石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2002年10月の世田谷村日記
 九月三〇日
 九時世田谷地下ミーティング。というよリも各自に指示出し。藤森照信の労作「丹下健三」昨日読了。丹下が偉大であるのは確然としているが、大分前から私は別の径を採択しているので、揺らぎはない。藤森もインタビューその他長い間丹下さんと付き合って、そのような事実に辿り着かざるを得なかったにちがいない。大谷幸夫、磯崎新の川合健二に対するコメントが興味深かった。大商人の資質のカケラを磯崎は川合に嗅ぎとっていたのが知れた。実に川合は今風に言えば先端技術のブリコラージュに巧みであったと同時に経済の事、技術のコストについても敏感であった。そういう人間は商才が自然に身に備わってしまうのは宿命なのだ。私には遂に商才が何故か備わらなかったな。数字を本能的に嫌うからだ。経済は数字の戯れをシステムとして把握する世界だからな。
 十三時大学中国の件打ち合わせ。Dr.野村より提案あり。風水に基づいたマスタープラン。磯崎の海市は良くできたプロジェクトである。なんらかの形式で継続させる手段を考えている。

 九月二九日 日曜日
 十時星の子愛児園巨大遊具位置出し。中沢先生立ち会い。変更部分高橋工業へFAX。十二時半修了。明日の全体会議の指示は。具体的な指示をそれぞれのプロジェクト毎にせずばなるまい。夜原口氏来宅。再び住宅の相談を受ける。

 九月二八日
 午後大学。中里和人氏と新連載の企画を相談。一週間以内に企画を持ち寄ろうという事になった。十五時設計製図講評会。十九時三〇分修了。

 九月二七日
 夕方気仙沼高橋工業社長来世田谷。巨大遊具その他の打ち合わせ。彼はそのまま世田谷泊り。

 九月二六日
 六時起床。屋上菜園にサンマの頭など埋める。このところいま北の海で漁にいそしんでいるハンマや鳴子の吉田さんからたて続けにサンマが送られてきたので連日サンマを食べていた。それでサンマの頭をゴッソリ埋めることになった。先日種まきしたスイートピーの芽が沢山生え出ていた。今年咲いたスイートピーの種を今日まいた。九時地下打ち合わせ。十一時大学人事小委員会。大事な会議であった。十三時教室会議。十五時修了。教授会は欠席する。丹羽君の自転車のプロジェクト進んでいる。
 memo十一月号をパラパラと繰っていたら、鈴木さんの連載「場所に聞く」世界の中の記憶を見つけた。ワイマールのジェニウス・ロキを書いている。

 九月二五日
 生活雑貨を進める手段を考えよう。九時地下でスタッフと無駄話し。無駄話しが無駄のママではとも思わぬでもないが、無駄はある種の油であると言う俗論もあるからね。午前世田谷午後大学夜世田谷という一日を三分割して暮らすという考えは軌道に乗ってきたようだ。しかし、これは疲れる。十四時大学。一日の何時間を移動に費やしているか、移動している時間の使い方をどうにかしなくては。そんなに時間がたっぷり残されているわけではない。
 十五時半雑用を終えて三年生の特別講議。まだ正式には秋授業は始まっていないが、ヘソ曲がりでたった八名の学生の為にレクチャーと設計指導を行う。我ながら熱心であった。十七時十五分修了。ポカリと時間があいたので読書。十八時半千駄ヶ谷で原口古川両氏と会食。二二時半世田谷に戻る。原口氏より住宅の相談受ける。

 九月二四日
 十時大学建築学科会議。ここのところ連日の会議。午後雑用。十六時内閣府にて沖縄の件。名護市名桜大学理事長比嘉鉄也氏等と会談。計画を前に進める。十八時過世田谷へ。

 九月二三日 秋分の日
 昨日は完全休養。好きな本を読み散らした。今日は東大病院に入院中の佐藤健に会いに行く。北海道十勝のスノーフィールド・カフェのアイデアをまとめなくては。雪上にポツリと置く建築を作れという後藤健市さんの要求自体が面白いのだな。施主が変り始めている、そのスピードが建築家達の変化の速力よりも勝っているのが問題なのだ。
 二二時、十勝フィールド・カフェのアイデアまとまる。スノーボートと名付ける。
 今日は十三時東大病院に佐藤健を訪ねた。二時間半程居た。まだ検査が出来る体力の状態ではないと言う。病院内の移動も車椅子だと言う。痛みで原稿は今は書けぬとも言う。気力は体力を基盤にするというのが良くわかる。

 九月二一日
 午後建築家会館でギャラ間シンポジウム出席。修了後、太田浩史君の紹介で、アライグマギンの家を買った方にお目にかかる。ギンの家の元オーナーはあの家を売り払って引っ越していたようだ。新しいオーナーはワコールアートセンターの松田さん。ギンの家位特殊な家はまず無いと覚悟して作った家だが、ああいう特殊な家を使い廻してゆこうとする人が出現しているのだな。この先の建築を考えようというシンポジウムではあったが、私にはシンポジウム後の松田さんとの面会の方が、この先の建築の可能性を暗示しているように思えて仕方なかった。

 九月二〇日
 巨大遊具“モンスター”打合わせ。これが春に出来てればなと思わなくもないが、仕方ない。仕方ない、仕方ないで月日が流れてしまう。スタッフを怒鳴るな。我慢、我慢。
 午後大学来客多し。カナダ国籍中国人。入室希望。四八才の人物。面白そうな人間ではある。古川真一氏来室。真直な人だ。十九時前世田谷に戻る。打ち合わせ。十勝の後藤さんより手紙いただく。なんとか期待に応えなくてはいけない。

 九月十九日
 ディエス・デル・コラール「アジアの旅」何度目かの再読である。我々とは言葉の使い方、組み合わせ方、深度さえも違うような気がする。読む度に面白さが深くなる。これは厄介な本である。

 九月十八日
 isの最終刊が送られてきた。表紙が凄く良い。真っ赤な地にタテに黒々と「終わり方の研究」そして左肩に横書きで、「isがwasになるとき」とある。編集長山内直樹氏の心情が良く表現されている。isには随分お世話になった。そして述感もかけた。いつか又、何処かでお目にかかれるのを期待している。企業がサポートし続けた文化的雑誌としたら最良の部類に属し続けたと思う。誰もが無くなってから初めてその意味を了解するという一様な鈍感さの中に居るのだが、isの終刊号もその愚鈍でしかも圧倒的に普遍な傾向を思い起こさせるに十分な出来栄えである。山内編集長はこの縮少必然の時代には、その駆体が大き過ぎたのだと笑って一時、休養なさるのが良い。
 日記のメモを書いて捨てたのは初めてである。たかが日記と考えて気楽に書き散らして二年以上になる。ちょっとスタイルを変えてみようと試みたが、うまくいかなかった。こういうメモの形式は、やっぱり地でゆくしかないのだろう。それじゃなくては続かないのだな。
 研究室から見える新宿西口の超高層オフィスビル群の光り方も鈍くてどんよりしてさえない。そう思ってみているから余計そうなのだ。時代のフィーリングかな、これ位が。
 小泉純一郎首相訪朝の成否が話題になっている。マスメディアの論調はおおかた否定的な方向に傾き始めている。おそらくこのニュアンスは幾つかのディテールによって形成されているのだが、そのディテールの一つに外務省スタッフ等の例えば北朝鮮拉致問題の関係者に対する態度(ニュアンス)があるだろう。マスメディアはデティールの集積によって意志が決定される。細部の集積の背後にあるストラクチャーには思いを致さぬきらいが強い。マスメディアの宿命であろう。

 九月十七日
 昨夜、四つ目の月下美人が咲いた。月も無い平々凡々たる夜半に静かに咲いていた。今朝は休み明けで学生達が地下に戻ってくるらしい。皆大学へ戻す事だけは決めているが、ディテールは未決。今早朝北朝鮮に発った小泉純一郎首相の決断みたいなものだ。どうなる事やら。
 オゾンロックスの山口さんからいただいたオーガニックコットン・竹炭ぞめのTシャツは身につけてみると大変に体になじむ。こんなに柔らかい感触のものは珍しい。
 九時地下ミィーティング。学生は大学へ戻した。当たり前と言えば当たり前なんだよな。十三時過大学。世田谷村市場、ガレージハウスの説明。これはほとんど無反応であった。十四時半三年生製図指導。及びアルヴァ・アールト講議。
 コルビュジェのサヴォワ邸、ミースのファンズワース邸、アールトの夏の家、そのどれかを増改築せよという課題だから、私も手を抜くわけには行かない。今年で設計力の地盤低下の歯止めをしなくては。

 九月十六日
 今日は休日だが大学で用事がある。雨模様の曇り日で、何とか元気を演技しなくてはいけぬ日だ。十時帰国子女面接、外国人受験生面接。そのあと人事小委員会。学科は難向排出である。早稲田建築の世界の中での存在理由を明らかにするのが第一であろう。計画系をデザイン・歴史へ、都市計画を広義の計画へ、環境系をより実体化するのが急務なのだ。拡張路線は墓穴を掘るに等しいと思うが、帰国子女外人共にエネルギーが不足している印象は否めない。どうなってしまうのかねこの国の将来は。昨夜サンパウロ大学のマリアセシリア・ドス・サントス女史から電話があってITスタジオの課題にリノベーションをテーマに参加したいという事であった。
 明日の三年生の設計製図に小レクチャーの住宅をやってみようと思うが、レクチャーの素材はアルヴァ・アールトの自邸にしよう。あんまり難しい話は三年には無理だからヘルシンキ工科大学の学生達が課題にどう取り組んでいるか、その学生の作品を見せてやろう。十四時より中国コンペ打合わせ。野村が頑張って少し進んだ。十月中旬から追いこめるようにつめてゆけば良い。
 世田谷村市場のウェブサイト用の案内方法のアイデアが浮かぶ。仮空の町のガイドブックを作ろうと夢中になっていた結果が筑摩の「夢のまたゆめハウス」であったが、あれをもう一度別の形でトライしてみるか。コンピューターはファンタジーだよね。とどのつまりはさ。

 九月十五日 日曜日
 今日は完全休養。何冊かの本を読む。捨てられぬ本に出会うのは難しい。

 九月十四日 土曜日
 朝地下で少しのおしゃべり。十三時コンバージョン打合わせで大学に行くも何も資料がそろっておらず打合わせにならず。仮空の問題で一分たりとも議論する時間は今の私には無い。この件は仕切り直し。十四時中国コンペ打合わせ。長々と打合せの形式の独人言が続く。仕方ネェーナ。
 十七時新大久保駅近くのラーメン屋で太田とビールとメシ。こういうのもウラ寂しくてよい。十九時半世田谷村に帰る。
 ちなみに、今早朝屋上菜園に種をまいたのは、八重矢車草、わすれな草、スィートピーロイヤルファミリーミックス、カモミール、BACHELOR’S BUTTONS、Lavender、Lady Chives、Garlic、長江豆の八種類。うまく芽を出してくれれば良いのだけれど。

 九月十三日
 十一時より中国より劉さん来日。コンペの打ち合わせ。十四時赤坂見附コンサル会社、ホテルの件。十六時目白GK日本フィンランドデザイン協会会合。来年の日本でのフィンランド・デザイン展の準備について。「静けさ」のテーマが消えかかっている。少し頑張ってブッディズムとデザインの主題を取り戻さなくては。今夜は少し計り考える時間がある。幾つかのプロジェクトのオリエンテーションを考え直してみよう。
 “無難”とは“不十分”のことだから、それではそれのために死んでいった多くの「過激なミュージシャン」に申し訳が立たないのではないか!?大学の研究室に置いてあった菅原昭二(今は正二)のジャズ喫茶「ベイシー」の選択を久し振りに世田谷村に持ち帰って再読した。菅原はやっぱり気品があるなァ。

 九月十二日
 八時過世田谷村発富士へ。聖徳寺現場で依頼主、住職等と打ち合わせ。ようやく、私の方にまとめられるかも知れないという自信が湧いてきた。仕事とというのは奇妙なもので、幾つか走らせている群の中で一つだけでも良く走りそうなモノが出てくると、私の方の全体も活気付いてくれる。

 九月十一日
 月下美人がもうすぐ咲くなコレワ。七時屋上に上りかなりの量の生ゴミを埋める。菜園は秋の模様を呈していた。しばらく上らぬままにいると様子が変化しているから驚かされる。十時首相官邸にて古川貞二郎内閣官房副長官と面談。沖縄計画についてアドヴァイスをいただく。内閣府に行き色々と相談。沖縄計画を動かそうと思う。休止状態のライトインフラストラクチャー、難民キャンプ支援病院のプロジェクトを引き出しから引っ張り出してほこりを払っておこう。昼過ぎ、世田谷に戻る。今日は屋上菜園で3回目になったファッション誌の撮影。オゾンロックスの山口勝三氏に初めてお目にかかる。
 今日は昨年のNYテロ事件から丁度一年経った日だ。TV・新聞共に盛り沢山な報道である。しかし繰り返し繰り返し見たあの衝撃的な映像は私達から何かを深く奪った、別の言い方をすれば私達は大きく何かを失った筈なのだが、そういう議論は少ない。宗教学、イスラム学のフィールドからの声を聞きたい気がする。集団自死と教義の本体に対する理解度の問題が根底にあるのではないか。その問題に触れずにイスラム原理主義者達の集団的自死と、それがもたらす近代キリスト教的世界との葛藤は公平に語り得ないのではないか。
 夜、遂に月下美人咲く。合計三つも。ふくいくたる香りにつつまれて、しばしの平安を楽しんだ。世田谷村は月下美人の匂いに空間を占領され、一時間程桃源郷となった。この静かな平安は固い物質では構築できないかも知れない。

 九月十日
 午前中頭が少し重い感じだが大学へ。今日位から色々の事が起きるのだろう。昨日富士で手に入れたケイトーの花を植え忘れたな。生ゴミも屋上に放置したままだ。明日の首相官邸用の企画書まとめる。モノミーティング。三年生製図課題。セバスチャン。その他雑事諸々。早稲田学生新聞インタビューもこなした。人に会うのはエネルギーが要る。世田谷村へ戻り少しスタッフとおしゃべり。住宅建築の趙海光のインタビューのゲラに手を入れる。俺のインタビューはどれも成功しているとは言えない。前にもメモに書いた記憶があるが、しゃべる速力に頭の回転記憶力その他がついていかない。筆談インタビュー、筆談座談のスタイルが本当は望ましいのだけれど、そうもいかぬからナア。住宅建築の特集は海光の筆力に期待するしかない。

 九月九日
 朝九時過高橋工業来世田谷。地下で打合わせの後富士山へ。聖徳寺現場。墓の最終サンプル施主立会いの許見る。ステンレス製で、タンクローリーが八八台地面に埋まっている感じ。どうなることやら。しかし、墓地の一つのモデルにしようとしているのだから、これ位の事はしなくては。ザンザ降りの中世田谷に帰る。今年の天気は狂ってるとしか思えない。ブレードランナーの雨を思い起こすな。新世紀に本格的な世紀末が到来している。

 九月八日 日曜日
 昔の抒情歌唱曲には気品があったな。俺の友人達も皆変だけれど一様に気品のカケラはあるな。

 九月七日
 午前中地下。スタッフと話す。いつも独人言みたいな状態だが、時々独人言でさえも新しい考えが生まれる事があるから。十八時杉並渡辺邸「唐桑臨海劇場」スライド会。六〇人位の人が集まった。渡辺さんの人徳だろう。一九八八年からのアノ六年間は私にとっては大きな無駄のようなものだった。しかしながらやってしまった事の全部は無駄と言えば無駄だし、そうでないと言えばそれ迄の事。

 九月六日 つづき
 十三時カルティエ社来。カルティエ社の本をいただく。ブランドの歴史というのも興味津々だなあ。十三時半嘉納先生と稲門建築会の件。十五時明日の渡辺邸でのスライド会準備。十七時前終了。ドシャ降りの中を世田谷に帰る。

 九月六日
 九時過地下ミーティング。昼過大学へ。世田谷村一Fに石山研で作って流通させているモノのチョッとした展示小屋を作ることを決めた。問い合わせは少なくないのだが、実物を見て触れる事ができる場所が必要だ。

 九月五日
 今日はチョッとゆっくりさせてもらおう。朝、富士山にいる檜垣から電話。住職とも話す。何が起きるか不明である。ゆっくりゆっくり進めた方がよい。霊園は。ドイツのグライター氏がPHDを取得したのは喜ばしい。本格的な理論家への径を歩くことを望んでやまない。午前午後共スケッチをしていたので疲れた。地下の連中も早く帰ったようなので、私も早めに休もう。十二時前寝る。

 九月四日
 聖徳寺現場檜垣が一人残っている。富士山のあの高度では朝夕は寒いだろう。真昼屋上菜園に上り散水。本当はこんな時間に水をまくのは良くないのは知っているんだが、ただただ今日はどうしても水をやりたかった。何故かな。十五時大学ホームページ打合わせ。十七時過大岡山東工大へ。篠原一男の東工大百周年記念館を初めて見た。写真の印象とは少し違う建築だった。この作家は空間を主題にしていない。フォルムに問題を集中させていた事がわかった。目に見える事を一生懸命追っていたんだな。六角鬼丈仙田満と設計教育について座談。東工大の機関紙「華」らしい。教育の問題は近代以降の建築の歴史的背景を踏まえて論じなければ意味はない。日本建築学会長仙田満は総じて拡張論者である事が知れた。今拡張を唱える事は少し時代に鈍い感性の持主だと思うが、どうか。学会長はデベロッパー的志向がおありの様だ。六十一才になった六角の肩には芸大の建築学科の将来がかかっているな。世田谷に夜中帰る。嘉納先生より電話あり。稲門建築会の件。他人の振りみて我振り直せ。早稲田建築の将来も難問山積みだ。しかしながら単騎独行の私がこんな問題に巻き込まれている現状には我ながら苦笑せざるを得ない。

 九月三日
 昨夜は午前三時迄原稿書き。今日は七時起床で残りを書き上げた。十時三〇分次女友美東南アジア旅行から帰る。これで一応家族らしきは全員そろった事になる。十二時半GA杉田インタビュー。十四時学部三年設計製図課題提出。十五時来客。十六時力の意志インタビュー。
 久し振りに馬場照道から電話があった。佐藤健の事が心配だ。十八時世田谷村にて北海道十勝の後藤氏と打合わせ。会食。まだまだ若いスタッフとクライアントは会わせられないことを痛感する。

 九月二日
 田中康夫長野県知事戦再当選。ここのところダムの勉強少ししたので状況はチョッとはわかるようになった。長野県民は冷静であったと思う。冬季オリンピック後の長野の荒廃は誰もが知るところだが、官主導の超大型公共投資である「オリンピック」の後の有り様を知っている県民はダム問題というよりも公共投資主導型の政治に限界を見ていたのではないか。公共投資の方法も戦後日本はアメリカ型を学び選択した。TVA思想(テネシー川流域開発会社)はアメリカに大恐慌が起こった一九三〇年代のルーズベルト大統領のニューディール政策の中心であった。それは巨大ダムを作れば雇用が発生し、人々が集まってきて、家が建ち、企業が誘致され、都市が生れる。ダムによって人々は幸せになってゆくのだと言うものであった。巨大ダム開発は核開発、宇宙開発と同じに、国家の威信をかけた大事業であったのだ。今はそんな時代から七〇年経った。核開発、宇宙開発が人類に何を持たらせたのか、大きい疑問が我々の中に芽生え育っている時代だ。総じて国家主導の巨大開発は我々の日常生活の質とは無縁である事を、すでに我々は知ってしまった。今はもうそんな時代である。特に女性はその事を直観的に理解する能力を持っている。
 長野県知事戦再田中勝利は大きな歴史の節目になるだろう。知事と県議会との対立などは小さな問題に過ぎない。田中康夫はその内に在る女性の感覚を持って歴史のターニングポイントを体で感じていたのだ。田中は男性ではあるが、女性の感じ方を本来的に持つ男なんだろう。作家、芸術家の類は多かれ少なかれ皆その傾向がある。その女性的感性が政治という男世界の代表的舞台にまぎれ込み、決して引かなかったところに今回のよじれ現象が発生した。長野県知事戦は男性原理と女性原理の衝突であった。勿論歴史は女性原理に軍配を挙げざるを得なかったのである。かくの如き事件はこれからも頻発するだろう。十一時名古屋浜島さん来室。東洋医院打合せ。十四時代官山プランドシー野田さん訪問。中国の件打合せ。こんな時代に年々倍々で延びている会社らしく、若々しく活気に溢れていて、しかもチョッと怪しいところが魅力なんだろう。十五時半世田谷村に戻る。夕方までダム下調べ。夜に室内原稿上げなければならぬ。今回は我ながら〆前に書き始めようとしているが、何となくうまくいきそうにないぜこれは。変だなあ。次女友美帰国予定の今日になっても帰らず、大騒ぎ。何かの事件に巻き込まれたかと家中で心配する中、バンコクのパリンダの家とようやく連絡がとれて、友美は今パリンダとショッピングだとスパキットがのんびりと言ったらしい。要するに友美が帰国予定日を丸一日我々に間違えて伝えていたのだ。馬鹿娘が!あきれ返ってモノも言えネェ。こいつは本当に度々冷汗をかかされる。

 九月一日 日曜日
 九時前起床。まだ眠い。昨夜の疲れ方は異常だった。毛綱の霊が背中に貼り付いたかと思う位に。午前中何も出来ず。地下での模型作りを少し見る位。午後三時前まで眠さが去らず、しかもベターッと何かに引きづり込まれるような眠さで、悪夢が断片的に訪れた。夕方十勝ヘレンケラー記念塔第二期工事の模型作り終了。長女徳子長かったアメリカ留学から帰国。御苦労さん。しかしながら、PHD取得後のこれからが大変なんだよね。

2002 年8月の世田谷村日記

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