石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2002年12月の世田谷村日記
 十一月三〇日
 十時地下へ。松本とチョッと大事な話し。十二時前西調布で聖徳寺の打ち合わせ。午後一時、星の子愛児園コンサート。ホールは満員の人で、本当に上手に使って下さって嬉しい。いらした皆さんに設計者として紹介される。
 十五時大学。公開講評会。少し年輩の方も見えていた。本当の公開になってくれると良いね。十九時計画系の先生の会。入江古谷鈴木了二と会食。

 十一月二九日
 朝七時四〇分新宿西口スバルビル前TV番組製作のルーカスの連中と待ち合わせ諏訪の藤森宅へ向かう。中央高速は天気も良く八ヶ岳山麓では南アルプス、北アルプスが遠望できた。二週間後はネパールだが、ヒマラヤと比べると日本のアルプスはただの地ブクレだな。宮川の守屋神長館には十時過に到着。山に入って何やら木を探していたらしい藤森照信と会う。すぐ製材所を紹介してもらい、木材の打ち合わせに入る。要するに藤森が住んでいる村七〇軒が共同で山を持っていて、その山で獲れる木を製材している処のようだ。藤森の説明はおおまか過ぎて解らんところもあるが、大筋は流石に明快で解り過ぎる位に、良く解る。赤瀬川原平宅建設の模様を赤瀬川氏が、「我輩は施主である」に詳しく書いているが、その伝中、藤森教授故郷で木を得るが誠に面白いのだが、私もその情景に入ってきてしまったようだ。ここは藤森王国だな。なぜか藤森が私の設計の家の材種その他を決めてしまい、ウムウムここは栗だな、赤松も良いぞなんて言い出す始末で、マこうなったら藤森領主に任せるしかないのである。なにしろ、ここは藤森王国なんだから。山に入り、この木が良かろうと目星をつけたが、自然の中の木の太さと家に使う木の太さと、まだ頭の中ではピッタリとこない。施主を連れて来い、この木ですよ、アナタの家を作るのワと説明してヤレ、施主の覚悟は一段と高まるぞ、赤瀬川さんなんかそうだったぞ、と藤森教授は増々絶好調で、私を感化し始めてしまう。
 でも仕方ない事で何しろここは諏訪大社の御柱の里、藤森王国なんだから。
 蓼科山の麓のもう一つの栗の木を扱っている製材所も訪ね、栗の木は頼んでしまう。王国に戻りソバを食べて再び製材所で打ち合わせ、十二月中旬までに見積りを出してもらうことになった。模型と図面を置いてくる。切り出した木は藤森さんとこの畑に置かせてもらう事になった。もう一度山に入り、大体こんなもんだろうの木に印をつけ、東京に戻った。面白い一日だった。藤森領主のお陰でした。

 十一月二八日  つづき
 十九時まで学科会議。二〇時前世田谷に戻る。中日新聞にオープンテックハウスの記事が出ていて仲々良くまとまっている。

 十一月二八日
 十二時三〇分青山葬儀場。山本夏彦さんの「お別れの会」
徳岡孝夫、秋山ちえ子、山崎洋子、安部譲二と共にお別れの辞を申し上げた。男性は私も含めて三名原稿を読み上げ、女性二人は原稿ナシのおしゃべりだった。
 以下、私のお別れの言葉を記しておく。

 今朝、家を出ると、遠くのさざん花の生垣の陰を曲がろうとしている山本さんの丸い背中をハッキリと見ました。世間では亡くなった、と噂さしているが、どうやらアテにならネエと思い当たりました。
 地下鉄に乗ったら、遠い斜め向こうの席に、又も、もうろうとした、あなたの姿を見ました。あれだけもうろうとしているのだから確実に山本さんでした。
 ここの近くの道でも遠くに先を歩く山本さんが居ました。
オヤ、山本さんもお別れ会に行くのか、自分で自分にお別れに行くとは、誠に山本さんらしいと合点いたしました。
 帰りの径でも会うにちがいありません。何年か先には、もっとひんぱんに会う事になりそうです。
 しかももうろうとしていた姿、話し振りも段々、はっきりしてくるだろうと思われます。
 そんな山本さんとの散歩の途中、恥ずかしいような花向けの言葉をいただいた記憶があります。
「狷介という言葉がある。ひと筋縄ではいかない癖ある人のことで、石山はこの狷介に近い人ではあるが、それはうちなるものをそのままそとにあらわすに含羞を帯びなければならないたちだからだと、同じくいられないたちの私は同情にたえないのである。
 私はこのひと筋縄でいかない石山が同じくひと筋縄でいかない職人と対峙して、よく短時間に和するに感心して、いや待て建築家は職掌がら接客業者である。建主は一世一代の家を建てるのである。用意の金は十分ではないのである。それなのに望みは十分以上だから、それをなだめつ、すかしつして、しかも我をはるのだから骨である。それを繰り返しているから和することができるのかと合点した。
 ただの狷介にすぎぬ私とは違うと、常に机の前を去らないで自ら「オブジェ」と称している私はそれと察したのである。」
 これ程、建築家という者の正体を言い当てた言葉を知りません。しかも図星を突かれた私は、以降、狷介であるらしき自分から少し自由になれたような気がしています。
 これからも「室内」という雑誌を介してますます御指導下さい。
 ありがとうございます。

 式場では本当に久しぶりに室内編集部の面々にお目にかかる事もできた。懐かしい顔にも会えて良かったと思う。
 十六時二〇分TBSラジオインタビュー。十七時西谷主任と 打ち合わせ。

 十一月二七日
 七時過本当に久し振りに屋上菜園に上る。生ゴミを埋め富士山を眺め、ゆっくりはしなかったが平穏な時を過ごした。植物や野菜よりもやっぱり人間の方に興味はゆくよな。八時二〇分過、地下に降りる。十勝の後藤さんと連絡。スノーボートは工事の最終のつめに来ている。ネパールから帰ったらすぐに北海道に行くようだな。十勝には雪が降ったらしい。柴原とスノーボートに使う布地その他の打合わせ。浜島邸、聖徳寺打合わせ。十三時前ひと休み。
 十八時半大学にて「ひろしまハウス」レンガ積みツアー参加者のための小レクチャー。

 十一月二六日
 昨夜はほとんど眠れず。八時四〇分地下へ。十四時半陸海博士論文相談。うまくいってない。努力が足りない。厳しく叱った。中国人にはハッキリものを言わなければならない。十五時北條氏夫妻来室。山梨県大月市岩殿山に住宅を建てたいのだと言う。しかもコンテナ十二台を集めて。何で私のところにはこういう人が狙ったようにやってくるのだろう。温室とコンテナの組み合わせでやりましょうと方針を決め、十二月末にもう一度お目にかかる事になった。十六時半大学退。十七時半頃東大病院に佐藤健を見舞う。眠っていたがすぐに起きて元気に話し始める。気力が戻っているのに驚く。十二月三日より毎日新聞の「佐藤健の現在」のルポタージュが始まるそうだ。その原稿を読ませてもらった。ジャズを聴きたいと言うのでベーシーの菅原にジャズのCDを三〇枚程セレクトしてもらい送ってもらう事にした。菅原のベーシーでの写真が健の枕許に飾ってあったのが印象的だった。二〇時半世田谷に戻る。二三時半まで地下に居て後上に上る。

 十一月二五日
 昨日は流石に疲れて一日休んだ。一昨日朝山さんがTV出演に同意して下さったので、家作り番組の製作も動きそうだ。
 九時前地下へ。今日は地下のミーティングをしっかりしよう。ガレージハウスを動かす方法と山梨のコンテナ十二個で家を作りたい人への対応。中国のコンペが一応一段落したのでその後の対応について。コンバージョン。キルティプール計画の概略説明その他。十三時半河野鉄骨研究室来。将来は高橋工業と組んで日本中の工事をやってもらう積り。コンバージョンの件。
 前橋で#10市根井邸の現場を見て、やっぱりこの職人は大事にしたいと考えている。現場が誠実なんだナア。日々の新しい仕事で頭がともすれば古い附合いの職人達の事を忘れがちになる。一番身近な人達の事を忘れてはいけない。メモするのは簡単だが、実行するのは困難です。MEMOの鈴木博之の連載を読む。最後の一行にチョッと山本夏彦が乗り移っているネ、コレワ。十六時半、建築知識インタビュー。山本夏彦さんの事。話す。聞手が率直な女性で思わず余計な事までしゃべってしまった。話している内にザマー無い少し計りつまるモノがあった。今週のお別れの会の、お別れの言葉、頼まれているのだが、大丈夫かな。今晩の学科の懇談会は二一時始まりだそうで、チョッとコレワ辛い。三〇分で失礼しなければならない。TVドキュメント製作はどうやら今週金曜日からスタートしてしまうようだ。
 二〇時四五分田町東京飯店で建築学科の集り。二二時前一人抜けて世田谷へ。一昨日の午前様が体に応えている。全く、いくつになったら程々が身につくのやら。二三時過世田谷に戻る。地下にしばらく居て、上に登る。安藤の修士設計はなんとかなりそうだ。岡田紘史しな子夫妻より喪中につきの挨拶状いただく。山本夏彦さんの親戚からの葉書で、短文だが、よく真意が伝わってきた。お別れの会は山本夏彦らしくないと私は思うが、それを固苦しく言うのも恥ずかしい事だと思うから、出席しようと思う。

 十一月二三日
 前橋へ。市根井君と会って高崎の森田兼次オヤジと会う。朝山邸、厚生館増築の打合わせの為。安藤同行。正午頃前橋着。市根井君の車で前橋へ。森田さんはお元気なようだった。二件の仕事のお願い。勿論心よくOKしていただく。曲がりくねった木を使う構造の朝山邸も森田さんと話していると何とかなりそうだの気分になるから不思議だ。この人には天性の人を力づける力があるようだ。その明るさに引っ張られたのか、市根井君も何とかやってみようの気になってくれたようだ。ホッとする。十六時過、市根井邸の現場を見る。良い基礎工事だった。作業場の木割細工を見る。ていねいな仕事をしている。よい大工になってくれている。私のワークショップの逸材だからな市根井君は。
 十八時大宮で朝山さんと会う為に今、新幹線の中。チョッと疲れた。朝山さんTV番組の件了解してくださる。夜半まで話した甲斐があった。

 十一月二二日
 昨晩はゆっくり休み、ここのところ疲れが少し計り抜けた。朝世田谷に何処かの海にいるハンマから電話があった。ネパールのジュニーからメールが入っていて、どうやら国王に会わなくてはいけないらしい。
 十八時何故か新宿伊勢丹デパートの一階に居る。ブランドモノのフロアーで人が溢れている。怪し気に明るいフロアーである。堀川、向井と新宿松竹でたそがれ清兵衛みる。

 十一月二一日
 キルティプール計画はゆっくり、ゆっくり進めてゆくつもり。昨夕の朝日新聞の三面に石山研ですすめているコンバージョンの記事が出ていて、これは後押しになってくれる。有難い。プノンペンのひろしまハウスを拠点にバリ島プリアタン村そしてカトマンドゥ盆地の事ができるようになるのが理想だね。プリアタンのチョコルダ・グデパルタは元気だろうか。インドネシアのテロ事件の影響は彼の村にも及んでいるにちがいない。
 十二月五日からのカンボジア、ネパールでの日程を固め始める。十六時カンボジアの渋井さん他来室。渋井さん製作の手こぎ三輪車8台程を日本に持ち帰る事頼まれる。小笠原成光さんがワールドツアーの資金集めで某自動社メーカーに乗り込み、「社長いる」とやって、総会屋と間違われた話など聞く。小笠原さんらしい。カナダ大使館にもその調子でやったんだろうな。地雷廃止条約はオタワで調印された。それ故地雷で足を亡くした人達のためのワールドツアーの計画にはカナダは乗ってくるのが当然であるという簡明な理屈だけでカナダ大使館に乗り込んだのだから。マア私もそれに近い事やっているのだけれど、小笠原さんのはこれ以上はない位にシンプルなんだから。助けてあげたいのはヤマヤマなんだが時間が無い。申し訳ない。

 十一月十九日
 夜眠れず、起きてこのメモをつけている。午前三時過。昨夜スタッフと話していたら、来年の竣工件数は九件くらいになるそうで、えっこのスタッフでそんなに出来るのかと仰天した。なんとか倒れずにやっているのが不思議なくらいだ。時間がなくって屋上菜園にも上っていない仕末だ。

 十一月十八日
 卒論発表、バウハウス・ツィンマーマン教授特別講演、創生入試面接を終え、今日は終日世田谷で過ごすつもり。TVのドキュメンタリー番組製作の話し等にも対応してゆく。北海道十勝スノーボートの組立ても二週間後にせまった。

 十一月十四日
 九時大学。雑務処理。今週土曜日にツィンマーマン前バウハウス大学長の特別講議開催が決まった。

 十一月十三日
 三日目の宝ヶ池で目ざめる。七時半。薄日が京都国際会議場の方から指している。丹下健三門下の大谷幸夫設計の会議場とこのプリンスホテルは村野藤吾の設計である、好対照だな。会議場は建築の理屈で固められ、プリンスホテルは商業の力がそれを包み隠している。安藤忠雄の建築はその双方がそぎ落とされて、むしろ生活の大常識、当たり前の生活の価値観が溢れている。昨日のシンポジウムで私は安藤を明治維新前の日本人の当たり前さをそれこそ歴史的なスケールで身につけていると述べたのだが、それは山本夏彦さんの日本人ニセ毛唐論の影響で、安藤は大方の日本人のニセ毛唐論振りとは違うと述べたのだ。江戸の大棟梁より、昔にさかのぼるかも知れない。秀吉時代の堺の大商人達の面影もあるようだし、あるいは彼こそ利休の再現なのかも知れぬ位だ。安藤人気の神話化はすでに大きな事件の域に達している。
 私はかくの如き神話とは程遠いところに居るな。それはハッキリと自覚しておこう。安藤忠雄は ニセ毛唐化した日本人がその集団の直観で作りあげた英雄だ。民衆(これも死語だなすでに)己らの中に失くしてしまった神話そのものを安藤の中に幻視しようとしているのだ。しかし、民衆は時に残酷だからな。鈴木博之の評、何だか行基菩薩みたいになってきているはそれを言っている。安藤さんが白い花を何万本も植えたり、中坊公平と瀬戸内の島々にオリーブの樹やどんぐりの木を植えたりの運動は、本当に大昔だったら行基、空海がやっていたような事だろう。社会事業家としての安藤忠雄の側面である。彼の未来は未知の部分がまだ大きいと感じた。
 今日は夕方東京へ戻り、伊東さんのお祝の宴に出る。他人の祝い事に連続して附合うのも大変だよ。地下のスタッフはきちんとやってくれているだろうか。九時過に電話してみよう。
 今十二時半くらいかな。西本願寺龍谷大学キャンパスに居る。上山学長面会までだいぶ時間がある。ベンチで昼寝でもしようか。十三時十五分上山大峻龍谷大学長にお目にかかる。すぐ学内を案内して下さる。重文の名建築ばかりのキャンパスだ。西本願寺境内も連れ廻していただいた。日本最古の能舞台等興味深いものが多い。飛雲閣も見せていただいた。詳細を見ていないが、やはりこの建築は面白い。軽妙で自由極る。安土桃山の軽妙さは持ってまわったところが無くって本当に良いな。美しいいちょうの樹が処々にあり見事な風景を作り出している。日本フィンランドデザイン協会の二〇〇三年秋のシンポジウム会場は西本願寺にしょうと決心した。フィンランドと連如か。
 上山学長に送っていただき、十五時過ののぞみで東京へ。四日間の小旅行は終わろうとしている。夕刻東京着。伊東さんのお祝い会へ出席する為神田神保町へ。少々早く着き過ぎたので小学館下の喫茶店で休む。実生活が夢とうつつの狭間を漂よい出したらどうなるのだうか。
 十九時前徳亭伊東豊雄ヴェネチアビエンナーレ受賞の会。隈研吾小嶋一浩もそれぞれ受賞しているので、まとめて祝う。石井和紘山本理顕妹島和世出席。二十二時過修了。世田谷へ戻る。二十三時半帰着。流石に疲れた。スタッフ誰も居らず。マア仕方ネェか。

 十一月十二日
 宝ヶ池で目をさます。今日は一日安藤忠雄の京都賞受賞に附合うことになる。祝い事だ。失礼のない様にしたい。朝「室内」山本夏彦追悼文書く。十一時前京都国際会議場。十一時パネリスト打ち合わせ。十二時安藤高階鈴木石山昼食。十三時文化庁長官河合隼雄氏を交えたシンポジウム開始。千名をこえる参加者。安藤人気は神話の域に近附いている。十七時半シンポジウム修了。プリンスホテルに戻り、鈴木さんとメシを喰いに出る。三条京阪辺りで食事。二〇時頃東京へ帰る鈴木さんを送り、百万遍に橋本を再訪する。橋本憲一と祇園の小料理屋で遊ぶ。女子大生アルバイトの芸者まがいが居て白ける。二十二時過、飲んでも面白くなく打上げる。橋本憲一は津野海太郎とようやく電話で話せて上々の機嫌となる。私もちょっと心配していたので良かった。二十三時過宝ヶ池プリンスホテルに戻る。

 十一月十一日
 淡路島の安藤忠雄設計のホテルで目をさます。今日は佐藤健の誕生日だ。良く六十歳まで生きてくれた。しかしどうも我ながらセンチになっている最近は。どうにかしたい。十三時過京都着。ドンガラガンの吹抜のカフェテリアで休む。原さんはこの駅の設計で何を本当にやりたかったのか今でも理解できない。灰色の娯楽主義的建築だ。経済至上の価値観がグレーに塗られた鉄骨で隠されている。原さんの本来的な楽天主義が露出している建築だ。楽天主義というのは万年青年主義みたいな事で決して成熟しない。
 十四時前中央改札口で鈴木さんと会う。彼とも久し振りだった。山崎の藤井厚二の聴竹居へ。妙喜庵の左の踏切を渡ってかなりきつい坂道を登る。紅葉が美しい。聴竹居に今住まわれている高橋功さんに案内していただく。鈴木さんは聴竹居はもう何度も訪れていて、今回は玄関前に在る小さな石彫の調査のための訪問である。この石彫は伊藤忠太デザインのものと言う。ガルーダらしきヒンズーの神らしきが小振りな石に彫られている。伊藤忠太の変人振りが良くわかるモノだ。鈴木さんはスケッチに寸法等を書き込む。
 私は聴竹居は恥ずかしながら初めてで、良い季節に連れてきて頂いた。モミジが美しく、その色と古い建築の色彩の対比が良かった。小能林宏城が彼の長屋で藤井厚二論を書いていたのを思い起こした。その論の詳細を思い起すことはできぬが、川合健二まで引き合いに出して総合、全体ということを論じていた記憶がある。初見での聴竹居の印象は、すでに時が経ち一般の木造建築の寿命ということもあり、私には私生活の工夫の集積だなという極めて縮み目の印象であった。ただその空間が所謂木造民家風のモノではなく、空間が意識されかかっていると考えられる程に良かった。グラスゴー派の影響が色濃いのも驚きだった。ツルの香炉、花瓶、特製の冷蔵庫などが面白かった。しかし、何よりも聴竹居内の空間の暗さが印象的であった。日本の伝統建築、民家、寺院の暗さでもなく、今風の住宅の明るさでもない。その挟間の暗さがあるのだ。妙に近代的でしかも非近代的に暗いのである。もう一度来なければならぬなコレワ。安藤忠雄のアサヒビールの美術館は月曜休館であった。
 十六時前京都に戻る。鈴木さんを百万遍の梁山泊に案内する。店主橋本憲一に再会。少し酔って眠ったりで失礼した。二十二時頃宝ヶ池プリンスホテル投宿。昨夜の山田脩二といい鈴木博之、橋本憲一と古くからの友人を渡り歩く旅になっている。まだ振り返る年ではないぞ。

 十一月十日
 朝七時起床。四日程の小さな旅のパッキングをして九時過中央林間へ。公民館で森の学校建設の説明会。三〇名弱の住民が集まった。大方の人達の理解は得られるように思うが、数名の自然保護主義の方々から建設反対の意見が述べられた。十時四十分会場を出る。その後の議論の展開が気にはなったが新横浜十一時三六分の新幹線が指定されている。と、そんなこんなの果てに、今新幹線のぞみでウツラウツラしている。関ヶ原周辺の山々、伊吹山系かな、にはうっすらと雪がふっている。
 同車輌に三宅一生さんが居て、あいさつする。やはり同様に安藤忠雄の京都賞の会に出席するための京都行だそうだ。
 十五時舞子発の高速バスを逃し、三〇分バス停でボーッとしていた。明石大橋を渡って淡路島へ。十五時五十分淡路夢舞台ウェスティングホテル着。栗林栄一君の結婚式はすでに始まっていたが、良いタイミングですべり込んだ。私は栄一君の親族代表という事で最後にアイサツをした。栄一はすでに両親共に他界しており、天涯孤独の身であり、それで縁の無い私がたまさかの附合いで親族代表という事になった。新郎四四才新婦四一才の決して若くはないカップルで、流石二〇代三〇そこそこのガキの結婚式にはない落ち着きがあった。三十人程の本当に小さな会だったが大変良かった。新郎のスピーチもしみじみとこれまでの長かった父一人子一人の人生を振り返り、何故か心を打つものがあった。私もつられてアイサツでは珍しく口ごもり、思わず落涙寸前までつまる有様であぶなかった。まだ甘いな俺は。体が弱っているのか最近は少し情にもろ過ぎる我ながら。何故こんなにもろくなっているのか考えなくてはならない。これではフーテンの寅さんじゃないか。十八時過結婚式のパーティ修了。エントランス・ロビーに出ると山田脩二がやっぱり姿を現わした。久し振りに会う友である。イタリア式に抱き合ってやろうかとも思ったが、やはりそんな事はせず、ヨウと言った。脩ちゃんは全然年を取らない男だ。車で津井の山田修二宅へ。二三時過までいろりを囲んで飲む。友人達が死んだり、倒れたりが続いているので二人でさしで飲むのも妙にリアルな情感があって照れた。しかし、会える時に会える人間には会っておこう。どうやら最近の私は増々人間への感心が高まり、モノや自然への気持が急速にうすくなっている。二十四時タクシーでホテルに戻る。明日は十四時に京都駅一階中央改札口で鈴木博之と会う。

 十一月九日
 木蓮社の「伊豆の長八」入手。予想以上に良くまとまっいて、私には異常な位に懐しい本になってくれた。十年二十年後に読んでくれる人が居て、チョッとだけでも私達の仕事に驚いてくれればそれで良い。昨夜夕方鈴木博之さんから電話があって藤井厚二の聴竹居になにか伊東忠太のモノがあるらしく、大山崎まで連れていってもらえる事になった。楽しみである。明日からしばらく関西だ。歴史家は独人で全て処する事が出来て本当にうらやましい。建築家にはどうしてもスタッフの問題がついて廻る。一人ではやり切れぬ事が多過ぎる。雑用処理係みたいなものだ。チャールズ・レニー・マッキントッシュのように一人でやり続けて倒れてしまうのも、私には出来ない。十四時茗荷谷筑波大学で江口先生と面会。沖縄でのワークショップの相談に乗ってもらう。十六時過星の子愛児園女性スタッフがメンテナンスしているのを観て、厚生館へ。近藤理事長とお目にかかる。保母さん達とお茶を御一緒する。厚生館のプロジェクトに関して保母さん達の反応は、マアとまどっているというのが大勢であろう。一度保母さん達にガウディの建築に関してのレクチャーをする必要があるな。私の研究室の女性スタッフがガリボーン(巨大遊具)のメンテナンスを作業服着てやっているのは絵になっていた。この絵は社会性がある。なんとか社会に通じさせたい。

 十一月八日
 朝八時過地下に降りる、暗い中に独人座ってボーッとしている。べーシーの菅原の気持ちがわからぬでもないな。一人の至福と、誰か来ないかなあのストラグル。ポツリポツリとスタッフが来てお茶を飲む。そう言えば最近屋上菜園に上っていないなあ。今日は何の予定もない。頭を空白にしておくチャンスだね。♯5朝山邸の建設方法のアイデアがまとまりかかる。木造の幻庵にするつもり。午後大学。夜遅く高橋工業社長世田谷村に来る。九州♯4住宅の鉄骨建方が一週間後始まる。

 十一月七日
 朝九時過十勝の後藤さん来世田谷村。十一時半までスノーボート(十勝フィールド・カフェ)の打合わせ。このプロジェクトは女性スタッフだけで対応する事に決めている。十二月はじめに組立て開始の予定。十二時東洋農機に設計の基本的な考えを打ち込んで、とりあえずは一段落のつもり。農機具みたいなレストランができると良いね。朝と昼メシを食べそびれ、十三時大学教室会議。空腹で倒れそう。他愛ないな人間の体なんて。M2ミーティング。明治通りコンバージョン少し動きそうだ。夕方世田谷村戻り。夜聖徳寺の件でクライアントと打合わせ。

 十一月六日
 朝一番は最近いつも同じ男で、ようやく建築が面白くなってきたのだろう。ヤル気が表に出るのは大変良い。表に出ないヤル気なんて一文の価値も無いからね。
 十三時半立山アルミ来室。十四時半朝日新聞取材。十六時新連載の件で小会議。十八時中国の件、劉さん夫妻と最後のミーティング。ラストだからこそ色々の論議が初めて出て、それから高田馬場で会食。研究室のDrスタッフと久し振りに会食。仲々、何もしないところが見事だった。何もしないのが昨今の流行なのだろう。

 十一月五日
 朝九時地下室定例ミーティング。まだ遅刻してくる馬鹿がいる。十時中日新聞取材。十日にも#2渡辺邸の取材だそうだ。安藤を筆頭に地下の女連中の気のきかなさは異常だな。こんなに気がきかないで設計でもあるまい。気配りも想像力の一種なんだから。山本夏彦の女性スタッフに対するしつけはどうだったのか聞いてみたいところだ。これでは地下に客は呼べない。まあ、期待する私の方が時代外の間抜けなんですと、山本さんは言うに違いないが。私の人を見る目は節穴なのかも知れない。菅原が言う通りかな。午後大学Dr指導。その他。十八時世田谷戻り。夜半の仕事で、又も度々女供の気配りの無さ鈍さに対面。イライラするが、こんな事で張り倒したりしたらやっぱり問題になるであろうと自覚し我慢する。夜中スケッチするも進まず。

 十一月四日
 良く夢を見た二日間だった。  夢の中で死んだフランク若松に会った。フランク若松とは彼が生きている間、ハッキリ覚えているが二度しか会った事がない。初回は一ノ関ベーシーでマリーンのライブの共に客としてあった。すでに若松は癌に犯され、本人はそれを知らなかったが私はベーシー店主菅原から知らされていたので、もうこの男とは何度も会えぬ事は知っていた.フランク若松は岩手県水沢市の料亭の経営者であった。ジャズが好きで、それもフランク・シナトラしか聞かぬ変わり者だった。それでいつとはなくフランク若松の仇名がついた。
 何故、二度目があったのかウロ覚えである。病気が進み、入院していたのを突然出てきて、彼の料亭でごちそうしてくれた。ウナギとステーキという組み合わせでそれがフランク・シナトラの歌には良くあっていた。食後若松はどうしても私に見せたい建築があると言い張って、山の中の正法寺という寺を案内してくれた。病院からは外出は何時間以内ですよと釘をさされていたらしい。足許はすでにおぼつかなかった。何故、若松があんな好意としか言い様の無い気持ちを私にあずけてくれたのか知る事はできない。きっと菅原が色々と脚色して彼に私を紹介したのだろう。
 若松が、どうしても見せたいと思ってくれた正法寺は予想に外れて見事なものだった。巨大な茅葺き屋根がまるで背後の山を圧するようにそびえていた。ゴォーと風が吹いて山のような屋根に生えていた草や小木をゆすった。東北にはロクな建築は無いと思い込んでいた私は本当に息を呑んだ。夢の中で若松は言った。「ベーシーでお目にかかった時、私に、お目にかかれて光栄ですと言ったでしょ。私それをお世辞でも何でもなく本当だとすぐ解ったの、それで正法寺を案内したくって」
 夢の中で再び正法寺を訪ねた。自業自得大明王の生き戒名を印した位牌を持った佐藤健も一緒だった。驚いた事に山本夏彦翁までいるではないか、やはり死にながら生きていたんだ。旅はしないと言っていたのに、ここまで来るかといぶかしんだ。勿論、菅原も一緒だった。表情の無い見知らぬ女も何故か一緒に居た。
 夢の中で再訪した正法寺は無残だった。修復工事の只中で大きなサヤ堂が架けられていて、あの山のような精気を持った姿は見られなかった。
 フランク若松の姿も消えていた。今は昔、生前若松が案内してくれた正法寺も幻だったのだ。しかも一番鮮明な状態の幻だった。一番ハッキリした幻こそ一番リアルなものだ。今、視ている現実も又、幻なのだ。と夢の中で考えた。良く考える夢だった。
 突然九十三才と名乗る老婆が登場して、正法寺の崩れかかった倉のお守りをしてると話し始めた。  夢の中でまだ行った事の無い水沢の若松の墓に行った。あの日、ゴォーッと正法寺の山のような屋根をゆるがした風が、若松の墓にも吹いていた。名も知らぬ鳥が空高く舞った。
 菅原は墓参りが良く似合う男だなと思っていたら、「俺の葬式はやらないから」とブッキラ棒に言った。さっき正法寺にも居た女がここにも現れて一緒に墓参りしていた。誰なんだろうか。印象の薄い女だ。
 今日の午後東大病院に行ったら佐藤健が夢の話しをした。自分がいて、その自分を見ているもう一人の自分がいる更にその全体の関係を見ている三人目の自分さえもいるという夢を見たと言うのだ。もう一つ、自分は死んでいる、その死んでいる自分を見ているもう一人の自分が居る。私が見たうつつの夢と佐藤健の夢と現実が入れ子になっている夢とは同じ類のものだったのではないか。  佐藤健の病室にベーシーで撮った写真を置いて帰った。美しいブルーのランプと花を撮ったものだ。この写真も現実のものとも思えない。
 十一月の終り、玉川温泉に雪が降ったら、もう一度玉川温泉に写真を撮りに行くんだと佐藤健が言った。私もその旅はできれば同行したいと考えた。玉川温泉の帰りには一ノ関のベーシーに寄ろうと約束して帰った。
 夢と現実、あるいは想像力と現実はすでに境界を失っている。病気であったり、寒かったり、他人を信用したり、できなかったりという現実は本当にそこに在り、在った事なのだろうか。私はそれを視た、触れたと幻視しているのかも知れず、幻視こそが現実なのかも知れぬ。別の言い方をするならば、世界は膨大な死者によって構築されているのであって、現実をつかさどる様相は実は幻想なのかも知れない。歴史は死者の世界を現実に視ようとする事であろうか。
 人間は死んで初めて形がはっきりすると言うが、歴史とは死者の国を現実化する作業なのか。この三日間の夢は色々と先を示唆するようだな。

 十一月一日
 十月は程々の収穫があった。四件の現場が進行中で、沖縄計画が前へ進む可能性が出てきた。ひろしまハウスは牛の歩みのように動いてる。厚生館プロジェクトはこれまでの研究室のキャリアに一線を画するモノが出せた。十勝スノーボートも軽いフットワークで乗り切りたい。相も変わらず大きな無駄の連続であるような気もするが、それも自分なのだから一部は引き受けていかざるを得ないだろう。大学の建築教室では私の働きどころの的がようやく絞れそうだ。足を地につけた国際化というところだろう。まだまだ何がおきるか解らぬだろうが、動じず、しかし柔軟に対処してゆく。争い事は決してきらいではないけれど、当然しないでも良い争い事からは逃げよう。学内政治は苦手だ。
 一週間、山本夏彦さんの死を悼みホームページを閉じたが、いつまでも悲しんでいるのは大袈裟な衒いにも写るだろう。翁もせせら笑っているやも知れぬ。今夜ページは再開しよう。北海道東洋農機より連絡入り、スノーボートの製作図は来週なかばに仕上がると言う。楽しみだ。まさか農機具メーカーに建築を作ってもらえるとは考えてもみなかったので何がしかの径が開けるやも知れぬ。

2002 年10月の世田谷村日記

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