石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2003 年2月の世田谷村日記 |
一月三一日 |
九時地下打ち合わせ。十三時ゼミ形式のミーティング。無理も無いがこんな時代に弾むような議論は起きようがないのではあるが、静かな水面に石を投げ込み続けているな。徒労と考えるか、いつか波風が立ってくれると思うか、それが問題であると、シェイクスピア風に嘆いてはみる。今日で正月も終わりか。正月は小さな現場が幾つも動いているのと、幾つかの計画案をまとめたのが収穫だった。作ることよりも大学の方の動きに見るべきものがあったようだ。良い事なのか悪い事なのかは判断できぬ。 十八時三〇分馬喰横山あい鴨料理鳥八で工作社室内新年会。山本夏彦亡きあとの新社主山本伊吾&室内編集長鈴木その他オール室内メンバーと会食。安部譲二と私がゲストだった。上手い料理と酒を楽しんだ。「室内」新年会にて正月の締めくくりとなった。何だろうな、かくの如き集まりや約束等の会のスケジュールをこなしてゆく事と、私の本当にやりたい事とのスレ違いはあるのか、それとも無いのか。疲れて世田谷村に帰る。イヤな事があって久し振りに本気でスタッフを怒る。ふざけるなってーの。
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一月三〇日 |
九時製図の先生に関する人事会議。十三時卒業設計判定会議。卒計一番は石山研の学生であったが客観的に見れば総崩れだ。六年制への移行の過渡期であると片付けられれば良いのだが。四月から大学の私の研究室は激変する。李祖原グライターと共に大きなスタジオを作り、プロジェクト中心の研究室とする。何とか学科の硬直化を打破しよう。
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一月二九日 |
風が吹いている。烏山神社の杜の木々を大きく揺らしている。朝の地下室でα-オフィスのアイデアまとめる。十五時大学海光以下高山建築学校の面々、及び編集者来室。二時間弱のインタビュー。高山建築学校の事は遠い昔になったが、忘れようがない時間でもあった。十八時神田で馬場照道、毎日新聞朝日奈局長とメシ。 二十二時半世田谷村に戻る。
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一月二八日 |
今日は晴れた。ガラス窓が一面に白くなっている。二重ガラスの部分だけだけれど、初めてのことだ。十時過大学、卒業設計採点。年々悪くなるな。修士設計に比重が移ったとはいえ地崩れが起きている。十三時半、シャープの方来室。丹羽君ホームページ編集会議。陸海博士論文相談。編集会議をしていると自分がいかに小さな人間であるかが身にしみて解るな。 十五時過ぎTVプロダクション取材。十八時過ぎ磯崎アトリエ。磯崎さんに中国事情等うかがう。その後共に銀座へ。シャープ社長さん等と会食。二十二時前世田谷に戻る。地下でいささかの模型作りを楽しむ。〇時前上にあがる。 建築は音楽のようにはダイレクトに人を感動させたり、なぐさめたりは出来ない。しかし凍れる音楽の例えもあるようにひどくゆっくりと、しかも長く持続して人間と関係を持つ。そこのところをグイと抽出して、人に知らしめる事は出来ないのかな。
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一月二七日 つづき |
十三時半NHK国宝探訪打ち合わせ。シナリオがキチンと出来ていた。このプロダクションの人物はしっかりしている。佐藤論から今朝昨夜の会食の御礼の電話があった様だ。こいつもしっかりしてるな。地下の連中には無いなあ、こういうキチンとした感じが。口うるさく言っても仕方ネェし。GAHOUSES、室内、その他送られてくる。GAHOUSESに書かれている小さな作家論作品論を幾つか拾い読みして笑った。相変わらずの建築村のヒソヒソ言語で面白いのは一つも無かった。二川由夫もしっかりしてもらいたい。これなら一くくりして藤森照信に書かせた方がズーッとましだ。GAは藤森のモノを掲載しないようだが、これもわかってネェな先が。中途半端なエリートマガジンが成立しない社会になっているのを直視しなくては、と俺は思うんだけれど。
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一月二七日 |
九時スケジュールミーティング。
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一月二六日 |
王国社からの私の新しい本のゲラ最終チェック。アルクールの勝ちゃんからカレンダーを送ってきていて、今日初めて開けてみたのだが、良いもので使おう。アルクールにもしばらく行ってないな。GAより日本の現代建築を考えるII送られてくる。 十六時過約束通り六車護佐藤論佐藤道子来世田谷村。歩いて栄寿司へ。佐藤健をしのんで飲み、かつ喰う。二二時私は帰ったが六車、論、雄大はその後朝三時頃までやったらしい。それで良い。大いにやれ。 佐藤健の奥さん道子さんより、健の遺品の中から沢山、石が出てきたので千村君へ差し上げてくれといただいた。これは直接千村君へ手渡さねばならぬだろう。千村君はこの石をどうするのかな。
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一月二五日 |
夜半の二時。眠れぬままに起き出して、何やらゴソゴソやっている。東大の伊藤毅先生から「都市の空間史」送っていただいた。序を読んだだけであるが、ゆっくり時間をかけて読むべき本のようだ。さて、眠る努力をしようか。十時過建築学会教育委員会シンポウムで二〇分の講演。十二時大学。十三時野村セバスチャン、ミーティング。明治通りコンバージョン、北九州。十四時設計製図公開講評会。
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一月二四日 |
朝世田谷村の二階に光が溢れ返っている。ひろしまハウス建設募金の具体策を作り始めたが、これは幻影そのものが実現し始めるという類の計画案だから、その幻影そのものを主役に据えた方が良いだろう。昔、学生(ガキ)だった頃二年生の設計実習で「現代の寺」という課題が出された。出題者は渡辺保忠先生であった。私の気持ちの中ではあの課題への答えをまだ探しているのだろう。渡辺保忠先生の感性をベースにした論理の構築力は一級品だったな。私の何処かにあの力が継承されていれば良いのだが、思い込みの強さだけだな引き継いでいるのは。九時地下打合わせ。午前中で終る。十四時地下学生ゼミ。柴原の成長が目につく。十八時安藤修計見る。速力が全く無い。何してんだとイライラするが、マこんな事にエネルギー使っても仕方ネェやと憮然とするばかり。しかし、今日は程々の収穫があった。明日もしっかりやろう。何故か眠れず。
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一月二三日 |
朝五時過眠れぬままに起きる。胸騒ぎというか、ささやかな啓示と言うのか、やるべき事がフッと開示されているような気がしている。2月3月と異常なスケジュールを組んだ。これ全部こなせたら倒れるなという位のものだ。本当に倒れちまったら、それも仕方ない。それだけの人だったとあきらめよう。 聖徳寺の現場が始まった。色々苦労したし、これからも大変だろうがやるしかない。昨夜鈴木博之から言われた批評と理論小委員会の件は、大事な事だな。本当は機関紙を創り出す必要があるのだ。まとめの、ではなく、はじまりのシンポジウムを開催する必要もある。その主題が問題だろう。磯崎新によって連続シンポジウムは大阪万博大屋根岡本太郎まで辿り着いた。その先をやらなくてはいけない。若い頃にやった鈴木石山の連続時評のような形式で作品評が出来ないのか。雑木は相手にできぬけれど、今を作品を介して書けないか。でもなあ、書きたい建築がどれ程あるかな。十時学科会議室。十三時教室会議。建築計画教室の大幅な改造案を主任と作り始める。
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一月二二日 |
八時過起床。綿の様な雲が水平に広がって朝の光を微妙にコントロールしている。毎日新聞「生きる者の記録」が再開されるようだ。今日は大きく健の写真が掲載されている。このメモには書ける事と書けぬ事があるのだが、秋田の玉川温泉で健から「石山あの日記に俺の事書くなよ、俺には俺のプライヴァシーがあるんだから。」と言われた事を思い出す。何しろ色んな事を思い出す。結局、健は自分の生死の境という究極のプライヴァシーを公開してしまったのだから、あの言葉は宙吊りになってしまったなあ。 考えてみれば、私のこのメモだってゆるやかな、まことにゆるやかな死への記録でもあるのは確かな事で、人間は皆それを自覚するか、しないかの区別しか無いな、コレワ。次に自覚してどうなるの問いが生まれようが、要するにコレワ、どうせ死ぬのだからとあきらめるか、どうせ死ぬのだからと一日一刻を痛切に生きようとするかの二つの対処しかあり得ない。大方はこの二つの経をいったり来たりしているのだが、時に明快に分離して生きている人間が居て、諦めるのも痛烈なのも少々度を超してしまっているのが確かに居る。あきらめ過ぎるのと痛烈なのは一緒でもある。それ故あきらめ切れぬ人というのが出現するのであろう。 北海道十勝スノーボートをオープンテックハウス#11にカウントしよう。考えてみればスノーボートは良く開放系技術の考えを表現しているから。烏山駅のプラットフォームで気付いた。若松氏のインスタント・オフィス計画は二月中にプランをまとめる必要があるようだ。十五時過大学をでて世田谷へ。デューク・エリントン&ジョン・コルトレーンのセンチメンタル・ムードのメロディが耳にこびりついてはなれない。これはヤバイぜ。しかしポッカリ穴があいたな時間に。
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一月二十一日 |
世田谷村にて終日作業。北九州の案がまとまるかも知れない。幾つかの仕事へのアイデアをつめる。夕方べーシーの菅原正二と電話で話した。仙台の青葉区にプラネタリウムのドームが古くなってあり、それを劇場に使い直そうという考えがあり協力しようと考えていると言う。これは面白いかも知れぬ。ドイツのグライターとこれも電話で話す。四月から早稲田で一緒のスタジオを持つので準備をしなければならない。チョッと面白くできるかな。 安藤の修士設計が面白いものになりそうだ。独特な人材に育てば良いのだが。
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一月二〇日 |
朝全体ミーティング。石山スケジュール作り。十三時明治通りコンバージョン。物件2を見て、若干の打合わせ。十三時四〇分若松氏打ち合わせ。。上海のエネルギーステーションの件。及びPNビルの跡地利用の件。この仕事の面白いところは一日であっという間に忙しくなったり、ヒマになってしまったりが起ることだ。十五時半野村セバスチャン打ち合わせ。十七時前全ての打合わせを終了。健さんのところから帰ってきたコルトレーンを聴く。デューク・エリントンとの共演のモノ。最初の出だしのスローバラードを、聴いた健さんが「これなんだよな。いいんだあ。」とつぶやいたのが耳に残っている。これからズーッとこれを聴くたびに思い出すんだろうな。 早稲田野球部の六車より電話あり、健をしのんで飲もうぜの件。健は逝ったが、オッとどっこい六車が残っている。大変そうだナァこれと附合うのは。しかし六車の著作「名スカウトは何故死んだか」は面白かった。イチローを発掘した名スカウト三輪田の物語なのだが、三輪田は私が学生の頃神宮の森の大スターであった。安部球場で投げる三輪田の球の速さに息を呑んだものだ。その三輪田の紹介で佐藤健はイチローに会ったのだから。十八時過仙台の結城さん来室。沖縄の件、依頼と打ち合わせ。結城さんとお目にかかるのも久し振りで、この人は全く変わらない。打ち合わせを終え、ニ〇時四〇分まで大久保駅前のソバ屋で食事。結城さんの話しを聞く。ニ十一時ニ〇分世田谷村に戻る。地下で再びコルトレーン&デュークを聴く。 べーシー菅原正二よりFAXLETTER届く。誰かが彼のところへこの日記風メモを送り始めた様で、段々勝手な事を書けなくなるなあ。
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一月十九日 |
午前中は世田谷村でくつろぐ。アンコールワットへ宮脇愛子さんを御案内する件はそろそろ本腰を据えてスケジュールその他をつめたほうが良いな。健さんが亡くなって一週間の中のある一定の時間がポッカリ空白になった。これは将来もきっと埋められないだろう。 十三時過出掛ける。千疋屋でアイベリーを求めて田園都市線たまプラザで山田脩二と待ち合わせ、山口勝弘先生との打合せを兼ねたお見舞いへ。何とマア、こういう役割が多くなった。猛者の前衛と附合っているとこうなるんだな。十五時たまプラザの山口勝弘訪問。ハンディを負われてはいるが意気は高い。ドローイングその他を見せていただく。おまけにロシア・アヴァンギャルドのレクチャーまでされてしまった。頭脳は完全だな。シュプレマティズムの語源の話しを聞きながら、そうか、ジョン・コルトレーンのシュプリーム、I・LOVEシュプリームの意味はそうだったのかと納得した。淡路島に山口勝弘構想の美術館は建てて差し上げたい。山勝工場のリノベーションの枠があるから充二分に可能であろう。お見舞後、溝ノ口で山田脩二と食事。 色々と困難はあるだろうが、淡路環境芸術センターは山口勝弘構想を石山が建築化する事で進めたい。作っておいた放物線の土手も生かせるであろう。山口さんの淡路への先祖帰りに同行するのも面白いだろう。
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一月十八日 |
朝地下ミーティング。十四時過横浜。ガウディとジュジョールを巡るシンポジウム。建築論の現在。どっちが主題なのか分かりにくい。入江先生の司会で、石山、鈴木了二、内藤廣がパネリスト。池原義郎先生の基調講演が良かった。学会の建築論意匠小委員会を批判しただけが実質的成果と言えば成果であった。
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一月十七日 |
朝世田谷村。十一時半大阪、北九州打ち合わせ大学。学生二件。十三時明治通りコンバージョン依頼者。十四時過製図採点。昨日私の留守中に亡くなった佐藤健の奥様が研究室に来室された。形見分けとして健さんのマフラーを置いていかれた。又、生前健さんが冗談のように言っていた、香典は「ひろしまハウス」建設資金へ。を真に受けて下さって、大変な額のお金を「ひろしまハウス」に寄付して下さった。有難くいただこう。しかしやっぱり驚いた。何というべきか。健さんアリガトとしか言葉がない。プノンペンの「ひろしまハウス」は私にとっても色んな記憶の貯蔵庫になるな。十九時TVプロダクション・ルーカス、メンバーと会食。いずれ近いうちに大学がTV放送局になる日がくるだろうという話しが面白かった。そこらのオバちゃんがTV番組を作れる位に様々な道具が進歩しているという事だろうし、多チャンネル時代が来るという事でもある。TVの現場であるプロダクションでの制作費は小は三〇〇万円から、三〇〇〇万円、大は一億円くらいのものらしい。大体、住宅一軒くらいと考えれば良いのかな。
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一月十六日 |
朝八時リーガロイヤルホテル早稲田。学科ミーティング。十二時理事会プレゼンテーション。十五時三井ホーム講演。何と私とした事がハウスメーカーでレクチャーとはどうした事か。浮世の義理だ。十八時過世田谷村戻り。
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一月十五日 |
七時四十分起床。ホテルからの朝の那覇市は雑然としたギリシャの小都市のような印象がある。白い箱が折り重なっている寂しい感じだ。平坦なところは米軍基地にとられてどうしても凸凹な起伏に富んだ地形に町が展開されているから、それも又ギリシャの山の地方都市の地勢と何となく似てしまうのだろう。白い箱が多いのはコンクリートの建築が多いからだ。第二次世界大戦で伝統的な町並みが破壊されたことからきている。沖縄では様々な事象が近代の歴史と密接な不即不離の関係を持っていることがすぐに理解できる。東京の表層の繁栄ですら、沖縄のこのような事実の陰画なのだ。戦争の酷薄さを感じざるを得ない。 十時国建地域計画部打ち合わせ。大方の私の沖縄計画のイメージを述べて、すり合わせ。昼食後十三時三〇分琉球大学へ。放送大学沖縄学習センター所長尚弘子先生訪問。ごあいさつ。ここで内閣府の方々と別れ、再び名護市へ。二日間内閣府の方々にはお世話になった。一応目的は達成した。国建スタッフに再び名護ブセナテラスまで送ってもらう。ブセナテラスで知人と会う。久志、豊原、辺野古地区を見る。久志の自然環境、町並みの保存状態に見るべきものがある。那覇空港まで送ってもらい十八時前空港着。十八時二〇分の羽田行きに駆け込む。富山からの飛行機が今月一杯羽田に機材廻しで飛んでいるらしく、タイムテーブルには載っていない。二日間良くタイトなスケジュールをこなした。二十二時過世田谷村に戻る。地下の様子を見て、倒れるように寝た。
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一月十四日 |
五時起き。五時半家内に送ってもらって羽田へ。七時半に着けば良いのに六時半前に着いてしまう。只今機中。今年初めての旅だな。旅と仕事の区分けもつかぬが、二月三月の超過密スケジュールを乗り切れるのかと思うが、マ、やってしまうしかないだろう。十一時に沖縄に着く予定。十一時那覇空港着。十四時名護市役所、岸本市長面会。だいぶん古くなったが名護市役所の建築は健在。象設計集団の良品であるな。十五時前名桜大学。キャンパスを案内していただき比嘉理事長と面談。十四時北部広域市町村圏事務組合訪問。名護より那覇に戻る。十八時過ハーバービューホテル着。流石に疲れた。ホテル内のレストランでイタメシ喰って寝てしまう。夜中に起きて入浴、頭を洗う。こういう時間は嫌いではない。明日も目一杯のスケジュールだな。
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一月十三日 |
十時地下安藤修士設計見る。ようやく自分の現実に対面してみようとはしてきてるかな。ガレージハウスのアイディア生まれる。スケッチする時間さえあれば何とかなるのだ。十四時森川光嶋聖徳寺打ち合わせ。夜、久し振りに雄大と飲む。奴も色々と考えてはいるんだ。
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一月十二日 |
地下の連中に文句言うのは昨日で止めた。文句を言ってから何かが良くなる訳もなし。それなら言ってる時間が無駄になる。無駄な事はやるまい。エネルギーは消耗するばかりだし。 今年中に片付けたい事。 ・ひろしまハウスプノンペンの本作り。 ・磯崎新論 ・開放系技術デザイン・ノート ハードな本を幾つかまとめなくては。 作家論は今よりも年を取ったら書けない。重源論を途中まで書いて投げてしまったのは今でも心残りなのだが、アレは総合的な歴史学の素養がなければ書けなかった。 朝、馬場照道から電話あり、健さんの「生きる道の記録」の、死は闇の下りは絶対健が言う訳ネェと言う。ベーシーの菅原も坂田明もそんな事言ってたからね。あれはまずいよって。私もいくら健さんが弱っていても、言う筈は無いと思いたいのだが。死も又光というのも、ある意味では安直な救いであるかも知れない。生きても死んでも救いは無いさ。 十一時大学。野村と大阪北九州の件打ち合わせ。十三時佐藤。面白い形を生み出したな。十三時半鈴木。ようやくにして社会性の欠如に気付いたね。 日曜日の午後の陽光が研究室のブラインドから洩れてきて、なんだかうとうとしてしまう。ネパールのナワルコットを思い出すなぁ。峠の上の小さな集落。一本のピポリの木があってそこで旅人は皆休息をとる。ただただ休む。子供達がいて花が咲いていて、動物たちも休んでいる。何もしていない。遊んでいる。のんびりと、ゆったりと美しい。ヒマラヤの白い峰々が真近にあるが威圧的ではない。平穏である。フッと通り過ぎるのに、あれ程平穏な場所はない。十六時自民党婦人部会広報誌インタビュー。
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一月十一日 |
朝九時前、禅と念仏社原稿終る。今日は建築のスケッチに戻りたい。西東京市の小さな共同住宅に付属させるガレージハウスの第一案はアールト好きの人のミニハウスとして、ホームページ上にプロポーザルする事にした。関心のある方はそちらの方の情報も追跡して下さい。 浜島さんのグレース鍼灸医院の広告もホームページに公開する。当然、北海道十勝のスノーボート、レストランの広告も出す。ひろしまハウスのレンガ寄進の広告を考えなくては。レンガ一個五百円だな。キルティプール、ワークショップの内容をつめよう。ツアーの広告はすでに出しているのだが反応がうすい。絵柄が悪いんだな。 絵柄と言えば、今度の王国社からの本の表紙は僕が夢中で描いた何号だかの絵が使われているらしい。十二時半。今日は、十三時から地下で連続の発表会がある。二階の奥深くまで冬の陽光が差し込み暖かく気持ちがいい。二日間ほとんど原稿書きについやした。成果もあったのでホッとしているところだ。毎日新聞の六車護から寒中見舞いの葉書をもらう。六車も健が居なくなって飲み相手が欲しいんだろう。十二時四〇分突然山口勝弘先生から電話あり。脳梗塞で倒れたうんぬんは宮脇愛子さんからうかがっていたが、やっぱり声が変わっていた。淡路島山勝工場の件。早く淡路に帰って、アレを美術館にしたいのだの話しだ。山口勝弘にアア言われたら力を出さなきゃ男じゃネェよ。近々、横浜のリハビリセンターに居る山口さんに会いにゆく事にした。山田脩二にも声を掛けてみよう。強者がばたばた倒れてる。山口さんから「君もそろそろ気をつけた方がヨイ。」と忠告される。気をつけても、つけなくっても同じなんだ、というのが僕の考え。 十三時ミーティング。十六時安藤の修計を見る。最良のテーマを与えているのだが、ついてきてない。やる気がないとしか思えない位の出来だ。何かを達成しようとする、達成そのものの水準が低い。今、その水準を上げておかないと、もうチャンスは無いのに。これは経験を積んで得られるものでは無い。十八時星の子愛児園新年会。保母さん達は明るく元気な人が多い。二十二時過世田谷に戻る。
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一月十日 |
王国社から出す本のあと書きのリミットになった。朝五時起き出して原稿書き始める。何とか二〇枚以上は書こう。一日で。幸い今日は完全に世田谷村に埋没できる。しかし、不思議なもので世田谷村日記を書く文体と、他のモノを書く文体とが近寄ってきている。やっぱり俺は何かをしていないと、何も書けない類の人間なんだ。思っていたより早く十九時過ぎに王国社の予定二〇数枚は書きおえた。今日はこの位にしておこう。書き過ぎると眠れないからな。
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一月九日 |
昨夜、GA原稿、今朝室内原稿、午後ダイヤモンド社原稿書く。ようやく頭が廻り始めたような気がする。十勝のスノーボートが出来上がり営業を開始する旨連絡があった。スノーボートは発表したくてもピッタリのメディアがないな。藤塚に相談乗ってもらうか。夕方、何時だか定かではないが、大久保駅前でソバを喰おうとしていたら、中国コンペ関係の馬鹿げた情報が入り乱れて入ってきた。これを平然としてさばくのは誰も出来まい。なるようにしかならんのだ。 両極で動くというイメージが突如浮かんできた。何だか岡本太郎だね。結構今の構図は面白いのだ。直径四km以上の都市の設計をしている同じフェーズで、四十坪の小住宅の設計をやっている。脈絡はない。注ぎ込むエネルギーは似たようなものだ。建築設計の空漠たるところは、決して一人では成し遂げられぬところかな。他人の手を何処かでわずらわせなければならぬ宿命を持つところだろう。 世田谷村に帰ったら東北へいあんグループの菊地麗子役員の訃報が入っていた。何度か東北で食事をした位の附合いであったが、それでも仰天した。何とまだまだ続いているな連続死亡事件は。
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一月八日 |
朝、世田谷村ミーティング。ミジンコに語りかけても仕方ネェのは重ね重ね解ってはいるのだが、俺も変だよな。まだあきらめずに語りかけている。十五時大学にて学科会議。十九時世田谷村へ戻る。聖徳寺打合わせ。二一時原稿書き始める。原稿用の頭にまだなってないので進まないだろう
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一月七日 |
昼学校へ。幾つかの打合せ。
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一月六日 |
仕事始め。今年の方向を概略述べる。夕方新年会。
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一月五日 |
元旦みたいな快晴である。佐藤健の葬儀も終え、一区切ついた。屋上に上る。霜柱が凄絶に立っていた。やっぱり鉄板の地盤は冷えるのであろう。正月の生ゴミをスコップで埋める。明日の仕事初めでスタッフに伝えなければならぬ事の草案を練る。今年を何とか乗り切ったら、アトは自然にやってゆけるやも知れぬ。マ、そんな事もあり得ないだろうが。月並みだが一日一日を大切に、無駄を省いて乗り切りたい。地下を、子供のレベルから引き上げなければならないのだが、どうしたら良いか。難問中の難問であるが、少し計り視えてきたような気もする。スタッフとはストレートに接しよう。クセ球投げても効用がある連中ではない。
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一月四日 |
明けて告別式。六時頃お寺の鐘の音で眼を覚ます。九時過、真栄寺の味噌汁で朝食。随分沢山な人が集まり、十三時告別式。毎日新聞社長斉藤明、大住広人と共に弔辞を述べる。十六時頃焼場へ。イヤーな焼場だった。骨を拾い、真栄寺に戻り、初七日と精進落し。夜半、疲れて家内と世田谷に戻る。 しかし、これでようやく私の年越しとなった。
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一月三日 |
薄曇りの寒い日になった。十三時大学へ。修士設計のチェックをする。十五時家族と共に車で我孫子真栄寺へ。途中渋滞に巻き込まれたり、道を間違えたりで遅れ、十八時三〇分真栄寺到着。すでに読経は終りかかっていた。照道の講話をきき、あとは宴。健は遺言通り、酒百本をひつぎの廻りに並べ立て、皆に振舞った。水野、大住、宮原、六車等と飲む。結局本当の通夜になってしまい、真栄寺の地下で寝る。健の遺体の下で寝たようなものだ。少しはあったかくなったか。早稲田野球部であった六車、夜中に暴れる。グッスリ眠った。
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一月二日 |
昨夜雪が降ったようで、世田谷村のまわりはうっすらと雪景色。昨日は完全休養だった。今日は年賀状製作といささかの原稿、そしてスケッチを始める。午後佐藤健の弔辞を用意する。明日から通常の日課に戻ろう。今日は不覚にも一日ズルズル休んでしまった。
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二〇〇三年一月一日 |
深夜二時磯崎宅より世田谷村に戻る。 朝、母も交え皆で新年を祝う。今年は狂乱の年になりそうな予感もあり、どんな事が起きても、起こしても動じず、より一そうの狂雲に乗ってゆく積りである。 一階、つまり地上の庭の梅の木に沢山の鳥が集まるようになっている。それを二階のフロアーから眺めている。
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2002 年12月の世田谷村日記
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