石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年3月の世田谷村日記
 二月二八日
 三時頃眼ざめてしまい、このメモをつけて又、眠ろうとする。六時に起きてモール温泉に入ろう。なにしろ体を休ませたい。七時過モール温泉を出て部屋で休む。BBCTVをつけたら、どうやらNYのワールドトレードセンタービル跡地計画のコンペはダニエル・リベスキンドの案が採用されることになったようだ。しかし、これは建てても再びイスラム原理主義者たちに狙われる宿命にあるような気がする。柔らかい朝の光が部屋に指し込んでしばし平穏な時間を過す。今日のスケジュールは全て後藤さん任せだ。
 十一時半車でしばらく雪原を走り百鬼なるレストランで昼食。長芋のパスタとサラダ。食後大樹町晩成温泉へ。海辺にポツリとある町営温泉。十六時ヘレンケラー塔で小休後、スノーフィールドカフェへ。フルコースのフランス料理の夕食。内腹も外腹も一杯で体が重い。カフェは地元のおばさん、おじさんで今日も一杯であった。これは本当に盛況なんだと知った。十九時二五分のJASで只今東京に戻る最中。二二時半世田谷に戻る。♯12のモデルがほぼ出来ていてチェック。このモデルは私の変換点になるかも知れない。

 二月二七日
 十時四五分発の便で帯広へ。機中山本哲士さんと同席となる。後藤健市さんも同じ便だった。昼過ぎ帯広空港着。坂本氏迎えてくれて、スノーフィールドカフェ経由帯広市内のソバ屋へ。何人かの人々が迎えて下さって同席。スノーフィールドカフェは今のところ仲々の評判のようで安心した。北海道ホテルにチェックイン後、再びスノーフィールドカフェへ。コーヒーと六花亭の菓子をいただく。十六時過六花荘へ。雪原の中に点々とコテージが建てられている六花亭ワールドだ。六花亭オーナーの小田豊さんが雪の林で迎えて下さった。幾つかのコテージを案内していただき、六花荘へ。小田さんはおおらかな人で、今輝いているな。周囲にエネルギーを発散させている。風呂に入り、ゆかたに着換えて飲み始め談笑する。小田さんにいささかの案づくりを頼まれた様な気もするが、定かではない。美しいトルコ製の器をいただく。上海からの紹興酒が美味だった。二一時過小宴を終え、北の屋台経由そば屋ぎんがへ。オヤジの元気な顔を見て北海道ホテルに戻る。二三時前ホテル内のモール温泉にゆっくりとつかり寝る。今日は小田さんに会えて良かった。

 二月二六日
 梅の花が満開だ。餌付けに成功して鳥が沢山やってくる。うぐいす、めじろ、すずめアト図体のでかいムクドリ。それを狙って猫が梅の木に登っていたりで面白い。人間社会と似ているよ。気の弱い鳥は常に遠慮がちで他の鳥が去るのを待っているし、図々しいのは人が間近に近寄ってもエサから離れようとしない。目付きの悪いのもいるし、ホーホケキョと唄えないうぐいすもいる。九時前地下へ。少し色々と考える。今、建築に必要なのは速力だな。十四時過大学。カンボジアの渋井修さん来室。沖縄計画に参加していただくのでのその打ち合わせ。渋井さんは三〇年前、つまり日本復帰前の沖縄特に八重山諸島西表島を知り尽くしているようだ。二〇代に六年も住み暮らした体験がある。先日私も訪ねた本島北端の集落奥にも行った事があるという。聞けば当時の過激派の連中が奥を拠点に農業で自立を試みようとしたらしい。渋井さんは赤軍派とは何の関係も無いが、それと知らずに、問われるままに沖縄の事を教えてやったらしい。その連中が奥に集まっていたので会いに行ったらしい。誠に奇異な巡り合わせである。6年住み暮らしただけあって渋井さんは私等よりズーッと沖縄を知っている。今日プノンペンから東京に来て明日早朝に石垣島経由で西表島へ入る予定。その後三月九日に那覇で私と会い、北部、離島の調査に同道していただく予定である。十八時半学芸大学にてオプコード野辺公一、東大松村秀一と会食。久し振りで楽しかった。石山修武を癒してあげる会だった筈なのだが、そんな内容では全く無かったのが嬉しい。昨年幾たりかの友人を失い私が少し計りめげているのではないかと思いやってくれての会だったのだが、友人から同情されて喜ぶ程俺は柔じゃないぜ、まだ。
 二三時過世田谷に戻る。#12オープン・テック・ハウスのモデルを見る。少し何かが足りないな。

 二月二五日
 九時前地下。♯12、聖徳寺打合わせ。十二時過大学。十四時読売新聞インタビュー。十五時早大演劇青年再来。新三年生建築展委員長来室。女性だった。驚きもせぬが、どうなるのか。十六時陸海来室。博士論文テーマは中国内移民住居の研究とする。良いテーマだ。夕方世田谷村に戻る。夜久し振りに地下で小宴。

 二月二四日
 九時前地下ミーティング。十一時教室会議。十四時学会批評と理論小委員会。磯崎鈴木隈五十嵐他と会合。磯崎さんは本格的に中国への関心を深めているな。十七時大学へ戻り、土木資源との会合に出る。彼等とは気質が全く異なる事を会合の空気に嗅ぎ取る。連合はあり得ない。西谷先生とソバ屋で一杯飲んで世田谷に戻る。地下でお茶を飲んで上へ。よく解らない一日になってしまたのは土木資源の教授方と会合してしまったからだな。明日はチョッとはましな日にしたい。

 二月二三日
 〇時半世田谷村に戻る。二時前前後不覚もなく眠る。十一時半まで眠った。今日は日曜日だが昼過ぎには地下スタッフが仕事に来るので、対応しなければ。十三時地下へ。二、三指示する。十六時前原宿表参道ハナエ森ビル5Fで長女徳子が何かやると言うので家内と出掛ける。ユタ州のインディアン居留地の核廃棄物問題について徳子の二〇分ほどのレクチャーを聴く。二〇分では伝えられぬ内容である事は解った。ブッシュ政権に対する見解等話の処々に彼女の反体制の姿勢がにじみ出ていた。将来苦労するだろうが満足であった。十七時過世田谷村へ戻る。安藤達の仕事を見て十八時前修了。皆を帰した。何せ今日は日曜日なのだ。少しは休みなさい。
 十八時半家内と二人だけの食事。
 夜、新潮社より送られてきた山本夏彦の「一寸さきはヤミがいい」読む。拾い読みしていたら、止められなくなって熟読した。「一無名選手死す」山本春樹さんは山本夏彦の実の兄で、その兄上の死を書いたのが私には良かった。夏彦さんの本性(あったのか無かったのか知らぬが)が少し計り視えた。山本さんの実物は居なくなったがどうやら彼はやはり生きてるぜ本当に。知り合い、友人の幾たりかを失い、私もようやく「別れ」というものの実体に触れることができるようになったのかも知れぬ。マ、それ程偉そうな事言うのも野暮だけれど。
 毎日新聞より昨年の座談会「阿弥陀が来た道」ゲラが送られてくる。当然佐藤健の本として出版されるようだ。手を入れる事なく送り返す。

 二月二二日
 七時起床。今日も快晴、風も無く名護の海は静まり返っている。第一回の沖縄聞取り調査は四日目の最終日。朝食後チェックアウトして九時ホテル発。北へ。一〇時国頭村浜へ。木下フジさん(八四才)大城ミヨさん(七七才)島袋ミエさん(七六才)インタビュー。にぎやかで元気なオバさん達だった。「一人でもの想いにふける事は病を得るのと同じ」だユンタク(おしゃべり)はアゴの運動だけれど健康には効能がある旨を力説された。木下さんは午後にうかがう奥の生れで、兄さんも教員であったとの事。その給料は二六〇円でタバコ代と同じであった由。昼頃インタビューを終え再び北へ。沖縄最北端の辺戸岬へ。岬のレストランで決して美味とは言えぬ沖縄ソバを喰う。アメリカ人がグループでバイクで乗りつけていた。塩味がきつくて喰える代物ではなかった。十三時過、沖縄最北端の集落「奥」へ。資料館で宮城正男さん(九〇才)に会う。まだまだ美しさの残る集落だった。海太郎の「品格のある町づくり」晶文社が資料館の本棚にあり、この集落に勉強好きが多い事が知れる。インタビューは結城さんに任せて、奥集落の実見に出た。二月だと言うのにカンカン照りの真夏陽の光が集落に溢れ、小路には異常な静謐さが溢れ返っていた。私の七、八才の岡山の故郷にあった抜けるような静けさと酷似していた。好きなんだナァこの雰囲気は。海に面した奥、中・小学校はデザインは悪いが、その位置、大きさ共に良かった。この学校が奥集落では大きさ、風格共に一番であった。それがいい。人材育成に集落の将来を賭けているのが歴然とわかる。スケッチをして一時間後に資料館に戻る。
 インタビューは良い結果を得たらしく、やはりこの奥集落が沖縄の共同店舗の始まりである事、相互扶助のシステムによっていた事が判明したようだ。三時間かけて那覇に戻る。二〇時五五分のJAS最終便で東京へ。只今二三時三五分東京駅より中央線車中。深夜なのに車中は人がいっぱいだ。沖縄の奥集落の静けさがもう夢のように思えてしまう。

 二月二一日
 朝四時半起床。二〇日のメモを記す。六時まえに再び寝る。七時半起床。沖縄の老人達と比べると俺は卑弱だ。体をもっと使うようにしなければ。九時HOTEL発。十時頃東村にて三名インタビュー。私は高良輝忠さん(九八才)おしゃれな老人であった。後で聞けばコロンビアの歌手体験もあった人との事。本人はそんな事おくびにも出さなかった。第二次世界大戦の折、高良さんは東村の戸籍係になっていたという。戦前、戦後の境目で戸籍が全て消失して、その失くなった記録を復元するのが高良さんの仕事だったと言う。謂わゆる東村住民の記録の復元係であったと言う事だ。毛筆で一つ一つ全て記し直したらしい。それで東村の人々の歴史を全て把握してしまった人物だ。事実は小説よりも奇なりと言うが、まさにその通りの人物っであった。オシャレで少しばかりのテライもあって素敵な人物であった。十三時名護市に戻る。岸本市長と面談。三〇分程二度目の挨拶であったが、和やかで良かった。挨拶は人情の極北だな。市長は早大出身で、白井総長が沖縄振興審議会会長に就任することの内定を伝えた。要するに私がこのプロジェクトに力を尽くすというのを伝えたのだ。
 その後再び北へ。十六時頃国頭村安田、古堅昇さん(七八才)宅。聞き書き。弟さんは衆議院議員古堅実吉氏との事。安田はまことに平穏なところだった。二〇時過名護に戻り、食事。二三時過HOTELに戻る。今日も良い一日であった。

 二月二〇日
 六時半起床。六〇才になって入学できる学校。六〇才以上の方々で運営する会社。コミュニティのエリアにある程度の集団で自給自足可能な農園の実現。ハイテック介護カーetc、結城さんとの雑談から生まれたアイデアである。これだけで結城さんを沖縄に呼んだ価値がある。今日は幾つか表敬訪問した後百才のおばあちゃんの聞き書きから本格的なスタディを始める。
 八時四五分ホテル発。九時過北部広域市町村圏事務組合訪問。十時三〇分名桜大学訪問。十一時半大宜味村笑味(えみ)の店金城笑子さんインタビュー。十四時奥島ウシさん菊枝さん母子訪問。ウシさん百才。菊枝さん(七四才)のお話を聞く。百才の人間に会うのは初めての事だ。が、会って、その見事な存在感に圧倒された。私なんかは百才から見れば高尾山程度の低いジャリ山だな。八十才まで魚売りをしていたそうだ。この人物の見事なのは全く事実しかしゃべらない事だ。アリのママの言葉が連続している。私や結城さんの言葉はチョッと抽象的で事実から浮いている。途中でそれに気付いて私はインタビューを止めて、ただただ聞き役に廻った。なにしろこの大人物は良く仕事する人であった。二二才で鹿児島に魚売りに行ってから百才の今まで一途に仕事してきた。今でも天気が良ければ畑に出ているそうだ。友達が皆いってしまって時にあっちに行きたいと思う事があるけれど、それでも畑に行きたいと言う。そう言えば、先ほどの笑味の金城笑子さんのインタビューの合間に、道をへだてた畑に行ったら、金城弘安さん(七四才)に会った。畑仕事を黙々とやっていた。八十四、五はもちろん、九六才も畑仕事は現役だと言ってた。畑と言っても本当に猫の額程の三〇m2せいぜい五〇m2程度のもので、猪が食い散らしにくるので対応が大変ならしい。その畑でウシさんは倒れるんじゃないかと菊枝さんは言った。インタビューの間、菊枝さんはずっと敷居をへだてた次の間で正座して、母ウシさんを見上げていた。七十四才にして娘のママなんだ。なんだかウシさん母子の話を聞いているうちに、泣けてきたな。自然に。山本夏彦のきらいだったアイダミツオじゃないけれど、人間百才まで生きたら凄いモノになるんだなと了解した。ウシさんは鉄人ルーテーズだ。十六時大宜味村喜如嘉。インタビュー相手のじいさんたちはまだゲートボールの最中だったので、芭蕉布の工房を見学。十七時平良仁松さん(九三才)稲富吉雄さん(八五才)福地善次さん(七六才)稲福肇さん(七二才)のインタビュー。ジイさん達はウシさんに比べると皆可愛いい。皆さん大工あがりの方々だった。今までは旅に出て仕事をしていたが、これからは若い人に仕事がないのが心配だと言う。平良さんが毎朝犬を連れて散歩に出て、流木を拾ってきて何か作っていると言うのでお宅にうかがった。庭や納屋に沢山のオブジェが作ってあり、小さなシュバルの趣あり。元気そうにしているが、九十過ぎの平良さんには一人の辛さが押し寄せていたな。でも平良さんのミニシュバル宮殿にうかがえて良かった。十九時過名護の喜瀬ビーチホテルに戻る。今日のまとめのミーティングと明日の段取りをして食事へ。

 二月十九日
 午前中沖縄計画の基本方針をまとめる。本格的にハードな「箱」と呼ばれる建築世界から一歩踏み出すプロジェクトにしたい。生活空間生命維持システムのデザインという事になろう。経営システム、機械B(医療ロボット)のメンバーと組んで大きなスケールのプロジェクトを組立てるつもり。白井早大総長の沖縄振興審議会会長就任も内定しているので、沖縄の為に役に立てよるようになるだろう。今十七時前ANA89便で沖縄へ飛んでいる。隣のシートでは結城登美雄さんが眠っている。GAHOUSESのプロジェクトに沖縄計画のエキスになるようなプランを出す積り。そのスケッチをする。このアイデアは北海道でも成立するな。ヘレンケラー塔の増築セミナー棟や六花亭への提案にも適用してみよう。一時間半ほどスケッチに没頭する。十八時五〇分頃那覇空港着。国建で打ち合わせ。食事後名護へ。二三時喜瀬ビーチホテル。結城さんとビールを飲んで雑談。雑多でしかなかった考えが少し焦点を結び始めてきた。

 二月十八日
 今朝三時まで室内原稿。本日校了なのに何を書くのかを決めたのが昨夜の二十三時過だったのだから何をか言はんやである。藤森照信の故郷から来たデッカイ丸太の事を書いた。深夜三時に室内にFAXと思ってよもやと思いながら電話したら長井が頑張っていた。すまネェと思った。〆日が過ぎないと書けないというクセは、しかしもう直らないだろうな。十六時半白井総長と会う。十七時半シャープ大河原本部長。

 二月十七日
 八時二〇分地下へ。朝の光の中で考える。今週から沖縄へ定期的に行く。光嶋八時半出所。十四時入試空間表現採点。古谷先生の「大笑いする人を描き背景を紙を丸めたモノをデザインせよ」という出題は大ヒットだった。受験生が皆試験だと言うのに楽しんでいた。総合的に点も高かった。その後計画系でチョッとした会議。意見を交換する。

 二月十六日
 朝八時前大学へ。入試の監督で今日は地獄だ。受験学生の欠席者が少なく、世相を反映しているな。無駄な受験が出来なくなっている位にそれぞれの家計が苦しいのだ。日本は本格的な氷河期に入るぞコレワ。早稲田建築は冷徹な戦略を組直さなければ衰退してしまう。入江正之先生に就職の現状を問えばゼネコン設計部、組織事務所への就職希望がほとんど無く、あってもどうも二番手三番手クラスの学生だけのようだ。一時期大手五社の設計本部長は全て早稲田卒で独占するような状態が続いていたが、どうもそれも危うい。一番手は皆海外へ流出するかプータロー状態を選択してしまう。日本に希望が無いからだろう。かと言って建築家を輩出するような状態では無い事は歴然としている。何とか若い世代に希望が視える筋道を示さなければならない。優秀な人材が皆ドロップアウトしてしまう。しかもドロップアウトして生き抜けるような力は無いのだから事は深刻である。その筋道はどうしても建築そのもので示さなければならぬのも理の当然だ。

 二月十五日
 昨日は夕方経営システム学科の先生方と会談。理工学部再編の件。二〇時豊で難波和彦と飲む。だんだん話せる人が少なくなってきたが、それも自然な成行だろう。
 今日は午後三時半よりアフガニスタンのカブールから二人の女性が世田谷村に来た。ホメイリア・ノマーニさんとファウツィア・ユーシフさん。タリバン政権崩壊後、アフガンの女性教育が復活した。それを荷う人たちだ。二人とも教育学教授。日本政府の支援もあって、日本の五つの女子大学が招いた。彼女達を一日家内が招待して二〇名程のパーティとなった。我家の女は三人共皆日本女子大学卒で、高校時代の恩師六十六才神田先生もお見えになった。あんまり話しは出来なかったけれど神田先生は素敵な物腰の女性であった。アフガニスタンの女性達には私も少し計りカルチャーショック。簡単には打解けようの無い人達だよね。そりゃそうだろう。アフガンの歴史は厳しい。カンボジア・プノンペンの小笠原さんも駆けつけて来て下さった。パーティ後、小笠原、安藤と宗柳へ。ネパールでお世話になった御礼。ナーリさん酒呑む手が大きく震えて、酒をこぼしてしまう。心配をはるかに通り越している状態だ。いい人は皆、精神が柔らか過ぎて、外の固さ、冷酷さに負けてしまうのだ。

 二月十三日
 十一、十二日連続で修士論文修士計画の発表審査会。石山研の安藤由紀子の修士設計が早稲田建築大賞を受賞。佐藤瑠美子が奨励賞を受賞した。今朝は八時半リーガロイヤルホテルで西谷先生と待ち合わせ及び少しの打ち合わせ。九時半理事会にてプレゼンテーション。昼過ぎ理工学部へ。二時博士論文審査分科会。十六時内閣府来室。大津文化庁の海外留学制度に合格。一年間メキシコ行決定。博士課程陸海来室。Dr 論文テーマを中国の開発移民の問題に絞ることを決定。この問題は中国内の難民の問題でもあるので私も興味がある。勉強しよう。陸海もようやく本来の問題に辿り着いたようだ。

 二月十日
 六時起床。マイノリティのデザインの可能性についての考えが少しまとまりかかる。モダニズムの抽象性に対して、人間の生命の個別性、複雑性すなわち生命体そのものの具象性を考究する必要がある。それは同時に生活への視点でもある。一見でたらめにしか視えぬ自然の様々な形象への新しい見方でもあろう。人間の形には深い必然がある。その生命体、あるいは生命群とモダニズムの形との関係はそれほど深い関係を持ち得ずにいる。科学そのものの進歩が人間の生命と離れて外へ外へと外延してゆくばかりであったからだろう。
 二〇世紀は戦争の時代でもあった。宇宙空間への強い関心はある意味では激しい競争を生み出した。それは国家間の新しい形での戦争でもあった。スペースシャトルの悲劇的な事故、一昨年の九・一一の事件は小さな戦争でもあったのだ。難民の問題、エイズの子供達その他諸々我々は新しい問題に対面している。これ等の問題は考えを極めれば生命そのものへの新しい視点を我々にうながしているのではないか。かつてバックミンスター・フラーは世界各地にうえて死ぬ子供達がいるという現実にたいして一つの考え方を示した。空輸可能な軽さを持つ構造物へのヴィジョンである。その後の建築的試みにはそのような事例はない。
 フラーの試みはヒューマニズムとアメリカ型の合理主義とが結びついたものである。今、世界で起きている諸々は素朴なヒューマニズムだけでは解決できぬ。しかも問題は近代化を達成し得ぬ地域、国家にだけ発生しているわけではない。むしろ成熟した消費社会に辿り着いたと思われる地域で生まれつつある問題の方がより深刻であるのかも知れない。日本の都市の現実は深刻である。その問題と対峙するにはモダンデザインを生み出した近代の考え方では不充分なのだ。人間の絶対的矛盾をも含んだ生命体組織への強い視差が先ず必要だろう。生命体をなぞるが如き手付も不可欠である。現在の科学技術の進歩そのものがそれらをうながしている。

 二月九日
 四時過眼がさめてしまう。困ったものだ。長い眠りがとれないな旅に出ると。今日は帰りに名古屋に寄って地鎮祭に立会う。今、六つの現場が動いているが何とか乗り切りたい。

 閑谷学校メモ
 閑谷学校の価値は次の三点に集約される。
一.創始者池田光政の遺髪を収めた墓所が学校近くにあり、光政の理念でもある儒教を表象する聖廟すなわち孔子廟が学校内にある事。又、池田公を奉る閑谷神社がそれと隣合ってある事。学校の理念と伝統(歴史)が眼に見えるモノとして校内に存在する事。
二.光政が選んだ場所と学校の諸々の建築が良く調和している事。自然と人口が節度を持って併存している事。これは学校を囲む石垣の高さに負うところが多い。火除山のランドスケープの妙も見のがす事が出来ない。様々な樹木の配置の妙も見逃せない。
三.津田秀忠の才がそれを成し遂げたのだろうが江戸期の建築にありがちな工芸趣味による過剰なモノが良くしりぞけられ、質実剛健なたたずまいになっている事。特に講堂に良くそれが表れている。津田秀忠の土木事業家としての実際家、現実主義者の匂いがそれをなさしめたのだろう。建築と土木とがそれによって見事に融合している。
 今の日本の様々な建設工事にはそれが見受けられぬ事が、閑谷学校の総合性から、逆に良く見えてくる。
 以上を要約すると閑谷学校が場所の特性を、時間(歴史)の中に融合させた名品である事が良く理解できる。

 ホテル一階で朝食をとり、歩いて岡山駅へ。八時前プラットホームで汽車を待っている。そう言えば今日は日曜日だな。只今九時半のぞみ6号は関ヶ原を過ぎた。名古屋で名鉄に乗換え十一時前本星崎。十一時過地鎮祭。浜島親子と神主とたった五人の式だった。残した母屋がポツンと町並みに孤立していた。去年の夏だったか、この家をスケッチした事があって、その絵の状態は今は無い。又、風が吹いている。敦煌の空港前のガランとした広場にも風が吹いていたよ。十二時浜島さんの仮住いでお昼をいただく。 医院部分の平面を少し変更する。やはり少しでも手を入れないと平凡なモノになってしまう。油断大敵。十四時過のひかりで東京へ。十七時過世田谷村に戻る。

 二月八日
 四時過起床。閑谷学校の学習。五時半修了。少し眠って七時朝食。八時出発。高曇りで薄陽は指している。九時閑谷学校着。撮影開始。五つ位のシーンをとる。沢山の観光客がいて、照れるかなと思ったが、我ながら平然とやれた。感受性が鈍くなっているんだキット。十二時前修了。黄葉亭を見て昼食。備前市長と会う。十五時前岡山のホテルに戻り、少し眠る。色の無い閑谷学校も又良かったな。人に感動してもらえる建築を作らなければいけない。池田光政、津田秀忠のそれぞれの理念、努力は閑谷学校を介して現在の私達の心を打つものになっている。今更言うまでも無いが建築は努力を傾注するに足る仕事だ。その事を確認できただけで岡山に来た甲斐がある。近代建築様式にこだわる事も無い。建築というスタイルにさえこだわりを持つ事も無い。全てのこだわりを捨てて自由に自分を表現してゆきたいものだね。もうそろそろそれは出来るだろう。
 十九時小林さんと食事に出る。番組作りの事等色々とうかがう。

 二月七日
 昨夜は堀川を徹夜させたので、私も早朝に起きてその仕事を見る。十時前ののぞみで岡山へ。只今十二時二五分大阪である。ウトウトと眠ったり、メモしたりで久し振りに良い時間である。やはり一人が一番よいかな。十三時過岡山駅。駅前ホテルで小田のおじさんとあって佐伯町へ。おじさん七三才になったそうだ。しかし足どりもしっかりして元気だ。車の中で閑谷学校生活について話しを聞く。朱子学のメッカであったから、おじさんが学生当時は韓国からの学生がクラスで三名もいたそうだ。又、あの有名な石垣に登ったら退学であった事、今は国宝の講堂での聖教の時間の事など興味のある話を沢山聞けた。途中母方の墓の墓参り。仏壇にお線香をあげていたらかもいの上の祖父祖母亡くなったおじさん達の写真その他が眼に入り時間の持続性を感じた。十六時五八分和気発三原行の電車で岡山へ。岡山駅から数ブロック歩いてエクセル岡山HOTEL十八時チェックイン。いかにもな地方都市のビジネスHOTELで気持も冷える。岡山市の目抜き通りを歩いてきたのだが人通りも少く冷えついていた。しかし、こんなもんなのが日本の現実なんだろう。都市は廃墟化しつつある。エレベーターでNHKの小林さんに再会した。ホッとする。やっぱり知らない都市で独人というのは気持が固まっていたんだな。岡山城が真近にライトアップされて浮き上がっている。二十二時NHKの人たちと会食を終えホテルに戻る。楽しいメシであった。人それぞれに苦労を重ねてきた人には味があるな。内閣府よりホテルに連絡が入っていた。
 何処かで私のスタッフの水準を守らなければならないのは理の当然である。覚悟して私が全部考え全部動くというセオリーを貫くのか、任せられるところはある水準を設定して任せるのか、決断のしどころだろうな。ともかくスタッフの問題が私のアキレス腱の一つである事なのは確かだ。

 二月六日
 早朝三階の私の場所から東の空を眺めている。力不足で出来ずにいる諸々の事を憮然として朝の光の中で考えている。何でこんなに出来ないのかなあ。
 八時半地下。光嶋が今日聖徳寺現場の梅沢さん配筋検査に立会う準備をしていた。少しは役に立ってくれ
よ。GAHOUSESの展覧会に出すプロジェクトを検討する。代々木上原の物件をやることに決めた。  十二時大学。早稲田の演劇学生が相談に来室。聞けば劇団を主宰していて十三、四名なのだと言う。早稲田界隈に小劇場を作りたいので場所その他相談に乗って欲しいと言う。金はあるのかと問えば案の定ありませんと答える。かじれる程の親のスネはあるかと尋ねれば、これも又ないと言う。二、三年たったらNPO立ち上げて地域文化の興隆を担いたいと白々しい事しゃべっているので、これはただの頭脳のサハラ砂漠状学生だと知れた。北海道富良野の倉本さんの演劇塾の事など持ち出すのでアアこいつは北の国からとかのTV視過ぎの人間だとも知れた。でも流石に可愛そうになって劇団員五人程の家賃を合わせて幾らになるのか計算してみる、十五、六万円か。それならその家賃で床か空地を借りて共同生活して、その共同生活の場を小劇場にしたら良いと教えた。ああ、それならできそうだと帰った。研究室のサハラ砂漠達が早稲田通りの空室を調査しているのでその情報を十日程経ったら知らせてやろう。聞けば早稲田には今七、八百の演劇集団があると言う。それで成功するのは三年に一つ位の確率だそうだ。しかもその一つも大体外に出て一年でつぶれてしまうらしい。建築家として成功する確率より低いのだな。十三時教室会議。十五時万年筆に関してのインタビュー。十六時設計製図担当のミーティング。十七時過日建設計橋本専務来室。会食。二〇時半世田谷村へ戻る。二十一時半プノンペンJAICAの中根氏フランス人女性を連れて来宅。プーケット島に豪壮な屋敷と広大な土地を持つ女性らしい。地下で又もやゴビ砂漠状態の人間達が問題を起してあきれ返る。マイナスエネルギーが地下にはびこっているのだがその震源地は何処か。

 二月五日
 七時起床。森の学校の設計をまとめる時期になってきた。厚生館の方も動くようで楽しみになった。今のところ健康でよく体も動けるのでその点は身近な人に感謝したい。十四時大学。学部大学院のレポートを九〇センチメートル分の厚さを読む。それでも五、六ケ面白いのを見つけた。学生(ガキ)の書くものでも面白いモノは時にあるのだ。二〇時まで、ぶっ続けに読んで採点する。頭のシンまで疲れ果てる。二〇時半新大久保駅前のソバ屋で一杯飲んで世田谷村に戻る。二三時前松本向井が残っていて談笑。

 二月四日
 朝八時三〇分地下に降りる。底冷えして気持ちがよい。独人でボーっとしているのも良いモノだ。何考えるでもなく。こういう日常の退屈さに耐える、あるいは楽しむ力が私には弱い。そう思って始めた筈の屋上菜園も我ながらあきてきてしまった。十時大隈講堂卒業設計公開講評会。二川幸夫氏等来ていただくも作品が余りにも低調で盛り上がりに欠けた。十六時半総長室。四五分白井総長と共に官邸へ。十九時前弁慶橋の料亭で会食。西谷主任も交じわる。二一時終了。二二時半世田谷村に戻る。十二時前上る。
 何でこんなに早稲田の為に動かねばならんのか、自分でも理解に苦しむが仕方ネェか。

 二月三日
 朝地下打合わせ。病欠が多い。十三時大学学科会議。その後西谷主任と打ち合わせ。二一時過世田谷村に帰る。

 二月二日
 午後山口勝弘さんのところへ行くつもりでいたら、まだ先生の芸術的実験が終了していないからと延期になった。午後ポッカリ時間が開いたので、大学関係の書類が作成できた。こういう空白は助かる。来週NHK取材で岡山閑谷学校へ行くのでそれの勉強を少し。十八時半閑谷学校の勉強は一区切つく。マ、勉強は嫌いじゃないね俺は。

 二月一日
 八時渋谷。中里和人と待ち合わせ、地下室スタッフと共に静岡山梨取材。一〇時半清水市。井木堅一さん七九才のガレージ見学、聞き取り。四〇年かけて二〇〇坪程のガレージのブリキの屋根にセルフペインティングしているモノを取材。誰も屋根に描かれた不思議な抽象画を見る者は居ないのに、コツコツと延々と錆び止めの為のカラフルなペインティングを続けた果ての空飛ぶじゅうたんだった。実に面白い。天空から神だけが見てる巨大な絵だな。由比ヶ浜の倉沢屋で桜えび丼の昼食をとり、52号線を北上甲府へ。十六時井上和弥氏のセルフビルドのコンテナ建築に到着。各種コンテナ三個を組み合わせた建築を取材。錆びたブリキや古材、そして山の中に捨てられていたオート三輪車等をブリコラージュしたもの。一九六六年生まれの井上氏のワビサビ屋は、若い人達に芽生えているような、廃屋趣味のようなものが上手に表現されていた。何なのかなこの古く滅びゆくモノに対する愛着の素は。総工費が二二〇万円というのには絶句したが、義理の父親が大工で友人達が四ヶ月手伝ってくれたらしく、その人件費を計算するとどうなるのか。水道屋に百万円ぶったくられたのが口惜しいと言っていた。そうだろう総工費のほぼ半分を水道屋に持っていかれたら誰でも唖然とするぜ。しかし、この小建築は世田谷村の地下の仕上げの方法に参考になる。二十二時前世田谷村に戻る。今日は一日で大きく富士山を一周したな。清水の井木さんからいただいたゴミ取り、大小、眼鏡入れ、風車付のオブジェなど持ち帰る。明朝屋上にセットしよう。
 深夜十二時半くらい、ニュースでスペースシャトルがテキサス上空で爆発らしいの報が伝えられる。セルフビルドのコンテナ建築を取材した後でこのような大事故の報に接すると、私たちの技術信仰の危うさを痛感する。宇宙に出て、そこから帰還するという高度な先端技術はどのようにして私たちの日常生活に反映され得るのだろうか。それに費やされるエネルギーの総量の一部が日常空間を作る道具の開発に向けられたなら、生活空間の作り方、変化のさせ方はどれ程自由になり得るか、計り知れぬものがあるだろうに。

2003 年1月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
サイト・インデックス

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory ,1996-2003 all rights reserved
SINCE 8/8/'96