石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2003 年6月の世田谷村日記 |
五月三一日 |
十時過ぎ原口さん娘さんつれて来宅。茶飲み話し。茶飲み話し位様々な意味が出現するモノはない。台風が岡山辺りに居るらしく、雨が降っている。十一時半家を出て大学へ。今日は西早稲田へ。古川貞二郎氏レクチャー受講の為。十二時半西早稲田観音寺近くの学生町レストランでカレーライス。観音寺塗り替えてる。前より大人しく、静かになって良い。時代に合ってきている。思えば今、三つ目の寺の仕事に取りかかっているのだが、何やら佐藤健が手引きしているように思えてならない。あんまり変な方へ手引きするなよ、とブツブツ独り言を考えながら、カレーライスを待っている。雨もなかなか良いな。観音寺の玄関先のツボには滝のように雨水が流れ込んでいる。花一輪挿してゆこうか。十三時前法学部一号館レクチャールームで休んでいる。公共経営事務所にもぐりの聴講届けを口頭で出す。十三時古川副長官教室の隅に隠れるようにいた私をすぐに発見して「帰って下さいよ」と言われたが、居座り強盗のように居座る。このレクチャーは流石に帰れと言われても聴く価値があるくらい生きている。桁外れのリアリティがある。二十一名の院生は良い体験をしている。この中から将来政治家がでるな。院生達も臆せず良い質問を連発している。これが理想的な大学院の授業風景なのだと思う。しかし、この雰囲気を作り出せる教師が日本にどれ程いるかな。 十五時過理工学部キャンパスに戻る。難波和彦の東阪往来記初めて読む。読み始めたら止まらなくなって、何年か分を読み切った。チラホラ私の名前が出てくるのが、矢張り気になるんだな。コンピューターの他人の記録を読むのは初めてだったので、私の世田谷村日記がどう読まれているのかを疑似体験する事が出来た。十八時過研究室発。しかし考えてみれば土曜日に院生が誰も研究室に来ていないのはなんとも残念だ。十九時過地下。世田谷村ゼミ。光嶋のフィンランドデザイン研究。良く調べてはいるが平板である。これでスタッフ全員の発表を聴いた事になる。欲を言えばキリが無いのは重々承知ではあるが、物足りない。二十一時半原口さん来宅。娘さんの仕事の件なんとかしてあげたい。今日で、今年も五月が終わる。ほんのわずかな事しか出来ぬままに時間が過ぎてゆく。少しずつ積み上げているような気もするが不安だ。今日の午後研究室に来た院希望の台湾の学生の感性は良かった。エジンバラ大学卒で李祖原の知り合いの娘さんらしいが、入試をうまくかいくぐってくれれば良いのだが。秋からは外国人学生が倍増する。チリ、ギリシャ、カナダ、中国、台湾、アメリカ、ドイツと多様な国籍の学生が出入りすることになる。モロッコの外人部隊とカスバの女みたいになっても良い位の決意でやらなければ中途半端になるかも知れないね。
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五月三〇日 |
七時半屋上菜園の世話。朝食を取って十時大学。院レクチャー準備。今日はミースのバルセロナパビリオンとL・コルビュジェのラ・トゥーレット修道院について。十七時内閣府。夜柴原の仕事を見る。なかなか良い。
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五月二九日 |
八時三〇分世田谷発。中央高速で富士嶺の現場へ。十時半聖徳寺現場。鉄骨工事は良く出来ている。プロポーションも良く、アトは仕上げだ。床下の炭の配置の指示をして、十一時スタッフと別れ富士吉田へ。今、十三時前甲府への鈍行列車の中で気持の良い時間を過している。各駅停車の至福だな。ガラガラの車内では、乗客は皆、一人で一ますのシートを占拠して眠り込んでいる。今、山梨市のようだ。この速度は良い。今に一番合っているような気がする。駅弁のカマ飯喰べて眠くなってきた。十三時三二分甲府で特急に乗り換え、又、速力がちがってきてしまった。スタッフから渡されたスケジュール表通りに動こうとしているのだが、汽車の時刻が全て、現実とズレている。やっぱり何処か、抜けてるよね。しかし、スレスレに動けているのが笑える。風が吹いて、車窓近くの山が動いている。小学生の頃見たモノクロ映画風の又三郎を思い出すなあ。十四時十一分茅野着。角大製材所の奥さんが駅まで来てくれて、製材所へ。棟梁細田佑二さん、角大さんと打ち合わせ。何とか、やってくれそうで、棟梁と大方の感じをすり合せる。藤森照信のたんぽぽハウスを手掛けた棟梁だ。大方の合意らしきを得た。聖徳寺の床の相談も。彼等が作った酒飲み小屋を見て、茅野駅へトラックで送ってもらう。サグラダ・ファミリア大聖堂の現場に外尾悦郎と時代モノのベンツのトラックで行った道中を思い出す。トラックは好きだ。予定通り十七時二六分のスーパーあずさで帰る。こういうリアルな打合わせはストレスが無くて良い。例え、中身がハードでも。十九時三六分新宿着。二〇時半前世田谷村着。打合わせ。二十一時三〇分終了。休む。
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五月二八日 |
朝七時前、起きて、ミース・ファンデル・ローエのバルセロナ・パビリオン小論書く。又もや〆過ぎて、追われるように書く。九時修了。追われて書くと我ながら面白いモノが書けているような気がするが、こんな事が続くわけもない。屋上菜園に生ゴミを埋め、庭を眺める。十四時首相官邸。十五時早稲田へ発つ。 朝の屋上菜園に思いがけなく咲き乱れていた荻の花を、地下鉄の中で思い起こしていたりする。十六時半Gスタジオ。課題に対してわざわざニューヨークまで写真家に会いに出掛けた奴がいる。それで良い。二〇時過、中国大陸の仕事が又、入ってきた。どうするかな。二一時半京王線車中でメモを附している。世田谷村に帰ったら、ビール飲んで寝ちゃおう。起きていればイラつくばかりだからな。
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五月二七日 |
学部レクチャー、日本近現代住宅史は今日で終り。十六時烏山寺町。妙高寺打合わせ。夜、地下ゼミ。
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五月二六日 |
昨夜はグッスリ眠った。しかし、まだ眠り足りぬ。目覚めれば那覇のホテルの一室。上海まではどうにか一人で動かせるのだが、他はどうかな。プノンペンもそろそろ結着をつけたい。 八時ホテルのデスクでメモを記している。鏡に疲れた自分の顔が映っている。体力を目一杯使い切っていて危険なのは自覚できているのだが、制御する術を知らない。そう言えば昨日、機内で会った丸山さんには学生時代大変世話になっていた。二年生のエスキスでは良くおだてられて、それで、うぬぼれの強い男になってしまった様な気さえする。マ、そればかりが原因ではないけれど。丸山さんはチョッと体をコワしたと言っていたが、五、六年前に確か大病されたと風のうわさで聞いていた。折角十数年振りに会ったのに、グッスリ眠り続けてしまって悪い事したな。近況その他お聞きすれば良かった。那覇に事務所を開設していると言っていたが、大変なんだろうと憶測する。名刺くらい、いただけば良かった。昨日は東北の一ノ関に居たのだよね、確かに。菅原正二と仙台のプラネタリウムをジャズホールに改装する話しをしていた記憶があるが、定かではない。今、八時十五分過。八時三〇分に照屋君が迎えに来るからそろそろ仕度して下に降りようか。ここは七階か。十時名護市北部広域事務所岸本理事長と面談。困難さにとり囲まれているが、頑張る。沖縄の方々が言う事は、もっともな事だ。しかし、私にも、ある種の道理はあると考えて進めているのだから困難さに直面する事になる。十二時名桜大学比嘉理事長に面談。ワークショップ協力を依頼する。十三時過名護市役所前で休んでいる。象設計の役場は屋根にブーゲンビリア咲き乱れ良い光景である。梅雨の合間の陽光が降り注ぎコレはやっぱり良い建築だ。象の人々はこの旗印を明快に論理づけて世界に進出すれば良かった。マ、他人の事は言えないけれど、機を逸した感がある。されど、この建築には良い風が吹いているよ。十四時半ホテル日航ロビーで尚先生にお目にかかる。伊是名で尚家ゆかりの場所を体験していたので、琉球王朝の尚家当主にお目にかかっていてもその歴史が感じられて感慨を新たにした。ワークショップへの協力、そして参加を依頼する。こういう我ながら不思議な努力と比べてみると、建築をつくることは比較的容易なんだと思う。願うらくは無駄な努力、すなわち徒労に終わらぬ事を。十七時過那覇空港でメモを記す。体調悪し。横になりたい位。十八時二四分東北地方で震度6弱の地震があったと空港内のTVが伝える。幾つかの建築が心配だ。二〇時十五分前磯崎新の「建築に於ける日本的なもの」読了。今どの辺りを飛行機は飛んでいるのだろうか。イセ、カツラ、重源と歴史的事件をとりあげ、後半の論を構築している。イセ、カツラに代表される日本的なモノを重源による構築性という非日本的なモノ、異物によって、あるいは前半の論自体が磯崎自身を非日本的なモノとして論ずることで白日の許にさらそうとしている。日本的なモノを批判的に切り刻むことで日本から自由になろうともしている。そこが見処だ。こういう書物を読んでいると、日々の小事でクヨクヨ、セコセコしている自分が、情けなくなるな全く。これ位の事で疲れた、疲れたと弱音を吐いている自分がイヤになるな。磯崎新は書物さえ建築を建てる如くに構築している。イヤ正確に言えば構築し続けてきた。書物、あるいは言説が建築そのものであるような世界を彼はすでに視ているのであろうか。だとすれば、それが磯崎論のもう一つの入り口になるやも知れぬ。
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五月二五日 |
今日は日曜日の筈だ。朝七時過一ノ関の蔵ホテルでメモを記している。色川武大さんはベーシーと菅原が気に入って、ここ一ノ関で客死したんだが、その気持はわからぬでも無い。別のスタイルで菅原も品が良くなっている。加速度つけてるな。十一時半世田谷村に戻る。休み昼食をとって十三時四十五分、又出る。十六時十五分JALで沖縄へ。飛行機はグッスリ眠った。ドスンと音がして気が付けば沖縄。アトリエ・モービルの丸山さんに機内でお目にかかる。照屋君空港に迎えに来てくれてハーバービューホテルに投宿。これだけ疲れていると、何だか夢うつつだな。照屋君とメシを喰って今、二十二時過ホテルに帰る。体はボロボロ、どうなる事やら、やっぱり単騎独行がいいのかな。
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五月二四日 |
取材で中里和人と塩釜、一ノ関。ベーシーで久し振りに菅原正二と再会。高橋邦夫さんとも会えた。西谷主任と連絡、学科ですすめていた件の一つはうまく行かなかった様だ。仕方ない。別のやり方で頑張ろう。うまくゆかぬことだけは連続するから気をつけよう。
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五月二三日 |
どんよりとした曇り日で、もう梅雨に入ってしまったのかといぶかしむばかり。意外と私も天気男なんだな。午前中院レクチャー。午後野村・丹羽打合わせ。猪苗代計画。
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五月二二日 |
朝屋上菜園に生ゴミを埋める。イチゴをとって食べた。市販のイチゴと全く異なる味がする。恐いね売っている食品は。まだ満艦の花盛りではないが、それなりの風情にはなってきている、屋上は。今週の土、日も仕事で屋上には上れない。植えたい種が沢山待っているんだけれどナア。残念だ。 朝院推薦入試面接、気の弱い平板な学生が目につく。十ニ時より教室会議。夕方、カンボジアの渋井修さん来室。ひろしまハウスの件その他話し合う。再び学科会議の後世田谷に戻る。夜、磯崎新の『建築における「日本的なもの」』読み始める。磯崎新の日本論だな。かつて磯崎新は岡本太郎への追悼文で、岡本太郎は日本に愛情?を持ち過ぎたと書いていた記憶があるが、磯崎の希求の最たるモノは日本から世界史への亡命願望である。この書物はほとんど革命家のトーンで貫かれているように思うがどうか、過剰反応かな。日本的なモノ自体を解体しようとしている点に於いて、磯崎は自身の歴史を環状に、むしろラセン状に回転させ、建築家としてのスタート時の軸をゆるがせていない。全く何という壁だろうか。磯崎にしても栄久庵にしても戦後の廃墟を身を持って体験し、視てしまった体験を強く持つ。私は廃墟をわざわざ見るために出掛けなければならなかった。その違いは大きい。どうもこの二人共、眼の前にするとモジモジして遠慮がちになってしまうのは、その辺りに深い原因があると私はにらんでいる。
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五月二一日 |
朝地下ミーティング。昨夜は日建設計の橋本専務と四方山話し。今日はこれから栄久庵さんの特別講議である。スタジオGの運営を着実なものにするために何か具体的な道具づくりのプロジェクトが必要だな。十四時栄久庵さん講議。明日からバルセロナだそうで、体をいたわっていただきたいが、すでにそんな事は達観してしまっているな。道具論を自由自在に論じていただいた。この人物も変わらぬ人だ。もうすでに三〇年遠くから、時に真近に接してきたが、考えの中枢は微動だにしておらぬ。敬愛する由縁である。道具寺が和歌山に実現するかも知れぬと言う。
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五月十九日 |
小雨模様の朝である。十時地下ミーティング。昨日の伊豆は良い時間を過ごせて気持ちは少し和んでいる。時々伊豆に行きたいね。それぞれのプロジェクトの担当者が決められずミーティングは夕方まで続いてしまう。要するに地下のレベルが崩壊してるって事。気を取り直して前へ行こう。後ろを向いたらダメだ。
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五月十八日 日曜日 |
只今八時四五分東急田園都市線で中央林間に向かっている。森の学校の第二回目の地元説明会だ。日曜日がズーッと休めていないので流石に家内もあきれ顔で、「何処かで倒れたって知らないわよ」だって。倒れるつもりは毛頭無いが、少し異常だな現状は。先程井の頭線で動いている中で沖縄計画のアイデアが浮かんでメモする。 昨日のTさんの家訪問を思い起こしている。あの家族の為に住宅で何かしてさし上げる事ができれば、住宅の可能性はデザインの可能性を超えるだろう。生命維持体としての住宅という概念が生まれる。マイノリティーの仕事の行き着くところはコレかも知れない。もうあんまり文句言わないで、対面している諸問題に対してゆくしかないだろうな。対面している問題は皆一級品だと考えてしまおう。九時四〇分内山自治会館。住民説明会の準備。まことに建築は建てにくい状況になったが、人間の生活を第一に考える立場で押し通す。自然保護も大事だが現実の人間の生活はそれを基盤にしながら、さらに大事な問題なのだ。 十一時半説明会修了。すぐに伊豆海岸安良里にむけて発つ。途中、足柄で昼食。十四時半過安良里。藤井邸現場着。マアマア良く出来ているが、二、三の問題あり。十八時前現場打ち合わせ修了。二十数年来の友人である、森秀己、鈴木敏文、小林興一、藤井晴正と夕食。本当に久しぶりに気持ちも安らいで、良い時間を過ごす事が出来た。ほんの束の間の時間ではあったが、三ヶ月分位の休息を得た。古い友人は有難い。と言っても、あんまり時間は残されていないんだよね。 二十二時東名を走り世田谷に帰る。オープンテック・ハウスシリーズも♯3の藤井晴正邸で少し安定した質を得たと思う。
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五月十七日 |
十時四五分新宿待ち合わせ。朝山、黒金牧師、ルーカス、安藤。 朝山邸さいたま市地鎮祭。指扇駅で娘さんも合流。キリスト教式の地鎮祭は初めてであったので興味深かった。マタイによる福音書第7章24節〜25節 それで、私のこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れる事はない。岩を土台としているからである。そう述べて、牧師は聖書を土地に埋めた。そして、これから家は主キリストの上に建てられると述べた。つまりキリストのロゴスを礎として建てられると言うのだった。日本の地鎮祭との余りの違いに仰天した。我国の地鎮祭はこれと比べれば余りにも視覚的なモノである。シメ縄を張り結界とし神が昇天して、降臨する。視えぬ神を様々な仕草や仕掛けで、儀式として暗示しようとする。キリスト教の地鎮祭は言葉で、これから建てられる家はキリストの上に建てられると言う。キリストとは言葉で、すなわち、それは聖書だ。それ故それを大地に埋める。「でも牧師さん、主キリストは天にいるのでしょ、大地に住んでいるのじゃないのでは」と聞いたら牧師曰く、「大地は主が造りました」西欧のロゴスを身近に感じた。 修了後大宮で朝山さん親子と食事。高校生のいい娘さんだ。食事後藤沢へ。十七時四十分頃六会日大前、ルーカスの連中、森川、柴原と駅で会い。高稿さん宅へ。住宅案プレゼンテーション。TVカメラの前でのプレゼンテーションであったが、もう全くカメラは気にならなくなってしまっている。二案を提案。一つを選んでいただく。太径の木を使った案を軸に進めてゆく事になる。予想通りであった。進行性の難病を抱え込んだ御主人の部屋その他を見て学ぶ。二〇時頃修了。二十二時頃世田谷村に戻る。向井が一人、残って仕事していた。チョッと話して、上で遅い食事。今日は埼玉、神奈川、二ヶ所を巡り、チョッと疲れたな。
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五月十六日 |
唐十郎の紅テント公演「泥人魚」の評判が良い。出掛けてみようかな。唐の健在振りが確認できるのか。院レクチャーはヨーロッパ型ハイテク建築について、イギリス、ドイツの事例を介して。イギリスのハイテクは深くイギリスのファンタジーに源を発していると私はにらんでいる。アレはイギリスの秘密の花園なのだ。
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五月十五日 |
室内原稿今日が〆だが、どうしよう。何を書くかまだ決められぬ。 十四時過原稿書き上げる。ペットボトルと六本木アークヒルズを書いた。今日は一日中小雨がしとついており、まるで梅雨模様である。夜中川幸美先生来宅。朝山さんの家のテーマは時間だな。技術は時間に対するに耐久性の如き観念しか生み出す事ができなかった。朝山さんが古い民家のような、母親が育って、暮らしていたような家をと私に言ったのを、少しばかり、ほんの少しばかり抽象化すると、そういう事になる筈だ。川合健二のドラムカンの家の脇にあった、錆びたポルシェの意味を考えよ。私はいつまでも川合さんの、劇場の観客であり続けているよ。
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五月十四日 |
十時学部三年生の製図十名程個人指導。凄まじくエネルギーが放出されるのを実感する。自殺行為だぜコレハ。これが最期これが最期と自分に言い聞かせる。早大ラグビー部のOB宝田雄大氏来室、沖縄の件で打ち合わせ。
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五月十三日 |
生活道具のデザインの流れがどうもうまくいっていない。柴原だけが前向きで他のスタッフは全く熱が入っていない。何故?もっと小刻みな進め方をしなくてはいけないのか。中断するわけにはいかないのだから手を打つ必要がある。住宅と道具の難しさのレベルが理解できていないのだろう。道具の方が難易度は高いのにナァ。機能を生み出す可能性があるのにナァ。午後建築展メンバー来室。ヨシこの位の人数ならば直接指導してやろう。朝山邸十勝スケッチ深夜まで。やっぱり原稿書くより、スケッチの方が楽だ。この実感は変なモノだ。実ニ。
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五月十二日 |
実感としたら久し振りの世田谷村ミィーティング。朝十時から夜二十一時まで。流石に疲れた。ほとんど全てのプロジェクトに目を通した。が、よい方向へ行けば良いのだけれど。
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五月十一日 |
午後友岡さん来世田谷、猪苗代湖鬼沼計画の相談。十年がかりの計画だと言うから、やってみようと思う。
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五月十日 |
昨夜と今朝で彰国社原稿書き上げる。昨夜は地下でバロック風包みの話しで一人盛り上がってしまった。まだ若いね我ながら。明日は久し振りに休むぞ。何もしないで菜園づくりだ。十八時前大久保通りを歩いていたら「石山さん」と後ろから声を掛けられ振り向けば、何と坂田明。お互い少し疲れ気味で、それでもブッ倒れた坂田が復活してキッチリそこに立っていたのは本当嬉しかった。十三日ピットインでやるそうだ。これは何かの縁だ。行かなくては。坂田明は復活しておった。健は死んだが、まだまだ友は残っているぞ、指折り数える位になったが。ベーシーの菅原に電話した。「オヤ、石山さん入院してるの」だって。坂田健在を知らせる。
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五月九日 |
昨日は二時迄、彰国社の原稿を書く。あと数枚だ。前に書いたモノの前に書き足して、少しは読めるものにしたい。朝屋上菜園に上る。イチゴを獲った。サヤエンドウがだいぶなっている。十三時光文社中町さん来室。沖縄の老人達の話をする。午前は院レクチャー。十五時より学部設計製図中間講評会。今年の講義はコレが最期だと思って、やっている。
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五月八日 |
教室会議は学部再編の議論で長びいた。当分会議は休めないな。十七時内閣府、沖縄ワークショップの件。
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五月七日 |
朝地下打ち合わせ。無駄かなとは思いつつ、なんだが、もう指示だけにしてしまおうか。十三時大学台湾からの演習G参加希望者に会う。秋からの参加にしてもらう。十四時楊さんドクター論文の相談。少し時間が開いたので十勝の図面に赤を入れる。
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五月六日 |
学部レクチャー後茨城県利根町へ。十三時四十五分取手駅東口で佐藤女史と待ち合わせ。役所の人間数名を交じえ総勢十名程で円通山泉光寺、鎌倉街道、幾つかの神社親水公園を見て廻る。十六時過まで。佐藤宅で夕食と会談。泉光寺の境内に桜の樹を植え直し、昔の状態に戻す事から始めたらどうでしょうと提案した。十六時過馬場昭道迎えに来てくれて、天王台酔庵へ。大隅さん、平和台病院長、昭道、宮武氏等と再会。すき焼ナベを囲むも、今日〆の原稿が気になって酒も飲めず、皆さんには申し訳ない事をした。院長も相談事があったらしいのだが、上手く対応できなかった。二三時過世田谷村へ戻る。セルフ・ビルド原稿にかかり、翌日二時修了。ホッとする。マザーテレサの館について書いた。ピンチになると良い原稿が書けるような気がするが、今日は友人達と久し振りに会い、佐藤健の酔庵で、しかも酒を呑まずに過せたのが良かった。
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五月五日 |
遂に連休は一日も休めなかった。これではいけないとは思うのだが自然にそうなってしまった。屋上菜園も私の為に作っている筈なのに、来訪者、見学者がそこに居る事の方が多いような現実だ。昨夜は二一時頃寝た。明けて三時頃目ざめてしまい、又四時に眠り八時前に起きている。眠るのも上手に出来ていない。情けない。八時四五分照屋君ホテルに迎えに来て、車で名護市へ。十時北部広域組合に着く。北部振興対策室長他、担当者に計画の説明をする。 今、疲れて帰りの便、どうやら少し眠っていたらしい。奄美大島の辺りを飛んでいるようだ。私だって、できる事ならば田中一村のように画業だけに命を賭けて孤島で果てるようなシンプルな生活をやれればやってみたいのだが。器用なタチじゃないのは自分が一番良く知っているのに、それでも色々とやり過ぎている。それが直らない。散逸の連続だ。でもナァ。建築設計だけやって、建築家でございのスタイルはチョッと受け入れかねるところがあるんだな。十九時過京王線新宿駅で世田谷村に戻る途中。キャンセル待ちを執ようにやって十九時の便を十五時半に繰り上げた。この三時間半で少なくとも原稿一本書けるだろう。明日は午後利根町に行く積りだが、今の体調では一人は不安な様な気もするが、だからと言って代りになる奴はいないのだ。二十一時前十勝毎日新聞連載最終稿書き上げる。
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五月四日 |
只今、昼の十二時チョッと前。羽田空港の九番ゲート待合いにいる。昨日のメモを記している。十二時半の便で沖縄へ飛ばなくてはならない。ウトウトしている内に雲の上だった。昨日のTさんの家はそれこそ生きる為の家だな。小さなローコストの家だけれど一生懸命やって差し上げよう。十七時前、那覇市ハーバービューホテルで小休。先程国建コンサルタントで打合わせをすませたばかり。那覇空港には照屋君が迎えてくれた。那覇はどんよりとした曇り空でポツリポツリ雨が落ちてくるような天気だ。沖縄計画の予算の説明で来ている。世界でも先端的なコミュニティ・モデルをつくりたい。これまでの様々な経験をまとめた形にしたいのだ。
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五月三日 |
十時、レウ・べレズニッキ来世田谷村。彼は七、八年前の私のスタッフだった。今は米国のミネアポリスで働いているようだ。彼のモントリオール郊外の森の中の家は良かったな。レウもすでに41才になっているそうだ。十三時大学。今日は新しい依頼者と会える日で、又、その状景をTVで収録する厄介な日でもある。十四時藤沢市のTさん一家来室。奥様と子供二人。メールですでに予備知識はあったが、御主人は進行性の脳委縮症で、研究室には歩行補助機を使いながらいらした。しかし、予想していたよりも彼はタフであった。言語障害も少々あるが、前向きであるし、少なくとも前を見ようとしている。奥様の話しをうかがってコレは並々ならぬ仕事なのを知った。実家から離婚をすすめられたが、しなかった。何故なら御主人の病気をまだリアルに感じられなかったから。そして私に家づくりを頼もうと思ったのは、実家も含めて今度の家づくりはプレファブメーカーのモノがやっぱりしっかりしているからと、すすめられ、それに対する反発もあるらしい。見返してやりたいと言ってたな、そう言えば。御主人の希望が賭けられた命と、奥さんの意地だな、この家の中枢は。私にとっても、こんなある意味では究極状態への家づくりは初めての事になるかもしれない。しかし、子供二人がまことに良かった。娘さんは、もう中学生だが家事全てを手伝い、よく仕切っているそうだ。立派に成人するだろう。本当はこの日記に、こんな風に他人のプライヴァシーを書くのはいけない事だ。しかしTさんはすでにTVカメラの前で私に会うのを了解して下さっているので、敢えて書く事にした。TVカメラを前に、二時間弱の対面、会話は厳しいものだった。私も全力で対応しなければならなかった。二週間後に第一案を作り、見ていただく事にした。お目にかかった後、少し時間があったので早速エスキスをする。十分程で一つ案ができた。究極の、建築家冥利につきる依頼への答えは遠いのだ。連休明けにエスキスをスタッフにわたす。十七時朝山さん来室打合わせ。この家の案には、まだ足りないモノがある。担当者安藤の力不足は勿論だが、それだけではない。私のアイデアの核がまだハッキリしていないのだ。
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五月二日 |
朝大学院レクチャー。転形期の建築としての鎌倉再建東大寺。南大門、浄土寺浄土堂。ゴシック建築と大仏様の技術に内在する世界性といった事を話す。いつものこの話しをする時は自分でも面白くて乗っちゃうんだよね。午後は幾つも相談、取材等。沖縄計画のディテールを少し進める。原稿少々。十九時過、α若松氏来室。社屋兼住宅打合わせ。二十一時世田谷村へ戻る。二十二時打合わせ少々。
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五月一日 |
朝世田谷村TV取材。屋上、屋内、地下共にカメラを廻した。この番組が出来るのが十月だと言うから、ノンフィクション番組を作るのは長い準備が必要なのだ。こちらも何度かの体験でTV番組の作られ方は少し知ったから、それなりに面白い。ちゃんとした番組作りとはキチンと附合いたい。十三時世田谷村市場ミーティング。十六時大学へ。M1今月の課題。二十時半世田谷村に戻る。少し皆の仕事を見て三Fの私のフロアで時間を過ごす。少し休めたかな。
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2003 年4月の世田谷村日記
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