石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年7月の世田谷村日記
 六月三〇日
 午前中杏林病院定期検診。午後大学。打合わせ多数。中川武先生。入江主任。三好シュターク大学院特別選考入試面接。十七時建築学科人事小委員会。偶然ではあったが、昨日と同じ原兵衛で。今日は二階の座敷。昨日のつづきだが、原兵衛のカウンターに佐藤健、三輪田、六車が扁を並べている姿は、そのそれぞれを知る人間にとっては人生の縮図を示すドラマだが、知らない人にとってはただの呑み助のオッサン達であったろう。何気ない日常に無数のこんな劇が秘されている。建築教室の集まりも実ワ、そうなのだ。何とか、建築学科の為にも頑張りたい。
 六月二十九日
 昨夜は深夜より雨が降り始め、ようやく空気が冷んやりしてきた。世田谷村には冷暖房らしきが無いので、天候の変化には流石に敏感になった。十時前京王稲田堤、星の子愛児園増設部竣工検査。その後厚生館で近藤理事長にお目にかかる。近藤さんは厚生館にパッションフルーツ、パパイア、園庭部分にあけび、高山からいちいの樹と、植物を子供と一緒に楽しもうとしていて、いい感じである。十七時過研究室に戻り、毎日新聞六車氏と相談。少年野球と地域づくり、早稲田大学野球部の組み合わせで何か出来ると良い。十九時過高田馬場原兵衛で六車氏と会食。佐藤健がイチロー物語を書くのに、イチローをオリックスにスカウトした名スカウト三輪田を六車氏が紹介した。それが、ここ原兵衛の、ホラ、そこのカウンターなんだと言う。三輪田氏は往年の早稲田野球部のサウスポー、大エースだった。三輪田の蔭に隠れて、名門高松一高出身の投手六車は遂に一度だけしか神宮のマウンドに上る事ができなかった。しかし三輪田はプロ野球では成功せず、スカウトに転身、誰も着目していなかったイチローを発掘する。イチローは今や大リーグのヒーローである。 つづく
 六月二十八日
 十時大学。十時四〇分学部、小試験実施。十二時過了。十三時前、原広司さん講義で来校。ごあいさつ。内部打合わせと調整。十三時半過打合わせ。その後、一階大会議室での原さんのレクチャー終わりの方だけ聞く。南米のプロジェクトの話。散逸と全体というような基調を持つ話しだった。終了後、原さん、中川武氏とおしゃべり。原さんは六十八才になったと言う。昔とあんまり変わっていない。原さんの話し自体はとても解りやすい。しかし、その造形あるいは美学自体の非散逸性、というか、近代主義的な枠組みはガッチリと固い。自由だなと眼に映るところは、皆装飾的なものであると見た。私が考えている開放系技術デザイン論と類似する部分もあり、原さんの場合は自発性、自動性の拡張による、アナーキで自律的な都市、その全体を構成すべき自律的部分の構想が二十一世紀建築デザインの主題であろう、と言っている。集落のサーベイの財産をどうデザインとしてまとめるかだろう。
 十八時過ひろしまハウス・プノンペン打ち合わせ。新しい人間に最終段階の設計をバトン・タッチ。四名が引継ぐ。一人、プノンペンの現場経験が無い者が居たので、ひろしまハウスの歴史を含めて、スライド・レクチャー。振り返ればもう八年以上、この建築には関わっている。研究室内でも何代にもわたって作業がリレーされている。前の担当が残した手の跡をできるだけ消さぬように進めているのだが、それが建築に反映されてくれると良い。二十二時前まで。この建築は、建つ場所もデザインのすすめ方も近代の諸制度から外れているのが価値だと思う。来年で一区切りつくだろうとは希望しているが、まだまだ解らない。二十三時前世田谷村に戻る。
 六月二十七日
 十四時三菱電機来室。O邸に関しての綿密な打合わせ。十七時照明デザイナー長町さん来室。これも細部にわたる打合わせ。十九時半迄。スペシャリストは皆元気だ。二十時半近江屋でW氏と打合わせ。二十一時半迄。二十二時半世田谷村。
 六月二十六日 日曜日
 九時頃起床。昼前、毎日新聞六車氏より、TELあり。来週食事することになる。毎日新聞、ひと欄に李祖原が出ていた。いい顔して写っている。コラム「伴野一六さん亡くなるの報に接して」書く。
 六月二十五日
 十一時前地下鉄有楽町線氷川台で待ち合わせ。Sさん御夫妻と軽井沢の現場へ。十三時Oさん一家と合流し、原木置場見学。径四十五センチメーター程の、モミ、赤松の原木が2米弱に転がされているのを見る。軸材には使えない。横積みにしてなら使えるかもしれない。十四時半頃、S邸現場。十八時過まで打合わせ。幸和建設、棟梁、サッシ屋さん、設備屋さん、電気屋さんと。石井君も、まだ常識では若過ぎるとは考えているが、鉄は熱いうちに打てで各、職方との打合わせをさせている。二〇時半頃東京帰着。Sさんに中華料理ごちそうになり、二十二時頃地下鉄大江戸線にて帰る。いささか疲れて二十三時頃世田谷村帰着。
 六月二十四日
 何となく、歩きたくなくて、新宿よりバスで大学へ。曽田先生とパッタリ会う。学生の一種無表情振りが心配だと先生も話していた。十時前研究室。大学院レクチャー準備。フランク・ロイド・ライト、ビルバオ、ゲーリー。アメリカの建築。気仙沼の建築について講じる。来週からは別体系の話しをする予定。十二時十分迄。一時間半しゃべると、いささか消耗するな。
 十三時より雑打合わせ。北京計画、猪苗代、アジア工芸社、リアス、他の打合わせ。その後、O邸、S邸打合わせ、細部にわたる。古い作品をスライドで見せてスタッフ、学生にデザインの仕方を見せる。何かの役に立つのかなあと疑わしいが、しないよりはマシだろう。二〇時半迄続ける。近江屋で夕食。世田谷村に戻る。
 六月二十三日
 朝、コラム一本書く。昨日、軽井沢のO氏よりカバーコラムの字が小さ過ぎるの指摘があったので、今日修正したい。コラム、もう一本書いて大学へ。十三時半法政大学の学生来室。十四時元広島市長平岡敬氏来室。カンボジアの「ひろしまハウス」の件。予算が取れそうなので、今年中にほぼ完成させたいので、最終図面を七月一杯に仕上げてくれとの事。了解する。ゆっくり、未完を続けるのも良いが、折角、行政が関心を寄せて下さるのだから、普通のやり方も取り入れるべきだろう。平岡さんはカザフスタンに八月行かれると言う。反核に関して、平和に関して筋金入りの人物である。この人物と出会えたのは私の人生でも記憶に残る事となるだろう。まだまだ骨ある人は居るのだ。懐かしさの極み「伴野一六邸」の伴野一六さんの孫娘伴野優子さんよりメールいただく。伴野一六さんは四年前に亡くなり、あの稀代の聖バラック、一六邸は三年前に取り壊されたの事である。図面だけでもキチンと取っておけばと悔やまれる。優子さんにはメールを返信する。もう何十年も前の事で、私の二十代をかなり決めた建築であったので感無量である。
 コラムの文字大きくしたが、読者の方迄それが届いているか不明。OG向井来室。北河原温さんのところでお世話になるのが内定したとの事。気になっていた人なのでホッとした。後、雑打合わせ。気仙沼に関してスタッフに話すも、伝わらず、でも仕方ない事ではある。唐桑町長佐藤和則氏と電話。何とか現状を打破する事を仕掛けたいのだが、数を集積すれば、今を変えられる方法があるのではないかの幻想を抱かざるを得ぬ。十九時過近江屋へ。W氏と会食。四十代のW氏の言う事には何とないリアリティーを感じる。が、後続の世代はそれを引き継げるのかの疑問は大なり。二十一時半頃修了。後続の世代に継承したいと考える、その事自体に無理があるのかなあ。
 六月二十二日
 昨夜は熊谷守一に関してのいささかを書けたのが収穫であった。盟友佐藤健を失い、その空白を埋めるきっかけにもなるような気さえした。佐藤健は今思えば、その内面の全てをうかがい知る事は出来ぬが、良く病と闘い、元気に死んでいった。フト、思い立ち早朝熊谷に関して書いたものに,少々の附け加えをした。アレはアニミズムの世界だ。九時二〇分世田谷村発京王線稲田堤へ。小雨降る。
 十時前星の子愛児園現場。弥彦工務店と増設ブリッジの打合わせ。建築というのは実に色んな、涯てしない問題が起こるものだ。この愛児園も増改築を重ね、周囲の風景すらも変化が激しい。この建築もどんな風に大人になってくれるのかな。十一時発。十六時東京駅北口ドーム下で軽井沢のO氏と会う。史上空前と敢えて言うが超ローコスト住宅の施主である。若い時には平然と取り組んだが、今の私の年で超ローコストの住宅は引き受けない方が良いに決まっている。がしかし、建築のコストの諸問題に大矛盾があると気付いて、それを何かと実践的に解決する糸口を発見するのを研究主題の一つとしている私には避けられないのだ。社会的義理だ。しかし、敢えて火中に入るの感もないではない。小建築程エネルギーを消耗するし、考えなければならぬ事も多いから。O氏はそれを理解してくれるかも知れないが、どうかな。O氏と沖縄料理を食べながら相談。スタッフ安藤同席、こういう仕事は本当に三〇代で対面したかったが、マ、しょうがない、巡り合わせだ。三〇代の安藤は空気抜けてるし、実に諸行無常である。グリル東京でビールを飲んで散会。二十時四〇分ごろ。二十一時十分過京王線新宿駅で烏山へ。O氏は今晩は昔棲み慣れた秩父に帰ると言っていた。秩父困民党の秩父である。住宅設計はもう止めたい、止めたいと思いながらも続けているのは、まだ見知らぬ膨大な未知の人間との遭遇の、その一瞬のスリルの価値にある。ボクサーで例えれば、まだグローブを交わしていない相手との遭遇である。人生は、実は退屈きわまるものである。何もしなくても、誰とも出会うことなくても生きていける。その退屈さに耐えられない人間が、時々のショックを求めるのだが、建築家にとって、住宅設計の依頼者という者はそういう者である。前向きなショックさえくれれば良い。何か、小さな刺激でも鍼治療のそれ位でも与えてくれればそれで良い。それ以上の事は何も求めはしない。私だって、住宅設計は設計料欲しさの、金の為にやっているのではない。偉そうに言うが、そんな時期は二〇年も前に終わっている。でも、住宅設計の依頼者は個人そのママが時に現れる。自治体や国や法人を背負っていない。それだけが魅力であり、又、それしかない。あと、幾つ位住宅を手掛けるのか、キチンと計算した方が良いな。やればやる程理不尽な傷も負うし、要するに個人対個人なんだから、やりたくなければやらなければ良いのだから。二十二時十五分前、世田谷村に戻る。南の菜園から、玄関迄三〇歩。しかも、その小半分は我家の二階に浮いた床の下なんだから、寂しい限りだ。良く、マア、熊谷守一は五〇坪のの森で充足できたかと今更ながら恐れ入った。
 六月二十一日
 十時大学。学部レクチャー準備。十時四〇分講義。十二時了。修士論文相談。十三時GA杉田氏来室。久し振りにおしゃべりを楽しんだ。杉田君も面白い事を考えているんだ。刺激的だった。十五時過ミセス取材。自由に勝手な事を話させてもらった。十六時了。第二厚生館に木本君の子供像を見にゆくつもり。
 十七時過新宿。京王線稲田堤に向かう。私もデジタル・カメラに切り換えるかとボンヤリ考えている。GAの杉田はチョッと宣教師ぽいところがあって、話している内に何となく教宣されてしまった。キャノンのはどうやら八千ビットでニコンのは六千ビット。企業戦略を賭けて決めた事だろうが、消費電力は同じだと言う。ニコンは六千ビットで充分だという判断、キャノンは合理的と考えられる性能よりも、少し上乗せした方が販売戦略上有利だと判断したのだろう。プライスはまだ知らぬがSONY対SHARPのように敗け勝ちがいずれハッキリするのだろう。先端分野の市場競争の現場は、一つの決断が勝敗を決めかねぬ世界らしい。決断の連続が企業の個性を作るのか。十七時半星の子愛児園現場。十八時前厚生館に木本君の枯華微笑の像、見にゆく。玄関の良いところに置かれていた。理事長先生とはすれ違い。残念。世田谷村に戻り、〆をとうに過ぎているエクスナレッジの原稿を書く。二十一時前修了。熊谷守一の住まい方、みたいな事を自由に書かせてもらった。研究室にFAXで送付。
 六月二〇日
 十時半世田谷村を発つ。十一時過大学。諸雑事。十四時過シャープ社来室。リアスアーク美術館、他のプロジェクト相談。雑打合わせ幾つか。近江屋でソバ会食で若松氏と相談。二十二時過世田谷村に戻る。
 今日も何とか時間をひねり出して、HPのカバーコラムを新しく一本書けた。コラム風に書く度に、山本夏彦翁の厳しい笑いを思い起こす。しかし、やってみよう。一日一本のコラムを書くのを責務にしたい。長い論を書くのが律義な願望だが、三枚弱のコラムを書き続けるのも、それ以上に大変なのだと敢えて言う。近江屋で会った友人から資本の増資よりも、減資の方が投資家に喜ばれるという現実がある事も勉強した。資本のゲームは誠に複雑極まる。
 六月十九日
 今日は休む。昼過、ニューヨークの次女友美より電話あり、元気そうだった。あいつは強い。何かをやり遂げるかも知れない。親バカだね。
 六月十八日
 午前中世田谷村で仕事。十三時前大学。鎌田遵君来室。磯崎宙、山本匠一郎両君来室。十三時三〇分過予定通りアレクサンドロ・ソクーロフの「精神の声」上映会。四〇名位の人が集まった。私も始まりの一時間位だけ附き合おうと決めて、観始めたら、これが実に眼が離せない、不思議な力を持つ映画で、とうとう全部観てしまった。十八時三〇分頃修了。この映画の戦争の現場であるタジキスタン、アフガニスタンの国境地帯に、それでも行く意志のある人間だけ残って、連絡先を記名してくれの結末で、結局十四名の人が残った。内、女性三名。ソクーロフの映画に登場する兵士たちと同じ年位の学生もいて、彼等があの五時間の体験で何を感じて、何に興味を持ったのか、聞いてみたい気がする。彼らが現実にあの映画の兵士達のように、荒涼たる原野で粗い石を積み続ける事が起きたら、これは現代の日本では奇跡に近い様な事であろう。
 夕食は高田馬場、文流で。磯崎、山本両氏と。二十三時頃世田谷村に戻る。
 六月十七日
 十時大学、大学院レクチャー準備。一九九五年サティアン、ドラキュラの家星の子愛児園。二〇〇五年木場倉庫。設計の中の小さな歴史。昨日、混野君に会っても、一昨日、坂田明に会っても同様な事を感じたのだが、ここ十年の日本そして身の廻り、及び私自身の激変振りは大きい。白い廃墟に生きている風あり。
 十二時十五分了。ダムダン竹居正武氏といささかの連絡。十六時迄諸々の雑用。その後打合わせ。二〇時迄。細かな打合わせ程エネルギーを要する。二〇時二〇分近江屋で若松氏と会食。二十一時半迄。二十二時過新宿、京王線のシートに座っている。明日は午後、研究室で色々と用事の予定だな。二十二時半、世田谷村に戻る。
 六月十六日
 四時十五分世田谷村帰着。マア、良く走ったね。すぐに倒れるように眠る。十六時研究室。気仙沼の昆野武裕氏来室。彼は十七、八年前の私の気仙沼通い開始のきっかけを作った人物で、お互い年をとったねと、あいさつ。彼は気仙沼のリアス・アーク美術館副館長になっている。気仙沼の沈滞、無風は底知れぬものがあるようだ。十七時若松氏来室。十九時近江屋でソバを食べながらモスクワの話し、その他。二十一時過世田谷村に戻る。
 六月十五日
 六時二〇分起床。朝食をすませ友岡親子の車を待つ。眠い。
 東北道を走り、十四時前湖南町の現場到着。十六時過迄現場で少しアドバイス。コンテナ四ヶとコルゲートを組み合わせた小建築は全て友岡社長のアイデアですすめているので、私はホンの少しの助言をするだけである。デザイン、表現としては、マア、大変問題のあるB級建築だが、私の持論である開放系技術建築としては仲々良いのである。私もようやくにして、その辺りの事はハッキリと解ってきたので、大いに満足した、と割り切ってみた。しかし、マア、美しくはないのである。二、三助言したのは構造的な助言が主であったが、それは同時にもう少し美しいようにという、考えが入っての事。コルゲート部分とコンテナを緑のじゅうたんでカバーするように助言したのは、時代の趣向に合わせたのだろう我ながら。この辺りは自分でも少し怪しい。帰途につくも、東北道に入るところで、事故による道路封鎖、再開のゴチャゴチャがあり、結局一ノ関に向かう。一ノ関ベーシー着二十時頃。坂田明のライブはすでに始まっていた。いささか疲れてはいたが、坂田のライブに参会できて良かった。二十一時半ライブ終了。坂田明と再会を互いに喜ぶ。坂田の息子の学のドラムが仲々いかしてたな。ベーシー近くの大晶苑で菅原昭二、坂田明、高橋さん等と焼肉を食べ、二十三時過一ノ関発。東北道を走り抜いて東京に戻る。友岡社長 Jr. は全行程一人で運転、少したくましくなったな。
 六月十四日
 朝、真栄寺の昭道さんにいささかの相談。九時世田谷発。
 十時大学レクチャー準備。今日は一つの建築が出来るまでの、紆余曲折、小歴史、外からの力、内からの力というような事を講じる。淡路島山勝工場を巡り、山口勝弘という一人の芸術家が私に与えているイメージから出来た建築の話し。
 十二時迄レクチャー。山口勝弘氏の最近の絵画作品等を最後に見せた。自分の為にもなった。明日は一ノ関ベーシーで坂田明のライブがある。友岡社長と共の猪苗代鬼沼行の帰りに寄ってみるつもり。午後、チリからの留学生アベルのチリでの小住宅処女作のプレゼンテーションを受ける。彼は三〇才、新しい世代の建築家だ。いずれカバーコラムで紹介するが、仲々良い。
 夜、西調布でNさんに会う。二十二時半世田谷村。
 六月十三日
 九時世田谷村を発つ。
 十時研究室。丹羽君が日曜日にホームページに手を入れてくれたようだ。毎週毎週の休日更新は無理だろうが、読者諸氏はページの更新の速力を求めているので、それには出来るだけ応えたい。ネット社会の新しい事態に対面している。私自身がサイトの編集が非力なので丹羽君に負担をかけている。昨日と今朝、カバーコラム藤森照信の「人類と建築の歴史」書評書く。ついつい興が乗ってコラムには過ぎた字数になった。字数が増加して読むのが大変になると、そのサイトはパスされてしまうようで、誠にネット情報は難しい。それでも大方の読者の支持は増えている様だ。このページは研究室の毎日の機関誌として充実させてゆくつもりだ。
 すでに六月も半ば。やりたい事は山程あるのに、出来た事は小さい。
 松村秀一氏が日本建築学会賞(論文)を受賞して、その祝いの会が七月に持たれるとの知らせが入った。良かった。彼の容量の大きさに託さねばならぬ事はこれから益々ふえるだろうから。二〇時過新大久保駅前近江屋でスタッフと会食。二十一時四〇分修了。世田谷村に戻る。
 六月十二日 日曜日
 久し振りの休日。川添登さんから贈っていただいた、「メタボリズムとメタボリストたち」(美術出版社)他乱読。夕方、上の菜園、下の菜園に生ゴミを埋める。一週間程の生ゴミはかなりの量である。こんなにゴミを排出して暮らしているのだと、実感する。メタボリスト達の中では大高正人氏のの章が面白かった。大高さんには何かとお世話になった事もあった。自由民権運動の父を祖に持った人であるのを初めて知った。 藤森照信の「ダイナミックな建築史」再読。川添登の文のスタイルと藤森のそれとは、全く異なる世界であるのを実感する。藤森のメタボリスト達の評価を読んでみたい気がする。藤森の基盤は何と言っても、日本の近代建築(明治洋館を中心とする)をほとんど全て実見し、体感している事であろう。ラスキンではないけれど、設計者やレンガ積みをする職人達の側に立ち、彼等の想像力や夢の側に立ち建築を考える事が出来るようになった。同時に史家として、それ等を概観する事も可能である。それ故彼は必然的に後半生、作家になりつつある。
 六月十一日
 流石に、李祖原と同行したこの一週間はいささか疲れた。朝はゆっくり眠らせてもらった。昼過ぎ宗柳でK君を交え昼食。
 今日は設計製図の講評会で、十三時頃大学へ向かう。今日、学生達に、タジキスタン・キルギスタン・カザフスタンの説明会、ソクーロフのビデオ会のアナウンスする予定。諸々の事を考えれば、今、危険度Aの地域での仕事の情報を学生に伝えることの是非は考慮しなくてはとは思うが。磯崎新も大変な事を言い出したな。十四時過大学。
 十五時講評会。十九時頃修了。二〇時過入江、赤坂、宮崎、各先生と会食。二十三時頃迄。世田谷村に二十四時前戻る。
 六月十日
 重い曇天。九時過世田谷発。十時研究室大学院レクチャー準備。
 十時四〇分院レクチャー。今日から三回程は私の建築設計方法について述べる。第一回は宿根木に学ぶ。岡山建部町国際交流館第七官界鳴子・早稲田桟敷湯、西早稲田観音寺。陸の大工と船大工の数学の違いの表現について。十三時過李祖原と昼食。ベジタリアンカレー。
 午後打合せ、幾つか。李祖原明日帰国でサヨナラ、又、来月。  赤坂喜顕氏来室。九州現場の件でお願い事。赤坂氏は今年より竹中工務店から早大芸術学校教授に転職。話を聞くと、大変な情熱で授業その他に取り組んでいるようだ。教職は情熱が現場で学生に伝えられなくなったらおしまいなのを、改めて教えられたような気がした。十八時過ぎよりスタッフ、学生に私の過去の作品をスライドレクチャー。スタッフに対しても同じ事である。彼等は私の鏡なのだ。私が情熱を失えばたちどころに同じになる。力をみなぎらせていれば、少しづつではあるが染み渡るだろう。  二十二時世田谷村に戻る。電車の吊し広告に週刊新潮の内容が示されていて、「小泉『靖国参拝』私はこう考える」の中に木田元の名があり、木田先生がこういうところでどのような意見を述べているのか興味深く、買って読んだ。高山建築学校でお目にかかっていた木田さんは大哲学者というよりも、特攻隊生き残りの闇屋の風格をにじませていたので、靖国には特別な関心をお持ちなのだろうといささか揺れる気持ちもあったが、読めば、やはり参拝反対の意見を述べられていた。木田さんらしい体験に根を張った一見地味な発言であったが、要は中国での植民地支配時代の記憶は日本人だけの論理で片付けることはできないというモノ。他にも多くの人の意見が述べられているが、それぞれの人間の風格の水準が知れて面白い。有名人というのは、何によって有名になったか、その根本の性格が知れるような気がした。木田先生だけ顔写真が出ていないのも良かった。同誌に「福田和也の闘う時評」拡大版「日本人にとっての『A級戦犯』」もあった。福田和也の論は堂々たるものがあるが、私はやっぱり首相の靖国参拝は反対である。
 私の父、興武は、第二次世界大戦で中国の戦場にかり出され、傷を負い帰還し得た。負傷していなかったら戦場に消えていたかも知れない。幼児、近くの銭湯に父と共に行くたびに、私は父の背中に残されていた鮮烈な傷の痕を見ていた。父は漢文学者の端くれであり、中国の歴史、文化には大きな敬意の念を持っていた。私のいささかな漢文趣味もその影響がある。李祖原の過剰とも思える中国主義にいささか違和感を持ちながら、彼の中国本土での仕事に協動しているのも、父の影響があると思っている。父の背中の傷が私の戦争への記憶のルーツだ。父は老いてから何度か母と共に中国を旅行した。それが彼のささやかな悲願だった。父から戦争の話、その正否の話を聞いた事はない。中国文化を愛し、しかしその中国での戦場にかり出され、死生の境をさまよう傷を負った。銭湯で見た父の背中の傷は、おそらく大きな矛盾を生きざるを得なかった父の生涯の歴史の跡であった。父は何も言わなかった。今の靖国問題にも父のようにあまりにも巨大な矛盾と対面した経験を持つ故に、戦死者と同様に語り得ぬ人々が多くいるだろう。小泉首相の一見歯切れの良い発言と彼等の複雑な矛盾を抱き込んだ沈黙との間にはあまりにも大きな距離があるように思う。
 六月九日
 午前中は世田谷村で小休する予定。少し大きめの寺院を手掛けたいな。
 十三時過大学。演習G(Gスタジオ)は休ませてもらう。渋谷の杉浦康平先生のアトリエ訪問の予定を三〇分早めていただく。このところ休みが全く無く、いささか頭も体も浮遊している。石井和紘氏より拾庵茶会の便りいただく。勘の良い人だから、このいささか過剰な石井流メディアデザインの方法がどう展開されてゆくのか、キチンと見届けたいと思う。基本的には私のネットを軸にしたメディアデザインの考え方と同じ事が考えられているようだ。遊びの中に現代の骨格を見てゆこうとしているのだ。石井さんからうかがった話で面白かったのはある大会社の社長さんに通信を出したら、社長に届く迄に数十名の社員の眼に触れるようで、葉書は一人一枚の効果以上のモノがあるようだという話しで、誠に石井流である。それに葉書だと受け取った方も簡単には悪いような気がしてすぐには捨てないでしょうとも言ってたな。確かにそうで、そう言われてしまったら仲々、捨てられないのである。拾庵主の哲学か。
 十五時半杉浦庸平事務所。李祖原と。案の定、杉浦庸平氏と李は大筋で同波長であった。杉浦さんは李のこれ迄のプロジェクトに仰天。しかし、リベスキンドのデザインの傾向と李のシンボリズムミックススタイルは本当は同じ傾向、趣向のもので、リベスキンドのものはシリアスな解体を象徴し、李のものは楽天的に人々を幸福にすると、マア、アッサリと言い抜いた。やっぱり杉浦さんはダテや酔狂の人じゃない。同時に李がインスピレーションを頼りに、身体で今のデザイン傾向を推し進めてきた事も見抜かれた。会談中、昨日会った馬場昭道から杉浦さんのところに電話があり、アメリカのTV番組にケネス田中のインタビューで李を出せないかとの事。李は俺はTVは余り好きじゃないし、危険だの意見の所有者である。私も同じ、TV出るバカ、出ないバカという感じだよね。アメリカのTVはチョッと危険だろう。特にブッディストとして出るのは危ない。アメリカの多くの人にイスラムと仏教の違いが解るわけないもないだろう。十七時半、新大久保駅前近江屋でビール飲みながら、東北の結城登美雄氏を待つ。隣の座席でオジさん達が昨日のサッカー・ワールド・カップ北朝鮮戦の話題を続けている。聞くまでもなく聞いていると、実に水準の高いどうでも良い内容の会話で驚く。おそらくは、もう会社づとめもリタイアーした人達なのだろうが、枯れていて、仲々良い。希望も無いけれど。しばし後、結城氏、農文協甲斐良治氏来。結城さんは汽車の都合で二十一時前退出。その後甲斐氏とダリアの花に関して話し合う。この人、仲々めげない人で手こずる。再会を約して散会二十二時頃。スコットランド民謡と、日本の農家の庭の千草に関して、少し再び調べなくてはならぬ。彼はスコットランドの庭園は日本から輸出されたものだと言い張り、私は英国から花も唄も輸入されたと言い張った。私の方が正しいと思うが調べたい。日本の唱歌に代表される近代日本の抒情の素の風景のルーツを研究するのは面白いことだとは思うのだが、時間が無い。二十三時頃世田谷村に戻る。
 六月八日
 木本一之氏から厚生館子供像、タロイモの葉照明の写真他送られてきた。良い。早く実物を見て触れてみたい。十時前星の子愛児園近藤理事長、園長先生と打合わせ。弥彦工務店とブリッジ増設打合わせ。十一時半過迄、西調布で用事をすませ、十四時前大学で李祖原、アンをピックアップ。我孫子真栄寺を訪ねる。十六時到着。馬場昭道李祖原と会う。李の建築が巨大なのを知り、馬場昭道、それなら牛久大仏見に行こう、と言い出し、近いと言うので出掛けた。どうせ、方々にある巨大観音の大キッチュの類いだろうと思って行った。昭道さんのお陰で特別許可を得て、閉門時間は過ぎていたが、牛久大仏を間近に仰ぎ見た。百聞は一見に如かず、高さ百二十メーター、重さ三千トンの巨大大仏は仲々に見事なものであった。中国人仏師が指揮をとって台湾で十年前程に製作し、日本で組み立てられたもののようだ。李祖原はその故事を知っていた。東本願寺、大谷家の仕事らしい。巨仏の周囲は霊園で墓が分譲されている。巨仏はその墓地の価値を上げる為の装置であるのだが、大仏のシェルターである筈の寺院は、ここでは巨仏の基壇内に納められている。寺院建立には、多くの僧が必要となるだろうから、その運営を避けたのであろう。墓地販売の広告塔としての巨仏である現実がストレートに立ち上がっているのである。やっぱり仏像は建築に納められているのが良い。寝仏は風にさらされているのがよく似合うが、座ったのや、立ったのはどうもムキ出しなのはいただけない。しかし、牛久の巨仏それ自体は仲々良いものであった。十八時過真栄寺に戻る。昭道さん、李の為に正装の法衣を身につけ、お経も上げてくれた。昭道さんの南無阿弥陀仏も仲々風格がにじみ出てきている。昭道さんの奥様手作りの精進料理をいただく。李と昭道は浄土真宗と禅宗との、中国仏教と日本仏教との違い、同根についていささかの議論をしていた。二〇時過真栄寺を辞す。李の印象は昭道は全く良いキャラクターで、実にフレンドリーであると。良い友人になってくれれば良い。私も日本仏教の本家は中国だろうといささか雑に考えていたのだが、二人の話しを聞いていると、日本仏教の複雑多岐な表現のされ方にはすでに、日本独自のアイデンティティーがあるらしい事がようやく解ってきた。帰りはナビの機械にも慣れて、一時間程で李の宿舎がある早稲田へ。世田谷村には二十二時過帰着。
 六月七日
 十時前研究室。学部レクチャー準備。ホームページの様子を見るに、世田谷村日記だけ読んで他は通り過ぎている読者が多いようだ。せめてカバーコラムは併読してもらいたいのだが。ネットのスピードに併走しようと、いささか力を入れているので。
 十時四〇分レクチャー。メガシティーサンパウロ市の現実。ブラジルの建築学生の問題意識について参考迄に。十二時過迄。十三時李祖原と昼食後、十四時半竹橋の毎日新聞社へ。社会部記者澤氏の李祖原取材。十六時了。パレスホテルロビーで十七時山下設計橋本氏と会い、六本木で会食。後、世田谷村に戻る。
 六月六日
 昨日は菜園の世話ができなかった。残念。
 十二時前研究室。久し振りの定例ミーティング。李祖原来室。北京M社Pに関して打合わせ。北京より連絡その他。いよいよ火中である。古市徹雄氏に来ていただき、中国の将来に関して語り合う会を設けるセッティング。延々と李祖原と議論。李との議論は常に中国人社会の文化、哲学の話しが中心になるのが私には心地よい。ビジネスだけだったら我々の附合いは四半世紀も続かなかった。十八時過新大久保駅前近江屋で李祖原他と会食、打合わせ。北京Pの話しは中枢のみ。中心は常にシンプルである。アジアというよりもオリエンタル・スピリッツの対ヨーロッパへの戦略について様々に話す。夏のバウハウス大学長ツィンマーマンとセオリースクール IN チャイナ計画、及びJ・グライターのスタジオGインターナショナル構想等。久し振りに李とよい議論をした。二十一時過迄。途中、近江屋に馬場昭道より電話入り、日本仏教界での李祖原のデビューのお膳立ても出来た。中国人仏教と日本人仏教がどれ程に異なり、どれ程に同じなのか、知る事は興味ある。故佐藤健の遺志かな、コレワ。二十二時過世田谷村に戻る。
 六月五日 日曜日
 八時前起床。昨夜は久し振りに夢をみた。変な夢だった。中国北京の計画で私が何故かオーチスエレベーターの販売代理人になってKオーナーに売り込んでいる。昨夜のOさん、友人の竹中工務店のAさん清水建設O氏もいる。和気あいあいとやっていてエレベーターは三百メータークラスのものが二〇台売れてしまった。李祖原まで登場してしまった。変な夢だ。何故私がオーチスELVのセールスしていたのかよりも二〇台もアッという間に売れてしまったのが、変だね、コレワ。九時前下のレストランで和食。十時ホテルロビーにO氏夫妻。近くのO邸現場へ。今日は地鎮祭なのだ。式前に竹内土建スタッフと諸々の打合わせ。陽差しきつし。竹内土建社長他に会う。O邸担当の棟梁にも会えた。十時半より地鎮祭。修了後竹内土建と打合わせ続行。昼はO氏夫妻と。O氏は気鋭の九州経済界の人材だが、まだO氏の世界を充分に知っている訳ではない。この建設不況の中収益を増大させ、二百億円近くの売り上げまで延ばした力がある。将来は色んなビジネスの可能性があるだろう。福岡空港まで送ってもらい、沖縄熟成古酒泡盛飲み始める。十九時前浜松町から 山手線で新宿に向かっている。暑い。烏山宗柳で夕食のソバ。世田谷村に戻る。
 六月四日
 昨夜は二十四時過迄、サッカーワールドカップ予選日本×バーレーン戦をTVで観てやろうと起きていたが、寝てしまった。七時起床。どうやら、サッカーは勝ったようだ。
 九時四十分研究室。十時S邸打合せ。S氏御夫妻、幸和建設社長、担当の息子さん。十二時過迄。その後、渡辺君から九州O邸の報告、説明を聞き、昼食ミルク、サンドイッチを喰べ、発つ。今、十五時過羽田第二ターミナルでANA259便を待つ。O邸は電気住宅とでも呼びたいモノで、ソーラー、空調、セキュリティ他、電気設備が満載されている。電気装置住宅だ。装置性とデザインを融合するのに苦労している。今、建設中の二軒の住宅共に屋根が架けられて、モダニズムの箱スタイルから抜け出している。O邸は太陽光発電を旨とした屋根の形、S邸は少し小型の住宅なので、空間のつながりに意を配った。三仏寺投入堂の架構を双方共に下敷きにしようと試みたが、O邸には不向きなようで中止、S邸では試みるつもりだ。岡山県建部町国際交流館の屋根と架構が自分の中で進化しているのを感じるが、これからの現場のつめが勝負だ。体調も良くなってきたので全力を尽くしてみよう。色使いに留意の事。色が大事だな。十七時四十五分福岡空港着。Oさんにお目にかかり、すぐにキッチンの打合わせに。十九時頃修了。近くの京懐石料理屋で夕食。Oさんの御主人も参加して楽しい、しかも仲々意味のある会食となった。二十一時過KKR博多ホテルに戻り、チェックイン。すぐに休む。
 六月三日
 一時、眠れぬままに起き出して憮然としている。こんな時に銅版画に取り組めば良いのにと思いはするが、体が言う事をきかない。八時起床。眠い眼をこすりながら、朝食。いなり寿司、豆腐。キツネだな。九時四十五分研究室。北京Pのチェック。大学院レクチャー準備。今日はアルヴァ・アアルトについて講じる予定だったが気が乗らない。
 十時四〇分院講義。気を取り直して力を入れる。アルヴァ・アアルトの建築。フィンランドの国策としてのデザイン・ビジネス。ナショナル・ロマンティシズム。補足、スティーブン・ホールのヘルシンキ現代美術館。十二時一〇分迄。北京M社にかなりの量のメールを送る最終準備。十三時半過設計製図採点。十五時過研究室に戻り。北京にプランドローイングその他五〇点程メイルで送り始める。送り終わるのに一時間程を要するらしい。ヘルベルト、大沢温泉モデルチェック。
 北京Pプレゼンテーション資料メールで 38 シート送信後、香港の Mr. KにTEL。全ての資料を北京に送った旨、及びワシントンでの成功を待っている旨伝える。アメリカの帰りにTOKYOで会う事を約す。大きい仕事は自由で面白いという原理が在るな。超上空を飛んでいるコンドルの数は少ないという現実があるからだ。十八時過新宿で会食。二十一時四〇分迄。李祖原より連絡入り、来週月曜日に来日との事。来週は彼と一日、ゆっくり日本の禅寺で過ごしてみるつもり。日本の仏教界とCY・LEEを会わせたら、という考えが浮かぶ。面白いかも知れない。明日はS邸、O邸の打合わせ。軽井沢O邸は超ローコストの仕事になるが、クライアントの理解もあり、何とかやれるかも知れぬ。
 六月二日
 午前中世田谷村で諸々の作業。十二時過研究室。十三時教室会議。会議時間が長過ぎるなあ。何と十六時迄。その後北京計画のチェックするも仲々うまくいかない。以心伝心とは程遠い状態である。十七時過研究室発。十八時過ぎ道に迷いながら赤坂、石井和紘邸拾庵へ。石井和紘氏から拾庵茶席に招かれて出向いた。石井氏からは最近異常な程に多数のメッセージ葉書が送られてきて、いささか不気味な感があったので、その無気味さの素に直接出向いた趣がある。鍋を二人でつつきながら四方山話し等。石井氏とはそれこそ悪縁で、建築の世界でこんな悪縁があるのかと思う位の仲で、六角鬼丈、故毛綱等との婆娑羅の会も、石井と私の個人的な確執があって壊滅した歴史がある。今はもう取り返しがつかぬが、婆娑羅の会は、上手に育てれば近代建築批判としては大きな破壊力を持ち得た可能性があった。残念ながら皆が運動と言える迄の事を成す器を持っていなかった。今になって想えばである。そんな事を思い出しながら過ごした。悪縁ではあるが、お互いに年の功である。それ等の事はおくびにも出さず、二十一時過迄の時を過ごす。二十一時に予定していた北京計画の打ち合わせはキャンセル。明日に繰り越した。二十二時半世田谷村に戻る。もらってきたアバウト・ウッドKAZUHIRO ISHIIのページをゆっくりたどりながら読む。彼は今、何を本当に考えようとしているのだろうか。地球学と丸太建築はCO2の論理だけで結びついているのだろうか。
 六月一日
 七時過より世田谷村で北京M計画B案のスケッチ。抑制した案も作っておこうと始めた。十時下の畑を点検して世田谷村を発つ。他人の家や、車中からまだ残されている畑の作物の様子がやたらと気になり始めた。十時半府中。八大建設西山さんと国分寺O邸へ。十二時修了。新宿駅、福豊で冷し中華ゴマだれの昼食。十四時前研究室。アベル、高橋等と朝のスケッチを基にモデル製作。十六時過完了。すぐに模型写真撮影。明日には北京にメールで送る事ができるだろう。色んな道具の進歩で仕事の速力が速くなったので、それなりの新しい体力が必要になった。
 十九時新大久保駅前近江屋ソバ店で若松α社長と会う。建築家も大変シンドイ社会的状況だけど、今を盛りのIT屋さんも大変なのだ。ITビジネスはつきつめて勝ち負けを考えるとすれば一人、一社しか生き残れない。それがITビジネスの宿命だ。若松氏の会社は今、日本で五、六番目のITビジネスカンパニーであるから、生き残りに必死の努力をついやしている。相通ずるところがある。モスクワのビジネスの話しを聞く。唐突ではあるが、私の研究室の蔡さんをモスクワの、一九一七年に建てられて若松氏がリノベーションして複合施設にしようと試みている仕事のビジネスマネージャー及びプランナーとして就業させてみようと突然決意し、若松氏にいきなり申し出る。何とかなりそうなので、明日、蔡さんに話してみようと思う。勿論、蔡さんはまだ何も知らない。二十二時前世田谷村に戻る。南の生垣のすき間から、自分で作った自称あぜ径、現実はただの小径を数歩たどり、先日、そこに移動させた、 2" × 4" 材で三十五年前に自分一人で製作した実に重い椅子に、暗闇の中、しばし腰かけて、憮然とした時間を過ごす。何の明かりもない樹々の暗闇が、自分が昔作った椅子に腰かけて眺め渡すと、何か妙に物言いたげである。マ、ほんの数歩の広さの暗闇なのだが、それが何やら貴重なモノのような気がするから不思議だ。熊谷守一は後半生池袋のうっそうとした森のような、八十坪の土地を持つ家から一歩も足を踏み出そうとしなかったらしい。それで、あんな、どうでも良い様な、けれどもいい感じの絵を沢山残した。八十坪の土地が世界だったのだな。もっと、年をとったらそんな生き方ができるような準備はしておいた方が良さそうだ。
2005 年5月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
サイト・インデックス

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2005 all rights reserved
SINCE 8/8/'96