石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年8月の世田谷村日記
 七月三十一日 日曜日
 七時半起床。良く眠ったが、まだ休養が必要だ。幾つか電話して、のんびり室内の取材を待つ。十一時ジャスト、カメラマン鷲尾倫夫氏、室内編集部芝浦信用金庫君来。屋上で何がしかの写真をとる。十一時四〇分修了。宗柳でソバを食べ、散会。鷲尾氏より写真集いただく。午後は風が吹いて世田谷村は涼しくなった。
 休みながら、ボーッとしていると色々な事を考えてしまう。そのほとんどが考えても仕方の無い様な事である。今年も半分以上過ぎてしまった。
 利根町百人スクールから利根町の新町長が出たようで、日出度い。百人スクールは現町長のリコール運動を成就し、なおかつ、新町長を出現させた。佐藤女史には勝っておごらず、影に隠れろ、自己露出するなと一方的なアドヴァイスを贈りたい。しかし、市民、町民、村民の力は組織化されると実に強いものだ。
 七月二十九日
 七時過、佐藤論に電話。十時Pホテル四十一階。李祖原とティー。十時三〇分浜野氏とミーティング。十一時四〇分修了。十二時、佐藤論、 Mr. K、李と昼食。打合わせ。十三時過了。十五時過迄、これからの事の打合わせ。疲れて、一度世田谷村に戻り、佐藤氏から連絡待ち。佐藤論は死んだ友人の佐藤健の一人息子だから、二代に渡る付合いになる。十八時迄横になって休む。今日はもう動きたくない。十八時半佐藤氏よりTEL。来週会う事とする。十九時李祖原よりTEL。二〇時半Pホテル四十一階で会う事になる。二十二時四〇分迄、打合わせ。二十四時前世田谷村に戻る。
 七月二十八日
 十時前Pホテル。オーチスジャパン社と打合わせ。修了後李祖原の朝食につき合う。北京プロジェクトに関して雑談。 Mr. K一行が来日して四日目になるが、四十一階での打合わせが続き、足が地に着かぬ感あり。要注意。十二時過昼食を取り、十三時半発。衆議院議員会館へ。十四時五〇分了。新宿へ。再びPホテル四十一階。 Mr. K、李祖原と打合わせ。十七時半頃迄。十八時新宿西口で夕食。二〇時三〇分了。 Mr. Kの考えが大体解ってきた。4日間も共に過ごしているのだから、当然の事である。 Mr. Kと意見をぶつけ合っていると、体の調子が良くなる感じで、これは異常だな。中国大陸の若さの象徴と対面している感じで、エネルギーを使い切らねばどうにもならない。
 二十一時過世田谷村に戻り、すぐ眠る。
 七月二十七日
 昨夜は北京Pに関して色々と考えてみようとしたが、疲れて眠ってしまった。今日は李祖原と話し合わなくてはならない。十一時半フィンランド大使公邸。早く着き過ぎてサラヴァーラ大使夫妻と少しおしゃべり。中国の話し等する。十二時栄久庵さん来。昼食会。静けさのパビリオンの話し等。十三時三〇分了。十五時前、Pホテル。十五時 Mr. K、李祖原とカーテンウォールの件でミーティング。Y社参加、プレゼンテーション。十六時半修了。K氏、李とロビーでくつろぐ。晩飯を一緒にしようという事になって、青山湖月へ。二十二時過了。Pホテルに送って、二十三時半世田谷村に戻る。体力の限界を感じる。
 七月二十六日
 十時半Pホテル。十一時李祖原、 Mr. Kと総体的な打ち合わせ。石山としては、早稲田サイエンス&ビジネス研究所にこのプロジェクトの何がしかの、イニシアティブを取らせろとオーダー。中国大陸との関係に対するセオリーとビジョンは我国の将来のスタイルを決めてしまうから。十二時、山田脩二、研究室の渡辺君四十一階に来るも、時間を割けず、申し訳なし。その後、 Mr. Kのオペレーションで車で渋谷に昼食に出掛ける。どじょうを食して、HOTELに戻る。十七時A社、Y氏、W氏とマネージメントの件でミーティング。 Mr. Kは直球を投げて、スーパーハードなネゴシエーションの幕が切って落とされる。日本の企業で、力を尽くして立ち向かえるところがあるのかをいぶかしむが、私も腰を据えぬと。十八時了。流石に全員、エネルギーを使いはたして、今日は散会。二〇時前世田谷村に戻る。今日は神経と頭を使い果したという感じだ。情けない。しかし、李祖原も Mr. Kも同じ位にハードなのだろう。
 七月二十五日
 八時起床。夢を沢山みたようだが、忘れてしまった。九州に帰った野本君まで出てきたような気がする。忘れた。八時四十五分朝食を終え、丹羽君にFAXを送り、一息ついている。現場を見た限りO邸は良い建築になるかも知れない。サイトとのスケールがピッタリである。九時二〇分現場。四〇分、又ホテルに戻り、三菱電機、屋根屋さん、アトム部長さん等と打ち合わせ。十一時迄。十一時半昼食。ロビーでバッタリ、宮崎の現代っ子センター藤野夫妻と出会う。全くの偶然で、双方仰天。夫妻は福岡市立美術館から何か賞のようなモノをいただいたらしく、それで今、市長さんのところに出掛ける為、このホテルにチェックインしたところだった。夫妻共お変わり無く、お元気そうだった。十三時、竹中工務店、三菱地所、お茶を飲みながら会談。十四時三〇分福岡空港。中国とのやり取りで大ドタバタがあった。 Mr. Kが今回、来日しないとか、結局羽田に十七時過着いてみれば、K氏はすでに東京着。新宿Pホテルに在室しているのだった。全く不可解なドタバタであった。何が原因なのか解らない。十八時過、新宿Pホテルで Mr. Kと会う。香港以来である。アメリカ、ヨーロッパと廻り、東京に着いた。四十一階で打ち合わせ。彼はアメリカで資金の問題をクリアーしたようだ。四〇階の和食レストランで Mr. Kグループとくつろいでいる内に二〇時頃西安→香港→台北→東京の李祖原&アン、ホテル到着。会食に合流。 Mr. Kは、つい先だって日本の小泉政権にドタキャンしてサヨナラして帰国した女性副首相の身近な人だし、中国政府と強い関係を持つ人間の一人なので、仲々、大変なんである。台湾国籍の李祖原も大変だろう。別に面白がっているわけではない。ここまでくると、キリキリしてしまうのだが、何とか持ちこたえたい。二十三時前散会。世田谷村二十四時半頃戻る。
 七月二十四日 日曜日
 六時半起床。荷づくり、書類整理。お茶を飲んで八時前発。羽田へ向かう。日曜の朝の電車は人も少なく、さわやかな密度だ。二〇五〇年は平日でもこれ位の人の密度になっているのかな。九時三五分羽田空港 56 番ゲート着。空港には子供が溢れている。夏休みになったんだ。十時半羽田発。十二時十五分福岡空港着。Oさんと空港内で昼食。竹内土建、蔭久氏と合流し田辺木材店へ。棟梁と打ち合わせ。木を見る。キチンとした仕事をしていて、ホッとする。十五時四〇分迄。暑い。浄水の現場チェック。上棟は二週間ほど遅れそうだ。基礎、及び地盤改良は土建屋さんだけあって良い仕事である。隣の竹中工務店のマンションも程良い距離で建ち上がりつつあり、O邸への圧迫感等心配していた程の事はない。都市内居住は色々とガマンしなければ成立しないのだから。大都市の只中に住む事とはそういう事、お互いのガマンの調整なのだ。十六時半、現場近くのKKR HOTEL・HAKATAチェックイン。一息つく。十七時前ロビーでOさんと打合わせ。十八時半現場で植木屋さんと打合わせ。マア、のんびりゆこうやという事になる、。十九時半HOTEL・NEW OHTANI、地下のレストランでカンサイ社長O氏と打ち合わせ、会食。二十一時二〇分迄。二十一時半過KKR HOTELに戻る。おいしいモノを程々に食べて、腹一杯になっているのではないが、これ位が良い。考えてみれば食生活に関しては、ひどい世界の住人であったのが、今は良くわかるな。要するに腹も肝臓も六分目が一番MAXIMUMなのである。
 明日は北京PのKオーナーが東京に来て、大ヅメの峠だ。私としても、打ち網をたぐり始めなければならない。この間の、つまり北京オリンピックサイトのプロジェクトの顛末は、十月からの工作社刊「室内」に書く予定だ。二〇〇八年の北京オリンピックは二十一世紀初頭の世界史の分水嶺である。二十一世紀は二〇〇一年、9・11で始まってしまったが、大きく眺めれば、やはり北京オリンピックが大きな節目だろう。アメリカ帝国主義に対する力は中国にある。建築世界の未来も、何もかも、アメリカと中国の不安定なバランスの中にしか描き得ないのだ。少々、疲れたので、休むとしよう、二十三時十五分、眠ろうとする。
 七月二十三日
 昨日、工作社社主山本伊吾氏との話しで、何故異端者と言われるのかと正面から問われたのにはうまく答えられなかった。あまりにも正面から問われたからだ。今、暮らしている業界でそう、言われているのだろう事は知っているけれど。業界での評言等には全く興味が無い。しかし、別に孤立を好んでいるわけでもない。自然に孤立するようになっただけだ。この孤立状態をどう、攻撃的構築性の中に表現できるかが、ここ数年の課題だな。山本伊吾編集長、社主は山本夏彦翁の息子さんである。山本夏彦は私の文章書きの先生だった。私にいささかの文章を書く事への情熱が無ければ、私はこの業界ではとっくに、つぶされていただろう。本格的な異端と呼ばれる人間の末路、老残は酷薄極まる。そんな意味では、今もこうして、とにかく平凡な教師生活、家庭生活も送れているのは山本夏彦のお陰であるのやも知れぬ。足を向けては寝れない。と言っても、どっちの方向に今、山本さんが居るのかは定かではない。私の異端振りの小市民性は私の本格的な孤立をさまたげ、同時にそれから救ってもいる。その意味で山本夏彦は恩人の一人だろうな。文章を書く事を好きにさせてくれたんだから。山本伊吾氏にはどうやら夏彦ゆずりの偏屈さがある。夏彦さんは真底作家らしい作家であったが、同時にジャーナリストでもあった。典型的なジャーナリストである。ジャーナリストの本分は野党精神だ。今の民主党如きの野党精神ではなく、強いモノには楯つくという本能的な魂を持つ、そんな野の精神である。その精神、気分の持続と言った方が良いかな、それは要するにヘソ曲りの極みである。多勢というのを信じましょう、というのが民主主義の根本だが、その多勢は時に暗愚と同義で大きな誤りも犯す。それを指摘するのがジャーナリストの大儀であろうから、多勢には時には背を向ける覚悟もいる。私みたいに、小さな業界ではあるが、常に多勢無勢では大方常に無勢側、すなわち負け組につくのが続き過ぎると、異端と言われるようになる。でも、大昔に早稲田大学の田辺泰先生が私に説いて聞かせたように異端というのはヨーロッパでは火刑に処せられる、宗教的な意味の内の概念であり、たかが設計業界、しかも日本のような理由のわからぬままの歴史的断絶の果てにある、つまりその存在そのものが、表層的に二流の変種である国の近代建築文化の中では、成立し難い世界の言葉ではある。
 そんな事を考えていたら、大学院入試面接に遅刻してしまった。十三時過青山で、浜野安宏氏と会う。北京オリンピックサイトのプロジェクトに関して協力依頼。浜野安宏氏は私とは違う世界の住人であるが、北京のプロジェクトに関してはそんな小さな事はどうでも良い。最適な将を最適な陣に布さねばならないのだ。浜野氏も流石勘は良く、事の重大、面白さをすぐ呑み込んでくれたようだ。十六時頃世田谷村に戻り、浜野氏よりの資料を読みふける。その最中に、かなり大きな地震あり、震度5弱位か。研究室から中国人留学生、陸海が心配して電話してくる位の仲々な地震であった。良く揺れたが世田谷村は全く大丈夫。夕方、クツを買いに出て、帰り宗柳でビールを少々、飲み、戻る。
 浜野氏の著作を改めて数冊読み直してみる。釣りに関するモノは、開高健には及ばない。開高健よりも、むしろ実質的には様々な実体験をしているようだが、それは結果として開高の釣り物語の表現には遠く及ばない。山に関するモノでは、失礼ながら異論がある。浜野氏が登高したグランドティトン(四一三一メートル)、浜野氏は二年間の体力づくりと、三日間のロッククライミング特訓を経て、ティトンに登ったらしい。しかし、グランドティトンの四千メーターの標高はこれも又、浜野氏が行ったらしい、ラダック、ザンスカールの村の高さと同じ位のものだと思うが、いかがか。アジアでは人間の村の高さだ。大体ロッククライミングのトレーニングは三日では出来ないのは歴然としている。ザイルの結び方を知り、各種道具の初歩的な名称と使用方法を知り、二、三回の実体験をすれば、それで終わりだ。こんな処に浜野氏の、神が一向に細部に宿ろうとしないのが歴然として見てとれてしまうのだが、プロデューサーは細部にこだわらないのだろう。それでもこの人には才があると感じた。その才とは、歴然としたポピュリズムへの同体感だな。多くの領域の概念を同じシステムで大衆言語化しているところがこの人物の最大の特色だろう。それが成し遂げられているところが凡人ではないところだ。ともあれ、中国のプロジェクトには最適の人なのではないかと思った。
 七月二十二日
 歴史家達の年を経てもあり続ける生気の素は何なのかな、とつくづくと思う。小さな自分を捨象して対象に帰心してゆく、その純粋さが年を取ってから、自分の身についてくる、そして自然に蓄積される自然の恵みなんじゃないか。彼等の存在が日本の今の惨状の救いかも知れぬと、いささか大ゲサに考えてしまう。日本は音を立てての崩壊の最中だ。ガラガラと崩れつつある音が聴こえるな。早朝、目覚めてしまい、独人そんな暗鬱さの中に沈降している。
 九時四五分府中。八大建設西山社長と国分寺O邸現場へ。十一時過了。府中で共に昼食、色々と寺院建築展開への作戦を立てる。十三時半研究室へ。十四時前、工作社、山本伊吾社主、長井、他来室。秋よりの連載その他の打合わせ。工作社の新人は何と歴史的な二人目の男性で、強くない体育会系、例えばバトミントン部とかの出身かと思いきや、何と何処かの文学部の演劇サークルの出身らしい。ビックリ眼玉のマッちゃんみたいな男で、と長年の工作社との附合いに免じて陰口をば言わせていただこう。私の担当になるのだったら、チョビリとしごいてやろうと決めた。十六時YKK来室。北京のカーテンウォールの件で打ち合わせ。日本の企業にしては流石前向きだな。十七時半より研究室内の幾つかの打合わせ。ひろしまハウス、農村研究会、O邸、S邸他。二〇時四〇分迄。近江屋で一息入れて、二十三時前世田谷村に戻る。
 七月二十一日
 暑い。中国、ロシア、他の国際関係の事が少し身に即して解ってくると、小泉政権のあやうさがわかる。郵政民営化の前に劣勢に立たされている外交をキチンとやって欲しい。国会は解散に向けて走り出してしまった。来週は Mr. Kの一団が香港からやってくる。その対応で今週は頭を使い廻しているが、一つの独立峰に登るには視野をもう少し固めておく必要がある。又、独立峰を連峰に展開してゆくこちらの構想力も必須だ。アンナプルナ連峰登山だなこのプロジェクトは。体力が持ち切れると良いが。力を尽くしてみる。
 十二時三〇分過教室会議その他十五時三〇分迄。八月二日からの広島市でのひろしまハウス展覧会オペレーション。一七時研究室発、東大へ。今夕は藤森照信のレクチャーである。一八時東大、藤森レクチャー。興味深いレクチャーであった。平板な歴史主義に陥る事のない、物と人間の葛藤の現場のリアリティーが底にあった。コンクリート打ち放しに焦点を合わせて、オーギュスト・ペレーとアントニー・レーモンド、それを継承した丹下健三という流れを浮き上がらせた。その後の酒席での鈴木博之、藤森照信、中川武、松村秀一、難波和彦の話しは更に面白かった。歴史は流れではない、時間の細部の積み重なりだ。二十二時半過世田谷村に戻る。
 七月二十日
 午前中私用で休む。十五時大学雑用。十九時半修了。その後も雑用、二十二時過世田谷村に戻る。
 七月十九日
 十時前研究室。梅雨明けて、暑い。研究室で旭ガラス伊勢谷氏と会い、北京Pのカーテンウォールの相談。伊勢谷氏の情報は流石にプロフェッショナル。台北の李祖原と連絡、大まかな方針を立てる。昨夜、北京からTELが入り、日本はナショナルホリデイかと、休むのはどうかな、みたいな感じだったが、私だって夜は休みたい。十二時大学院入試採点。十六時ひろしまハウス・プノンペン、設計図書が出来て、チェック。院生も良くやってくれた。エネルギーがあれば装飾のドローイングを中心に展覧会用のプレゼンをやってみたら良いのにと思うが、彼等の自主性に任せよう。十七時立山アルミ来室。赤坂先生より日本のカーテンウォールメーカーの情報入る。北京より設計図書CD届く。十九時過近江屋。二十二時半修了。二十三時半世田谷村に戻る。
 七月十八日
 今日も休日だが、今日から動く。
 九時烏山で原口氏に会い、北京パラリンピック・パビリオン、トラベル観光北京パビリオンの件相談。烏山駅前のコーヒーショップで。原口氏と話しているうちに、今年再開する室内の連載のアイデアがクリアになった。Aの話をしている時に、いきなりXの考えが浮かぶのは常の事だが、これ程迄のも珍しい。
 原口氏は今七十一歳、現役の仕事師である。壮年の頃はスーパーゼネコンの猛烈社員だった。家族を大事にしなくてはの事情があってその通俗路線を離脱。某大手コンサルタント会社に転職、今にいたる。原口氏の今の最大の関心はどうやら猫のジローと烏山周辺のカラスである。先ず猫。数ヶ月前、原口さんの家の前で夜、中学生の女の子が、道にうずくまっていた。なんだろうと思いのぞき込めば、小さな猫を両手に包むようにして、いたわっている。死にそうなんだ、この猫。それで原口さんは「もう夜も遅いから、帰りなさい。猫はオジサンがあずかるから」とあいなって、原口家には突然、猫が一員に加わった。調べてみたら何やらアメリカン何とかやらの仲々の種の猫らしい。そういう素振りをしやがると、言っている。嬉しいような、コノヤローというような、変なところである。それはそれで、色々あって、猫のジローは家族になった。気をつけて観察するに、子猫の耳に傷がある。半分喰いちぎられた様な傷である。烏のヤローの仕業だなと七十一歳のオジサンは考えた。
 毎朝、H氏は散歩が日課である。早朝の散歩者は老人が多い。老人は皆早起きだから。ある日、H氏は芦花恒春園まで散歩の足を延ばした。森の中で異様な光景を見た。ハトがカラスにいじめられているのだ。散歩する老人達はハトにエサを投げ与える。それでハトが群れる。烏はハトのエサの豆を食べられぬ口バシの構造なのに、それに割って入り込み、ハトのジャマをする。腹に一モツあるH氏は、それでカラスを追い払う実力行使に打って出た。カラスは飛び去り、H氏はいささか気持も晴れやかになった。猫のジローのうらみも少しはらせた。森を去り、広場に出た。頭にサアーッと何かが当たった。アレ、何だろうと、空を見上げればカラスである。何だこのヤロー見当ちがいしやがって、と歩をすすめると、又、サアーッと頭に戦闘機の如くにカラスが来襲した。見れば前方上空の電線には他の五羽位の屈強そうな奴がH氏をにらみつけている。ヤバイ、とチョッと背中に冷たいモノが走った。恐かった。近くのベンチに幸いステッキ状の棒があったので、それを持って身構えた。背中で鳴いている唐獅子牡丹♪の気分である。相手が仇役のヤクザでなくて、烏ってところが、チョッと寂しい。が、大いにおかしい。しかし、クールになって周囲を見廻した。これがオジさん達の身だしなみだ。こんなところ誰かが見ていたら、モシ、烏に負けて負傷したところなんか誰かが見ていたらの、配慮が働いてしまう。単騎突入の美学はうすい。と、近くのベンチに老夫婦が、まじまじとH氏を見つめているではないか。ヤバイ。これはヤバイとH氏は一たん手にしたドスならぬ棒をベンチに戻した。こんなところをあの老夫婦に見せてはいけないの配慮が働くのだ、オジサンは。それで、ベンチの棒の近くに座り込み三〇分もダース・ベーダーみたいな烏の帝国軍とにらみ合っていた。やがて、烏の方が根負したか、他に仕事の予定があったかで去っていった。H氏はホッと安堵の胸をなでおろした。緊張して事態を見守っていた老夫婦も、ベンチから腰を上げた。という様な話しを、延々と小さな事件と、大きな事件を組み合わせて書いてゆくってのはどうかな。室内の長井さんがコレ、読んでくれてれば良いのだけれど。それと、H氏に私が何を頼んだのか、これは少しばかりデッかい事を頼んだ。それを書ければ我ながら面白い。とは思う。

 十二時過世田谷村発。六車氏をピックアップへ。十五時前、油壺ヨットハーバー、月光荘へ並木氏を訪ねる。早大ヨット部のOB二名同席してくれて、頼み事二件。いささか食べて、飲む。並木氏は宮古島に家を持って移り住むらしい。うらやましい限り。十八時月光荘を辞す。六車氏を送り、二十一時頃世田谷村に戻る。

 七月十七日 日曜日
 昨夜、内田祥哉先生とお話しして興味深かったのは、内田先生がエストベリの建築への関心を話された事であった。ストックホルム市庁舎の中庭で、初訪欧の今井兼次先生に会われた話には驚かされた。エストベリのようなリーディング・アーキテクトが何故、あの様な歴史主義的スタイルを選択したのかが重要なことだとも。
 モスタルの橋が世界遺産になった事が報じられている。ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦で破壊された後に、ユネスコや各国の支援で、 16 世紀のオスマン・トルコの建築家が建造した石橋「スタリ・モスト」が今の技術をもって復元され、それが世界遺産になったという。技術と歴史研究会はこういう事をやらなきゃいけないのではないか。期待したい。
 七月十六日
 午前中世田谷村で休む。カバーコラム一本書く。今日は夕方、学士会館で松村秀一氏の建築学会賞受賞の祝いの会がある。
 午後大学、雑用。十六時過発、地下鉄で竹橋へ。十七時学士会館、松村秀一先生の建築学会賞受賞祝賀会出席。お祝いの言葉を申し上げる。中国のプロジェクトへの協力を松村先生に依頼する。当然の事ながら沢山な人がみえていた。野辺公一、高島直之にも久し振りに会った。内田祥哉先生にもお目にかかった。会終了後、会館内のBarで内田先生を囲み談笑。難波先生も参加。二十一時半過了。地下鉄で帰る。二十二時半頃世田谷村に戻る。
 二十一日に東大、技術と歴史研究会で藤森照信のレクチャーがあるそうだ。
 七月十五日
 十時大学。大学院レクチャー準備。今日が前期の最終講義。十二時修了。院の講義もとり敢えず休み無しで乗り切った。昼食のサンドイッチをとりながら、ひろしまハウス打合わせ。そのまま続きでM0ゼミ。十九時過まで。室内の長井さんと話し、秋くらいから連載を再開してみようかという事になる。私のウェブサイトの読者は決して少なくはないが、活字も大切なのは知っている。それに、室内は私には特別な雑誌だから。山本夏彦に会わなくなって何年になるのだろう。あの人物の不在は時間の密度を薄くした。
 七月十四日
 朝、電話その他。十一時半研究室。十二時人事小委員会。十三時半迄。佐藤先生より良いアドバイスいただく。有難い。北京の件で菅原氏に連絡。小野寺氏を紹介される。
 七月十三日
 早朝、李祖原からの電話で目覚める。昨夜、ロンドンの Mr. Kと打合わせをした結果を話したいという。九時過、李が宿舎にしている早稲田のドミトリーに行く。十一時半迄打合わせ。北京Pは急速な展開を見せている。李は打合わせ終了後成田空港へ直行。私は観音寺に寄って、大学内のコーヒーショップで一服。少し頭を冷やさないと。
 午後研究室に戻り、北京、プノンペン計画他打合わせ。二十一時過迄。二十二時半世田谷村に戻る。
 七月十二日
 九時前大学へ。今日は李祖原とテンポラリー部の打合わせをしなくては。
 十二時レクチャー了。原則的に休講も無く何とか乗り切った。が、若い学年へのレクチャーは対応の仕方を考えぬと仲々難しいのが実感だ。小休して李祖原を待つ。午後の全てを李祖原と北京Pの打合わせに費やす。夕方、ひろしまハウス・カンボジアの打合わせ。唐桑町の佐藤和則町長来室。十九時頃より李祖原、佐藤町長を含め、近江屋で打合わせ。色んな件が乱れ飛んだが、なんとか把握した積り。二十一時頃散会。佐藤和則町長と新宿へ。色んな話をした。〇時半迄。久しぶりにTAXIで世田谷村に戻る。一時過になった。一九八八年から六年間続けた唐桑臨海劇場の、佐藤町長は形として残っている大事な歴史つまり人材そのものだから、大事にしなくては。
 七月十一日
 十時過大学。昨夜来日した李祖原と北京Pに関して打合わせ。大づめに近附いてきた。十二時過迄。昼食後W氏来室、北京ビジネスモデルのつめ。十五時迄。小休。中国の仕事に関してはお金の話しに結局は終始して、実にハードであるが乗り切りたい。
 夕方迄、李祖原と打合わせを続ける。十九時近江屋で夕食。李祖原と共にロンドンの Mr. Kとモバイルで話す。何とか北京オリンピック周辺のWORKは成し遂げたい旨伝える。二〇時半頃迄。今晩は一時間程この件に関して考えを巡らせる必要があるな。二十二時前世田谷村に戻る。
 七月十日 日曜日
 休み。
 七月九日
 長田弘が新聞にエッセイを書いている。「長田弘さんからあなたに」人生の特別な人に宛てて、抒情の変革の詩人は成熟して深みを増している。うらやましい限りだ。この類のタイトルが容易に示すようなエッセイは得てして独りよがりなセンチメンタリズムに落ち入りやすいものだが、長田弘はそれを一線の距離、紙一重でぎりぎりにしのいでいる。しのがせているのは文体であり、それでしかない。古い同級生、見知らぬ街での死、たった一通の手紙と内容を要約すれば陳腐さそのものの行列なのだが、長田はそこにある種の品位を与えているように感じた。しかし、よくよく考えていみるならば、実人生は陳腐としか言い様のない事の連続であるから、その現実をどう表現してるかが人間の品位というものになるのかな。日々の生活は表現なのである。誰でもが表現者なんだ。
 午後遅く大学へ。陸海博士論文「ダム建設における非自発移民住居の研究」相談。中国は世界最大の移住民を国内に抱えながら、北京オリンピックの達成に向けて走っている。夕方、八大建設西山社長来室。西山さんは、私の大学院時代からの長い附合いで、今日はこの四〇年近くの附合いの再確認を残そうと言う、マア、歴史的な会合であった。色んな事があるけれど、ディテールにかまけず、突切って行かねばなるまい。西山社長の如きは私にとって取り代えのきかない、存在なのである。十八時大巾に過ぎ、新宿西口、住友ビルで西山社長と会食。土佐料理ねぼけ。二〇時過半過ぎ頃修了。西山社長と別れ、世田谷村へ。本当にやりたい事をやるならば、西山社長位をスタッフにした方がいいのだよね。この真底を身体で理解するのに随分な無駄な時間をかけてしまった。二十一時半頃世田谷村戻る。
 七月八日
 昨日はロンドンで恐らくはアルカイーダによる連続爆破テロがあった。東京もあぶない。恐ろしい日常になっている。十時四〇分大学院レクチャー。十二時二〇分迄。その後ひろしまハウス、他打ち合わせ。十五時半迄。来週より英国の高校に通う女学生が二週間インターンで研究室に滞在することになった。十六時前近江屋で昼食。渡辺他と。色々と独人言をつぶやいて、アイデアを固めようと試みる。十七時半頃終了。
 七月七日
 十時大学。講演会の準備。
 十一時松下電工、空調打合わせ。十二時大学発、近江屋でソバを食べて十三時東京都庁。十四時より東京を描く市民の会講演会。十六時迄。町の記憶と題して話す。終了後市民の会の主要メンバーとビールを飲みながら話し。気がつけば十九時前まで。今日の町の話しは全て、私の四〇代の十年間の話しで、今から二〇年も昔から十年昔迄にやった仕事の話しだった。もう大昔の出来事である。二〇時前、新大久保近江屋で各種ミーティング。二十一時過迄。
 七月六日
 一時、頭が勝手に動き始めて止まろうとしないので、起きている。
 八時半起床。郵政民営化法案衆院通過。薄氷の票差で、政界はすでに小泉政権後に向けて流動化しているのだろう。十時半府中。八大建設西山社長と打合わせ。
 十二時過大学へ。打合わせ。ひろしまハウス in プノンペン等。十六時毎日新聞六車氏来室。野村を交えて打合わせ、十七時四十五分迄。十八時過近江屋で六車氏と会食。故佐藤健の事等つれづれなるままに。十八時半W氏参会。二〇時前頃散会。二十一時過世田谷村に戻る。
 七月五日
 十時研究室。学部レクチャー準備。十時四〇分レクチャー、及び質疑応答。大学院のレクチャーの質疑応答とは全く違う質問が多く、とまどいを隠せない。変なところで院生の成長を実感した。午後いささかの雑用を処理する。
 夕方より、北京、台湾と通信。中国の仕事にはタフネスとスピードが要求される。小さな事でグラついていたら前進できない。反日デモの行方、小泉首相の靖国参拝その他諸々、北京オリンピックの開催を揺るがす出来事が起きるかも知れぬが、それは天に任せるしかないな。それにしても北京のK氏の行動半径の広いのには驚く。パリ、スイス、ワシントン、北京を切れ目なく飛び廻っている。中国の若い実力者と互角に渡り合うのは、先ず気力、体力が必須である。MSP野口社長ともモスクワの件で連絡。モスクワの仕事もハードである。命がけで動き廻っているコンドルの群だなコレワ。二十一時半修了。二十二時半世田谷村着。
 七月四日
 週初めの今日は、十時半研究室。打合わせを始める。十八時四十五分迄延々と打合わせ、及び研究室内レクチャーを続ける。流石に、水を飲んでもコーヒーを補給しても、消耗した。昼食は同じテーブルでのサンドイッチのみ。十九時、今朝モスクワより帰ったばかりのW氏来室。ロシアでのビジネスの経過を聞く。着々と、じわじわといっているようで心強い。中国の李祖原と連絡、北京の仕事も大ヅメに辿り着いた。二〇時近江屋で会食、というよりもビール飲んで疲れをいやす。二十一時二〇分頃了、新宿を経て、烏山へ。
 七月三日 日曜日
 宮本常一写真・日記、集成パンフレットの表紙の写真が素晴らしい。いつ見ても気持ちが和む。おそらく一九五〇年代の瀬戸内の海だろうか、大きな渡し船に乗った三〇名程の小学生達が宮本のカメラに向かって笑っている写真である。皆いい笑顔だ。今の日本人とは全く異なる民族としか思えぬような顔である。昨夜Kさんも、日本の将来はもう駄目だろうと言っていたが、この五〇年代の子供達の写真を見ても、今の若者達の顔つきとは恐い位にあまりの違いがある。九時過世田谷村発、国分寺O邸へ。打合わせ。十二時前迄。十三時頃世田谷村に戻る。
 七月二日
 近頃少しばかり行動半径が狭くなってきたのを自覚する。地理的な広さ、狭さの問題ではなく、むしろ自身の構想力の大きさの問題に属するものだ。年を取れば体力は自然に落ちるが、それと同じに構想力の領土が狭くなるのは辛い。カバーコラム2本「ひろしまハウス」1・2書いて、大学へ。
 十六時過大学。渡辺君他と打合わせ。O邸のディテール、庭園の吐水口、及び複雑な屋根の排水、樋のデザインの基本方針を決めて、広島の木本君に送附。クライアントに感謝しなければならない。十七時五〇分大学発。十八時三〇分新宿にてKさんファミリーと会食。二十二時前迄。楽しい会であった。
 七月一日
 七〇才から始めようと考えている、変な言い方だけれど遺作の構想を描き始める。人間は誰もが最後の作を何らかの形で残さざるを得ない。
 十時四〇分大学院レクチャー。質疑応答。予想を超えて手が上がり仲々面白かった。これならば来週もう一回やってみよう。午後大隈会館打合わせ。十六時古市設計事務所相談。十七時研究室戻り。二〇時迄ひろしまハウスINプノンペンを中心に打合わせ。近江屋で小食後世田谷村に戻る。
2005 年6月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
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