石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2002年2月の世田谷村日記 |
一月三一日 |
卒業計画判定会議。夜世田谷打合わせ。宮沢賢治殺人事件読み進む。読書のスピードが遅くなった。我ながらまどろっこしい。
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一月三〇日 |
朝十一時星の子愛児園上棟式。会食。打ち合わせ。熊谷組高橋工業とスケジュール、予算の件で少々厳しい話し合いになった。いつもの事だ。こういう事で気の弱い奴は設計から脱落してゆく。二月四日に屋上の不整形シリンダーの部品が現場に搬入される。それからがこの建築の勝負だ。夕方明和会新年会。元議員現議員入り乱れてアイサツ合戦で現実社会の滑稽極まる断面を見る思いがする。
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一月二九日つづき |
早稲田の卒業設計の大半が保存と再生のテーマが選ばれていた事の驚きはチョッと時間をかけて考えてみる必要がある。学生達の直観がそうさせたのか、私達の課題の作り方、与え方がそうさせたのか、そのどちらかという単純なことではなくて、やはり学生の時代感覚とからみ合って起きた現象なのだろうが、この小事件、これは明らかに事件なのであって偶然に起きた事ではないのだが、この事件をきっかけに事をより前向きにとらえてゆく可能性について沈思黙考する必要がある。
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一月二九日 |
フィンランドへ行く前に東大の原稿だけは上げなければならない。他にも幾つもたまっていて、次第に深刻になってきた。書き物がたまってくると体の節々が痛くなるので、アアだいぶたまってるんだなとわかる。編集者の怒りが宙を飛んでくるのだろうか。今日は卒計の採点。毎年の事だが期待せずに見たい。凄い奴が出てくるのはもう望まないが、キチンと時代をとらえたモノが出てきて欲しいとは思う。近代建築史のまとまった講義がない事は設計製図の成果にも現われているのではないか。歴史感覚は設計には必須なのだが、それを教える事が早稲田は困難な状態にある。 イヤー仰天した。早稲田の卒計の大半のテーマが保存と再生になってしまった。ここ迄急転回するとは予想もしなかった。呆然である。
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一月二八日 |
朝十時鶴間市役所分所で森の学校打ち合わせ。午後三時世田谷に戻る。夜八時迄打ち合わせ。こんな日は一日実務的打ち合わせで暮れて疲れて、何だか充実した一日のような気になってしまうのだが、それは怪しい。
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一月二七日 |
昨夜は嵐だった。雨降りだと少なくとも霜柱は降りない。そうするとようやく芽ぶいた百合や水仙の芽がやられる事はない。家の屋上の事なんだが、そんな風にしか頭が廻転しなくなってきた。我ながら気味悪い。しかし家の屋上の霜柱の余りにも壮絶な事。五〇mmになんなんとする、時に70mmを超える氷柱が屋根一面に林立するのである。南の畑の霜柱なんか地味なもんで見るに耐えぬが家のは凄い。余程家の屋根は冷えるんだろうな。冷やすときは冷やすというのが今時の先端的な自然農法の流れらしいから、さぞかし上手い野菜がとれるだろう。 夕方西域関係の本を探しに出かけるが収穫なし。
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一月二六日 |
現代とは何か、東大出版会の原稿書き始める。正確に言えば書き始めようとしている。頭がコラム型になってしまっているので少見出しをつなぐ思考形式から変わるのに苦労する。同時多発テロに出来るだけ触れずに書くことだけは決めた。檜垣平山に古材再生のチョッとしたデザインの指示。伊豆のハンマーから家のデザインできたかのさいそくあり。今日はこれから難波さん野村とコンバージョンの打ち合わせ。
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一月二五日 |
午前中向ヶ丘遊園駅で待ち合わせ、近藤さん古木さんと森の学校の打ち合わせ。午後、予定変更して休む。634346会の方々には失礼した。
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一月二四日 |
朝大学へ。学内打合わせ多数。 夕方東大出版会打合わせで東大へ。原稿書けよと鈴木博之に叱られた。全十巻の大仕事で大方の原稿は上がってきているようだ。堂々たるもんだな。鈴木博之の仕事としても大きなものとして残るだろう。ひとしきりいつまでに書くのさ、もうお払い箱ヨと叱られた後で出版会長谷川氏と三人で会食。東大近くの金魚屋なる面白いレストラン。江戸時代からの金魚屋さんで、往時は金魚問屋の元締めであったらしい。昔金魚を泳がせていた大きな水槽が床になっていて、そこで料理をいただく趣向である。三人でプカプカ浮いて飯喰って面白かった。今年始めての赤ワインであった。気が付けば年を経る毎に飯を喰い、酒を飲む相手がいなくなっている。だんだんシンプルになってゆくんだな交友関係が。宮沢賢治殺人事件という本が面白いぞと教えられた。ある種の偶像解体のものらしいが、鈴木好みの本なのだろう。年とったなあとお互い言ってはいるが、彼は年取ってないなと痛感する。私の祖父の石山福治は何かの縁で外務省の研修所で無駄飯喰はせて貰っていたらしい。要するにすぐには役に立たぬ学問らしきものを勝手にやっていた。そして漢和辞典を作った。その外務省研修所は東大の内田祥三先生設計のもので家内が偶然に手伝っているそれの保存運動の後楯が鈴木博之だ。私が生まれた所はその研修所の近く文京区小日向で、聞くところでは鈴木もこの辺りで幼少時を送っていたらしい。私は焼け出されてすぐに岡山県へ疎開したのだが、焼け出されて田舎へ行ってなかったら、鈴木と同じ小学校へ行っていただろうと思うとゾッとする。絶対大ゲンカしていたに決まっているのだ。鈴木は多分ずっと級長で私は常に悪ガキ率いた対抗馬だったろう。私の方が年長だから学年は違っていたが、何故か級長戦は学年違いでももつれ込んで、私は常に三票差くらいで敗けていたであろう。アメ玉で買収工作していいとこまでゆくのだが常に一歩届かずで、それでも学年、クラスは常に二派に分かれる位のしぶとさは持っていたんじゃないか。面白かっただろうなと思う。今日は鈴木とどうケンカしてやろうとワクワクしながら、それが楽しみで欠席ナシ。何故か皆勤賞なんかもらったりして。しかし考えてみればガキの頃にそんな事があれば、お互いトラウマになっていて、今の附き合いは無かったわけだから、私は焼け出されて良かったのだろう。変な因念がある。東京のこの辺りには。 鈴木の論考の構築方法の根底には歩く思考があるのではないか。それがその論考に独特なリアルさと、広がりを持たらせている。歩く思考と言っても永井荷風の日和下駄とか、諸々の散歩的思索ではなくて、ある地点に向けてひたすら歩くというか、そのひたすら歩く事自体にも意味があるのだと言うような事。まだ上手に言えぬが多分図星である。暗黒舞踏家の土方巽は舞踏とは日中路地から路地へ陽だまりの中を歩きに歩いた男が、夜突如その体験の淀みを形にし始めるものだと言っていたのを記憶しているが、鈴木を考えるに土方を引くのはお門違いと思うのが普通なのだが、オッと、どっこい私の眼は節穴ではない。ジェントルマンを振舞わざるを得ない鈴木の背中には土方の言うようなデーモンがピッタと張り付いているのである。 まったく酒に弱くなって少し酔って帰宅して家内に怒られた。今日は叱られたり、怒られたりの一日であった。
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一月二三日 |
朝渡辺夫妻来地下室。二月下旬に渡辺さん、友人たちと床の板張を始めようという事になる。子供たちの住宅づくり参加は三月になってから。イヨイヨ本格的なセルフヘルプ方式にとりかかる。本当に良いクライアントに巡り合ったが、甘えてはいけない。やさしい人は本当は恐いのだ。午後星の子愛児園現場へ。屋上にパイプアーチ型のドームが乗っていて、内部に入ってみる。三階ドーム内のプランを変更しなければならない。変更プランの概要を示して帰る。やはり現場に身体をひたすのは大事だ。模型ではわからぬものがある。しかし大きいインテリアの模型でスタディしていればこんな乱暴をしなくてもすんだ。良く知ったパイプアーチという事で油断した。愛児園内部を歩き大体空間を把握した。手を入れ込むところと手つかずにする所を方法的に分けないといけない。
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一月二二日 |
朝屋上菜園に台所のゴミ埋める。三ケ所をかなり深く掘って埋めた。浅いとすぐカラスに掘り返されてしまうのだ。カロラインジャスミンとエリカの小株は何とかついただろう。ほんのわづかだが所々で緑の芽が出ようとしているのが感じられる。今日から〇エネルギーシェルターの設計を開始する。廃材もたまったし条件がととのったから。世田谷村の一階部分をその実験の場としよう。午後学校へ。陸海の修論の日本語を直す。中国人らしい骨太な論文だが日本語の修正に手間取った。しかし中国人留学生を育てるのにはこれ位の事はしないとね。佐藤健講議のため来校。二月一日にホテルオークラで竜谷大学長と昼飯を一緒にする事になる。いよいよ西域行きは逃れられぬ感あり。チョッと集中して勉強しておかぬと佐藤健に赤恥かかせることになるな。野村等とコンバージョン打合わせ。チョッと面白くなってきた。やっぱり、リアルな部分がないと乗れないんだよね、まだ。
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一月二一日 |
地下打合わせ朝九時半より夕方六時まで。 その間に日本フィンランドデザイン協会のための原稿書く。栄久庵憲司小論になるが、それで良いのだと思う。日本の工業デザインの問題はそのママ栄久庵憲司が抱え込む門題なのだ。謂はゆるデザインの世界には日本で批評家理論家が不在だ。それがデザインの世界の可能性を閉ざしている。
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一月二〇日 |
屋上菜園を綿密に視なおしたら、土くれの影にいささかの緑が芽ぶいているのを発見した。水仙の芽も二つきちんと生えていた。新たに三、四種の植物を植えて、たっぷりと屋上菜園に水をやった。
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一月十九日 |
朝武蔵境駅待ち合わせ。スタジオボイス取材。国際キリスト教大学内の泰山荘、松浦武四郎の一畳敷の書斎を見学。ライカ写真機を使おうとして観察がどうしても手ぬるくなってしまう。だってシャッターを押しても撮れてるかどうか不安なんだから。鈴木博之にとうに先を越されていた無念さもあり、何となく身が入らぬ見学になった。湯浅八郎記念館編泰山荘を著したヘンリー・スミス氏が鈴木さんの友人であるらしい。案内して下さった方に尋ねるに鈴木さんがこの一畳敷を実見しているかどうかは不明だった。藤森照信はまだ来ていないとの事。何故かチョッとホッとする。小学校の運動会みたいな気分。しかし実見していようがいまいがこの一畳敷の意味の発見は私は遅れて辿り着いた人に過ぎない。勉強不足が痛い。午後早稲田講評会。大体講評会のクリティークに対する受け答えで学生の力やら何やら得も言えぬモノはわかるようになった。要するに批評しても無表情な学生はダメなのだ。すでに人生に立ち向おうとしてない。 夜西調布聖徳寺打合わせ。十一時半帰宅。 明日から手つかずであった諸々の原稿を始めよう。 カラスは昭和60年代には7000羽ほどだったのが今や3万5000羽程推定だろうが東京都に居るそうだ。
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一月十八日 |
複合スタジオの名称は都市形成デザインスタジオはどうだろうか。佐藤研助手クラス+非常勤講師+野村(都市史)+森川(K)場所は一部明和会より提供してもらうことはできないか。プロジェクト&リサーチは明治通りのコンバージョン。 講義のプログラムを作成する必要がある。 昼明和会の方々と明治通りの明きビルを見て廻るが展覧会には色々と不都合があり、結局学内でやるしかないの結論に達した。残念。午後設計製図採点。三年生の製図の質は持直した。鈴木了二、野村悦子両先生に感謝する。
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一月十七日 |
六時半起床。ラテン系の国々の産業構造のリサーチに関して、いきなりラテン系では解りにくいだろうから、ここは易しくイタリアのデザインビジネスについてという事にしよう。平山を事務局に小さな研究会を立ち上げさせる。ひろしまハウス通信は坂口に本格的な勉強というものがあるのだ、という事を先ず教え込まなくてはいけない。今のままでは浅瀬を泳ぐメダカのままで終わってしまう。アジアモンスーン文化について勉強させよう。具体的にはウナロム寺院の歴史にまで辿り着かせる。沢山な事を一度に言って解る連中じゃないから地下では今日はこれだけを指示しよう。
松浦武四郎の一畳敷きの書斎については案の定すでに鈴木博之が歴史的建造物の保存・活用・開発をめぐって(現代の建築保存論・王国社)で触れていた。短文ではあるが言い尽くされている様な気もしてしまう。案の定なんではあるが何故か面白くないんだよなあ。泰山荘の武四郎のスケッチにつけられた二行のキャプションも適確で十九日に予定しているICU行が何だか辛くなってしまった。雪でも降ってくれれば中止だ。
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一月十六日 |
朝四時半起床。いくら何でもこれでは早過ぎる。ミカン二ヶ喰って又寝る。春はやっぱり何とか時間をやりくりして佐藤健とシルクロードへ行かねばと決めた。佐賀のワークショップを少し早めに移せることができると良いのだけれど。九時真栄寺の馬場昭道から電話あり佐藤健の健康状態に関しての心配である。生老病死は誰も逃れる事が出来ぬ絶対的宿命であるが友人の病を介して私もその現実に対面する方法態度を身につけていかなくてはと痛感する。今日から杉浦康平や龍谷大学学長とシルクロードのスケジュールを調整すると言っていたから、そちらを優先するように工夫してみる。何人かの友人達の顔を思い浮かべてそれぞれ八〇才くらいになった顔と姿を想像してみる。それぞれ皆枯れ切らぬ相貌である可能性が高い。余程こちらも力を蓄えておかぬと附き合い切れぬであろう。附き合い切れずに野辺の枯木になるのも無念である。六〇過ぎてからの友人達何がしかの先輩方との附き合いには余程の力が必要である。心しておこう。研究室に行って若干のスケジュール調整。夕方近藤理事長と会食。
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一月十五日 |
六時四〇分起床。家内は昨夜旧外務省研修所の建築保存シンポジュームの記録テープおこしで徹夜した様だ。どうやら建築の保存に関しては男性よりも女性に直観的に理解されるような気がする。私も保存に関しては自分を納得させ、なだめている段階だから。私の組み立てようとしている修理論、つまり開放系技術論の一部はどうやら保存論に回収される可能性が高いなコレハ。仕方ないか。 今日は十時から地下打ち合わせ。檜垣をひろしまハウスの現場担当者にしよう。プノンペンを着実に現場で動かしてゆく工夫をしなくては。打合わせは延々三時まで続き小休止後再び夕方六時まで。非常に疲れた。毎日新聞佐藤健突如来訪。宗柳で食事。十時眠る。
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一月十四日 |
五時起床。カンボジア、ヴェトナムのおかげで早起きの良い癖がついた。長女徳子が朝の便でニューヨークへ帰るので家内と一緒に成田まで送る。道が空いていて一時間チョッとで空港まで着いた。今度は六月頃に日本に帰るかもしれないとの事。大きな挫折を知らぬ奴だからまだ深みは無いが行けることろまでヤレば良い。環境政治学という分野がいかなるものなのか良く知らぬがいずれ私のやっている事とからむかも知れぬ。 午後室内連載の原稿書く。スケッチよりも書くのが楽になったら恐いなコレワ。夕方屋上菜園に上り台所の生ゴミを土に埋め込む。一年もたてば家の屋根は栄養満点の屋根になるであろう。カラスが一羽となりの家の屋根にとまって横目で私を見ていた。やっぱりカラスとの世田谷制空権を賭けた戦いは始まっているのだ。いよいよ戦争である。しかし冬の菜園は余りにも貧しい。まいた筈の支那忘れな草、正月菜、金魚草八重大車草中華春菊など芽も出ない。明日にでも全部掘り返してみるか。アロエは霧除けにと考えたサクの下に移したら枯れた。論理的なのが嫌いなんだアロエは。松崎の倉二棟の保存再生をキチンと進める。鈴木博之の会所を生かす為にもそれは大事だ。あのブロックを隅々まで修理そして保存の理念が生きた場所にしなくてはならない。一年後に会所を中心にした密度の高いゾーンを生み出すつもりである。
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一月十三日 |
朝六時過関空着。別送品手続きをすませ、七時羽田への乗継ぎ待合い。今度の旅のフライトは全て順調過ぎるくらいにスムースだった。九時前羽田。只今山手線に揺られている。こんなにキレイな電車が走っていて、でも人々の顔は精彩を欠いている。眼の光がうすいんだな。新宿からTAXIで十時半帰宅。長女の徳子がヴィザが取れずにアメリカに戻れずまだ家にいた。夕方屋上菜園に上り、チョッとの間ボーッと過す。冷い風が吹いてはいるが、ウナロム寺院のテラスと何がちがおうか。同じだよコレワ。ますます同じにしてゆく生活をすれば良い。烏が一羽周辺をうかいしながら飛んでいる。俺が帰ってきたのを確認しているんだ。羽の広げ方が何となく挑発的でこちらの戦闘意欲も湧いてくる。世田谷の制空権は今や世田谷の鳥である筈の尾長から烏にとって代わられてしまった。これは是非共復古させなくてはならぬ。先ずは家の庭に時々小鳥のエサをまいているのを習慣づけ、よろず鳥類をおびき寄せる。一階に何か生物を飼って私が生物一般鳥類にも広い気持を持つ人間なのだというのをアピールしてしまうのも良いかも知れない。先ずは演技が必要だ。カラスは図々しいからやってくるだろう。当然沢山やってくる。庭は黒い影で埋まってしまう位になるであろう。そこでカラスだけを脅しつける必要がある。銃の購入は考えにくい。空気銃は良くない。二階の物陰に隠れて銃を撃つのはカラスにも失礼であろう。それに周辺住民を恐怖のドン底に落とし込んでしまいかねない。家内も猛烈に反対するであろう。銃弾の如き言葉で私を撃つに決まってる。カラスぐらいで家内と闘うわけにはいかない。やっぱりパチンコだろうな。子供の頃雀を撃とうとして一発も当たらなかったあアレだ。Y字型の小枝にゴムを装着して小石を飛ばす道具。アレの近代化されたのがあるようだから何とかして入手してみよう。そして春までには野菜が芽を出す頃までには我家の上空の制空権を握らなくてはならない。私の武装に対してカラスの野郎共が対策を講じてきたら、コレワ戦争になるだろう。カラスVS私の戦争である。上空をカラス共が編隊を組んで飛び廻り、時に急降下して汚物を投下したりすれば完全にコレワ戦争だ。ブッシュ大統領ならずとも、コレワ戦争であると宣言してしまう。軍事同盟とかガイドラインとかはその先のことだ。先ずは開戦状態と呼べる程の状態にしなくてはいけない。近代化されたパチンコの数々を屋上に配備し見せつける必要もあるだろう。そこまでやったらアトは反戦運動などが沸き上がらぬように大衆の動向を用心深く見極めて進めれば良いのである。 田中一光氏が亡くなったという知らせが届いた。濃くもなくかといって薄くもなく淡々としたお附合いをさせていただいた。ギャラ間の展覧会、本づくりを御一緒させていただいたのが私にとっては最期になった。日本のグラフィックデザインの中心でこれから増々その求心力が期待されていただけにデザイン界の損失は計り知れぬものがあるだろう。キングではあったがフッと孤独な影が余切る時があって、精神の中枢は芸術家そのものであったに違いない人物だ。私はそのフッと影が差した時の一光さんのファンであった。日本のグラフィックデザイン界は盟主無き混迷の時代へ向かうだろう。この世界にはホンマモンが居ないなもう。
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一月十二日 |
昨日十五時から今朝五時半まで眠った。十四時間半である。二日分の眠り貯金をした。カンボジアの三十四名は無事に帰国しているだろうか。ホーチミンシティを歩いていて取り壊しの現場をいくつか見かけたが何処でもそこから生まれるゴミをていねいにとは言えぬが使い廻してゆこうとする努力をしていた。カンボジアでも渋井さんに言わせると取り壊しは無料なんだそうだ。ゴミを使う権利を与えるのとバーターだと言う。我家の一階を取り壊したゴミの一部を木材を中心に残してはあるが、アレの使い道を考えなくてはならない。今は余力が無いからゆっくりやるしか無いが、そろそろ完成像らしきモノを描く必要もあるだろう。恐るべきゴミ過剰社会だな全く、日本は。 五月のひろしまハウスレンガ積みツアーは現場でのレンガ積みの他に何かいる。六〇才を越したらネパールのカトマンドゥ盆地キルティプールの修復にとりかかるときめているので、その準備を兼ねた何かだ。先ずは現場でのレクチャーを充実させたい。鈴木博之、中川武両先生の協力を得なければならないだろう。一人では不可能だ。プノンペンを拠点にカトマンドゥ、プリアタン(バリ)へ動くなんて事ができれば良いのだが。航空便のシステムがフレキシブルではないからなあ。ミャンマのパガンも組み込めたらアジア建築文化スクールができるだろうが。佐藤健に相談してみよう。プノンペンの三十四人が集まったという事実は決して小さなものじゃない筈だ。これはすでに小さなスクールだった。日本でしゃちこばってやってるよりもズッと自由で良いかも知れない。飛ぶ教室だね。 昼前チェックアウト。買物をして三時くらいにホテルロビーで本を読み始める。多木浩二「戦争論」面白くて読み続ける。昭和天皇の戦争責任、南京の事件等かなり明快に言い切っていて小気味よい。ニューヨークのテロとそれに続くアフガニスタンの戦争の前一九九九年に書かれた本だが、この戦争が起きる事を予見していた。グローバリゼーションと戦争の必然に関する論考も興味深いものだった。多木さんの本は久し振りだったが、戦争論にはいたるところに多木さんの肉声が聴こえるような気がした。タンソンニヤット空港待ち合い室で夜十時ころ読み切った。カンボジア、ヴェトナムと戦争が続いたところを渡り歩く旅だからリアルに読めたのだろう。カンボジアの「ひろしまハウス」の歴史的意味も、もう一度キチンと考えてみる必要があるな。ひろしまとポルポトのジェノサイドはやっぱり二〇世紀最大級の人類の悲劇であった。レンガ積みを指示しながら、その事を忘れかかっていた。ひろしまの事ポルポトの事そして私の父も征った戦争の事、それをきちんと記憶して、出来得ればその歴史を基礎にして未来を考えようとする。その為のひろしまハウスなのだから。全ての素は歴史だ。しかし、それを声高に言う事は恥かしい事なのだ。恥かしいどころかひろしまやプノンペンで声も立てずに死んでいった幾百万の人たちの尊厳を踏みにじる事にもなってしまう。多木さんが紹介している「サラエボ旅行案内」のように戦争を引き起こしてしまう大仰な大義や正義とは異なる世界の言葉を使って、レンガを積む秘やかな楽しさのような事を伝えてゆく必要があるのじゃないか。言葉の性格を変えてゆく必要さえある。 今、ヴェトナム時間十三日一時。フィリピン上空辺りを飛んでいるのかな。
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一月十一日 |
六時眼覚める。今日する事は家具の輸入。路上の修理する人々の撮影。それを午前中に済ませてしまう事。国際的に比較するならば原宿も仲見世通りもホーチミンシティのドンコイ通りに一歩も二歩もゆづるところがある。置かれている商品の多彩さと値段が敵わない。日本の主要都市の商店街特に観光目的のそれは国際競争力をつけなければ駄目だ。聖徳寺観音堂の家具はここから輸入してみようか。コンテナ1本もあれば充分だろう。八時朝食。昨日路上でライカのフィルム交換成功。つまらない事が嬉しい。しかし古いライカを使ってみて一枚一枚ていねいに撮るようになったのがおかしいではないか。なにしろ撮るたびに絞り、シャッタースピード、距離を合わせなくてはならないんだから。ASA一〇〇までしかフィルムの感光度調整ができぬことを今朝発見する。まだASA四〇〇なんてフィルムが無い頃の機械なんだ。今まで撮ったやつチャント撮れてるんだろうか。一抹どころじゃない不安がよぎる。ASAマークのところに赤が出ていたのが気になる。マ運を天に任せるしか無い。 九時過マジェスティックホテル前のアンティーク家具屋へ。昨夕のおばさんと本格的な取引。レユアン通りに出している家具屋もこの店のものだとの事。日本で言えば帝国ホテル横のいかにもな古美術商という事だろうか。薬箱タイプの中型の引き出しが沢山ついているタイプと丸い大きな中国風の飾り棚と二点購入。それぞれ三〇〇$二七〇$であった。五%の値引をさせる。値引きはしないとハッキリ言うので仕方ないだろう。ショッピング・ドメスティックTAX保険が百三九$かかった。東京で買えば共に四、五〇万円のものだから、無事に荷物が到着すればの話しだが、得な買い物である。勿論双方共にアンティークではない。新しくここで作っている物だ。一ヶ月程で東京に着くと言うから楽しみにしていよう。世田谷村はアルミとガラスでスッキリし過ぎているから、古めかしいヴェトナム製の家具はしっくりと納まるだろう。路上の修理する人の写真もとれたからほぼ目的は達成した。昼ホテルに戻る。これ位のペースで動くのは疲れなくて良い。昼食は又ヴェトナムハウスで。カニのビール蒸しというのを気張って注文してみたが、コレはうまかった。スケッチする。 今日でほぼ一週間の東南アジアの旅は終わった。これ迄は旅と普段の生活の間にいささかのギャップが在るように考えていたが、出来得れば東京に帰っても旅のマンマでありますように。あるいは東京の生活が旅の延長のママにゆるやかな刺激に満ちたものであるように願うばかりだ。カンボジア、ヴェトナムの旅は日常の延長のようなスタイルを押し通すことができた事が収穫であった。この感じを身体で本当につかめればと思う。イライラもせず極度な落胆もしない日常の歩行の中に全てが混入しているような生活。
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一月十日 |
六時半眼がさめる。やっぱり床で寝るよりは柔らかいベッドで寝る方が楽なんだ。サイゴン河は大小の船の行き来が盛んでエネルギッシュ。道路もバイクと自転車で溢れている。サクランボみたいな太陽が昇りつつある。ヴェトナム戦争の時はサイゴン河に流れているウォーターヒヤシンスの下にベトコンが隠れて襲来したという。そのウォーターヒヤシンスが今でも沢山流れている。 午前中レユアン通りの家具屋へ。良いモノは無かった。大体中型の引出し付収納(薬屋タイプのモノ)で四万円位。日本の十分の一くらいの価格であろう。ホーチミンシティの中心部にはガラスのカーテンウォール高層ビルが林立し、そのスタイルがスーパーコマーシャルなものポストモダーンコピーのもの入り混じって、なんだか夢うつつなシティになり始めている。近代化を急ぐアジアの大都市は現実離れしたファンタジーになりつつあるのだろうか。ミラージュシティ。 昨夕ひやかしてみた家具屋が今のところ一番良い。七、八万円で中、大型の収納ダンスが買えるようだ。夕方本格的に交渉してみよう。コンテナ一台分買うのが合理的なのだが、それは五月まで待とう。カンボジア日本のコンテナフレイトが一本千五百ドルと聞いた。シアトル東京が今五百ドルだから、流通経費に関しては地球は歪んでいる。ホーチミンにはホンダのバイクが溢れ返っているが、ホンダはこのバイクを何処で生産しているのかな。日本と異るのは街にバイクを修理する人間も又、多い事だ。日本ではもう小型バイクは使い捨てだろう。こちらではまだ修理できる人間がいる。職人とも呼べぬ人達だけれど、小型バイクをバラバラに解体して(エンジンまでも)、又組み立て直すことができる人達だ。私はもうどんな機械も解体して再びアッセンブルできない。私の手はもう猿のそれくらいに退化してしまっている。 これからの都市には車はすでに適していない。自転車とモーターバイクがハイブリッドして太陽電池がプラグインされたものにすべきだろう。チョッとした故障は自分で修理すべきだろうが、今の日本人には不可能ではないか。修理する能力について考えてみる必要があるだろう。 街頭でミシンをまだ一台も見ていない。ヴェトナムのししゅう細工はミシン抜きでは考えられぬから、何処かに大量に在るにちがいないのに。日本の中古ミシンが。 近代化。ミシン。修理能力の図式が成立する筈だ。ゴミの姿形が日本ヴェトナムカンボジアでは異る。日本で見る自動車バイクのゴミの山はヴェトナムには無い。みんな修理してしまうからだ。カンボジアにはまだ工業製品自体がゆき渡るシステムがない。ホーチミン市の街頭でバイクをバラバラに解体して修理する人はレヴィストロースのブリコラージュが更に進化した概念を示しているのではないか。「室内」の連載次回は日本の自動車のゴミの山とホーチミンの修理再生する人に関する考察でやってみよう。コレをキチンと書けば大論文になるだろうに。ゴミの山は富士山麓のオートバイの捨て場所の写真があった筈だ。昼食はPHO2000という名のヴェトナムヌードルの店で。おいしかった。一品百四十円くらい。この店はすでに幾つかの支店を持つらしく、何とカリフォルニアにも支店があるようだ。ヴェトナム戦争は遠い昔か。オートバイを修理する人を求めてホーチミンシティを歩きまわる。仲々いない。昼食時に働く人はいないのか。足を棒のようにして歩きまわり解った事は、市内の四つ角毎に修理屋さんが仮設の修理工場を出しているらしい事。ホテルへの帰り道コーラの空きカンで作った自動車のオモチャ買う。仲々良いデザインでベトナム人は器用で手仕事好きだなあと思う。 ライカ→ホーチミン→アポロ十三号→開放系技術の流れがつかめたかも知れない。 家具屋の問題点はそれぞれにオーシャンフレイトが異なる事。明朝はそれをつめてみる。一件につき26$〜150$のひらきがある。ローカルチャージ含めて80$くらいがオーディナリープライスだろうか。なにしろ一件輸入してみよう。夜はマジェスティックホテルの5階レストランで食事。他に一人の客も無く流石にチョッとおびえた。一流とは言はれるホテルのレストランで他に一組の客もないんだから。食事をすませる頃ようやく他に一組の客が来てホッとする。食後Barでドライマティーニを飲る。開高健の文章に引張られてそうしているのだが、ドライマティーニも全く開高健が言う程にドライではなく、むしろスウィートマティーニだコレワ。全く小説家の言う事はアテにならないが、怒る私が馬鹿なので、今は二〇〇二年。開高健がベトナム従軍記者で死を逃れてここでドライマティーニを飲ったのはヴェトナム戦争の最中の一九六〇年代なのだから今から三〇数年昔のことだ。マティーニもきっと気が抜けてしまったのだろう。開高健の文体のタイトなリリシズムも今では昔日の感ありと言う事か。今現在は世界は淡々と破滅的な時間を刻んでいるのだろうと実感する。広島の黒水仙のマティーニは上等である。二十一時半部屋に戻る。アフガニスタンの戦争ではアメリカは徹底的にヴェトナム戦争の教訓を生かしたのだ。圧倒的な空爆によるタリバン壊滅状態はその結果だろう。戦争も全て非人間的な物量のシステムだけの現れを呈している。
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一月九日 |
朝五時前起床。セーター持ってきて良かった。ベトナムの方角から早朝吹く風が寒い。流石に三十数名が宿泊すると壮観だ。皆さんには不便だろうが。しかし今の若い人達も見捨てたもんじゃない。仲々良くやってる。今日は半分くらいの人間がアンコールワットへいくので現場はゆっくり目にすすめよう。私も午後にはホーチミンに行く予定。ひろしまハウスもプノンペンで少しづつ認知されてきたようで、ゆっくりではあるが着実なペースだと考えたい。渋井さんのお蔭だ。私もゆっくりやってゆこう。この朝の風はミャンマのパガンで吹かれた陰々滅々たる風と良く似ている。パガンでは諸行無常の風だと感じたがここではそれ程の事は無い。パガンは死の都市であったな。 午前中少しレンガ積みの仕事をみて、昼空港へ。良い参加者だった。帰ったら五月のツアーの準備をしなければ。もう少し工夫が必要だ。朝、日本人会会長等が現場を見に来てくれた。専門家の眼で眺めてコンクリートもきれいで構造体としたらプノンペン随一だと言ってもらった。会長は土木屋さんなので面白い評価だと思った。カンボジア式便所に慣れてしまったので空港のトイレが何となく使いにくい、と言うよりも照れくさい。 渋井さんからおみやげに頂いた鉄製のハカリが案の定セキュリティチェックにひっかかり手荷物として持込不可。 ヴェトナムでは家具の値段を調べて一部実験的に輸入してみる予定。カンボジアの家具はまだ日本には無理だ。仕事が荒過ぎる。私の建築に家具をビルトインする積りなのだがヴェトナムのモノくらいから始めれば良いかも知れぬという目星を確認するためのホーチミンである。今空港内を黒塗りの車が隊列を作って通り過ぎた。塩川正十郎大臣が今日からカンボジア訪問と大使館で聞いていたからソレであろう。いつだったか桜内義雄元衆院議長もシェリムアップで見掛けたことがあった。政治家は不思議な所に出没するものだ。 十五時過ホーチミン、タンソンニャット国際空港着。マジェスティックホテルに入る。一九九六年以来の再来。サイゴン河沿いの巨大看板の林立風景も変っていない。 夕食はヴェトナムハウスで。ウェイトレスのユニフォームがテーマパーク風になっていて眼ざわり。この前はこんな事はなかった。帽子が噴飯モノ。ヴェトナムの兵隊・警官のユニフォームは完全にアナクロで町から浮いているのだが、それに似ている。デカクて赤いモール飾りが付いていてまるで雄ニワトリのトサカだ。ヴェトナム航空のユニフォームが持つ異和感と通じている。国家関係のモノばかりだから指導者層の好みにそういうモノがあるんだろう。ドンコイ通りのアンティーク風家具屋をひやかしてホテルに戻る。
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一月八日 |
朝五時前に起床。まだ全員寝ている。皆上手に蚊屋を張って棲み分けたようだ。流石にレンガ積みツアーに参加の学生にイイ加減な者はいない。今日は少しゆっくり目のペースで仕事をさせよう。五時半起床。掃除を三〇分。朝の食事は皆外食と決めたようだ。六時食事と散歩へ。八時集合。坂口トーマスは先に導糸張りをさせよう。八時四十五分現場集合再びチームを作り内部壁のレンガ積み。十時小休止。十一時四五分に朝の仕事休止。昼食は自炊。ニ時二〇分現場集合。三時半小休。五時レンガ積み修了の予定で進めたい。只今五時十五分学生達が起き始めた。今日も一日事故の無いようにいのる。 予定通り作業をすすめ、今昼の休み。日射しがきつい。午後北西の方角より写真をとる。屋根の仏足が動きを見せて面白い。キツイ光の中でスケッチをする。レンガ積みは順調に進んでいる。夕方には中庭の感じを身体でつかめるようになるだろう。内部空間の光がまだつかめない。何故か人数は増えてきて総勢は三十四人。一つの壁に四人がかりでうまく仕事もすすんだ。夕方五時前修了。 六時JETROの仲根氏が迎えに来る。七時よりJETROで会食。日本人会会長。商工会会長等と。ひろしまハウスの運営に関して率直な意見を交換した。明朝八時過現場を見てもらう事になった。どんな意見も、どんな人間も受け入れた方が良い。
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一月七日 |
犬の遠吠を遠くに聞きながら眠ったが、寒くて眼がさめた。やっぱり外のテラスで眠るのは無理だ。セーターは持って来て良かった。朝五時チョイ前。風が吹いてカヤを揺らしている。今日はレンガ積みツアーの人達がニ陣に分かれて到着する。午前中はカンボジア大使公邸に行く予定になっている。星明りで見るひろしまハウスの現場は我ながら仲々のモノだ。建築やってて良かったとさえ思う。大きな壁の中から巨大な樹木が生まれて、そこにも仏陀がいるというイメージがチョッと出来たかなと思う。外壁が出来ればその感じは皆にも解りやすいモノになるだろう。アンコールワットで体験した樹木の生命力は建築を破壊する凄惨さだった。その樹木(自然)の生命力を切り殺さずに、穏やかにコントロールして、なおかつそんな樹木の感じを空間化しようというのがひろしまハウスのデザインの主題だ。シャカは菩提樹の下で悟りを得たという。その故事を建築に表現しようとしている。菩提樹の下の解脱こそ平和のシンボルではないか。ひろしまハウスの内部の大きな空間に曲がり傾いた柱を林立させて、その柱の頂に仏足を置いたのは正解であったとようやく確信する事が出来た。夜が明けたら、あの樹下に立ってみよう。そこに安らぎと静けさを感じることが出来れば、この建築の目的はほぼ達成できたと言える。ひろしまハウスは皆に安らぎを感得してもらいたいと願って建てている寺院でもあるのだ。ウナロム寺院の本殿は雄壮なストゥーパである。都市プノンペンの空間を構造化しようと一九五七年に建立された。ポルポトもこの寺院を破壊する事はためらって司令部として使用した。ある意味では仏教の力がそうなさしめた。私は仏教徒ではないけれど、今でも仏陀の像を前にすると何故か手を合わせる習性は残っている。そのかすかな習性がこの建築を建てさせている。その事は恐れずに言明した方が良い。 東の空が朱色に明けてきた。只今六時。 ひろしまハウスの二階では現場に棲みついてしまった人達が火を炊き始めた。朝食の仕度なんだろう。現場前の路上にはニ、三組の家族が簡単な差し掛けを作って生活している。すでに未完のひろしまハウスは使われ始めている。これで良い。これが建築の始まりなのだ。(この境内には今僧侶が約四百人、その他が千人暮しているそうだ。) 十時半日本大使館。小川大使をはじめカンボジア日本人会会長等と名刺交換会。昼前仏教学院に戻る。第一陣到着。あいさつと若干の注意をして、早速昼食の買い出しへ。十五時三〇分現場集合とする。二十一名でレンガ積みを始める。やはり年長者の手際が良い。しかし学生達も良く頑張っている。坂口トーマスの導糸張りが手間取ってまどろっこしいが仕方ない。女性も良く頑張っている。五時半作業修了。後片付けと道具洗いをさせて三階にあげて若干の建築の説明をして今日の作業は完了。皆良い汗をかいた。 食事をすませた頃第二陣の学生達九名到着。総勢三〇名となる。その後一名到着三十一名となる。十一名は渋井農場へ。九時過就寝。 良い一日だった。
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一月六日 つづき |
ヴェトナム時間十四時五〇分ホーチミン着。小さな田舎の空港でヴェトナム戦争当時からのものだろうカマボコ型の小型格納庫がまだ沢山残されていて今はヘリコプターが入ってる。トランジットの手続きをして待合室でジャケット、長そでシャツから半そでに着替える。程々の暑さだ。東南アジアだなあと当り前の事を実感してるところ。もう若くはないのだからこの気温の激変には注意して順応しなくちゃならんな。まったく年だ。十六時四五分ホーチミン発。小さな双発のプロペラ機。眼下は圧倒的な田園。制御されていない川。しかしながら所どころに小さな工場風の建物やモダーンな箱状のモノが建ち始めているのが見える。去年もおととしも気がつかなかった事だ。凄い勢いでヴェトナムは近代化してる最中なのだろう。コンクリートで川をしばらずに巧妙にコントロールする知恵を何とかヴェトナムの技術者は身につけなくてはいけないと思う。日本の二の舞はおろかだ。 五時二〇分プノンペン空港着。入国審査カードのカンボジアの住所にワット・ウナロムと書いて様子をうかがったが何の問題もなし。スムーズに通過した。これからはコレでヤロー。小乘仏教の大本山の御威光は凄いもんだ。外へ出ると迎えに来てくれている筈の渋井さんの姿がない。予定よりだいぶ早く着いてしまったので仕方ないかと思っていたら、遠くに手持ち無沙汰な渋井夫妻の姿があった。まだ着く筈はないと思ったらしい。再会を喜ぶ。小笠原さんは一時日本に帰ったとの事。残念だが仕方ない。久し振りのウナロム寺院の日本語学校図書館は懐かしいような感じさえあった。ひろしまハウスは仏足も乗り内部吹き抜けを走り抜ける階段も出来ていて、迫力満点になっていた。ホッとする。渋井さんはヒジを痛めていてカンボジアでは直せないとの事。一時日本に帰国しなければならぬとの事。彼も五四才になって、一度ゆっくり休むべき時なのだろう。夕食後あまりに眠くなって、許しを乞うて三〇分程仮眠。息を吹き返した。私も休みが必要になっているのは言うまでもない。星の大きさが異常である。 ワットウナロム境内で眠る事の快適さは驚くほどに多様な音が溢れている事からくるようだ。静かな海の底のようなざわめきがある。今日はその中で休むことができる。
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一月六日 |
朝五時起床。荷作りをして羽田へ。プノンペン、ホーチミンの天気の感じがつかめなくて意外に荷物が大きくなってしまった。道路が空いていて六時半には羽田に着いてしまう。八時〇五分JALで関空へ。プノンペンもホーチミンもインド亜大陸南端マドラス、マドライよりも南なんだ。最後にバッグに突込んだセーターは余計だったかも知らんな。関空で換金。渋井、小笠原さんへの手みやげ購入。何がいいのか遂に思い当たらぬのでバランタインニ本。ホーチミンへのフライトはスケジュール変更になっていて十分早くなっていた。何故十分だけ早いのかミステリーといえばミステリーだ。関空の免税品店の品ぞろえは明らかに成田とはちがってるな。ピアノ設計の建築のハイテク振りとは正反対に泥臭く実利的だ。余計なモノが置かれていない。東京駅JR東海のキオスクと東北新幹線のキオスクはプラットホームが一つちがうだけで別な世界なのと同じだ。アジアの人が多いからだろう。地域差は明らかに在ることが良くわかる。JAL便はヴェトナム航空とジョイント便でスチュワーデス、スチュワード共にヴェトナム人のようだ。アオザイのスタイルだけ模して布のテクスチャーがちがうスチュワーデスのユニフォームがピアノ設計のハイテクの中に浮いている。浮くと言うよりも逆に沈んでると言った方が良いか。アジアの近代化西欧化の大矛盾は今も続いているのだね。しかしなあ、ヨーロッパの空港で良く見かける日本人団体の雰囲気もそれにも増して異様だよね残念ながら。空港のトランジットスペースがハイテクでニュートラルであればある程に人間の地域性というか非ニュートラルな性格が浮かび上がる。ヴェトナムへは五時間と五〇分のフライトだ。七面倒臭い本を二冊程持ってきたので読むとするか。「国家と倫理」特集の小冊子読むも三ページもたずに眠りに入る。 突然光が指し込み、行きづまっている磯崎新論のアイデアがまとまりかかった。人間て変な者だよ。事件の連続の中に磯崎を登場させ、作品を描こうとする方法に変りはないのだけれど、カタール、マカオ、人民大会堂というような大事件ばかりの連続ばかりではディテールに欠けるような気がしていたのだが、マハリシ、空中浮遊、そして墓の章を入れると全体を歌舞伎のような、華美過ぎる様式から脱けさせる事ができるのに気付いた。小さなようでこれは大事なんだ。又、これでしばらく楽しく書き進められそうだ。一度、京都に行く機会があれば出雲の阿国の墓の近くにあるという磯崎新の墓所を視ておこう。ヴェニスで視たノーノの墓の印象と山口の芸術村のN邸の標本再生をまとめて小さな章にすれば良い。磯崎はデュシャンみたいな事考えてるに決ってるんだから。 ひろしまハウスの現場では開放系技術論の小さな章が書ける筈だから、今日がきっかけで長編2本が再出発できそうだ。現在、日本時間四時二五分。もうすぐホーチミンシティに着く。空は光の輝度が圧倒的に強くなっている。着陸の準備に入るといういうアナウンスが今あった。
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一月五日 |
朝、3月の早稲田バウハウス佐賀のプログラムを作る。佐賀での最終回になるので、それなりのものにしたい。森川嘉一郎が提示してくるプログラムはまだ全然使い物にならない。世間の仕組みというのが解らないんだなキット。典型的オタク特有の思考形式のママである。でもね、理論家を目指すのだったらこういう事が一番大事なのだよ。 昼、宗柳で地下室の新年会。杉並の現場に抜けた三名を除いて、地下室メンバー全員。十五時修了。朝からの打合わせで言いたかった事は、今年から何らかの形式の中で都市そのものをプロジェクトの対象にしたいという事だ。それをスタッフの何人かが共感し、理解してくれたら嬉しいのだけれども、むづかしいだろうな。自分のスタッフ、あるいは若年の人達ばかりとの打合わせは問題を含む。自分が最年長で、しかも強い異論があり得ぬ事を前提としているからだ。この類の身内だけの打合わせには用心しなくてはならぬ。自分で自分の考えを否定する意見を用意しておく必要さえあるのだ。
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一月四日 |
九時三〇分地下で年始めの小ミーティング。スタジオボイス原稿。マイナスの作り方ムラタ有子書く。書いてて面白かった。取材ってのは結局こちらが勉強してるんだよね。日経新聞原稿送る。春のワークショップのプログラムを決めなければならぬが、どうも切口によい方法が見つからない。講義+実習のスタイルから少し発展させたいのだが。 昨夜遅く見たNHKのアクターズスタジオのスティーブン・スピルバーグ、インタビューは面白かった。 アメリカン・サクセスストーリーの典型を見るようで考えさせられもした。スピルバーグの成功の素は単純で大柄なパッションとそれを支え得る人間性そのものにあることが良く理解できた。率直かつ正直な人柄が多分演技ではなく充二分にTVカメラの前に在るのだった。山田洋次の「フーテンの寅」との違いは、それにかけられる資本の総量の圧倒的なちがいもあるのだろうが、スピルバーグと比較すれば山田洋次は余りにも日本的障壁の多いインテリだ。スピルバーグはむしろ寅次郎の素なのだ。寅次郎から余計な、計算されたモノを取り外したところがスピルバーグの居る地点だ。日本映画が置かれている歯ぎしりしたくなるような地点が示されているような気もする。それと比較すれば建築家の世界はまだましな様な気がするな。しかし映画監督は興行収入がダイレクトにカウントされるけれども建築家にはそれが無い。しかし、いずれ建築家もその様なダイレクトで赤裸々なカウントの仕方がされるようになるだろう。
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一月三日 |
午後、宮本邸プラン作成。少しはましな考えがまとまった。庭が余白の空間ではなくて、庭と建築が双方ポジティブに自在に混入している。早速ファックスで宮本さんに送る。星の子愛児園西側ドームの納まりのデザイン決める。愛されるモンスターになるかどうか、この部分にかかっている。森の学校の基本的な考えをまとめる。六日からカンボジアなのでスタッフに新しく仕事を割り振らなくてはならない。みんな典型的な指示待ち人間だからな。聖徳寺デザイン指示書作る。
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一月二日 |
コロッケの模倣芸をTVで見る。五木ひろしのモノまねであったが、それは五木ひろしであって五木ひろしを超えていた。あまたあるモノ真似とは違う次元にコロッケの一部の芸は突き進んでいる。五木ひろしの演歌はコロッケの芸、つまり表現においてはすでに素材でしかない。素材はデフォルメされ歪曲され引き延ばされて、別のモノになっている。ピカソの宮廷の女シリーズと同様に。TVをあなどってはいけない。どんな芸術も金が集中するところから生まれ易い。とすればTVと直結した表現芸術のスタイルがTVから生まれ出る可能性もあるだろう。コロッケという芸人もTVでしか生み出し得ない新しい芸能なのではあるまいか。モノ真似が本物よりも面白いのは何故か。本物には他の追随を許さぬという強い排除の力が働くが、モノ真似にはそれがモトモト無い。それだけ自由なのかも知れない。それから、五木ひろしはズーッと五木ひろしを演じなければならぬが、コロッケはコロッケを演じなくても良いという事もあろう。二日間ほとんど家から出ずに暮した。夜風が強く吹く。
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二〇〇二年一月一日 |
三〇年ぶりに唐十郎の戯曲ジョンシルバーを読む。片付かぬママに転がされていたブルーの本が気になったから。昨日正月元旦に読みだめしてやろうと思って買ってきた本の一冊は森村泰昌の空想主義的芸術家宣言だったのだが、読み流しているうちに唐十郎の演劇をフット思い出したのだ。森村泰昌の仕事は一部唐の仕事の再生産的な趣があるような気がする。 唐十郎は六〇年代の象徴の一つだった。その仕事の特性は例えば新聞の三面記事の小さな一コマを素材にして連鎖的に想像力を展開してみせることにあった。そのテント劇場内での演劇は不思議なオブジェクトを巧みに使い役者達に吐かせる言葉をさらに遠くへ飛ばすのが驚きでもあった。机タンス人形リヤカー自転車鏡公衆便所さえも。言葉は常にモノに運ばれて遠くへ飛んだ。それが圧倒的な自身の空白不在の時代への入り口に立っていた若いいらただしさをいやした。例えば二都物語などに暗示されていたような気もする政治的な言説は修辞にしか過ぎなかった。アジアへの何度かの遠征も詩的直観の域を出ることはなかった。しかしその詩的直観は今振り返っても先鋭的なものだった。 森村泰昌のセルフポートレートも又、唐の小道具たちと同様に卑俗なモノの形式を取りたがっているように思う。芸術家が見るものであるという特権にあぐらをかいていると言う常識の枠を彼は疑う。見る、そして描くと言う枠を外し、見られる者としての芸術家という視点を彼は提示している。そのセルフポートレートの何がしかがかっての唐の状況劇場のスターであった四谷シモンの記憶にあまりにも酷似しているのは面白い。四谷シモン、天性の女形にして人形作り、シモンが森村泰昌の先行者であったことは疑い様がない。森村のソフィスティケートされたセルフポートレートの手法は唐の六〇年代には異常と思われた観客へのアジテーション、挑発と良く良く考えるならば酷似しているではないか。唐のテントでは観客は時に水をぶっかけられ、突き飛ばされ、ツバを吐きかけられ、ニワトリを投げ込まれた。唐の観客への度を超えた乱暴振りは森村に於いては静かに抑制されてはいる。しかし、自分(芸術家)を見よという過激なメッセージは同根のものだろう。 私はここで森村が唐の縮小再生産なのだという事を言はんとしようとするのではない。そんな事を言っても私には何の得もない。私の青春時代でもあった六〇年代を少しばかり振り返ってみたいだけなのだ。これからの時代は著しく非六〇年代的であるが故に、六〇年代にあった事、自分の出発の事自体も、極めて客観的に考えられるような気さえするのだ。六〇年代にあった事を逐一思い起こす必要がある。 森村のセルフポートレートは当然の事ながら森村自身が過去の芸術作品に進入してゆく、過度に模倣してゆくという独自な方法に依っている。が彼も言うように独自であるという事によってセルフポートレートという一種の普遍性から外れてゆくという矛盾も持つ。ここで言う普遍性とは、誰でもが芸術家たり得るという広大な、際限のない普遍性のことである。自分を何かになぞらえる、つまり模倣させること自体を写真にして、それを表現行為にまで高めてしまう。この事自体は私が考え進めている建築表現における開放系技術によるデザインに近いような気がする。
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2001 年12月の世田谷村日記
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