石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2002年11月の世田谷村日記 |
十月三十一日 |
十月も今日で終わりか。速いな時間がたつのが。 十時過ぎ十勝後藤さんへスノーボートの図面送る。十二月製作に間に合わせなくては。こういう仕事はスピードが第一だね。朝日新聞に安部譲二氏の山本夏彦追悼文が出ている。そりゃー安部さんは悲しんでいるに違いないが、こんな文章書いていたら山本さんガッカリするぜ。
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十月三十日つづき |
十七時前稲田堤厚生館愛児園。近藤理事長プレゼンテーション。気に入って下さったようで来年春着工で進める事になりそうだ。良かった。凄いモノにする。プレゼンテーション終了後理事長と会食。チョッと羽目を外したかも知れないが、こういう日は良いだろう。二三時頃世田谷村戻り。
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十月三〇日 |
昨日の毎日夕刊に谷沢永一氏の山本夏彦追悼文が掲載されていた。谷沢の文章、特に単語の選び方は開高健と似ているのを知った。本格的な附合いは文体にまで影響するんだな。谷沢の文章を読んで批評家の凄さというものがやはりあるのも知った。彼にああ書かれて山本さんは嬉しがっているだろう。山本に向ってボキャブラリーは潤沢ではなく、繰り返しが多かったが、文体に独特のものがあり、誰にも似ず、結局一人一派を成したと言うのがその批評の要約である。これで山本さんは文学史上に残るにちがいない。 朝地下で厚生館モデル撮影。十時前大学へ。創生入試(無試験)の採点。無試験の試験という矛盾に対面する。エスキスと面接だけで人材を選ぶのは困難極まるが、ひ弱な試験上手だけの優等生ばかりを取るよりは良いかも知れない。二〇才前の人間に特異な才能が芽生えているかも疑問だが、試みは試みだから、附合いましょう。
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十月二九日 |
朝原口夫妻来世田谷村。原口家の事情で住宅建設は中止となる。仕方ない。住宅は何が起きるかわからないモノだ。十四時中国の件打ち合わせ。中里和人氏を待つも車の渋滞で現われず。世田谷での打合わせの為大学を出る。北九州の集合住宅計画の説明。厚生館のモデルチェック。くらい烏放送の小編集会議。形が生まれる過程を公開してしまおうと言うのだから、全く自分まで開放するつもりなのか、我ながら解らぬ、闇雲振りである。
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十月二八日 |
山本夏彦翁追悼のためホームページを一週間閉じる事にした。せめて喪に服し、山本さんに敬意を表したい。十二時過星の子愛児園。園長先生中沢先生とガリボーンのメンテナンスについて、その他打ち合わせ。クライアントとは時々会って話をする必要がある。昼食を御一緒して、十四時大学へ。一ノ関菅原昭二から山本夏彦逝去についてFAXをもらったので電話する。室内の連中にも何か送りたいのだが。やっぱり哀しいね。師匠だったんだとあらためて考えている。十五時半来客。十八時幾つかの用件を片付けて世田谷へ。厚生館のモデルが出来つつある。面白い。がさすがの近藤理事長も仰天するかも知らんなコレハ。明日はこのモデルをもう少し整理する必要があるか、まてよ、それでは折角女性のカオスとしかいいようのないエネルギーを使ってみようという試みに反するか。女の荒馬は乗りこなすのは大変だが、未知と出会うスリルがある。しかしながらこのモデルを建築まで仕立て上げるのも相当エネルギーがいるな。
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十月二七日 |
山本夏彦さんがどうやら亡くなったようだ。八十七才だった。娘がインターネットニュースで知り知らせてくれた。昨夜御親族だけですでに葬儀はすませていると言う。二三日に亡くなっていたのだと言う。 いつの間にか亡くなっていたようだ、が実感だ。いかにも山本夏彦さんらしいと思った。昨年の晩秋にお目にかかったのが最後になってしまったが、山本さんに関してはお目にかかろうが、かかるまいが、お目にかかっていようが会わずにいようが、それはどちらでも良い事のように思う。翁は生きている時からすでに死んでいる人のような趣があった。 この人物の事は「ずーっとむかし生まれた人」と題した文章が「現代の職人」晶文社(一九九一年)に収録されているのでもう繰り返さない。現代の職人は私の何冊かの本の中でも、自分が一番出ている本で、これは山本夏彦さんが発行編集人を生涯つとめた雑誌「室内」に一九八五年から連載させていただいたモノをまとめたものだ。光栄な事にこの本の巻頭には山本さんの「推挽」があり、小さな石山論になっている。稀代のコラムニストの文である。数行で私を言い当てている。言い当てられた私はもじもじするしかないが、建築家という職業の正体も同時に言い当てているので私は救われてもいる。 山本夏彦さんは私の文章の師匠であった。私の文章が今少しは読みやすくなっているのは二人の編集者のお陰様である。一人は津野海太郎であり、彼は俗な建築家特有の漢字難字の多い気取った文章を嫌って「ひらがなに開け」と教えてくれた。以前の私なら、教えてくれたと書かずに教示されたと書いたであろう。啓示教訓を得たなんて書いて悦に入っていたかも知れない。 山本夏彦さんは更に辛らつであった。原稿を何度も突き返してきた。私の文章の勉強は四十を過ぎてからだった。四十を過ぎてくればどんな凡愚でも、平凡は平凡なりの我が育ってきている。他人の意見を簡単には聞けなくなっているのが通常だ。漢字をひらがなに開くどころの話ではなく、心を他人に開くことが出来にくくなっている。 しかし山本さんの指摘はいちいち、ごもっともで私は歯ぎしりしながらも言う通りに従った。つまり頭を下げたのである。世の中には敵わぬ人が居るのを知ったのだ。 山本夏彦は戦後の日本人の気持ちの働かせ方に厳しかった。戦前十五の時に無想庵に連れられてパリで学び生活した人である。すでにその頃から日本と日本人を客観視せざるを得ない眼を養い続けてきたのだ。日本人はニセ毛唐になった。というのが山本夏彦が作家として、コラムニストとして到達した結晶の一行である。司馬遼太郎さんの晩年の発言も大方それに近いものになったのを思い起こす。山本さんは繰り返し繰り返しその事を言い続け、次第に深みにはまり、それ故にそのコラムは凄みを帯びた。凄みを帯びると、それは時に他人を傷つけることになり兼ねぬが、山本さんはそれを笑いにも昇華させた。 旅をしない人、出掛けぬ人としても知られていた。何の用があって月まで行くんだと言う山本さんのつぶやきも知られているが、山本さんは人類平和希望愛と言うような、アポロ十号の月面着陸に連がるような考えが嫌いだった。その平板さを疑っていた。その平板さをヌケヌケと言うアイダミツオのような人間を嫌った。その通俗さを突き、破壊する山本さんの口振り、手つきを私は好きだった。旅をしてもロバはロバのままだ。翁の名句の一つだが、自分に刺さる言葉でありながら、赤面しながらも好きであった。好きだナァと思っているうちに、何だか真似をしている自分に気が付くようになった。友人から文章の組み合わせが似てきてるぞ、と指摘され、嬉しいような、悲しいような気分に落ち入った事もある。 山本さんが亡くなった事を知り、いづれは亡くなるだろうと考えていたから、それ程のショックはあるまいと、淡々と受け止められるだろうと考えていた。しかし、時が経つにつれて悲しさが襲って来て、その事に自分で驚いている。その悲しさは人間の常の別離のそれでもあるが、もう少し深い別れでもある。これから先の時間、あのような人格物腰に二度と会えぬだろうという確信が深まる、それだからやってくる悲しみだからなのだ。こういう、もって回った言い方を山本さんは嫌がった。文章には人間が表れるから、自分でも、これじゃ人間ごと突き返されるぜと力も無い。戦後日本の文化風俗をほとんど文化人類学的にコラムという手段で追求し続けるような人物はもうニ度と出ない。それが辛い。 ショックを薄めようとして、こんな駄文を書いてはいるが、段々悲しくなってきた。もう止めよう。 あんな桁外れのお化け、明るいモンスターに会い、教えてもらえた事だけでも幸運であったと言うしかない。
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十月二六日 |
〇時半打ち合わせをおえて世田谷に戻る。何でこんなに仕事するんだろうと我ながらあきれる。疲れ過ぎて眠る気にもならない。明日を乗り切る事だけを考えるような状態だ。ロクな人生じゃネェーなこれでは。 八時四〇分地下へ。聖徳寺観音堂の建設を急がなくてはなたらない。指示をいくつか。ゆっくり生活しなければならぬ時代の、そのゆっくりさに合わせる事ができないんだな。くらい鳥放送の第一次放送の草稿をチェック。我スタッフの総合的レベルはまだまだ遠いな。はるかに。十四時大学資料集収。十六時前京橋INAXギャラリーJIA講演会。編集者の植田実が逃げて渡辺豊和が大阪からはるばる私の講演のクリティークを行うために来た。満員の観客の中に石井和絋が居て、講演の後鼎談となる。石井の批評はあいも変わらず速力があって、辛らつだ。十八時半修了。渋谷へ。二十二時過世田谷村へ戻る。女性が三名残っていて仕事をしていた。若い女性が土曜日の楽しみを捨ててコレじゃイカンとは思うのだが仕方ネェか。
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十月二五日 |
何日か振りに陽光を見る。世田谷村の生活は天気と共に在る。地下室への南側からのアプローチを開ければ、加えて大地と共にも在るようになるのだが。八時半地下へ。東からの朝の光が振りそそいでくる。建築の視覚的側面からの価値はほとんど光に左右されるのが良くわかる。厚生館のため「たつまき」のモデルに光がさして、それが白い紙に不思議な影を写している。光と影。どちらが実体なのか混濁してくるが、影の方が美しい。影には触れられぬからな。今日も一日雑用が多いが何とか切り抜けよう。建築設計は雑事の群の戦場だよこれは。机上の想案だけではいかんともしがたいモノが多過ぎる。これに負けてしまうと実物は作れないと言う現実がある。地下の人数は今のところ私を入れて九名だが、もう一人くらいいても良いな。 ソタマが仙台市で何かしているようだが、チョッとその仕事の枠組みは参考になるようだ。十三時中原編集事務所世田谷村取材。下村純一写真。中原氏とは久し振りで、短いあいさつを交わす。十四時半大学。修論チェック。三年製図。十七時半修了。二〇時まで明日の講演会のスライド準備。二一時世田谷へ戻る。厚生館のプロジェクト模型を見る。二二時半西調布へ。聖徳寺観音堂打ち合わせ。二四時過修了。
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十月二四日 |
昨夜の地下ミーティングは面白かった。柴原から人間の表情の筋肉の仕組みの小レクチャーを受け、マスクの事例を見せてもらった。女性は皆興味深そうに聞いていた。そうだろうな、女性の深い関心事に違いないからな。その後小さなブレインストーミング。意味のないおしゃべりの準備体操を経て、スケッチ。安藤のオリジナルスケッチをベースにそれのある種の構築化を行った。良い成果を得た。一歩前へ進む事ができた。厚生館の建築は楽しみを尽くしたい。色んな雑事で気が滅入る時も少なくないが飛んでもないアイデアが生まれるとそれも消える。八時過ぎ地下へ。ワールドフォトプレスの連載が決まりその年間の枠組みを中里さんと話し合わなければならぬ。 十二時大学へ。中国の件打ち合わせ。 十四時過ぎ芝パークホテル。ヘルシンキ芸術工科大学長ソタマ氏栄久庵憲司氏フィンランドセンター所長カティア・ヴァラスキヴィ女史等と二〇〇三年の展覧会の打合わせ。新宿の文化学園東京ガス、オゾンと廻り、十八時半新宿パークホテル三四階で会食。ソタマ学長栄久庵のホスピタリティの大きさにはいつもながら感服する。二十一時半世田谷へ戻る。男性スタッフにHOBORSコラムをウェブサイト上で展開する事を依頼する。男共よしっかりせい。石山研のウェブサイトにバウハウス大学中原大学早稲田大学の4、5年生の共通課題への作品が掲載され始めている。それらを比較してみると早稲田の学生の考える力は残念ながら幼稚だな。今月末にはサンパウロ大学の学生の作品も来るから増々その実体は歴然としてくるであろう。小器用だが考え方そのものに深さが無いんだナァ。磯崎が随分昔に日本の建築教育をうれうというエッセイを書いていたが、それは今や増々歴然としてきている。他人事みたいに言う立場ではないが、どうしょうもネェなこれだけは。私のところの地下だけはそういう事のないようにしたいのだけれど。くらい鳥放送は闇乃鳥放送と変名したようだ。闇乃烏放送とHOBORSの組み合わせか。我ながら地下の将来に不安を感じるが、不安の中から希望も生まれてくるだろう。 今日は午後中歩き廻りさすがに疲れた。流石に体力の減退を痛感するが、低出力のママに動く方法を身につけるしかないだろう。
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十月二三日 |
N棟学生に沖縄長寿の源に関する情報を集めさせる。それと日本外国共にその方面の情報にエキスパートな人材に関しても。九時沖縄計画の企画書完成。十三時三〇分首相官邸。古川官房副長官面談。厚生労働省にて局長に面談。コーディネーターに適する人材を紹介してもらう。速い。十五時四十分霞ヶ関修了。大学へ。十勝後藤氏と会う。スノーボートの打ち合わせ。現実化には仲々難しい問題がある。面白いモノを作るのは大変だね。
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十月二二日 |
朝、森の学校初期スケッチ、厚生会愛児園スカイポッドスケッチ。スタッフに渡す。昼過大学へ。卒論&M1指導。博士過程中国人学生、台湾人学生指導。十八時過世田谷へ戻る。 久し振りの地下でのスライド会。ガリボーンとCY・LEEの中台禅寺。小さなモンスターと超巨大なモンスター。くらい鳥放送チームと第一厚生会愛児園より新しく依頼されたフローティング・モンスターの打合わせをする。笑う表情の研究から始めようという事になった。笑いを生み出す顔の筋肉の動きに関する情報、能面の笑いの仕組み。そして福笑いの起源と意味などを明日夕方までに調べて貰うことにした。このスピードはコンピューターの効能である。明日首相官邸で打合わせのため深夜沖縄計画の企画書をまとめる。 色々と沖縄を調べるうちに、この島が女性主導つまり文化的には女性優位であったらしい事が知れてきた。面白い。 ガリボーン→フローティングPODの設計に関して興味深い事に気付きつつある。ツリーハウスの設計から始まった事ではあったのだが、要するに曲線曲面を使い始めると決め手がはなはだあやういのだ。と言うよりも何処で、どのようにして決定できるのかがあやふやになる。磯崎のモンローカーブのアイデアがどれほど先行的なものであったのかは別として、結局彼は試みとしても曲面を使う事はなかった。あったとしても幾何学的曲面でしかなかった。知的な姿勢がそれを許さなかったのだ。 フリーハンドの現代的意味を考えなくてはならない。ツリーハウスの建設に於いてすでに体験したように、フリーハンドの落書き状スケッチを現代のコンピュータと製作技術は実現化、リアライズできる力を持っている。何でもアリの時代なのだ。デザインに正解の如きものへの神話・幻想があったのが二〇世紀であったとするならば、二十一世紀のデザインは不正解も又、正解の一つであるような、そんな時代になりつつあるようなのだ。クールなカオス状態とでも呼ぼうか。体温の無い死体状の、しかもカオスなのである。資本主義が到達してしまった状態がこれだ。
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十月二一日 |
薄暗く小雨が降っている。昨夜入院している佐藤健に言われた「お前この頃以前のようにほとばしるもの感じられないぞ」が重く沈澱している。年令だから仕方ないよ。今はそういう時代なんだからと答えはしたのだが、それは違う。やる事の順序を決めかねているんだと答えたのも違う。そう言われる原因は自分が一番知っている。今の健さんには何を言われても仕方ない。 地下ミーティングでは一つの現状の霧中停滞現象への打開策を打ち出そうとした。女性スタッフを核にして、私のホームページの中にもう一つの島をつくり、その島を拠点に意図的に現実社会とは遊離したメディアをつくる。メディア社会に向けたメディアだ。何故男性を核にしないかと言えば、彼等は現実社会への順応力があり過ぎて、逆に、それだからこそ方法的にメディア形成の核にはなりにくい。女性は制度的にも慣習的にも現実社会に受容され難い現実があるからこそ、メディアの核になる可能性が大きいと考えたからだ。マア何言ってるのか我ながら極めて怪しい気配が濃厚ではあるが、アディル・カルサヴィーヌの会以来長きにわたって考えてきた事なので、ここらで矢を放とうと決心した。かくして、くらい鳥放送誕生。夕方編集方針決まり安藤編集長よりそれぞれに発注する。
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十月二〇日 |
昨夜は早く寝てしまったので今朝は二時半に目がさめてしまう。読書しているうちに眠くなってきて又寝る。なんだか日本に居ながら時差ボケしている状態だな。朝、原口夫妻来宅。♯10住宅の相談。要するに問題は土地の事らしい。今住んでいる家で余り良くない事が起きる。何故か、この土地に悪い問題があるようだ。地中には京王線の工事のゴミが埋まっているらしい。お婆ちゃんが敷地内の井戸池を埋めてしまったのも気になっているようだ。地霊の気配を感じているのだが、その正体がゴミという事であり、土地の水気も殺してしまった事への後ろめたさになってしまっているようだ。この問題に取り組まなければ依頼者は納得しないのだろうな。面白いような、ただただシンドイだけのような。〇時半東大病院へ。一階で佐藤健夫妻とパッタリ会う。健さんは点滴のチューブも外して、自力で歩いていた。病室で話を始めたが、入院してから一番頭も気持もクリアーで、話しも論点が明快で面白い。もう意識無意識が混濁状態だろうと予測して行ったので仰天である。話しもはずみ十六時半迄滞在する。何があったのだろうか驚いた。十八時過世田谷へ戻る。娘二人が今日は長野の藤森の実家へ丸太をもらいに行って帰っていた。二人共藤森先生の縄文人振りに仰天して、今日一日の藤森先生の行動印象を夢中でしゃべくっている。娘を藤森にもっていかれた風だなこれでは。十九時半小平へ。菅原君通夜。西調布で時々会ったことのある青年で、幼児の頃から不治の病に犯され、一度も健康体に戻ることなく三四才まで、それでも生き延びて、遂に倒れた。私はこの青年が好きだった。邪心が無く、死を覚悟しながらも精一杯生きた。今日は妙な一日だった。生と死の有体を現実の中で目の当りにした。仕切りに胸騒ぎがする。何がやってくるのだろうか。
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十月十九日 |
♯5朝山邸のチョッとしたアイデアが生まれた。久方振りの大物アイデアである。単発のアイデアでモノが作れる時代じゃないが、それでも様々に組み合わせれば大きく展開できるだろう。ガハハハの大笑だ。午後東大病院入院の佐藤健から電話あり。会いたいと言う。会いに来いと言う。こんな風にお前に頼むのは初めての事なんだからとも念を押す。今日来いと言うが今日はむづかしい明日行くと答えた。まだまだ生きるエネルギーは充分にある。私だって刻一刻が記憶に残るような時間でありたいとは思うのだが、それは困難極まることなんだよナァ。佐藤健が西域旅行は良い思い出になったと言うので湧いてしまった思いである。この思いを突きつめてゆけばハイデガーぐらいの思想哲学に結晶するのだろうが、別に結晶させなくってもどおってことない。ありのままで良い。思想哲学が実生活の本体よりも上位のモノであるなんて事はない。哲学は生活の手鏡である。
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十月十八日 |
昨夜高橋工業社長世田谷村来訪。今朝から三階テラスの仕残したライン溶接をやってくれている。小雨の中檜垣が怒鳴られている。高橋流も私のところの若い連中には通じてくれないようだ。疲れが抜けない。 午後大学。広島市役所塚田さん来室。平岡前市長御元気との事。鈴木先生より電話。原稿余りのオクレの件もあり身もすくむ。シャープ株式会社の方来室。コンペの件。鈴木了二からアーキグラムみたいなメディア作りましょうよとそそのかされた。面白いだろうけどエネルギー消費するだろうな。若い人が駄目過ぎるので、おじさん世代が余計なことを考えてしまうのだ。夕方セバスチャン、コンバージョンプロジェクト打合わせ。今年のバウハウスの学生はしっかりしている。
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十月十七日 |
七時頃起床。室内原稿を書き始める。目ざわりデザインで自販機を書く。十時修了。室内長井に送る。ギリギリ・セーフ。十三時大学教室会議。
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十月十六日 |
室内目ざわりデザインまだ書く対象決まらず。今日中にあげぬとやばいのは解っているのだが、何故かその気にならないんだなあ。八時半地下に降りる。朝の光が地下に射し込んで気持が良い。これなら早朝は地下で過すことにしようかな。 午後大学でいくつかの用件。十七時東大生産研にて藤森照信と会う。本来は藤森先生が私をインタビューする筈であったが、ほとんど彼がしゃべっていたのが愉快。藤森は相変わらず独特な視角を持ち続けている。原広司先生設計の生産研の建築にはいささか失望する。その後、台湾料理店で上海ガニを御馳走になる。上海ガニのスープにライスを混ぜた料理が美味であった。しかし原稿の〆が気になって気分は開放されず、藤森先生の諸説をうかがうばかりの羽目になった。マ、いつもの通りか。二一時過世田谷村へ戻る。女性三名によるプロジェクトに関して進め方、その他を説明する。上手くいってくれれば良いのだが。二三時過修了。原稿は書けず疲れて眠ってしまった。藤森のギャラ間出展の丸太模型をくれと言ったら、丸太が諏訪から来る事になった。
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十月十五日 |
十時前大学中国の件打ち合わせ。コンペにかかる人数は三名に増やした。今日から本格的にとりかかろうと思うやさきに〆が延びたの報が入る。中国の事は大様に構えていないとやってゆけぬ。夜趙海光植林両氏世田谷村に。住宅建築の石山研特集の慰労会。体調が万全ではなく程々にして切り上げる。植林君はその後市ヶ谷の大日本印刷で校了だそうで、マ良く頑張る人だ。
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十月十四日 |
昨日は一日休養。好きな本を拾い読みして過ごした。夜原口夫妻来世田谷。打ち合わせ。十時四五分にはNHKTV取材で三井霞ヶ関ビル前に行かなくてはならない。コンバ−ジョンプロジェクトの取材である。途上のプロジェクトをTVに流すのは少しばかり気がひけるが、ディレクターに押し切られた。しかしながら大きなスケールのコンバ−ジョンを試みるチャンスだけは増やしておきたい。建築の保存は私にとっては修理修繕。再生も治療という事になる。幸い三十五年前に自分で設計したアパートの再生をやるようになりそうなので、幾つかの方法が手許に手繰り寄せられ始めた。 ♯5朝山邸は一番小さなモノだが、新築なのに保存的手法をとろうとしているところが面白い。一人のお母さんの意欲の中に芽生えた懐旧の想い。それはすでに通俗なノスタルジィの域を超えたノスタルジィの中のノスタルジィ。私の母が亡くなった父親の書斎から離れようとしないのもノスタルジィなら朝山さんという普通というには苦労の多かったろう五十二才の女性が自分が母親に育てられた民家のたたずまいらしきを復元してくれと言うのもノスタルジィ。誰の意志の中にも実は深く懐旧の構造的意欲はひそんでいる。昔、これもすでに亡くなった元松崎町町長依田敬一が言っていた二一世紀はどうやら古さに向かってゆくに違いないと言う確信のようなもの。ヨルク・グライターの日本には廃墟が無いから深いメランコリーが生まれ得なかったと言う指摘。その他諸々の事を考えるならば、日本人の、例えば少し例えは古いが横光利一の郷愁、堀辰雄の哀愁、北原白秋の憂鬱、等々我々が今忘れかかっている平板ではあるが、独特な感性の中に、あるいは抒情の中に大きな仕組みを見てゆく事は、それ程に捨てたモノではない様な気がするのだが、まだまだ我ながら甘いなァ。長田弘の抒情の変革という本はどんな本だったかも忘れてしまった。ノスタルジィどころじゃない記憶力は確実に減退し始めている。歴史的なモノ忘れの早い典型的な日本人になりそうだぜこのママでは。 十時半霞ヶ関ビル前取材その後新宿明治通りで取材十二時過には終了した。今新宿西口地下のコーヒーショップで一息ついている。五反田のデザインセンターに行くか、原稿書くかどうしようか。 十三時過デザインセンター、ジャン・プル−ヴェ&イ−ムズ展。小じんまりしてはいるが、ジャン・プル−ヴェの家具に座れて触れられた。プル−ヴェの家具に特徴的な骨太のフレームは中空だったのだな。薄板を曲げて作っていたのだ。イームズの家具と比べてやっぱりプルーヴェのものは建築架構の要素を色濃くもっている。構造が原理的なのだ。イームズのモノはより生産物としての総合的なシステムに考慮の比重が傾いていたように感じた。アメリカとヨーロッパの違いだろう。 十五時半まで滞在する。会場には二〇代と覚しき人々が沢山訪れていた。OZONEの椅子の展覧会が五百円、こちらが七百円と決して安くはないのにこの盛況である。これはどうした事なのか。そちらの方が気になるね。フリーター予備軍だな彼等の大半は。この人達の使い径はきっとある。 十七時新宿西口でコーヒーとホットケーキ。よく喫茶店に寄る日だよ。一日に何回も喫茶店なんかに潜り込むのは全く久し振りだ。 プルーヴェの家具をつぶさに見て、この水準のモノを作るにはある程度精密なモノを作る事が可能な町工場と直結している必要を一層感じた。増井君の川口のラインかな。 それとも宮本さんの五反田製作所か。世田谷では小さなモノの原寸のモックアップしか出来ぬだろうし、ここは思案橋ブルースだね。目ざわりデザインはまだターゲットさえ定まらない。山本夏彦翁の健康は回復したんだろうか。我ながら思考に粘りがない。困った。腹が減ってクラクラしてる。十八時西口で朝山さん安藤と待ち合わせ。永田町クロサワで会食。娘さんからの手紙いただく。
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十月十二日 |
朝地下で♯5朝山邸の赤入レスケッチを安藤に渡す。♯5は私にとっても初めて試みてみようというのが幾つかあるので面白い。何とかこれで水準に達しただろう。十時国分寺岡さん訪問#9の打合わせ。建て替えではなく、修繕案にしましょうという事になった。ベトナムのバイク修理工のサーヴェイが役に立つ事になりそうだ。岡さん夫婦から玄関の水ガメに咲いていた水草をいただいて帰る。よい天気の土曜日で安田金物のオヤジのアイサツも元気が良い。地下で幾つかの打合わせ後、十九時上にあがる。
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十月十一日 |
昨夜は関西の渡辺豊和さんが上京し、再度世田谷村を見学した。十六時から二十四時過まで話した。先週の伊東さんに引続き古い友人と会えた。豊和さんはここ六年程建築を作っておらず、他人事ながら心配していたが、どうやら又作ろうという気力が湧いてきたらしい。それを宣言する為にわざわざ来てくれたようだ。 何年経っても何十年経っても変わらぬ人に会うのは安心できる。変わらぬ芯があるからだ。渡辺豊和のカンは鈍っていない。これが錆びついたらおたがい死んだも同然だからな。しかし六四才で再デビューするという気持は立派だが、困難極まる事ではある。いまだそんな建築家は歴史の上には居ないのではないか。十四時新宿東京ガスビル、オゾンで日本フィンランド・デザイン協会のフィンランド展打合わせ。若宮館長フィンランド側メンバー等と。フィンランド側メンバーはコマーシャリズムとは、と言うよりも俗事とは余りにも遠い展示内容でオゾンは美術館ではないのでチョッと心配である。いかにもフィンランドだな。ある意味では図太い。心配するこちらの方が本当はおかしいのか。静けさがテーマの展覧会なのだが入場者数も静かではやっぱり困るよね。十五時過ぎおわる。十六時大学へ。製図をみる。十七時過ぎまで。NHK、TVの収録をチョット。十八時より中国の件打合わせ。建築学科は外国人教師をまねく事になりそうで、私も少しその件で働かなくてはならない。二十一時過世田谷村へ戻る。今夜はやはり疲れて打合わせは休み。二三時このメモを記して休む。ああ、シンド。
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十月九日 |
早朝ひさし振りに生ゴミを屋上菜園に埋める。ニンニクの芽が大きく育っていた。八時四〇分より地下で打ち合わせ。十四時東大病院に佐藤健を見舞う。十七時迄。十八時大学へ。十九時半NHKディレクター来室。アレヨアレヨと言う間にコンバージョンをテーマとした番組に引張り出される事になってしました。おまけに三井霞ヶ関ビルをアパートにしたらどうなるんだの案まで作る羽目になってしまう。でも、どうせやるんなら日本初の超高層オフィスビルのアパートへの転用案くらい作らなくては面白くない。明日から三日間で作って、二日目から研究室にカメラが入る事になった。TVのスピードもいかにも現代的だな。二十二時過世田谷へ戻る。数人が残って仕事をしていた。明日から安藤の修士設計をみるつもり。修士設計の水準を決定するモノに仕上げさせて、六年制の修士設計のモデルにする。
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十月八日 |
高橋社長昨日は世田谷村の仕事は修了せず、今朝も残っている。地下の連中の大半は仕事疲れか、社長との飲み疲れかは知らぬが朝は居ない。大丈夫かな。こんな事で。
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十月七日 |
五日六日の二日間早朝から夜まで稲田堤でのモンスター作りに没頭した。久し振りに現場に立ち職人達、スタッフ、学生と共に作業をした。二日間の事だが私には重要なワークショップだった。今、早朝にこのメモを記している。二階では高橋工業の社長が疲れて寝ている。彼も職人達の陣頭指揮で二日間を共にした。
気仙沼から社長以下職人五名。車輌三台、石山研車輌一台スタッフ私を含めて三名、学生五名で長さ十五メーター、高さ五・六メーターの子供の遊具を組立てた。ネジ止めの組み立てではない。全てメタルの溶接である。この事は私にとっては大事だ。つまり専門技術(溶接)を持つ人間と素人(フリーター)の合作現場だったのだ。車輌重機の類を駆使したのも私の三〇年昔の菅平の農家作りとは全く異なる事であった。 開放系技術は人力建築、セルフビルドの建築への論ではない。スピード、パワーがそれでは表現する事ができない。私がこの現場でえた実感はスピードと重機(クレーン)の力、それに人間の様々な能力がミックスされたら、凄く面白いモノができるという予感だ。人間の力で動かせぬものを重機は簡単に運ぶことができる。それを巧みに設計に組み込む必要があるのだ。そんな事は普通の大型建築の現場では常識だと言われるだろうが、そうではない。私のこの現場では機械と人間が混在していた事が大事なのだ。それにたった二日間の現場であった事も大事だった。それで私もスタッフも、職人達も労働を楽しむ事ができた。単純な繰り返し作業と謂はゆる重い労働は人間を機械の奴隷にしてしまう。しかし、機械を人間の道具として使用し、人間の能力=考える力を駆使していけば面白いモノ作り=楽しい労働という世界が開けてゆくかも知れない。 ともかく、巨大遊具の現場製作は面白かった。モンスターと呼びたい事の意味は勿論姿形が異形であるということだけではない。機械と人間が混在して始めて可能な物体でありたいという意味もある。今朝は高橋工業社長が朝から世田谷村の修繕工事をしている。私のスタッフに溶接を教えてもらうように頼んだので一人二人は溶接を覚えてくれるだろう。昼過大学へ。原口夫妻住宅の件で来室。彰国社編集部の方遂に原稿書ケと言いに来室。中国の件打ち合わせ。夜七時スタジオボイススタッフと中里氏と会食。麻布十番の住宅酒場ラッキーで会食。明日はどう暮らすかなと二三時半過ぎの京王線で考えるが、とりたてて良い考えが生まれるでもない。深夜十二時前世田谷村近くの夜道で向井とすれちがった。
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十月五日 |
今日明日と稲田堤でのモンスター作り。こんな事に夢中になっているようじゃ伊東さんに笑われるな。でもこれが私なりの不正解も正解の一つであるという伊東パビリオンの超近代への解答の仕方と同様な問題意識なんだけれど。余りにも変なのかな、やっぱり。モンスターと言ってはいるがたかだか十五メーターくらいのモノじゃ駄目なんだ。百五〇メーターくらいの大きさがないと現代じゃないのかも知らないという事実に対面しているのだろう。
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十月四日 |
朝八時半地下増井君来。オープンテックハウス#5その他の打合わせ。十一時半半蔵門ダイヤモンドホテル待合せ麹町でS社鈴木社長と会食。十三時半大学へ。昨夜は西調布で波乱含みの打ち合わせがあった後二十四時過から今朝二時迄地下で打ち合わせが続いたので午後どうしようもない位に眠くなる。十五時設計製図、十七時過中国打合わせ。基本的な案はまとまった。十八時半田中君来室。十九時半千駄ヶ谷で伊東豊雄さんと久し振りに会う。ヴェネチアビエンナーレの賞のお祝いを申し上げ、その他色々と話す。伊東さんは自分の建築家としての道筋をはっきり持っていて六十五才になったら又何か御一緒しようという事になった。それまで私も体力気力を横溢させておかねばならないが、これは仲々大変なことではある。「石山さん先生やって本当に良かったの」と面と向って言われてしまったが、全くその通りなんだよね。キチンとした建築を作っていないと友人にこんな事言われてしまう。先生やっていると本当に先生になってしまうとは思ってはいたが他人から言われると矢張りキツイ。アデルカルサヴィーヌの会の事、村上春樹の最新作についてなど興味深かった。現実とイリュージョンの混濁状態について伊東さんの関心は向っているようだ。このところの伊東さんのパビリオン建築の可能性についても話し合った。イイ建築作らねばならない。私らしいやり方で。
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十月三日 |
十一時半大学。会議。教室会議。十五時半十勝後藤氏来室。スノーボート他の相談。前向きな仕事の話はやはり嬉しい。十五時研究室OB高山君来室。来春の柄谷行人ナムのシンポジウムの相談。高山は一生ケン命動いているようだが、まだチョッと危いところがある。柄谷浅田両氏を引っ張り出してまでやる会ならばもっと工夫があっても良いのじゃないか。二〇時過西調布へ。
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十月二日 |
十三時大学中国の件。内閣府に沖縄の件で書類を送る。FFCワールドツアーの書類作成。その他雑用。夜世田谷で打ち合わせ続く。住宅建築の石山研特集は海光&植林麻衣さんが頑張ってくれて、マアマアのモノに仕上がっていた。中国の件アイデアがボツボツ浮かんではいるのだが、まとまらぬ。こればかりはね、アイデアが形にならなくなったら、もう終わりなんだから。
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十月一日 |
昨夜はカンボジア王国プノンペン市の小笠原さんと新宿で会食。小笠原氏のカナダ政府への提案書を見せられた。ワールドツアー開催概要というもので、要するに地雷で体に障害を持ってしまった人々が隊をなして手押しの改造自転車で世界を巡り地雷絶滅を訴えてゆこうというものだ。何故カナダ政府かと言えば一九九七年のオタワ条約の調印に由来するのだと言う。オタワ条約とは対人地雷禁止条約である。それ故小笠原氏のワールドツアーは先ずオタワを出発点にするらしい。これは一九六〇年代来の日本のヒッピー達がかなりの数で支援しようではないかと準備を重ねているようだ。年を取った元ヒッピー達の人生の旅のしまいの旅の趣がある。 話しを聞いている内に余計なお世話心が動いてしまい、大学の研究室を事務局にしましょうかという事になってしまった。それで何だか良く解らぬママに今日から研究室はFFCワールドツアーの実行委員会の事務局になってしまった。FFCは「飛ぶ車椅子」財団の略である。プノンペン市の日本語学校が本拠地で石山研究室が東京事務局という事になるのだろうか。FFCワールドツアー開催の概要を知りたい人は私のホームページのワークフォーマイノリティーの項をクリックしてもらえば概要を提示しておくので大方を知る事も出来るだろう。 来春のカトマンドゥ、キルティプール保存修復ワークショップに関してはネパールから時々連絡も入るようになって、ジェニーやトラチャン達まだ会っても居ない人々と知り合いになり始めている。キルティプール市長ともアレンジが進み始めている始末である。かくの如き事態を楽しむべきか、ソッとしておくべきかいささか悩むところではあるが、どのみちなるようにしかならぬ事になってしまうのだろう。これ迄の私の犯してきた数々の徒労の歴史がそれを予測させる。何故、余計なお世話の道を絶てぬのだろうか。身をほろぼしかけているのに止められぬお世話とは何なのか。 しかし、これだけは言っておかねばならぬが、私のところを六〇年代の元ヒッピーのたまり場にする積りは毛頭ないのでそれだけは誤解のないように。事務局は対外交渉の諸々の手続き連絡はするけれど他はやりませんからね。念のため。 年末のプノンペンのひろしまハウス。レンガ積みツアーの後、十二月末には小笠原さんも同行してカトマンドゥに行く事になったけれど、どうなる事やら。 十三時大学。カナダ国籍中国人と会う。その後雑用。十七時前大学本部へ。沖縄の件相談。西谷学科主任と新宿で会食。台風到来の中世田谷へ戻る。スタッフ三名程残っていた。明日は台風一過の快晴になる模様。
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2002 年9月の世田谷村日記
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