石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年5月の世田谷村日記
 四月三〇日
 朝院レクチャー。先端技術特論。先日のドイツ、バウハウス大学、ドレスデン大学と同じ材料を使い話した。午後三時演習G。修了後三年建築展グループと話す。何がしてやれるか覚つかぬが、今年が教育の最期だと思ってやってみる。そう言えば沖縄での老人達のロングインタビューを出版しないかと言う。有難い話が来ていたがどうなったかな。自分の周辺情報も把握し切れない現状は恐い。

 四月二九日
 茅野角大製材所へ行く。TV局取材もかねる。栗の樹の育っている山へ登る。急斜面で仲々の所であった。二ヶ所で栗材を見る。朝山さん同行。そう言えば今日は休日なのだが今日も休めない。

 四月二八日
 七時過起床。昨夜も良く眠れたので時差は解消か。朝久し振りに屋上菜園に上る。今日はこの菜園の日経の取材がある。ブルーベリー、ラベンダーが咲いていた。そろそろ屋上デッキも貼りたいのだが、時間が無いし、体力もない。今日はここでゆっくりしよう。体を少し休ませなくては。

 四月二七日
 十六時三〇分過。あと一時間程でNRT。ヨーロッパは近くて遠い。今日中に十勝毎日の原稿を書かなくてはいかんな。NRTに着いたらベーシーの菅原に電話してみよう。六時〇五分のリムジンバスで新宿へ。そういえばここ五日間は完全にTVも新聞にも接しなかった。まことに静かな生活であった。十九時半過京王線で世田谷村に戻っている。いつの日か旅と日常が同じように過ごせるようになりたいものだ。日本人の顔は本当に緊張感に欠けているなァ。電車で漫画を読むガキも多いな。

 四月二六日
 そんな訳で只今翌日の一時四十分。このメモを記している。明日はフランクフルト、パリ経由で東京へ帰る。短い旅であったが良かった。バウハウス大学、ドレスデン大学の二ケ所でレクチャーをする事ができた。ヨルクとウルフとも再会できたし、ギリシャのクリストモフの情報も得る事ができた。クリスは今年の八月に兵役を終えるらしい。ツィンマーマンとの義理も果たす事ができたし、何より彼との親交を深める事ができた。柄谷行人とも再会した。
 六時半過目ざめる。シャワー、荷造り。只今八時半頃。旅立ちの準備も全て終えた。今、十二時過、ワイマールの城の前の広場に座っている。スケッチを一つ終えたところだ。何しろ静かで、ここワイマールにゲーテをはじめとする歴史上のヒーロー達が皆死にに帰ったのが何となく解るような気がする。風が吹いている。だからどうしたって居直ってみても、それでも風が吹いている。スケッチブックを繰っていたら死んだ佐藤健のギリギリ生き延びていた頃の顔があった。まったく、淡々として哀しいものだ。しかし、私もこれでくたばってしまったら何も残らない。菅原が言ってくれたように、これからの為に今迄があった事を肝に銘じよう。ワイマールの風に吹かれて死んだ佐藤健の事をチョッピリ懐かしんでいる。シンシンと音がする位に静かだ。昼食はツィンマーマン教授、グライター教授と。十四時過の特急でフランクフルトへ。今動いている。
 只今十八時半前。フランクフルト空港のBarで赤ワインを飲んで時間をつぶしている。あと一時間チョッと手持無沙汰だな。この空港内のカフェテラスはミーティングポイントでもあるらしく、到着便を待つ人と、着いてゲートを出てくる人が会うところでもあるらしく久し振りに再会した家族、恋人、友人、諸々の再会の仕方がある。やっぱり一番安定していてギラギラしていないのは家族らしきであるな。恋人らしきはどうもいかんな。お互い以外へのいたわりの気持ちがない。プロレスリングじゃあるまいし他人前でブチュブチュするなってーの。今、眼の前で初老の親父と、堂々と老けた母親と三十前の息子なんだろうな、が淡々と話し合っているが、実ニこれが普通で良いのだな。お互いの眼差しにしっかりとしたつながりがあって、それが私にも伝わってくる。恋人達のそれは余りにも卑俗に劇的で、いつ壊れてもおかしくないのが良く解る。十九時前になった。そろそろゲートに入るか。俺のところのガキはあんな風に淡々と気持ちを伝えることができるんだろうか。二〇時四十分少し前定刻より早く二四一九便はパリへ発った。ボーイング737型で小さな飛行機だが客は十数名。ガラガラだ。西の空が日没の色彩に色どられて美しい。
 二十二時半過、F49のゲートで休んでいる。二十三時二十五分発のAF274は定刻通りに飛ぶようだ。

 四月二五日
 三時二〇分眼が覚めてしまう。そういえば昨夜柄谷氏が面白い事言ってたな。NAMがインターネットの交信から始まってしまったので、運動にリアリティが無かったのかもしれぬと。日本では文学の世界ではすでにステータスもあるのだけれど哲学の世界には領域の壁があって仲々入り切れぬ現実があると。建築の世界に好奇心があり続けているが、どんな本から入れば良いのか尋ねられたが、柄谷が相手ではすぐに答えられものではない。深夜ニーチェがここで死んだ部屋でこのメモを記しているのだが、とりとめの無い考えがグルグルまわるだけだ。開放系技術論のすすめ方であるが、体系的に考えをまとめてゆく力が今はどうやら不足しているから、具体的な素材の断片から少しづつ書いて、まず部品をつくりそれをアトでアッセンブルする方法しかないだろう。その部品であるが「物」ではないな。情報というアブストラクトなものでもなく、コンピューターの描くラインのようなもの、今職人がつかっているスミツボ代りのレーザー探査ツールみたいなものの叙述から始めるべきだろうな。磯崎論はブッディズムと建築の無関係の関係の方へ、フォーカスを絞ってゆかねばならぬだろう。ニーチェ・ハウスでなければ深めようが無い軸だぜコレワ。只今朝四時、少し彰国社の原稿書いて、又眠ってみようか。七時二〇分起床。今日は予定ではドレスデンへの往復になっているが、さてどうするか。しかし、ヨルク・グライターにしても他のドイツ人もっと広くヨーロッパの人間はアブストラクトな思考に熱中する傾向が強い。それが言語中心の思想、哲学を良く育ててきたのだろう。日本人にはこのアブストラクトな透明度は無いように思う。八時過こういう孤独もいいものだな。年令を積み重ねて、ようやく最近、独人でいる時間がいとわしくならなくなってきた。ワイマールのニーチェ・ハウスでだからそんな風に考えてしまうのかも知れないが。今日はここニーチェ・ハウスにジャン・ボードリヤールが来て、宿泊するらしい。ドレスデンに行かなければ会えるのだがドレスデンで学生に話しをした方が良い。九時前、ヨルク・ネーニック、ウルフ・プライネス、ニーチェ・ハウスに私を訪ねてくる。二人共私のワークショップ、早稲田バウハウス・スクールの学生であり、私のオフィスのスタッフでもあった。二人と共にそのままドレスデンに発つ。ハイウェイを走り、昼前ドレスデン着。カフェテリアで昼朝食。ドレスデン市のセンター、カテドラル周辺をヨルクに案内される。旧東独時代のアパートのリノベーションが仲々良い。サクソニアン・バロックの建築を幾つか見て、ドレスデン大学近くのカフェで休む。ドレスデン大学ライブラリーでレクチャーの準備をした後、フォルクスワーゲンの新しい工場を案内してもらう。非常に興味深かった。テクノ・パーク、テクノ・エンターテイメントの趣あり。ドイツ型のテーマパークだなこれは。イギリス型のハイテクとは全く異なるタイプのもので、チョッと日本風の精密さがある。車の生産ラインが全て透明に公開されていて、ゆっくりと静かに動く。全てオートマティカリーで様々なロボットが働いている。黒いユニフォームのファクトリーガイド、スタッフもまるでロボットみたい。ここにはジェイムズ・ボンドは決して登場しない。メカニカルではあるのだが、クールではない。どこかにエンターティメントの甘さ、計算されたコマーシャリズムのフィーリングが張りつめている。ノーマン・フォスターの建築の感じとは似ても似つかぬモノがある。ヨルクが言うように、都市内の市民が楽しめる工場になっているが、何処かに甘さがあって、ファースト・クラスの建築にはなり切れていないのだ。USA、オレゴン州のポートランドで見た、工場をリノベーションしたオフィスの感じに酷似していた。十七時よりレクチャー。五〇名ほどのオーディエンスで良いスケールで、非常にタイトな関係の中で話ができた。チョッと私の方が乗り過ぎて、率直なヨーロッパ批判をやってしまったかも知れぬが、私としては良い出来のレクチャーであったと思う。十八時過終了。二人程学生が来て、私のところで働きたいと言う。時々私のところに連絡するように言って別れる。ここの学生はチョッとブルーカラーの感じがあって、私は好きだ。レクチャー後、幾つかのドレスデンの現代建築を見る。良いモノがあった。コーポヒンメンブラウの建築にも初見参。彼等の仕事はインディペンデントなものではなく、ドイツのある種のストリームの中にある事を知った。最後に見たダブルスキンのレイトモダナイズスタイルの建築が良かった。エルベ河のほとりでビールを飲み、ワイマールに戻る。二十二時頃ワイマール着。エレファントホテルに行くもグライターはおらず、ヨルク、ウルフとワイマール市内のレストランで遅いディナー。食事が終わった頃グライター現れる。その後、エレファントホテルへ。Barに行くと、ツィンマーマン教授のバウハウス・コロキウムの連中がいた。チューリンゲン州の首相もいて、ツィンマーマン教授に紹介してもらう。首相とは佐賀のバウハウス、早稲田のTVカンファレンスで、衛星TVを介してお目にかかり、何がしかのジョークを交じえた会話を交してはいたが、実物に会うのは初めてだった。こういう実にフランクな場所で首相に会えて何気ない会話ができるのがワイマールなんだなと思った。ツィンマーマン教授と色々と話を交わし、グライターと共にニーチェ・ハウスに戻ったのが一時だった。

 四月二四日
 今日は原則的に何もする必要が無い。朝六時半までよく眠った。小一時間程メモを記す。ニーチェ・ハウスの北西の窓のデスクでこれを書いている。ワイマールに来るのはこれで三度目だ。人間の縁というのは変なものだな。バウハウスのモダニズムとは縁遠い筈の私が人間的にはバウハウス大学と縁でつながるのだから。ニーチェ・ハウスの周囲の環境は素晴しい。静かな朝の光の中で色々と考えてみる。明日のドレスデン大学の特別講義の準備はすぐに終えた。十時前グライターと朝食に出る。ワイマール市内のカフェテリアへ。モダン・アート・ミュージアムへ行くも改装中で閉館。アドルフ・ヒットラーの命で建てられた建築を再び見学。シュール・レアリズムの一部がナチズムの成果品である建築と酷似するのは何故だろうか。見果てぬ夢を視ようとする欲望が同根だからなのか。違うのか。ゲーテのローマン・ハウスを見てニーチェ・ハウスに戻る。ここであれこれ考えているのが一番だ。十四時バウハウス大学へ。十四時半コロキウム開始。十七時前柄谷行人のレクチャー・建築と社会聴講。資本(MONEY)を自然としてとらえる視点。ポール・ヴァレリーの方法と建築のとらえ方についての相似点に始まり、アレギザンダー、ウィリアム・モリスの試行と近代のデザインの移行、ポスト・モダン、デコンストラクティビスムの総批判等、総合的なクリティークの態度が良かった。ANY・NEWYORKの時と変わりない。それが安心できる。その後一つレクチャーを聴いて、柄谷氏とメシを喰いに出た。柄谷行人も、ワイマールまでやってきて、総合的なモダン・デザイン批判をやって少しばかり場違いな感を自覚していたのだろうし、孤立無縁の風もあり、レストランの戸外テラスでビールを飲んで色々と話し合う。柄谷氏のレクチャーは英語で世界の前線と、言語だけで渡り合っている辛さを一身に引き受けている風があって良いのだった。ナムの会の経過も話しに出た。今度やる時は助けますよの話になり、マ、あれやこれやでワイマールで意見を交換できたように思う。二十一時前、坂道を登り、ニーチェ・ハウスに戻る。メモを記し少し眠る事にする。今日は一日ゆっくりできて体を休ませる事ができた。

 四月二三日
 昨夜は二二時頃離陸。今は日本時間で朝の八時五〇分。よく眠った。先程トイレにたったら面白い風景に出会った。光っていたから光景と呼ぶべきか。旅客の大半がそれぞれの席のTVスクリーンに見入っていて、そのスクリーンの映像がバラバラであったり、同じモノであったり。選択肢は少ないのだが、そのバラバラさと統一性が興味深かった。何となく、コレが現代かと感じた。敦煌の洞穴群に感じたのと同じだぜコレワ。敦煌では映像の数々が砂丘に埋まっている。つまりコンピューターが砂に埋まっていて、それがチカチカ光っている状態のようだと思った。アノ実感と今の、ジュラルミンのエアークラフト内での体験は似ている。エアークラフトを飛ばす技術と、このチカチカの技術が併在しているのが現代だ。一万メーターの上空を高速で飛び続けるのも技術なら、そのジュラルミンのお棺みたいな中で、それぞれの旅客がそれぞれの好みでチカチカの映像を見ているのも技術の成果なのだ。都市の夜景が美しいのも実ワ同じなのか。要するに現代の電子技術はチカチカと発光する。その発光体が古い近代の内部空間や建築空間を侵食しているのではなかろうか。あと二時間程でパリに着く。今度のワイマール、バウハウス大学への旅では折角だからこの辺りの事を考えてみるかな。その機内光景を写真にとる。オランド島二五KMとやらの辺を飛んでいるらしい。ヨーロッパの中心部はこのようにコンピューターの動く地図画像で見ると小さいんだなア。四時過パリ、シャルル・ドゴール空港着。RCのシェルターとメタルのスペースフレームが混在した変な空港だ。六時半ようやくF34ゲートへのゲートが開き動く。こんな深夜着の便飛ばしても、空港が機能していないんだから、矛盾があるな。空港で働く人の立場になってみると、グローバリズムは身体的に無理があると言う事になるのだろう。ベルリンへの飛行機がすでに停泊しているのがガラス越しに見える。小さな飛行機だ。ベルリンのポジションが解るような気がする。もうすぐ夜が明けるのだろう。空にうすい青味がしみ出てきた。考えてみればパリにいるのだが、空港にはパリの匂いは無い。この空港はニューヨークのTWAの中身を抜いて、ガラガラにしたようなモノだな。ダ円型の断面がぶつかり会うところに妙な鳥の翼状の形が露出していて、それが知れた。ワールド・フォトプレスの部厚い大作「看板力」に書いた事だが、遂に空洞としての建築とサイン、シグナルだけで空港は作られるようになっている。六時二〇分ごろ。人がそろそろ動き始め、集まりの形をとり始めて、ようやくガランとした空間が生きてきた。しかし、この天井のスペースフレーム状のトラスは間違いだ。むしろコンクリートの方のシェルターがうまくいっている。コンクリートの表明に細い筋目を入れたりして、これは職人が手でやったにちがいない。八時過エアーフランス一四三四便でベルリンに飛んでいる。こんなに動いてどうするんだと又も自問する。動く分だけ良いモノ作って、良いモノ書くしかないなと平々凡々たる答えに辿り着くだけだ。作るのも書くのも一つ一つ大事にしなければならぬ年令にとうの昔になっているんだが、人生は本当にままならない。じっとしていれば良いモノ作れて、良いモノ書けるっていう保証はないしナァ。何よりも先ず、この世田谷村日記の質を上げる事くらいからしたら良いのも解っている。日記ていうのは色々やって分ったが、本当に端的に人間の実力が出てしまうモノなのだ。九時前飛行機が降下し始めた。ベルリンが近いのだろう。九時過ベルリン空港着。ベルリン空港周辺は空から眺めるに河の多い自然に恵まれた場所のようだった。どうしてもベルリンの名は暗さを喚起してしまうので、意外だった。しかし、ヒトラーの影はまだ消えようにないのは言うまでもない。J・グライターが空港に迎えにきてくれて、三日振りの再会。三日振りというのは普通は無い表現だが、仕方ない。ポツダム広場の近くのベルリンの中心に在る広場を見る。ハンス・シャルーン、ミース・ファン・デル・ローエ、ピアノ、ジェームス・スターリング設計の建築群を見る。ミースのナショナル・ギャラリー、シャルーンのナショナル・ライブラリー、ベルリン・フィル・コンサート・ホール。巨匠達の作品群に触れ、建築の想い止み難し。シャルーンのナショナル・ライブラリーの内部は良かった。内にランドスケープが展開されている、巨大なスケールで。SONYの建築は情けない。日本の企業だからと言って屋根に傾いた富士山乗せるとはね。しかし、国の中心部、つまり首都ではこのような乱暴な事が起きやすいのだ。ミースの中にも入った。バルセロナ・パビリオンと同様な壁材の使い方があった。地下は極く普通にまとめて、地上部分に力を傾注したのがよく解る。グライターの友人の建築事務所に寄って、ハイウェイに乗り一路ワイマールへ。途中昼食をとり、十五時過ワイマールへ到着。へェ、こんなに美しい街だったのかと思う位に美しかった。ニーチェ記念館に宿泊なので、そこに荷を預け、バウハウス大学へ。ツィンマーマン元学長に再会。ニューヨークのANYの会議であった方に挨拶される。ANY 的役割をこのバウハウスの集まりがヨーロッパで果たし始めているのを知る。ツィンマーマンの組織力の成果であろう。十七時レクチャー。開放系技術、ワークフォーマイノリティについて話す。一時間チョッと。つたない英語でやってしまった。終って、学生達の拍手が大きかったので、マァマァ通じたのであろう。途中で逃げ出す奴もいなかった。終了後、ツィンマーマンその他とビールを飲みに出かける。柄谷行人夫妻と再会。ニューヨークで何日か一緒だったので懐かしい。夕食をバウハウス・コロキウム参加者と共にする。二十二時前ニーチェ・ハウスに戻る。以前ここに宿泊した時は、ニーチェの亡霊の妄想に悩まされたが、なにしろニーチェがここで死んだという事実が余りにも強烈で、お化け屋敷の印象が強かったが、今回はそんな事もなく、快適である。シャワーを使って、倒れるようにベッドにもぐり込み眠った。マ、義理は果たした。

 四月二二日
 昨夜は磯崎さんと良い酒を飲んだのに今朝はそれが少し残っている。荷造りを素早くして九時家を出る。十時四十分学部レクチャー。サティアンとドラキュラの家。日本の住宅総生産と世界のそれとの関係について述べる。次回はサイモン・ロディアのワッツタワーとアントニオ・ガウディのサグラダファミリア教会について。それと日本の近代住宅の事例を年代を追って述べてみる。昼食後、バウハウス・コロキウムでのレクチャーのスライドを整理し論旨もまとめる。十五時建築展の委員長等と会い作業を中断したが、十七時頃全て終了。東京発十九時〇三分のナリタエクスプレスに乗っている。この記録が現実に追いつくのに時間がかかるようになったよ。成田は中国産の肺炎でガラガラだろうと予測していたら、エクスプレスは七割位の席が埋まっていた。只今二一時前エールフランス二七三便のチェックインを済ませ、グライター、ツィンマーマンへの手みやげも買い、ユーロに少々換金して出国。出発ロビーの小さなスナックでビールを飲んでいる。先程家内に電話したら、マスクしてるんでしょうねと言われたので、勿論してると答えたが実はしていない。このロビーに中国産肺炎用のマスクなんかしてる人間は一人も居ない。先程空港内職員の一人がデッカイマスクをしているのを見ただけだ。報道がいかに針小棒大を本能的に行うのかを知る。TVはTVカメラが向けられている現実だけを切り取って伝えるから、たまたまマスクをしている人間をカメラがとらえれば、それがたった一人であっても、視聴者には沢山の人々が用心してマスクをしているのだと伝わってしまうのだ。TVは現実の全てを伝えていない事を心しなくては。

 四月二一日
 明日の夜からドイツに行かなくてはならぬので今日も又絶望的なスケジュール。ここのところ休みが全くとれていない。体が休息を欲しているのが解るのだが、休めない。忙しいのを中断する勇気が無いだけなのだ。七時四十分ドイツでの講義の骨子まとめ終る。残りは沢山過ぎる原稿をどうするかだ。今日はどんなスケジュールであったか充分に頭に入っていない。十時前地下室ミーティング。十四時過大学。十五時過スタジオG。十七時半、CY&グライターと共に磯崎アトリエへ。十八時磯崎アトリエ。久し振りに磯崎新に会う。磯崎のエレガンシーに溢れた(コレは本当に口惜しい位のモノで、そんじょそこらの日本人には備蓄されていない類のモノになっている)話に触れて、西麻布のイタ飯屋に行く。磯崎新の話しも実に新鮮で、二十三時くらいまで食事は続いた。二十四時半頃世田谷村に戻る。これから色々と大変だろうが、この新外人教授達は私がそのシステムを守ろうと思う。教師の資質から言っても、案の定この二人は充二分なモノをこの三週間で示してくれた。しかしネェ、本当これから先はどうなるのかな。予測もつかない。

 四月二〇日
 六時起きる。ドイツバウハウス建築大学でのレクチャーの準備をする。二つの大学でやるのだが基本的には同じモノで少しバリエイションのイクザンプルを付け加える事にする。次女友美、オランダのコンペの一次審査を通ったらしいが、詳細不明。十時トモコーポレーションの友岡社長夫妻が迎えに来て下さって富士山へ。車の中で、友岡さんの息子さんがカンボジア・プノンペンの私のワークショップに参加していた事が判明。ズーッと連絡が無く心配しておられた様で、元気でしたかとそれでも安心したようだった。早稲田の文学部の青年で、真黒に陽焼けした、今時珍らしいしっかりした学生だったのを思い出した。年令を問わずどんな人間に会ってもキチンと対応しなくてはならぬ事を思い知る。猪苗代湖に民芸村のようなモノを考えているらしく、相談を受ける。十三時前、聖徳寺現場着。鉄骨の一部が建ち上がっており、予想していたよりもコレワ良かった。アーチのスケールと三角形の梁がぴったり決まっていた。十六時過東京に戻り、友岡夫妻と栄寿司で食事。夜、サンパウロのセシリア教授から電話あり、八月初旬にブラジルへ行く事になった。十勝毎日新聞の原稿書く。今日は日曜日であった。

 四月十九日
 朝屋上菜園に上る。生ゴミを埋めて、ナスやトマトその他の苗を点検。チューリップが見事に咲いている。まだ緑がうすく空中の地面にしゃがみ込んでも匂いは立ちのぼってこない。十時少しばかりの打合わせ。昼前北海道十勝後藤さん来世田谷村。フィールドミュージアムの打合せ。打合せ中に我ながら仲々の良いアイディアが生まれ光明が見えてくる。こんな時だなぁ。この仕事やってて良かったと思うのは。十四時半過、CY・LEE夫妻、グライター来世田谷。十七時過まで食事しながら歓談。次女友美も同席。その後、星の子愛児園へ。近藤理事長と会いに出掛ける。二一時半修了。厚生館愛児園グループの新人歓迎会に出席。小さなスピーチ。二十二時世田谷に戻る。結局CYとグライターは二〇時三〇分迄世田谷村に居たらしい。今日のスケジュールはミスしたな私が。

 四月十八日
 十時四十分院レクチャー。初めて院生のヒヤリングをする。何に関心をもっているのかな。十五時学部三年設計製図入江先生の第一課題出題。私は光と空間に関して小さなスピーチをする。セインズベリーのノーマン・フォスター設計のギャラリーと、ニューへヴンのルイス・カーン設計のブリティッシュアートミュージアムについて話す。学部の三年生には少しばかり、それどころか、かなり高度な話を敢えてした。建築というのは底知れぬ深さをおのずから包み込んでいるモノなのだという事を伝えたかった。李祖原、グライターもショートスピーチ。この四十分程は早稲田の設計教育の現場は世界最高水準になっていたと思う。十七時TVのスタッフと打合わせ。その後清水建設大山氏と雑談。大山氏は色々と私の設計教育方針に苦言を呈された。その苦言を要約すれば、建設産業の中枢を担うのは先鋭的な才質ではなく、中庸の理解力を持つ普通より少し上くらいの才質を持つ人材なのだから、その層に教育のフォーカスを当てるべきだと言うような事だった。でもね、早稲田建築の中枢は職業訓練学校ではないと私は考えている。どう批判されてもデザインの理念だけは教え、感じさせたいと思うのだ。私が出来る事はそれだけなのだし。しかし批判は批判として聞きたいと思う。周りが全てイエスマンばかりになるのが一番危険なんだから。苦言、批判大歓迎。

 四月十七日
 昨夜は眠ったり起きたりで室内原稿を書き上げた。オフィスビルについて、断片的ではあるが考えをまとめてみた。今日は学校が何かと忙しい。朝十時からCY・LEEのレクチャーがあるので顔を出したい。李祖原のエネルギッシュなレクチャーを聞き、十三時過スタジオGオープン。上手くいけば良いが。三人の国籍も文化も異なる教師の混成形式の指導が私にも学生達にも、学校にも何かの刺激になれば良いのだけれど。四十五人の参加者でスタート。人数は丁度良いスケールだね。その後二本インタビューを受け、十九時若松氏とミーティング。α社屋の建設について。若松氏とは久し振りだが元気そうで安心した。大久保駅前のそば屋で李祖原若松両氏と食事。若松さんのインターネットビジネス業界の浮沈のスピードは建設業界のスピードとは全く別世界のようだ。良く生き延びているなこの人は。

 四月十六日
 七時頃起床。密閉された部屋はどうも居心地が良くない。やっぱり世田谷村のようにいつも空気が流れているのが良い。たとえそれが狭間風であろうとも。日本の作り方は精度にだけ精力が注ぎ込まれいる。他に力を注ぎ込むべきべき目標を持とうとしないからだろう。今日は朝シャープの奈良工場で太陽光セルの生産現場を見て、午後大阪に戻る予定。八時半ホテル発。車で奈良シャープ工場へ。シリコンセルの製造工程見学。大まかな理解では技術集約型のセル生産の工程と、セルをガラスに装置する工程のレベルがまるで違う。ここにソーラーセルの商品としての問題があるように思う。十二時半大阪に戻り、コンペの一次審査のまとめ。十五時半大阪駅へ。十六時過の、のぞみで帰京。ガラスの家とソーラーセルを結び付けるアイデアに少し実際的な手掛かりを得た。やはりモノが作られる現場に触れるのは大事だね。二〇時世田谷村に戻る。

 四月十五日
 朝七時二〇分ののぞみで大阪へ。久し振りだな、このメモをリアルタイムで記しているのは。書かねばならぬ原稿が数え切れぬ程ある。来週はドイツ・ワイマールのバウハウス大学へ行かなくちゃならない。ジタバタ動いているのが滑稽な逃亡劇に見えてきてしまう位だ。しかしとあきらめてジタバタし続けるしかないだろう。一昨日の日曜日に屋上菜園に上ったが。緑が急に増えていた。ナス、キューリの苗を少しばかりと、ウリ、エンドウの種を植えたが、小さな菜園いじり位で疲れは消えるもんじゃないよ全く。名古屋を過ぎたな。二十二時半ホテル日航にたどり着く。シャープ主催のコンペの一次審査を終え、かなり疲れた。今日はもう寝よう。室内その他の原稿は今夜はもう無理だな。こんな風にして日々を苦しくしているだけの日々なのだ。つまらぬ追手に追われて立ち消えるばかりだよ全く。明日は八時三〇分にロビーで待ち合わせ。忘れぬようにここに記す。

 四月十四日
 何だか日記のメモをつける気にもなれず数日を過ごした。忙しかった猛烈に。たかだかのメモつける余裕が無いくらいに消耗した数日であった。李祖原、グライターと毎日顔を付き合わせているのも仲々大変なのも解った。言葉が先ず大変です。今日は朝世田谷地下。午後大学で沖縄の打ち合わせ。沖縄はこれから先三年間中心的なプロジェクトにするつもりだから腰を据えて取り組まなければ。藤沢のTさんからメールをいただく。難病と対面しながら生きている方で、そのための家を設計せよと言う。私の研究室の仕事も調べて下さっているようで、喜んで引き受けたいと思う。人間は程度の差はあれ皆何かのハンディを背負って生きている。私だってそうだ。眼に視えにくい障害だって沢山持っている。他人のハンディは視えやすい。自分のは視えない。又、他者への想像力というのは口で言うのはたやすいが、それを具体的に働かせるのは極めて難しい。Tさんにお目にかかるのが楽しみだ。
 ヴェネチアのINTERNATIONAL・SCHOOLへの早稲田STUDIOの具体策をJ・GLEITER教授にお願いすることにした。私も秋には二週間程行くつもり。沖縄と上海を結び付ける努力も始めなくては。疲れてるヒマはネェな。

 四月十日
 十時稲田堤第一厚生館。途中星の子愛児園に寄ってみる。光の中で子供達が元気に遊んでいた。バグダッド崩壊の報が伝えられているが、イラク戦争の是非を論じる前に、戦争の現場、つまり人殺しの現場をリビングルームのTVで視ている我々の現実の異常さを先ず考えてみる必要があるのではないか。近藤理事長と久し振りに会った。お元気そうだった。いつも若い人に囲まれて暮らしているからだろう。スペイン、フランスに保母さん達と行くそうでバルセロナの情報を差し上げようかな。十一時半大学。

 四月九日
 今日はゆっくり世田谷村で過すつもり。手紙を書いたり、考えなければならぬ事も山積している。桜も散って淡々たる春になった。

 四月八日
 なんだか疲れが恒常的になっていて思考に弾みがつかない。地下に降りてメモを記す。プロダクトをすすめるのに何か決め手の方法が欠けているな。スタッフの力もそろそろ生かさなければならぬが頼りになって欲しいものだ。十三時大学CYLEEとグライターと小ミーティング。十四時過バスで代々木GAへ。二川幸夫、由夫親子と会う。スタジオG開設のあいさつ。十七時高田馬場でビールを飲んで帰る。

 四月七日
 朝地下ミーティング。十三時大学。李祖原と再会。これでJ・グライターと三名、Gスタジオのメンバーがそろった。何をどのようにすすめるのかを十六時過まで議論。李祖原が加わった事でテンションが高まっている。「モヴァイル」についての考えを次週述べ合う事にする。
 夜、メモの原稿を書く。

 四月五日
 朝地下ミーティング。Gスタジオに関して。十五時過大学へ。夕方会食。研究室が置かれている経済的状況は厳しい。マ、切り抜けられるだろうが、ジャリ共にはこの厳しさは伝えられない。

 四月四日
 朝地下ミーティング。大学へ。十四時より十九時前まで三本インタビュー。愛想の悪い私が露出するからインタビューはそれを押え込むのに力が要る。

 四月三日
 今日は学科新入生諸君へのあいさつをしなくてはならない。何を話せば良いか。朝京王線桜上水で内田祥哉先生にお目にかかる。何年振りだろうか。明大前まで短い時間だったがお話しをうかがう。内田先生は私の顔を見ると必ず左官の話しをされるが、そういう印象記憶なんだろうな。十時新入生諸君に小スピーチ。今朝の新聞にパナホームの新商品「コンバージョン」が一面広告で出ていた。いかにも日本の製造業らしい表面だけのコンセプトであきれ返った。何をナショナルは考えているんだろう。午後雑務。スタジオGは大体スペースの全体が浮かんできた。広くて良い。これを生かせなければ早稲田は駄目だ。しかし、しかしなのである、そこに生棲する院生のいかにも甘いサークル風なのが絶望的にも思う。グライターもそれにすでに気付いている。日本全体が幼児退行してるんじゃないかな。

 四月二日
 小雨。Gスタジオに関する構想を少しづつ進めているが、困難が大きそうな事が解ってきた。しかし、何はともあれ船は出てしまったのだから航海を成り立たせるしか無い。楽天的に行くのを演技し切る事が大事だな。かって津野海太郎に指摘された様に認識は暗いが行動は楽天的であるらしいのを信じて再び意識して心掛けよう。十三時J・グライター来室。今日明日のスケジュール調整。西谷主任へあいさつ。Gスタジオ実見。十五時グライター本部へ。利根町佐藤さんと会う。五月六日に取手までうかがう事を約す。アッという間に一日が過ぎた。気を付けなくては。

 四月一日
 流石に昨日はGスタジオの構想を少し計り考えただけで終わった。TOKYOの気候は本当に穏やかだな。炎天の太陽と極寒から身を守る必要がほとんどない。朝地下室ミーティング。四月の仕事の確認のみ。午後大学、留守中の連絡事項チェック。十五時N棟ミーティング。博士課程の外国人学生達から私の59才誕生日の祝いのシャンペーンを一杯ごち走になる。S棟でも祝を受ける。二〇時過世田谷村に戻る。

2003 年3月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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