見事にひっかかった鉛筆けずり用ナイフも使ってみたい。

 十二月二十二日
 満典叔父が亡くなった。七十八才だった。元気に大言壮語して止まぬ人であったが叔父なりに自由闊達に生きた。好きな人物であった。叔父も私の事は気にかけてくれていた様で、「アイツ(私の事)は俺に似てるから」と良く言っていたらしい。たしかにホラ吹きグセは良く似ている。通夜も告別式も行けそうにないが、あの叔父だったら許してくれるだろう。十一時半新宿明治通り明和会会長花房氏と会う。明治通りコンバージョンの件。
 午後一時ひろしまハウスカンボジアツアー説明会。結局総勢三〇名の集まりになった。応募総数は五〇名だった。六十才過ぎの方が四名程いるのが気がかりだが、考えてみれば私も五七才。十九才の学生もいる。きちんとまとめてレンガ積みをやってもらうには工夫がいる。プノンペンの渋井さんから二〇名くらいにして下さいの連絡があって、急いで募集を打切りにしなければ五〇人は越えていただろう。ありがたい事だ。しかし何でこんな旅行会社がやればいい事までやらなきゃならんのだと、自問しないでやろう。夕方世田谷でA3ワークショップの集まり。千村、丹羽両君が来てくれて世田谷村はにぎわった。車椅子の方が地下訪問は初めての事。しかも二名。しかし流石に車椅子が重かったのか、それとも我家で使っていた冷蔵庫を地下に降ろすのが重かったのか鈴木君が腰を痛めて救急車を呼ぶ始末になってしまった。東京消防庁の方々が地下にくるのも初めての事。早く地下へのスロープを作らねばと思いはするが、先立つものが今のところは無い。来年は何とかしよう。聞けば鈴木君は救急車が運び込んだ病院からタクシーで自宅に帰ったの事。若い頃の体は本当に大事にしてもらいたいが、大事にし過ぎてジイッとしてても駄目なんで、時に運を天に任せるしかない。その肝心な運は自分で呼び込むものだ。私も十八才の時から始めていた岩登りで、今思えば良く生き延びていたなと思う。二〇才前穂高岳東壁登攀の時雪渓の下に落ちて気絶していた。フト気が付けば上空から青白い光が降ちている。それに向けて無意識に体を動かしていたら雪の上に出た。途端岩雪崩が私が落ちていた雪渓に轟音を立てて襲いかかった。数秒の差だった。あの時厚い雪渓の下で見た青白い光は何だったのだろうか。今でも気憶に消えぬ。あの光で私は救われた。アンナプルナ連峰の一角で体験した白いたおやかな峰々と空が溶け合うところにあった青白い光のようなものか。ヒマラヤには六〇才前に再び行かねば、あの空と白い大きな峰々のエッジをゆく体験は得られないかも知れない。七〇過ぎたらもう生命力自体がいつニルヴァーナになっちまってもおかしくはないだろうし。しかしネェ、何であんなに危険なことに夢中になっていたんだろうと今思えばゾッとするが、早く止めて、今の仕事に導かれて良かった。

 十二月二一日
 朝六時半起床。路上観察学会の面々からのユリの花がまだ咲き誇っている。白い胡蝶ランも一片の花びらも落ちず、まるで造花のようだ。植物どもは過ごしやすいんだろうなこの家は。ソーラーバッテリーが良く稼働する事がわかったので床暖房のシステムを考え始めたい。今日は長女の徳子がアメリカから帰国する。正月を日本で過ごす為だが、マアあんまりギリギリしないでチョッと間抜けな生活をして欲しい。しかし彼女が帰国すると正月我家は女四人になるわけで、当方としては辛い。女は口がたつからな。日常戦ではとても敵わないのだ。あんまり余計な事言はないで口応えしないようにしてなんとか正月をしのごう。
 十時半より来客。
 NHK教育TV「美と出会う・石山修武」明日土曜日二十二日夜十時半より放映とのこと。来週火曜日(二十五日)NHK総合十一時より再放送。時間があったら見て下さい。今日は雪空だな。  午後幾組かの来客、修論相談。

 十二月二〇日
 午後横須賀市ミュージアム、プレゼンテーション&インタビュー。シンプルにプレゼンテーションして、自分なりに率直にインタビューに答えた。あとは野となれ山となれだ。しかしこのコンペというかプレゼンテーション&インタビューは面白かった。何処までやっていいのか全て建築家自身の判断にゆだねられているのが良い。あんまりやり過ぎても品が無いし、やらな過ぎても意欲が感じられぬという間の世界だろうと思う。

 十二月十九日
 横須賀模型写真撮り直し。珍らしく朝おそく起きたら、今日も天気が良いので折角作った模型だから撮り直してみようと考えた。ライカ写真は全滅だったから口惜しいという事もある。今日は大学で明日の横須賀市インタビューのスライド準備。
 ついでにセロリ(椅子)の写真もとった。面白くなってついつい時間をかけてしまった。今日中に丹羽君に渡して正式発売のNewsを流さなくてはならない。夕方交通事故でなくなった伊藤先生の御子息の通夜。三鷹市の禅林寺。一橋大学の学生だったようだ。軟式野球サークルにいて大いに学生生活を楽しんでいたのだろう。伊藤先生と焼香の際に顔が会ったが、声もかけられず、こんな時にはかける言葉もない。故人の写真の真下に若い白い花がまとめてあって、今度だけは特別な花を贈りたくて、あれが私の精一杯の伊藤先生への気持だ。早々に立ち去る。今日はもう何もしないで寝てしまおう。友人の不幸は気を滅入らせる。親より先に死んではいけない。考えてみれば私なんか実に平々凡々な人生だな。凡夫の典型だ。不幸は人を育てると言うから、それで私は育たなかったのだ。生老病死からは何人も逃れることが出来ないが、それを実感し宿命とも言うべき死を考えるのは他人の不幸に会った時だけと言うのも情けない。しかし、結婚式葬式は誰が考えても今の時代の儀式とは思えぬモノが多い。毛綱の式の時も藤塚が葬式会社を怒っていたが、今日も毛綱の葬式に居た女が会場を仕切っていた様な気がする。クールなポーズを決め込んで感情のない不感症みたいな女。こういうビジネスのあり方は良くない。他人の不幸を喰いモノにしているのがあからさまなのだ。誰かこの世界に革命をおこさないか。仏教、僧侶がもっとキチンとしなくてはいけないのに、不幸に対面している人間に何の言葉もかけてやれないのか坊主は。又も死せる仏教の現場に会ってしまった。 

 十二月十八日
 世田谷村日記を書くようになって、お蔭様で一つだけ良い事が起きたのは駄文雑文を書く速力が少しだけ速くなった事だ。私の思考の速力は話す速力程速くはない。書く速力に近い。指で文字を書いている速度が私の脳味噌のスピードの力に近い。だから私の対談、座談の類はほぼ皆失敗している。他の人の話す速度に私の脳味噌の力、特に速力がついていけないのだ。筆談による座談の会の企画が、もしあれば私の人並み外れて遅い思考の速力は機を得るだろうに。この日記を書き始めてほぼ一年経つ。我ながら良く続いている。何故続けているのか、それ程確固たる理由は無いのだが、何処かで誰かが読んでくれているだろうという気持ちがあって、その誰かは知らねどもそういう気持ちだけがこの日記を続けさせている。私のかすかな表現、コミュニケーション意欲のあらわれだ。インターネットに公開する事を前提とした日記を記録するのは勿論、私にとって初めての事だ。まだ何処まで書いて良くて、どこは秘すべきなのか規準を得ることは出来ていない。編集の丹羽君からはこんな事迄書いちゃっていいんですかとたしなめられた事だってある。そのバランスは段々習得してゆけば良い。しかし、この日記をつける事が駄文雑文を書く速力を早めた事以上に、私の日常生活のリズムを刻むようになってしまった事も確かだ。もの忘れの激しい時代になった。あった事、起きた事全て忘れられてゆくし、忘れる。情報化時代特有の現象だろう。朝すっからかんに空いた一階の地面で模型写真の撮影。やっぱり自然光は良い。日経新聞連載の第一回を送る。
 コンタックスが故障した。佐藤健に取られたバカチョンライカも壊れたと言う。私のもらい物の古いライカはどうやら壊れそうではない。電子部品が組み込まれたものは壊れやすいのではないか。一度故障すると修理代も高い。十二万円だったかのバカチョンライカの修理代が四万円だと言う。それで佐藤健は昔私のモノであったライカを何処かへ捨てたらしい。お前さんの酔庵に在るアノ、ガンダーラ仏を早く俺のところに捨てろと言いたい。
 今日は自分の時間が在るから何がしかのスケッチをしよう。椅子の再試作品送られてくる。前のより良いが、背中のところに難あり、もう一度やり直してもらうことにする。2作目にかかる。夕方佐賀の椎藤さん来宅。東大の鈴木博之研究室からFAX入り、伊藤毅先生の御長男が交通事故で逝去されたとの事。二十一才の息子を亡くすとは、伊藤君の心中察するに余りある無念さであろう。なぐさめる言葉も有りようが無いが明日は通夜に行く。

 十二月十七日
 朝六時起床。新潮社の藤塚光政著、「身近なサイエンス」書評というよりも宣伝文四、五枚書く。シティボーイ藤塚とシティボーイチャンピオン山本夏彦という、全く書評になっていないやつ。温泉に入ってから書いて、八時前に終った。本当やれば出来るのだ。室内長井とのやり取りもあって、相変わらず原稿はつな渡りの連続である。しかし長いやつを書かねば頭がダメになりそうな気がしてならぬ。八時朝食。森、田口両氏が会いに来てくれて、本当に松崎の人たちは心が柔らかい。だからこそ甘えてはいけないのだ。ハンマの車で安良里へ。佐藤健がハンマの漁船を見たいと言うので。七十九トン第十三宝幸丸を見る。ハンマの住宅建設地も再び見る。ハンマは模型と土地の合成写真までコンピューターで作ってきた。昨夜作ったらしい。こちらも本気でやる気になってしまった。
 昼前再び小林の小邨でソバガキを食べて、帰京。ハンマは明日今年最後の出漁だと言う。三宅島までの漁でエサ代が五〇万円油代が十万円そこそこらしい。こういう仕事が成り立たなくなったら日本も終りだ。幸運をいのりたい。
 帰りの汽車は佐藤健と宗教と建築のことなど話しながらだったのでアッという間だった。
 三時過東京着健さんと別れて、大学へ。東大松村研佐藤君来室コンバージョンの件。夜は世田谷で一つ模型撮影をしなくては。ライカでとった写真ができていて海のブルーが美しくとれていた。

 十二月十六日
 早朝四時起床。六時二十分登戸集合で今日は星の子愛児園の保母さん達三十三名と伊豆松崎町へ出掛ける。早朝の電車に何故こんな沢山な人がいるのか。昨夜ライカに初めて自力でフィルムを入れる事ができた。コノヤローって感じになって異常な困難さを克服した。こんな努力しなければならぬ道具も珍しいだろう。これで写らなきゃ本当にライカは馬鹿カメラだ。
 ただいま六時前小田急線車中。まだまっくら。東の空にホンノリ、実にわずかに色がついてきた。今日は一日が長そうだ。小田急線車中ほぼ座席は人でいっぱい。皆眠りこけている。夜中何をしていたのかね。
 登戸駅よりバスで松崎へ。バスではクイズなんかやったりして、それでも結構楽しくやった。私自身の新しい面を発見してしまった。若い女性ばかり三十数名とクイズを楽しむ自分がいるなんて。富士山が雪をかぶって見事である。
 予定通り十時に伊豆長八美術館。森町長公室長が出迎えてくれた。面目ない。長八美術館および町をそぞろ歩きで案内する。保母さん達はどう感じてくれたのだろうか。これから出来上る星の子愛児園を好きになってくれたら嬉しいのだが。愛児園は長八美術館よりもっと都市的な建築だから好きになってもらうのは容易な気がする。保母さんが好きになってくれたら、それは良く使ってもらうのに一番だから。子供を好きじゃないと保母さんはできない。建築だって好きになってもらいたいのだ。
 昼、近藤理事長園長保母さん達とお別れして、そば屋小邨へ。佐藤健が待っていた。シルクロードの旅を終えたばかりの健さんとの再会。少し疲れ気味な顔だったが無事なので安心。小邨小林の心尽しのソバをいただく。結局サンセットヒル宿泊室二一一と二二二に泊ることにした。夜うなぎを喰べて、十時に休む。酒を飲まないと実に健康である。ハンマに住宅の模型を渡す。余程心配だったようで、かなり普通の感じだったのでホッとしていたようだ。

 十二月十五日
 朝七時横須賀へ。昼、又今日も広尾のイタリアン・レストランで高木松井結婚式。夜西調布、聖徳寺霊園打ち合わせ。世田谷村一階旧屋の解体おおかた終了。一階に予想通り不思議な空間が出現した。

 十二月十四日
 昨日より世田谷村の一階旧屋の解体が始まる。今日は朝から解体工事が盛んだ。ようやくにして旧屋が建つ前の本来の大地が出現することになる。色んな事がここで展開できるだろう。世田谷村の一階部分、つまり大地はチョッと不思議なスペースになるだろうと予測していた。謂はゆるピロティであるがコルビュジェ風のピロティではない。もっと軽くて、建築の重量を解放してゆくような感じを狙った。計算通りにうまくゆけば、まだ見たこともない空間が出現する筈なのだが、工事を始めて二年経ち、ようやくにしてその空間を体験する事ができる。
 室内・スタジオボイス連載原稿送る。今回のは両方共上手く書けたような気がする。書いてて面白かった。午後大学へ。今日は沢山な人に会わなくてはならない。
 六時ザ・羽澤ガーデンで野田一夫宮城大学前学長と会食。羽澤ガーデンは広尾の小高い丘の上にある和風の邸宅を転用したレストラン。野田氏の息子さんがオーナーとの事。まだ三十三才ということで、レストラン自体の考え方がユニークなので是非その三十三才に会いたくなって、初対面の野田一夫さんにお願いして紹介してもらった。三十三才のオーナーは野田豊氏、聞けば京都、神戸その他にすでに七件のレストランを持つという。仲々痛快な青年だった。狙いが良い。国際文化会館、ホテルオークラをいつか手掛けたいとの事。この青年ならやるだろう。私のやりたい事に対する良い刺激にもなった。若い人にも人物はいるものだ。野田一夫さんともお近付になれて良かった。野田豊さんの実業家としての新しさは、すでに在るモノを使い直して全く新しいモノへと作り直してゆく手法をビジネスとして定着させていることだろう。新築世代ではない改築、転用世代のビジネス感覚が溢れている。

 十二月十一日
 九時過京急羽田線大鳥居駅待ち合わせ。スタジオボイス取材。少し早く着き過ぎたので駅前のマクドナルドハンバーガーショップでマックを食べる。仰天、コーヒーとビーフハンバーガー合わせて二百八十円。レジで思わずエッと聞き直してしまった。辺りを見廻せば客はチラホラしかも皆オジさんばかり。マクドナルドはみーんなの平日半額セールでハンバーガーを六十五円。チーズバーガーを八十円で売っているのだ。これではそれぞれの町の、それぞれの味は滅亡してしまうだろう。マクドナルドは家庭の台所を消してゆく。マクドナルド&ファストフード連合とコンビニ弁当戦線は日本の台所を消しつつあるのだ。世田谷地下の連中も皆マックとファストフードの奴隷なんだろうな。石山研地下の台所を先ず改革しなくてはならん。冷蔵庫、調理台を持ち込もう。
 羽田水門より釣舟に乗って空港近くの堤防へ。回転橋の近くにオンボロ船の小集落があって住人はただ一人。高橋康夫と言う。犬十三匹くらいと海の上で暮す人。日本に何人もいない水上生活者であろう。昔はいたなそう言えば水上生活者と呼ばれる人達が。この人物と水上の住まいの事は二月号のスタジオボイスを読んでいただこう。日本の辺境は荒んでいた。砂漠だなここは。取材を終えて世田谷へ帰る。朝小船の上から遠くに見た富士山、橋や水門の合い間にコッソリ見えてる富士山は良かった。富士山には月見草はもう似合わない。斜張橋や水門がピッタリだ。太宰治も今生きていたら女と玉川上水で自殺するなんていう俗でセンチメンタルな時間もなく、六十五円のハンバーガー喰って、ケイタイかけまくって借金の算段してただろう。ニューヨークのテロ事件やアフガニスタンでの戦争やパレスチナの戦争を遠くからでも体験してしまうと、タフネスという事と鈍い事が時には似たようなものではあるが、今ではそれが良く生きるための必需品であることを知る。  アフガニスタンではビンラディンが追いつめられている様だ。空爆その他凄まじいまでの物量の攻撃である。

 十二月十日
 朝スティーブン・ホール棟で眼ざめる。ひげをそりたいと思いオスカー・トゥスケ棟にあったコンビニに出掛けてみたが、廃墟になっていた。スティーヴン・ホール棟レム・クールハース棟のいくつかの店ももぬけの空になっていて、うら哀しい感じになっている。中層アパートが建って人口が増えた筈だが、それ位では追いつかなかったか。十時石山棟一〇一号室の宮本さん宅訪問。石山棟に生活している人に初めて会う。きれいに暮していて下さった。ホッとする。
 早速住宅建設の相談に入る。自分の設計した建築に暮している人間が新しい建築に移り住みたいという希望を持って、それを又同じ設計者に依頼しようと言うのだから、誠に光栄なことだ。御主人は九大の考古学教授。京大出身との事。京大は日本考古学の中枢だ。宮本さんは考古学者風な、つまりどうやっても下品にはなり得ぬような類の品格の持主であった。中国で紀元前六千年から二千年くらいの墓を発掘しているらしい。私のように騒々しい人間にとっては、求めても得られぬ静かさを体現している人物のようで面白い。奥さんは絵を描かれている、独特な感性の持主でその感性がおもむくままに何かをモノとして望んでいる様なのだが、それが単純なコトではないので、何を考えているのかを正確につかむのがむづかしい。御主人は沈思、奥さんは複雑系か。二面性を持った家になるのかな。杉並の渡辺邸モデルはここでは通用しないようだ。
 敷地を見に行く。送っていただいた写真通りの土地で難問はない。良い土地だ。
 奥さんが繰り返し言っていた、垂直方向のレベル差で複雑微妙な空間が出来ないかと言うのはとっかかりになるかも知れない。
 いつもは土地を見て、こんな感じかなのインスピレーションが出現するのだが、今度は出現しない。土地よりも依頼主の個性が強過ぎるからだろう。考古学者とその妻の家。太古の墓、大地、厚い壁と光。静かな、ゆったりとして静かな空間だろうな。四時二〇分の飛行機で東京へ戻る。
 今年はアト年末の沖縄行があるけれど、東京にジィッとしていられるな。自分で自分に足かせをかけてでもジィッとしていたい。動き過ぎて体がボーッとしている。夜世田谷地下で打ち合わせ。学生怒鳴っても仕方ネェとは知ってはいてもやはり怒鳴る。いいモノ作る心構えのレベルを知らネェんだこいつらは、いくら教えても解らネェ。

 十二月九日
 今日は飲まないようにしたい。ミラノ以来飲み続け食べ続きではないか。夕食は佐賀を抜けて博多で一人になって喰べよう。できるかな。
 朝十時半頃のひかりで博多へ。雑誌室内の目ざわりデザインで批評したアノ過剰流線型ヤセブタみたいなやつ。日本中に変なモノがはびこってるな。先日ミラノで見た新型路面電車のデザインは良かった。下ぶくれのお多福みたいなスタイルだったが、ミラノの街によく合っていた。日本のこの類の製品デザインはまだまだやってやるぞーと変な力が入り過ぎている感じ。だからこっけいなモノになってしまう。イタリアのデザインは全て良いなどとは言わない。ミラノのカテドラルはフィレンツェのブルネレスキのドウモを意識し過ぎて肩に余計な力が入って、やっぱり変なモノになっている。が、街にとけ込む類の様々な小物のデザインはやっぱりイタリアが上だ。品がある。日本の新幹線デザインはもっと日本的に、いかにもビジネスライクなドライな感じが良かったのではないか。無理にエンターテイメントをやっているのが痛々しい。その痛々しい車輌に運ばれて博多へ。
 博多から佐賀へは、かもめ十七号なる更に漫画チックな電車だ。車輌が本気でかもめの顔をしてやがる。床も変な板張りでデザイン過剰。おばはんがイッセイミヤケのシワシワファッション着て洒落のめし、ハウステンボス見学である。でもみんな幸せそうにざわめいている。我等の実力はこんなものなのか。もう俺ワ知らないヨ本当に、とフーテンの寅のオイちゃんの科白がこぼれ出る。
 昼過佐賀着。早稲田バウハウス・スクールOB会。森正洋先生をはじめ三〇名程のワークショップ参加者が集まっていた。来年以降の佐賀ワークショップをどのようにするのか、どんな風に持続するのかを九州地区のOB達が皆で考えようという主旨の会である。ありがたい事だ。そんな気持が何がしかの人間の胸の中に生まれていたことが財産だ。今はそれ以上の事は望まない。
 夕方佐賀を去り福岡へ。第三共進丸で久し振りに食べて、又も飲んで夜は香椎のアパート泊。伊藤権藤梅木諸君と。学生有本君が酒のサカナになった。今日は日曜日なんだ。

 十二月八日
 朝遅い新幹線のぞみで広島へ。昨夜はぐっすり眠れたので上手く時差は解消できたようだ。
 午後三時半、広島県立美術館で講演会。
 「世界平和と建築のあり方」が演題。山本夏彦が聞いたら、クックックッと笑うだろう堂々たる正義の味方の演題だ。以前の私であればよしてよと言っただろう。今はもう照れずにやる。マイノリティを支持母体とする建築について話した。前広島市長平岡さんのひろしまハウスについての話しもあった。会場はほぼ満員で若い学生の姿が多かった。修了後館内レストランで小パーティー。八時にA3ワークショップの木本君と出る。流川の黒水仙へ。バーテンダー上野誠一の安否をたしかめるため。苦労して探し当てたかいがあって上野さんは元気であった。再会を喜ぶ。名人芸のカクテルをいただき満足。十一時頃ホテルへ。古い友人の健在を確認できて、良い一日となった。

 十二月七日
 日本時間昼の十二時眼ざめる。ミラノ時間は朝四時。ホテルでよりも熟睡した。この類の調査旅行はエコノミークラスしか文部科学省は認めないのだそうで、しかし帰り便は直行便でしかも空いていたから三席分座席のアームを倒して完全に横になることができた。むしろJALのエコノミークラスは全フロア畳敷きにしてお座敷にしてしまった方が効率的なのではないか。和風旅館風にして、真中に偽の川なんか流して蛇ノ目傘を配し、通路は板張り風にする。スーパーファーストクラスを設け、そこには露天風呂もどきを作り、ジュラルミンボディの一部を透明強化ガラスにして、満天の星月夜を我物にできるようにする。ごまんといるだろうビジネス界の成金には受けると思うよ。ビジネスクラスのウィンドーには全て極彩色の金魚鉢をつくり込んでエキゾチシズムを増幅させ、ビジネスマンの頭の構造を飛躍に満ちたものとしたい。エコノミーの通路の川は水を干すと掘ゴタツにすることができる。JALは是非共和風飛行機を飛ばせ。外国人も喜ぶだろう。機体に子供向けの漫画を描いてガキにだけこびてる場合ではない。すでに到来している老人社会では老人にもこびるべきなのだ。イイネ、翼に瓦の模様なんか描きまくって、尾翼には鬼瓦も描く。機内放送の合図はゴーンと寺の鐘を鳴らす。トイレの入口には鳥居をつける。スチュワーデスのファッションは大正文化住宅時代のカッポー着姿である。機内食のお代りは電気釜で保温したご飯をよそって廻る。七輪持込禁止のワッペンがわざとらしく貼ってある。このわざとらしさが重要だ。明るく軽い感じが突きつめられた、かくの如き、いかにもなわざとらしさは今の日本社会の通奏底音である。それを突き破るには自分で自分を笑ってみせるしかないだろう。すなわちJALはかくの如き悪趣味の極みの宴会お座敷便を国際線に飛ばすべきである。そこまでやれば一気に下品は上品に逆転する。
 こんな事考えてる位だから、どうやら疲れは抜けたようだ。明日の広島行、明後日の佐賀、福岡行は大丈夫そうだ。眠りは人間を再生させる。あと三時間半でNRTに着くだろう。シベリアは雪が少ない。危いね本当に地球は温暖化の径を突き進んでいるんだろう。

 十二月六日
 早朝五時前に起きてしまう。TVをつけてみるが全チャンネル凄まじく下らない。ジェームズ・スチュアートが野球選手の格好してモノクローム画面に出ていたり、リオデジャネイロのドタバタピンク映画だったり、何やらで流石にスイッチを切った。アフガニスタンだけでなくパレスチナも大騒動になっているようだ。
 イタリア、スペインのしぶとさの素は何なのか、昨日のヒアリングで印象的であったのは文化局の権力の強さであった。建築、および建築群の価値を強く国家的水準で積極的に認め、建設、保存行為に反映させているようだ。広い意味での観光・ファッション立国なのだ。ミラノ工科大学建築学科は一学年八百人程度の学生数らしいが、大量の学生を社会に出している現実が総合的には建築勢力の力になっているのではあるまいか。日本ではどうなのか。早稲田もヨーロッパ型の建築学科を目指すのか、アメリカ型でゆくのか思案のしどころではないか。理想は独自の路線なのだろうが、それはどう考えてみても不可能なのだから。可能性を考えてみるよりも、不可能性を考え尽くしていく方が現状では得策だろう。フィンランド、イタリア、スペインのしぶとさを見習うべき時なのじゃなかろうか。でもその研究は私の役割じゃない。むしろ松村に学生つけて研究してもらった方が良い。私にはその類の時間は残されてはいない。
 ラテン建築システム研究会みたいなのを学生にやらせても良いな。六時前入浴。洗髪。今日は又、長旅だ。一日を楽しもう。荷造りと言っても小バッグ一つだけれど、それでもしといた方が良いかな。
 七時半朝食。八時半出発。私はチェックアウトして松村先生の部屋に荷物を預けた。地下鉄バスを乗り継ぎおまけにしこたま歩いて、グレゴッタのスカラ座現場へ。ミラノ工科大学ピッチ教授の案内で工事中の建築およびピレリ工場跡地の周辺集合住宅を見学する。スカラ座は三年くらいしか正式には使用せぬものらしいが、出来は悪い。非常に悪い。設計施工共に悪い。現場が統括されていない。ピッチ教授のポジションはクオリティ・エンジニアという事らしい。ゼネコンが居ないのでミラノ工科大学の先生が建築家の下に入ってクオリティをコントロールしようとしているらしい。来年の一月中旬がこけら落としのオペラ公演らしいが、とても竣工は無理ではないか。見ないでいいものを見てしまった。汽車でミラノに戻る。地下鉄で運河沿いのコンヴァージョン事例見学へ。チーズ工場がアパートになっているものだが、だいぶん仕事が荒くってチョッと日本向けの参考にはなりにくい。ここまでしてもミラノ市内に住みたいと言う人が居るのだろうが。アーティスト、フリーな人たちのギャラリーや仕事場も垣間見ることができたが、満足しているのだろうかの疑問を持った。昼食は運河近くのレストランで。リゾットがおいしかった。料理の名前もワインの銘柄も憶えられない。多分全く興味が無いからだろう。困ったものだ。食後カテドラル地区へ戻る。食事疲れしてしまった。カフェコロンでカプチーノ。どうにも休みたくなったのでホテルに戻り、難波さんの部屋で一時間半程眠る。いびきをかいていたそうだから余程疲れていたんだろう。これだけ歩いてこれだけ喰べてりゃ疲れるさ。夕方六時前に起きる。難波松村両先生と別れてTAXIで空港へ。ミラノ市内渋滞で全く車が動かずヒヤヒヤしたがハイウェイは良く走り一時間程で空港着。夜八時四〇分発のJALで東京へ。たった二日のミラノだったが疲れながら気持は休んだ感じ。両先生にはお世話になった。

 十二月五日
 七時前起床風呂に入る。しかし松村は良く喰べる奴だなあ。機内食なんて瞬間芸的スピードで消えていってしまうし、昨夜もミラノ風カツレツ、ステーキ、パスタと連続して彼のいぶくろへ投げ込まれていってしまった。プロレスラーの坂口と飯を喰ったことがあるけれど坂口程ではないにしても、常軌を逸してることは確かだな。相撲、格闘技を除き建築業界では安藤藤森クラスである。胃袋が強いので、かまないで呑み込んでいる感じ。歯でかまないから余計なエネルギーを使わずに直接栄養分だけ吸収しているのであろう。しかし松村秀一がイタリア生活的価値観の持主であることを発見したのは収穫であった。大きな常識人なんだ。
 七時半朝食。八時半ホテルを出て、ミラノ工科大学へ。ブッチ教授ヒアリング。昼前、化学研究所屋上キューポラに棲む写真家西川よしえさん宅訪問。双頭のドームならぬ尖塔付の小ドームが気に入って住み付いている人。オペラ座の怪人ならぬキューポラの麗人か。本質的なコンヴァージョンを自力で成し遂げてしまった人でもある。興味深い人物だった。自らの詩的直観に飛び込んでしまった人でもある。こういう正真な人は日本には居られないだろう。
 ミラノ駅より昼過ぎの汽車でコモへ。テラーニのカサ・デル・ファッショ見学。期待もしていなかったが、予想通り期待外れ。にわとり屋という名のレストランでおそい昼食。これはおいしかった。コモ湖畔のモニュメントとアパート、共にテラーニ設計の建築を見るが、全然受けつけず。というよりも反応しようがなかった。テラーニの軽さは建築自体への関心の密度の薄さから来てるんじゃないか。四時過の汽車でミラノに戻る。六時ホテル着。いささか疲れた。八時研究室OG堀川来。皆でパスタを食べにゆく。夜十一時半ホテルへ帰る。明日はもう東京へ帰らねばならない。きっと今日ぐっすり眠って時差を解消するだろうから、明日は又帰り便で時差ボケを作り直すことになるのだろう。

 十二月四日
 昼前のアリタリア航空でミラノへ。松村秀一難波一彦と一緒。オフィスビルのコンヴァージョン委員会調査旅行。良く良く考えてみれば春の台湾中原大学行カンボジア行以来の海外である。モスクワ経由。昨日赤瀬川原平さんにライカにフィルムを入れてもらった。フィルムをハサミで切ったりして時間はかかったが見事な手際であった。私がやっぱり不器用であったのだ。二年間全くの無用の長物であったライカがようやく有用のモノになった。しかし、何か不安でミラノ行には持ってこなかった。久し振りにスケッチブックをカバンに突込んできた。しかし、何も描かぬままに持ち帰るような気がするよ。今シベリア大陸の東端を飛んでいる。
 除雪のため空港が閉鎖され少し遅れてモスクワ着。マイナス10°C。四〇分程休んで夕方六時五〇分ミラノ着。空港よりTAXIでHOTEL GRAND PLAZA。ミラノ市の中心、カテドラルに近いところだった。テロの影響でガラガラだと思っていたら飛行機はほぼ満席だった。ミラノは5°C。思ったより寒くない。
 九時、食事。ミラノ在住の伊藤君を交じえ四名でカテドラル近くのレストランで。夜半十二時二〇分散会。ホテルまで歩いて帰る。いつものことだが東京を歩いている感じとは明らかにちがう。しかし、ミラノのカテドラルは明らかに砂糖菓子の城だ。が、ガレリアを含むその周辺の都市の造形、そして密度がちがう。カテドラルは学びようがない。しかし、都市の密度は学びようがある。空間じゃない密度なんだな。我々は都市に本能的な関心が無いのかも知れない。

 十二月三日
 午前中地下室で打ち合わせ。梅沢良三さん渡辺邸鉄骨原寸検査。高橋工業社長と最終チェック。遊具その他の打ち合わせ。
 午後二時路上観察学会の面々来宅。藤森照信赤瀬川原平南伸坊林丈二松田哲夫。丹念に見てまわる。赤瀬川さん「イスラム風ですね」発言に仰天。屋上で廻っている韓国製の換気扇に皆いたく興味をそそられた模様。しかしあの換気扇をイスラム風とは!言われてみればたしかにそうでもあり、赤瀬川さんの眼玉は不思議なメガネをかけているんだ。
 今日も天気が良くって我家の南の窓は全開放。これまでのところお客さん達にはベストな表情の世田谷村を見ていただいている。さざん花も花盛りだ。
 三時から酒盛り。家内の手料理でワイワイ飲む。実に優雅な大人な人たちであることを再確認する。夜半十一時まで宴会は続いた。非常に楽しかった。骨のズイまで自由業の人間の集まりなんだ。それも皆独人で仕事をしている人ばかり。フリーターの極致なのだ。
 宮脇愛子さんに上海ガニを誘っていただいたのだが、到底七時には抜けられず、愛子さん怒っているだろうな。ミラノから詫び状入れておこう。(結局ミラノではクタクタで葉書も書けなかった。何もできない連続だ。)

 十二月二日 つづき
 ライカにフィルムを入れたわ入れたでどうも廻っていない。つまりフィルムが順調に巻き込まれていない。心配になってフタを開けてみたら案の定空廻りしていた。やり直しだと、もう一度フィルムをセットし直そうとしたら、今度はフィルムが入らない。三〇分程苦闘したがラチがあかない。私が要領悪いか、何か要(かなめ)を取りちがえているか、過度に不器用なのか、あるいはライカF3(菅原に電話して尋ねたら私のもらいもののライカはF3というタイプのものらしい。)が何処かに欠陥があるか、どちらかであろう。ライカと私ではどうも私の分が悪いが、ライカの欠陥度も相当のものである。ドイツ人が極度に器用な民族であるとも思えない。バウハウス大学の連中もそんなに指先が器用な奴はいなかった。今地下にいるトーマスなんかはヘチマと怒鳴ってやりたい程に不器用だ。
 レンズよし、本体メカニズム全てよし、全体美麗でよし、だがフィルムが入らない。これを考えた人間は何処かでバランスが欠けていたんだろう。イライラしたら急に空腹になった。ライカは食欲増進によい。明日は路上観察学会の面々が我家を観察に来る予定で、今日大量のユリの花が届いた。あんまり大量で容れ物が無く、家内がバケツを買いに行った。ブリキのバケツを探さねばならない。変な眼の持主達だからなあ。赤瀬川原平さんが来たら、ライカのフィルムの入れ方を御指導願えるだろう。

 十二月二日 日曜日
 ベーシーで菅原のライカコレクションに再会した為か、朝フト思い立ってライカを一階の廃屋から引っぱり出してきた。我ながら他愛ない。このライカはリアス会の佐々木所長から以前もらったもので、何だかイイものらしいのだが私はライカ狂ではないから、そのいはれは知らない。レンズ部分をグイと引き出さぬと働かぬ奴で、菅原の話では確かライカの名器の誉れ高いM3と呼ばれる一つ前のものらしい。グイと引き出すレンズのシャフト状の部分は手作りに近いものだと講釈された事を思い出す。電子部品が何処にも仕込まれていない安心感がある。小型機械が到達することができた水準が体現されている。何年か前に一度使おうとしたのだが、フィルムの入れ方が難しく失敗してしまい、一枚も写っていなかった。それ以来引き出しに仕まい込んで忘れていた。
 今使っているコンタックスはほとんど何もしなくても良い。電池がなくなると、ただの軽合金の固まりになってしまうことを除けば誠に便利このうえない。その前に使っていたニコンF4は重かった。それに色んな仕掛けがあり過ぎて使い切れなかった。コンタックスはただただ便利なのが良かった。それにズーム部分だけは手動で、そこにささやかなうれしさがあった。カメラに使われているのではなく、カメラを使っているのだという何だか妙な、みみっちいうれしさだ。引っぱり出したライカは何から何まで人間が操作しなければならない。フィルム入れてきちっとセットするのに五分位かかってしまう。それから絞りを決めて、シャッタースピードを決め、距離を合わせ、ファインダーが二つあって、構図とピントをそれぞれ合わせ、やっとシャッターが切れると言う代物だ。慣れぬと一枚の写真を撮るのに一分ぐらいかかってしまう。そしてシャッター切っても、ちゃんとフィルムが巻かれているか、フィルム巻きあげの丸いボタン状のつまみを廻していても、その保証は何処にもない。事実、前回は巻きあがってなかった。人間の手と機械がきちんと関係しないと働かない。
 机の上に松崎町で買った富士の使い捨てカメラ、写ルンデスの新タイプがある。これなんかはシャッター押して、そのまんま写真屋へ出せば良いだけのモノだ。フィルム屋にドレイのように使われているみたい。カメラはフィルムのおまけになっている。これからはますます人間はシステムに使われていく時代になるのだろう。何かを見て記録したい、記憶しておきたいという想いを満たすための道具がカメラであろう。スケッチするのが私には一番だろうが、これはエネルギーが要る。出来るだけスケッチしたいが、カメラも必要だ。それくらいのカメラだったらライカで良いのかも知れない。写っているかどうか不安なくらいのカメラで良いのかも知れない。
 このライカに少し慣れてみようかな。
 佐藤健ウルムチ、カシュガルより帰る。無事で何よりだった。来春の敦煌、莫高窟の旅もどうやら春のワークショップのスケジュールとバッティングしてしまいそうだ。最期の朝鮮半島の旅だけ同行することになりそうだ。春の朝鮮半島もいいだろう。朝鮮は一番近くて、一番遠い国だから一度ゆっくり勉強したいと思っていた。

 十二月一日
 昨夜は宮城県本吉町、日門湾の海洋館でリアス会の総会出席。唐桑町長佐藤和則もわざわざ来てくれて話しができた。気仙沼市との合併問題が出ていて当面の難問らしい。唐桑、本吉町と気仙沼市が合併すれば国から二百五十億円金が出るとの事で、要するにその金を巡る動きだ。佐藤はクレバーだから、要するに五年後の唐桑をとるか、十年後の唐桑を待つかだと言っていた。十年先の事を考えれば唐桑自立の径が当然だし、短期で考えればつまり明日の金目当てなら合併だという事。
 来年は唐桑のために何かできるといいなと思った。
 今朝は本吉の高橋工業の工場で聖徳寺の鉄の墓の試作品を見る。実物を見て良かった。上部フタの細工が荒っぽい。メッキも上手くいってない。写真ではわからぬところだった。高橋と相談して改良策を講じる。アルミ家具の改良方法も相談。リアス会の面々にアルミ、塗装のメンバーがいるので相談に乗ってもらう。これからのつめが大事だ。
 十一時過ぎ、一ノ関べーシーへ。
 菅原正二と本当に久し振りの再会を果す。握手した手の少しばかりの冷たさが、チョッと老いを感じさせたが、菅原も私の手にそれを感じたろう。
 いつものように、べーシーの闇は心地よくベーシーの音はピュアーであった。
この男の生き方は本当に見事の一語に尽きる。ジタバタしない。あきらめ切って揺るがぬところがある。典型的市井の隠である。
 二十一世紀の生き方とは何だろうと、二〇世紀的思考を巡らせるならば、菅原正二的生き方ではないかと思う。
 ジャズはアメリカで生まれた。アフリカから連れてこられた黒人達の唄、ブルースが源である。ある意味ではアメリカは全世界の植民地だ。ヨーロッパがネイティブ・アメリカンを駆逐して占領した国だ。その矛盾をジャズという音楽様式は体現していた。
 黒人がアメリカ社会で顕在化し主導権を握ることができたのはわずかにプロスポーツの世界であり、芸術文化ではジャズであった。哀歌であったブルースがジャズに生まれ変わったのは移植されたアフリカがアメリカ化する巨大な混沌のるつぼがあったからだろう。ジャズは一九六〇年代に最盛期を迎え、それから急速に衰退した。コルトレーンの巨大な混沌によってとどめをさされた。マイルスの美しさによって頂上が極められた。それから急速に衰退する。どうしてなのか。ジャズの盛衰と日本の盛衰が期を一つにするのは何故なんだろう。
 文明文化は異物と遭遇し混濁する時に最も凄惨なエネルギーを生み出す。
今、不思議な事にジャズは菅原正二のベーシーに凍結されて保存されている。数々の巨人たちが作り出し、織りなしたサウンドは後継者も無く、ベーシーの闇で聴くしかない。
 今日も一ノ関ジャズ喫茶ベーシーには三々五々恐らく遠来の客であろう人々が来店している。皆、ジャズとは縁遠いと思われる人たちだ。近年ますます、その神話的存在の呼び声が高くなっているベーシーを拝観するための人たちなのだ。それを笑ってはいけないのだ。笑うことは自分を笑うことになる。
 ジャズ喫茶ベーシーは二十一世紀日本をズーッと同じ調子で予感し、暗示してきた。
 俺も菅原には恩がある。通俗の闇に落ちた時、どれ程菅原には助けられたか。 「ピース&ラブとはね石山さん、義理と人情ってことなんだね。」
 この友人は時々、不思議なことを言う。
 韓国家庭料理トロントの主人と知り合いになって、店のイギリス製アンティーク家具を見せてもらう。二〇万円で買ったのだと言う。ベトナム・ホーチミンシティの家具屋で、一万円もしないで同様なモノを見た記憶があるが、それを言っちゃーおしまいよ。
 十二月の始まりの日をベーシーで過ごせてよかった。夕方、東京着。
 別れ際「無駄なことしないで」と菅原に言われた。わかっているのですよ。それが肝心って事くらい。でもそれが一番むづかしい。
 何とかして東北に再び仕事を作ろう。そうすれば自然にベーシーに通える。一ヶ月に一度、ベーシーで菅原の音に浸れたら、俺みたいな通俗の輩でも、少しはアノ品の良さのカケラでも身につけられるかも知れぬ。  菅原がニ度目のカウント・ベーシーの墓参りに行った時のニューヨークの写真は良かった。ニューヨークの高度な無機質と女たちの尻の連写が何とも言えずいいんだな。こういう建築がつくれればいいんだぜ、キット。一枚持ってけばと渡されたので、これは額に入れて愛蔵しよう。
 夜七時過ぎ西調布、聖徳寺墓の打ち合わせを少々。九時世田谷に帰る。星の子愛児園打ち合わせ。遊具は少しばかり前進していたが、家具はダメ。本当は子供の椅子やテーブルはすごくむづかしいのだけれど、それだからと言って手をゆるめるわけにはいかないのだ。小さな木片の遊具を次にやってみよう。  モンスターの様々。

11月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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