石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
11月の世田谷村日記
 十月三一日
 朝、藤塚光政世田谷村撮影。藤塚は建物も良いが、人間撮った方がもっとうまいとかねがね考えていたが、どうやら少しづつそれを試みているようだ。藤塚の写真の特長はアングルを正常な位置から微妙に振ることだと、GAの高瀬さんが言っていたのを思い出す。人間を撮るのはその連続だろうから。世田谷村の人たちというのが今日の撮影のテーマだったが光も良くて、藤塚も乗っていたからいい写真がとれただろう。室内十二月号の表紙用の撮影だった。おフクロもオジさんもイヤダイヤダあーだ、こーだといいながらも結構楽しんでいた。考えてみれば極く極く普通の生活者がプロの写真家の被写体になるチャンスはあまり無いわけで、藤塚も三宅一生のファッションショーを撮り続けてきたのに、プロのモデルじゃないアマチュアを撮るのに苦労していると思う。プロのモデルはやっぱり表現力があるからね。その場にいる生活者としてのモデルが表現し始めたら、つまりオジさんオバさんが被写体としての表現力を発揮し始めるようになったら、空間という概念はひどくリアルに変化してしまうだろう。舞台美術と俳優の関係かな。
 撮影中途で失礼して学校へ。昼過ぎ松崎町役場の森さん田口さん来室。伊豆文の再生計画を来期に延ばしたいとの事。議会がよじれて、それを解きほぐすのに時間が必要との読みがあっての事なので、わかりましたと了承する。わざわざごていねいに足を運んでいただき、かえって恐縮してしまう。私の方の態勢も一向に急ぐ必要はないし、キチンと万全の準備をしてからの方が良いかも知れない。こんな時代に無理は禁物だ。その間、近藤二郎さんの倉のことを着実にすすめなければいけない。田口さんには屋上菜園のこと相談しなくては。彼は菜園のプロらしい。松崎町で菜園付の別荘売り出したらいいのに。修士論文ゼミの後、星の子愛児園現場へ。今日から建方が始まっている。夕方、現場で高橋弟とトビ職と会う。職人の中には我家の建方で顔なじみになった者もいて、再会を喜んだ。本当に職人はかわいい。私ももうそう言っておかしくない年になった筈だ。近藤理事長も現場に来て気仙沼の造船所からの鉄骨と対面した。高橋のところの鉄製品はやっぱり一作一作うまくなっていて、松島さかな市場の鉄とはもう一味も二味もちがっていた。せんだいメディアテークでもまれたのも本当に良かったのだ。

 十月二九日
 今日は終日世田谷村で仕事。
 聖徳寺観音堂のスケッチすすむ。星の子愛児園三階の最終チェック。三十一日に気仙沼から一階二階の鉄骨が来ることになっている。楽しみだ。又、高橋工業の使っていない2tトラック、6人乗りを長期間借りることにした。長期間借りるってことはもらうって事とどのようにちがうのか、わたしは理解に苦しんでいるのだが、ヘッヘッヘ高橋はどうなんだろうか。このトラック一台が世田谷村のなにがしかの人間の生活スタイルを変えてしまうだろう。設計事ム所なんて言うヤワな感じも抜けるだろう。
 カネットデマール市の外尾が借りている仕事場にもの凄く古いベンツのトラックがあった。実に良い形のベンツで、外尾とその古いベンツのトラックに乗ってバルセロナのサグラダファミリア大聖堂の現場まで通ったことがあった。非常に良い気分であった。どうしてあんなに気分が良かったのか、もうすぐわかるだろう。

 十月二八日
 山本夏彦さんに凄いことやりましたねと電話しようと思って自宅に電話するも留守。しかし「ハウスメーカーに騙されるな」この特集は事件と呼んでよいくらいのものだから私が凄いと思った感想は是非山本さんに伝えたい。
 という事で山本夏彦さんに手紙を書いて送った。御老体一人に奮迅させて高見の見物は申し訳ないと考えたからだ。虎ノ門で御老体がおっ始めた喧嘩に高田馬場から堀部安兵衛が駆けつけようという図だね、これは。しかし、この強くない安兵衛虎ノ門まで辿り着けるかどうか。
 杉並の渡辺さんの家の建設が始まるのだが、この小さな試みを情報としていかに拡張してゆくかに力を集中しなくてはならない。要するに渡辺さんの家は実体としてのハウスメーカー批判そのものであるからだ。批判の先には批判している対象そのものを超える何がしかが無ければならない。私の住宅道楽は更に拡張してできるだけ多くの人々の快楽へとつなげてゆく必要がある。
 山本夏彦翁の獅子奮迅振りに我ながらだいぶ刺激されてしまった。渡辺さんの家の設計はその生活用品のできるだけの設計をも含むことになる。当然の事ながら椅子、テーブルの類。台所の様々な器具。照明。カーテンは世田谷オリジナルのカーテンがあるし、森正洋先生の力を貸りて食器もできるだろう。スプーン、ナイフ、フォークもやる。テラスのアウトドア用品もやる。その為の納屋のユニットも試みる。
 住宅の依頼者たちにはこれ迄ずいぶんと失礼をした。住宅設計はもうやらないと宣言したりして、折角遠くから訪ねて下さった方々の依頼もお断りし続けた。が、ようやく住宅を沢山作る方法を手中にしつつあるので、それをやってみる。昔、ミサワホーム社長、三澤千代治氏が言ってた。「実ワ我社は設計事ム所なんですよ。」私も実ワそうだと知っていた。
 イチローが国民栄誉賞をやんわりと断ったという話が新聞に報道されている。良い話が余りにも少な過ぎる今日この頃、これはチョッと良い話しだった。イチローはすでに国民という従来の国家の枠の存在から自由になり始めている特殊な能力を持ったスターだ。アメリカのメジャーリーグは明らかに日本のプロ野球の水準よりも力が上の世界で、イチローはそれを良く知り抜いていたからこそ、メジャーに抜けた。日本のプロ野球という二流の世界に安住できなかったからだ。彼のような野球選手の眼から見れば国民栄誉賞は王選手クラスがもらえば良い、何となくくすんだ、二流の賞にしか見えていないのだ。
 ダイエーの王監督は自分のホームランの日本記録を外国人ローズに抜かせまいと、見苦しい敬遠を繰り返した。例え自分で直接指示を出していないとしても、監督としてそれを容認した。あの時、王は明らかにメジャーリーグでは通用しない二流の人になった。すなわちイチローは王をすでに抜いてしまったのだ。王選手が打ち立てたホームランの世界記録とは何だったのか。イチローはシアトルでそれを体できちんと知ることができたのだろう。だから、王のホームラン世界記録によって作られた賞の軽さ、嘘を感じているのだろう。イチローはアメリカの何がしかの賞を野心的に目指すべきだ。
 夕方六時、藤森照信のTV番組を見に下におりる。

 十月二七日
 今朝は渡辺さんの家の地鎮祭。鉄骨工事の積算は私の計算と気仙沼の高橋工業の見積りがドンピシャと当り四百万円で決まり。直接渡辺さんと高橋に契約してもらう。基礎工事はまだ積算が大きくズレていてどことも契約ならず。四〇坪程度の住宅だから構造体に四百万というのはバランスがとれた値段だと思う。渡辺さんの家の建設およびそれに要した値段の全ては「開放系技術・デザイン・ノート」に順次公開してゆくので関心ある方はそちらを時々ヒットするのが良いだろう。世田谷村オリジナルの住宅にしてゆく。
 昨日室内の長井が来て11月号「ハウスメーカーに騙されるな」大手住宅メーカー30社徹底比較 見せられた。オッ表紙イイネ。非常に良い。くらいに思ってたが、家に持ち帰って読んで仰天。良くここまでやった。アッパレである、ジャーナリズムの王道をいった。流石山本夏彦である。

 十月二六日
 昨夜家に戻ったら藤森照信からファックスが入っていて、NHKの、先輩が後輩としての小学生に語りかけるという番組に出るから、ヒマだったら見てくれというものだった。十月二八日のゴールデンタイムの番組だから見れるかどうか難しいが、やっぱり視てやるか。こちらもNHKの教育TVへの出演が予定に入っているのだが、又、アイツは一歩先に行ったと言うだろうな。だってゴールデンタイムのメジャー番組だぜアナタと明るく自慢するに違いないのだ。イヤー手帖を見たら二八日は日曜日ではないか。これは充分見たくなくても見れてしまうよ。日曜日のゴールデンタイムのNHKに出れるのは建築界では安藤と藤森しかいないな。クソーッと思うがこれは仕方ない。藤森の方が要するに俺よりも有名なのだ。今の有名さ、知名度は恐らくデジタル測量になっているだろうから現実には更に厳しい数字が出ているにちがいない。こういう形の有名さ情報の廻り方は現代特有のものだから、藤森はコルビュジェとはちがう建築家になる可能性がある。そしてコルビュジェと同じタイプの建築家にはなれない。安藤忠雄はメディアをバックにコルビュジェをデジタルで追いかけつつあるのだが、藤森はそれとは異る荒野にさまよい出ている。そこが面白い。もう少し年がいって、つまり初老の域に達して歴史家のプライドをかなぐり捨てても良い仙境に達すれば藤森は何を作り出すかわからんぞ。現段階では藤森の建築はヘタッピイのだけど、うまい下手は数をこなせば何とかなるから。情報化時代の建築家のヒナ型は意外や意外、藤森照信だったという幕明きになるかも知れない。何が起きるかわからない世の中だからナア。

 十月二五日
 ギリシャから元スタッフのクリソストモス来室。やはり十一月から兵役につくそうで期間は十四ヶ月だそうだ。ようやく日本に慣れかけてきた時の兵役だからショックだったろう。担当していた星の子愛児園の進行状況を気にしてくれた。ヘレン・ケラー記念塔の完成写真を見せる。残念だが仕方ないことなのだ。日本の学生はいかに過剰な自由を保持しているか自覚しなくてはいけない。サヨウナラ、又会えることを祈りましょう。
 夜七時より明治通り明和会でレクチャー。都心の空洞化とオフィスビルのアパートへの再生、コンバージョンについて話す。具体的に早稲田の学生の居住空間の確保、留学生の為の床面積の不足と明治通り沿いのビルの空き床の問題解決の方法として話したのでわかりやすかったと思う。今学生に課題としてこの問題を出しているので良いタイミングだったように思う。学生が百人程聞き込み、リサーチに周辺をウロつき始めて、何が起きたのかと商店主、ビルのオーナーは思い始めていただろうから。二〇〇二年一月に学生の提案の展覧会を開催することを次の段階にしましょうという事になった。少し学生にも気合を入れなければならない。近所の寿司屋でおそい晩メシ。寿司をつまみながらテーブルについた面々の顔を眺めれば、これはいかんともしがたい老人社会で、それでも皆さん元気に議論を続けていた。十時三〇分退席。

 十月二五日
 どうやら私には日本趣味、和様趣味といった類の好みはほとんど無いらしい。それを次第に自覚するようになっている。

 十月二四日
 朝嘉納先生と大森の山下設計へ。柴田社長と会う。次期稲門建築会会長の件。午後、星の子愛児園現場定例。近藤理事長と生田の保育園を見る。地下部分に無駄なスペースがあってそこを何とかならないかという話し。保母さんの部屋に感じの良い絵があって、聞けばバングラディシュの画家のものだと言う。近藤さんの意外な面を見た。奥深く芸術家の魂がひそんでいるのだ。
 夕方世田谷に帰る。椅子を一つデザインする。十五分ほどで寸法入りのスケッチしたが、こんな風に息をするように出来たアイデアは意外や意外良いものになるのかも知れない。ところで朝電車に乗っている時に二〇〇一年椅子の旅なる変テコリンなことを思い付いた。まとめておいてみようかどうしようかなと思案する。聖徳寺スケッチ。

 十月二三日
 家の生垣のさざん花がほぼ満開である。このさざん花の咲き振りは野放しな感じがあって見事だ。朝屋上菜園の様子を見に上る。これから冬にかけてどうすれば良いのか途方にくれる。冬に実る果物、野菜はやっぱり無いのかな。
 午後聖徳寺関係の二つの契約を大学の研究室にて行う。

 十月二一日
 朝屋上菜園に上る。草むしりして、土を掘り返し中華春菊と正月菜の種をまく。こんな小さな菜園でも草の匂いがほのかに漂よって、鳥や虫が集まっている。GAHOUSE原稿「幻庵」書く。
 午後新宿へチョッとした買物。南口西口周辺を歩く。全く十年前とは人の流れがちがっていた。若者の風俗もTVのCM通りになってしまっているようだ。カンボジアへ帰った小笠原さんの知り合いが二、三人来ることになっているので夕方世田谷へ戻る。日経朝刊に松岡記者が大きく世田谷村を紹介している。建築ジャーナリズムの小さな村のセコさから脱出しようと決めてしまった私にはこういう記事は嬉しい。

 十月二〇日
 北海道十勝。昨日突然二川幸夫明日十勝撮影の連絡入り同行する。早朝五時起床。家内に羽田まで送ってもらう。早朝の環八は車も少なく気持ちよく走り、一時間で羽田に着いてしまう。朝一番のJASで帯広へ。GA杉田君も同行。飛行機は満席。アメリカのテロ事件の余波で日本人の海外旅行者が激減し、沖縄も危ないようだという事で、旅行者の流れが北海道に集中しているらしい。機内でスープをリクエストしたら狂牛病事件の影響で出すのをひかえているとの事。スープの素に牛の何かが含まれているからだ。物騒なような、滑稽なような、しかし機内の人々の顔付や、立居振舞いは勿論平和ボケの面々のそれでもあり何とも不思議なフライトであった。北海点字図書館後藤氏帯広空港に出迎えてくれる。天気は良いが肝心の山が見えない。二川幸夫こりゃ駄目だ帰ろうなぞと言い放つ。ヘレン・ケラー記念塔十時過着。写真家は光の様子が満足でないようで、機材の選択を過ったと一人言を言う。現場には共同通信の宮崎晃記者が待っていてくれて、この人とは佐賀で会っていらいの附合いである。
 二川幸夫塔のまわりを一人言を言いながら巡る。それが気になって仕方ないのだが、撮影は写真家が王様だから、何となく居るのか居ないのかわからぬような位置にいるように心がける。建築を呑み込むのに手間取っているか、気に入らないかどちらなのか解らない。写真家の痛烈なドライさを私は知っているから、コリャ駄目だ帰ると言い出すかと冷汗をかくが、もう仕方ない。勝負なのである。こちらはこちらでこれは今のところ俺のベストだと言う確信は一向にゆらがないのだから、これを駄目と言われれば、ここで真昼ならぬ朝ぼらけの決闘かと覚悟を決める。しかしながら、どうやら釈然としない何かがあるようだ。写真家何となく撮り始めるがどうも気合が入らない。西にまわり、撮り続け、内に入る。中は真暗だから予想通り撮りようがない。だって盲目の人のための建築なんだから。こちらも居たたまれなくなって宮崎記者のインタビューを写真家のじゃましないように受け始める。写真家は一人にしておいた方が良さそうだと思ったからだ。昼を過ぎて、光が西へ廻り、写真家はようやく動きに精彩が生まれ始める。朝撮ったアングルを撮り直し、再び塔を巡り始める。午後三時何とか終了。しかし写真家はまだ納得していない。空腹の極み。写真家もう少し残って撮るから、お前勝手にメシ食ってこいなどと言い放つ。宮崎記者杉田君も明らかに腹ペコペコでどうしようもないが、どうする事もできない。二川幸夫「中途半端な撮影だった」と言いながら荷物をまとめ始める。建築が中途半端だったのか、何が中途半端であったのか、こちらも釈然としない。勝負は不明だ。建築家と写真家の関係は厳しい。
 帯広市内の象設計集団設計のビアホールでビールと食事、後藤氏インタビュー。後藤さんは二川幸夫の質問に明晰に答える。盲目の人のための建築について俺がしゃべるよりも良かった。盲目の人の建築が眼の見える人のためにもなるという事を彼は話した。二川幸夫少しばかり釈然とする。俺は何となくビールを飲み続けた。北の屋台を見学し、ラーメンを食べて空港へ。最終便で東京に戻る。変な一日だった。何かがすれちがっていた、発表は来年になるのだろうが、どうなることやら。何かがすれちがっていた事だけは確かだ。しかし写真家の眼には筋金入りの確かさがある事は信じているので、その原因を考えてみる価値がある。こういう勝負が続くのは俺にとっても張り合いがあるが、油断大敵である。でもね、山が視えなかったのが、すれちがいの原因の一つだったと俺は信じる。幌尻岳、十勝連山がバックになければ成立しない建築なのだ。小さな塔は山にひきたてられ、又、同時に山をひきたてるものだから。ともあれ、今日の勝負を振り返ると、手掛けている建築はひとつも、手を抜けない。次の建築、次の次の建築も力を尽そう。イヤー疲れた。休みたいけど、休めないよ全く。
 宮崎記者にはめいわくかけた。無事に札幌まで帰れただろうか。

 十月十八日
 何日か前、小笠原さんと新宿で会い、ひろしまハウスの水屋の図面を渡した。“ひろし”という人物を連れてきた。これがマアけったいな人間で、二人が連れだって歩く様はまさにフーテンの寅と弟分の“ひろし”なのであった。風景そのものが根こそぎ変ってしまった新宿の、しかも今をときめく南口のビルの壁一杯の大スクリーンをバックにして何やらフワついた空気の中を、二人が歩く様はまことに異様であった。今どき珍らしい古びて汚ない台湾料理屋に連れていかれ、又様々に面白いホラ話しを聞かされた。川口慧海がチベット潜入した際にネパール奥地のツクチェに三ヶ月程滞在したのは良く知られている。その時の川口の面倒をみたのが小笠原さんの友人の、何だかわからんけれどヨーロッパでトップモデルであったジョニーの先祖のセルチャンでありトラチャンでもあり、バタチャンであったそうな。セルチャンが本家で分家にも川口は泊ったそうな。要するにジョニーの、この人物だけ何故ジョニーと呼ばれるのかは知らない。ジョニーの2番目の兄さんのところで川口はずいぶんお世話になったらしい。面倒見たよー、という感じ。そのジョニーファミリーがなければチベットなんか行けなかったそうで、話しは突然、ジョニーは川喜田二郎の紹介で眼の治療を受けるために日本にも来た、と。まあ、こんな具合の話しが実に面白く何時間も続くのであった。夢うつつの一夜の幕間劇であった。
 いずれ、いつの日かカトマンズ盆地のキルティプールの復元作業が私のファイナルワークになるのだが、その時には小笠原さんに声を掛けてみようかな。それまで元気でいてくれれば良いが。
 十一月六日から開始するA3(エースリー)ワークショップ東京の講義の準備を始める。開放系技術について初めて少し体系的に話してみるつもりである。課題では宮本茂紀さん指導の椅子づくりもやってみようかと考えている。
 住宅をテーマとした設計のプログラムには何とか家を建てようとしている人の参加を得たいと考えているが実現できるかどうかわからない。色々と努力してみよう。明日から一週間そんな人を探し当てるのに全精力を集中してみるつもり。丹羽君をワークショップに参加させよう。彼を介して少しでも体に障害を持つ人が参加してくれたら良いワークショップになるかも知れない。

 十月十五日
 早朝室内原稿を書く。やればできるもんだ。何故〆ぎりぎりにならないと書く気が起きないのか。あるいは〆を過ぎないと駄目なのか自分でもわからない。藤塚光政そして日本経済新聞社世田谷村取材。夕方六本木国際文化会館ソタマ夫妻栄久庵憲司さん等とミーティングおよび会食。久し振りに変な夢をみた。東北か何処かの大体育館のようなところで歌手として私が出演している。唄おうにも歌詞は忘れて、デタラ目だし、出演中に客はドンドン帰っていってしまう。そんな場面に松崎町の森さんや役場の連中がいきなり登場して一件落着という馬鹿な夢であった。何か深層心理学的に意味があるのかね。

 十月十四日
 朝富士山聖徳寺へ。契約の日であったが、寺の方にミスが色々あって契約せず、夜疲れて帰る。完全に無駄な一日であった。最近だんだん一日一日が貴重なものになっているので、こんな風な徒労は本当にイヤだ。夜九時東京へ帰る。しかしながらよくよく考えてみれば、こんなドタバタ、ジタバタがあるからこそこの仕事は面白いのだ!と考えることにしよう。こんなに無駄をさせられたのだから、観音堂の設計はもう一歩も引かないぞと決めた。徹底的にやる。今夜は「室内」その他の原稿を書かねばならぬのだが、チョッと疲れが回復しないので夜十一時仮眠をとる。三、四時間で眼をさますことができるか、我ながら自信がない。

 十月十三日
 午前、太田浩史伊藤香織結婚式。太田君は太田邦夫先生の次男。伊藤君は私のワークショップの生徒。共に東大生産研卒。二人共これまでスクスク育ってきた。何の障害も恐らくは無かったのだろうと思う。良い人柄、良い知性の持主だと知れる。しかしナァ。良い人間が良い建築を作ることは先ず無いんだナァ。しかし良い家庭で育った人間の何がしかは音楽の径を選ぶのが不思議だ。太田さんの三男はどうやら音楽畑に進んでいるらしく、繊細でくっ折した人間に育っているように思った。我家の三人のガキはどうなってゆくのやら。
 夕方、小笠原さん渋井さんの奥さん世田谷村来訪。家を案内してから宗柳へ。小笠原さんの反応が面白い。日本に帰って電車に乗っても街を歩いていても吊し広告をはじめとして全ての情報が読めて理解できてしまうのが何とも不思議だと言っていた。という事はカンボジア、タイでは抽象的な記号の群の中に漂っている日常なんだ。小笠原さん意外や意外、現代的なスタイルで生きているんだという事がわかった。宗柳の新ソバ、今日のは本当にうまかった。マダム渋井に頼んでカンボジアの匂い草の種を大使館でもらって、屋上で自栽しようかと思い付いた。ハスの実も欲しい。屋上に秘かな東南アジア風菜園があるってのもイイゼこれは。あんまりヨカないか。一昨日であったか、気まぐれで買いダメしていた金魚草、八重矢車草、支那わすれな草おまけにスイトピーまで屋上にまいてしまったから。まことに私は種まきまでも非方法的だ。

 十月十二日
 早朝より大学で会議、来客、学生相談、製図指導。夕方前稲門建築会会長櫻井清氏通夜。櫻井さんは本当に穏やかな紳士だった。会長職に誠に適した方であった。ここ十年稲門建築会の再生に関して私なりに責任を果たしたつもりだが、櫻井さんの穏やかさがあって初めて私なりの改革ができたのは確かな事だった。これからのOB会の運営は非常に困難なものになるだろうが、二年間は嘉納さんにバトンタッチする。四年後にはチョッとし残した事があるので何らかの形で又、戻るつもり。夜、西調布中川さんのところで聖徳寺霊園の契約に関して最終のつめ。この建築計画に関しては細心の注意を払って施工計画をつくりあげることが先決だ。

 十月十一日
 朝六時半温泉につかる。体に少し力が戻っているような気がする。松崎町のおかげだ。朝食をとっていたら余りの人の少なさに驚いた。全館六〜七室しか入っていない。観光でやってゆくしかない町にとっては辛いだろう。かと言って速効薬もあるわけは無し。
 岩科学校を創設した明治初期にこの町は一番輝いていたと思うが、依田町政はそのルネッサンスだった。かって津野海太郎が松崎町のまちづくりの骨格は復古であると言い抜いたことがあったが名言だった。高校生の頃、大きなリュックサックを背負って伊豆半島を一周した事があった。まだ道路も完備されておらず、海沿いの細い径を歩いた。今思えば岩地集落のあたりだったろう、激しい嵐に会って民家の納屋にもぐり込んで避難していたら、その民家の人が声を掛けてくれて、座敷に上らせてくれた、いろりの火にも当たらせてくれてた。あったかいフトンで休ませてもくれた。名も知れぬ高校生にあれ程までの底知れぬ親切が松崎町にはあった。西伊豆は陸の孤島だと言われていた頃のことだ。次々に道路がでてきて、歴史の流れから言えばその新しい道路沿いに伊豆の長八美術館は作られた。依田敬一の仕事だった。陸の孤島と呼ばれ、不便だった頃の西伊豆は本当に美しかった。人の気持ちもおだやかで情に厚かった。私達の仕事はなんだったのかと深く疑う。戦後五〇年、アメリカ文明化のツケが今噴き出ているような気がしてならない。ノスタルジーには強い構造がある。歴史学とはそのノスタルジーを構造化しようとする意志に他ならぬ。私の松崎町での仕事の数々はあの時の岩地の幾晩かの宿泊代みたいなものなんだと思う。
 朝の役場での打ち合わせは、東京からのスタッフの図面届けが遅れて十一時になった。三○才にもなって汽車に乗り遅れましたじゃネェだろうバカヤローが。今のガキは学生気分が抜けるのに時間がかかり過ぎる。  時間にアキができたので近藤さんの倉へ。佐藤健の方の倉は二階の東側の部屋に畳が入っていて、これなら泊まれる。私の方の倉も、伊豆文の仕事が動けばスタッフが泊まれる床を確保しなければならぬので、二階の床づくりを急がなくてはならない。しかし、便所だけはニつの倉の間に作らなくっちゃならんだろうなコレワ。人間は喰ってクソして寝る動物でもあるからな。
 役場で打合わせの後、小林の店小邨でソバを喰う。ケーキ屋フランボワーズの亭主と奥さんが来ていて、亭主とは初めての話しをした。朝役場に行く前に店でコーヒーとモンブランをごちそうになっていたので丁度良いめぐり合わせであった。
 夕方の汽車で東京へ戻る。遅刻して来たスタッフの松本が馬鹿面して眠りこけているのが眼ざわりであったが、これはもうガマンしなくてはならんのだろう。ガマン、ガマンの日々なのだ。一将成って万骨枯れるどころじゃないぜこれは、万骨だらしなく生き一将枯れるだ今は。我ながら、ひどい馬鹿共を養なっているなと痛感しつつ東京へ戻る。さらに松本の下で働いているマネ事をしている大バカ共はその現実をおして知るべし。冗談じゃないぜこの現実は。
 大学の研究室では本物の設計が教えられぬ、しかも日本広しと言えどもそんな事、すなわち大学で設計らしい設計をやっていたのは私のところだけだったのだが、遂にそれも落城して、私は仕事場を私の家の地下に移した。そこで教育と設計を両立させようと試みている。しかし、今のところは絶望的だな。院生は涯しないばかが多いし、これは経験を積めば何とかなるという類の問題ではないように思う。年々歳々院生の生活の質は下落しているし、ましてや学部生なんかは大半がブタがゴロゴロ寝ているようなモノなのだ。大学はすでに養豚場になったか。養豚場なら最期は殺して肉にしてしまえば良いのだが、さすが大学ではね。

 十月十日
 雨の中を伊豆松崎町へ。スーパービュー踊り子の階段教室みたいな座席がひどく居心地悪く、この車輌デザインは失敗だな。夕方松崎着。つづら折りの丘を登ってサンセットヒル松崎へ。いつもの二二一号室。つまり職員の宿直室である。この貧乏たらしい部屋が何故か居心地が良い。温泉にも一番近いし私には一番だ。役場から来ている支配人から最近の松崎情報を聞く。再び暗雲が漂ってきた風がある。十一月の町長選は三人が乱立して、行方定まらぬと言う。私の仕事の伊豆文の再生も議会から色々と小言が出て、森秀己さんも苦労しているようだ。
 七時、いつもの通り、森、小林が集まってくれて食事。依田敬一町長時代からすでに二〇年以上の附合いだが、皆少し年をとった。ハンマは十一月まで漁に出ていて不在。それ故にトシちゃんも欠席。やっぱり近藤二郎さんの倉の改修をいそがないとけないねこれは。有為な人材が集まる場所が今は無い。依田さんが亡くなって町は灯が消えたまんまなのだ。英才が居なくなって、居る時には解らなかった存在感が年を経るにしたがって大きくなる。食事も早々に引上げて休む。

 十月九日
 午後研究室に広島の平岡さん、プノンペン・ウナロム寺院ひろしまハウスの小笠原さん来室。元気な小笠原節を久し振りに聞く。地雷で足を吹飛ばされた人の手動の三輪車でワールドツアーを企画しているとの事。日本の各自動車メーカーにあいさつ廻りをして、資金援助依頼もついでにしているとの事。この人の楽天的な前向きさは誠に貴重だ。見習わなくてはいけない。勧進聖というのはこういうスタイルだったのかと想わせるな。重源なんかもこんな風に吹きまくって、すいと銭を出せと手を出したのだろうと思う。それが板についていてイヤ味が無い。俺はまだその域に達していない。モジモジしてお金下さいなんて言うのが我ながらセコイ。しかし小笠原さんみたいな人は日本にはいなくなった。六〇年代ヒッピーの生き残りだ。化石が歩いている風がある。
 小笠原さんから最新のひろしまハウスの現場写真をいただく。最上階の巨大な仏足も出来上っていて仲々に良い姿になっている。仏足まで数えると七階建の大きさになっていて、これではウナロム寺院の大僧正がもう少し低くならんかねと言ったとか言わないとかの話も、成程ねと思わせる。チョッと元気でた。いい建築を作っているという実感がある時はイヤな事がいくらあっても大丈夫。
 しかし、ひろしまハウスの現場はまことにゆっくり進んでいるのだが、本来の建築はこれくらいのスピードでたてるのが理想なのではなかろうか。この現場は院生も含めて実に様々な人間が図面を引継いでいるので、単純に秩序立っていないのも何か自由な感じが出ていてイイと思う。
 内外のレンガ積みもこの自由な感じを拡張できれば良いのだけれど。水まわり棟の形も大体まとまってきたので小笠原さんがプノンペンに帰る十七日には図面を託せるだろう。
 椅子の模型がでそろい始めて、古代エジプトの書記像をモデルにしたのも、今度はうまくいきそうだ。院生に椅子の模型作りと図面を描かせたのはどうやらうまくいった。材料と実物の肌ざわりの感じを手中に入れさせるのには、どうやらこの方法が一番だと思う。しかし、寸法入りのスケッチを六脚分つくるのは骨がいった。チャールズ・レニイ・マッキントッシュは大変だったろうと恐れ入る。あのころの建築家たちの作図能力と比べれば、今の時代の建築家のそれは赤子同然だなコレワ。近代建築様式のシンプルさの素は建築家達の作図能力の減退にも原因があったんじゃないか。アドルフ・ロースの一八九八年の椅子なんか見ると、装飾は罪であるなんて良く言うよって感じなのがおかしい。椅子そのもののフォルム自体が装飾的なのだ。アドルフ・ロースの椅子とマッキントッシュの椅子は同時代のものをくらべてみてもマッキントッシュの方に分があるな、圧倒的に。
 椅子のデザインからその建築家の建築を眺めわたすなんてのも面白いかも知れない。

 十月八日
 椅子のデザイン続行。現在6ヶ目。この精度で建築が設計できたら革命がおきるだろうが、何故できないのかな。身体との即応が建築にはまだ要求されていないのと、実際の作り方への設計家の対応する能力が低いのと、その双方からきている。
 午後、フィンランド大使館へ。二〇〇三年に予定されている展覧会の打ち合わせ。フィンランドからレヴァント、ヴィヘルヘイモ両氏が来日していて、原則論的打ち合わせに終始した。総勢十三名のミーティングだったが、本当に必要な会合だったのか良くわからぬところもある。二〇〇二年二月にラップランドでシンポジウムを開催することになっているが日本側のパネリストを来週の月曜日までに決めなくてはならない。「静けさ」をテーマにフィンランド側は若手のデザイナー達を選ぶそうだから、日本も二〇〇五年にはそうすべきなのだろうが、三〇代に人材が出現してくれれば良いのだが、今の状況ではとても無理だろうな。日本の建築を静けさというキーワードで状況を横断しながら語れる人物は一人しかいない。明日相談してみよう。
 夕方六時半会議終了。広尾のレストランで大使館スタッフも交えてディナー。
 十時半帰宅。

 十月七日 日曜日
 休息。何でこう休むのが下手なんだろうとタメ息ついてしまう。朝七時半に起きて、古い家具や小箱を3階に上げたり、降ろしたり。誰か友人に電話してみようかと思ったり、でも考えてみたら何の用件もなく、キット嫌がられるだろうと小心になって止めたり、カーテンを開けたり、閉じたり。何処かに置き忘れたらしい時計を探したり。全く休んでいない。絵を描くのもあきたし、すでに屋上菜園もあきてしまった。秋マキの種は用意してあるのだが屋上にあがるのがおっくうだ。
 これでは来たるべき老人時代をとても乗り切ることはできない。予測するに、長生きしてしまったらとてつもない毛嫌い老人になるだろう。誰も相手にしてくれそうもない。しかし孤独には弱い。ガキの頃から一人遊びなんてした事がない。いつもガキ大将風に走り廻っていた。大人になっても大将じゃないが、少佐ぐらいの感じでいつも何かやってた。少くともやろうとしていた。退役少佐は何をして休めば良いのか。それがどう考えても、想像しても思い浮かばない。死ぬまで仕事ってのも野暮だし、きっといづれ建築もあきるだろう。やる事なくてイライラして、家族にも見放され、友人達にも回避される傾向になり、ヤケになって老人社交ダンス倶楽部などにもぐり込み、助平ジジイとののしられ、古本屋では立読み禁止のビラを貼られ、結果恐らく引込み思案の毛嫌い老人になるにちがいない。
 自分では何もやろうとしないだろうから、何か上品な事やってる友人達をハイエナのように渡り歩き、又来たの、なんて冷い事言われて震えあがり、お前さん冷いじゃないか若い頃はよく一緒に遊んだじゃないか、とののしり返すこともできず、全く途方に暮れ、仕方なく釣りにでもと思っても釣糸たれてる自分の姿を想うだに恥かしく、とてもできない。家内は年とったら一人で旅行するのだと宣言していて、私など眼中にない。その計画には納得している。老いて共に旅するのに私くらいイヤな相手はいないだろう。朝起きれば昼飯どうすると聞くばかりだし、夕方になれば明日の朝食どうすると聞く。一向に気分は休まらない。
 犬、猫を友にするという手が残されているが、これまで犬猫にしてきた数々の悪業を思い起こせば、とても彼等は私を許さないだろう。小学生のころカメを飼って、それには唯一悪さをしなかったし、キューリなど小マメにあげていた記憶があるから、カメ族は私にはうらみは無い筈である。で、結局、毛嫌い老人は何処かでこっそりカメなんか買ってきて、密かに屋上のカメに入れて飼うことになる。話しかける相手もいなくなっているから、カメをのぞき込んではカメにグチをこぼし続けて、カメまで首をこうらから出さなくなる。こらこらカメよカメさんよ、首ぐらい出してくれてもいいじゃないのと、カメに顔を突込んでいるうちに、首が抜けなくなり、悲惨かつ滑稽な最期を迎えてしまう。新聞のあり得ぬ出来事なんて欄の囲み記事に出てしまい。某老人カメに首を突込みカメにカマれて悶絶。などと本来悲しい筈の最期までお笑いにされてしまう。そんな毛嫌い老人に私はなってしまうだろう。辛い。こんな事書き続けている自分がみじめだ。
 今日、一日何をやるのか考えなくてはならない。書かなくてはならぬ原稿は多過ぎるから、来週にまわそう。もうチョッと面白い事ないのかね、まったく。

 十月六日
 昨日は名古屋でシンポジウム。できるだけ講演会その他は断るようにしているが、川島康治さんからの話しだったので出掛けた。「まちなみ・まちづくりシンポジウム」という事で今の私の関心から外れているテーマだったが、「まちづくりは、今」ということで話せということだった。昔の遺産で何とかしのいだ。しかし、会場に幻庵の榎本基純さんが来て下さっていたので、話しができて良かった。だいぶん昔に妹尾河童さんが講演会のあとはすぐ帰るもんだ、残るとボロが出ると教えてくれたのだが、そうはうまくいかない。会食の場が用意されていて、結局名古屋泊り。野辺公一が別の会に来ていて彼も誘って食事となった。しかし橦木館、豊田佐吉邸、伝武田五一設計一九二四年春田鉄次郎邸を見学できたのは良かった。食事の後、野辺と軽く飲む。「群居」廃刊後の彼の身の振り方はチョッと気にしていたのだが、なんとかやっているようだ良かった。大野勝彦、布野修司とは結局縁がなかったなあ。
 今朝は名古屋駅のツインタワーのホテル、マリオットを朝ゆっくり出て、のぞみで東京に戻る。動くことに全く感動が無くなってしまった、汽車では眠るだけ。だんだんこうやってミイラみたいになるんだな。世田谷村でいくつか打合わせ。

 十月三日
 フト気が付いた。バウハウス建築大学のヨルク・グライターが来日する度にそしてワイマールで私にくれるプレゼントに妙な一貫性があるのじゃないか。ニイチェの石膏像、イビツな卵形のモノ入れ、そしてカラヴァッジョの豪華本。全て破壊に関連ある人物でありモノだ。グライターとはいつも私の語学力のせいもあり、シンプルな英語で話し合ってきた。だから私の考えを伝えるのにも簡単な言葉でしか伝えられていないわけで、そんな事もあってグライターの内に私に対する強くデフォルメされたイメージが胚胎しているにちがいない。自分にそくして考えてみれば、一度入った先入観は消える事がない。これから先もグライターはそんな観念を持って私に対するのだろう。遠い国に直線的な理解者を得たような気もするのだが。
 今日は快晴で陽光がドカーンと二階の空間に指し込んでいる。月並みだけれど気持ちよい。午後思い立って星の子愛児園現場へ。一階のコンクリート床に打ち込んだ幾つかのオブジェの様子と柿渋コンクリートの出来不出来が気になって。マアマアの出来だったが仕上げはデリケートに手をかけぬと駄目だ。繊細すぎると失敗するし、荒っぽいままでもうまくない。日本の書の感じだな。あのムラをうまく生かさなくてはいけない。  椅子のデザインに興が乗って、今日で四つのアイデアがすすめられている。どうせやるなら異常な数に辿り着かせてやろう。

 十月二日
 朝、三つの椅子のデザインをスタッフに渡して厳密な作図におとしてもらうように頼む。全てアルミの単一素材のもの。午後、ミネルバの宮本茂紀さんに電話してアドヴァイスを依頼する。宮本さんは日本一のモデラーで倉俣史朗も世話になっていた人なんだから、心強い。厳密な寸法など教えてもらえればと思う。本格的な試作をしてみて、良ければ商品にしてみよう。鈴木博之にあげるのはまだ考え付いていない。アルミじゃないと思うので、もう一度真鍮と何かを組み合わせてみるか。あらぬ事を口ばしったのを反省しているが、お蔭様で椅子のデザインができるようになった。私の後半生は反省の半生だなコレワ。
 佐藤健から電話がかかってきて、今日東大病院で結果が出て、肝臓のガンはとりあえず退治したと言う程ではないけれど、静脈内からメスを入れた手術で硬直状態にミイラ化できたそうで、長生きできそうだと言っていた。予定通りシルクロードの旅には出るとの事。医者も行って良いと断言したらしい。これで酒さえ断てれば長生きできそうだと、そんなに長生きしたくない様な口振りであった。でも本当に良かったよ。夕陽のガンマンだなんて強がっていたけれど、誰がガンになってガンマンだとかガンダーラだとか笑ってられる奴がいようか。
 ともかく、これで私のにわか仕立ての仏教入門もひとまづ休めることになった。アト長くて5年だとおどかすもんだから、こちらもアワてて勉強してやろうと思ったのであって、アト二〇年も生きちゃうのだったら、無理して急ぐこともないのだ。佐藤健も、本当にホッとしただろうが、折角ガンマンとしての優位を確保しようとしていた矢先のコトで、ガンマンからいきなりタダの人になってしまったのだった。しかし、今度のことでは俺も何だか色んな意味での学習をしたことだけはたしかだ。マアだけれども人間てのはいくら学習に学習を重ねても一向にかしこくならないところが、まことにおかしい。色んな体験を重ねても人間の本性が成長しないなら、色んな体験も、それに伴う学習も、してもしなくても同じ事であるのではないか。もしかして、おシャカの野郎の悟り、解説って、こんなことだったのかと思う一日であった。日本的思考の中枢にあると思われる本覚思想は私の内にも確実に巣喰っている。

 十月一日
 いくつかのプロジェクトの打合わせの後、午後椅子のスケッチ。椅子のデザインが面白いのは完全に手の中にコントロールできるから、要するに自分が全部出てしまうってこと。逃げ隠れできない。スケッチをすすめてゆくと次第に自分の本体が現われてくるのがチョッと恐いね、コレワ。自分のスケッチを椅子の名作世界の数々と恐る恐る参照してみると、一番似ていたのはプルーヴェの椅子だった。どういう事なんだろうねこれは。イームズとは全く違う。イームズの椅子はやっぱりアメリカの椅子だ。典型的なアメリカンスタイルである。技術によって素材の可能性を引き出すのだが、それ以上のものが引き出せていないような気がする。それ以上のものとは何か?なんだろうね。物神性かな。ハンス・J・ワグナーの椅子にも物神性は無いが、フォルムに変な魔者がすんでるような気がするな。それもイームズには無い。何がよいのかナァ。

9月の世田谷村日記

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