石山修武 世田谷村日記 |
---|
石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2003 年1月の世田谷村日記 |
十二月三一日 |
早朝の空の雲が例えようもなく美しかった。寝ながら雲の往来を見て、今年もようやく暮れたなと一人ホッとする。昼間は本当にゴミになって床にゴロゴロ転がって眠っていた。 十九時過磯崎宅へ。磯崎さんとは久し振りなような気がする。彼の知性そのものを楽しみたい。明日は佐藤健の弔辞の草案をつくらねばならんな。 二〇時磯崎宅。滅法うまいシャンペンを暮明けに飲み始める。音楽家の細川さん他同席。細川さんも磯崎同様相変らず世界を駆け巡る日々のようだ。磯崎さんがゆでたそばを存分にいただき、ワインから強い酒に移る間もなく除夜の鐘。様々な事があった今年も暮れた。
|
十二月三〇日 |
十一時渋谷。西谷学科主任と待ち合わせ。十二時田園都市線あざみ野駅で白井早大総長と会い。近くで昼食。沖縄、上海の件等の相談。総長の話に出たヴェネチアの早大は建築学科で使えるだろう。来年の9月からか。午後遅く世田谷村へ、流石に少々つかれた。 月並みだが今年を振り返るに、何ともせわしく色々な事が起きた。記憶というのは不確かなもので起きた事のリンカクをほとんど明晰に思い出す事ができない。闇雲にバタバタ動き廻っても収穫できるモノは少ないのはすでに知り尽くしている筈だが、まだクセが直らないのだろう。しかし僕の場合ジタバタするのが自然なのだという風にも考えられる。佐藤健の死に方を見ているとそう思うな。もう、この年でクセは直らないだろう。
|
十二月二九日 |
健さんは最後の最後まで大騒ぎさせてくれるよ。十二月三一日七時に酔庵に健さんは帰る。元旦にかけて仮通夜。三日真栄寺で通夜。四日告別式。お別れの言葉を言う役を振られた。十時地下へ。昼過大学へ。 午後野田邸工事遅れのおわびとこれからのスケジュール打合わせ。十五時M2修士論文・修士設計のチェック。淡路の山田脩二出現、打合わせは突如宴席となる。こんな事も、今では珍しい事なんだろうなの実感を持ちながらしばし脩ちゃんと附合う。
|
十二月二八日 |
朝六時半世田谷村発。富士山聖徳寺現場へ。八時十五分上九一色村聖徳寺現場着。九時ヨリ現場説明会。十一時迄七社に説明。十二時過、中川さん別荘へ。鉄骨工事の契約。十三時過造園業者と面談。僕のどうしてもゆずれないポイントを述べる。十三時半発。十五時過世田谷村へ戻る。十六時発中央林間へ。十七時森の学校打合わせ。佐藤健はまだ生きていてくれてるのだろうか。二〇時過修了。 世田谷村へ向かう。向かうと言っても、向かう先に何が確固としてあるのかな。 二十一時過世田谷村着。同時に毎日新聞滝カメラマンよりTELあり。親友佐藤健死去の報。数秒程絶句。二十時十六分だったそうだ。二日前に別れはしたつもりであった。が、悲しい。恥をしのんで・・・・。欠落、脱落、身心脱落脱落身心程のことはないが、こんな悲しい事はない。今年は悲しい事が続くな。
|
十二月二七日 |
ガレージハウス、0プロジェクト共にそろそろオペレーションを与えなくてはどうにもならない。昼前毎日OBの大住さんから電話アリ、いよいよらしい。東大病院へむかう。十二時過東大病院。当然一四〇二室は面会謝絶だが抜道より入り込む。毎日新聞の連中が三、四人隣室にたむろしていた。佐藤健は意識が無く、人工睡眠状態だった。肺がすでに機能しておらず、その痛みで点滴その他のチューブを引きむしる状態になったと言う。それで本人と家族の同意を得て、つまり意識を失くして人工睡眠状態をつくり出し、それで短い睡眠状態を得ているらしい。意識がある時に、居合わせた人に一言述べたらしい。 「面白かった」 これが絶句だ。 コンコンと、しかし荒々しく肩を震わせながら眠り続ける健に、もう何も言う事はない。生きて会うのも最後だ。ガリガリにやせて眠りこける肩をたたいて、何も言う事なし。健さん俺も「面白かったよ」 十六時前、東大病院を去る。年末で、通夜葬儀のことは大住さんと照道和尚に任せるしかない。さびしくなるぜ。
|
十二月二六日 |
朝、モール温泉につかる。快晴である。十時後藤氏にスノーボート完成に向けてのメモ渡す。取材で然別湖を訪ねるも、氷のギャラリーはまだほとんど出来ていなかった。十三時、白樺レストランにてジンギスカン。十四時スノーボート現場に戻る。向井柴原の作業はほとんど進んでおらず。呆然とするがマ、仕方ないだろう。中里氏撮影の為室内を整理する。なんとか絵になるようにはした。昨日の状態とは全く違う。不思議なものだな人間の眼は。光の具合も良かったのだろう。今日のスノーボードは被写体としてはマア合格だった。二〇〇三年の作品♯1のスノーボートはもう少し金をかけてつめるところをつめれば面白い可能性を持つだろう。特に材料の面で。ヘレン・ケラー記念塔のすぐ近くの防風林をタテにして、雪原に浮かぶスノーボートは今次第に関心を深めている脱都市のイメージをほのかに持っている。それが農作業小屋風であるのかは我ながら適確な筋だろうと自負しているのだが、チョッと飛び過ぎている筋の行先ではある。 只今二〇時くらいかな。十勝発最終便で東京へ飛んでいる。来年は十勝でもう少し建築らしい仕事をしたいものだ。二一時半羽田着。二三時世田谷村に戻る。地下で打合わせ二四時上にあがる。明日は何から手をつけたら良いのやら自分でも整理がつかない。 北海道に行っている間に馬場照道からTELがあって、どうやら佐藤健が面会謝絶状態になった様だ。今日に全力を尽したい。誰も明日を保証されているわけではない。
|
十二月二五日 |
朝家内に送ってもらい羽田へ。十時四〇分発の飛行機で帯広へ。中里和人との取材と、スノーボートの現場監理。十二時過帯広空港着。現場へ。仮設にしては大きくて頑丈に作ったな。何とかなるだろう。十九時三〇分カニ大将で食事。銀河のソバ屋へ。ネパールの話しをオヤジにする。北海道ホテル泊。
|
十二月二四日 |
明日から北海道。今日は今年のシメのミーティング。昨日電話で真栄寺の馬場照道和尚から、健さんも心配だけど石山さんも最近疲れが表に出てる。本当に気をつけてと言われたのが気になっている。しかし気にしたって仕方ナイことでもある。面白いことが無いと疲れるのだ。 十二時過学科会議室。十五時内閣府で沖縄の件。十七時過世田谷戻り。幾つかの打合わせ。スタッフの多くにそれ程期待はしていないが、失望は深い。
|
十二月二二日 |
八時三〇分過TVのクルーと新宿西口発。伊豆西海岸安良里へ。十二時前安良里着。オープンテックハウス♯3藤井晴正邸現場。良く出来ていた。松崎町森秀己宅、父上逝去で霊前に線香。母上にも久し振りにお目にかかった。 十五時ハンマ邸上棟式百三〇Lのモチをまく。沢山の安良里の人々が集まってくれた。#3のフレームワークは上々の出来だった。あの屋根の構造を生かした内外装で仕上げれば良い。上棟式後会場を移し宴会。ハンマの父上兄上と飲んで祝う。 昔、良く一緒に松崎で遊んでいたサブちゃんが一昨日黄金崎から飛び降りて自死したそうで、今日同じ十五時から葬式だった。死ぬ勇気があるのなら、みじめにでも良いから生きて欲しかった。サブちゃんの鉄工場はベトナムに仕事を取られてしまい閉鎖、それからウツ状態落ち入っていたそうだ。日本の産業の危機的状況の典型が松崎町のような言わば辺境の小さな町にまで及んでいる。冥福を祈る。二二時過世田谷に戻る。
|
十二月二一日 |
昨日の疲れで朝はゆっくりと眠った。午後大学へ。中国葫芦島都市計画コンペ応募案最終チェック。パネルプレゼンテーションもコンピュータビデオも共に良く出来ていた。十五時半NHKTVの番組作りの相談。十七時より他大学その他の学生相談。
|
十二月二〇日 |
朝八時四〇分地下に降りる。又、しばらく屋上菜園に上っていないな。藤森の奴、俺の菜園を屋上畑呼ばわりして、しかも慣れぬ手つきで畑仕事だと、マア言われてみればそうだけど。今日は大学で来客が多い日になる。 午前中、ガウディ・レクチャーの準備。十二時ワンダーランド取材。三井物産ハウステクノ。十四時野原産業。立山アルミ佐脇氏。十六時三井ホーム来室。中国コンペ最終パネルチェック。十八時星の子愛児園アントニオガウディ・レクチャー。今度の厚生館増築はかなり過激になりそうなので、保母さん達をあらかじめ刺激しておこうと考えたのだ。一時間と少々スライドを使ってサルヴァドル・ダリの言葉からバッキーフラー、ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライト、そしてフランク・O・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイムまで。走った。修了後、近藤理事長と会食。
|
十二月十九日 |
大学で朝九時から各種会議。十五時過ぎ東大へ。鈴木研究室にて東大出版の件で打ち合わせ。京大の山岸教授と再会する。年内に自分の原稿はまとめよう。 十六時半予定より早く東大病院へ。佐藤健にベーシー菅原からのコルトレーン10曲届ける。健さんは今日で十日メシがノドに通らぬ日が続いている。沢山の管が体に注入されていて痛々しい。この写真を撮ったら毎日新聞もおしまいよ。コレワ。聴きたいと言うので、菅原のオペレーションに従い、先ずはデェーク・エリントンとの唯一の共演を。 健、ニカーッと笑って「でだしがいいね」とつぶやく。コルトレーンがデェークとの演奏でそれでも緊張して、押さえ気味のバラードが心にしみる。今日のこの為にあったような音だよ。聴き通して、次に至上の愛、ラブ・シュプリーム。ベッドに寝たままの頭を少し動かしてリズムをとろうとしている。体が弱り切って聴くコルトレーンの至高点はどんな風に健さんの気持ちに入っているのだろうか。十八時過真栄寺の照道和尚が来て、交替世田谷に戻る。何とまあ今年は色んな事が起きた年だろうか。夜ガレージハウス打ち合わせ。打合わせにならぬ打合わせ。これも又、年間通して続いたな。
|
十二月十八日 つづき |
十三時半朝山さんルーカス打合わせ。終了後宗柳で昼食。ベーシー菅原から約束通りコルトレーンのCD10点送付されてきて、地下で聴く。ベーシーの音を知るものとしてはいかにもCDサウンドであってもこれは辛い。が、それを言っても仕方はない。明日佐藤健に届けられるだけでも良しとしなければなるまい。菅原にお礼の電話をしたら佐藤健の記事は終わりは自身でキチンとけじめをつけなければならない、との意見であった。今のまんまでは仏教に触れた者の色がまだ出ていないと言う。達人は時に厳しい。バンコクからの帰りの便でノド風邪にやられ今日は最悪のコンディション。夜半学科西谷主任と電話で話す。主任は仲々冷静で全体を良く視ている。 ネパールから戻って三日経った。もう完全に本来の俗人に帰っているのを自覚している。ヒマラヤの白い峰々が紅色に染まるのを見て、アアと吐息をついていたのが夢の又、夢である。
|
十二月十八日 |
今日は朝から、色々と考えたい。これから五年位のことを。キルティプール計画は今日中に目途をつけよう。暗い鳥放送は時期尚早であった。今日打ち切りの相談をして、キルティプール計画に移し変えよう。しかし、何度読み直しても十六日付の菅原からのFAXレターはすぐれモノだな。無断でここに転載してしまおう。
石山さん
菅原は人物風格とても私等の足許にも及ばぬまでに成熟したな。
|
十二月十七日 |
というわけで、今、真夜中。眠れぬママにこのメモを書いている。ネパールの事は、実は、もう十八日だが、今書き終わったところ。やっぱり日記はその日、その時に書かねば駄目だ。しかしメモをつけるエネルギーが無かった。 今日、ベーシーの菅原から何枚かのコルトレーンが着く筈で、明日それを届けに東大病院へ行く。コルトレーンが聴きたいと佐藤健のたっての望みなのだ。 ここ二、三日僕の思考の方向が非常に大事なことになるような気がしている。何故か仕切りに胸騒ぎがするのだ。
|
十二月十六日 |
朝ミィーティング。まだ頭が東京のサイクルじゃない。午後、思い立って東大病院へ、佐藤健を見舞う。何だか「生きる者の記録」が大きな反響を呼んでいるようで、とりあえずは良かった、が、毎日新聞はチョッとやり過ぎでもある。来て良かった。ベーシーの菅原から送られてきた、マイルスデービスのCD等届ける。佐藤健、食べられず、げっそりやせてしまった。哀しい。話しながら、時々眠ってしまう状態だ。 十六時、東大鈴木研究室。安藤忠雄、鈴木博之と鼎談。伊東忠太について。十五日に藤森の本を一日読んでいたので、マ、少しは何とかなったかな。
|
十二月十五日 |
朝、成田着。世田谷村に戻る。終日、ボーッとして暮らす。今日一日は駄目だろう。室内原稿書く。
|
十二月十四日 |
朝、スワヤンブナート近くの家を訪問。カトマンドゥ在住の日本人女性の招待で朝食をいただく。午後の便で小笠原氏とカトマンドゥを去る。今回の旅では小笠原氏と十日間一緒であったが、助かった。ジュニーとも又、来年会うことになるだろう。バンコク空港で小笠原氏と別れ、深夜の便で成田へ。
|
十二月十三日 |
車で三〇分程走り、ナワルコットへの入口へ。記憶を少しづつ取り戻し始め、この径が二〇数年前のラウンド・アンナプルナ・トレッキングの最後に歩いた径であることを鮮明に思い出す。得も言えぬ感慨に落ち入った。美しい径であった。一時間程歩いて、ナワルコットへ。昔、ここで休んだことがあるピポリの樹の下で再び休む。陶然たる時間。ヒマラヤの巨峰。ネパールの子供達、ジュニー、小笠原氏、等々。体も少し元気になった。そんな事信じられるわけも無いが山からエネルギーをもらっているのかも知れない。 午後遅くの飛行機でポカラからカトマンドゥへ。再びカトマンドゥ・ゲストハウス泊。
|
十二月十二日 |
カトマンドゥ・ゲストハウスを早朝出て飛行機でポカラへ。機中からのヒマラヤは何をか、言はんや。死んでもイイとは言わぬが、アアとは言う。 ポカラ着、車で湖の近くのレストランで食事。その後、何かの集会に出てジュニーの母親を遠くに見た。マチャプチュレに雪は少ない。午後、車でノーダラへ。尾根の上から白い巨峰の連続を見る。ノーダラでジュニーがアテにしていたロッヂはすでに無く、しかし別のロッジに泊ることになる。午後中ジーッとヒマラヤを眺めていた。夕食はうまいカレーだった。夜半月明りのヒマラヤを見る。言葉もない。 夜明けのヒマラヤも眺めた。
|
十二月十一日 |
終日、スワヤンブナート、ボドナハ、パタン、パシュパティナート、マザーテレサの家等を見て廻る。夕方、パタンの外れから眺めたヒマラヤが圧巻だった。
|
十二月十日 |
早朝ジュニーがホテルに来て、共にカトマンドゥ旧市街を歩く。変わってしまったような変わらぬような、変な気持ちを持ち続けている。カトマンドゥ寺院のチャイ屋で実にうまいチャイを飲んで、やっとホッとする。ジュニーのオフィスで又、様々な人に会う。もう誰が誰だか解らぬママだ。 地方自治大臣にお目にかかる。 午後、再びキルティプールへ。キルティプールの市役所オフィスで打合わせ。又、スピーチ。色々と贈り物をいただく。打合わせの後、少しゆっくり集落を歩く。夕方キルティプールは素晴らしく、ここでのワークショップが適切である事を確信する。南のストゥーパに上るとヒマラヤがピンクに染まって見えた。年甲斐もなく胸が震えた。夜、キルティプール市内の食堂の二階で宴会。唄まで出て楽しくやった。ホテルまでキルティプールの人々に送っていいただく。
|
十二月九日 |
朝汽車で空港までと試みるも、時刻表にあるべき筈の汽車は無し、タクシーで空港へ。小笠原氏おすすめの空港中従業員食堂で朝食。カトマンドゥへ飛ぶ。機中より遠くヒマラヤの峰々を眺める。昼過カトマンドゥ空港着。何故だか下り気味でトイレへ駆け込む。空港で小笠原氏の長年の友人であるジュニーに会う。二十数年前に世界のトップモデルであったらしい男だ。このジュニーが今回のキルティプール計画のキーパーソンになる。ヤク&イェティホテルまでタクシー。早速様々な人物に紹介される。トリブバン大学教授、ジュニーのスタッフ、キルティプールの役人達等。すぐにキルティプールの丘に車で上る。何ができるのだろうか。夕方カトマンドゥに戻り、歓迎パーティ出席。教育スポーツ大臣その他キルティプール市の要人達、実業家等、ジュニーの人脈の広さをしのばせる。大臣スピーチ、私もスピーチしたりで気が抜けない。ホテルに戻り少しくつろぐ。小笠原氏と同室。小笠原氏の荷物は小さな手さげ袋一つで、全く気軽なスタイルを押し通している。筋金入りのヒッピーだなこの人は。
|
十二月八日 |
昼の便で小笠原氏とバンコクへ。バンコク空港で安藤を拾い、汽車で市内へ。駅前の安宿風ホテル。小笠原氏の不思議な友人と会う。オリエンタルホテルのテラスで花火を見て、ヤワラーで食事。
|
十二月七日 |
よく眠った。六時起床。朝食後、八時三〇分現場で小レクチャー。九時作業開始。それなりに参加学生も一生懸命やってくれている。遅々とはしているが少しづつ壁が積み上っている。十七時作業修了。台湾中原大学の白さん、バウハウス大学のセバスチャン、瓦職人の石塚君の仕事振りが目立つ。十九時前、中華食堂で皆と夕食。十九才の若い人と同席。面白かった。広島の黒田氏がプノンペンで日本語教師としてボランティア中でお目にかかる。トンレサップ河沿いを歩いて帰る。プノンペンも僕の内では何だか日常生活の一部のように組み込まれてしまった。常に新鮮である事は至難である。どうも体調が元に戻らない。 只今二十時四〇分汗がジワーッと湧いて少し不快。乾期なのに湿気が多い。
|
十二月六日 |
只今バンコク時間二十二時三五分。タイ航空七七三便の機中。あと一時間半でバンコクだが機中が暑苦しくってセーターもシャツも脱いでしまった。十二月三日毎日新聞朝刊から友人の佐藤健の「生きる者の記録」が始まった。余命あと一年、つまり残り半年位と医者に宣告された佐藤健の生きる日々の記録だ。佐藤健からは「俺の事は書くなよ」と言われた事もあり、このメモにどれ程の事を書いて良いのかためらった事も度々あったが、倫理的にはこの連載が始まったのでタブーは無くなったのだろう。が、書けぬ事もある筈だ。出掛ける前に東大病院に寄ろうと考えたのだが止めた。ネパールに行くと言ったら、うらやましがられるだろうから。もう旅に出られぬ健さんに旅に出る話しは良くないと、みみっちい事を考えてしまったのだった。帰ったらネパールの手みやげを持って行かねばならない。ボドナッハ目玉寺のアンモナイトでも持ち帰るか。あと一時間程でバンコクに着く。沖縄計画への準備の為の予算が少し計りついたのでネパールから帰ったら沖縄へ行かねばならないな。生命体維持装置としてのコミュニティ・イメージを少しクリアーにするのが沖縄計画の目的だ。今二三時三五分。あと十分でバンコク着。 只今バンコク時間朝三時十五分。眠れないので起きて風呂を使ったりしてる。六時十五分にホテルロビーで集合という事になっているから二時間も寝れれば良い。五時半、グッスリ眠れそうになったところで起床。眠い。八時十分の飛行機でプノンペンへ飛ぶ予定。五回目になるひろしまハウスレンガ積みツアーの今回の参加者は総勢二五名で小振りだ。年令も若くほとんどが学生である。暮の一番忙しい時をツアーに選んだからだろう。TG696でプノンペンに飛行中。昨夜は皆あんまり眠っていないだろうから今日のレンガ積みは午後からにしよう。 ウナロム寺院十時過着。渋井小笠原両氏と再会。小休後ひろしまハウスレンガ積み開始。十二時より十五時迄水浴び、昼食昼寝。十五時より十七時迄作業。汗はかくのだが、体調はいまひとつおもわしくない。 夕食後、二十二時いつものテラスにカヤを吊って眠る。
|
十二月五日 |
朝、プノンペン、カトマンズ小旅行の為の荷作り。十一時地下へ。少し計りの打ち合わせ。本当はこんなクソ忙しい時に旅でもないのだが、五年後の事を考えるとこの旅は必然である。大事な岐路に対面した時は理屈で動くのは良くないのはもう知っている。自然に、空虚な位に自然に自分の内に在る気持のなすがままに動くのが良いのだ。カトマンズ盆地には宝が埋まっている予感がある。ズーッとそう思っていたのだから、イヨイヨ今度、その宝に向けて踏み出すのだ。宝がどんな形式を持っているのかはまだ視えない。ただ、キルティプールという山のような集落の保存運動だけではないというのは確信している。何が出てくるか、カトマンズ盆地の北端、ブッダニルカンタ遺跡はドイツの修復によって無茶苦茶になってしまった。あの事件はヨーロッパ文明のマイナス面を象徴的に示していた。しかし、その現場を体験した僕は何かをそこから知る事ができたのだ。ヨーロッパ人の善意による努力によってブッダニルカンタのピポリの巨樹は切られた。あの場所は陰と暗闇を失い、光に満ちた明るく透明な場所になった。つまり、ブッダニルカンタにはアジアの近代化の問題が全て象徴的に表れている。 只今、十八時十分。これからバンコクまで飛ぶのだろうThai航空の機体が、ラウンジの目前にある。変だよな、アメリカのボーイング社がブラックボックスの固まりとして作ったエアークラフトの、表面にたかだか変なマークやらが附加されて、それがナショナルアイデンティティになっているんだから。日本航空だとか、ANAとか、タイ航空、英国航空、パキスタン、その他諸々、しかし、国を代表する道具の象徴は全て米国製。これが近代の辿り着いたある種の峠なのだろうな。エアークラフトを作れない国の悲哀を眼の当たりにしているよね。現代の戦争は全て空中戦はアメリカ製の道具で成し遂げられるのだろうか。だとすれば、それは何が何と戦っている事になるのかな。
|
十二月四日 |
早朝歯医者。十一時半蔵門ダイヤモンドホテル待ち合わせ。昼食鈴木社長と麹町ひさごで。十三時大学。仮眠をとる。十六時目白日本フィンランド・デザイン協会理事会。栄久庵伊藤隆道その他。十八時五〇分神楽坂鳥茶屋。前の会合が早く終り、三〇分程も時間を持てあます羽目になった。変な待合風のエントランスでこのメモをノートしている。今日は東大の先生達と早稲田の先生達との会合である。良い方向にまとまると良いが。歴史の伊藤先生とは久し振りにお目にかかる。しかし、今日は長居は禁物で早めに失礼しよう。明日からカンボジア・ネパールへ向かうのだから。休息が必要なのだ。しかし悪趣味な小料理屋だなここは。程々の日本趣向くらい品格がないモノはない。十九時十分部屋に上がって待つ。二十一時過まで会談。とりたてて何かの問題を話し合ったわけではないが、こういう形式の会合はチョッと歴史的ではあるね。二三時過世田谷に戻る。
|
十二月三日 |
九時伊豆安良里藤井晴正世田谷来。TVの件打ち合わせ。十四時有楽町マリオン朝日新聞大西氏。汐留見学十六時迄。十七時大学人事小委員会打合わせ。雑用をすませ、十九時磯崎アトリエ訪問。フィレンツェのコンペ案を見る。これは良かった。磯崎新は若い。次女友美と共に磯崎宅で愛子さんと共に磯崎さん手製のパスタ等御ちそうになる。 フィレンツェ駅のコンペ案はフラットな屋根をコンピューターの自動案出だという構造体で支えたもので、その構造体は見た事がないような形態を持っていた。中国人の若い才能がDr論文で提出してきた理論を構造家がピックアップしたものらしい。伊東豊雄の非線型構造体理論といい、磯崎のフィレンツェのコンペ案といい、何か新しい構造の考え方が出現し始めている気配がある。ノタノタしていられないぞこれは。二十三時三〇分世田谷戻り。
|
十二月二日 |
早朝藤塚より電話、今日天気が良いから十時位から星の子愛児園の撮影ヤルカラだと。スタッフ誰も居ないから俺が立会うか。 続いてハンマからも電話入り、やっぱりTVは奥さんのタマちゃんがイヤがってるからとの事。直接ディレクターと連絡してくれと伝える。TVは難しい。星の子愛児園撮影立会い。十三時大学M1M2の仕事を見る。十五時人事小委。十七時過終了。十八時過世田谷に戻る。
|
十二月一日 |
今日は休むぞ。コテンコテンに休むぞ。毎日新聞に藤森教授が書評を書いている高知の沢田アパートは見てみたい。また、京都の四条にこれ又、藤森が作っているらしい秋野さんの樹上の茶室も見たいな。鈴木博之より電話、原稿その他の件。いよいよまとめるか。 十八時前我孫子真栄寺へ。立松和平、我孫子市町等と会食。二三時三〇分世田谷へ戻る。結局今日も動いてしまった。
|
2002 年11月の世田谷村日記
|
石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
世田谷村日記 サイト・インデックス |
ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp