石山修武 世田谷村日記

2006 年2月の世田谷村日記
 057
 雪の中を走り続けたバスが、結局多摩プラーザのスーパージジの部屋まで、たどり着けたのかどうか、知る由も無い。誰も気にも留めぬであろう。山口勝弘ジジが送った筈の、しかし届かなかったFAXと同じようなものだ。あのいまだ何処かの宙に浮いている筈の、別の次元にすべり込んでしまったFAXの行方を考えようとするのは危険ではあるが、興味も湧く事ではある。
 056
 山本伊吾、長井美暁両氏より便り届く。勿論定形である。最近、藤野忠利さんからの不定形郵便の猛爆を受け、いささか気分も不定形になっているので、こういうキチンとした定形物はホッとする。なにしろ、干スルメにアドレスが書かれ切手が貼られて送られてくる日々なんである。郵便屋さんともすっかり知り合いになれた。
 今日は上前智祐氏の版画がメールになっていた。八五才の現役具体の作家である。藤野氏によれば具体の作家連中の中では唯一、ハプニングイベント、アクションペインティングをやらなかった一番地味な作家だという。八五才でいまだにかくの如き地味な制作を続けておられるのであろうか。それぞれの作家の野心と品格について想いを巡らせるならば、こういういかにも目立たぬ作品をつくり続けて終生目立たないというのもその事自体実に凄いなと思うのである。無名有名は作家本人が決めるものではない。世間が決める。世間はキレイ事で組織づけられているものではない。時に俗な作家の功名心の戦術がまかり通ってしまう事もあるだろう。現代っ子ミュージアムには氏の作品百点のコレクションがあるという。九〇才くらいでこの作家が大ブレイクするような事があれば、まだ世の中は面白味があるのだが、藤野さんは仕掛けを考えてみたら良いのに。一月三十一日昼、まだ風邪抜け切らず、外も雲天の寒空である。
 055
 一月三〇日十七時頃新大久保近江屋まで辿り着き、渡辺君と打合わせ、と言うよりも、考えている事の一部を伝える。うまく伝わったかどうか。私の二〇代と比較すれば彼は柔らかい強さを持っている。折れそうで折れぬところがある。竹だな。その植物的な強さを自覚できると一歩前進となるのだが、こんな事言ってるのは、まだ熱があるなコレワ。
 054
 念の為にと思って、吉野クリニックへ行き、インフルエンザの検査を受ける。陰性であった。熱も平熱に戻っているが、今日は用心しよう。朝、九州のOさんに連絡して、現場に行けぬ旨を伝え、了解を得る。只今、三〇日昼。病院から戻ったばかり。
 053
 十八時磯崎宅。パスタをいただく。スペインのキノコ入りのもので風邪気味の舌にも美味であった。二皿目のお代わりは博多メンタイ混ぜパスタ。食欲はある。その後、打ち合わせ。三十一日に再び打ち合わせとなる。二十二時世田谷村に戻る。
 052
 昨日は遂に寝込んだ。医者に行く迄もないであろうと高をくくっていた。しかし、セキは激しくなるばかり、涙眼になり、鼻水もとまらない。三階で寝ていたが、夕方意を決してパジャマにオーバーを羽織って、自転車で近くの吉野クリニックに出かけた。我ながら凄い格好であった。三〇分以上待ち検診。慎重な医師で「レントゲンとりましょう。あなた煙草吸っていますね。呼吸が通ってない。細くなっています。」と先ずおどかされる。レントゲンをとって、再び待つ。呼び込まれて、大きなフィルムを前に医師はウーンと首をひねる。首をひねる度にこちらの不安は増す。まさか、これは明らかにカゼだろうに、肺に影がなんて事になってるのか。「マ、心配する事は無いでしょう。お大事に。」それなら、途中で首をひねらないでくれと言いたい。しかし、結局一日中寝こんだ。本来ならば昨日から福岡へ出掛けていたのだが、突発な出来事で福岡行は延期となり、実のところ助かった。これで無理して動いていたら大変な事になっていただろう。と、考えていたら二九日朝、磯崎さんから電話があり、まだ声はカゼっぽいが、君もインフルエンザの検査をしたほうがいいぞと言われる。夕方、又電話をもらう事になったので、それ迄には熱を下げておく。
 051
 十二時李東殖相談。十三時北海道よりHさん。十六時彰国社インタビュー。二十七日夕方室内編集兼発行人山本伊吾さんより、本年三月号(六一五号)をもって一旦休刊する旨の書面届く。これをもって五〇年六一五冊をもった「室内」の歴史が停止する旨が公表された。
 仕方ない事は仕方ないのである。色々とつぶやきたいのはやまやまである。それはあり過ぎる位にある。しかし言わぬが華である。
 050
 新雑誌作りに頑張っている田邊寛美さんより便りがあった。文面の端々に新しい感覚が溢れているようで面白い。恐らくは最若年の編集者世代であろうが、彼女等の感覚の方向性には大きな関心がある。日頃の生活の中でフッと何に眼がゆき、何を感じているかが問題なんだな。一月二十七日朝電話するもつかまらず。今日の午後は何人かの人が訪ねてくる。カゼ気味で鼻づまり、声も出ない状態だけれどマア乗り切ろう。
 049
  一月二十六日、昨日は朝から晩迄都内を動いた。増井君が訪ねてくれたりもあったが時間が無くてゆっくりとした対応も出来なかった。健闘を祈る。
 今朝はゆっくり昨日迄の事などを振り返り整理した。昨日の事は昨日の事。明日を生きてゆくだけだ。
 北京モルガンの件で李祖原二月初め来日との事だが、二月は余程しっかり自己管理しないと迷走する事必定である。心したい。
 048
 バスは猛吹雪の中を漂い走る。多摩プラーザはどんどん遠くなるが如しである。乗客の背中も入れ替わり立ち替わりの変転が続く。皆、無言のママ。バス内風景、外風景は決して混濁してはいない。が、しかし何処まで意識がコントロールできるかは定かではない。
 047
 一月二十三日雪道を歩き研究室へ。十時半ミーティング。幾つかのアイデアを得る。十二時四〇分迄。十三時中川研博士論文審査分科会。十四時半F計画ミーティング。十九時半迄。二十二時半世田谷村に戻る。長男雄大メルボルンから帰国。宮脇愛子さんより便り届く。「うつろい」が同封されていて、開封と同時に周りの空気が切り裂かれる感がある。
 046
 一直線にバスは走り続けている。歪んだしレンズ窓から雪がほとんど水平に流れすぎるのが見えるからすごいスピードなのが知れる。まさか飛んでいるのじゃああるまい。乗客の老人達は皆うつむき加減にじいっとしている。運転手の背中は逆光で影である。丸みを帯びた影だ。なんだか山本夏彦翁の背中の記憶に似ている。こんなバスに迄翁の影が現れるのは不可思議だなといぶかしんでいると、小さくかすれた深い声の車内放送があった。「おかしいのはアナタの方ですよ、当然です。」だって。何が当然ですか、おかしなバス走らせやがって。運転手の声に違いないので背中をにらみつけると、その背中の影が少し延びて大きくなった。山口勝弘じゃないかと思う位に大きい。何だ山口さんすっkり元気になって、バスの運転までしているのかと想うのも束の間、バスはどうやらチューブ状のトンネルに突っ込んだ。多摩プラーザ迄辿り着けるのだろうか。
 045
 新宿三丁目アクタス社長森康洋氏と会う。藤さんの慶応ラグビー部の後輩である。延び盛りのインテリア総合ビジネスの会社で、大きなショールームを案内して貰ったりした。一月二十一日十三時四〇分修了。その後は何がしかの人達との連絡で時を費やし、夕方世田谷村に戻った。雪は降り続いている。久し振りの大雪だな。
 044
 窓の外は雪になった。これでは今日中に多摩プラーザに辿り着けるかどうか。サラサラと雪は降り続く。でも空は青い。こんな景色があっても良いものだろうか。ラップランドの雪原を走るように道は一直線になっている。鉄道なのかバス道なのか。スピードも決してノロノロしたものじゃない。速くなっている。
 043
 一月二〇日朝世田谷村で八代建設西山さん、母と打合わせ。午後新宿ヒルトンホテル七階で三沢千代治さんと会う。十五時過大学。製図採点。早稲田は四年の卒業計画を全員共同設計にするという設計教育の小改革を行った。六年制への移行を前提にしている。共同設計のプログラムを導入するのに必然だと考え、一番充実している三年生の課題にも共同設計を入れた。その最初の試みの成果の採点なので、多くの先生方の参加を得て、議論を交わしながら進めた。十九時半迄。結果は二月四日十三時早大大隈講堂で発表、講評される。公開なので関心ある方はどなたも参加されたい。明日は大雪になるらしい。
 042
 抽象画の連続のような窓を楽しんでいるうちに眠りは少々深くなった。バスの運転席のフロントガラスまで歪み始め、走っている道路がほの暗いトンネル状になる。時間も歪み始めている。面白がっていて良いものか、本当は不安なのかもそれすらも定かではない。
 041
 バスは低床の小型バスだった。二、三人の乗客がいた。老人達だった。男が一人、女性が二人だったか、皆白髪であった。シートに座って揺られながら眠った。浅い眠りだ。バスの箱の窓という窓が歪んで視えた。窓の形が歪んで視えるのではない。ガラスがどうやらレンズ状に歪んでいるらしく、近くの景色が遠くに視えたり、遠くの景色が目前に立ち上がったりしている。遠近法が錯乱しているバスだなコレワ。
 040
 昨日、山口勝弘の鎌倉近代美術館での展覧会への招待状が届いた。しっかりした大きな字であいさつも書き添えられている。ことさらに寒さの厳しい冬だけれど、元気なんだと知れた。海原に太陽が燃え狂っているような絵を描いているとの便りも少し前にあったから体に力が戻ったのだと知った。
 元気な体に戻った山口勝弘に会ってみたいと思うよりも、その狂おしいだろう海原の太陽の絵を見てみたいと思い付き、多摩プラーザのスーパージジの部屋を訪ねることにした。
 どんな絵だろうかと想像してみる。最初の便りではローマの廃墟の上にギラギラしてる太陽だと聞いていた。それがどうやら大海の上空に浮かぶものに変わったらしい。芸術家はどんどん変わるから得体が知れぬ、それが面白いし、油断のならぬところだ。
 楽しみな人の、楽しみな絵を見に行くんだから、いつも仕事場への道を歩くのは失礼だと思って、いつもの道とはちがう道を歩いてバスストップに着いた。仕事場へは電車を使っているので。それだけはしたくなかった。芸術家の中の芸術家に会うのに、通勤電車でもあるまいとの偏見からだ。とりあえずの行き先は何処でもいいのだ、最初に来たバスに乗ってしまおうと決めた。今日中に多摩プラーザに着けばよい。
 039
 ケイタイ持たぬ、のはすでに市中の隠と同じかなと考える。市中の隠の例えが古過ぎるならば、そうか、ハワイのワイキキビーチを黒いオーバーコートを着てマグリットの帽子をつけて歩いている感じか。ガラスのマントを固くギシギシさせて歩きながら、すでに周りからは眼にとまらぬ異人でもあろう。そこに居ても余りに異形で眼に視えない。モバイルコミュニティから私は完全に姿を消している。消し方が中途半端だと、ただの時代遅れのジイさんになってしまうけれど、重く沈み込むようにモバイルネットから姿を隠す方法があるかも知れない。日常が演劇化してしまう方法みたいなモノ。実ワこのメモもその一つなんだけれども、と言い訳を今日思い付いて早速実行に移す事にした。
 明らかな愚行である。
 しかしながら編集長の丹羽太一も車椅子の異形な人物だし、異形にしか出来ぬ事もあるだろう。
 038
 一月十七日十一時半。大事な電話の応答が幾つかあり、ゲラを送ったりで午前中は終わろうとしている。通信手段は多様化した。ケイタイ持たぬ、コンピューターのキーボードには触れぬ、は全く化石状態になった。自分の体が硬直化しひび割れてゆくのが自覚できる。ひび割れる感じと言ってもポーのアッシャー家の崩壊の崩壊感覚ではないような感じ。何なのかと考えれば、要するに、自分の頭や体で考えたいと欲すれば、新種のコミュニケーション手段への鎖国状態が必要ではないかと思う事の現れである。情報へのプロテクターが身体を化石状にする。我ながら難しい言い方をしている。
 肉声で対面して話し合う、論ずるのが一番ハードである。声の質量、眼の光り、身振りなどが総合した、コミュニケーションは快楽であり、戦いでもあろう。電話が次に辛どい。声色や話しの間、折り込まれる沈黙が圧力になり、時に楽しみでもある。次に封書、葉書の類が来る。ここに巨大な大地構帯が出現し、向こう側にケイタイ、メールの類が末広がりに広がっている。大いなる西部である。際限もない。ケイタイ、メールの通信は当然コミュニケーションであり、それでないところに大きな特色がある。実に何の壁も立たず、時間の制約もなく水が流れるようにコミュニケーションが発生し消えてゆく。この辺りの事は俗論としては産業革命時の機械の出現よりも、今のコンピューター革命は深く大きいと言われている。多分、本当なのだろう。しかしそれがどう人間を変えているかに関しては充分な考えがされていないようにも思う。
 昨夜から今朝にかけての連絡の嵐状態を体験してそういう感慨を持つに至った。
 037
 文芸春秋二月号で関岡英之が東京都知事石原慎太郎と対談している。
 「NO」と言えるサムライ国家と題されている。米国が進める「日本属国化計画」を断固拒否せよ、と勇ましいサブタイトルがふられている。内容は「拒否できない日本」以来の関岡の論に石原が沿っている形だが、郵政民営化だけは関岡とは反対に良しという旨を発言している。冗談だろうが、石原知事は民営化で生まれる金の何某かを日本の核開発の資金源に充てろなんていう事も言っている。関岡君がどんどん中央論壇に進出するのは喜ばしいが、あんまり際どい内容のモノは要注意であろう。国を憂う余りの憂士的発言はどうかな。と要らぬ心配をした。過激なナショナリストの陣営に加わってしまうのかと心配する。
 036
 早朝、プラニングシート二枚作成。アイデアは常に短時間で出現するから消えぬうちにメモしておくのが肝要。メモに整理する方が困難でもある。
 035
 宮崎の藤野忠利さんよりドンドン異形な郵便物が送られ続けて、世田谷村の階段室はすでに藤野コレクションの風味を帯びてきた。毎朝の郵便屋さんも笑いながら届けて下さる。それが当初の苦笑いから、本物の良い笑い顔になってきたのが妙に嬉しい。郵便配達人シュヴァルがこんなきっかけで生まれたら二十一世紀の奇跡なんだがと馬鹿な事を考えたりする。
 藤野忠利さんは新種の郵便配達人なのかな。この異形な郵便物が飛行機で空を飛んだり、汽車で運ばれている姿を想像するだにオカシイ。郵政民営化が実施されると恐らくこの様な異形の郵便物も標準化のフレームから外されて枠外物として排除されてしまうのだろうか。やはり、かくの如き異形な物はクロネコヤマトで運ばれるよりも世界スタンダードな郵便システムで古いユニフォームを着て、コマーシャルな空気を帯びずに運ばれぬと価値が薄れるのではあるまいか。と、郵便評論家はつぶやいている。
 034
 十四日、日曜日友美墓参りをすませAA十九時〇五発NY便でニューヨークに戻る。荷物が多く重いのでNRT迄送る。世田谷村は寂として音も無くなった。猫のニコライが帰りを迎えるだけである。
 033
 鈴木博之先生より「皇室建築─内匠寮の人と作品─」送っていただく。文化庁長官河合隼雄の帯が附帯された大部の書物である。建築画報社よりの発行で定価は一〇,五〇〇円。かつて鈴木先生が皇室の歴史に関して深い哀しみうんぬんをつぶやいていたのを憶い出し、「御陵および陵墓」の章を読んだが、その素は解らなかった。気になる謎である。かと言って自分で調べる力もないし、これは不明のママに終わるか。
 032
 虎ノ門赤とんぼで山本伊吾さんと夕食。伊吾さんとは久し振りである。伊吾さんは父親の夏彦さんの跡を継いで室内編集発行人になる以前はフォーカスの編集長であった。だからと言うわけではないが時に眼がキラリと鋭くなる。その眼付きが何とも夏彦さんの眼付きとそっくりでヒヤリとする。夏彦さんの物腰には修羅場をくぐってきた素浪人というか、時に渡世人の如き風があったのを思い出す。利根の川風たもとに入れて、の戯れ唄が伊吾さんにはよく似合う。その辺りの影の面白味は室内編集部の女性方には仲々解らんかも知らんな、と余計な事を考えたりもした。別に大した用事があったわけでは無い。日常茶飯事の類を延々と話した。話しは私の連載の件になり、アブナイ仲間達のタイトルは伊吾さんが付けたのだが、本当に結末はどうなるのか皆目わからんのです、アブナくって眼もくらみそうです、なんて正直な話しもしてしまった。伊吾さんもアブナイ話しは決して嫌いではなく、硬派な渡世人の眼付きで聞いてくれた。人間誰でも時に同世代の人間と話すのは必要なようで、一人で考え込んだりすると暗い方へ、暗い方へと行きがちだから、赤とんぼまで出掛けて、しかも、ごちそうになったのは寒い冬の日の光明であった。しかし、夏彦さんも伊吾さんも全くインテリアには無関心なところが親子だなあと思ったりもする。親子共々あの眼付きでインテリアとは笑わせる。室内を介して広く世間を、政治談議をしたら面白かろう。
 031
 朝、早めに目をさまし、二階のカーテンを引いた。世田谷村の前の保存緑地の生垣に人影があった。光が横なぐりに差し込んでいて陰影がハッキリしている。うつむき加減で背中が丸い。何処かで見たような気がする。誰だろう。
 山本夏彦さんだ。三年前のお別れの会の朝にも夏彦さんは現れた。久し振りの再会である。いつも生け垣に隠れて背中だけの姿だ。コラムニストとしての声望が高過ぎて、室内編集発行人としての夏彦さんの姿は次第に薄くなっていた。でも夏彦さんの砦は室内だった。室内の発行を通して世間という得体の知れぬモノをマジマジと見据えていた。
 三年振りに遠くからでも再会した夏彦さんらしきの人影は陰影はハッキリしていたが、うっすらと朝モヤ状の粒子に包まれている。前のようにすぐ角を曲がって姿を消すでもなく、生け垣のそばにしばらく立ちすくんでいる。枯れた菊の花で足下は見えない。「オーイ、何処行くの」と声を掛けようかとも思ったが、応えは無いだろうから、胸の中にしまい込んだ。別に用事があって現れたわけではない。こちらの方に夏彦さんに用事があるから、現れたのである。何の用事だったかな。思い出そうとしても仲々思い出せぬ。サテ、どうしたものか。晩には山本伊吾さんと食事をする約束があるから、何か言づてがあるのかも知れない。何だろうか。夏彦さんの背中は中々生け垣の向こうから姿を消そうとしない。
 030
 一月十一日午前二時世田谷村に戻る。七〇才過の磯崎さんと話していて、六〇過の自分にエネルギーが流れ込むのを実感して仕舞い、これではいかんなと思う事仕切りである。
 029
 一昨日は磯崎氏他と深夜まで六本木で打合わせ。旧い知人であるF地所T副社長等と一緒だった。昨日一時過世田谷村に戻る。昨日は午後一つ企画をまとめて早く休む。本日一月十日は朝十時より研究室で打合わせ新プロジェクトの体制作りを終える。十九時半研究室発。二十一時六本木で打合わせ。
 028
 八十六才になる母が昨日フロ場の出口で転んで倒れた。私は生憎鈴木博之さんの祝賀会で世田谷村に不在だった。娘だけがいて、何とか手当てをしたようだ。日が明けて七日母が痛い痛いと心配そうに言うので近くの整形外科に連れていった。足取りも危く、本当に母も年を取って、子供みたいになったなと痛感した。レントゲンの結果が出る迄待合い室で憮然としていた。正月なのに人がとても多い。こんなに不具合な人がいるのかと仰天した。仰天したついでに幾たりかの友人の九〇才位を予想してみた。昨日の祝賀会の主役の鈴木博之さんはどうか。九〇才。良く歩く人であるから当然お元気であろう。寂寥たる孤独にも強いからイタリアの山岳都市シエナの広場をスッテキも無しに歩いている。何人かの友人は皆もう居なくなって、そんな事もすでに忘れている。鈴木さんは都市に生きる人だから田舎の草の道は似合わない。何故だか凸凹のある石畳、やレンガの道が合変わらず合っている。広場に面したバールに寄って、ビールを飲み、相変わらず煙草もプカプカふかしている。何処で手に入れたかイナリズシもほうばっているのがオカシイと言えばオカシイ。バールの奥から洩れ出てくる音楽を耳にとめ、この曲が何であったかを思い出そうとしてもう五日目になるのも、全く気にしない。都市にはそれぞれに固有のざわめきがあって、膨大な死者達の記憶やらもそれに交じっているのだ、なんて考えてみたり、そんな事考えるのも面倒臭いと又考えたりの良い時間を過ごしている。股眼鏡をしていた遠い自分を想い出して、辺りをソッと見廻してみたりするが、もう股眼鏡をする程体が柔らかくないのも知っている。陽差しは強い。急に辺りがざわめく。眼をこらすと、日本人の老人が一人、なんとスリッパをはいたままペタペタと歩いてくるのを見付けた。どこかのホテルに泊まって、その室内履きのままで出て来てしまったらしい。「伊藤クンじゃないか。キミ、スリッパのママ歩いているよ。」と声を掛けようとは思ったが、マア、これもコレでいいではないか。昔、どこかでそんなバカがいたなと思い出そうとしても、もう思い出せない。スリッパの伊藤さんはそのまんま広場を横切っていった。陽差しは強く影も短い。たしか、伊藤さんは都市史の大教授だった筈だ。都市の歴史を身体で感じるのは裸足の方が良いのに、でもそれでは足の裏が痛いんだろうなと、考えたりしている。広場には人影もまばらである。
 027
 21 C農村研究会にロシア・ダーチャ部会を作る。昨日若松氏より申し入れがあったように、今夏はロシアで会が持てるようにしたい。一月六日に若松氏と相談する。ダーチャのハウスキットの研究を準備しなくては。
 026
 丹羽君、災い転じて径を拓くとします。正月のメモの事は忘れます。一月、外で色々と動きますので、研究室に不在が多くなりそうです。君アテの通信を、研究室への通信メモ代わりにしたい。知っての通り昨日、一月五日夕刻モスクワからの帰途若松氏が研究室に立寄りました。モスクワ貿易センター内にユーラシア・サイエンスビジネス研究所開設準備室が設営されました。今年は研究室より数名ロシアに駐在してもらう事になりそうです。
 025
 丹羽太一君 暮れから正月にかけてのメモは全て手紙形式にしました。昨日研究室でチェックしましたように、送信したものの一部が欠損しておりました。残念ながら全てオリジナルは送信済でコピーも残っていません。残念ながらウェブへの転載は不可能となりました。私信は公開するなの天命でしょうか。あきらめましょう。(一月二日木本一之へのものでした。)日記のスタイルを変えるつもりでしたが、少々不自然であったのでしょう。幻のメモとなりましたが、各氏の手許には残っているでしょう。それで良しとします。
 024
 台北の季祖原、北京のマイルス郭に電話する。ハッピーニューイヤーのグリーティングである。北京オリンピックの成否を決めかねぬプロジェクトの当事者である両名はいたって気力充実、何の問題もないとの話しであった。日本サイドの情報では、大問題が山積していて抜き差しならぬとの状況判断なので、相も変わらず、そのギャップそのものに想いをはせた。一月末か、二月初めには北京に行く積りだが、恐らく、このプロジェクトは千変万化しながら続いてゆくのではないかと思われる。日本風希望的観測でもなく、淡々とした虚無、虚栄ではなく、歴然とした現実の動きとして。僕も、お蔭様で、チョッと中国人風な思考を身につけられたのかと想ったりもする。
 023
 年明けの四日に難波先生とソバを食べた。夕刻の新宿高島屋十三階小松庵であった。このソバ屋は淡路島の山田脩二に教えて貰った。山田らしく眺望の良い新宿の程々の高層ビルの全てが見渡せる処だ。昨年の暮に食べおさめをしたソバ屋は新大久保駅前の近江屋である。ここはチョット昔ダッタンソバというのをメニューにしていた。ベラ棒にうまかった。駅前ソバ屋には似合わぬ味であった。このソバ屋は亡くなった佐藤健に教えられた。以来ダッタンソバはメニューから消えたが常用している。年越しソバは磯崎さんのゆでたものをいただいた。永平寺のソバだった。磯崎さんの料理のウデは底知れぬものがあり、建築なんかにつかまらなければ、今頃、イタリア、しかもベネチアのハリスバーの近くで五ッ星のリストランテ、アラタを設け、大成功していたにちがいないのである。残念だ。特にメン類の仕上げが何とも言えぬ。世田谷村の近くには名店宗柳がありここの味はすべからく良い。特に一人で飲む酒と食が良い。ソバ屋はソバ打ちだけでは駄目で、サッと作る小料理全ての達人でなければならぬ。そして、何より気取ってはイケナイ。ソバ道だとか、修行だとか言い始めたら要するにお仕舞なのである。値段も極く普通なのがよい。
 小松庵では難波先生は鴨ナベをオーダーされた。この鍋はおいしくなかった。鴨らしきは固く、味もスープにとけこんでいなかった。僕はハッキリと自覚した。難波先生とメシを喰う時だけは失礼ながら自分でオーダーしなくてはならない、と。小松庵で上等なのは焼ノリだけなんである。であるから、これを中心にマテリアルをデザインしなくてはならぬ。ここの焼ノリは超一級品です。他はソバも含めてダメではないがマアマアなんである。しかし、難波先生はこともあろうに虫垂炎の手術後で、しかも術後、傷跡が膿んでしまい大変な目に会ったらしい。要するに一命をとりとめたのだ。それ故、僕はそのオーダーについてイア味を言ったりはしなかった。何しろ病後の人なんだから、いたわらなければイケナイのだ。
 022(F01)
 藤野忠利様 二〇〇五年は数年途絶えていたお附合いが再開された年でした。沢山送っていただいたモノは全て世田谷村の階段室に展示しています。世田谷村の一部には小さなギャラリーを作ろうと計画していましたが、お金が無いのと、どんなギャラリーにしたら良いのかアイデアがまとまらずに、例によって未完成のままでした。
 実ワ、この世田谷村日記も記録をつけ始めて五年になります。良く続けてきたなと我ながらあきれていましたが、〇五年末に書き方を変更する事にしました。日記のスタイルが歴然と考え方や作るモノに影響しているのに気付いたからです。どう気付いたかは、どう変わるかがハッキリしたら解っていただけると思いますので今は述べません。藤野さんのメールアートと同じで、ハッキリした相手が視えぬ時は何となく気が乗りにくくなるもののようです。ウェブサイトの読者は毎秒何人という数になっているようです。しかし姿形は無い。当然応答もない。虚空に紙飛行機を投げているようなものです。そんな事を五年間続けてきたら、何となく僕自身の考え方も、そんな虚空の紙飛行機状になってきたのを自覚するにいたりました。メールアートはおっしゃる如くに、藤野さんの手を離れた途端に他人のモノになるのと、実は同じ事です。堀尾貞治さんの百円均一アートも同族でしょう。日常(フツウの事)の延長にある芸術って事でしょうか。屋上菜園の花作りも、家の片付けも芸術だと言う事になります。しかし、何かがチョッとばかり違わないと花作りは花作りで、要するに人を驚かせ、ギクリと、あるいはホッとさせる事はできない。と、マア、僕のクソ理屈はここまで、まだ日記の名残りが続いてしまっています。
 ところで、世田谷村階段室ギャラリーが一杯になってきたら、何処かにスペースを発見しなければなりません。そんな眼で世田谷村を見渡すと実に多くの空間があるじゃありませんか。
 そんなワケで藤野さんのメールアート、ミュージアムは世田谷村に作らせていただきます。
 二〇〇五年十二月三十一日
 021(P02)
 ときの忘れもの綿貫不二夫様 年をとると背中に色んなモノを背負って歩かなくてはならないのは世の常のようです。お互い様です、月並みですが何とか頑張りましょう。お蔭様で銅版画を始める事ができました。銅版に向かうのはリズムがあるようで、そのうねりをつかむのがコツのようです。波乗りみたいなものでしょうか。頭の中でゴチャゴチャ考え廻すのは建築の方でやってますんで銅版は何も考えないようにを旨として続けています。
 色々とまだ難問を抱えているけれど、北京オリンピック会場の北京モルガンセンターにテンポラリーなミュージアムを設営する計画を進めています。又、日本仏教会の力を借りて大仏開眼ならぬ日中友好の大セレモニーもプランしています。お力をいただく事になるやも知れません。
 僧玄奘(三蔵法師)に関する美術品他の情報お持ちでしょうか。
 又、日中の僧侶交流に関する。あるいは美術の行ったり来たりのコレクションは日本に在るものでしょうか。宗派を問わず寺院に収蔵されているモノは調べられるのですが、個人蔵あるいは美術館に仕舞い込まれているモノが解りそうにありません。
 一月二日 石山修武
 020(P01)
 真栄寺馬場昭道様 全日本仏教会にはその後コンタクトしておりません。北京モルガンの工事が一時中断していまして、その状況が解決する迄無理をする事はないと考えているからです。季祖原も同じ考えで、彼の場合幾つかのもめ事の当事者ですから、心中察するに余りあるものがありますが、当人はノープロブレムの連続で、計画の進行に何の疑いももっていない様です。私も同様に計画自体には何の心配もありませんが、日本的には心配する方が自然ではあるでしょう。正月が明けたら動くと思います。その時は又、色々と相談に乗って下さい。大きい事を申し上げますがこの計画は日本仏教会にとっては大きな記念碑的プロジェクトになると考えます。日中関係が最悪に近い歴史的状況の中で仏教界が日中の懸け橋になり得ると思われるからです。もうしばらくお待ち下さい。佐藤健が生きておれば喜色満面に駆け廻っていたでしょうに。
 昨日、十二月三十一日は例年通り、磯崎新宅で除夜の鐘を聴きました。不思議な事に磯崎氏から日本へのオリンピック誘致の話しを聞きました。北京オリンピックの次はロンドンで、その次のオリンピックの話しです。丁度十年程先の話しになりましょうか。お互いにまだ元気でいるだろう頃の話しです。どうやら先は長そうです。体大事に日々をしのいでいきたいと念じます。
 元旦 石山修武
 追
 我孫子市長福嶋浩彦氏の「市民自治の可能性」いただき、読んでおります。読後感を福嶋氏に送るようにとの事ですが、御自宅の住所が解りません。教えて下さい。
 又、二〇〇六年度一月二日の真栄寺の行事スケジュールも、願います。
 019(Y01)
 結城登美雄様 昨年中は大変お世話になり、又お忙しいのを更に輪をかけるような事をお願いして心苦しく思っております。長い付き合いに免じてご容赦下さい。二十一世紀農村研究会は工夫しながら今年もゆっくり積み重ねてゆく所存です。よろしくお願いいたします。宮沢賢治の農村芸術概論みたいのをやりたいネと話し合ったのを思い出します。今年は幾つかのサイトが出現しそうで、いよいよ正念場かとも思います。現実に直面すればする程淡い理想は霧散しやすいのは承知ですが、それを知って又始めた事なのは、お互い様なのではと考えてもいます。
 ところで、私の別方面の友人に宮崎の藤野忠利がいます。別方面とは俗に言う芸術畑です。経過を全て省略しますが、宮崎市内に現代っ子センター、現代っ子ミュージアムを運営し、自分も創作家です。現代っ子ミュージアムは私が設計しました。その竣工式に高千穂の神楽がやってきて演じました。宮崎の土を多用した小建築ですが、その神楽の舞とピッタリでした。我々の会の友人農文恊の甲斐氏の生まれはその高千穂です。老後は高千穂に戻ると何度も聞きました。あの様子は多分本気です。急いては事を仕損じるでしょうが、遅れては事は過ぎていくでしょう。甲斐氏と藤野氏に高千穂をサイトに農業、食、そして芸術の分科会の如きを作ってもらったらどうでしょうか。藤野氏のギャラリーではカフェキンヤを経営しており、甘味処として頑張っているようです。高千穂特産の農村和菓子など生まれると良いなと正月ですから初夢です、コレは。藤野氏は宮崎を中心に児童幼児の芸術教育、障害児の絵画表現活動などに長年従事してきました。二十一世紀農村研究会に参加してもらったらどうかと考えて一筆差し上げました。
 食と農村問題になるべく直接的に取り組んでみたいなとも思います。今年もよろしく願います。
 二〇〇六年一月一日 石山修武
2005 年12月の世田谷村日記

世田谷村日記
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