石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年9月の世田谷村日記
 八月三十一日
 夕方、新大久保駅前近江屋で農文協甲斐さんと 21 C農村研究会(仮称)第一回準備会。率直な意見を交換する。
 当然の事ながら甲斐さんの考えている事と私の考えようとしている事には差異がある。差異を言葉に置き換える、つまり論理化するのは今それ程の価値はない。大事なのはちがいを前提として、それでもあるに違いない方向性(オリエンテーション)の大きい巾を発見し、認め合う事だ。例えば、甲斐さんは若い世代に意識的に希望を見てゆこうとする。それが彼のメディアの一つの軸になっている。私は若い世代にはシニカルだ。希望という俗語に表される仮説を、計画(バーチャライズ)して、その方向に誘起するのが農村計画プロジェクトだという考えである。具体的に言えば、甲斐さんは現実の中にある可能性のフィールドを訪ね歩き、それを編集する事から始めようという考えだ。 60 才を越えた私はフィールド・サーベイは程々にして、リアルなイメージを投企しようと性急になる。その違いはあるが、この研究会はやってゆこうという大筋は合意した。九月七日の第一回の研究会は結城登美雄を中心に五名位の会で、それぞれにとっての自由とは何か、なんて事から大らかに、やろうという事になった。二十二時迄。
 八月二十九日
 カバーコラム参照
 八月二十六日
 早朝まで嵐だったが、八時には落ち着いた天候になる。
 八月二十五日
 朝、野辺さんよりTEL入り、台風だけど今日の工務店の人達の会どうしようかとの事。決行しましょうと結論。道に迷ったらしく、少し遅れて十四時野辺さん一行来る。三十数名。世田谷村二階で討議。野辺には義理があるのでキチンんとやった積りだが、そのキチンとの感じがどれ程伝わってくれたかは解らない。台風の気配はうすい。十七時頃宗柳で野辺氏他十名程と小さな会。十九時過まで。時々、こういう会に接しないと、自分でも浮世のリアリティーを失うという実感はあるのだが。仲々現実はむずかしい。しかし皆好奇心強く真面目だ。中国の人々やロシアの人間達と違うモノが何かあるな。
 八月二十四日
 午前中、母親を迎えに行く。親が年を取って、弱り始めるのを視るのは悲しいが、視る事が出来るだけでも良しとしなければならない。
 十時半頃母と共に世田谷村に戻る。母、家の中を眺めて、怒る。片付いていない。自分の意見が一向に反映されていないと、直截であった。返す言葉が無い。要するに私の非力である。明日はオプコード研究所の野辺公一さんが工務店、地域ビルダーの連中三十七名を連れて世田谷村見学会、意見交換会の予定である。多分、常識的に言えば最悪の状態を見てもらう事になるが、それはそれで仕方がないだろう。野辺さんだけが群居の初期の精神であった、ハウジング計画ユニオンのヴィジョンを引き継いでいるような気がする。彼等には二十一世紀型農村研究会の話しをしてみるつもり。小さな脈絡はある筈だ。昼過、階下の土間でゴミを燃やす。午後、紙計画の骨子まとめる。
 朝日新聞夕刊に英国人女性ヒラリー・リスターさんのヨットによるドーバー海峡単独横断の記事があった。リスターさんは四肢まひで、ストローを口にくわえて呼吸によってヨットを操縦したとの事。彼女の気力も凄いが、それを支えた周囲の人々の膨大な力に敬意を払いたい。良くそんな目標を建て、技術を開発、準備する粘りを持続したものだと感じ入る。スペース・シャトルに数倍するプロジェクトだこれは。資金をどうやって調達したのか気になる。こういう計画の為にはどんな金の集め方をしても良いと思うね。
 八月二十三日
 メディア研究所。打合わせ。淡路島の山田脩二さんより電話あり、来春の神戸県立美術館での「山田脩二の仕事展」の話し。カタログに何か書けとの話しで、喜んで引受ける。先日パークハイアットホテルで短時間会ったのだが何も話しする時間が無かった。 Mr. KとCY・Leeの印象を「あの中国人何者だ。日本人には居ないよ、あのタイプは。堂々たるもんだったね」と流石彼は勘がよい。
 HPの組変えを敢行する。
 夕方、友岡 Jr 来室。アジアのペーパー・ビジネスに関して。農村プロジェクトとペーパー・ビジネスが組み合わさると面白い可能性が出現するな。
 八月二十二日
 午後研究室。北京二十一世紀農村研究両プロジェクトのミーティング。それに関連しHPの組み直しを相談。丹羽君のセンスを生かせるか。その他打合わせ、修了後十九時前、新大久保駅前近江屋で久し振りにαインターネット社長若松氏と会う。彼は今日ロシアから帰ったばかり。ロシアでの仕事の展開状態など聞く。ロシアも中国同様にうねるように動いている。日本は静かに取り残されてゆくばかりかな。若松氏は私よりも十五才以上若いから、日本が冷え切るだろう二〇一五年位を成熟した年令として生きていかねばならない。その準備の為のロシアなのだろうが、上手くゆく事を祈るばかり。
 八月二十一日 日曜日
 昨日と今日で秋からのプロジェクトをFIXする作業を一人ですすめた。全てとは言えぬが明日のホームPで公開してゆくつもり。それは公開して、色々な形での集中力を作っていかぬと出来ぬ事の群でもある。明日からHPは大きく舵を切る事になる。編集の丹羽太一に期待する。
 午後、世田谷村の一階土間部分に置いてある古材を五本程三階テラスに運び上げる。ブドウ棚を作り始める準備だ。今日は世田谷村には私の他は誰も居ない。風だけが吹き抜けている。たった五本の古材を運び上げただけの事だが、狭い階段を持ち上げるのはいささかどころか大変な作業であった。
 昼食、夕食、共に一人でとる。
 二十三時半、長男雄大帰宅。この二日間はほとんど独人で作業し続ける事ができたのは幸いだった。一人で考えた事を、ITでいきなり社会に投げ入れる事ができるのは有り難い事ではある。
 八月十九日
 早朝北京プロジェクトの、はじまりの概要を整理する。ようやく、自分でも腑におち始めた。「北京より」と題して、HPで公開してゆく、カバーコラムよりも面白く、現在進行形のドキュメンタリーとして研究室の主要作品としていきたい。編集は丹羽太一と若いスタッフに任せる。
 昨日のミーティングでスタッフ達が何となく全体像が把握できないと走り難そうだの雰囲気があったので、その場ではまだ全体像は呈示し難いと言ったのだが、一晩考えて、やっぱり彼等がそう感じるのも無理はないなと、考え直した。まだ、ほんの始まりだが、少しは理解されるだろうと期待している。
 研究室に送附して、反応を待つ。HPは中国でも読まれているので、どんな風な影響があるか、少しばかり緊張している。
 八月十八日
 早朝から、仕事にはげむ。研究室にFAXを送り、昨日の会議の続きの、たたき台をつくる。
 八月十七日
 十時研究室。十一時過プロジェクトの全体の把握を試みる。架空のステーションと、それを始発点とする幾つかの路線を明示する為のミーティング。今日からCY・Leeは香港でK氏とミーティング。十四時半迄ミーティング。仲々真意が伝わり難い。そりゃそうだろう。私だって全部がつかみ切れていないのだから。しかし、彼等に伝えられるようにする努力は続けるつもりだ。
 八月十六日
 北京プロジェクトは建築的プロジェクトとしては高度に政治的な意味合いを持たせなければ価値は極めて低くなってしまう。中国大陸の中心でオリエンタルの概念を鮮烈に出す。かっての日本の近代化のキーワードだった和魂洋才の焼き直しとしての東魂西技では、歴史のただの繰り返し再生産に過ぎない。その先に行かねばならぬ。
 韓国の参加が必要だろうな。
 八月十五日
 昨夜も月下美人が大きく四輪咲いた。毎年、この時期に強い香りを漂わせるのが常だが、無数の戦没者達の意志が乗り移っているのだろうか。そんな気がする程の強く、哀しい、束の間の香りである。お盆の町の風景は人影も少なく、町の姿が仏壇の内の風景に視えてしまうのも、毎年の事である。世界は膨大極まる無数の死者達によって構築されている。生者達はその蓄積の表面にあやうく浮遊している存在でもあろう。丁度、地球が極く極く薄いオゾン層で守られている様なものか。
 十一時五〇分台北の李祖原より、 Mr. K及び北京モルガンのバックデータ送付されてくる。ひろしまハウス展 IN ひろしまの報告を聞く。プノンペンのレンガ積みツアーの参加者達や研究室のOB、OG達も力を寄せてくれたようで、ありがとう。この場を借りて御礼申し上げる。
 十三時浜野総合研究所高さん来室。十五時迄打合わせ。後、設計製図採点。低調であった。しかし学生を責めるわけにはいかぬ。建築の将来に希望を示せない限り、この状況は続くであろう。それは我々の義務だ。北京プロジェクトでその糸口を提示できればと的を絞りつつあるのだが、簡単な事では無い。仕事自体のスタイルを拡張するのを試みなければならない。十九時過修了。昼飯を喰べ忘れて空腹の極み。二十一時過世田谷村に戻り、新聞熟読。新聞オヤジである。
 八月十四日 日曜日
 昨夜、帰り着いた世田谷村で月下美人が一輪咲いた。ふくいくたる香りが部屋に一瞬流れた。今日はその香りは跡方もない。TVは今日も朝から小泉政権解散政局でにぎわっている。しかし、時局政局は終ってみれば跡方もないから。終戦記念日を明日にして、どうやら首相は記念日の靖国参拝だけは取り止めるようだ。
 散る桜、残る桜も散る桜、特攻隊員が残した歌かどうかは知らぬ。最近のメディアで見掛けた鋭いフレーズの一つだ。小泉首相を戦国時代の武将信長に喩えたりの最近のメディアの論調は極めて浅薄極まる。首相もそれに乗って見せ、反乱軍に本能寺で討たれぬよう頑張ります、なんて言ってみせる。女刺客とか、くの一とか、選挙にも時代小説のエンターテイメントの風が吹き始めてしまった。
 小泉首相の発言の歯切れの良さは、民主党党首の岡田氏の比ではない。一言、一言のセンテンスが非常に短い。しかもメール通信文体である。このメール口調というのは、全て、散る桜、残る桜も散る桜の如くの、短歌調の伝統を継承しているものやも知れない。短く言い切って、その短さで何かを修辞させよう、多くの意味を背負わせようとする。
 小泉首相には大衆歌人の如き才質が、確実に在る。与謝野晶子に典型的な。政治家は芸能人、あるいは芸術家とは異なる種族であるという常識が私達にはあった。ところが現実の政治の世界には多くの芸能人が入り込む現実がすでに歴然としてあった。
 小泉首相は、その現実を修辞してみせているのだろう。それが小泉劇場政局の実体である。その劇場は投票によって皆が、つまり国民が作ったのである。政治家となったプロレスラーが幼稚な思考で何を言おうが、車椅子の元タレントが何を言おうが、参院議長だって元女優なんだし、しかも、こんな状況は国民が作り出したものである。であるから、小泉首相が大衆劇場国家をメディアミックスで作り出している現実も又、投票によって作り出されている現実である。何をか、いわんやなのである。
 八月十三日
 銀河鉄道計画という、今のところは俗なキャッチコピーみたいな言葉だけが私のカバーコラムに現れたり、消えたりしている。私だってこんな三文小説みたいなホームページの状態はイヤでイヤで仕方ない。
 東北の小さな町から、仙台までローカル線に乗ってみた。勿論、各駅停車である、約二時間程。前日泊まっていたホテルでは中国からの国際電話のやりとりで、少しものんびりなんて出来なかった。私の度胸なんて、私の体力の如きもので、実に大したものではない。蚊の羽音の如くに微々たるものだ。
 であるから、朝起きてみたらローカル線に乗ってみようかと思い付いたりしてしまう。新幹線がお隣を走っているのに、なのである。中国の都市部は新幹線である。農村と都市の格差の発生の大矛盾はとり敢えず据置いて、豪音を立てて一直線に突き進んでいる。北京の計画はその象徴の一つだ。どうやら、私の器量にはそれに、とまどわず乗切ってゆく図太さは無い。色々と思い悩む。ストレスが沈殿しておりの如くに錯綜としてくる。それで、その反動でセンチメンタル・ジャーニーのローカル線の旅なんて事になってしまう。情けない事おびただしい。
 ローカル線に揺られながら考えた。
 この気の弱さからは抜けなければどうにもならぬ。しかし、隣を走る新幹線の一直線は危ない。これにいまさら身をゆだねるわけにはいかない。ローカル線も、新幹線も共にイヤだ。イヤだイヤだの不連続線である。  だからこそ、銀河鉄道計画なのだ。この、不可視の路線のアウトラインは少しずつ、クリアーにしてゆくが、その為の、世田谷村日記に少しずつ組み直す。私は全くの実際家ではないし、芸術家のように純粋表現者でもない。その中間の、ある種の理論的仮想を現実的に生きようとしている生活者であるという、そういう局地を横断して見せたいだけだ。
 八月十二日
 十時十五分研究室O邸打合わせ。
 八月十一日
 八時半世田谷村を発つ。午前中杏林病院定期検診。体調は良くない気がするが、検査の数値その他は概ね良しとの事。気持と身体は不即不離の筈だが、変だな。
 病院に居ると周りは皆老人ばかりで、しかも身体になにがしかの不安を持つ人たちなのだろうから、空間は決して生気に満ちてはいない。有体に言えば、日没寸前、たそがれの空気がどんよりと漂っている。それが身体に侵入してくると、少々気も滅入るのだ。
 十二時前病院の六階で昼食。突然、銅版画に取り組んでみるかと思いつく。
 八月十日
 昨日は大学の通信機能、その他一切合切ストップしたので休んだ。夕方、烏山宗柳で若松氏と打合わせ。諸々のアドバイスを受ける。
 今朝の朝日、毎日の論評、又、世論調査は大方、小泉支持に傾いた趣あり。ゆっくりと全部読んだ。小泉首相という人物は劇場国家化している日本の現実を直観で把握している才がある様だ。参院での郵政民営化法案否決、即日解散、反対勢力の公認拒否、記者会見での「国会は否としたが、国民の信を問いたい」発言。一連の動きが劇場の如くに場面を変え、登場人物を代え、変転していった。第一幕の幕切れは八日夜の記者会見だった。ここでの小泉首相の演技力は真に迫り、否決された敗者としての立場を一気に逆転してしまった。国会ではなく、直接国民に聞いてみたいのだと言い切って。今日発表の内閣支持率は再上昇。解散への支持も高い。参院での法案否決の敗けのドラマが、国民の登場というスペクタクルに置き換えられ、全く異なるドラマに組み変えられてしまった。この筋書きがあらかじめ想定されていたとは思えないが、明らかに計算ずみの、シミュレーションされたものであったのも、今になっては良く解る。自民公明で過半数を取れなければ退陣するとの公言は、新種の公約でもある。
 亀井、綿貫等反対勢力にはこの類のアンテナが無い。それ故に劇場国家のメインステージに上がる事が出来なくなっている現実がある。この現実には単にポピュリズムと切って捨てられぬ歴史の動きがあるような気がする。この政変がどのように展開してゆくのかは知らぬが、第一幕は小泉首相にアドバンテージの幕開きだった。十一時、世田谷村の小さな椅子の撮影にカメラマン、来る。
 十五時研究室。十七時半、電通、佐藤論氏と北京プロジェクト打合わせ。十九時前迄。新大久保近江屋で打合わせ続行。二十二時前迄。世田谷村への帰途に着く。チャンスには当然同程度のリスクがつきまとう。しかしながら対面している北京のプロジェクトはそれが最大限に我身に襲来しているのを実感する。この間の事情は、秋に再開される予定の、山本伊吾編集長の「室内」に公開する予定だ。
 八月八日
 十時浜野安宏氏研究室来室。打合わせ。午後、参議院議会で郵政法案否決。大きな政局となった。
 八月七日 日曜日
 十五時六本木磯崎宅。色々と相談。二〇時頃迄。夕食を取りながら。磯崎さんはタフだなあ。驚く。二十一時過世田谷村に戻る。政局は混迷、迷走の渦中。何とも無駄な時間を日本全体が浪費しているとしか思えない。
 八月五日
 今日も暑い。十一時前、毎日新聞本社、代表室長清水氏面談。清水氏は故佐藤健の友人である。十三時過大学に戻る。北京プロジェクト、他打合わせ。暑い中動き廻るといささか消耗する。十七時前研究室発。十八時新宿プリンスホテル、朝日新聞松葉氏と会う。
 プリンスホテルロビーで一休み。研究室で、スタッフに北京Pで五〇項目の細部のプロジェクトを草案せよとオーダー。大きなプロジェクトは大きく進める必要もある。細部にこだわっていたら全体が視えなくなる。十八時打合わせ。
 八月四日
 午前中は休ませてもらう。W氏モスクワより本日帰国の予定。午後連絡してみる。ロシアも激しく動いているようだ。
 午後遅く軽井沢の磯崎さんと連絡ついて、日曜日夜会う事になった。私の中国大陸での動きの筋を決める。保坂展人も地道に年金問題等やっていれば良いのだ。今夏は政局は激動する予感がある。日本人社会の場合論理的に構築された準備期間を経るよりも、突発的、情緒的な異変によって変革が起きてしまう歴史の繰り返しがあるからね。
 十八時半世田谷村にて独人、飲み始める。一時間ほど飲んで明日の為に眠ってしまおう。
 八月三日
 今日も暑い。午前中世田谷村で幾つかの連絡をこなす。十三時半研究室。S邸打合せ。他。十六時前S社来室。一九時までO邸打合せ。二十二時頃世田谷村に戻る。
 八月二日
 七時前起床。新聞、TVは衆議院永岡議員の自死とスペース・シャトルの故障を報じている。シャトルの故障はアポロ十三号の故障を思い起こさせるもので、現代の抱える宿命だろう。
 十三時半、地下鉄麹町、原口氏と待ち合わせ。十四時前、前内閣官房副長官古川貞二郎事務所にうかがう。北京プロジェクトの相談。古川前副長官は顔色も良く、大変お元気そうであった。又、お目にかかる事になるだろう。第一線の政治からは離れた方だが、私はこの人物に圧倒的な信頼を寄せている。十六時前終了。その後、近くのコンサルタント会社SHOWAにて、社長他と面談。色々と相談。今日はこれで仕事は一段落の感じになってしまう。新宿高島屋の十三階のソバ屋で一休み。
 八月一日
 七時前、サンパウロのマリア・セシリヤからの電話で起こされる。ひろしまハウス展覧会の件であった。ブラジルのセシリヤからの電話で八月が始まった感あり。酷暑の八月をしのぎたい。
 丸の内で打ち合わせの後、夕方研究室に戻る。いくつかの打合わせ、連絡の後二十二時頃世田谷村に帰る。北京より大量のMセンター資料届く。GAよJAPAN展のインビテーションあり。今年は北京プロジェクトを出展するつもり。
2005 年7月の世田谷村日記

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