石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2002年9月の世田谷村日記 |
八月三一日 土曜日 |
今、朝の五時前、ダムの本を読んだり、このメモを記している内にこんな時間になってしまった。今日は毛綱の一周忌とクライアントの岡さんに会う用件がある。徹夜してしまったらキツそうだなあ。十一時武蔵境南口毛綱宅。二〇名程の人間が集まり毛綱の一周忌。その後深大寺で昼食。六角藤塚他毛綱の友人達が集まった。毛綱の母親のお別れの言葉。「皆さん死んじゃ駄目です。死んでしまったら冷たくなって、口もきけないんだから。どうぞ、体を大事にして下さいよ。」 確かにそうなんだけれども、どうしたら体を大事に出来るかが解らないのが本音だ。カンカン照りの昼で、毛綱の玄関脇のさるすべりの樹の二双振り、ピンクと白の花を咲かせている樹がそのツインの有様が何となく毛綱みたいであった。毛綱の気持が樹に乗り移ったのだろうか。毛綱の家は普通の木造の平家で何の変哲も無いのが良かった。庭に広いテラスを張り出し、庭の野菜その他とうまく合っていた。これが毛綱の本音かな。 十五時三〇分皆と別れて武蔵境駅北口のコーヒーショップでフラッペをかじって涼む。 岡夫妻岡山の弟さん、彼は医師なのだ、と御一緒に武蔵境の物件を見に行く。この物件は三〇年程も昔、私がダムダンっていうチームを作ったばかりの頃手掛けたもので、実に小さな集合住宅である。それがそろそろ設備その他に老朽化の不都合がでてきた。建て替えるか、リニューアルするかを決める為の下調べだ。三〇年前の自分達の作品をどう生かせるかがポイントでもあろう。どうやら身近なところで近代建築の再生のケースが浮上してきている。下調べの後、国分寺の岡さんの家で打合わせ。岡さんの家は私の研究室で設計したもので、きれいに使っていただいているようで嬉しい。庭のアカシヤが大きく育っていたのをかみきり虫にやられて、残念だと言っていた。我家は空に浮いているので庭との関係は希薄だが、岡邸は庭と共にあるので、一本のアカシヤの有無は大事なのだろうな。打合わせ後、駅近くの寿司屋で夫妻弟さんと食事。弟さんは岡山県医師会会長であった事を知る。依頼主はやはり豊かな階層の方が建築家は楽だなあと考えながら飲む。二一時過世田谷村戻り。地下では十勝二期計画の模型作りが続行中である。何だか今日も疲れた。友人をしのぶ会とこれからの仕事の件が午前、午後に併存したから、過去と未来が武蔵境駅南口、北口で隣り会ったんだから、これはマア、疲れるのも仕方ない。
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八月三〇日 |
夏も終りだ。四季がある事は様々に自然の移り変リの相を見せてくれるのだが、チョッとせわしい気もするな。砂漠の連中の時間の観念と我々とは随分違う世界なんだろうと思う。今日は、どこかで時間を割いてダム関係の本を二冊読んでしまわなければならない。午後は大学に行って明治通りのビルをどうにかしたいという人に会う。少しばかりコンヴァージョンのプロジェクトが動く気配があり、心強い。情報の出入りが多くないと仕事は動かない。今夏二度目新宿から大学までバスに乗ってしまった。歩かなくなったらおしまいよ、というのは解っているんだが、ついついフラフラと足がバス停に向ってしまった。私が悪いのではない。足が悪いのである。昼食後丹羽と自転車の件。これは明治通りのプロジェクトと結びつく筈だ。 十五時三〇分明治通りのプロジェクトに関心を持つ商社の方二名来室。十七時過世田谷に戻る。只今二十二時。世田谷地下は悪戦の連続である。仲々出口が見えない。少しでも光を一刻も早く視たいものだ。兵がキチンと動いてくれぬと闘いにもならぬ。育ちが遅過ぎる気もするなァ。 室内「目ざわりデザイン」連載二十二回目はダム堤防をやるが書くのにこれは準備がいる。今夜は下調べである。この連載も仲々大変な仕事になってきたが面白い。若い時の不勉強が今頃になってひびいてくる。 今日は十七時から海光、住宅建築編集の女性と、最終のインタビューがあった。私の仕事と住宅建築という雑誌の相性はともかく、あとは海光とあの頑張る女性に任せるしかない。ゲラで一部見た藤塚光政の写真が非常に良かった。人間を外さずに、入れて。しかもズルズルの生活臭の嫌味も無く。人間と建築が5分5分の関係になっている時を撮っている。自然と建築との関係も然り。空の状態つまり雲の姿と建築とがよい状態で合体している時を撮っている。決して建築だけが主役ではない。人間と自然が居て、そしてあって、その狭間に建築があるという状態が写真になっているのだ。写真とは要するにその瞬間、瞬間の気配の記録である。百分の一とか五百分の一秒の時間の中で写真家はその時を、大ゲサに言えば歴史化しているわけだ。大仰に言わずにおけば、その一瞬の偶然を凍結する作業をしている。だから写真家はその時々の偶然を最大限に写真にとり入れる才を持たねば駄目なのだ。 考えても見たまえ。パルテノンの姿形を撮った写真に空が写っていないものは無いだろう。ギリシャの空は日本の空とは違う。光、湿り気、要するに空は抜けるばかりに青いだけで雲があんまり出現しないというギリシャ的特性がある。パルテノンの背景に入道雲や、筋雲が写ってる写真を見た事があるかね。あるのかも知らんが、記憶としては無いでしょう。ギリシャと言うよりもアクロポリスの丘はいつも私達にとっては抜けるような深い青空なのだ。誰かが言っていたように、戦後の焼跡、私達の記憶にスレスレに残っていそうな廃虚に特有な深い、底知れぬ深さを持った青空であった筈だ。東京の空は違う。東京には戦後の焼跡の記憶はもう残っていない。ビーカンの青空はあんまり似合わない。 アジア、モンスーン地帯の端だものね。やっぱり雲がなくては地理的特性が表現できるわけもない。偶然の恵みもあったわけだが、藤塚の写真に大きく雲が、しかも丸みを帯びた雲の群体が撮り入れられているのは良かった。藤塚が時の女神を味方にして、この場所の特性をよく表現し得たと言う事なのだろう。世田谷村も杉並の渡辺さんの家も、自然の恵みが無ければ成立しない建築である。その事にこれらの建築の実ワ、ほどほどの価値がある。それを藤塚は良く表現し得ている。人間と雲や草木は動くけれど建築は動かない。光と影は動くけれども建築は動かない。動くもの達があって、初めて建築は建築たり得るのではないだろうか。あるいは建築が環境という概念に包含されてゆく現実は、その事の本質にあるのではないか。建築は、人間と自然あってのモノだという考えに、さらに言えば歴史あってのモノなのだという考えに少し軸足を移してゆく必要があるだろう。 チョッと大仰な話しになってしまったが、とに角、藤塚の写真は良かった。いつか建築写真論をキチンとやらなきゃいかんなコレワ。
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八月二九日 |
六時前起床。今二階の大テーブルに一人居る。ヒンヤリとした空気が室内を通り抜けて気持良い。いつの間にかこの少しばかり大きな吹抜けの空間が体に馴じんできているのを感じている。月下美人ももう身の丈を超えるほど背丈をのばした。パキラの樹は来年には三階の天井まで届く程に成長するかも知れないし、カロラインジャスミンはすでに天井から垂れ下るまでに生い茂っている。家内が起きてきて大テーブルを挟んで座り、一人でしゃべりまくっているが、そのおしゃべりは結構面白い。ある種の人生論になっている。どうやら朝四時半のラジオ放送を聞いているらしく、その番組「生き方死に方」の感想をしゃべっているらしい。しかし、家内の人の話の復元能力は凄いものがあるな。五年ほども昔の子供電話相談室の無着成恭と子供のやり取り。「僕、死ぬのが恐いんですけど」「大丈夫だよ。君生れてくる前恐かった。」「生まれて来る前、解んないから恐くなかった。」「だから大丈夫なんだァ。死ぬって事は生まれて来る前に戻るんだから。」「そうなのかぁ。解りました。アリガトウ。」 マ、こういう話はともすればイヤ味な話しになりがちなのだが、家内が復元するとイヤ味が消えて仲々見事なモノになる。才能だろう。月下美人がつぼみを持っていて、咲いたら誰かを呼んで食事しようかという話しになった。一夜、それも三、四時間しか咲かぬ花のようだから。空の青さが、いかにも晩夏のようで良い。しかし、アッという間に雲も流れるな。私の母は八十三才そろそろ気力体力が弱ってきているようで心配だ。九時前地下に降りる。静かである。十一時迄エスキス。ゼロハウスプロジェクトの骨子ようやくまとまった。九月末にウェブサイトに発表できるだろう。十三時研究室。日経新聞カルティエ社インタビュー。聞き手が上手だったので面白くおしゃべりした。カルティエって戦車のキャタピラのデザインからきてるらしいな。成程ネ。腕時計のバンド部分はまさにキャタピラだね。ポルシェがやっぱりタイガー戦車のデザインに手を染めた歴史を持つのと良く似ているな。十四時三〇分野村中国コンペ打合せ。幻庵主榎本基純氏次男榎本雄太君よりメールが入っていて、「名古屋ケッタフェスティバル」なるイベントに使いたいので面白い駐輪スタンドをデザインせよとの事である。良く解らないがまあ榎本Jrの頼みなんだから、セねばならんだろう。いずれ自転車のデザインもやる事になるなコレワ。そうだよ、つい先日幻庵でイイ気になって自転車の事などしゃべってしまったツケが廻ってきたのである。しかし、自転車の世界も広大なんだろうな。
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八月二八日 |
今日は一日世田谷で各種エスキスの予定。開放系技術論の中心的性格は今ある方法とは別の径で、個別な生産システムの外にモデルとしての個別な生産方法を構えてみせる事かな。その構えは流通を、つまり情報の回路を生活者の側に引きつけようと試みる事から始まる。八時四〇分地下へ降りる。十二時までエスキス。大きいモノ程エスキスは楽だ。都市のスケールの絵も然り、同じ手で小さなモノの絵を描くのはむづかしい。十六時高橋工業社長、熊谷組佐々木所長来。少々打ち合わせ、宗柳でソバ、二人共九時半の東北新幹線で帰ると言うので、ソソクサと別れる。経済の低迷は人間の気力までも薄くしてしまいかねぬ。それに対抗する論理を作ろうと言うのが実は開放系技術論なのだがなあ。
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八月二七日 |
早朝四時三〇分起床。東の空がゆっくりと明るくなってくる。こんなに早く起きてどうするんだと考えている。五時過まで本を読んだが眠くなったので又眠る。こんなんでいいのかなあ。マア仕方ネェや。 テーブルクロスが鮮やかなよもぎ色に変ったので気分がよい。これ位の事で気持ちは動くものなのかと自分でもおかしい。生活用品をやる根拠はこれだと思う。大学へ十四時モノミーティング。丹羽の「車椅子に装着するカメラ三脚」は収穫であった。他は全く見るべきものなし。十五時野田夫妻鈴木夫妻来室。契約。むづかしい仕事をどんどん引受けているが担当者に余程の自覚をさせる必要がある。
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八月二六日 |
昨日は完全に休養した。朝九時地下ミーティング。守りを固めて前へ。開放系技術型住宅の現場が十月には五ケ所発生する。聖徳寺現場、十勝現場を手固く進めてゆく。世田谷村市場の展開を何とかしたい。そろそろモノに関しても連戦連敗状態を勝ち味のある戦場にしていかなくては。大きな遊具の頃目を付け加えよう。子供、女性に対応できるように。十一時彰国社田尻さん来世田谷村。少し年をとられたようだが、まだかくしゃくとされている。七一才だそうだ。昼のそうめんを御一緒して別れる。十四時大学野村と中国の件打合わせ。モノミーティング。丹羽の車椅子に装着できるカメラの三脚ができるとよいな。十九時過世田谷へ。世田谷村市場オペレーション。早めに寝る。
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八月二四日 |
朝十時学科会議室。稲門建築会の件で相談。昼食をとって世田谷に戻る。帰り道に贈ってもらった竹山聖の「独身者の住まい」読む。私のドラキュラの家その他のイージーリッスニング版だな。千歳烏山到着と共に読み終わる。十六時九州より權藤夫妻来村。佐賀の子供のワークショップその他の報告等。
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八月二三日 |
朝、いろいろとどこおっていた件に電話で対応する。何はともあれ足固めをしっかりしなくては。地上も地下も苦闘が続きそうだ。開放系技術市場の展開がおもわしくない。馬力に期待できぬ時は方法的な戦術が必須なのだが、・・・方法的に整理しないままに百件まではのばしてゆこうという逆説的な方法を立てたばかりなのでそれはどうかな。十八時王国社山岸氏来。室内設計ノート(二〇〇〇年迄)をベースにした本の打合わせ。設計ノート連載中山本夏彦に「面白い!」といってもらった奴が全部外されていて、仲々建築本の出版は難しいなと思わされた。普通の人が面白いと思うモノと建築界、あるいは建築業界が良しとするモノとはやっぱり大きくズレ込んでいるのだな。一所懸命建築業界からの離脱を試みようとしている私にとっては無念なものがあるのだが、これも仕方ない。山岸さんの感覚も又建築業界に対しては鋭いモノがあるのだから、彼に任せるしか無いだろう。 二〇時四〇分岐阜の山田君来地下。高山建築学校の教え子である。教え子といっても五五才の建築家だ。世田谷村は駆け込み寺の様相も呈してきているな。アジールなんて格好よい事は言わぬが、駆け込み地下室になってはいる。残念だ。駆け上がり寺と呼ばれたいのに。ままならぬ事が多過ぎる。山田君の話を聞いてアトは海光にあづける形とした。高山建築学校の建築家秋沢健司君の死を昨日知って、それもショックだったのだろう。何だか今日は疲れた。十一時休む。建築家は疲れたと言ってはいけない、と李祖原に言われたばかりだが、やっぱり建築家は疲れる時には疲れるのだ。
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八月二二日 |
朝七時半起床。九時三〇分李祖原にピックアップされ故宮博物院を見学して、淡水へ。その途中で国立台北芸術大学を見る。勿論これも李祖原の作品。淡水で、ハイライズ・アパートメントハウス見学。その一棟に李の住居がある。あんまり使っていない家らしい。ほとんど最近は台湾にいないようだから。鈴木博之そこで李祖原の六〇年代の墨書(ペイント)をゆずり受ける。これで鈴木さんも李とは長い附合いになってしまうだろう。十四時前桃園国際空港着。空港レストランで昼食。丸々四日間李祖原は鈴木石山に附合った。中国人の仁義は厳しいものがあるな。二〇時過成田空降着。秋のような冷気で助かる。 今回の様な旅も明日からの日常的な仕事も何変るところは無い。台湾でもこの世田谷村日記を読んでいる人が少なくない数でいる事を自分なりに銘記しておかなければならない。私の日々の雑事にそれ程の意味があるとは考えられぬが、それを記録する事で、その意味を別のモノへと変換してゆく可能性はあるだろう。平凡に見える日常が旅になり、旅も又日々の常になる事ができるだろう。伊豆の漁師ハンマは今頃北の海上だろう。ロシアの監視官が今夏から船に乗り込んでくるらしいから気苦労が絶えないだろうな。二三時世田谷帰着。
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八月二一日 |
朝六時過起床。目覚めれば巨大な寺院の一室で、何処にいるのか気付くのにしばらく時間がかかる。東の空が明るく、埔里の盆地の風景が黒白ににじむようで美しい。シャワーを浴びて荷作りをして七時前に下に降りる。エントランス前広場でスケッチ。七時朝食。今日も禅式の食事である。食事後上のテラスに上りもう一つスケッチ。台中空港へ向けて車で走る。プロペラ機で台北へ。CYLEEの作品を再び見て廻り、広東料理の昼食。食後再びいくつも建築を見て廻り五時過CYLEEのオフィスへ。最近のプロジェクトを見る。上海のプロジェクトに新しい傾向が見てとれる。相変わらず凄まじい仕事量である。ホテルにチェックイン。少し休んで十九時よりホテルの三Fで台北の先生建築家達とパーティ。李租原の孤立振りが良く解るパーティであった。台湾の建築界は勉強留学に於ける外国、世界はあっても、まだ仕事上の「世界」は現れていないのかも知れぬ。中原大学の先生が二人出席してくれていて旧交を暖めた。私はどうやら何処の国へ行っても建築界との附合いは上手くいかない性質のようだ。パーティは苦手である。明日は東京へ戻る。短い旅であったが色々と考える事が出来て良かった。明朝は少しゆっくりできるので楽だ。
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八月二〇日 |
五時半起床。部屋の窓から台北市が見渡せる。下のモダーンな公園はどうやら昔気に入っていた林森北路の焼場の跡の大バラック村をクリアランスして作ったものらしい。この周辺は確か色々なゴールドを販売する店が行列してあったところだ。台北の人々の記憶にあの焼場はまだ残っているのだろうか。開発されつつある場所の中心にほんの少し昔の面影を残した森が見降ろせたので一気に記憶がよみ返った。昨夜の鈴木博之のレクチャーを思い起こすに場所の意味とは突きつめるところ場所の歴史という事である。人間の営みの記憶が歴史を形づくるものだとすれば、全ての意味の源は歴史でしかあり得ない。その歴史に対する解釈の相違が個別生を又、産み出すのである。モダニズムは歴史からの離脱をその出発時にエネルギーとしていた。その欠陥が今日明からさまになっているのである。六時三〇分前朝食。CYと秘書の陳小姐が下で待っていてくれた。鈴木さんも六時半ジャストにレストランに現われた。昨夜の鈴木さんのレクチャ−の骨子をシンガポールで出版される李租原作品集に採録させてもらう事にした。鈴木さんも了解。私も少し気合いを入れて李租原論を書かなくてはならない。相変わらず他人の事ばっかり余計なお世話を焼いているのは重々承知なのだが、CYは気に入った男なので仕方ないのである。七時前ホテル発。台北松山飛行場へ。九時の飛行機で高雄へ。アッという間のフライトである。高雄港へ向う。大きなボートが待っていて港内よりCYのハイライズを見る。以前ボートからは二川幸夫と一緒に眺めた体験があって、再びそれをなぞった感じ。一〇一階建のCYのハイライズは独特なシルエットを持っているが、今日は蜃気楼の如くに見えた。真夏の暑さがそう眺めさせたのかな。内外に巨大なボイドスペースを持つのがこのハイライズの特徴だが、少し強引に過ぎるような気もする。無理して作った巨大なボイドがそれ程に生きていない。吹抜けの域を越えていない。しかしながら原広司の大阪の超高層よりは随分ましなハイライズなのは確かだろう。高雄港内を巡っていて巨大なコンテナ船や造船所、自走クレーンなどの風景を見ていると、今が本当に情報の時代なのかなといぶかしむ。鈴木さんもこの風景の中にいて「重厚長大もいいよな」とつぶやいていた。同感である。私達の観念は先走りし過ぎて空転しているのかも知れない。高雄港の港湾局長にお茶をいただき、ハイライズ八十五の内部見学。最上階のレストランでお茶を飲んでいる時に、はるか地上を眺め下ろしていた鈴木博之が、豆粒のような古い洋館を見つけ、アレは何かとCYの秘書・陳小姐に尋ねたら、私のおじいさんの家ですという返事。冗談だろうと聞き流して、ハイライズの見学後念の為に行ってみたら、それは本当の事であった。その洋館は今、博物館状になっていて、一階入口ホールには大きな銅像が置かれていた。マサカと思って誰なのと聞けば、陳さんは事もなげに私の祖父ですという。なんとCYLEEの秘書の陳さんは台湾に十一あったという財閥陳一家の子孫だった。驚いた。そんな理由で博物館でどっさり資料を持たされてしまった。この建築に関しては国際シンポジウムも開催されていて、藤森照信も来ていた。しかし、こういう事があるから旅は面白いのだ。昼食は魚料理。スープとカニがうまかった。食後、CYのもう一本のハイライズを見て台中へ向う。五十階建ての方のハイライズは一本の巨大な柱状の建築でシンボリックではあるが、今のCYのハイライズのスケールと比較すれば小さいような気がしてしまう。今のCYのハイライズはただの超高層を超えてしまう何かを持っている様な気がしている。台中埔里まで高速道路を走り続ける。十八時三〇分頃埔里の中台禅寺に到着。このCY設計の巨大寺院も二度目の訪問だが、前回の印象とは大分ちがっていた。この巨大な禅寺に関しては今月のクリティークとして特に別記する。前回にも会った僧侶と食事をして、(すごい速力で喰べるのだ)寺院内を見学。夜特別に光のスペクタクルショーまでやってくれて、正面玄関の巨大スクリーンに歓迎鈴木博之教授石山修武教授なんてプロジェクションされたりして、マア良くやるなーと思わされた。CYLは何事も徹底してやる男なのだよ全く。夜景を是非見てくれと埔里まで夜行って、そこの寺院(これもCYL設計)の二一階から遠く眺めたりした。何しろ幅二百三〇M、高さ百三〇Mの代物である。クタクタになって寺に帰り十二時倒れるように寝た。木の固いベッドで背中腰がゴリゴリ音を立てるのだが、禅寺だから仕方ない。しかし日本における禅解釈と台湾、ひいては中国における禅は随分ちがう世界であるような気がする。時代に於ける宗教と建築の関係をこれ程明からさまに見せてくれる事例は少ない。キリスト教とモダニズム、あるいはインターナショナルスタイルの関係はあるのか、無いのか知りたい。
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八月十九日 |
朝五時起床。まだ荷作りしていなかったので用意する。旅をするたびに段々荷物は小さくなってきた。ハードなスケジュールだからとても読む時間はあるまいと考えたが、習慣で本を一冊つめ込む。ドシャ降りの雨で烏山駅まで歩くのにビショぬれになる。 新宿発の七時過のナリタエクスプレスでナリタヘ。飛行機はどの方向に台風を回避するのかな。日本アジア航空カウンターで鈴木さんと会う。十時発。台風をすり抜けてゆくらしい。名古屋上空でようやく台風の雲から解放される。台北十二時過着。李租原迎えてくれる。昼食後フェルモーサ・リージェント、チェックイン。広くて良い部屋で、熊谷組から部屋に花が届けられた。施工中の台北ファイナンシャル・ハイライズ百一階建の工事現場見学。これまでのオフィスビルの超高層とは大きさが違う世界に突入している気がする。 夕食は近くのホテルで。フカヒレ、アワビ等上等なモノを食したが、夜の鈴木さんのレクチャー準備、私も挨拶の原稿作りで食事に身が入らなかった。惜しい事をした。七時より近くのビルのホールで講演会。私がCYLEEと鈴木博之について話した後、鈴木博之レクチャー。「チャイニーズ・センス・オブ・アーキテクチャー」情報化時代の情報というのは形が無い。意味だけがある。その意味を表現しようとするのが現代建築の課題である。又、世界は ユニヴァ−サルスペースと呼ばれるには余りにも同じではない。場所の固有性に満ちている。その固有性を手掛かりにして新たな場所の意味を表現することも課題である。インターナショナル、ユニヴァーサルスペースといったモダナイズされたフィーリングを知りながら、むしろそれぞれの個別生に戻ってくる時代なのだ。というのがレクチャーの骨子。日本に居る時よりもむしろ明快に話の筋が浮かんできた。通訳が間に入っているのも、むしろ表現の仕方を自由にさせていた。李祖原も隣でメモを取りながら聞いていた。六十五才でこの姿勢だ。大きくなる筈だな人間が。鈴木さんの場所論の中心を聞いたようだ。面白かった。ホテルに戻り、ビールを飲んで部屋へ。早稲田の嘉納先生からFAXが入っていて電話する。稲門建築会の件。このメモをつけて十二時過休む。明日はハードな一日になりそうだが、頭は働いてきた。やはり旅の効能はあるのかも知れない。 スーパーメガ建築の可能性について考えてみようかと思うが、建築の主題はそうではないだろう。台北時間〇時三〇分寝る。
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八月十八日 |
朝七時起床。八時過上のテラスに上っていったらすでに巨匠は新聞を読んでお茶を飲んでいた。朝食しながら十時過までおしゃべり。虚体からイコンへと磯崎さんの思考は廻り始めているようだ。今、世界で起きている事は問題解決型の機能主義的思考では対応できない。問題提起型、問題作成型の姿勢ではないと不可能だと、それのキーがイコンのようなものだと言うのが彼の最近の思考の中心のようだ。イヨイヨ大団円に向けて動いているのだろうか。それにしても磯崎さんの思考は停滞していないのが良く解る。辻邦生先生宅に人の気配があったが、気のせいかも知れない。辻先生には何度もお目にかかったわけではないが、先生は格式の高い清純な人であった。亡くなった人間は姿形がはっきりしてくると言うが、本当だな。昼食は磯崎さん手製のパスタ。シンプルなガーリック味だったが美味であった。ワインも。昨日から飲み続け喰べ続けのような気がする。昼過ぎ、北杜夫の会へ。阿川佐和子の可会で軽井沢文学サロンのようなものらしい。磯崎はタフだ。どんな集まりでも平気でこなしてゆく。俺はこういうの苦手。 九十才になられた坂倉準三婦人の美術館ル・ヴァンでお茶を飲み、夕食へ。南大門という韓国風焼肉屋で又も食事。驚いた事に何と腹にまだ入るではないか。マッカリがうまかった。しかし、流石に体が重くなってきた。夜、世田谷に帰る。台風が迷走しているようで明日の台湾行が心配である。台北から電話があって李租原も心配しているようだ。なんとかなるだろう。二三時過チョッと心配になって鈴木博之宅に電話する。俺も気が小さい。原稿の負債がたまっているので仲々電話も出来なくなっているんだから。鈴木さんとは台湾行は初めてである。良い旅になればよいのだが。
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八月十七日 |
高曇り。七時屋上菜園に上る。何日か上らなかったら菜園は気のせいか荒れかかっていた。ピーマン、ニガウリ、トウガラシを穫る。大まつよい草もさすがに勢いを失くし始めた。 朝イワシ煮込み玉ネギ輪切り、煮ボシ納豆オクラたらこ白飯。何だかあっさりしているようで、記してみると充実しているな、今日の朝食は。今日は軽井沢の磯崎邸へうかがうが、久し振りに磯崎新の話を聞くのは楽しみだ。十三時前軽井沢駅。少し早く着き過ぎたので駅前の茜屋でコーヒーとカレー。昼過ぎ磯崎宅。相も変わらず巨匠は元気だった。話の展開もスピードがあって若い。愛子さんの歩き振りも本人が言う程悪くない。良くなっていた。昼過ぎからスペインから来た特別な生牛ハムをさかなに飲み始める。磯崎さんの料理は定評のあるところだが、手際が良い。家内も手伝う。十八時夕食。音楽家細川さん来。彼も世界中飛び歩いているようで、時差ボケの話しとなる。私だけだな暑さボケは。磯崎さん七一才。愛子さん七三才。社会の変転を受け取めながら意志を貫いてきている。その姿勢が見物なのである。磯崎さんみたいな成熟の仕方は私にはできない。別の方向に行くしかない。「書」を始めた磯崎さんの習作をなんとか手に入れたい。それで茶室を作ったら面白い。それで「反古亭」なんてのはどうだ。書は上海でやるという。支那服なんか着て。きっと似合い過ぎるぜ。トリノ近くの特別なバローロを飲んだがうまかった。
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八月十六日 |
朝はゆっくりした。地下は明日から休暇に入る。休みって何なのかな。考えて見れば私なんかは連日遊んでいるようなものだし、ことさら休みと言ってもね。仕事してゆっくり遊ぶしかない。 十一時より地下ミーティング。八月後半のスケジュール。担当その他の確認。十三時終了。学校へ。何だか雲行きが怪しくなってきた。今日は夕立ちが来そうだ。十五時学校。キャンパスは人影も無く心地良い。研究室には住宅建築の編集の女性が来ていて、一人でスライドのセレクションをやっていた。何度か会っているが、良く頑張る女性のようだ。こういう女性は山を越え谷を渡っても探し出す価値がある。平凡なようで非凡なのだ。十六時野田鈴木夫婦来室。秋は現場が七ケ所になる。慎重に、確実にこなしてゆく積もり。仕事が多いにこしたことはないが、貧乏ヒマ無しは困るよね。 ヨルク・ネーニッグ世田谷村来。ギリシャのクリソストモスの兵役は3年間だそうで、彼の年令での3年のブランクは大きい。
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八月十五日 |
朝は少しばかりゆっくりした。今日はお盆だ。世田谷村には仏壇が無いので先祖供養は気持の中でやるしかない。軽井沢の磯崎さんと連絡。土日と軽井沢にうかがわせて頂く事になる。次女友美が世田谷村は煉熱地獄だと磯崎新に訴えたため、救いの手がのべられた形になった。 ゲーテはやっとローマを出立しようとしている。 ローマを去りなんとする最後の夜の 悲しき町の姿を心に辿り というオヴィディウスの哀歌とやらが最後に記されている。 どうやらゲーテはこの後フィレンツェに出掛けたようであるが、それはイタリア紀行には記されていない。ルネサンス芸術に対するゲーテの考えを知る事はできなかったが、(何故フィレンツェを避けたのかの真の理由は知らない。)全巻を通してゲーテの古典芸術に対する熱情に触れ得た事は収穫であった。 シシリア旅行に端を発して私のゲーテのイタリア紀行の旅は始められた。パレルモのグランドホテルにワーグナーの胸像が麗々しく置かれていた事から、ワイマールへゲーテへと連想が膨らんだ。遅々として歩を進める事の無い読書ではあったが良く中断しなかったと思う。しかし鈴木博之とのシシリアの旅は意外なゲーテ読書を私になさしめた。来週は再び鈴木博之との台湾の旅が待ち受けている。原稿の債務が大部残ってはいるが、図々しくとぼけて行くしかない。久し振りに読書らしい読書をした。読後感らしきものはあるが、間を置いて記したい。 十八時野辺より電話あり。久し振りに会う。元気なようで何よりだ。宗柳で食事。食べ振りも良かった。古い友人が次第に残り少なくなってきた。結局群居の集りでは彼がしぶとく残っている。
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八月十四日 |
五時目覚める。昨夜は完全休養で助かった。来夏は世田谷村には冷房をいれる必要があるな、やっぱり。冷暖房ナシは山本夏彦に任せておけば良い。妙なところで意地を張っても仕方がない。ゲーテはやはりミラノの女性を想い続けている。きっぱりとあきらめた自身を少し誇大に認めようとしているところが再び怪しい。ゲーテ程の人でもこんなに単純な虚飾を残したのは、ある意味では救いだな。再び諧謔聖人フィリッポ・ネリについて触れている。ゲーテには無い才質を持つこの聖人を余程気にしていたのがわかる。ネリに関していえば彼は一休禅師の如き男であったと知れる。 朝食後再び安良里へ。藤井晴正に車で送ってもらって蓮台寺へ。十五時世田谷村帰着。東京は暑苦しい。幾つか連絡事項が世田谷に入っていた。世田谷に仕事場を移したのがようやくにして知られ始めたな。社会の反応がまことにゆっくりしているのが知れる。世田谷地下は電話番がひどく未熟だから、キチンとさせなければならない。
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八月十三日 |
七時前目覚める。よく眠った。何処でも良く眠れるのだけがとり柄だ。ハンマのアパートの窓から伊豆の山が見えている。山の斜面の墓場も見えている。今日は九時からハンマ宅の地鎮祭。昨夜ハンマが松本に思わず洩らした一言。「もうチョッと奇抜なモノになると思っていたんだけど。」安心しなよハンマよ。ハンマの家は決して奇抜ではないけれど世界に飛べるグライダーだから。この家は何故か最初から飛行物体をイメージしていた。伊豆の漁師ハンマの家、ズッーと海で暮らしていた男だから、後半の人生は空を飛ばしてやりたいと考えたからだ。ハンマの家に泊ってみれば、天井にデッカイ、プロペラ付のグライダーの模型が吊るしてあって、高校生時代に作ったものらしい。やっぱりそうだろう。ハンマの小粋な皮肉や冗談は自分の中の消そうにも消す事が出来ぬ少年振りをカムフラージュする為の防衛本能から生まれているモノなのだ。多分、山本夏彦も筋金入りにそういうところがある筈だ。目ざわりデザインの連載で山本夏彦のそういうところを書いてみようかとフッと考えた。俺はやっぱり、どうやら人間に関心があり過ぎる。それが建築家としては最大の欠点だろう。しかし人間は面白い。一番面白い。 西伊豆に友人藤井晴正(ハンマ)の家を建てる事になった。森秀己鈴木敏文小林興一と彼等の家を何かしらの形で作ってみたい。二〇年程の附合いの俺なりの表現になるだろう。彼等には本当に助けられた。口に出して言えぬ位に助けられた。俺だって失意の底にいる時があったからね。次は森秀己の家だな。アト残り三人皆逃げ廻りそうだけれど、逃げ切れるものではないのだ。伊豆の少年シリーズでやってみよう。しかし、一人一人皆個性が際立って異なるところが面白い。それ故にそれぞれ今の時代からは浮くか沈むかしか無いところも面白い。 グライダーのパイロットみたいに時代を滑空してやり過ごすしかないのだ。時代に巻き込まれては駄目だ。しかしあんまり離れてもいけない。滑空してみせるしかないだろう。幻庵は滑空ではなかった。海底に潜った風があったな。深く音もなく時間も止まったマンマだった。ヨシ、ハンマの家は陸と空の際をスレスレに飛ばしてみよう。手投げの小さなグライダーのように。朝安良里港まで散歩。路地をクネクネと曲りくねって、まるで仏壇の中に迷い込んでゆく感じ。九時地鎮祭。松本太田列席。陽射しが流石に強い。地鎮祭後ハンマのアパートに一人閉じ込もって原稿書き。原稿はイヤだけれど、これから逃げたら俺は駄目になるのも知っている。イヤな事はしなければならんのだね全く。 十時書き始める。ハンマ宅のミッキーマウス時計が十時を打った。時が止まり私は別世界にただよい始める。十二時前六枚書く。腹が減った。 十二時半松崎町小邨へ。小林興一のソバ屋である。小林は八ヶ岳の翁高橋の弟子でうまいソバを喰わせてくれるのだが、世田谷村近くの宗柳のソバと比べるとどうか解らないように思う。宗柳はありとあらゆる一品料理が美味で、小林はソバ一本のところが弱味のような気がする。ソバ道なんてしゃらくさい。料理の一種にしか過ぎないのだから、もう少し品数を増やすべきであろう。十三時松崎町サンセットヒル着。いつもの下宿部屋で原稿書き。なんと奇跡的に六時半に原稿二本仕上げてしまう。is最終稿十二枚。室内四・五枚。仕上げた。出来はともかく良く書き上げたと我ながら思う。やれば出来るじゃないか。こんなところを鈴木に見られたら殺されるぜ。やれば出来るんだが、何故かやる気になれない事も多いのだな。森さんハンマと松崎港近くの名物オバチャンの民芸茶房で晩飯。オバさんも年を取った。魚を喰べる。二〇時半サンセットヒルへ戻る。今夜はゆっくり眠りたい。松本は普通な男だが何とかアレでやっていけそうかも知れぬ。人柄が安定している。明日は早朝に東京に発とう。
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八月十二日 |
昨夜は風呂にも入らず寝た。九時四〇分お茶の水駅待ち合わせ。気仙沼の高橋兄弟と千葉のステンレス工場へ。聖徳寺の墓製作はいよいよ大づめである。東京駅精養軒でハヤシライスを喰べて兄弟とは別れる。十五時過の新幹線で熱海へ。伊東線に乗り換えて蓮台寺へ向っている。渡り職人だね建築家は。来月、来年のこと等まったく解らない。予想も出来ない。 眠くて仕方ないから体は疲れているのだろう。 海が輝いて視えている。大島の頂きはすっぽり雲に包まれて動かない。若い時はこんな風景だけで気が晴れていたものだが、今は仲々そうはいかない。十七時半蓮台寺。ハンマが迎えに出てくれて、車で安良里へ。安良里港のハンマのアパートで少し計り打合わせ。食事はハンマ宅近くのレストラン。ハンマ鈴木敏文森秀己小林の伊豆少年団のフルメンバーがそろって食事。お互いに少々年はとったが相変わらずの昔の少年風の面影は変わらずに、安心できる友人達である。今夜から明日にかけて原稿ニ本書かねばならぬので酒は飲まずに過ごした。段々こういう淡々とした附合いに移していかねばならないのだろう。しかしながら結局原稿一枚も書かず。ピンチである。ハンマ宅泊り。
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八月十一日 日曜日 |
というわけで今、幻庵でこのメモを記録している。一昨昨日の事がもう思い出せない。早朝ドシーンと地震が来た。この二日は私の意図的方法による弟子教育でもあった。どうやら教える極意は言葉を使わぬ事だ。松本安藤には幻庵を体験させたいと考えていたので。彼等には設計家としての出発時に小さくはあるがある水準との出会いを記憶させたいと考えたのだ。感動できるきっかけとその水準は人生の質を決めてしまう。私にとっても久し振りの幻庵は良いエネルギー補給になった。幻庵主榎本さんは左手をケガしていたが相変わらず、自分のペース、自分のリズムで生きているようで、うらやましい。 処女作は作家の一生を暗示すると言われるが、私はこの処女作の基本的性格であった際限のない自由という混沌へ今でも降下し続けている気配がある。身体が衰えていっても、物質はその速度程には衰退しない。幻庵は錆びながら、どうやら時間と共に在るのだが、私も榎本さんも、双方共に痛手をおって哀切な感があるような気もするが、ハタ目にはどうかな。当事者同士、建築家と依頼者にしか解らぬ事もあるのだ。夕方東京帰着。
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八月十日 |
幻庵を去り名古屋浜島さんの家へ。猛暑の中、実測。冷たいお茶を何杯飲んでも汗が吹き出る。仕事は予想以上にはかどり十七時過修了。再び幻庵に戻る。ぜいたくな日になった。 幻庵では榎本さん二男と久し振りに再会。良い時間を過すことができた。
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八月九日 |
設計製図採点。私が教師になってから最悪の結果となる。もともと建築に向いていない人間が無理矢理建築学科に侵入しているとしか思えない。落第者続出する。夕方古谷誠章邸へ。食事に招待されお宅拝見となる。都心の広い土地に小さな林まで残した中の住宅だった。清家清自邸を思い出した。イタリア型の享楽ではないが生活をとにかく楽しみたいとする意欲が横溢している。 二〇時過世田谷地下の連中といっても二名迎えに来て、東名高速を幻庵へ。榎本基純幻庵主には又もわがままをきいていただいた。夜半遅く突然電話して今夜泊まりますはないだろう我ながら。松本安藤幻庵泊。
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八月八日 |
朝歯医者へ。風はあるが直射日光はきつい。昼大学へ。遂に新宿から大学までバスに乗ってしまった。残念である。日左連池本会長来室。野田さん鈴木夫妻来室。 研究室ゼミOB宮本君来室。学生達続々と来室。進路相談の連続。私はこういう類いの相談を学生時代も誰かにした記憶がないので、学生達に本当に役に立っているのか解らない。卒論ゼミ、ロバ達の沈黙。明らかに学生はロバになっているねコレワ。たしなめる気力も失せて指導はDr野村悦子にバトンタッチする。卒論はもう野村に任せたい。世田谷村日記を自分で読み返してみると呆然とする。ああしたい、こうしなくてはならぬの連続で何一つ実現できていない。世田谷村日記の充実から手始めに自己改革をしなくては、なんて書いてあるのを読むと、思わずコンピューターのスクリーンをブチ壊したくなるね。自己嫌悪で。夜若松氏と食事。
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八月七日 |
朝六時半起床。何日か振りに屋上に上る。たった数日手を掛けずにいたら雑草がアッという間に生い茂っていた。折角だから雑草雑草と片付けずに、固有の名前を知ろうと考えた。典型的な、いかにも雑草の名は解らず。図鑑と呼べる程の植物図鑑が家には無い。えのころぐさ(ねこじゃらし)めひしば、くらいしか解らない。全く、どうしょうもネェな。俺の植物愛好家振りは。おおまつよいぐさは夜咲いているのだな、朝咲いているように見えるのは夜の名残りで、一度咲いた草はしおれて二度と咲かないらしい。あきめひしばという奴もいるな。今日は夜中に上にあがって、おおまつよいぐさが本当に夜中に咲いているか確認してみよう。ウチのは夜はグッタリ咲かずに眠ってるような気がする。ゲーテの植物の基本的な系統への分析振りと比較すれば、なんと私は凡人なんだろうというのが歴然とする。ところで現代の植物学というのはどうなっているんだろうか。午後グランドフロアー(一階の地べた)に打合わせテーブル設置。十四時住宅建築編集スタッフ、海光氏来地下室。打合わせ少々。彼等は明日気仙沼の高橋工業を取材に行く予定との事。海光は考えるに私と鈴木さんの内弟子みたいな建築家だから彼がめげずに頑張っている事は嬉しいのだ。町場で汗にまみれて育っているのだろう。願うらくはフランスでロマネスク建築に接して感動した事などを静かに思い起こしてくれたらと願うばかりである。アンリ・フォションの著作を深く読み込んでいた海光を僕はよく覚えている。宮崎現代っ子センターの藤野忠利さんより便りいただく。相変わらずお元気のようで何よりだ。
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八月六日 |
十時大学にエー・アイ・エムの役員二名来訪。ステンレスを扱わせたら日本一の自負があるようだ。高橋工業と上手に附合ってくれれば良いのだけれど。ともあれ霊園の仕事は高橋工業を頭にする事だけは伝えた。王国社の山岸さんより室内の連載だった設計ノートを本にしましょうとの申し出にそうしましょうの返事をする。六〇回まとめて読み直してみるにマアマア面白く書けていた。が、少し量が多過ぎるのではないかな。夕方世田谷に戻る。地下の連中も少し疲れ気味のようだから休ませた方が良いかも知れない。
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八月五日 |
八時目覚める。実にさわやかな朝である。空気は珍しく乾いて皮膚にべたつかぬ。昨日もゲーテにお別れを言うことができなかった。長いなイタリア紀行は。 突然M氏から電話あり。品川に土地買おうと思っているのだけれど、設計やってくれるかと言う。午後に又電話下さいという事にした。三〇分程考えて、東京で一番のペンシルビルにするのだったら引受けても良いが、それでなければやらない事に決めた。中国の国際競技設計の第一次審査はクリアーしたようで、次の段階にすすめなくてはならない様だ。十七時前、地下は三〇°Cは越えずに28°Cが最高気温である。暑さは峠を越えたようだ。
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八月四日 日曜日 |
今日でなんとかゲーテのイタリアの旅とお別れしたい。ゲーテはローマ周辺で相変わらず動かない。ワイマールへ一向に帰ろうとはしない。風景素描に明け暮れしているようだし、エグモント等の著作に没頭しているようでもある。しかし一年程のイタリア滞在を経て己れの天職、芸術家としての表現方法を絞るべきだと言う自覚へと次第に達しているのが知れる。偉いね、四〇才前にそんな境地に達しているんだから。 十八時新宿駅南口でカンボジアの小笠原さんと会う。何と小笠原さんは十二名程の親友に声を掛けて下さったようで、元筋金入り、針金入り風の少し老いてくたびれた風のヒッピー達が続々と南口に集まるのだった。西新宿の渋井さんのビルへ。小笠原さんから皆さんを紹介して頂き、私からはネパールでの計画への協力のお願い。こういうゲリラ的な方法でうまくゆくかなと、ようやくにして私も大人の分別が働くようになったが、性分だ仕方ない。正門からゆくルートもちゃんと探らなくてはいけないのは百も承知だが、ゲリラにはゲリラの知恵があるからな。打合わせが、すんでからの飲み会は遠慮して世田谷に帰る。 ゲーテは遂にミラノの女性と恋に落ちた。こんなエネルギッシュなおじさんが全く女性に関心なく過したわけがないので納得。しかしその女性が花嫁間近の女性だと知り泣く泣く断念した。その断念の仕方が普通のオジさん風で可愛いいもんだ。やはりその辺りの表現には嘘があるような気がする。ゲーテの長い紀行文中、ワイマールに残してきた人々へのひどく抽象的なメッセージが多く記されているが、ここにも多くの嘘が隠されている筈だ。多感多情な人物らしいから書けぬ事も多かったのだろう。又、終章に近くようやくゲーテは画家への夢を捨てた。画家になるには年を取り過ぎていると正直に述べるようになった。絵も相当に修練したのだが、自分でも上手にならぬのを自覚していたのだろう。視覚芸術の国イタリアでようやくにしてゲーテは文学という己の天職に戻り、それに努力を絞り込む事を決心したのである。ファウストその他の自身の著作にも言及し始めて、ようやくゲーテ自身の言う北方の常闇の国の民族らしさを発揮し始めている。イタリア紀行はまとめに入って再び我然面白くなってきた。流石巨匠である。紀行文においてすら起承転結の構造を作っている。
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八月三日 |
午前十時より学部補講。十五時前まで。十五時より卒論ゼミ。今年のゼミ生というよりも石山研はやっぱりロバが多い。これでは走れないだろう。十七時世田谷へ戻る。目の前の仕事に可能性を発見してゆくしかない。例えそれらが不充分に見える仕事であるとしてもだ。伊藤ていじ氏の「建築家・休兵衛」読む。飛騨高山の吉島家の当主吉島忠男論である。伊藤ていじ氏が旧家そのものに価値を見ようとしているのは理の当然で良くわかるが、そこに育った建築家を介して結局何を言いたいのかが良く解らない本であった。狷介な情の錯綜が理知を曇らせているような気がする。
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八月二日 つづき |
世田谷に戻り、世田谷村第III期建築計画のスケッチ。大体まとまった。それにつけても金の欲しさよで、今まとまった金が手許に無いので大掛かりな事はできない。それでも何にもできないというわけではないから、少しづづ手をかけてゆくしかない。たかが金くらいの事で不自由になるのはイヤだ。 午後三時過より激しい雷。稲妻も見事な位に光って、やっと夏になったと思う。
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八月二日 |
朝八時地下へ。今日の暑さは昨日程ではないと天気予報は言うが最近の天気予報は地球規模での雲の有様、気圧配置等が解っている筈なのに大まか過ぎる様な気がする。地下南の壁を外す。少しでも風通しを良くしないと。ソーラーバッテリーの充足よりも南側地下へのアプローチの工事を先にやるべきだろうな。スロープにするか、カチッとした階段にするか、そろそろ決断しなくてはいけない。 十時前外出。電車内風景は完全に夏休みモードだ。
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八月一日 |
朝から風も無く蒸し暑い。余剰生産の現実に早く触れるにはどうしたらよいか。考えてみればありあまったオフィスビルの床を使いまわすというプロジェクトも一つの各論だな。 若い頃に興味を持った数々のバラック建築の中心はゴミだった。伴野一六邸は地球規模でのモノの循環を自然に表現していたのだ。余りにも多くの人間が生産する事、それを流通させる事に従事し過ぎている。その事実に対面し、少しばかり理解の度合いを深めようとする。それを表現するにはどの様な方法があるだろうか。オープンテックハウス#5の実験を社会化する必要がある。その手順を考えてみる。 午後読売新聞、屋上菜園取材。 オープンテックハウス#5お母さんの家論、書き始める。 いかに地下と言えども冷房が無いので、暑さはこたえる。今日は今年最高の暑さであったらしい。三七°Cを記録したと新聞は言う。この夏の暑さの不快さは少し変だ。
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2002 年7月の世田谷村日記
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