石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年4月の世田谷村日記
 三月三〇日
 三時半起床。荷造り。五時まで再び眠る。五時半ホテル発。トンレ・サップの船着き場へ。プノンペン迄の高速船へは小船で。一昨日取材した水上集落を行く。七時半プノンぺン行きの船スタート。室内には入らず屋根の上に陣取る。大半の客がそうしているようだ。風が気持ちよい。トンレ・サップ・レークは対岸も視えず、ただただ荒涼とした中をゆく。五時間ほどの良い船旅であった。船の速度に伴う風があったので気にならなかったが、紫外線が強く、日に焼けた。屋上にゴロゴロと皆寝ころんで風を切る風景が面白く写真を何枚もとった。旅の、一時の、かりそめの自由が良く露出していた光景であった。沿岸の水牛やバラック小屋、漁師たちの生活、泥と水にまみれた生活の中を通り過ぎて行く我々。通り過ぎていく至福を何かの形で、返せるようにしたい。直接的には出来なくても、遠廻りしてでも何か役に立つ事をしなくてはと思う。私が最初に出した本は「バラック浄土」だった。今はバラックに浄土を視てしまうような若さは無い。それは卒業した。しかし、どんなに遠廻りしてでも、何処かで彼等の生活、アジアの泥にまみれて、まだ満足に近代化の恩恵に浴していない人々の為になるような、軸が仕事になければ、やはりそれは嘘なのだ。開放系技術の考え方は直接的で短兵急な部分と遠廻りな部分が共存している必要がある。予定通り十三時にウナロム寺院に着く。荷作りして小休。バスで空港へ。何とか参加学生全員無事であったのが何よりだ。六時過のタイ航空でバンコク。トランジット三時間。十二時過NRTへ。眠りこけているうちにNRT着。七時過ぎだった。

 三月二九日
 朝五時過起床。昨夜はいつ眠りに入ったのか良く覚えていない。エアコンが効いた部屋が体に慣れていないのだろう。五時四五分中里さんの部屋をノック。まだ調子が良くないので、午前中はここに残ると言う。私も今日はゆっくりやろう。休息のつもりで。六時出発。アンコールワットへ。グライターを案内する。次いでバイヨン。らい王のテラス前の広場の塔でユネスコの日本隊すなわち早稲田隊のメンバーと会う。その後幾つかのルインを巡り、十一時ホテルに戻る。疲れたーア。シャワーを使い小休。アンコール・ワットはもういい。何の感慨も無し。昼飯をゆっくり喰べて午後は休息が良い。フランス料理屋ラ・ノリヤで昼飯。グライターと。小笠原氏はローカルフードが良いと言うので別行動。この昼食はうまかった。ホテルに戻り休む。十六時過ぎオールドマーケットに買物。若干の買物をする。明日は日本に帰る。ネパール・カンボジア・ワークショップの成果をまとめ、次の段階へと進めなくてはならない。四月末に東京で成果発表をやるか。四月末はワイマールへ行かなくてはならぬから無理かも知れんな。十八時過夕食の為に町に出る。中里氏用心してホテルで休む。本当は私だって休みたいんだよ。バイヨンというレストランに行くも、イルミネーション、ピカピカのアメリカナイズされたものだったのでパス。バイヨンは一号店、二号店、三号店まであるらしい。アンコールもアメリカナイズされていくんだなあ。再びラ・ノリアへ。ここの春巻きはうまい。客は殆どヨーロッパ系。日本人は居ない。日本人観光客はアメリカナイズされているって事か。品位に欠けてるよ。バイヨン、スタイルのレストランはほとんど日本人なんだろう。二十一時ホテルに戻る。もう二度とアンコール・ワットに来ることはないだろうが、もし万が一、来る事になったら、ラ・ノリアのロッジが良いね。静かで三十ロッジが独立してあるようだ。明日は五時起床、五時半ホテル発。船でプノンペンに戻る。学生達は無事でいるだろうか。

 三月二八日
 六時起床、さっと支度して空港へ。シェム・リアプへ飛ぶ。八時過の便、プロペラ機である。グライターと小笠原氏は元気なようだが、中里さんが少々疲れ気味。今日一日頑張って貰いたい。私も体調は万全ではない。九時前シェム・リアプ着。空港には渋井さんの日本語学校の学生が待っていて、トンレ・サップ・レークへ直行。乾期のカンボジアはほこりがすごい。トンレ・サップ・レークもこの前訪ねた時と比べると、凄い変わり様で、雨季と乾期の違いを思い知った。湖の大きさは現在150km×32kmで、勿論対岸は見えない。雨季には三倍以上の大きさになると言う。車でひどい凸凹道を湖岸近くまで走り、ボートへ。しばらく狭い水路をゆき、パッと視界が開け湖に出た。凄い水上の集落が展開されており、ここ迄来て良かったと思う。中里氏も完全にグロッキーで車の中で倒れていたが、流石プロのカメラマンだ被写体が良いと起き出して、カシャカシャとっていたので安心する。水上集落の二軒に上らせてもらい、取材した。船の家は一万バーツ程するらしい。ガイドが全部で二〇〇件と言うが、もっと多い。四、五百はある。彼等の二〇%はヴェトナム人で水上生活者の大半は税金を払ってないそうだ。しかし、船を動かせる範囲は決められているそうで、村長もいるし、学校もある。接した人間の人柄も穏やかで開放的であった。台所、洗濯場、ブタ小屋も完備しており、魚の匂いがかなり強くする他は、清潔そうであった。「陸上の生活より楽で良い」との事であった。あんまり、ガツガツ働く人達ではないようだ。自然と同化しながら、自然のリズムの中に入り込んで生きている。飛行機から見た魚の骨状の物体は巨大な網の仕掛けであったようだ。船上の家は実に多様で一つとして同じモノは無い。10kmほどを移動しているようで、一五〇kmあるトンレ・サップ湖を全て使い切って動き廻っているわけではない。意外と律儀なモヴァイル住宅ではあった。三時間程で取材を修了。シェム・リアプに戻る。昼食を食べ、ロッジに宿泊。これはいつだったか泊まった事があるロッジだ。道を挟んだ向うが安い中華料理屋。小笠原さん中々実力を発揮できず、ほんとに車寅次郎だね、この人物は。少し休む。十八時食事に行こうと試みるも、中里さんどうやらダウン。夕食はパスと言う。グライターも頭が痛いというので、前のチャイナ・レストランで簡単に食べて、二〇時前にロッジに戻る。小笠原氏だけ異常に元気。寅さんは疲れないのだ。バカは死ななきゃ直らないと言うのは本当の事だな。しかし、ロッジ前で小笠原氏が作ってプレゼントした、地雷で足を失くした人が、その特別な三輪車を使って、本売りをしているのにあって、彼は感動して泣いていた。全く、どうしようもない位の寅次郎振りで、このバカを振り切ってしまうわけにはどうやらいかないような気がする。この人物とまるまる十三日も一緒にいたのが一番驚きだぜマッタク。こりゃ本物に近いバカだ。山田洋次に会わせたい位。彼はどんな話も自分のささやかに過ぎぬ体験の話しから始める。中国人のメシの喰い方、いつか何処かで一度体験した話しが、いつの間に中国人論になり変なアメリカ帝国主義論になり、日本論になってしまう。認めても良い事は寅次郎同様に相手の地位、肩書きには何の関係もなく、誰にも同じ事を平気で述べる事だ。何の戦略も計略もない。私心を持たぬバカなのだ。私心を持つ客観性が全く無い。J・グライターが「漫画パースン」というのも、あながち的外れではない。彼の話のほとんどは断言である。「イラクは負けません」「アフガンは立ち直ります」何しろ自分のヒッピー時代の体験を元に、断言を繰り返し続ける。そのしつこさがバカの由縁なのだが、ある一定の品格は無いわけではない。その辺りの事もまさに寅次郎そのマンマなのである。「チョッと言っておきますけんどね」なんて科白はまさに口振りまで寅次郎そのまんま。おまけに、ひろしと言う同名の舎弟まで居て、これも底抜けの間抜け。もう、こちらの気もおかしくなってしまいそうなのも悲しい。要するにこの人物にはもの悲しさがつきまとっているのだ。六十三才にもなって定職も持たず、帰るべきところもあるようで無い。見果てぬ夢は持つのだが、実現する術は全く持たない。しかし、望郷の念やみ難しで、やっぱり日本に帰りたいのだ。家に帰りたいのだと思う。しかし、それがままならぬ。古びたトランクならぬ、ビニールのクズ袋を下げて、いっぱしの六十三才のヒッピーなのである。今はもう居なくなってしまったヒッピーの化石なのだ。考えなくてはならぬ事はこの人物のバカさ加減と、それでも抜き差しならず厳然と存在する、独特の品位なのである。バカの無心さがかもし出す品位である。

 三月二七日
 昨夜は九時半に寝た。夜中の一時半に眼がさめてしまい、このメモを記している。小笠原氏CNNTVをつけ放しで眠りこけている。徒手空挙で海外に出ていった人達がこうやって帰る処もなく立往生しているのを見ているのだ。私のワークショップも立往生しないようにしなくては。学生達の学習にとっては圧倒的に良いのだが、私にとってはどうか確信が持てぬ。二時又寝よう。六時起床ヴェトナム方向の空の雲が不思議な形にちぎれているように美しい。今日も何とか無事に過ごしたい。朝ゆっくりとする。渋井さん今夜日本へ発つので、少し色んな事を話した。何処かで祝い事があるらしく、唄と音楽が聞こえてくる。十二時十五分レンガ積み修了。微々たるものだが明らかに進んでいる事はわかる。水浴びして、昼食。十五時半より「母の家」最終クリティーク。十八時二十四分プノンペン空港、J・グライター到着。迎えに行く。夜、NEWYORK・HOTELという何ともけったいなホテルの中華料理。小笠原さんのおすすめであったが、何か得体の知れぬ味で、ひどいものだった。小笠原さん、イイモノ喰ってないな、コレワ。腹の具合が少々怪しくなっている。夜中トイレに二、三度通う。

 三月二六日
 六時二〇分起床。雨である。昨夜は風も無く寝苦しい夜だった。今日は午前中の仕事は休みにしようかな。やはり、やろう。その為に来ているのだから。朝食は外に出ないで食べた。九時現場。六人の新メンバーを迎えて、レンガ積みも成果が上がるだろう。昼休み四時間含めて十八時までWORK。学生に疲労の色が濃いい。私もそりゃあ疲労の色が濃いい。朝、昼、夕と三回水浴した。千駄木の古本屋夫妻がレンガ積みに参加してくれて、面白い雰囲気をかもし出してくれている。レンガ積みはまだ二日だが、体がもたない。しかし誰もこんな事引き継いでくれる奴は居ないしね。今夜も良く眠れる事だけを望みたい。

 三月二五日
 六時過起床。昨夜はスコールが来て気温が下がり、過ごしやすかった。ヴェトナムの方角から強い風が吹いたが、おかまいなく熟睡した。疲れている。八時半三階テラス集合、三十分のレクチャーの後ひろしまハウスのレンガ積みを始める。それ程暑くなくて助かる。十二時WORK休止。水浴びして、洗濯。レンガ積みの先はまだまだ視えぬが、そろそろカンボジアの職人を入れても良いか。CNNはライブでUS・IRAQWARを終日放映している。情報戦だな。十四時迄昼寝。このゆっくりとした時間の流し方を東京でも出来ればと思うのだが、やってみれば世田谷村なら出来るかも知れないね。畑いじりと昼寝と仕事が併存しているような生活だ。学生にもディテールは色々ある。バカだとしか思えないような男がレンガ積みは上手で、聞けば国連のハビタでフィリピン研修に参加して、そこでレンガ積みを学んでいたキャリアを持っていたとか、更に聞けば国連のハビタでは身内は信用しろと、つまり国連スタッフは信頼しろと教えられたが、現地人とはキチンと距離をとれと教えられたと言う。驚くべき事だ。国連のディテールはやはり怪しい。又、ハイハイといちいちうるさく答える奴がいて、聞けばやはりガキの頃からボーイスカウトだと言う。鈍い女学生が沢山いて、聞けばマア、女学生だという。バカだねこの類の女は年を取ってもロバのまんまなのだろう。ここの午睡はなにものにも代え難い。渋井修とは思わぬ縁で知り合って、沖縄まで一緒して、これからどうなるかは知れないが、信頼したい。そろそろ公的資金を動かす事を考えた方が良いねコレワ。その裏付けは築いた。十六時四五分WORK修了。水浴びして小休後、夕食へ。中里氏共々、小笠原氏の昔話しを聞く。十九時三〇分ウナロム寺院へバイクタクシーで帰る。今日はもっと眠れそうだ。二〇時一度起きてCNNTV。IRAQ戦争はどんな終わり方をするのかな。二三時前又眠る。今夜は暑い。汗がジワーッとにじんでくる。

 三月二四日
 朝三時半起床。昨日のメモを記す。今日は四時四五分起床。五時ティー。五時半山を降りる予定。一週間山の冷気の中で眠る事が出来て良かった。今年の夏は沖縄 - キルティプール- プノンペンのワークショップになるな。金さえ作れれば他に、二人程講師が欲しいのだが、ここまで来てくれる人は少ないだろう。プノンペンの動き方が非常に難しい。取材もあるし、現場を離れるわけにもいかない。トンレサップの河を上って、水上集落まで行ければ良いのだが。小笠原さんのウデの見せ所だろう。
 今日夕方プノンペン着、でスケジュールを作らなくては。二五、二六、二七を作業、二八、二九、三〇を休みにして、いやしかし、三日も遊べない。やはり飛行機を使ってアンコール経由でトンレサップだろうか。隣の部屋で清水さんがゴトゴト音を立てている。本当に変な人だなあ。五時半、宿舎のネワール族スタッフに別れを告げて空港へ。六時過カトマンドゥ空港。ジュニー、東京へ戻る人達と別れてネパール航空チェックイン。空港のセキュリティーチェックが厳しいのに驚く。ボディーチェックも二度。何やかやで、フライト時間八時三五分になってしまった。もう目覚めてから五時間経っているのだな。九時前、何故か飛行機はまだ飛ばぬ。眠くなってきた。一時間遅れで離陸。雲の上にでてもヒマラヤはついに姿を見せなかった。しかし、雲の上を飛ぶと言うのも気持が良いものだな。最後の最後にヒマラヤが顔を見せた。反対側の座席の最年長の参加者鈴木さんを呼んで、見ていただく。ヒマラヤにも少しの情はあるな。この光景を見ないで死んではいけない。エアークラフトは南へ飛んでいる光の中へと飛ぶ。大型のジェット旅客機は実に便利を超えた発明物体だよ。只今タイ時間十五時二〇分。中里氏とバンコク空港中のカフェ&バーでワインを飲んでいる。もう少し、トランジットを過ごす良いスペースが無いものかな。空港中のトランジット・タイムというのは実に現代的な時間、空間のあり方で、そこには情報としては多くがあり実は何もない。空白の時空である。ナショナリティもなく人間は皆通過してゆくだけ。今もこのカフェバーではCNN放送のWAR・IN・IRAQを通じ、流しているが、人々はサッカーの放映に気を取られ、ほとんど誰もCNN放送に関心を示す者は居ない。これが現代の特質だと、ようやく東大出版の原稿の書き出しが決まった。後は早いだろう。十六時四十分バンコク空港三十一番ゲートでCNNTVを視ている。十八時半プノンペン着。暑い。空港よりタクシーでウナロム寺院。居ない筈の渋井さんが居た。いつものテラスで九時には眠ってしまう。

 三月二三日
 今日は実質的にネパール最終日。朝サーヴェイ。及び設計ワーク。午後三時よりプレゼンテーション及びクリティーク。今のところ予想以上の成果が上がっている。五時目覚めて、昨日のメモを記し、ゆっくりと夜明けを待つ。今日もヒマラヤは視えぬだろうが、雲の中に姿を見せぬ、その姿は視えている。ネパールに何度も来ている者の特権である。朝食後キルティプールへ。スケッチ2枚。一人でゆっくり歩き、見る。南のストゥーパには誰もいない。風がそよそよ吹いている。敦煌空港の風を思い出す。バク・バウ寺院境内で休む。三層の楼の最上階の屋根にメタルの鳥がとまっているのに気付いた。何時の時代にも何処にもアーティストはいるのだな。十二時キルティプールに別れを告げ宿舎へ。十二時二〇分着。今日は暑い位だ。雨季に近付いているのだろう。キルティプール・ワークショップは教育的には充二分すぎる成果を上げたと思う。秋のワークショップのプログラムもイメージできるようになった。その他のより実質的な事のイメージは今日のファイナル・プレゼンテーションの五時間の内に、何かをつかんでしまいたい。すでに大体のイメージは生まれかかっているのだけれど、それを順序だてて行く必要がある。木田元(哲学者)が哲学の役割とは急速に進んでいこうとする文明に、このままでは危ないから少しブレーキをかける、もう少しゆっくり行こうと声を掛ける事だと言っていたらしい。キルティプールに、そしてネパールから学ぶべき事もそう言う事だろうとは思う。もしかしたら、日本の近代化には、もう一つの径があったのではないかと、悔やんでみる事でもあろう。十五時ファイナル・プレゼンテーション開始。おばさんチームと子供の遊びをリサーチしていたチームの仕事が質量共に群を抜いていた。しかし、総体的にサーヴェイのエネルギーは見るべきものがあった。これをどうまとめてゆくか、プノンペンで考えよう。加藤が使えそうなので彼女をまとめの中心にするか、おばさんに声を掛けてみようか、思案のしどころだな。晩飯はクリティークが全て終わった二〇時から。二十二時修了。休む。

 三月二二日
 昨夜もよく眠れた。五時に起きて、メモを記す。今日もヒマラヤは見えない。清水さんキルティプールまで歩いてゆくと言う。昨夜の彼の仕事に対するクリティークがこたえたのだろう。大人の意地だね。朝食後学生は自由行動。大半が観光。石山中里鈴木おばさん二人、加藤は車でジュ二ーのオフィスへ。シュレスタと会う。ボドナハ、バクタプール、その他へのツアー。疲れた。十九時半宿舎へ帰る。小笠原さん予想通り泥酔していて、明日のカンボジア行はおぼつかない。チャングナラカン、バクタプールへのツアーは私にはマアそれ程必要なものではなかった。九時学生達キルティプールへ。石山中里小笠原ジュ二ーのオフィスへ。今日は土曜日でロイヤル・ネパール航空のオフィスはクローズ。小笠原氏の明日のフライトも怪しいなコレは。ジュニーと国連スタッフに会う。昼前宿舎のロッジに戻り、シャワー、洗濯。のんびりとした時を過す。ブラマー(僧)階級が使用していたと言う、この民家の周辺を歩く。写真をとる。秋のワークショップの宿舎はここで良いのか考えなくては。カトマンドゥ市内の宿舎はあり得ないだろうけれど。このキルティプール・ワークショップは私の命取りになるか、ジャンピングボードになるか、どちらかだな。キルティプールの手織りのクロスその他を日本で売る事は出来ないか。日本サイドでデザインして、キルティプールで織るとか。夕方学生達に新しい課題を出す。「考える家」学生達はサーヴェイは良くやっている。又、地元の人々にも良くとけ込んでいるようだ。そりゃそうだろう家の中に入り込んで図面をとっているんだから。夜、オーナーの兄貴及びトリブバン大学のシュレスタ教授、ジータ来。私は九時頃寝てしまった。疲れがたまっている。

 三月二〇日
 東京を出てから五日目の朝。二ヶ国を巡るワークショップは相当キツいだろうとは思ってはいたが、ネパールから始めて良かった。人それぞれの思惑はあるだろうが基本的にはネパールの不思議な知識階級の人々や、現場の人々の好意で無事にやっている。昨夜は久し振りに七時間ぶっ通しで休むことができた。今日は中里氏とマザーテレサの家に行く。ストゥーパを修復している現場があれば良いのだが。小笠原さん飲み過ぎで起きてこない。色んなストレスがあるんだろうな。六時に起きて中庭でボーッとしていた。朝の冷気が気持良い。富士市から参加している鈴木さん(六十六才)はプノンペンのレンガ積みを入れたら三回目の参加で、今日はパシュパティナートへさそってみようか。朝のテラスから眺めるキルティプールは美しく平和な風景だが、ここで一生を送る人の日々の生活は僕には想像もつかない。
 九月のワークショップのアウトラインをイメージし始めなくてはならないね。只今七時半。キルティプールはうすいモヤに包まれたままだ。昨日ダウンした学生と話す。やはり精神的ショックで参っていたようだ。それでいいんですよ、ショックを受けるためにここまで来ているのだから。カトマンドゥ盆地に来て初日だけだなヒマラヤを遠望できたのは。キルティプール計画は第一段階で先ず参加者の数を増やす事から始めなければなるまい。その方法を考えよう。しかし、ここまで来てそんな事考えてる自分にホトホトあきれるよ。朝食をすませ学生達は今日もキルティプールの丘へ。石山中里鈴木ジュニーはカトマンドゥへ。建設中のストゥーパの現場位置をジュニーに教えてもらい、パシュパティナートへ。ミニストリー・オブ・ウーメン・チルドレン・ソーシャル・ウェルフェアー・センター、通称マザーテレサ死を待つ人家の取材。昨年来た時に裏の庭園が気になっていたので、花の咲く今を狙ってやってきた。今は二百五人の人がここで暮らしている。開設されたのは一九八一年。それからマザーテレサの参加があったと言うが、私が初めて訪ねた頃はオフィシャルな開設前で、その時はマザーテレサの家と呼ばれていた。裏庭は住人、つまり死を待つ人の手になるもので、それを再び見たかった。一階の居住スペースを全て巡り、二階も全て見た。凄絶としか言い様の無いスペースであった。闇と光、生と死が隣り合わせの場所である。写真をとるのにも勇気がいる。しかし住人は皆とは言えぬがフレンドリーで明るい。どうした事か、終の住処である事は確かなのに。室内の暗さと、庭の光とが凄味のあるコントラスト。自炊をする人がいるのだろう。最小限のキッチン、といってもナベ・コップ・コンロ位なのだが床に並べている人間もいた。食事後ストゥーパ・リノベーションの現場へ。名をダンドゥー・サイ・デ・ストゥーパ・リノベーション。オフィスの人の言では謂われは二千三〇〇年前アショカ王の頃からの事だと言う。本当かね。サンチーのインド最古のストゥーパとはスタイルが大部ちがうが、小さなゲートの形だけはサンチーのモノに似ていた。周辺の小ストゥーパ群の方が古い様な気もする。N・BLaMaカンパニーの仕事。ネワール族のコミュニティーをラマ&セルバイン・ヨールモが支援して建設しているようだ。現場に沢山の女性が土まみれになって働いていたのが印象的だった。中里・鈴木両氏のためにボドナーハのテンプル(目玉寺)に行く。十六時半キルティプールの宿舎に帰る。ここはカトマンドゥと比べて静かで平安だ。十八時頃、学生達チャーターしているバスで帰る。すぐにプレゼンテーション。今日のWORKは皆良かった。具体的なモノに触らせるのが良いのだな。特に早稲田の二七才の学生と日本女子大の三年生の仕事が光っていた。共に女性である。それよりも驚いたのは子供の遊びをキチンと追い続けた二人組(これは男性)とオバさん二人プラス商学部の女学生が入ったチームの女性の生活を追ったモノ。これも従来のサーヴェイの域をこえていてまことに良かった。食後、キルティプール、ミニシパリティオフィスの人二人、すでに顔なじみになった、とオーナーが我々全員にネワーリ族の名前をつけてくれた。彼等は本当に楽しそうにやってくれて、二十二名全員にネワーリの名がつけられた。ちなみに私につけられた名前がキルティプール・バルバブ。私も彼等に名前をつけ返してやった。統一郎、ツヨシ、賢、笑太郎等。二三時前休む。

 三月十九日
 なんと朝三時に眼ざめてしまう。隣の部屋のマハジャン氏か屋根裏部屋の小笠原氏かの凄いいびきが響き渡っている。昨日のメモを小一時間程記し、トイレに行って今四時。今日は五時起床なのであと一時間努力して眠ることにしよう。このワークショップは学生にとっては良い体験になるだろう事を信じたい。五時半出発。六時キルティプール・バク・バイラブ寺院。町中がお参りの人で一杯。女性は左手に金属の小皿を持ち、それに乗せた水、赤黄色の塗料、米を、神々の像や地面に彫られたハスの花だろうかに塗り、供えて寺院中、それこそ町中を供えて巡っている。その人々の動きと供に町中を歩く。北と南の二ヶ所には御詠歌をこれは男だけが唄っている。ありとあらゆるヒンドゥー教の神像はこうして赤く塗りたくられていく。日本の仏像の清々しさと比較すると、その混濁振りが対比的である。仏教とヒンドゥー教の違いか、神道とインド哲学の違いなのか知りたいところだ。現世容認と現世否定、あるいは逃避のちがいかな。花の使い方も日本とは違う。日本ではクキと花と共に供えるが、ヒンドゥーでは花ビラだけ。何故だろうか。バグ・バイラブ寺院に戻ってテンプルの隣の二十人程オジさんばかり集って鳴物入りで御詠歌を唄っているところをのぞいていたら、入れという。入ると、上れと言う。言われるままに上り込み、すすめられるままに席を与えられ、御詠歌の仲間入り。二つの木片のスイカの小片状になったモノを与えられ、それを打ちつけて、御詠歌のリズムセクションを担当してしまう。皆、和やかに目くばせして、排除の風は一切ない。これもヒンドゥー教の根本なのか。何でも受け入れて、キレイに整理しようとはしない。四十分程仲間入りし、煙草までいただき、すっかり気持ちが和やかになってしまう。彼等ネワーリにとってもこれは一種の日々のコミュニケーション手段なのが知れる。宗教はコミュニケーションの便法でもあるらしい。八時半バスで宿舎に。九時着。腹がへって、朝食がうまい。午前中は休息とする。一階の土間のテラスで眠る。陽光が気持良い。昼食後再びキルティプールへ。夕方までWORK。個人差が出始める。新参加者加入。夕方は寒い。夕食前に今日の仕事のプレゼンテーション。ネパールの女性の生活組のオバさん達の仕事が良い。他に二、三マアマアの仕事があるが、低学年の学生のモノはダメ。基本的にエネルギー不足だ。プレゼンテーションは英語と日本語をミックスさせた。ネパーリアンが聞いているから。言葉の壁は日本人学生には大きい。クリティークを一時間程、その後ネパールのシンガーソングライターらしきオジさん二人組が現れて唄とおどりになる。私のクリティークは学生に届いているかどうかは知らない。しかし、させている仕事の水準を下げなければならないねコレワ。二十三時寝る。今日は疲れた。

 三月十八日
 朝四時過起床。昨日のメモを記す。夜はまだ明けず、カトマンドゥ盆地の灯が銀河のように下に見える。ジュニー、キルティプールの人々に感謝する。そう言えばキルティプール市のスタッフにも昨夜面会できて、又歌も飛び出し、おまけに宿舎のオーナーは踊り出すし、ネパーリアンの純朴さを見せつけられた。日本人はこういうモノを失ってしまったんだよね。そんなこと考えている間もなく、今日の仕事の割振りを考えなければいけない。只今五時空は白々ともしていない。先程トイレに行ったが、こんな高地で水洗なんだから、皆感謝しろってーの。六時夜が明けてきた。ヒマラヤが壮大に、余りにも壮大に見える。コレワ、何と、マア良かった。トースト・バター・ジャム・卵・ティー・バナナ・ポテトの朝食を終え、キルティプールの丘へ出発。車で二十分位。途中の村の姿が好ましい。午前中は各自、自由に歩かせる。北東端のテンプルでカトマンドゥ盆地について小レクチャー。十時半より、昨夜割り当てた女性の生活、子供の遊び、水場の生活、樹木と場所、描かれているモノ、ポスター、貼り紙、生産しているモノ、売られているモノのテーマに即して調査を開始する。中里氏と集落を歩き、セルフビルドの取材。余りにも多くの建設の現場があるのに驚く。昼食はバク・バイラブ寺院で。東北の塔はウマ・マヘシュワール寺院、南西のストゥーパはチランデオ・ストゥーパ。中央の低部は旧王宮がある。十三時キルティプールミニシィパリティオフィス訪問。新しいボスに挨拶。皆のアイデンティティ・カードを受け取る。これには少々手間取ったが、仕方ない。その後中里氏と取材。石工のラム・クシュリナ・バンダーリ(四十二才)をウマ・マヘシュワール寺院下に訪ねる。一米二百の長さのヴィシュヌ神を彫っていた。一万八千ルピー程のもので、パブリックな仕事だそうだ。彼の家を訪問、父も有名なペインターで名をワイル・マン・シンフォン・バンダーリと言う。その作品が寝室に飾ってあり、面白かった。オヤジさんの本と彼の作品の小さなカタログをいただく。少しキルティプールの中に入れたかな。午後遅く、キルティプール・エリア内唯一のレンガ工場を取材。日干しレンガを少し石炭ボイラーで焼く製法の工場だった。レンガ工が何故か飲んで、踊り狂っていたのが印象的。七年前にオープンしたファクトリーで大きな規模のモノだった。一日の生産量が四千二〇〇個程らしい。ほとんど人力で作っていて、日干しレンガを頭からのベルトに吊って運んでいる姿や、レンガ作りの現場に子供が放り出されているのを見ると、痛々しかった。キルティプールの建設の中枢だな、このレンガ工場は。十六時半頃バク・バイラブ寺院前のバスに戻る。小雨降る。十七時半全員の調査修了。宿舎に戻る。充実した一日だった。夕食前に、宿舎の土壁に調査した記録を貼らせ、プレゼンテーション。一日の仕事でも能力差が出るな。四組のプレゼンテーションをクリティークする。トリブバン大学のシュレスタ教授、宿舎のオーナーのマドハブ・エル・マハジャン氏も同席。マハジャン氏は五〇〇名の小学生を持つ学校のチェアーマンでもあり、カトマンドゥ市のマンダラ・ブック・ポイントの経営者でもあり、地域の有力者らしい。活達な人で、このタイプの人間は何をやらせても成功するだろう。彼から全員にギフト・Tシャツ。食事は再びダル・カレー。美味である。自家製のアルコールをいただく。シュレスタ教授からもいただく。二十一時学生を寝かせ、私も二十二時過に休む。良い一日だった。

 三月十七日
 朝六時過目ざめる。中里氏とは雑誌の連載の取材を兼ねて来ているのだが、ネパールでマザーテレサの家以外に良い対象が発見できるだろうか。空が白々と明けてきた。あんまり気持の良い部屋じゃないのでシャワーを浴びてロビーに降りたら、まだ六時過だった。部屋のデジタル時計が一時間すすんでいたのだ。時計を持たぬとこういう事があるんだ。食事迄あと一時間皆を待たねばならんな。ホテルには非常にはっきりとした階層性の表現があるな。こんな空港の乗継客用のホテルだってそれが表れている。泊っている客の仕草や服装もそうだ。タイはアジアでは植民地体験のない珍らしい国だが、周囲は皆ヨーロッパの植民地だった。だからヨーロッパの旅行者が多い。アメリカ人よりも。それがオリエンタル・ホテルを世界一のホテルに育てあげた。あのホテルはヨーロッパのアジア・イメージの集積地なのだ。このホテルにはオリエンタルの優雅さはない。しかし、オリエンタル・ホテルとは違ったミドルクラスのたくましさ、ふてぶてしさがある。大きいヨーロッパの女性が自分の身の丈程もある荷物をいくつも一人で運び積み上げている仕草もテキパキとして気持が良い。誰か助けてくれるだろう等の甘えも、期待もおくびにも出していない。十一時過バンコク空港離陸。カトマンドゥに向けて飛行中。二十数名のグループを松本に引率させる積りだった。でも二日間見ていて仲々大変なのが知れた。彼も東南アジアは初めてなので無理もないが、でもこれ位の集団を統率する才に欠けるところがあるな。これは事務所運営と同じで先を読んで動かなくてはならないのだ。この人数をネパール・カンボジアを無事に過ごさせるのは結構大変なのだよ。ベンガル湾の上空でいつも揺れるな。カトマンドゥ空港着十三時過。ジュニー、小笠原、シュレスタ教授、トリブバン大学の女学生ジータが出迎えてくれた。バス・ジープでカトマンドゥ市内へ。ネパールは旧正月当日で、市内は顔を真赤に塗りたくった人々で溢れている。水かけも自由で無礼自在の一日らしい。赤い顔ばかりではなく、銀色に塗ったのもいるし、黒や紫もいて面白い。ジュニーのオフィスで顔なじみになったスタッフと面会。ジュニー、小笠原、シュレスタ教授を皆に紹介する。赤い水をかけられるからと、タクシーに分乗させたのが悪かった。一組四人が行方不明になるが、一時間程して帰ってきた。聞けば空港まで連れていかれたそうだ。マ、戻れて良かった。そんなこんなで予定より遅れてキルティプールの宿舎へ着いたのが十七時頃。宿舎のロケーションは素晴しかった。千六百米位の高度にあり、はるかカトマンドゥ盆地を眼下に一望できる。キルティプールの丘も下に見える。建物は四棟に分かれ、ネパールの伝統的な作りで、ブラフマ階層が住んでいるらしい。内部は土の塗り廻し。テントも数張り用意されていて心使いが嬉しい。テントに若い学生を寝かせ、部屋割をして夕食。この宿舎のオーナーはカトマンドゥで出版社も経営している実力者らしい。キルティプール市の計らいでこのようなベストな場所が選ばれたようだ。昨年の挨拶まわりのお蔭だ。夕食は素敵なダルカレーでしたつづみを打った。皆も嬉しそうで良かった。九時過たき火の火も弱くなったので寝る。今日は満月の日でもあった。終わり良ければ全て良し。

 三月十六日
 五時四十分起床。昨日は忙しかった。結局仕事の区切りとネパール行の準備を終えたのが朝の三時過。家内と朝お茶を飲み、新宿発七時七分のナリタエクスプレスに乗っている。今日はバンコク迄だから比較的楽だな。タイ航空十一時過離陸。成田からの参加者は十五、六名で、何人かが時間にルーズなので、バンコクで注意しなくてはなるまい。一昨日沖縄からの帰路を又、飛んでいるわけで、マアこの無意味さを何とか意味ある事に変えたいとは思う。隣席では写真家の中里和人が眠っている。私も昨夜はほとんど眠っていないので、この人も相当無理してこの旅の時間を作ったのだろう事が知れる。カトマンドゥ盆地のパシュパティナート、マザーテレサの家の、菜園は取材対象としたら良いモノになるだろうが、カトマンドゥ周辺でもう二、三件欲しいね。機中でデヴィド・ハーヴェイのポストモダニティの条件を遅ればせながら読む。この二週間で読了するつもりで持って出たが、次女の友美から黙って持ち出すなと怒鳴られる始末で(実はこれは娘の本)誠に面目ない。長女からもお父さんこれ位の本は読んどきなさいよと忠告されているのだから、誠に恐怖である。四十五ページ読んで頭が痛くなって休む。アト一時間位でバンコクか。十五時四〇分バンコク着。荷物をカトマンドゥまで送ってしまった者がいて手間どり、ホテル着は十八時過。中里氏とヤワラーに食事に出る。オリエンタル・ホテルのテラスでドライマティーニをやって、チャオプラヤの風に吹かれ二十三時前ホテル着。すぐ休む。

 三月十四日
 八時結城渋井さんと朝食。九時頃名護バスターミナル。九時二〇分高速バス発。渋井さんも今日東京へ帰るので同行。十一時過那覇空港着。渋井さんと別れ十一時五〇分のANA82便に空席があったので滑り込む。いきなり時間の流れが変わってしまったな。機内ではウツラウツラしていた。やはり体は疲れているんだ。東京に帰って、二日間は時間の使い方を上手にしないと。

 三月十三日
 薄曇り。船は出るかな。ゆったりとした3日間だった。時間を気にする事もなく、それだからイライラする事も無い。でもネェそれでも老人達には何かが必要だな。小学校で子供に生活術でも教えるとか。朝食コールで起こされて八時飯。食後また眠る。今日はそれくらいのゼイタクは許されるだろう。仲田港は大がかりな堤防護岸工事でコンクリート漬け。これも日本の何処にでもあるコンクリートの風景だ。
 沖縄の老人たちと話し続けていて次第に私の気持ちも少し計り、ホンのチョッとではあるがゆっくり目に、柔らかくなっているようだ。老人達はおのずからなる先生なんだな。十時過民宿まえだを出て荷物を背負って一人歩く。昨夕見つけた仲田アサギをみて、部落の外に出る。サトウキビ畑の丘をゆく。体中が汗ばんで気持ちの良い事。二時間程歩いて港に十二時過帰り着く。特産売店伊是名屋のオジイさん名嘉正博さん(八五才)諸見の聞き取りをするが客が多くてジイさんその対応に追われてうまくいかない。聞けばこの島で最初に行った尚王金丸生誕地の隣に住んでいると言う。話し好きのジイさんだったが心残りだ。神田君見送りに来てくれて一時過ニューいぜな乗船。晴れてきた。なんとか本島には戻れそうだ。十四時半頃沖縄本島運天港着。結城渋井照屋諸氏と再会。名護へ。北部組合事務所でミーティング。今日現在四十九名のヒヤリングを終了した事を確認する。ホテル、チェックイン後夕食に名護の市中に出る。二十一時過ホテルに戻る。

 三月十二日
 朝八時朝食コールで起こされる。東京と北海道にそれぞれ昨日書いた原稿送る。部屋の窓から海風が流れ込み潮騒が心地良い。室内の原稿が残っているな。全くイイ生活じゃないのは解っているのだが、どう変えようもネェなコレは。
 十時過ぎ民宿発。伊是名の山川シゲさん(八六才)。伊是名は美しい集落で、山川さんの家はその典型の一つ。南面し、南に縁側がある。雑貨商も営んでいるので少し計り商品、歯みがき粉、石鹸等の日用品がささやかに並べられている。草いじりが好きで庭は花が咲き乱れている。色んな人が、あの花はナーニなんて聞くらしく柱に花の名前が落書き風に自分で書き込んであり、おかしかった。黒砂糖、砂糖を頂いてしまう。気持ちだって。仲田の山内サチさん(八六才)は二回程うかがって留守だったので良く動き廻る人だと知れる。昼食時を狙って行けばつかまるだろうと十二時過にうかがったら今度は居た。ハキハキとよく話し頭の回転も速いお婆さんで沢山話が聞けた。又もお土産に砂糖をいただく。昼食を終え仲田のゲートボール場でジイさん婆さんを待ち伏せる。十五時からチラホラ集まり始まり、盛時十人を超えた。陽射しもきつく私も気持良かった。真青な海に間近な何とも言えぬゲートボール場であった。十六時頃山内サチさんの紹介で皆に交り話を聞く。伊禮正八さん(七〇才)伊是名老人クラブ会長の話を取る事が出来た。伊是名島の老人クラブは六五才以上八五才以下で総勢三八〇名程。全人口の三分の一を占めると言う。十七時前民宿に戻り、夕方の散歩を一時間程。一人は気持ヨイ。十九時伊是名村役所スタッフと会食。二十三時半民宿まえだに帰る。クタクタではあるが健全だなこの状態は。

 三月十一日
 七時半起床。メモをつけて八時ヤロー三名で朝食。雑談九時半照屋君迎えに来て出発。十時運天港着。私は伊是名、結城さんは伊平屋、渋井さんは本部港から伊江島へとそれぞれ別れる。船は小舟かと思っていたら大きな六百五〇tのフェリーだった。これでしばしば欠航があるとは信じられぬ。建設労働者が多く乗り込んでいる。十時半出港。おだやかだと思っていたら、港の外に出たら風が強く、デッキに出ていたら波しぶきでビショ濡れになった。それでも久し振りに気持イイのでデッキに立ち続けた。バカだね我ながら。十一時半伊是名島仲田港着。村役場の神田さん迎えて下さる。民宿まえだチェックイン。沖縄そばの昼食後、尚王朝二代目尚円王の生誕地、アサギ小屋、井戸見学。歩いていたら老夫婦伊禮全忠さん(八四才)ムツさん(七八才)が種イモの苗を作っていたのでインタビュー。仲田部落の浜里ヨネさん(八七才)インタビュー。続いて伊禮正哲さん(七七才)安(ヤス)さん。正哲さんは前の伊是名村長だった。六五才以上の老人による会社のアイデアを眼を輝かせて聞いてくれた。続いて名嘉政晶さん(八九才)ツルさん(八六才)。十六時予定聞き書き修了。なんとかミニディスクも機能しているようだ。
 修了後神田さんに島を案内していただく。神田さんは兄弟六人で島に戻ったのは次男の彼だけだそうだ。ゆったりとした好人物。大阪で新聞配達の苦労をしていたらしい。十八時前民宿に戻る。今日は伊是名部落の銘刈住宅が良かった。仲田、勢理客、諸見の集落を廻った。十九時神田さん等と食事。〆原稿が気になって飲めない。二十二時民宿に戻り日経書評原稿十勝毎日原稿。沖縄でゆっくり人生の為のインタビューしているのに全然ゆっくり生活じゃない。深夜三時前修了。風呂を使って眠る。

 三月十日
 朝六時半頃起床。ソニーのミニディスクレコーダーのマニュアルを読む。もう使われている言葉にギャップがあるので四苦八苦。簡単なことが難しく書いてある。今日は風も無く良い天気だ。八時渋井さんと朝食。百円ショップで買った腕時計はまだ動いている。百円で時計が売られる時代なんだ。スタイル、アクション、スポーツ、ファッションとバンドに書いてある。クアラという名前らしきもプリントしてある。驚いた。八時渋井さんと朝食。渋井さん山盛りの野菜喰べる。九時半ホテル発。十時今帰仁村仲尾次。渡名喜長栄さん(九〇才)上間敏雄さん(七〇才)。少し広めの伝統的な沖縄の家屋。長栄さんが歓迎の思いを込めて三曲三線で唄ってくれた。この九〇才も畑仕事に明け暮れている。
 昼食後今帰仁村湧川、山城要八さん(八七才)。十六時ホテルうらわチェックイン。朝食付き三八五〇円。海洋博当時のもののようだ。十八時車で四十分程にある恩納村ムーンビーチへ。国建の国場会長他と会食。国場さんは早稲田建築出身で、故木島安史、象の樋口さん等と同級生との事。ホテルは国場さん設計のもので清々しいモダニズム建築だった。御挨拶とこれからの御支援をお願いする。二〇時ホテルに戻る。二三時結城さんはるばる盛岡より到着。変だなァ。カンボジア、東京、仙台から男三人名護に深夜集まるとは。少し話して、疲れ切って眠る。

 三月九日
 五時過起床。荷造りをして羽田まで家内に送ってもらう。八時十五分発のANAで沖縄へ。那覇空港で渋井さんに会えるだろう。考えてみれば今日は日曜日ではないか。なんで飛行機に乗って遠くまで行かねばならんのか不思議だな。家内が怒るのも無理ない。が、仕方ない。十一時頃、那覇着。プノンペンの渋井さんと再会。照屋君とも合流。名護へ。昼食後、今帰仁村湧川、仲松キヨさん八十才インタビュー。淡々とした素敵なオバーさんだった。うちのおフクロも考えてみれば八十四才なんだからこれ位の魅力は充分にあるんだと再認識した。年寄りは素晴しい。賢者の知恵をこれからは生かさねば駄目だ。十七時四十五分ホテル二十一世紀チェックイン。本当に絵に描いたようなビジネスホテルで一泊六千五〇〇円。朝飯付き。十八時半中華料理屋で名護市長岸本氏他と会食。談論風発で楽しかった。市長の娘さんが建築関連の仕事らしく、その話を聞いて会ってみたいと思った。驚いた事に市長以下、ウチのホームページのプリントアウトを持っていて驚いた。昨日のNHK国宝探訪も観て下さっていて、まさに世は情報化時代である事に身につまされた。二十一時過会食を終え、ホテルに帰る。渋井さんと二十二時まで話して、自室に戻る。備瀬の福木並木道と、今帰仁中央公民館を体験できたのは良かった。

 三月八日
 九時前起床。昨夜は三時前まで国連安保理の会議をTVで観ていたので寝坊した。今日は晴れて少し暖かい。九時四十分地下へ。仕事の始まりを十時にしたのでまだ誰も居ない。静かで気持ち良い。地下の醍醐味だな。
 キルティプール計画から安藤を外すのを決めた。昨年キルティプールに同行したのが無駄になったがマ仕方ない。別の人材を育てよう。地下の仕事の担当者方式も改めて見直してみた。
 十七時キルティプール、プノンペンワークショップ説明会。二時間程スライド等を交えて話す。結局ネパール、カンボジア共に松本が私のワークショップのアシストをする事になったが、私も大変だが彼も大変だろう。大丈夫かな。一人の無神経振りが他を不自由にする。

 三月七日
 雨だ。十時TV世田谷村取材スタッフ来るも生憎の雨で屋上菜園は難しいだろう。女性二人だが少し可哀想。何処の職場にも女性が進出しているな。
 十二時半学部長室。再編会議。色々と面倒臭い事になるかも知れんな。建築機械B経営の柔らかい連合を早く形にして固いモノにしなくては。土木との野合だけは何が何でも避けなければならない。十七時半世田谷村ミーティング二十二時西調布中川さん。二十四時半帰る。

 三月六日
 七時起床。九時五〇分大学。経営システム、機械Bとの会合。十三時教室会議。主任より理工学部再編成への建築学科のこれまでの対応経過を報告。一応皆も納得してくれたと思う。土木、資源とは組めぬという考えも述べた。十五時半ペルーの学生来室。JAICAより来年から石山研で研修したいとの事。十六時半、王国社山岸氏来。「石山修武の設計ノート」が出来て、持参して下さった。明るい表紙で、良かった。読み直してみると我ながら馬鹿だが面白いではないか。昔は本が一冊出ると嬉しくて撫でたり、さすったりしていた。今は残念ながらそれは無くなってしまった。自分で自分の本を客観的に、よそよそしく見るようになった。経験は人間をすりつぶす。この本は室内に五年連載していたものを王国社の山岸さんが拾ってまとめたものだ。どうしても室内連載だから、知らず知らずのうちに文章が山本夏彦風になってしまう。私の文章は山本夏彦の域には到底達しようにないものだが、それでも似てしまったのはこの本でわかる。それだけがとり得でもあり、又無念でもある本だ。御購読頂きたい。今は本が売れぬ時代らしいから自分で行商する様な事になるかな。

 三月五日
 十時過地下へ。♯3打合わせ。十三時TVプロダクションルーカス来室。四月より本格的な取材に入る事になる。TVの取材が多くなっているのは良い事なのかな。十七時大学。経営システム機械B(生命工学)会合。二十時半修了。大方の合意に達した様に思われるが油断大敵。建築学科に未来があるとすれば、この組合わせしかない。又、明日十時よりこの会合は繰り返される。土木、資源との連合だけは避けなければならない。明日の教室会議が一つの山場かな。

 三月四日
 深夜二時過ぐらいだろうか、眠れぬままに起き出して憮然としている。原稿でも書くか。こりゃアロクな人生じゃネェな。九時前地下打合わせ。十七時過広尾のフランス大使公邸。宮脇愛子さんのフランス文化芸術勲章授与式。その後鈴木博之夫妻と広尾の日本料理屋で食事。二十二時世田谷村に戻る。
 地下室メンバーに疲労の色が濃いいので、明日からしばらく朝十時夜九時半の仕事時間とする旨伝える。仕事にもリズムが必要だなぁ。

 三月三日
 九時前地下ミーティング。十三時半シャープ研究室来室。代々木上原計画♯12について。十五時半GA杉田来室インタビュー。十六時半西谷先生。十七時半TV取材。二〇時半頃世田谷村。GA用の作業は修了した。少しづつではあるがなんとかなるようにはなってきたか。たった一人でも桁を外そうとするような人間が出てくると地下の様相は一変するのだがなぁ。

 三月二日
 よく晴れた日で、久し振りの休み。梅の木に今日も沢山の鳥が集まっている。ひよどりとむくどりの区別がつかない。ひろしまハウス・プノンペンにアジア母の家ネットワークの事務局を置こう。この三月に連絡事務室の開設準備室を構えてしまおう。
 十一時過台湾中原大学の女学生が来宅。今は台北のインテリア・オフィスで働いているが現実とのギャップに悩んでいるようだ。誰もが対面しなくてはならなぬ壁だ。

 三月一日
 十一時四五分大学で若松氏に♯12プレゼンテーション。予想通り気に入ってもらえた。投資家たちへの呼びかけを依頼する。十三時博士課程入学希望者面接。私のところにはかねて度々面接していたカナダ国籍の中国人。十五時経営システム、機械の先生方と会合。十七時半田園調布千村君宅。佐藤健からの、マ言ってみればカタミ分けの石の幾たりかをお渡しする。何故佐藤健が千村君に石を贈ろうと考えていたのかは知る由もない。安藤を核にした「母の家計画」の始めは千村君に口で描いてもらう書の展覧会にする積りなので千村君にその旨を伝える。障害者の可能性を拡張するものにしたい。ワインをごちそうになる。

2003 年2月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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