石山修武 世田谷村日記 |
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2006 年3月の世田谷村日記 |
086 |
二十八日七時過起床。チェックアウト。八時過福岡空港。李祖原、空港の余りの近さに驚く。九時の便で東京へ。十時半着。早稲田大学の宿舎に李祖原送り届け、学生街の食堂でオムライス、コロッケ。学生の味だ。ナチュラル・ベジタリアンレストランと同じだな。福岡ではT氏が折角探してくれた自然食ベジタリアンレストランに迷った挙句にようやくの事辿り着いたのはいいのだが、雰囲気が暗く、余りの質素さに退散してしまったが、アレは要するに学生味の食堂だな。変なモノが流行しているらしい。パーフェクトなベジタリアンである李祖原も流石に、皆は魚喰べてくれ、自分はラーメンでいいからと言い出す始末であった。皆さんもナチュラル・ベジタリアンフードレストランにはご用心の程を。一時大隈講堂。修士設計、論文公開発表会。やっぱりエンジニアリング系の先生方と一緒の講評には無理があるな。十八時修了。李祖原も講評に参加したが、アベルのものにしか関心を示さなかった。仕方の無い事だが学生は皆驚く程に小粒になった。十九時過研究室。雑務と小休。二十三時過世田谷村に戻る。 |
085 |
二十七日七時半起床このメモを記録して、又、横になり、今日一日のスケジュールを頭に入れる。十時、李祖原西日本新聞社インタビュー。十一時過取材終了。百道サイト,チェック。戻り、櫛田神社山笠見学。必勝祈願も。昼食ソバ喰べる。O邸打合わせ。カンサイ社長忍田氏と。終了後、博多の森サイト、チェック。立派な施設と環境で安堵する。十六時市役所、打合わせ。十九時過迄。グランドハイアットに戻り李祖原と合流。夕食へ。ベジタリアンフードにトライするも、思わしくなく、結局アルド・ロッシのイルパラッツォ近くのレストランに席を移す。T氏と李祖原、中国大陸の仕事に関して情報交換。李祖原より中国関係の支持を得られたのは福岡にとって大きなサポートになるであろう。もう一軒、李祖原に附合ってもらい、彼は二十四時前、ホテルに戻る。T氏等と一時過ぎまで話しホテルに一時半戻る。 |
084 |
二月二十六日、六時半起床。日曜日。九時四〇分の便で福岡へ。今夜は、李祖原に会う予定。今日明日の予定は福岡に着いてから決まる。昼前O邸現場竹内土建蔭久氏等と打合わせ。よい仕上がりになってきた。十四時半頃打合わせ。十九時過福岡空港へ。CI 110 便で李祖原来福。ヤアヤアと再会。グランドハイアットでF氏市役所H氏と会い。二〇時半頃丘の上のレストランイムリで会食。後ハイアットに戻り休む。李祖原が福岡オリンピックの磯崎構想に関して面白い意見とアイデアを寄せてくれた。李は勿論中国人社会 NO.1 のシティプランナーだから我々の構想の本筋はすぐに呑み込み、ナイス・アイデアとの事。それでも二十四時前眠る事が出来た。 |
083 |
二十四日二十四時前福岡P打合わせを終えて世田谷村に戻る。二月二十五日の今日は十二時過研究室。福岡P図面チェック。マアマアの出来である。石山研の今の力は組織事務所の力よりは、まだまだ上を行っている。当たり前だ。ウチの学科卒で最優秀の人材を集めているのだ。十六時磯崎アトリエ。打合わせ。途中より渡辺加わる。二十一時過迄。修了後、六本木で食事しながら打合わせ二十二時半迄。福岡オリンピックPについては構想、アイデア、デザインは他の追随を許さぬものが出来上がりつつあり、あとは、この構想をどうやって多くの人に理解してもらい、支持していただけるかにかかっている。 |
082 |
〇時三〇分世田谷村に戻る。今日はもう二十五日になっているか。書かなくてはならぬ原稿が幾つかたまってしまっているが、朝にしよう。 九時二〇分2本の原稿を書き終える。八大建設による母の部屋の改装がほぼ出来上がった。私はノータッチだったので、一部イヤな感じのところがあるが仕方ないだろう、と思ったがヤッパリいやなので一部変えてもらった。眼ざわりなものは眼ざわりなのだ。 |
081 |
十時四〇分研究室。十一時教授会。今年の建築学科の入試は理工学部では最高のレベルだった。十二時福岡Pミーティング。スタッフもそろそろ良いペースで動き出した。少し安心する。トリノオリンピックは今早朝女子フィギュア競技で荒川静香選手が金メダルを獲得、ギリギリのところで盛り上がりを見せてくれた。のびやかで堂々とした演技であった。 |
080 |
二十四日〇時半。夕刊をゆっくり読む。朝日の文化欄に鎌倉近代美術館で開催中の山口勝弘展の展評が掲載されている。01年に、脳梗塞で倒れてからの仕事を田中三蔵氏は、これまで抑制気味だった色彩感覚を表面に出し始めたと短く要約しているが、それだけの事ではあるまい。芸術家の生命力そのものの発露としてとらえるべきだ。01年からの仕事の本質を考究したい。山口勝弘展は一日がかりで体験するつもりなので、日を選んでいる最中である。山口先生からは廃墟に昇る太陽を記念に送ったとの便りをいただいているので到着を待っている。 民主党の永田議員がライブドアのメール問題で辞意表明との事。違う世界の出来事だが、政治家も山口勝弘の不退転の情熱、生命力を見習うべきではないか。山口勝弘の生き方と比較すればあまりにも幼稚なドタバタ騒ぎである。あんな風にならぬよう自戒したい。冬季トリノオリンピックは日本勢振るわず、少々オリンピックを見る眼が違ってきているのを自覚する。福岡ガンバレとつぶやく。 |
079 |
二十三日、二十三時四〇分世田谷村に戻る。教室会議、芸術学校主任会の合間を縫い終日福岡オリンピック作業。十二名が有機的に動き始めた。全てに眼を通さねばならぬのでハードだが気持ちはむしろ快調である。プノンペンのひろしまハウス現場からメールが入り始め、工事の進行が東京でビジュアルに眺められる。ひろしまハウス五階部分のデザインに手を入れる。忙しくて昼食を取れず夕方にサンドイッチを喰べただけ。言うまでもなく、喰べ過ぎも良くないが、これでは体に良くないな。 |
078 |
只今、二月二十二日二〇時前。東京駅で福岡市H氏と打合わせの後、ようやく辿り着いた。今日は十時半待合わせ、十一時古川貞二郎氏と相談。古川氏より目の覚めるようなアドバイスを受ける。十二時過修了。新宿で昼食のソバを喰べ、資料を受け取り、十四時頃六本木磯崎宅、宮脇愛子さんと話し、十四時半磯崎新と打合わせ、福岡市役所H氏、辛さん合流。十七時過迄。修了後H氏と東京駅のレストランで打合わせ。十九時過迄。二〇時過新大久保近江屋で研究室スタッフと打合わせ。 昨日は福岡で志賀島、海の中道から能古島まで、博多湾を駆け巡って、大変ではあったが面白かった。 福岡オリンピック実現の確信も持つ事ができた。能古島からの福岡市の風景は世界にも稀なものであろう。 |
077 |
二月二十一日。福岡は今日は晴れている。晴れの福岡は久し振りだな。七時半起床。朝食をとり、八時半の迎えを待つ。今日は志賀の島、海の中道、能古島を巡り、午後、O邸現場の予定。昨日、早く寝て良かった。 |
076 |
九時四〇分羽田発の便で福岡へ。O邸現場に立ち寄り、キャナルシティへ。打合わせ。十八時半迄。十九時半市役所スタッフと打合わせ。二十二時半迄。KKR博多ホテルにチェックイン。すぐ眠る。 |
075 |
日曜日。昨夜に続き福岡プロジェクト・ミーティングで六本木へ。十二時過新宿で図面を受け取り、十三時前磯崎宅。昼食を取りながら打合わせ。食後続行十七時半迄。十八時新宿で福吉に先程の打合わせのメモを渡しコーヒー飲みながら幾つかの依頼。十九時半世田谷村に戻る。 |
074 |
十九時三〇分リストランテ・アモーレ。磯崎新、姜尚中氏、辛さん等と会食。ミーティング。姜東大教授とは初対面である。姜教授は政治学の前線に立つ人らしく、現実にすでにある情報を組み立ててゆく才能の人だ。十九日〇時三十分世田谷村に戻る。面白かった。 |
073 |
S邸三ヶ月検査、工事ダメ出し他。大体うまくいっているが寒いらしい。私は冬寒い世田谷村に住んでいるので、フロアーヒーティングの室内は少々暑く感じた。S夫妻のネコがいて、二〇才の超高齢猫で、よく見るとやっぱり年寄りの顔をしていた。しかし、猫でも長生きしているのは風格がある。幸和建設宮下博道専務に帰りは再び佐久平まで送ってもらう。今、十九時過、六本木の、珍しく客が全くいないカフェでコーヒー飲んで一服している。六本木でこのカフェはないだろうという位の処で、今も女性が一人入ってきて、あまりの無愛想振りに仰天して、すぐに出ていってしまった。スッゴク、時代遅れのカフェだなここは。仲々良い。 |
072 |
あさま五六七号で佐久平に向けて走っている。S邸の竣工後三ヶ月検査である。S邸は私達の仕事としては耳岩の家、津野邸、藤谷邸の系列に連なる。サイトの自然条件を与件として最大限に受け入れている仕事である。三仏寺投入堂みたいな建築をいつか建てたいと思ってはいるのだが機会が巡ってこない。しかし準備は怠ってはいない。佐久平には幸和建設が来ていてくれてる筈だ。今日は二月十八日か。 |
071 |
「室内」最終原稿書く。手間取って十六時四〇分修了。十八時近江屋で打合せ。「室内」とは長い附合いであった。色んな事を勉強させて貰った。最終稿はひろしまハウス完成としたが、北京西遊記で終わりたかったなァ。北京モルガンセンター以来スケール感覚が肥大化していて、ひろしまハウス in プノンペンのウナロム寺院では納まり切らぬようになってしまった。要注意だ。福岡オリンピック招致計画に参加して、更にそれが速力を増している。ひろしまハウスを設計した時も、その高さは三百米くらいのイメージで実は設計していた。実体としての建築ではなく、イコンの全体として三百米の高さ、その一部としての実体としての建築という図であった。李祖原との附合いでイリュージョンのスケールが実体と一致してしまうケースがあるのを知った。イコンがそのまま凍結するケースである。李の台北101、高さ五百八米のハイライズがそれだ。あれはイコンそのまんまの建築であり、その一点に価値があり、他は無い。ドバイに計画中の七百米のハイライズビルは何もないビルディングだが、李祖原の台北101には建築家の意志がイコンとしてある。イコンには内部は存在しない。李のビルディングにも空間はない。シルエットがあるだけだ。しかし、そのシルエットがあるという問題が実に大問題なのである。その巨大さ故に建築がイコンになり得るという問題を彼の建築は初めて示したのではないか。 |
070 |
研究室福岡Pの後六本木磯崎アトリエで打合わせ深夜迄。夜中に世田谷村に戻り、十四日は暮れた。今日十五日は朝から母親の部屋の工事で職人さんが入り、にぎやかである。八大建設の西山社長来村。午前中は、とうに〆を過ぎた室内連載原稿にかかるも、うまく進まない。休刊となる室内への、終わりの原稿だと思うと気が重くなるばかりだが、色んな想いを込めて書いてみるつもり。 |
069 |
午後、福岡P、ミーティング、作業の後、二〇時古市事務所へ。モンゴル建築学会会長 BATJAV BATKHUYAG 氏と会う。今春のバウハウスとのワークショップにモンゴルから学生一人参加する事になる。早稲田のメンバーとしてレジストすれば問題なかろう。バウハウス大学のグライターに連絡してみよう。二三時二〇分世田谷村に戻る。 何はともあれ、今日はカンボジア・プノンペンに建設中であった「ひろしまハウス」が、ようやくにして、今春四月には完成も目途がついたのが、何よりも嬉しい。カンボジアから帰った渡辺より報告を受けた。現地の建設会社、広島市民の方々、広島県。JA広島市レディースクラブ。カンボジア日本語学校他の方々に感謝したい。未完のママに終るかと覚悟していたのだが、天は見捨てなかったな。人間の力をまずは信じて良かった。四月は嬉しい春になると思う。 「ひろしまハウス」の五層の空間の構造は「幻庵」と同じもので、大きい分だけ建築的な骨格が明快に出る筈だ。カンボジア製、ベトナム製のレンガやタイルのテクスチャ−はすでに手中にしているので、内部外部共に仏教的空間を表象する事になるだろう。二十四時、原稿をかかねばならぬのだが明朝にしよう。今日は「ひろしまハウス」完成間近に免じて眠らせてもらう。 |
068 |
原宿駅前竹下通りを明治通りを越えて抜け左に折れた処に小林崇氏の店があり、四〇年のモミの樹に宿ったツリーハウスが増築されている。二月十三日十時四〇訪問。小林さんはアラジンの石油ストーブの手入れをしていた。十一時 T・BOOKS の赤荻氏田辺氏も来て、対談。石山研の秩父ツリーハウスが英語版のツリーハウスブックに登場していて、私は知らなかったが、ヘェーと驚いた。小林さんはジャパン・ツリーハウス・ネットワークをオーガナイズして、今沖縄本部でツリーハウス村を計画中との事。石山研で沖縄の大宜味村の国際的なワークショップを開催した時に、本部へは良く足を運んだ。何か役に立てれば良いが、又、小林氏には会う事になるだろう。十三時昼食をとり、四十五分研究室。 |
067 |
カゼが仲々抜けぬこの一週間は福岡オリンピックの件に集中して、不思議にも体は復調の兆しである。酷使すると体は反撥力を得るのかも知れぬ。只今、二月十一日十一時、今日は旗日、休んで、福岡のプロジェクトのアイデアを進める。 |
066 |
九日十日は修士論文、修士計画発表会であった。石山研は論文計画共に一定の水準には達していた。計画ではチリのアベルが修士設計賞を得た。 |
065 |
福岡オリンピックの件もあり、カンボジア・プノンペンの「 ひろしまハウス」現場は渡辺を代理で行かせた。広島県のレンガ積みツアーの件も任せた。 |
064 |
福岡ではOさんにもお目にかかった。 地元では新聞TVが連日報道していたので、私の姿もチョッと出ていたらしく、現場の職人達から頑張って下さいと声を掛けられた。この様子では、もうすぐ磯崎新は福岡を歩くのは大変な事になるだろう。 O邸の空間は間違いなく、イメージ通りにあがっていた。仕上げをごろうじろ。 |
063 |
福岡の帰り、羽田空港から直接神田岩戸に寄り馬場昭道、毎日新聞千葉支局長中井氏と会食。福岡オリンピックの件はオープンになったと自主判断し、ヤルゾという事だけ伝えた。毎日新聞の支局長は、福岡が手を挙げている事さえまだ知らず、東京でのオリンピックへの関心が低い事を思い知った。福岡オリンピック招致問題は政治思想の問題でもあり、関心が深まる事を願う。 |
062 |
日曜日から昨水曜日迄の四日間の福岡行を了えて、今九日九時三〇分研究室。磯崎新が福岡オリンピック招致計画制作総指揮者となる事が福岡市で公にされた。私も考えるところあって計画作りに参加する事になった。磯崎新が頭に居れば、存分な事が出来るのを経験で知っているからだ。最近は自分の想像力を目一杯使い抜く対象に対面していなかったので、この計画は脳内機能の再生が促される事になるだろう。 |
061 |
昨日四日はあわただしかった。九時過研究室採点。十二時過発。金城庵昼食後十三時大隈講堂公開講評会。十六時半迄。研究室に戻り、F計画作業。採点。ミーティング続ける。二十一時半迄。結局夕食取れず。二十二時半西調布Nさん宅。二十三時過ぎ近くのラーメン屋で遅いメシ。ここのネギラーメンはうまい。翌、五日〇時半頃世田谷村に戻る。一時過迄荷作り等。只今、二月五日、日曜日七時二〇分羽田空港六二番ゲート待合いでメモ記録中。今朝は五時半起床。雄大が葉山迄行くので、羽田迄送ってもらう。早く着き過ぎて、待合ロビーで休む。二四三便で福岡へ。津南町は積雪四メータを超えたそうだ。地球温暖化だが、ディテールは単純ではないね。 |
060 |
十一時博士論文審査会。十二時抜けて、十三時磯崎アトリエ。二十一時迄打合わせ。二十二時過ぎ世田谷村に戻り二月二日は暮れた。翌三日、十一時研究室。打合わせ。十二時過了。作業に入る。十三時卒論テーマ発表。十四時卒計採点。二月五日をフルデー動けるように、今日はあわただしくなった。十五時採点了。十五時半、Fミーティング。十九時半迄作業。 |
059 |
新潟市役所の方二名より研究・開発のサイトに関してていねいな説明を受ける。 21 C農村研究会は具体的なフィールドを得るやも知れぬ。何がどのように可能なのか頭を働かせなければならぬ。伊豆松崎町の森秀己氏より連絡あり。二月下旬から三月上旬にかけて一泊二日四〇名〜五〇名のモニターツアーを試みるとの事。詳細は決まり次第ウェブサイトに公開するが交通費宿泊費は主催者負担で参加は無料との事である。早春の伊豆を無料で旅したい方がいれば、研究室まで連絡いただきたい。二〇代から六〇代、七〇代まで年齢も問わぬとの事でもある。ノルマはアンケートに答えるだけである。伊豆松崎町からの話しはいつも楽天的で明るい。あそこは、やっぱり別世界のようだ。 |
058 |
十七時過神田グランドホテルで 21 世紀農村研究会定例会。結城登美雄、甲斐良治、渡辺(記録)と。内容は近日中にコラムで公開する。甲斐氏もカゼにやられたの事で、見回せば街はマスク人間が溢れている。三十一日二十二時過世田谷村に戻る。連絡の行き違いがあって、一つミーティングに出席できず。二月一日十二時四〇分研究室。十三時新潟市役所と打合わせ。 |
2006 年1月の世田谷村日記
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