X SEMINAR

石山修武研究室

X SEMINAR :

石山修武X鈴木博之X難波和彦

befor 3.11

X SEMINAR : after 3.11

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難波和彦 第14信

石山修武 様

石山さんは、今週、ドイツのワイマールに行かれるそうですね。バウハウス大学での「石山修武 MAN MADE NATURE」展の成功を、心からお祈りします。

バウハウスといえば、2000年の夏に、早稲田バウハウス・ワークショップの非常勤メンバーとして、ワイマールにお供したことを想い出します。「箱の家」のオープンハウスとスケジュールがバッティングしていたので、当初は行く予定はなかったのですが、石山さんがどうしても一緒に行って欲しいと言うので、無理矢理スケジュールを変更して同行しました。いつになく石山さんから熱心に誘われたので、何か嫌な予感がしたのですが、案の定、その予感は当たりました。早稲田バウハウスのワークショップには、韓国やイタリアの大学も参加して盛会でしたが、その最終展示会がフリードリッヒ・ニーチェ没後100年記念展と同時開催となり、前日になって、開会式のスピーチをするように石山さんに頼まれました。僕は付け焼き刃の知識で、1920年代のバウハウス起源のモダニズム・デザイン運動と、ニーチェの思想とを無理矢理に結びつけ、「ニーチェは真の意味でのモダニストであり、ニーチェ没後100年記念展と早稲田バウハウス展との同時開催には、歴史的必然性があると考える」という趣旨の短いスピーチを行いました。今でも想い出すと背筋に冷や汗が滴るような出来事でした。

石山さんはバウハウス行きの前に、明治神宮に行かれたそうですが、何か収穫はありましたか。

僕は三箇日が終わった1月4日に、妻と一緒に参拝しました。明治神宮の入口の鳥居は、原宿駅正面出口から直ぐの神宮橋を渡った位置にあり、そこから神宮境内に入ります。参道を北にしばらく直進した後、西に左折し、100mほど歩いた後に、さらに右折すると、正面に鳥居と門が見え、その奥に本殿があるのですが、僕は本殿の屋根の向こうに、奇妙な形をした建築を発見しました。丹下健三の息子が設計した西新宿の東京モード学園コクーンタワーの頂部です。本殿に近づいていくと姿を消すのですが、僕は一瞬、丹下健三の代々木国立競技場と、この建築との位置関係を頭に描きました。代々木国立競技場の配置は、明治神宮の参道の軸線から決められているのではないかいう点を指摘したのは、藤森照信さんだったでしょうか。もし、その軸線が東京モード学園にまで延びているとしたら、偶然の一致としても、笑うに笑えない歴史的珍事ではないでしょうか。僕は帰宅して、直ちにGoogle mapの航空写真で確認してしたが、微妙ではありますが、確かに、明治神宮本殿は、代々木国立競技場の第一体育館と東京モード学園を結ぶ線状に位置しているように見えるのです。石山さんは、表参道に沿った商業建築群の様相に、明治神宮のアニミズム的な影響が及んでいることを指摘していますが、丹下父子の建築に挟まれることによって、その影響力が減衰しないことを祈るばかりです。ちなみに、表参道の軸線は、神宮橋の位置で大きく回転し、明治神宮の南北軸とは大きくズレています。

僕は第13信で、表参道に沿った商業建築群の回遊性について指摘しましたが、それに対して、石山さんは、僕の論には明治神宮のアニミズム力が考慮されていないと指摘されました。確かに、僕の念頭には、明治神宮の森のアニミズム性は存在していません。むしろ僕としては、表参道の錯綜した歴史性の方に興味があります。『東京の「地霊」(ゲニウス・ロキ)』(鈴木博之:著 文春文庫 1998)によれば、ゲニウス・ロキの正体は、神秘的な何物かではなく、その場所の歴史性ではないでしょうか。

明治神宮は大正時代に造営されました。当時、隣接する代々木公園には、日本軍の練兵場がありましたが、第二次大戦後しばらくの間は、アメリカ進駐軍が駐屯していました。1950年代に原宿に住み始めた妻の話によれば、当時の表参道では、馬に乗った米兵が闊歩し、米兵相手の店や土産物屋が出店していたそうです。オリエンタル・バザールという朱塗りの柱をもった東洋趣味の店は、今でも残っています。その後、米軍が撤退し、1964年にオリンピックが開催され、代々木国立競技場が完成した頃から、表参道の様相は少しずつ変り始めます。神宮橋の正面にあり、おそらく日本で最初の民間マンションであるコープ・オリンピアが建てられたのもオリンピックの年です。

僕は大学3年生の時(1967年)、丹下健三の設計事務所URTECで模型づくりのアルバイトをしたことがあります。URTECは表参道と明治通の交差点に面したグリーン・ファンタジアというマンションの最上階(7階)にあり、丹下は同じマンションの下の階に住んでいました。このマンションは今でも残っています。当時、表参道には高い建物はほとんどなく、明治通を挟んだ正面に、有名なセントラル・アパートがあるくらいでした。セントラル・アパートには多くのアーティストや文化人が住んでおり、芦原義信や東孝光の設計事務所もありました。グリーン・ファンタジアの地下階には、日本で最初のディスコテック(音楽を聴きながら踊れるバー)があり、週末にURTECのスタッフに連れて行ってもらったことがあります。多分、米兵相手のバーだったのかも知れません。当時の表参道には、まだアメリカ文化の匂いが残っていて、建築家たちもそれに引き寄せられていたのではないかと思います。

そのようなハイカラな雰囲気を残しながら、表参道は1970年代から徐々にファッション・ストリートへと姿を変えて行きます。表参道の裏に並行して走る竹下通りは、70年代には静かな裏道でしたが、80年代のバブル期以降、急速に開発されるようになります。表参道も徐々に開発が進み、2006年に同潤会アパートが表参道ヒルズに建替えられることによって、大きな転機を迎えることになるのです。

以上のように、表参道のゲニウス・ロキには、明治維新と明治神宮、アメリカ進駐軍、オリンピックと高度成長、バブル経済、グローバリゼーションという、日本の近代化の多層な潮流が畳み込まれているように思います。僕は1972年に原宿に住み始めたので、表参道のここ40年の変化をつぶさに観察することができました。表参道ヒルズの完成によって、表参道に沿った主要な開発はほぼ完了したので、現在では、表参道に直交するキャットストリートや、明治通りに沿って開発が進んでいます。渋谷方向からも開発が進んでいるので、今や表参道は渋谷の宇田川町や公園通りとひとつながりになり、巨大な回遊空間が生まれています。表参道に限らず、銀座や新宿においても、同じような網目状の回遊空間が展開しています。それが21世紀の商業化をバックにした都市空間の大きな特徴であり、そこに居住空間をいかに埋め込むかが、僕たちの課題ではないかと考えています。

今回はここまでとしますが、乳児院保育園の複合建築は、是非、見せていただくつもりです。その上で「箱の家」の幻想共同体の問題についても、もう少し考えてみたいと思います。

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石山修武 第14信

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難波和彦 第13信

石山修武 様  鈴木博之 様

石山修武 第13信鈴木博之 第8信を、興味深く読みました。「箱の家」シリーズに関して、突っ込んだ議論を展開していただいたことを感謝します。『建築の理』(彰国社 2010)の座談会「中規模幻想共同体をめぐって」においても興味深い議論が展開されていますが、さらにその延長上で、これから僕が考えねばならない、さまざまな課題を提示していただいたように思います。

その課題の検討に入る前に、前回12信でも述べた、現代の都市空間の商業性という問題について、再度、僕の考えを整理しておきたいと思います。なぜなら、現代住宅は工業部品化や商品化という回路によって資本主義化・商業化の影響を受けるだけでなく、住空間を支えているインフラとしての都市空間の変容によっても大きな影響を受けると考えるからです。

これまでの議論を振り返ると、表参道の商業建築については、石山さんと僕とは、対照的な意見を持っているように見えます。しかしながら、都市と建築の商業化への潮流が歴史的な事実である点は、石山さんと僕との共通認識になっていると思います。要は、それを前向きに捉えるか、あるいは否定的に捉えるかの違いでしょう。当然ながら、石山さんは後者の立場ですが、評価はともかく、現実を否定しても問題が解消される訳ではありません。都市空間が商業化されているという現実が存在する以上、それを前提条件とした上で、現代における公共性のあり方を考えなければ、リアリティのある解答は得られないと思うのです。大袈裟にいえば、現代の建築家に与えられた課題は、近代建築家たちが考えたような公共性とは異なる、新たな公共性を持った都市空間をデザインすることではないでしょうか。第12信において、滞留型の広場と回遊型の界隈を対峙させたのは、この課題に対する、ひとつの仮説的な提案なのです。

正月休みの間に19世紀後半のパリに関する2冊の本を読みました。『近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂』(北河大次郎:著 河出書房新社 2010)と『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』(鹿島茂:著 講談社学術文庫 2010)です。近代都市としてのパリは、鉄道、地下鉄、上下水道、街路、広場などの公共的なインフラは、すべてこの時期に整備されています。それを成し遂げたのが、ナポレオン三世の命を受けたウジューヌ・オスマンであることは、あまりにも有名です。これらの一連の施設は、都市計画による誘導的な公共事業として建設されました。一方、同じ時期に、パサージュと百貨店という興味深い都市空間もうみ出されています。両者は民間のディベロッパーによる世界最初の商業建築で、一般民衆に爆発的な人気を博しました。そして、どちらもが回遊型の都市空間であることは銘記されていいでしょう。現在は、同じような興味の延長上で、最近出た、現代思想の雑誌『思想地図beta』第1号の特集「ショッピング/パターン」を読んでいます。そこでは、ショッピングモールの歴史を、パッサージュや初期の百貨店にまで遡って検討しながら、これまでのような郊外型の間延びした空間ではなく、むしろコンパクトシティの空間モデルとして捉えようとしています。近未来の都市空間は、モータリゼーションからショッピングモーライゼーションに変るのではないかというのが結論のようです。ショッピングモールはパッサージュや百貨店と同じ、回遊型の空間であることは言うまでもありません。商業化は都市全体を回遊型の空間に変えていきます。現代では、モダニズムの滞留型の広場は、もはや公共性を持ちえないと僕が考えるのは、以上のような歴史認識からである点を確認しておきたいと思います。

住宅設計を中心に仕事している僕が、都市空間の商業化の問題にこだわる理由は二つあります。

ひとつは、上に述べたように、住宅を含めて、現代の都市・建築は、商業化という歴史的な潮流を抜きにしては把握できないという理由です。ハウスメーカーのつくる住宅のテーマパーク化、あるいは石山さんの言う「ショートケーキハウス」という現象は、その表れのひとつと言っていいでしょう。その傾向は、いまやハウスメーカーの専売特許とはいえないほど、住宅産業全体に浸透しています。

もうひとつは、少し錯綜した理由なので、説明を要します。「思想地図beta」の特集でもそうなのですが、都市空間の商業化について考える際に、多くの論者は、ショッピングモールのような商業空間だけに注目し、訪れる人びとの居住空間については、ほとんど議論しません。そこでは、これまで公共施設(インスティテューション)によって担われてきた都市の公共性が、今や商業建築(コマーシャリズム)に移行している点について詳細に論じられることはあっても、商業化した都市における居住空間の問題は、完全に抜け落ちているのです。それでは現代の都市・建築について論じるには片手落ちではないかと僕は考えます。これが第二の理由です。

先頃、若い建築家たちとの読書会で、マンフレッド・タフーリの『球と迷宮---ピラネージからアヴァンギャルドへ』(八束はじめ他:訳 パルコ出版 1992)を読む機会がありました。そこで1920年代のバウハウスを初めとするワイマール時代の建築家や、同時期のロシアアヴァンギャルドの建築家にとって、都市計画の原点が住居計画にあったということを、あらためて認識しました。近代建築の歴史においては、モニュメンタルで公共的な建築に焦点が当てられ、居住のための建築については、あまり論じられていません。しかしながら、モダニズムの建築・都市理論の中核には、都市居住のあり方をどう考えるかという課題があったのです。この歴史的事実を、僕は肝に銘じたいと思います。

都市の「郊外化」は、モータリゼーションによって支えられた、郊外のショッピングセンターと、周辺に広がる郊外住宅とのセットによる、拡散的な都市形態を意味しています。これに対し、近未来の都市においては、郊外化の潮流を逆転させて、コンパクトで高密度な都市をめざさねばなりません。しかし、都市の郊外化を批判し、新しい都市空間のあり方を追求しているのは、僕の知る限り、山本理顕だけです。彼は『地域社会圏モデル』(INAX出版 2010)や「建築空間の施設化:「一住宅=一家族システム」から「地域社会圏」システムへ」(『atプラス』06号 2010所収)において、具体的な方策を提案しています。そこで山本は、居住空間と都市空間との新しい関係を追求しています。その試みに、僕は強い共感を抱きます。そして、これからの都市と建築について考えるには、居住空間のあり方から、逆に、商業化された都市空間について考えること、あるいは両者の関係について考えることが必要不可欠ではないかと考えるのです。

「箱の家」シリーズのほとんどは戸建住宅で、多くは郊外化の中でつくられています。その点では、上で述べた僕の考えに矛盾しているかもしれません。それでも注文がある以上、与えられた条件の下で、その条件を相対化するために、何ができるかを考えながら設計するというのが、僕のスタンスです。

「箱の家」のコンセプトのひとつに、住空間をできるだけ周囲の都市コンテクストに結びつけるというテーマがあります。戸建住宅であっても、何らかの形で都市空間に寄与することができると考えるからです。建て込んだ住宅地の中では、セキュリティやプライバシーを考慮すると、大抵の場合は閉じた住宅になります。現代のような都市においては、クライアントも閉じた住宅を望むでしょう。しかし、閉じた住宅がつくる街並はどうなるでしょうか。戸建住宅においては、街並に関する設計条件はほとんど出てきません。建築家はこの問題について自覚的でなければなりません。「箱の家」は街に開くことによって、住み手が少しでも周囲住民とスムースにコンタクトができるように呼びかけているのです。

同時に、「箱の家」シリーズでは、それが連続した時に、どのような街並になるか、あるいは立体化した時にどのような集合住宅になるかを考えて設計しています。単一の住戸であっても、連続住宅、集合住宅のプロトタイプとして設計していると言ってもいいかもしれません。もちろん、敷地条件を無視する訳ではありません。特殊な設計条件であっても、それを可能な限りティピカルな条件として捉え、ティピカルな解答を追求するということです。

「箱の家」に使われている建築材料は、仕上材料を含めて、ほとんどが部品化された工業製品です。使用材料は、コストパフォーマンスを比較した上で選びますが、必ずしもコストパフォーマンスを最優先する訳ではなく、イメージによって選ぶ場合もあります。自然素材でも、品質管理が行われ、性能がはっきりしている場合に限定して使うようにしています。要は、選定の根拠を明確にすることが重要な前提条件なのです。そのような意味で、「箱の家」はハウスメーカーの住宅以上に、徹底した商品化住宅と言ってもいいかもしれません。この点に商業性に対する「箱の家」の批評性があると考えています。

石山さんは、「箱の家」の平均コストを4,000万円と見積もっていますが、それは間違いです。「箱の家」の平均コストは大体2,500万円です。初期の「箱の家」は、ほとんど2,000万円以下でしたが、徐々に改良を重ね、性能が上昇するにつれて、コストも上昇してきました。それでも3,000万円を越えることは滅多にありません。コストパフォーマンスの点から見れば、「箱の家」は今でも徹底したローコスト住宅なのです。

さらに、石山さんは、「箱の家001」の美学的側面を精緻に分析しています。確かに「箱の家」のクライアントは無意識のうちに、その点に惹かれているのかもしれません。実際、「箱の家」では、できるだけ単純明快なデザインをめざしているので、プロポーションやディテールが勝負になります。しかし、視覚的な条件それ自体をテーマにするのではなく、それを平面計画や性能やコストによって再検証しなければ採用しません。このような方法を、僕は池辺陽やジェームズ・スターリングから学びました。池辺については言うまでもないでしょうが、スターリングについては意外に思われるでしょう。1980年代末にスターリングにインタビューする機会がありましたが、その時、彼はこう言ったのです。「クライアントに対しては、機能的な説明をするだけで、形や空間については説明しない」。もちろん、それは経験主義の国である英国において、デザインを展開するための一種の戦術かも知れません。だとしても、僕にとって彼の発言はカルチャーショックでした。

最後に、「箱の家シリーズ」が中規模幻想共同体であるという問題について考えてみたいと思います。これは『建築の理』の座談会において、石山さんが初めて発したコメントなのですが、鈴木博之さんは、第8信において、これを次のように読み替えています。

「建築には、活動の容器という側面と、それ自体が表現であり、活動を誘発する装置であるという側面があり、一概に建築とはかくあるべしと決めつけられないところにその奥深さがあると思われるのです。だからこそ、「箱の家」がもつ「200戸の真実」という限定的でリアルな存在感の意味を、もう少し突き詰めるべきだと思うのです。」

僕には、鈴木さんによるこの問題の立て方に共感します。正直に言うと、「箱の家」に対する「中規模幻想共同体」であるというコメントは、僕にはまったくピンと来ません。確かに140戸余のシリーズにはなっていますが、「箱の家」のクライアントは、界工作舍との放射状の関係があるだけで、クライアント相互の横のネットワークはまったく存在しないからです。実際のところは、「箱の家001」で提案した都市住宅のプロトタイプの考え方が、最初は数人のクライアントに共有され、その後、少しずつ進化しながら、継続的にクライアントを引き寄せてきたというべきでしょう。それは「箱の家」に埋め込まれたコンセプトが、現代社会に生きる一部の人たちに共有されているということに過ぎません。それを「幻想共同体」と呼ぶのであれば、現代社会には無数の「幻想共同体」が存在しています。しかし、そのような「幻想共同体」は社会的には何の力も持ち得ません。だから「幻想」なのだという石山さんの回答が聞こえてきそうですが、それは事後的な呼称でしかありません。幻想であっても、それに駆り立てられて社会的な活動を展開する集団が、正しい意味での「幻想共同体」ではないでしょうか。

僕が鈴木さんの問題の立て方に共感するのは、建築のあり方に即して「箱の家」を捉えているからです。鈴木さんは「箱の家」を「それ自体が表現であり、活動を誘発する装置」ではなく、「活動の容器」として捉えているように思われます。単純化して言えば、「箱の家」は生活の前景ではなく、背景をめざしているということです。そして、多くの人はハウスメーカーなどの分り易い前景としての住宅に向かうけれども、背景としての住宅を求める「箱の家」のクライアントも、少数ながら存在するということを、鈴木さんは言いたいのかもしれません。

ただ、『建築の理』の「あとがきにかえて」にも書いたことなのですが、「箱の家」にはもう少し複雑な目論見が埋め込まれています。クライアントにとっての住まいは、当初は「オブジェ」として前景に立ち上がり、視覚的なメッセージを発するけれども、時間が経ち、そこに住み込むにつれて背景に退いて行くような存在であるべきだ、と僕は考えています。つまり、当初は「表現として活動を誘発し」、時が経つと「生活の器」になるということです。そして「箱の家」では、この二つの条件を満足する形態として、単純明快な箱型のデザインを選択しているのです。とはいえ、最近では、単に建築要素を削ぎ落とすだけでなく、もう少し過剰な要素も盛り込むことが必要ではないかと考え始めています。それがどのようなものなのか、今はまだ模索中です。

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鈴木博之 第8信

車間距離と2メートルのパット

鈴木博之

難波、石山両先生の対話を拝読していて、いささか書きたくなりましたので、論点がずれてしまうかもしれませんが、介入させてください。

表参道から広がるエリアの建築的現象については、とても興味をひかれます。二、三年前、確か「新建築」が外国人が東京に来た時案内する建築を3点挙げろというアンケートをしたとき、わたくしは「明治神宮宝物館、代々木体育館、根津美術館の順に歩いてゆく。戦前、戦後、現代の建築の中で、屋根の持つ文化的表象を示す作品系列が見られるから」と、答えた記憶があります。確かにこのエリアには高密度な建築表現があって、さまざまな解釈を待っています。けれど、青山に移ってから面白いと思ったのは、青山学院の学生たちに地域のイメージを問うと、青山と原宿は全く違う、一緒にしてもらっては困るという反応が返ってくることでした。この点も、考えてみたいところです。

けれどもここでは、「箱の家」をベースにしながら、住宅建築について少し述べさせてください。

難波先生の「箱の家」が200作になんなんとするシリーズを形成していることに関して、石山先生が『建築の理』の中で指摘されて以来、「200戸の真実」とでもいうべき問題がわたくしのなかで、わだかまっております。

商品化された住宅が無限大の戸数を目指すものであり、無数という名の幻想を対象にする(すなわち大衆という幻想です)のに対して、「箱の家」が体現する「200戸の真実」というのは、幻想ではない現実の知的中産階級像に対応した戸数なのです。

それはイームズのケーススタディ・ハウスの用いたオープンパーツの世界とも明らかに違う。オープンパーツによる住宅は、無数のパーツという幻想を対象として、それを選択する主体が幻想を現実化するというものであり、商品化住宅の逆プロセスのような過程を示すものだと思うのです(あまりうまい説明ではありませんが)。

アーキテクトが作品として設計する住宅は、作者と住み手の合作による「人生の表現」なのでしょう。わたくしは個人的に、住宅が「人生の表現」になるのはまっぴらだとおもっています。たかが住宅なのだから生活の容器でさえあればよいのだ、という考えです。これは「箱の家」のクライアントにも共通する意識ではないでしょうか。

むろん、人生の表現としての住宅が存在することは紛れもない事実です。石山さんが発見された伴野一六邸、また川合健二邸、幻庵も世田谷村もそうであるかもしれません。さらにいえばシルバーハットもタンポポハウスも塔の家も、吉村順三の山荘も槇文彦自邸もスカイハウスも、その他数多くの住宅がそうでありました。

しかし、そうした住宅と商品化住宅の間には、いくつもの襞(ひだ)をなして、さまざまなあり方の住宅が存在しているのでしょう。「箱の家」はそうした襞のひとつを確実に形成しています。それはリアリストの視点で獲得された住宅です。抽象的方法でもなければ、抽象的世界観でもない、具体的技術思想がかたちをなしたものなのです。そこには口当たりのいい幻想は存在していない。これは重要なことです。住宅を語るとき、抽象化して精神論的住宅像を語ってしまうことがなんと多いことか。

石山先生が言及しておられた「難波先生の原風景」である、吉武(泰水)計画学と池辺(陽)理論は、それぞれに大きな問題をはらんでいたと思います。わたくしは吉武計画学を学び、これは建築におけるヒューマニズムの学問だと思い込んだものでしたが、やがてこれは建築における政策学だと気付きました。そこで語られる住宅、学校、病院などはそれぞれ住宅政策、教育政策、福祉政策に対応するものであり、国家的に政策化されない部分(たとえばオフィスなど)については計画学の対象とされていないことに気付いたからです。そこでの住宅が公共住宅(そのなかでも集合住宅)の型計画に特化するのは必然でした。

池辺理論は形態の単位とその構成に関する理論なのだろうと思われましたが、くわしくは分かりませんでした。むしろその近くに会った内田(祥哉)理論の変転に興味をひかれました。内田理論は、はじめフィボナチの数列などによるモジュール理論、そしてビルディング・エレメント論から成り立っていました。この考え方は建築生産の現場への興味とつながっており、その意味ではイームズのケーススタディ・ハウスにも連なる部分を持っていました。しかしながらそこからこの理論は伝統木造工法の新しい評価の視点へと転化し、木造フォーラムなどの活動に移ってゆきます。この変転のうちに、内田理論の本質がありそうなのですが、ここでそれを掘り起こすことはしません。

むしろ、最近山本理顕さんが書いていた「建築空間の施設化」(atプラス06号)という論文に共感するものがありました。彼は建築が施設として計画され供給されることのうちに大きな危惧の念を抱き、それに対してプロテストしています。そのなかに「建築などは当たり前のものでいい、変なことはわれわれがやるんだから」といった意味の発言を井上ひさし氏が行ったという話がでてきました。これはきわめて傲慢な発言であり、特権的なトリックスターは自分(井上ひさし)だけなのだと言わんばかりの立場であり、山本氏の立場に賛同するものですが、建築には活動の容器という側面と、それ自体が表現であり活動を誘発する装置であるという側面があり、一概に建築とはかくあるべしと決めつけられないところにその奥深さがあると思われるのです。

だからこそ、「箱の家」がもつ「200戸の真実」という限定的でリアルな存在感の意味を、もう少し突き詰めるべきだと思うのです。

住宅を、現代社会の反映であり、その病理の現れであるなどと論評しても何も言っていないので、住宅を論ずるならそのリアリティをケーススタディとして掘り下げるべきではないかと思うのです。最近テレビを見ていたら、「石川遼が全米オープンに出ることになったのでアドバイスを」といわれた青木功が「2メートル以内のパットを外さないことだね」と言っていたのが印象に残っています。平常心が大事だとか、気を楽にしてなどという精神論でないところが良かった。それで思い出したのが、40年くらい前に深夜放送で聞いた長距離トラックの名運転手という人の「安全運転のこつ」でした。おそらく休息をよく取れとか、焦るな、などというのだろうと思っていたら、即座に「車間距離だね」といったのです。こういう指摘を、住宅建築についてもなし得ないものか。

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石山修武 第13信

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難波和彦 第12信

石山修武 様

第12信を読みました。興味深いテーマですね。ただし、正月三箇日の明治神宮参拝だけは避けた方がいいでしょう。表参道を歩くことさえ、我々の年齢の人間には危険かもしれません。僕は表参道の裏通りの神宮前三丁目に住んでいますが、娘が小さい頃、正月三箇日に初詣を試みて、ひどい目にあったことを記憶しています。なにしろ参道に人が溢れて身動きが取れないだけでなく、諦めて引き返すことさえ許されないのです。そのまま本殿まで進み、立ち止まってゆっくり手を合わせる時間も与えられず、帰路に押し出されてしまいます。それでも入口まで戻るまでに2時間もかかるのです。それ以来、初詣は4日以降にするか、他の神社に行くようにしています。なので、正月3日は、明治神宮や表参道には立ち寄らず、直接、我が家へおいでになることをお勧めします。

僕は東京大学建築学科に在職中、毎年、留学生向けに「A Short History of Japanese Modern Architecture along OMOTESANDO」という講義を開催していました。これは伊東忠太が大正時代に設計した明治神宮から出発して、丹下健三の代々木国立競技場(1964)を遠望した後、表参道を下りながら、MVRDVのGYRE、妹島和世のクリスチャン・ディオール、安藤忠雄の表参道ヒルズ、黒川紀章の日本看護協会、青木淳のルイ・ヴィトン、伊東豊雄のトッズ、隈研吾のワン表参道を見て、青山通りを横断し、槇文彦のスパイラル、ヘルツォーク・アンド・ド=ムーロンのプラダ表参道、山下和正のフロム・ファースト、安藤忠雄のコレッツィオーネを経て、隈研吾の根津美術館までの約1.5キロを、約2時間をかけて、明治以降の日本近代建築史の概要を話しながら歩くというもので、なかなか人気を博した講義でした。何しろ、これだけのスーパースターの建築を集中的に見られる場所は、世界中のどこを探しても見当たらないですからね。

毎年、くり返すと飽きがくるのではないか、と思われるかも知れません。しかし、年毎に新しい建物が出現するので、まったく飽きることはなく、むしろ表参道の急速な変化に驚くばかりでした。決定的な事件は、表参道ヒルズの出現でした。同潤会アパートがあった頃の表参道は、人通りはそれほど多くはなく、お洒落で静かな大通りでした、しかし表参道ビルの出現によって、歩く人びとの様相がガラリと変わったことを、印象深く憶えています。現在の表参道は、完全な観光地になってしまいました。なので、表参道ヒルズは、商業的には大成功を納めましたが、住人の一人としては複雑な気分です。とはいえ、それまで陰気で危険だった同潤会アパートの裏通りが、表参道ヒルズの徹底した緑化によって、一気に明るい散歩道に姿を変えたことに対しては感謝しています。

石山さんは第12信で、「表通り的表情」と「裏通り的表情」という造語を用いて、明治神宮を初めとして、表参道通りの商店建築群の看板建築的な様相を、批判的に論じておられます。あるいは、ハウスメーカーや最近の建売住宅を「ショートケーキ住宅」とも評されています。

僕は1970年代の初めに、現在の神宮前三丁目に移り住んできました。以来、40年間が経過しましたが、その間に、この街の様相は大きく変わりました。とくに1980年代のバブル期の変化が一番大きかったように思います。日本では、バブル景気は一時的な突発事故のように考えられていますが、そうではありません。世界的に見ると、それは1980年代に生じた政治的・経済的転換を反映した出来事だったのです。大局的に見れば、それは戦後の公共政策を中心とするケインズ的な政策から、市場経済を中心とする新自由主義的な政策への転換がひき起こした現象でした。1970年代の末に、この政策転換を初めて開始したのは、英国のマーガレット・サッチャー政権でした。それまでの英国経済は、戦後の公共政策への依存体質から不景気のどん底に陥っていました。僕は1970年代初めに、ロンドンに行ったことがありますが、街中が黒く沈滞していました。サッチャーは公共の機関を次々と民営化し、大きな政府から小さな政府への転換を推し進めました。「社会というものは存在しない。存在するのは個人だけである」という有名な彼女のマニフェストは、この新自由主義の考え方を象徴的に表しています。これによって1980年代に、英国経済は活況を呈するようになります。英国のハイテック建築が興隆したのも、その表れでした。アメリカのロナルド・レーガンがそれに続き、日本の中曽根康弘も、同じように新自由主義への政策転換を行いました。1980年代の国鉄や電電公社の民営化は、その実質的な表れです。この潮流は1990年代の社会主義諸国の解体をひき起こし、グローバリゼーションとして世界中を巻き込み、2008年のリーマン・ショックまで続きました。現在は、その反動で、再び公共政策が見直されているように見えます。しかし、それは一時的な休止状態であり、新自由主義の大きな歴史的潮流は、今後も変らないように思われます。

このように1980年代に始まる新自由主義的な政策転換によって、それまでの公営の組織は徐々に民営化されていきました。民営化とは、要するに資本主義化であり、商業化です。建築の世界では、それは公共建築から商業建築への転換として表われました。それまでは公益性を優先して建設されていた公共建築も、効率性や利益をめざす商業的な建築としての機能と表現を持たねばならなくなりました。その典型的な例を表参道沿いの建築にも見ることができます。

表参道に面して、丹下健三のハナエ・モリビル(現在、解体中)と黒川紀章の日本看護協会ビルがあるのをご存知でしょうか。丹下と黒川は日本のモダニズムを代表する建築家で、数多くの公共建築を設計してきました。彼らは日本には公共の広場が存在しないことを近代化の遅れだと考え、彼らが手がける建築に西欧的な広場をつくろうとしました。ハナエ・モリビルは1970年代に、日本看護協会ビルは2000年代に完成しました。いずれも商業建築で、小さな公共の広場を備えています。僕は近隣住民として、完成してからずっと、この二つの広場を見続けてきましたが、残念ながら、そこで人びとが滞留しているのを、ほとんど見たことがありません。公共広場に関する丹下と黒川の意図は、ここでは完全に失敗していると言わざるを得ません。僕の考えでは、その理由は二つあります。ひとつは、商業建築には滞留性よりも回遊性が重要だということです。その証拠を、これとは対照的な公共空間を持った、安藤忠雄の表参道ヒルズに見ることができます。表参道ヒルズには、入口前に三角形の小さな広場がありますが、それは表参道に付属するアルコブのような空間に過ぎません。人びとはそこで一時的に待ち合わせるだけで、直ちに建物内部のアトリウムに入っていきます。細長い三角形のアトリウムの周囲を、表参道の勾配に揃えた緩やかな斜路が取り囲んでいます。表参道ヒルズの成功をもたらしたは、この回遊性であることは明らかです。もうひとつの理由は、日本における公共空間は、伝統的に、滞留型の広場によりも、回遊型の界隈にあるのではないかということです。この点は、伊藤ていじや磯崎新が編集した、有名な『日本の都市空間』(都市デザイン研究体:著 彰国社 1968)においても論じられています。同著者には『日本の広場』(彰国社 1971)もありますが、僕の知る限り、『日本の都市空間』以上に説得的な論は展開されていません。いずれにしても、1990年代以降、表参道は回遊性を最優先する商業建築にもっとも相応しい街路として、現代建築を引き寄せてきたといってよいでしょう。

このように、現代建築は、資本主義的な商業性を抜きに考えることはできません。それは住宅においても同様です。1955年に設立され、戦後の公営住宅を先導してきた住宅公団は、現在はUR都市機構へと再編され、民間による住宅供給活動を補助する副次的な機関になっています。今や住宅供給は、実質的に民営化されていると言ってよいでしょう。現代においては、住宅が商品であることは、与えられた歴史的条件なのです。

したがって、僕たちが考えなければならないのは、民営化の中でいかに公共性を追求するか、つまり商業建築の中に、いかに公共的な空間を生み出すかという課題であり、商品化された住宅の中に、利益や効率性を越えた過剰性、すなわち生きるための空間を埋め込むかという課題ではないでしょうか。これに対し、僕としては、むしろ公共性からいかに利益を引き出し、生きることをいかに商品化するかという逆説的な発想が、突破口になるのではないかと考えているのですが、いかがお考えでしょうか。

101221

難波和彦 第11信

石山修武 様 鈴木博之 様

大日本インキ板橋工場の見学会から出発した1950年代の建築状況に関する議論は、RC造の可能性やル・コルビュジエの建築を検討するところまで進んで、行き詰まってしまいました。

どのようにして議論を展開させる突破口を見つけるか、あれこれ頭をひねっているのですが、1950年代と現在とを結びつける回路は、あまりにも多くて、絞り込むのはなかなか難しいようです。

とはいえ、以下では、僕なりに、技術と建築の関係に問題を絞りながら、議論の展開を図ってみたいと思います。

以前にもXゼミで指摘したように、1950年代の日本では、防災と耐震の視点によって、鉄骨造からRC造への方向転換が行われました。他方、当時のアメリカでは、鉄骨造を追求したミース・ファン・デル・ローエの活動が最盛期を迎えていました。ファンズワース邸(1950)、レイクショアドライヴ・アパートメント(1951)、IITキャンパスのクラウンホール(1956)、シーグラムビル(1958)がつくられたのは、まさに1950年代です。もちろん、アメリカではミースと並行して、エーロ・サーリネンやルイス・カーンがRC造の建築をつくっていました。しかし第二次大戦が終了して間もない1950年代においては、本格的な鉄骨造建築をつくることができたのはアメリカだけでした。この意味で、ウルトラ・モダニストであるミースは、アメリカに移住することによって、新しい鉄骨建築が実現可能な「与えられた状況」(K・マルクス『ルイ・ボナパルトとブリュメール18日』)を獲得したのに対し、ル・コルビュジエは、フランスやインドという後進的な技術しかない「与えられた状況」に合わせて、自己の建築表現を展開させたのだと言ってよいでしょう。両者のもっとも充実した活動が1950年代に展開されたことは、それなりの歴史的必然性があったように思われます。

いうまでもなく、材料や構造と建築表現との結びつきは一義的ではありません。ミースはヨーロッパで活動していた時代に、材料・構法は建築表現を決定づけると言いましたが、それはモダニズムのマニフェスト、つまり一種の倫理として主張したのであって、事実として材料・構法から建築表現が導き出せるといった訳ではありません。

僕は『建築四層構造』(INAX出版 2009)の中で、近代建築史を通じて、材料・構法と建築表現とのズレが見られることを指摘し、さらに『建築・都市の歴史:材料・生産の近代』に収めた「メタル建築論」においては、鉄骨造をケーススタディにとりあげながら、近現代の建築史を、材料・構法と建築表現のズレが生み出す弁証法的なプロセスとして分析しました。

「メタル建築論」を書いていて気づいたのは、技術と表現の弁証法的な関係が、もっともダイナミックな様相を見せるのは19世紀だということです。特に鉄骨建築は、鋳鉄、鍛鉄、錬鉄、鋼鉄と進化するにつれて表現を大きく変えていきます。建築家は新しい材料や構法が出現する度に、それを既存の表現に適用しようとします。

たとえば、鋳鉄は型に流すことによって、どんな形でもつくることができるので、19世紀後半には、鋳鉄製のオーダーをファサードに被せることによって街並をつくるようなことが頻繁に行われました。ジョン・ナッシュがデザインしたロンドンの有名なリージェント・ストリートのファサードが、鋳鉄製であることはあまり知られていません。あるいはニューヨーク・マンハッタンのミッドタウンにある有名なSOHO地区は、19世紀後半に開発された小規模なペンシルビルが林立する地区ですが、建物のファサードは様々な歴史的様式で覆われています。それがあまりにも精巧なので、初めて見た人は、当時のニューヨークの建設事情の豊かさに驚いてしまうのですが、実はすべて鋳鉄製の仮面なのです。

しかし同時に、鋳鉄には強度があるので、構造体として使うと、それまでの石やレンガよりも細い材で建物を支持することが出来ます。つまり鋳鉄は細い構造体によって、それまでの重厚な建物を軽快な表現に変えることができたのです。たとえば、世界で最初の世界博覧会の会場となったロンドンのクリスタル・パレス(水晶宮 1851)では、透明で「空気のような空間」は、鋳鉄構造なしには実現できなかったでしょう。こうして鋳鉄は、建築表現に対する人びとの感性を大きく変えることになったのです。

鉄の歴史を辿っていくと、このような材料・構法と表現のダイナミックに展開する弁証法的な関係を見ることが出来ます。近代建築を成立させたといわれるもう二つの材料、鉄筋コンクリートやガラスについても、同じような弁証法的な関係を辿ることができるでしょう。20世紀初頭に勃興したモダニズム・デザイン運動が、そうした可能性を文化的なレベルにまで高めまたことはいうまでもありません。

しかしながら、そうした材料・構法と表現との関係を辿ることができるのは20世紀の半ばまでで、それ以降は、両者の関係の様相は変わっていきます。技術の可能性がまったく顧みられなかった1960年代後半から1970年代にかけてのポストモダニズム期は別としても、1980年代以降は、再び技術の可能性が追求されるようになったにもかかわらず、材料・構法と建築表現の関係は、19世紀ほど直接的ではなくなりました。その歴史的な理由は、単純ではないと考えられますが、「建築の四層構造」にもとづいてスケッチしてみたいと思います。

「建築の4層構造」は、建築を4つの層、すなわち、物理性(第1層)、エネルギー性(第2層)、機能性(第3層)、記号性(第4層)で捉えようとするマトリクスです。この4層についての詳しい内容については『建築の4層構造』において詳しく説明しているので、ここでは省きます。

建築の4層構造から直ちに分かるのは、第1層と第2層が建築のハードな側面に、第3層と第4層が建築のソフトな側面に焦点を当てていることです。そして建築において、通常「技術」と呼ばれているのは、第1層と第2層を対象としています。しかしながら、20世紀の半ばまでは、第2層はあまり注目されませんでした。実際には、照明設備や空調設備などのエネルギー技術が存在しなければ、モダニズムの建築は成立しなかったにもかかわらず、あまり注目されなかったのは、それが材料・構法ほど建築表現に直接結びつかなかったからです。つまり、建築のデザインにおいて、エネルギー技術は与えられた建築空間を背景で支える「見えない技術」に過ぎなかった訳です。この問題を歴史的に明らかにしたのが『環境としての建築 The Architecture of the Well Tempered Environment』(レイナー・バンハム:著 鹿島出版会)であることは、あまりにも有名です。しかし、1970年代に大きな視点転換が生じます。1973年と1979年の二度に渡って世界を震撼させたオイルショックが、エネルギーの問題を一挙に前景に引きずり出したからです。さらに1990年代には、地球環境問題が注目されるようになり、エネルギーの問題をさらに重要な条件として取り挙げるようになりました。

こうして、建築における技術の問題は、材料や構法だけではなく、エネルギーの問題が注目されるようになりました。これが1970年代以降に、技術の様相を大きく変えたひとつの契機です。

もうひとつの契機は、情報処理技術、すなわちIT(Information Technology)がもたらした転換です。「建築の4層構造」のマトリクスは、縦に4つの層を並べた上で、その右に、それぞれの層を構成する「局面 aspects」が並べられています。その局面は、1)各層で建築を見る視点(mode)、2)各層をデザインする条件(program)、3)各層のデザイン条件を解決する手段(technology)、4)その局面が持つ時間性(history)、5)各層におけるサステイナブル・デザインのプログラム、という5つの局面によって構成されています。この中の3)を対象とするのがITです。

建築のデザインにおいては、4つの層のそれぞれにデザインのプログラムがあり、それを解決するための情報技術、すなわち予測やシミュレーションの技術があるということです。同じ技術という言葉を使っていても、これは第1層と第2層に関わる技術とは、まったく位相が異なります。なぜならIT技術は、すべての対象を一旦、情報に変えた上で、その情報を処理する技術だからです。そこでは建築の4層すべてが情報として処理されます。いわゆるシミュレーションやアルゴリズムは、この種の技術の一種といってよいでしょう。

1990年代の半ば以降(マイクロソフトのWindows95の発売が記憶に残っています)、コンピュータ技術は急速に普及・進展し、その情報処理能力は爆発的に拡大しました。これによって、それまでは計算できなかった複雑な方程式を解析したり、シミュレーション・モデルを処理できるようになり、その結果、建築表現の可能性が大きく広がりました。これが技術と建築表現の関係を変えた、もうひとつの契機です。1980年代のハイテック・スタイルや1990年代のエコテックは、そのような契機の表れといってよいでしょう。

では、今後、技術と建築表現の関係は、どのように展開していくのでしょうか。近年では、デザインのスタートから実際の施工に至るまでを、ひとつの情報の流れとして統合するBIM(Building Information Modeling)のようなIT技術が出現しています。これは、かつて商品の生産技術が、手工業生産から機械生産に移行し、最終的にロボットによる自動生産へ行き着いたのと同じように、情報処理さえも人間から引き離し、自動化しようとする技術です。BIMが普及すれば、これまでの反復的でパターン化された情報処理は、完全に自動化されるでしょう。そしてデザイナーの役割は、人間の「思考」の核心にあるアイデアの創出や価値判断に絞られることになるかもしれません。

とはいえ、建築は物理性から記号性に至る、すなわち具体性から抽象性に至る、広大な範囲を対象としています。そして各層は、予測を越えたノイズに溢れています。予測可能な範囲は、今後もますます拡大するでしょうが、人間が予測不能なノイズを創出し続ける「機械」である限り、デザインの自動化には限界があるように思えます。

かなり広大な問題提起になってしまいました。実を言うと、以上の議論は、先日、開催した、僕の退職記念祝賀会の席で、隈研吾さんが現代の建築技術の多様性について言及し、僕の建築技術論を、暗に批判されたので、それに対する応答のつもりで書きました。

大きな時代潮流を見るのは、この程度にして、今後のXゼミでは、もっと具体的なテーマ、あるいは建築作品に絞って、歴史的な議論を展開してはどうかと考えます。

手始めに、最近、出版された新建築創刊85周年記念『住宅10年 2000-2010』をとりあげてはどうでしょうか。この本では、2000年代に建築家によってデザインされた住宅が、26のカテゴリーに分けて紹介されています。

僕は、毎年開催されるグッドデザイン賞の住宅部門の審査委員をしているのですが、常日頃から、建築ジャーナリズムとグッドデザイン賞との視点の差異を痛切に感じています。単純に言えば、建築の社会性や生産性の問題に関する議論が、ジャーナリズムには欠落しているのです。もちろんジャーナリズムの「棲み分け」の問題もあるとは思うのですが、建築の技術性・生産性に関する議論を欠いたメディアは、あまりに守備範囲が狭く、社会的訴求力が弱いと言わざるを得ません。

この問題について、石山さん、鈴木さんは、どうお考えになるでしょうか。まずこの辺りの議論から初めてはどうでしょうか。

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石山修武 第11信

9/3

難波和彦 第10信

石山修武 様 鈴木博之 様

 海老原一郎のDIC工場を巡る議論は、石山さんの第10信で、かなり煮詰まった感がするので、1950年代の建築状況を踏まえながら、議論を少し拡散させてみたいと思います。

 つい先日、友人の建築家によるル・コルビュジエのシャンディガールのスライドを観る機会がありました。ル・コルビュジエによるシャンディガールの都市計画は、1950年に始まり1960年代末まで継続しています。この間に、議事堂(1951-60)、総合庁舎(1951-58)、高等法院(1951-56)司法裁判所といった中心施設を初めとして、民間の施設を含むさまざまな都市建築が建設されています。ル・コルビュジエが亡くなったのは1965年ですから、彼の死後にも建設が継続され、完成した建築も多いように思われます。その中に、1960年代後半に完成したと思われる建築美術館があります。詳しい経緯はよく分からないのですが、この建築は、通常のル・コルビュジエの作品集には掲載されていないので、おそらくル・コルビュジエのスケッチにもとづいて、彼の従兄弟であるピエール・ジャンヌレか弟子によって完成されたものではないかと思われます。シャンディガールの建築は、インドの建設技術を反映して、すべて鉄筋コンクリート造でつくられています。この建築も当然のことながらRC造なのですが、驚くべきことに、そのデザインが、ル・コルビュジエの遺作と言われているチューリッヒのル・コルビュジエ・センターにそっくりなのです。言うまでもなく、ル・コルビュジエ・センターは鉄骨造です。したがって同じデザインがRC造と鉄骨造でつくられている訳です。これは一体どういうことなのでしょうか。

 一般的にル・コルビュジエは鉄筋コンクリートのデザインを得意とする建築家だと言われています。初期のル・コルビュジエは「白の時代」と呼ばれているように「機械の美学」を追求していましたが、戦後のマルセイユのユニテ・ダビタシオン(1946-52)以降は、鉄筋コンクリート打ち放しを多用したブルータルなデザインを展開したというのが通説です。なかでも代表的な建築は、ロンシャンの教会(1950-55)です。この建築のマッシヴで彫塑的なデザインは、当時の建築界に驚きを持って迎えられました。それまでル・コルビュジエは、モダニズムを先導する建築家と考えられていましたが、ロンシャンの教会において、モダニズムのデザインから撤退し、芸術的建築家へと「転向」したのではないかと批判されたのです。たしかに表面的に見れば、初期のデザインと後期のデザインは対照的です。しかしながら、果たして建築家は、簡単にデザインの思想や表現を簡単に取り替えることができるものでしょうか。ならば、遺作であるル・コルビュジエ・センターにおいて、初期の機械の美学を復活させたのは、なぜなのでしょうか。

 この問題については、難波研究室の学生が2009年度の卒業論文において『ル・コルビュジエの機械論』というテーマで突っ込んだ研究を展開しています。この論文の主旨をかいつまんで言えば、ル・コルビュジエは一度も転向したことはなく、終生モダニズムの思想を持ち続け、建築デザインに対するテクノロジカルなアプローチを変えなかったというものです。たとえば、スイス学生会館(1930-32)やマルセイユのユニテでは、ピロティのマッシヴで重厚なコンクリート柱が目につきますが、上層の居住部分では鉄骨造のフレームをくみ上げ、そこに住戸ユニットを差し込むという、一種のスケルトン・インフィル・システムを試みています。あるいは、ロンシャンの教会の初期案では、屋根や壁に航空機の翼の軽量トラス構造を適用することを試みています。有名な捲れ上がる屋根のデザインは、風を切って舞い上がる翼のイメージに由来しているのです。しかし当時のフランスには、そのような軽量構造を実現できるような技術が存在しなかったし、ロンシャンのような地方ではコスト的にも実現は不可能だったでしょう。そこで屋根は、薄いRC造のスラブ構造に変更し、壁はモデュロールにしたがって構成したRC造のフレームの間に、解体した教会の瓦礫を積んで厚い壁をつくった訳です。

 この点に関して、マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメールの18日』でこう言っています。

「人間は自分自身の歴史をつくるが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史をつくるのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の中でそうする。」

 つまりロンシャンの教会において、ル・コルビュジエは、自分のイメージを、目の前にある与えられた条件に適合させたのです。この点を逆証明するように、ル・コルビュジエは、ロンシャンの完成直後にブリュッセルで開催された万国博覧会のフィリップス・パヴィリオン(1957-58)において、鉄骨とプレキャストコンクリートによって、イメージ通りの軽快でハイテックなHPシェルをデザインしています。ル・コルビュジェは二重人格だったのか。そんなことはないと思います。

 建築のデザインは、イメージと与条件との対話によって生み出されるものです。ル・コルビュジエが活動を展開したフランスやインドでは、初期の彼が提唱した機械のイメージを実現できるだけの高度な技術が存在しませんでした。したがって、ほとんどの建築がRC構造によってつくられることになりました。それによってル・コルビュジエの感性も、マッシブな方向へと変容したかもしれません。さらに建築界も社会も、コルビュジエを鉄筋コンクリートの建築家としてとらえるようになりました。ル・コルビュジエが、日本の政府の要請でデザインした国立西洋美術館や、アメリカ東海岸のボストンのハーバード大学キャンパスに依頼されたカーペンター視覚芸術センターは、彼の作品の中ではそれほど高い評価を得ていません。その理由は、ル・コルビュジエの感性と、日本やアメリカの建設技術との馴染みが良くなかったからではないかと思われます。日本では、前川國男や丹下健三がル・コルビュジエのデザイン・ボキャブラリーを吸収し洗練させましたが、詳細に比較してみると、発想の源に大きな違いがあることが分かるでしょう。歴史に「もしも」は禁物ですが、ル・コルビュジエは日本ではやむを得なかったとしても、アメリカでは鉄骨造の建築を試みたかったのではないでしょうか。その点で、国立西洋美術館の初期案の一画に、ル・コルビュジェ・センターの図が描き込まれているのは意味深な気がします。

 そこで問題のシャンディガールの建築美術館とチューリヒのル・コルビュジエ・センターです。両者はほぼ同時期に完成しています。まったく同じイメージが、まったく異なる技術によって実現したわけです。この事実から何を読み取ることができるでしょうか。

僕の考えでは、ふたつのことが言えるように思います。

 ひとつは、ル・コルビュジェは、終生ひとつのイメージを持ち続け、事ある毎に、それを適用しようとしたということです。事実、このパヴィリオンのイメージは、日本の国立西洋美術館(1957-59)だけでなく、ポルト・マイヨールの展示場(1950)、ストックホルム近郊のアーレンブルグ展示場(1962)、フランクフルトの国際美術センター(1963)など、さまざまなプロジェクトにも適用されています。そして、このイメージの原型は、リエージュのパヴィリオン(1939)に遡ることができます。以上のことから、『ル・コルビュジエの機械論』で難波研の卒論生が主張したように、コルビュジエは、終生モダニストとして機械のイメージを持ち続けたと言えるのではないかと思います。

 もうひとつ言えるのは、それとは逆のことです。つまりイメージは、技術的な条件によって変容するということです。リエージュのパヴィリオンを初めとする1930年代の一連のプロジェクトにおいて、ル・コルビュジエは、テント、吊り構造、トラス、シェルなど、当時としては先進的な技術を試みています。そこでは技術と表現が一対一に結びついています。しかしながら、ロンシャンの教会でも見たように、フランスやインドでは、そのような先進的な技術を使うことは不可能でした。そうした経験を通じて、戦前の軽快なイメージは、戦後にはやや鈍重になっていきます。具体的に言えば、戦前の線的なイメージが、戦後には面的なイメージに変容しています。シャンディガールの建築美術館がRC造によって建設可能だったのはそのためです。逆に見れば、チューリッヒのル・コルビュジエ・センターの屋根は、折版構造ではありますが、その下の鉄骨フレーム構造に比べると、鉄骨造にしてはやや重い感じがします。

 とはいえ、技術とイメージの関係だけで建築が生まれる訳ではありません。ここで注目したのは技術のイメージであって、それ以外にも機能のイメージや、最近ではエネルギー的なイメージもあります。それに技術と建築表現との関係は一筋縄ではありません。そのケーススタディとしてル・コルビュジェについて考えてきましたが、もっと興味深い例は、ルイス・カーンでしょう。バックミンスター・フラーとルイス・カーンの関係は、ル・コルビュジェ以上に興味深い問題を秘めています。しかしそれについてはまた稿を改めてかんがえることにしましょう。

ともかく1950年代の日本の工場について考える中から、さまざまな問題が引き出されました。当時の日本の社会状況や建設技術の条件から、RC造による工場建築の特異なデザインが生み出された訳ですが、このような状況は日本だけでなく、世界中に存在していたようです。アメリカを除いて、世界中の国々が同じような条件だったと言えるかもしれません。工場建築を調べていて、アラップ・アソシエイツによる広大なゴム工場(1951)もRC造でつくられていることを知りました。驚いたことに、それはRC造のドーム型シェルとヴォールトの反復によるデザインで、今回議論したDIC工場や日本バイリーン工場にそっくりでした。どちらがオリジナルなのか分かりませんが、ともかく英国と日本とが同じような建設状況に置かれていたことはたしかにように思われます。

8/23

石山修武 第10信

8/18

石山修武 第9信

7/20

難波和彦 第9信

石山修武 様 鈴木博之 様

 大日本インキ(DIC)板橋工場(設計:海老原一郎)に関する、石山さんと鈴木さんのコメントは、大変参考になりました。僕は、海老原一郎を個人的にも知らないし、1950年代の日本建築については、池辺研究室で住宅建築について学んだ程度なので、それ以外のジャンルの建築については、まったく無知の状態です。なので、ごく大雑把な立場からコメントさせていただきます。

 DIC板橋工場を訪問してもっとも印象深かったのは、工場でありながら、すべての建物が、きわめてモニュメンタルな佇まいを備えていたことです。1950年代に正面の事務棟が建てられ、その後さまざまな機能を持った工場群が建設されていますが、どの建物も鉄筋コンクリート造の特徴的な構造によって建設されています。

 入口正面の事務棟は、鉄筋コンクリート造の単純なラーメン構造ですが、外装が彫りの深いスチール・カーテンウォールで覆われているため、一見すると鉄骨造のように見えます。1階床レベルが、地上からかなり上げられているので、全体のプロポーションから、僕は直ちにミースのIITクラウンホール(1956)を連想しました。この二つの建物が建てられたのは、ほぼ同時代なので、海老原はミースを参照したのかもしれません。

 1950年代は、日本がようやく戦後復興から脱し、高度成長へと向かい始めた時代です。そのきっかけは1950年に勃発した朝鮮戦争による特需でした。この時期には、日本中に新しい工場が建設されました。大日本インキもそのひとつですが、それ以外にも丹下健三の図書印刷原町工場(1955)や谷口吉郎の秩父セメント第2工場(1956)が建てられています。

 この時期の工場の特徴は、基本的に鉄筋コンクリート造によって建てられている点にあります。図書印刷原町工場は、屋根だけが鉄骨造ですが、DIC工場の建物は、すべて鉄筋コンクリート造で建てられています。

 通常、工場は設備投資の一環として建設されるので、最小限のコストと最小限の工期が重要な条件になります。同時に、生産設備技術は絶えず更新されていくので、工場の建物は、それに対応できるフレキシビリティを持たねばなりません。これらの条件を満足するために、19世紀以降の工場は、基本的に鉄骨造によって建設されてきました。もっとも有名な工場は、デトロイトに建設されたアルバート・カーン設計のフォードやクライスラーなどの一連の自動車工場でしょう。

 では、なぜ日本の1950年代の工場は、コストも工期も要するRC造によって建てられたのでしょうか。私見では、おそらく三つの理由があるように思われます。

 第一の理由は、1950年代には日本の鉄骨技術が、まだ未熟だったためです。日本で標準的な建築用のH型鋼が生産されるようになるのは、1960年代後半になってからです。初めてH型鋼を本格的に使って建てられたのは霞ヶ関ビル(1968)だといわれています。さらに1950年代の建設ラッシュは、朝鮮戦争の特需だったため、鋼材は軍需産業や鉄道建設などのインフラ建設に集中的に使用され、建設産業までは届かなかったからではないかと考えられます。

 第二の理由は、第一の理由の裏面でもありますが、1950年代に国の政策にもとづいて、建築業界全体が、鉄筋コンクリート造の普及に積極的に取り組み始めたことです。戦後復興期には、建設資材不足から多くの建築が木造によって建てられました。しかし戦時中の爆撃による火災によって多大の犠牲を蒙った経験から、戦後復興における都市の防災化は、国の緊急課題になりました。当時の未熟な鉄骨技術では、完全な耐火建築の実現は不可能だったため、RC造の建築が推進されることになったのです。この課題に建築家たちは正面から取り組み、RC造による日本的な建築の実現をめざしました。そのヒーローが丹下健三であったことは言うまでもありません。戦前から戦後にかけて、近代建築として世界的に認められた建築は、坂倉順三の設計によるパリ万国博日本館(1937)と鎌倉近代美術館(1952)で、いずれも鉄骨造でした。これに対し1950年代のRC造への転換を先導した丹下健三が、後に世界的に認められるようになったことは、銘記すべき歴史的事実だと思います。

 第三の理由は、1950年代の日本においては、工場建築が戦後復興と高度成長のシンボル的な存在であったためではないかと思われます。DIC工場においては、上記の事務棟のデザインはもちろんですが、厚生棟の屋根にはRC造の折版構造が使われ、二つの工場棟はRC造のドーム型シェルと連続ヴォールトで覆われています。広大な無柱空間を必要とするとはいえ、現在では、工場にこのようなRC造の特殊構造は決して使用されないでしょう。海老原一郎は、後に日本バイリーン滋賀工場(1961)においても、DIC工場と同じドーム型シェルを大々的に使用しています。さらに海老原は、国家的なモニュメントである尾崎記念館(1960)の屋根にも、厚生棟で用いたのと同じRC折版構造を使っています。当時の海老原にとって、工場建築は公共建築に近い存在だったのかも知れません。このような点から見ても、当時の工場の建築的意味が大きかったことが伺われます。同じような建築は、ヨーロッパにおける近代建築初期にもみられます。ペーター・ベーレンスが設計したAEGタービン工場(1910)は鉄骨造ですが、正面ファサードのデザインがギリシア神殿を模していることは有名なエピソードです。ちなみに、この建築のデザインを担当したのは、当時ベーレンス事務所のスタッフだったミースだそうです。

 DIC工場は、複数のRC造建築の分棟によって構成され、個々の建築は敷地内に整然と配置されています。これは海老原が、あらかじめ正確なグリッドにしたがって工場配置を決めているためだと思われます。そのなかで唯一気になったのは、個々の工場の建物を取り巻くように配置された、鉄骨造の櫓と、それによって支えられた配管・配線類です。これは工場に新しい技術が導入される度に追加されてきた配管・配線類の集積だと思われます。新技術の導入は工場の宿命ですが、RC造の建築は、それに対して十分に対応できるだけのフレキシビリティを備えていません。RC造の大空間は、新しい機械類の配置変えには対応できますが、建物内部に配管・配線類の追加を取り込むことはできないのです。

 では、鉄骨造の工場ならば、どうなるでしょうか。おそらく、建物内に配管・配線類を取り込み、新陳代謝しながら対応していくでしょう。そしてフレキシビリティが臨界状態に達した時には、迅速に建替えられることでしょう。それが設備投資による資本としての工場の宿命だからです。

 DIC工場を含めた1950年代の工場は、今後どのように生き延びていくでしょうか。おそらくは物理的な耐久性よりも、象徴的な意味によって、少なくとも鉄骨造の工場よりは長生きしていくのではないかと、僕は推測しています。

難波和彦

7/13

鈴木博之 第7信

 海老原一郎の大日本インキ(DIC)の板橋工場の計画は、1950年代の日本建築が持っていた、鉄筋コンクリートのプロポーションと桂離宮的日本建築のプロポーションの幸福な一致に対する、ナイーブなまでの信頼が現れているように思います。そこにシェル構造の屋根が乗り、伝統と近代が両立することになるのでした。これこそ、戦後日本が世界に伍して近代化路線を再開するときの、杖であり支えであったのです。日本の伝統が、モダニズムに接続しうるという論こそ、戦後を歩みだすための最大の導きの糸でした。

 こうした近代建築表現は、丹下健三、大江宏、さらには初期菊竹清訓、大谷幸夫などにも共通する時代精神であるように思います。DIC事務所棟の床が、白い石を散らしたテラゾーになっているのを見たとき、芦原義信設計の、今や失われた、京橋の中央公論本社ビルの床を思い出したものでした。時代の表現なのでしょう。海老原一郎に宿っていた時代精神を確かめうる作品として、これらのDIC建築群は興味深い存在であると思います。

 しかしながらこの週末、軽井沢で昭和初期の別荘を改修された方に、お声をかけていただき、久しぶりに軽井沢の建築をいくつか見ることができました。原広司設計の田崎美術館を久しぶりに訪れて、意外によく残っているので感心したりしましたが、その時に、なにか潜在的な記憶がよみがえってきて、脳裏に「浅間モーターロッジ」という言葉が浮かびました。1960年代か70年代に、この建物はわたくしにとってはお気に入りのひとつでした。エスカルゴのように螺旋を描く建物が、レンガの外装によってシックにまとめられており、そこにコンクリートの梁が組み合わされ、イギリスの戦後建築風の(たとえば、デニス・ラズダンのチャーチル・カレッジ?のような建物)品の良さを見せていたように思ったものでした。こうした英国的品の良さ(エンピリシズム=経験主義)と同時に、浅間モーターロッジには、美におぼれるような頽廃というか、品の悪さみたいなものも同時にあって、あまりおおきな声で評価できないような気もしたものでした。この建物が、やはり海老原一郎の設計なのです。

 浅間モーターロッジに惹かれる自分を思う時、己の俗物性を感じてしまい、歯切れの悪い評論しか展開できないような気持ちになりました。けれども、海老原一郎のこの建物のような、唯美主義というか俗な美というか、いずれにせよ近代建築の理論からはみ出てしまうような部分は、大江宏にもあると思いました。わたくしの好きな普連土学園の校舎も、機能的平面計画の上にレンガと吹き付け仕上げの情緒的な表現が加えられています。こうした唯美主義が入り込む傾向は、海老原一郎、大江宏、そしてミノル・ヤマサキにまで至るひとつの傾向ではないかと思うのです。わたくし自身はそうしたところに、確かに惹かれます。建築は機能と理論の「解」に終わるのでは、不十分だと思うからです。けれどもそうした美意識の混入は、モダニズムにとっては不純な要素であるし、理論的な弱さでもある。

 しかし、ひとは理論によってのみ生きるにあらず、矛盾を抱える存在の方が魅力的であったりする。葛藤なき結論は、幅が狭すぎる。

 こう考えてきたときに、海老原と大江の申し子であった我らが高山建築学校の倉田康男もまた、馬里邑本社や、ヴィラ・蓼科など、美的に流れる建物を作り出していたことを思い出しました。矛盾と葛藤のなかにこそ、建築の豊かさは生まれるのではないでしょうか。

 浅間モーターロッジの現状を調べようと、ネットを探したら、この建物は今や廃墟の代表として有名で、プロモーションビデオに使われたり、ホラースポットの聖地となったりしていることを知りました。これまた、いろいろ考えさせられる現象です。

難波様

石山様  御許

鈴木博之

7/5

石山修武 特別編「海老原一郎の建築 2」

前にすでに述べたが、わたしの海老原一郎先生の建築の印象は、そのほとんどを東京、皇居の間近の憲政尾崎記念館、そして写真で見た滋賀の日本バイリーン工場によるものである。そしてより身近な実体験としては、海老原一郎事務所のスタッフであった倉田康男の、海老原一郎の価値観らしきを濃厚に継承していた、ドローイングを間近に体験した事による。

DIC東京工場、それは実に海老原一郎建築の宝庫であるともいえる。

しかも、今、2010 年代の建築家達はおろか、歴史家の思考の内からも消え去ろうとしている、忘れられた地図としての宝庫なのである。

Xゼミナールの鈴木博之が強く海老原一郎の建築を考えたいと言うのを、当初いつもながら、わたしはいささかいぶかしく考えていた。平板に、大江宏の提唱した混在併存様式への入口としての海老原一郎かなと感じていたのである。

チャールズ・イームズの自邸批評から、Xゼミナールは始められた。

イームズはそしてアメリカ西海岸建築文化は決して我々から遠いものではない。むしろ、第二次世界大戦以降はアメリカの占領政策そして日本という国家の、それへの容融の意志によって、余りにも近いモノではあった。

近過ぎて体内化され、それに気付かなくっている位に。

イームズ自邸を巡る、難波和彦とわたしのネット上での議論は、あのままゆけばアメリカ型の工業化様式とヨーロッパ型、しかも地中海文化ラテン文化の国でもあるイタリア型工業化様式の差異についてへと、進んでいかざるを得なかったであろう。

それはそれでエンターテイメントとしては面白味はあったかも知れぬが、今、2010 年の建築の転形期に相応しいかと言えば、あまりにも遊戯的過ぎるのそしりを受けかねぬであろう。そして、案の定鈴木博之は充分に冷ややかに、この論調には入らぬと言明したのであった。

それって、余りにもXゼミの身内の深読みだろうと恐らくは馬鹿にされるであろう。

しかし、Xゼミは今は参加者は三名の、構造設計家の佐々木先生が参入されて四名になったか、どう考えたって身内としか言えぬ議論から入らざるを得ない。でも、本当の友人は最大のライバルでもあるのが世界の変わらぬ原理である。恐らくは、それが歴然として視えてこなければ、Xゼミの存在理由なんてありはしないのだ。

そこ迄言うのだったら鈴木博之さん、あなたの言う海老原一郎見せてもらおうじゃないの、というのが先日の海老原一郎見学会の主旨であった。で、正直なところ、わかった、海老原一郎でやろうとなった。

つまり、イームズ解釈の枝葉末節よりも、日本近代建築の 1950 年代を海老原一郎の建築を介して考えてみるという事である。

それが、例え移入されたモノ=実体であったにせよ海老原一郎が建築家として生きた 1950 年代は日本の近代建築にアメリカ文化が一気に導入されてアメリカ型民主主義が幼年教育の軸となり、建築文化も明治期のヨーロッパ近代、端的に言えばイギリス近代の建築文化導入学習から、それを軸としながらも急成長しつつあった、アメリカ文明、ひいてはアメリカ文化の影響という、大きく歴然とした転形期を迎えていたのである。

海老原一郎のDIC東京工場の仕事の大半は 1950 年代になされた。1944 年生まれのわたしは小学生であった。

日本の工業デザイン、及び工業デザイン界の創始者とも呼ぶべきGKグループの統率者栄久庵憲司は、インダストリアルデザインのハッキリした姿を具体的に眼にしたのはアメリカ文明に接した事によると述べている。

原爆投下後の廃墟ひろしまで眼にした、占領軍米軍のジープや兵士の持つジャックナイフの姿形の体験がその活動の原点であると言う。同世代の建築家磯崎新の原点らしきも又、廃墟である。

わたしは、栄久庵や磯崎が廃墟のジープや、落日に視入っていた劇的な体験は無い。

小学生時代、住んでいた東京都下三鷹には駅前に第九というクラシック音楽を鳴らす喫茶店と同居していた第九書房という本屋があり、駅前通りから一つ目の角を折れたところには米兵相手のBarが一軒あった。Barの内部は時に開けひろげられ、小学生のわたしには未知の洞くつみたいな処に視えていた。店の前の路上には米兵と日本人の女性ホステスが白昼から抱き合って、キスをしていたりの光景にも遭遇して小学生のわたしは知らず胸をときめかせたものである。

それ位にわたしのアメリカ体験は非劇的であった。少し遅れて生まれた者の悲哀だろう。

そんな光景と地続きの東京板橋で同時期に海老原一郎はDIC工場の建築を設計したのである。町には米軍のジープが走り廻っていたのだろう。米兵が日本人女性と腕を組んで歩いていたであろう。

DIC東京工場の入口近くには創業者川村喜十郎の銅像が立つ。そして立派な稲荷神社が設営されている。聞けばDICの全ての工場には神社が設けられているという。

工場と神社の併存。

実に良き時代の生産の場に対する日本的感性の表われではなかろうか。

先ず海老原一郎の建築に入り込む前に、この神社に敬意を表しておきたい。

これが 1950 年代の生産の場の典型であったのではあるまいか。1950 年代、あの池田勇人内閣による所得倍増政策つまりは日本の高度経済成長への舵が切られた歴史的節目である。明治の富国強兵から所得倍増への転形期であった。

海老原一郎の盟友であった大江宏は、良く池田のあの政策は怪しいものだと言っておられた。つまり経済成長偏向は危ういと考えていたのである。何かを失いかねぬと気付いていたのだろう。

海老原一郎も又、同様な感慨を持っていたのだろうと憶測する。友人とはそういう者だ。

つづく

7/2

石山修武 特別編「海老原一郎の建築」

海老原一郎先生には二度お目にかかった。二度共に、四半世紀前程に受賞した吉田五十八賞を巡っての会であった。その際、海老原先生は常に大江宏先生とご一緒であり、その様子を眺めるに若く未熟な人間の眼にも御二人の仲の良さが、より深く同じような建築的理想、あるいは人生の趣向、目的にまで及んでいるのだろう事が良くわかった。

1985 年の「伊豆の長八美術館」が吉田五十八賞の対象となり、大江宏先生が強く賞の対象として推挙して下さった。それに海老原一郎先生が賛同され推して下さった、という因縁であった。

その年は、畏友毛綱モン太の釧路市立美術館も完成しており、毛綱はいち早く建築学会賞を受賞していた。わたしの伊豆の長八美術館は学会賞には落選していた。

モダニズムの建築の思想の退屈さ、そして本格的な建築的想像力の欠如とも言うべき現実の中の歴史への議論が興隆しており、毛綱も石山も共に「否」をつきつける代表選手としてかつがれたきらいもあった。反近代の作品としてのイデオローグ、あるいはシンボルとしてわたし達の建築が一瞬浮上した時代であった。

賞というものは、実は受賞する側の問題よりも、余程賞を与える側、つまり審査委員等の識見が問われる真実を持つものである。

わたしは今でも、この年の両賞の審査委員の顔はハッキリ記憶している。学会賞の審査員は大方意識せざるモダニズム信者達であった。というよりも歴史観なぞはほとんど無く、デザインがうまいとか、下手だのレベルの中に自閉している人々なのであった。経験主義的近代主義者とも呼ぶべきか。中には口では非モダニズムを称揚している評論家もいたが、彼は審査会の席では恐らく借りてきた猫程に主張も、ハッキリした論理も言明できぬ類の人材だった。当然学会賞はおちた。わたしの建築も毛綱の建築も共に、デザイン以前に近代建築史の歴史観そのものを見直すべしの主張が内在しており、それを避けては通り抜けられなかったのである。ともあれ吉田五十八賞も、毛綱とガップリ四つ相撲になった。

二つの賞共に毛綱にもっていかれたら、わたしとしては立つ瀬も、浅瀬も何も無いと思ったので、この賞は本当に欲しかった。良い友人は同時に最大のライバルなのは今も昔も変わりはない。

審査委員会も二つに割れたようだ。結局、大江宏先生と海老原一郎先生がスクラムを組んで推し続けてくれたようで、ようやく、わたしは賞らしい賞を始めて手中にしたのであった。

だから、わたしは御二人には以降決して逆らわぬ、文句つけぬ、全て従うの三無主義をまっとうする事になった。当然のことである。実人生は重いので、厄介をかけた人には頭が下がるものなのだ。

であるから、今度の海老原一郎先生の建築見学には、一も二も、三、四も何もなく賛同したのであった。義理と人情は英語にするとピース&ラブというらしい(*1)。わたしは、義理の世界には恐ろしい程の率直な政治性社会性が秘められているのを知るので、好きなのである。だって、賞が欲しいな、もらえなかったら、又何年も冷や飯食うかと覚悟した時の賞だから、わたしの人生では実に重さがあったのであり、その重さをくれたのが大江宏、海老原一郎であった。

もうこれは鶴の恩返しの如くに、報恩なのである。

だから、見る前から、わたしはもう絶讃するぞと決めていた。絶讃しなければならない理由はかくかくしかじかである。しかし、人間にはやはり、胸の底に一筋の意地らしきが生き残っているのである。本気でいいぞと言わなくては、やはり何がしかには見抜かれるのではないか。それに読者は不特定多数のネット読者である。

どんな噂がアッという間に広がるかもしれない。それが現代だ。であるから、本当は義理ではなく、人情はもちろん入るが、正々堂々と海老原一郎の建築は良かったと書きたいという意地は大きくあったのである。

かくなる、いびつな意地は一切合財必要なかった。海老原一郎のDIC東京工場、事務所棟他は実にすぐれた近代建築であった。その印象記をるる書き述べておきたい。そして記録として残しておきたいと考える。

*1 東北一ノ関ジャズ喫茶ベイシー店主菅原正二の知る人ぞ知る名言である。

6/25

難波和彦 第8信

石山修武 様 鈴木博之 様

ここしばらくの間、海外を旅行し、その疲れもあってXゼミへの投稿に間が空いてしまいました。来週、「大日本インキ工場」の見学があるので、議論の再開が楽しみです。それまでの閑話休題として、海外旅行の中で考えたことを、お話ししたいと思います。

今回の旅行はバルセロナ、グラナダ、マドリッド、ビルバオとスペインを回り、最後にロンドンまで脚を伸ばすという旅程でした。4都市に共通して強く感じたことは、街中で道路工事や地下鉄工事などのインフラ整備や都心の再開発工事が急速に進んでいる点でした。

1980年に始まり1990年代初頭の社会主義諸国崩壊以降に全世界を席巻した新自由主義は、マーガレット・サッチャーの「社会などというものは存在しない。存在するのは個人だけである」という有名なテーゼに象徴的に表れているように、政府主導による経済活動を最小限に抑え、私企業による経済活動を促進することによって経済の活性化をめざしました。英国のミレニアム・プロジェクトはその一環だといえるでしょう。英国のハイテック建築は新自由主義経済の中で培われたのでした。日本でも中曽根政権が、それまで国有だった国鉄をJRへと民営化し、その流れを引き継いだ小泉政権が最後の国営組織である郵便局を民営化したことは記憶に新しい事件です。

こうした新自由主義の潮流は全世界に浸透し、21世紀初頭までにそれなりの成果をあげました。しかしながら、ITの急速な進展を背景にした新自由主義経済の全世界的な浸透は、一昨年の米国のサブプライム・ローン破綻を引き金にして世界的な恐慌をもたらしました。それに対して各国の政府は、再び公共事業による刺激策によって景気回復を図るという、かつてのケインズ主義の復活を図っているのかもしれません。

グラナダでは、私の研究室に留学していた学生に会いましたが、彼はグラナダの主要産業はアルハンブラ宮殿を中心とする観光産業と、都市再開発事業に支えられた建設産業の二つが中心だと言っていました。事実、グラナダの郊外では急速に住宅開発が進み、街中では至る所で地下鉄工事が行われていました。 

バルセロナやマドリッドも同じような状況ですが、スペインを旅して驚いたのは、公共交通の代金の安さです。バルセロナ、マドリッド、ビルバオとも、空港から街中まではバスで約30〜40分なのですが、料金はバルセロナでは5€(¥600)、マドリッドとビルバオでは何と1€(¥120)です。地下鉄も1〜1.4€(¥120〜¥180)です。ロンドンの地下鉄の初乗料金4£(¥600)に比べると格段に安いのは、スペインの公共交通が公営だからです。僕たちが旅行している時、TVでスペイン政府が緊縮財政のため公務員給与を一律5%カットすると発表し、それに対してゼネストを呼びかける抗議デモに何度も出くわしました。財政破綻したギリシア程ではないでしょうが、スペインでも全労働者に占める公務員の比率がかなり高いのではないでしょうか。スペインは第2次大戦後もしばらくはフランコ独裁政権による一種の社会主義的な政権で、民主化されたのはフランコが亡くなった1970年代末です。

EU諸国の中で、国の財政が悪化している諸国をPIGS (Portugal、Ireland、Greece、Spainの略)と総称しています。世界的には、第2次大戦後の社会民主主義から1980年以降の新自由主義を経て、再び形を変えた社会民主主義へとひと回りしている感じですが、PIGS諸国には、いまだに戦後の社会民主主義的体制が残存し、それが国の財政を圧迫している訳です。それを公共事業によって回復させるというのは自己矛盾以外の何ものでもありません。しかし他に有効な方法がないのが、現代のPIGSが西欧諸国に救いを求めざるを得ない状況なのでしょう。

今回の旅行の大きな目的は、グラナダのアルハンブラ宮殿を再訪することでした。30年前に初めて訪れたときには、ピクチャレスクで繊細なアルハンブラ宮殿の敷地内に、正方形平面と円形平面のコロネードという幾何学的形態を持った典型的なルネサンス様式の「カルロス5世宮」が差し挟まれていることに違和感を感じました。カルロス5世はまた、繊細なアーチが連続するコルドバの「メスキータ」の真中に、ゴシック様式のキリスト教会を暴力的にはめ込んでおり、これにも僕は違和感を感じました。しかし今回再訪してみて、そうした違和感はあまり感じられませんでした。その理由は、使われている建築材料や色彩が同じであるために、両者がひとつのランドスケープの中に溶け込んでいたたからです。

スペイン人にとって、キリスト教文化とイスラム教文化とは、いずれもアイデンティティの核にあります。前者に比重を置く様式をモサラベ、後者に重点を置く様式をムデハールと呼ぶようですが、両者の違いは見た目ではそれほど大きくありません。中世に前者から後者への転換が、15世紀末に後者から前者への転換(レコンキスタ)があった訳ですが、現代の若者にとっては、キリスト教文化によるカルロス5世宮の方が身近な存在だと留学生は言っていました。

スペインにおけるキリスト教とイスラム教が混淆した文化のあり方は、近代以降、中国文化と西洋文化を使い分けてきた日本文化、つまり和様化と似ているような気もします。丸山真男は「歴史意識の古層」の中で、日本の独自性としての和様化には核がないことであると喝破しました。磯崎新も同じようなことを言っています。しかしながら、アルハンブラで留学生と話すうちに、ヨーロッパの周辺諸国であるスペインや英国にも、同じようなことが言えるのではないか。核がないのは別に日本に限ったことではないのではないかと思い始めている次第です。

難波和彦

11/29

石山修武 特別編「東大早大合同課題講評 4」

早大・横内、本澤、山田、柴田「静寂の構造」

設計製図教育の普遍と個別性について考えたい。それにはこのチームの成果を考えるのが良い。世界の建築学科と比較して、日本の学科学生達の特色は殆ど一律な年令構成である事だろう。兵役が無い、インターン制度も薄い、つまりは島国の小社会に自閉している事からの特性である。乱暴に要約すれば学科教室が社会から切り離されて更なる小島国を形成している。特にクラスの年令構成に於いて。同じ年令の人間だけが机を並べて学習する奇異さは、やむを得ない事とは言え、理想的な学習環境とは言えぬ。特に設計製図教育に於いては。何故ならば、設計は総合的な経験の産物であるから。

このチームは少し年令の上の二人の学生と普通の年令学生との混成チームである。

鉄は熱いうちに打てという金言がある。しかし、どうやらこの言は設計教育に於いてはすんなりとは当てはまらないようだ。わたしのいささかの経験から眺め返しても。製図教師としてのわたしが学生に接するのは、基本的には三年生のこの合同課題だけである。ほかは全て各種講評だけだと言って差支えない。しかし、毎年二ヶ月弱だけのこの課題だけは集中して学生達と附き合い、指導する。時間がある限り、毎日である。自分の居所も研究室から製図指導室に移動させる。その方が自分も自分の生活に納得できるし、後悔もないからである。

一年に一度、短期間であれば設計製図教育への教師の対応は密実であった方が望ましい。設計そのものが極めて広範な知識、経験、見識を要求するからだ。

教師も人間だから出来れば優秀な学生を相手にしたいと思う。優秀とは何か。ひとの言う事を良く聴き分ける耳を持つ事が先ず最低条件。このチームは附き合い始めは他の多くと同様に頭が固かった。

バカ程自我のカラにこもる。低い水準の自己主張に終始して止まぬ。教師としては、コレワ駄目だとすぐあきらめる。救いようが無いからである。かくなる人材にかまっているよりも、教え甲斐のある人材に向う事になる。これは最初の一、二週間で大方を把握し得る。人柄も把握できる。例え誤解があろうともである。誤解は誰にでもあるから、これは仕方ない。人間は何もかもができる者ではない。

しかし、十日程経ったら少し年を取ったオジさん学生の態度に変化が見られた。彼等は少年ではない。世の中に少しはもまれてきた。鉄はすでに熱くはない。少し冷めている。この少し冷めた鉄をたたくのは、たたき甲斐がある。

たたいている内に鉄が少し暖かくなって軟化してくる。こちらの話を聴くようになるのである。そうなると教師も真剣になる。コイツ等少しは変えてみたいと意気込む。

それで「静寂の構造」となった。

冷めたシュールレアリスムと言われるキリコの絵の風景が課題中に出現する事になった。 作品も良かったが、彼等の少し熱くなった気持の方がもっと大事である。恥を捨て、建築をやりたくて学科に入ってきた本来は筋金入りの人材なのだ。少しばかり設計がださかったり、お洒落でなくたっていいじゃないか。そんなモノは努力すればすぐに修正できるのだ。彼等の将来を視続けてゆきたい。少し年をとった学生という個別な人材に対して、少し変形な指導法をとったが、彼等のまだまだ長い人生にとっては普遍的な処方であったと信じたいのである。設計教育のだいご味を感じさせてくれもした。

11/25

石山修武 特別編「東大早大合同課題講評 3」

早大・佐渡「水・風景を立体化する公園」

サブタイトルに、「給水塔のある風景に、もうひとつの都市構造をもたせる」とある。意欲は良し。意欲なくして向上無し。その意欲は当然、今の自分に何が欠けているかの自覚と何を持ち得ているのかの双方から生み出されるものであろう。彼には建築デザインが好きであるという、最も大事な才質が歴然としてある。これが無いと実は何も始まりようがない。しかし、そのデザイン好きの才質をどのように展開させ、育てようとするのかの構想力に不足があった。誰も教えようとしなかったからだ。早稲田の学生に特有なジレンマである。しかし、彼はジレンマの中に居るという自覚があった。この課題で彼が独りで取り組んだのは、その構想力自体の育成の一歩であった。

幾つものアイデアがこの案には散在して見て取れる。それを一度自分なりに整理して、自分の引出しに収納しておくべきであろう。キチンと片付けられれば、それ等のアイデアは、いつでも、どんな時にでも再使用できるのだから。

しかし、彼の課題作品の良さは実のところ、個々のアイデアのデザインの質により多くを担われているのは歴然としている。スタジアム風の劇場に仕舞い込まれているデザインの細部を中心に、良い資質が散見されるのである。

恐らくは、彼はこの課題に於いて初めて建築デザインの奥深さ、それ故の面白さ、同時に恐ささえも体験したのではないかと推しはかる。

良い体験をしたと思う。建築設計学習の扉がようやく開けられたと思えば良い。今が自分を拡張させる最初の潮時であるから、機を逃さぬように。物事にはすべからく潮時がある。

アドヴァイスを1つ。君のデザインの勉強の仕方は近現代のモノを学習する事から入った方が良い。20才の頃に古典を学習しても、全く手が付かぬ、歯が立たぬのはわたしの経験からも歴然としている。

近現代とは何か、それは君は今度の課題学習ですでにつかんでいる筈だ。アトは自分で考えなさい。困り抜いたら訪ねていらっしゃい。指標くらいは示せると思う。

モノを、より広く言えばモノの世界だって、知れば知る程に、実は手は動かなくなるものだ。それも又不自由である。知る事と作る事はコインの裏表で片方ばかりが肥大してもうまくゆかぬものだ。しかし、無意識のママに手を動かし続ける事も不可能である。それは、ただの堂々巡りのママに終わりかねない。

そのバランス、綱わたりのようなものだけれど、その習得の仕方も又自分で修練するしか無いでしょう。健闘を祈ります。

今年の東大には、2008年の「しみる」だったかのグループ名の作品のように、デザインが上手だなあと感嘆するようなモノは無かった。13班のモノはデザインというよりは理論、方法的可能性らしきが示されていて、デザインには降りていない。それが良いのだけれど。

その意味では、早大・佐渡案の劇場のデザインは秀逸であった。

この面の能力を伸ばすことと、散在したまんまのアイデア群を仕切る構想力を共にきたえなさい。

11/25

石山修武 特別編「東大早大合同課題講評 2」

早大・谷井、山口、吉川「水ー市民農園・市民・日常生活・インフラ」

2008年の合同課題、つまり第二回目の課題から、東大早大両校学生作品のかなりのパーセンテージで農業とは言わぬが、農的農園的なニュアンスが計画の中に表れるようになっていた。今想えば2007年の課題に於いても東大学生の作品中には自然な地形を模倣したとも考えられる人工の緑の丘によって、現存する都市のビルディングの姿を人間の視界から消そうとする案、2008年の土手という人工の自然への共感をベースにした案等も含めると学生諸君のプリミティブとも考えられる自然への、あるいはやわらかな地面への渇望らしきは歴然としてあり続けた。この早稲田の女性三名による作品はそれ等の多くのアイデアの積み重ねの成果であると考えたい。

わたし自身も日常的に農的な生活、あるいは楽しみとしての農園生活、固苦しく言えば人間の生命と食の問題には関心を持ち続けている。これは頭で考え抜いての事では無く、極く極く自然に、無作為に身体がそれを求めるようになっていた。それ故、この傾きと言うべきには深い関心があった。

頭の中でひねくり廻してきた開放系技術の考えは、農にまつわる生活と関連して初めてリアリティーを持つと考えるようになった。より率直に言えば、わたしの頭は早大・平山案や東大・13班の案を楽しむのだが、身体はこの「水?市民農園」案をいささかの無理もなく楽しむのである。

この案でしかし重要なのは、その平安さ、母性の表現でもあるだろう事だけではない。それが意識的に、意志的になされようとしている事である。天水受けを兼ねるバザールのシェルター。それは廻廊を想わせるが西欧的なそれに非ず。質朴ではあるが高度でもある技術イメージで実現しようとしている。農園部分も良くリサーチされておりその区画の広さ等はすぐにも実現可能なものであろう。さり気なく、装わせている小劇場、釣堀などは意図的にスケールダウンされている。それ等の全てが、水、樹木、スケールダウンされた建築の組み合わせで平安に、知的に組み立てられている。

注目すべきは、早大・平山案、東大・13班と対称的なプレゼンテーションの形式、色調のニュアンスである。アースカラーと言えば俗に過ぎるが、女性に特有な色調で模型も、ドローイングもコントロールされている。実はプレゼンテーションは無意識の内に作者の本音とも呼ぶべきが表現される。モノクロームで意図された静謐を表現しようとした、上述の2案と比較した時に、我々は彼女達が表現しようとしたモノの重要さに気付くのである。

東大・8班「流れ込む人・モノ」のプレゼンテーションも同様な良質なニュアンスを感じたが、いささか女性の現状肯定的、良く言えば現実受容的姿勢が案そのものにも、プレゼンテーションの趣向にも消費社会的気分が横溢し過ぎているような気がした。

11/24

石山修武 特別編「東大早大合同課題講評 1」

2007年秋に開始され、今年2010年秋で4年目になる東京大学早稲田大学建築学科の合同課題の成果の一部を公開し、設計教育のより広い資源としたいと考えての事である。両校の教室に正式にはウェブサイトへの一部公開の了解は得ていない。が、2年前、2008年の合同課題の成果に対して、一部石山の責任に於いて個人の批評としてサイトにクリティークを公開し、幸い苦情、非難他は無かった。2010年の両校の学生作品に対しての石山個人のクリティークとして、再び公開させていただく事にした。

学生諸君の少なからぬエネルギーがこの課題に投じられているので、それに少しでも報いられたらと考えての事である。他意は無い。又、Xゼミナールの共催者、鈴木博之、難波和彦両東大名誉教授の同意も得てはいないが、恐らくは賛成して下さると考え、同意を得る時間を省略している。御理解をいただきたい。

本年の合同課題は「都市の風景へ文化的インフラを考えよ」という高度なものであった。勝手に高度であると自負しているのだが高度なんだから仕方ないのである。都市の風景とは抽象的に過ぎると思われようが、給水塔のある風景とだけ、伝えたい。その方が普遍性を持ち得るであろう。

早稲田・平山案、東大・13班

この両案は、4回目の合同課題合同講評会という小さな歴史をわたしに感じさせるものであった。早稲田は卒業設計を共同設計としている。意匠、計画、エンジニアリング、環境、生産と異なる系に所属する者の共同を課している。ある意味では設計の理想形を追った形式をとっている。その為に全国的規準を外れてしまい全国卒計大会への出品等には障害が生じたが、いづれ他も追随するにちがいないと信じて踏み切った。あと10年も経てば歴然たる成果が得られるであろう。又、修士設計へと重心を移動させたので、いささか学部卒計に注がれるエネルギーがそがれたのはやむを得ない。学部時代に学生に解りやすいそれに代る目標を設定できたらと考えた。一つの学科だけで考えても閉塞して、小じんまりとしたケチな工夫しか出てこない。相談するなら早稲田より強い処しかあり得ない。そりゃ東大建築だとシンプルであった。巡り合せもあり2007年当時東大建築学主任は難波和彦現東大名誉教授であった。

正直に言えば当時早稲田の設計製図はドン底であった。

それを東大との対抗戦らしきで乗り切りさせていただこうと考えたのである。と言うよりも教師として設計製図教育に情熱を失いかけていたわたし自身にカツを入れねばと考えたのだ。情熱の無さは学生に自然に伝わるのは定理である。

学生の不出来は教師の不出来に通じる。

案の定、久し振りにわたしも頑張ったし、それで学生諸君も頑張ってお陰様で早稲田の設計製図は底を打った。それで今年となる。

平山「均質性に支配された社会/風景の基軸」

東大13班「Zero Structure」

共に抽象度の高い製図作品である。2008年の2回目の合同課題の修了後わたしは東大学生の作品に附加された説明文を全て読んだ。そして、驚いた。実に良く考えているではないか。少しばかり作図能力が未熱なのは仕方ない。彼等は製図を始めてまだ間もない。そして早稲田建築学生の、ある意味では力まかせの作図能力、模型製作を含めたプレゼンテーション能力に頼り切った姿勢にいささかの疑問も抱いたのである。

当り前の事ではあるが、考える力についていささか考えざるを得なかった。2008年度は早稲田は不甲斐無かった。思考力に於いては完敗していたと言わざるを得ない。

そして、2009年気が付けば修正はできる。人材も得て、早稲田はフェニキア・チーム、女子三人組の突出した思考能力、作図能力を使い切って、いささか思考方法、製図方法の大きな修正を試みた。そして小さな成果を得た。 平山の作品は2009年の早稲田女子チーム「フェニキア」の成果を継続させて、進めたモノであるとわたしは考えたい。昨日、講評会修了後、東大岸田教授より、興味深い指摘があった。「4年目にして、両校のスクールカラーが次第に明快になってきた。東大は学生の自由な意欲を尊っとび、早稲田は型にはめようとする」。けだし名言である。良い資質を持つ学生を保有する東大の教師ならではの言である。

早稲田学生は東大に比較すれば雑草の群である。それを自由な意欲のママに放任していたらどうなるか。想像するだに恐ろしいものがある。今は近代の極み、普遍化=均質化の極みであるグローバリゼーションの只中である。それを認識できぬ者に製図教育の先端は仕切れない。ただしそれ故にこそ設計製図能力は知能偏差値だけでは測り知れぬ、somethingが歴然としてある。可能性が出現する。古い言い方にはなるが知情意の総合性の結集を動員せねば成し遂げられぬモノがかろうじてあるのだ。

平山の課題作品の特色は課題に対する解答の形を借りながら学生として建築設計学習のプロセスを表現するという独特なものであった。学生の設計学習としてはこの答え方は真当であると言わねばならない。この学生は次の課題へと更にはその先の学習への踏み台を得たとも言えるだろう。発想、イメージは常に不確実なものである。しかし、かくの如き学習の方法はその不確実さを充二分に補って余りある、方法的とも言える姿勢である。

彼は土地の読み取り方に独自な才質を示した後に、給水塔のある風景に触発されながら、あり得べき建築の形式を模索した。当然の事ながら、それは歴史的な諸作品の検証という学習のスタイルをとった。実に自然であった。水に関する諸々から彼はルドゥーの水道管理人の家、そしてスーパースタジオのアンビルトの作品をセレクトした。

知的な選択と言えよう。サイトに想定したのが放送局であったのも良かった。情報時代の建築の形式を学習するに最短距離である。しかし、その建築自体は当然の事ながらうまくはいっていない。いまだ誰も表現し得ているとは言えぬのだからこれは無理からぬ事ではある。次に取り組んだのは12の小パビリオンの設計であり、彼はここでモダニズム様式をスタイルとして学習しようと試み、同時に非モダニズムの様式を擬洋風様式も含めて少し学習した。そして、その全プロセスに近いモノをプロセスとして報告しようとしたのである。課題に対する答え方として実に新しい質を示したとも言えるだろう。

東大13班の学生達の答えの作り方も同様な質を感じる。彼等は給水塔を主役としながら、現実には実現困難であると知りながら、その現実を陰画として認識して何処にでも、いつにでも使用可能なコンセプトそのものをドローイングとして描いた。彼等は言う。「加筆されるための白地ではない、あらゆるものを受容しながらも不可侵のゼロ性」、ここに表現されようとしているのは都市の廃墟ではない。西欧型建築の至高であるとも言える廃墟を超えた、都市そのものの墓地なのである。彼等が描こうとする空虚の本体は都市の死なのである。彼等が記す有と無、日常と非日常の反転は極めて東洋的思考を想わせる。端的に言えば禅なのだが、彼等のドローイングは英語で書かれた禅の如き趣きがある。恐らくは、彼等はかくの如き都市の死の風景の中で遊び、もの想う事が可能な世代なのであろう。早稲田の平山がプロセスではあるが描こうとしたのも同様に都市の死なのである。双方のドローイングに表現されている静けさの中枢はそれである。

若く鋭敏な知性の特権はいつの時代でも直覚であり、それは時代の風に人知れず反応する。このように感じるわたし自身の中にはセンチメンタルな悲観主義は無い。彼等のドローイングにむしろ希望を視るのである。

6/5

佐々木睦朗 第1信

佐々木睦朗さんにXゼミへの参加をお願いしたら、早速、下記のような返事をいただいた。残念ながらSANAAのスピーチの掲載は難しいようなので、佐々木さんの返信のみを掲載する。

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難波君へ/佐々木より

石山、鈴木、難波の論客3氏による「Xゼミ」メンバー加入へのお誘い、まずは非常に光栄に思います。さっそく君のHP上でやり取りを拝読、さすがは当代きっての論客ぞろい、残念ながら僕にはとてもマネのできない芸当です。

それで相談です。

3氏がレギュラーメンバーであるのに対して、僕はベンチに控えるサブメンバーという役どころで、テーマ次第でタイミングを見て適時参入するということでもよければ、この難役をお引き受けしたいと思います。

たまたまですが、大江宏さん設計の法政大学55・58年館(学会賞、BCS賞受賞作)の取り壊しOR保存問題が、いま僕の大学でも大きな問題として持ち上がっています。この手の近代建築の保存問題で取り壊し側の言い分として必ず出てくる一つの理由に、形式的な耐震診断結果による一方的な耐震安全性不足言及の問題があります。これについては十分に検証すれば、その指摘はまったく独善的であることが多々あるところです。例えば、そうした問題に対する手短なコメントでよければ、僕にもサブメンバーとして十分に対応できると思います。一歩引いた感じの回答になってしまいすみません。

ところで、2週間ほど前(5月17日)にSANAAのプリッカー賞授賞式に列席するためニューヨークに行ってきました。リチャード・マイヤー、フランク・オー・ゲーリー、レンゾ・ピアノら歴代の受賞者も含め、総勢400名が出席した、まるで映画界のアカデミー賞を思わせるとても華やかな授賞式で、その良し悪しはともかく、日本と彼の国の豊かさの違いをまざまざと見せつけられた思いがしました。また、妹島さんが授賞式のスピーチで構造家(僕)の貢献と師匠(伊東さん)への感謝の念を述べられ、特に当事者として同席していた僕にとっては、プリッカー賞でエンジニアの貢献についてスピーチしたのは今回が最初であったこともあり(ピアノですらピーター・ライスへの言及はなかった!)、これまでに味わったことのないとても感動的な体験をすることができました。いずれ朝日新聞でも和訳が掲載されるかもしれませんが、参考までに授賞式でのSANAAのスピーチの原文を添付ファイルでお送りします。若い建築家ユニットらしく、とても謙虚で素直なスピーチだったと思います。時間があれば一度目を通しておいてください。

6/1

鈴木博之 第6信

石山修武様、難波和彦様

石山さんと難波さんのお話、面白く展開しつつ拡散してもいるようで、わたくしはますます入れなくなってきております。難波さんがスペイン旅行に出ておられますので、今お送りするのは失礼かとも思いましたが、まあいいやということで。

わたくしはお二人のブログを毎日拝読しているのでやはり奇妙な感じになります。わたくしだけ皆さんの脳髄の中を覗き込んでいるようなものですから。石山さんがベイシーを尋ねられた時の印象である一種の「さびしさ」みたいなもの、拝読しながら不意に西脇順三郎の詩論を思い出してしまいました。石山さんは最良の意味におけるシュールレアリストなのかもしれない。

ここでは大江宏にはじまり、ずれている話を海老原一郎に再び持っていったうえで、そこから広がる建築イメージのシュールレアリスティックな連鎖を述べておきたいと思います。海老原一郎を持ち出したのは、この春、わたくしの住む板橋区の美術館で建築案内みたいな講座を頼まれたことに端を発します。

テーマは何でもよかったのですが、工場建築をテーマにしました。板橋区は東京の工業地域の一つだし、世界の双眼鏡の半数以上を製造していた時期もあると聞いていたからです。そしてもう一つ、むかし中山道を散歩していて、気になる工場を見ていたからでした。ちらりと見える建物のプロポーションがあまりに美しく、これは只者ではないと思っていたからです。

美術館の人が調べてくれて、これは大日本インキの工場であり海老原一郎の設計だと知れました。海老原の最大のパトロンが大日本インキとその創業者である川村家だと知りました。そこで海老原は工場を作り、オフィスを作り、最後には川村記念美術館をつくりました。

板橋区の工場は構造を坪井善勝がやり球殻シェルによった屋根を持つ正方形平面の工場ができました。こうした経緯のなかで大日本インキの系列のバイリーンの工場も生まれたわけです。

ということを調べてきて、川村記念美術館にはマーク・ロスコの作品(NYのシーグラムビル内のレストランのための作品)が所蔵されていることを知りました。むろん、シーグラムビルはミース・ファン・デル・ローエによる近代建築の金字塔ですが、このロスコの作品はテキサスのメニル・コレクションの美術館にも付属の礼拝堂の形で収められています。メニル・コレクションはレンゾ・ピアノの最良の作品の一つだと思いますが、そこでは光と空気の流れがデザインの対象として可視化されているように思います(ここから、話は日本バイリーン、そしてオリベティ工場に還流してゆくのですが)。

そして思い出したのですが、メニル・コレクションのオーナー(メニル夫妻の夫人)は、シュルンベルジュいうハイテク会社の創始者一族で、そこから得た財によってコレクションを形成したのでした。ここまでくればお分かりのように、英国のシュルンベルジュ社の社屋はマイケル・ホプキンス設計のハイテク建築の極北のひとつです。

このように、建築とオーナーと建築家の世界はいくらでも広がりを見せるもので、そこに建築の面白さがあります。

海老原一郎の話を大江宏に戻して、そこから話を広げると、これまた宏さんのお父様の新太郎さんの世界にもつながり、新重要文化財の世界につながり、そこから和風衝動の系譜にもはなしは持って行けます。

石山先生、難波先生のおはなしからの、拡散話としてお聞き流しください。

鈴木博之

5/24

石山修武 第8信

5/17

難波和彦 第7信

石山修武 様 鈴木博之 様

研究室の片付け、引越やら、活動記録本の編集作業に追われて、資料があちこちに散逸しているため、石山さんと鈴木さんの問題提起に対して、正面から応える準備ができていません。もう少しの間、猶予をいただければと思います。その代わりという訳ではありませんが、研究室の昔の資料を整理しているうちに、ひとつ興味深い文章を見つけたので、紹介したいと思います。

この文章は、磯崎新さんが1990年代に提唱された「和様化」の概念に関して、僕なりの考えを述べたものです。ちょうど伊勢神宮論として『始源のもどき--ジャパネスキゼーション』(磯崎新:著 鹿島出版会1996)をまとめられた頃です。和様化については、鈴木さんと石山さんも、連続シンポジウム『批評と理論』(INAX出版 2005)において議論されていたので、興味を持たれるではないかと思います。石山さんは、先日の世田谷村日記でも、ヨーロッパ文化の日本への取り入れ方について論じておられます。和様化の問題は、広くいえば近代化の問題であり、夏目漱石が言ったように「外発的」な近代化をせざるを得なかった日本にとっては、アメリカとは違った意味でヨーロッパ・コンプレクスの克服の問題ではないかと思うのです。ご高評をお願いします。

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「和様化」の二つの意味について

和様化、とりわけ伊勢神宮に関する磯崎さんの解釈はエキサイティングである。ただし、和様化については、僕は磯崎さんとは少し異なる意見を持っている。結論を言えば、現代の和様化の最先端を担う建築家こそ磯崎さんではないかと考えている。なぜそうなのか、僕なりの考えを述べてみたい。

つい先日、丹下健三の広島ピースセンターを再訪し、当初の計画どおりに完成した全体像を見る機会があった。資料館の立面のプロポーションのすばらしさには、あらためて感嘆したが、それ以上に考えさせられたのは、ピロティの下に広がるモニュメンタルな広場の意味である。言うまでもなく、この広場は平和への願いと戦後民主主義を象徴する空間として設計された。しかし、誤解を恐れずに言うと、それは軍隊が整列したとしても決しておかしくはない空間なのである。むしろ、その方がこの広場のモニュメンタリティにふさわしいようにさえ思える。つまり、この広場は正反対の思想を持った集会でも成立可能な空間であり、モニュメンタルであることだけが、そのアイデンティティなのである。磯崎さんも指摘するように、これは1945年を境にしてイデオロギーは180度反転したにもかかわらず、丹下の建築的なボキャブラリーが、戦前戦後を通じて変わっていないこととも関係している。

しかしながら、思想と表現との関係は、それほど単純ではない。建築家の思想が建築に表現されるというのは、一面では正しい。少なくとも建築家の意図においては、両者は結びついているに違いない。しかし、意図がそのまま実現されるという保証はない。表現はさまざまな解釈に開かれており、表現から逆に当初の思想を再構成することは困難である。ましてや、その表現によって思想をコントロールすることなど不可能だろう。だからこそ、ピースセンターはまったく反転した意味を持ち得るのだとも言える。先頃、物故したマンフレッド・タフーリは、長年この問題に取り組んでいたが、『建築のテオリア』(八束はじめ=訳 朝日出版社 1985)においては、イデオロギーと建築表現には直接的な関係はないという結論に達している。

とはいえ、戦争を体験した近代建築家たちが、近代的なものと日本的なものの統合という戦前のテーマを、そのまま戦後にまで持ち越したことは歴史的な事実である。磯崎さんはそれを、古来から反復されてきた和様化の一環としてとらえ、その原型的なモデルが伊勢神宮の式年遷宮にあるという仮説を提出している。さらに、この仮説にもとづいて、日本の近代建築史も説明できると主張している。説得力のある見事な仮説であり、目から鱗が落ちる思いをさせられた。ぼくはこの仮説に基本的に同意する。

ただし、ひとつだけ条件をつけておきたい。それは、この仮説は日本古来の和様化の構造を解明したものというより、むしろ明治維新以降の日本の近代化の歩みの中に宿命的に内在している和と洋の二重構造を、逆遠近法的に過去の歴史に投影したものだということである。厳密な検証は歴史家に任せたいが、おそらく江戸時代以前においては、式年遷宮はそれほど厳密には実行されておらず、明治以降になって現在の形に確立されたのではないだろうか。和様化は明治以降の近代国家の確立のために擁立されたイデオロギーであり、和様化と近代化とは表裏一体を成している。現代の和様化を相対化するには、この視点が不可欠だと思う。和様化の起源を古代にまで遡ることは、それを不可避な歴史的法則とみなすことになり、批判の強度を鈍らせてしまうだろう。和様化は何度もくりかえし再構築されてきた歴史的なイデオロギーであり、磯崎さんの仮説も例外ではない。ただ、磯崎さんの仮説は、一点において過去のそれとは異なっている。それは和様化をナショナリズムのイデオロギーとして相対化している点である。もっとはっきり言えば、天皇制にねらいを付けている点である。日本の近代建築史を再検討するには、この問題を避けて通ることはできない。

建築家にとって、和様化は二重の意味を持っている。様式的(表現的)な意味と思想的な意味である。磯崎さんの和様化の仮説においては、このふたつの意味が重なり合っている。先に述べた丹下の広島ピースセンターに典型的に見られるように、両者の関係は錯綜している。一方では、戦前戦後で継続している和様化は、戦争を通過しても本質的には変わっていない日本国家あるいは天皇制を象徴していると考えられる。しかし他方では、同一の様式が軍国主義的思想と民主主義という対立的な思想を表現している以上、様式と思想とは無関係だと言うことも可能である。このことはヨーロッパの古典様式が、民主主義国家と全体主義国家のいずれにおいても、国家の様式として用いられた事情と似ているように見える。しかし、本質的な相違点を見落としてはならない。それは、丹下というひとりの建築家において、同じ様式がまったく異なる思想の象徴的表現として用いられている点である(ミースやル・コルビュジエにも、そうした傾向がなかったとは言えないが、丹下のように国家的なレベルで成功した建築家はいない)。そこでは、様式は単なる容器=シニフィアンにすぎず、どのような思想的内容=シニフィエでも盛り込むことができると考えられているのである。ぼくはこの点こそが和様化の本質ではないかと思う。

つまり、和様化には次元の異なるふたつの形態があるのだ。ひとつは、表現としての和様化である。これはナショナリズムや天皇制といった思想的内容をともなっている。磯崎さんの言う和様化とは、これを指している。もうひとつは、思考様式あるいは生活態度としての和様化である。これは思想的内容とは無関係に、様式だけを洗練させる傾向を指している。形式主義=フォルマリスムと言ってもよい。後者からただちに連想されるのは、アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』で紹介した「日本的なスノビズム」だろう。浅田彰の言を借りるなら(『Anyway - 方法の問題』 監修=磯崎新+浅田彰 NTT出版 1995)、「いっさいの歴史的=人間的内容を欠いた形式の洗練、空虚な記号のゲームとしての日本的スノビズム」である。このふたつの和様化は、はっきりと区別しなければならない。両者はロジカルタイプが異なっている。前者は具体的な表現を持っているが、後者は必ずしも日本的な表現様式を取るとは限らない。

しかしながら、よく考えてみると、日本的表現なるものも怪しい存在である。現在、日本的表現と言われているものは、もともとは中国や朝鮮から持ち込まれたものである。伊勢や出雲も南方の高床式住居を原型にしている。たしかに、それらは日本独自の表現に変容している。しかし、オリジナルからまったくかけ離れた表現になっているわけではない。日本的表現の起源は限りなくゼロに近い。そして、この問題は日本のアイデンティティが問われるたびに浮上してくる。その都度、表現としての和様化は歴史的イデオロギーとして再構築されなければならない。僕が表現としての和様化の起源は明治維新にあると考えるのは、そのためである。磯崎さんは、表現としての和様化のサイクルは、今世紀いっぱいで終わると予言している。しかし、ことはそれほど簡単には進まないだろう。

僕の考えでは、今日までの日本を支えてきたのは、むしろ後者の形式主義としての和様化である。つまり、表現なり技術を外部から導入し、その意味内容は問わずに、徹底して洗練させる態度である。江戸時代までは中国が、明治以後はヨーロッパが、戦後はアメリカが模範となった。明治期に巨大な不連続点があり、それが次元の異なるふたつの和様化をうみ出した。日本の近代化は、このふたつの和様化を絶妙に使い分けることによって進んできた。ソニーやトヨタは、後者の和様化の産物だと言ってよい。技術やデザインはヨーロッパやアメリカから導入されたものだが、それはオリジナル以上に洗練され、世界中に輸出されている。磯崎さんは、まさに建築界のソニーでありトヨタである。磯崎さんは決して自分自身のスタイルを持とうとはせず、ブルータリズム、ポストモダン歴史主義、ハイテック、デコン・スタイルといったさまざまなスタイルを、オリジナル以上に巧妙に洗練させ、建築化してきた。磯崎さんこそ表現としての和様化なしに世界的になった初めての建築家であり、日本の近代化の本質を体現した建築家ではないかと思う。

難波和彦

番外03

椅子について デザイナーの作図能力

番外02のタイトルが「椅子について デザイナーの作図能力」になっていて、中身が全くそうなっていませんでした。

デザイナーの作図能力というタイトルにしたかったのは、同じ、チャールズでもイームズではなくってチャールズ・レニー・マッキントッシュの椅子のデザインを頭に想い浮かべていたからです。

チャールズ・イームズは1912-1988、チャールズ・レニー・マッキントッシュは1868-1928。2人の生きた歴史はほぼ半世紀の開きがあります。そして、この半世紀の開きの中で、大きく、デザインそのものの形式が変化した。

大まかに言えば、アーツ&クラフトからデザイン&プロダクトへと2つの径の一方へと、流れは片寄り、曲がっていった。

芸術・工芸の成果としての椅子から、デザイン・生産の成果としての椅子へと変わったのである。世界の覇権もヨーロッパからアメリカへと移った。そのヨーロッパ的覇権イデオロギーを我々は普遍そして近代と呼び続けてきた。そして、設計者、デザイナーの生きる形も変わった。大きく変わった。必然的にその作図能力の形そのものも変質したのである。

わたしも設計家ですのでやはり作図能力にはとても関心があります。ここで言う作図能力とは頭に想い浮かんだイマジネーション、つまりあやふやなアイデアらしきものを図像におとす能力というのではない。それは落書きみたいなもので誰でも描ける類のものです。その落書きにスケールを入れて作図する能力を指しています。

設計家の落書きは絵描きのスケッチと同じようなもので、これは一種のとりとめもないメモであり、他人が見ても解らない暗号、記号の如きものでしょう。

しかし、それを現実のモノに近づけようとすると、どうしても寸法、材料、触感等が入り込まざるを得なくて、そこには何らかの技術、あるいは経験らしきの記憶がどうしても不可欠になる。そして、これはスポーツ選手が速く走ったり、高く飛んだりするに似た力らしきが露出することになる。

つまり、これは力としか言い様の無い何モノか、つまりは才質でしょう。そう思います。

わたしも作図するので、これは全く身にしみて骨のズイまで知っています。それで、チャールズ・レニー・マッキントッシュです。アーツ&クラフツの作家であったマッキントッシュは恐らく家具、住宅の作図能力は桁外れに異様なものがあったと思います。単独の、当然本人自身の作図能力です。

本を読んだり、ドローイングを見たりする限りでは彼は全てを単独でやりぬいたようです。

つまり、必要とされる図面を一人で全部描いたようです。マッキントッシュの設計した建築はどれもそれ程大きくはないけれど、その細部の多様さを考えれば、やはり異様な事です。ヒルハウス、グラスゴーの学校、他を含めて、あの建築の全てを描き切れる設計家、一人で、です。それは今の日本の設計者では出来ない。つまり、時代を超えて作図能力が桁ちがいなのです。

それを、本当に実感するのが、実に椅子のデザインです。

わたしの思い込みに過ぎないでしょうが、でもいささかの自信をもって言うに、近代で作図能力に抜きん出ていた設計者は、フランク・ロイド・ライトとチャールズ・レニー・マッキントッシュの二人だろうと思います。ほとんど同時代の、アメリカとイギリスの建築家です。建築を考え始めると、少々私には手が負えない。で、椅子のデザインを介してみたい。

フランク・ロイド・ライト・デザインの椅子の数々と、チャールズ・レニー・マッキントッシュ・デザインの椅子は良く似ています。ライトの椅子はマッキントッシュに比較すれば武骨すぎるけれど。特に設計者の作図能力の側面からの視界からは、ほとんど同じ種族に属していると言ってさしつかえないように思います。共に、形態のボキャブラリーが豊富です。そして装飾的全体をつくり出している。作図能力が高くないと出来ないデザインです。

この二人の設計者が使用している材料は、いわゆる自然材。木・皮・布を主としています。

椅子の主たる材料が木・皮・布などである事は、人間の手で小さな道具を使い、直接に形や文様を作り込む事が可能だという事だ。

要するに大型の工作機械を使わないで、個別な人間独自の作り方でなされた。

つまり、設計の手でする作図能力と、作られる椅子の形や仕上がりの距離が離れていない。別の言い方をすれば作図能力がそのまま製品に反映する。

鉄やステンレス、アルミ、プラスチックという材料は手では加工できない。製作する数量にもよるだろうが、木や皮や布を主材料にしていた頃の、椅子の生産量は、つまり1900年初頭の頃はヨーロッパにしてもアメリカにしても、まだ量産のシステムは家具には敷延していなかったのだろう。というよりもマッキントッシュのデザインした家具も、フランク・ロイド・ライトがデザインした椅子も、個人経営の他、住宅や、ホテル、オフィスに限定されていた。不特定多数の大衆を使用者として想定したものではなかった。

それから、50年、チャールズ・イームズの椅子が登場する。

イームズの作図能力は、どんなものであったのだろうか。気になる。

5/7

石山修武 第7信

番外02

椅子について デザイナーの作図能力

議論の焦点は海老原一郎、そして大江宏へと移りましたが、C・イームズを介してモダーンデザインとファニチャー、特に椅子のデザインに関しては、もう少し考えるべきだと思いましたので、一言。難波和彦さんが折角、ゴッド・ファザーI、IIに登場した椅子のデザインと登場人物に関して調べてくれたのを大変興味深く、読みました。わたしも、確か、ゴッド・ファザーIIで2代目のゴッド・ファザー役、アルパチーノのオフィスらしきに、ちらりとハーマンミラー社のものがしつらえられていたなと、そんなウロ憶えの記憶がありましたので、あの映画を持ち出してみました。

初代ゴッド・ファザーには、まだ土の匂いと香り、シシリアという場所の反映があり、コッポラはそれであの椅子に初代を座らせたのでしょう。スタイリスト、あるいはアート・ディレクターに才がある人間がいたのかも知れません。なにしろ、金が充二分にかけられた映画のようでした。2代目となり、マフィアも当然近代化の径を歩まざるを得なかった。2代目が座る椅子も、近代化の表象でもあったアメリカ化、つまりプラクティカルなニュアンスを帯びざるを得ない。形や装飾をそぎ落とした機能主義を表現せざるを得ない。計算で全てが納得し得るような、デザインが、2代目にとっても必須なものになった。冷静で、時に冷酷な迄の機能性を身にまとわなくては、マフィアもやってられなくなった。

初代ゴッド・ファザーのキャラクターの作り、メイキャップはまるで、ミースファンデル・ローエでした。そして2代目は、レム・コールハース。良く似ていると思いませんか。閑話休題。

ところで、C・イームズが椅子のデザインに才を発揮した頃、日本ではどうだったのか?

イームズのラウンジ・チェアーが1956年で、同じ年に柳宗理の名作バタフライが出現しました。

これは日本のモダーンデザイン中の名作と呼ぶべきものでしょう。

しかし、小品でした。椅子のデザインに小品はないだろうと思われるかも知れませんが、C・イームズ+ハーマンミラー社のラウンジ・チェアーと比較してみれば、その意味は歴然としている。椅子の文明は日本では、当然持ち込まれたものであった。

だから、単品ではポツリ、ポツリと市場に出回るしかなかった。シリーズは組めなかった。ラウンジ・チェアーの如くに、椅子のキングというか、オフィスを支配してしまうような機能は要求されようがなかったと考えられる。

又、C・イームズの1956年のラウンジ・チェアーが、イームズ自身の1945年LCW(Lounge Chair Woody)他のプライウッド・シリーズとは明らかに異なる価値観ももってデザインされた、あるいは要求された事を考えれば、そのようなモノを社会が求していなかったとも言える。

市場が全く成熟していなかった。逆に言えば、1956年のアメリカは充分に成熟していたのではないか。

日本近代の椅子デザインは、そして、いきなり、倉俣史郎の唯美主義へと雪崩れ込む。ほとんど単品生産としか呼べぬHow High the Moon 1986年、 Miss Blanche 1989年へとなってゆく。柳宗理、剣持勇世代から中途が全く無くなって、いきなり倉俣史郎になり、そして今は誰も居なくなった状態なのではないか。民芸は別としてですね。

こういう、日本の椅子デザインの歴史としての特殊性、個別性は考えてみる必要があるように思います。

5/7

難波和彦 第6信

石山修武 様 鈴木博之 様

鈴木さんが、いきなり大江宏論に進むのは、難波には少々重荷であろうと考えられて、海老原一郎にまつわる技術論という迂回路を用意してくれました。海老原の日本バイリーンの工場は、レイナー・バンハムが『環境としての建築』で取り挙げているフランコ・アルビーニ(ローマのリナシェンテ百貨店も彼のデザインです)のオリベッティ工場とよく似ているので、以前から気になっていました。とくに日本バイリーンの第二期の工場は、構造と設備とがうまく組み合わされていて、オリベッティの工場よりもよくできていると思います。1960年代のメタボリズムの影響も少しあるような気がします。丹下健三の図書印刷工場とも少し似ているので、比較してみるのも一興でしょう。もう少し勉強してみます。

さて、石山さんにもいくつか宿題をいただいたので、まずはそちらを片付けておきましょう。

『ゴッドファーザー1』のドン・ヴィト・コルレオーネが座っていた椅子の件ですが、早速DVDで確認したところ、猫脚を持った古風な椅子であることが分かりました。おそらく19世紀のチッペンデール様式のデザインだと思います。ご存知のように、チッペンデールは18世紀の英国で活躍した家具デザイナーです。カブリオレ(猫脚)やボール&クロウ(玉と爪)の脚部彫刻に特徴があり、彼のデザインした家具はアメリカでは最もポピュラーな正統派スタイルで、伝統と格式の象徴になっています。ここにもアメリカ人のヨーロッパ・コンプレクスを見ることができるでしょう。

『ゴッドファーザー1』の舞台は、第二次世界大戦直後(1945年)のニューヨークのリトル・イタリアです。MOMAで『インターナショナル・スタイル』展が開催されたのは1931年、ミースのシーグラム・ビルが完成したのは1958 年ですが、まだまだモダン・デザインはアメリカには根づいていない時代です。実際に行って見ると分かりますが、ニューヨークの大部分は19世紀の都市ですね。

『ゴッドファーザー1』が封切られたのは1972年で、ちょうどポストモダニズムが世界中に広がっている時代でした。その影響もあったのでしょう、晩年のジェームズ・スターリングもチッペンデールの椅子に座っていました。彼のプロジェクトのパースに、彼自身がその椅子に座った姿が描き込まれています。フィリップ・ジョンソンのAT&Tビルのファサードは、チッペンデールの椅子の背板の写しだというのは有名な話ですね。当時、エール大学に留学していた石井和紘から聞いた話しですが、ロバート・ヴェンチューリはこの映画が大好きで、何度も観て泣いたそうです。ヴェンチューリという名前からも分かるように、彼はイタリア系のアメリカ人だからでしょう。

ミースはレイクショア・アパートやシーグラム・ビルによって、アメリカのモダニズム・デザインを完成させましたが、彼の住まいはシカゴにある19世紀のアパートだったそうです。ミースの記録ヴィデオの中で、ロバート・スターンが忌々しげに話していたことですが、ミースはレイクショア・アパートの完成後に、クライアントからおそらく設計料の代わりにアパートの一戸を贈呈する申し入れを受けたけれど、丁重に断ったそうです。19世紀のアパートの方が快適だからというのがその理由で、彼は毎日ドライマティーニを呑みながら、アパートの窓からレイクショア・アパートを眺めていた、という笑えない逸話です。まあ、ミースの言行不一致は周知の事実ですが。

次に、石山さん、鈴木さん,僕が車を運転しないという件ですが、もう一人忘れてはならない仲間がいます。構造家の佐々木睦朗です。もっとも、彼は何度か運転免許を取ることを試みて、その都度、教官と大喧嘩をして止めた挙げ句なのですが。ちなみに、僕は免許を取りたいと思ったことはないし、試験を受けたこともありません。なぜそうなのか。いくつか理由がありますが、1979年の池辺の死後に世界旅行をした時の体験が一番大きな理由です。南北アメリカは飛行機とバスで回りましたが、ヨーロッパは友人の車に同乗して回りました。僕は運転できないので、助手席でナビゲーターをしたのですが、古い街では駐車場を確保するのが大変でした。イタリア、南ドイツ、南フランス、スペインでは、中世の街並が、車社会によって瀕死の状態になっていることを痛感しました。車で旅をしていながら、矛盾していることはよく分かってはいましたが、細い道を歩きながら車に出会うと、一人しか乗っていない車でも、歩行者の方が壁にすり寄り。車を避けねばならないという状況を、どうにもやりきれなく感じました。以来、自分だけは運転するのは止めようと決めた次第です。

僕の田舎は山口県の小さな街で、両親は法律事務所を営んでいました。最初は元禄時代の町家の見世で事務所を開いていましたが、前面道路が細くて駐車できないため、1970年代に事務所を別の場所に移し、夫婦とも車に乗り始めました。日本全体が車社会に変って行く時代ですね。自宅から事務所までは歩けば2-3分でしたが、車だと遠回りをしなければならず5分以上かかりました。もともと町家には駐車場がないので、建て替えるときは前面に駐車場を取るため、1970年代末には街並はガタガタになりました。そのうちバイパスができ、ショッピングセンターができて、街はゴーストタウンになりました。

今年は平安遷都1300年祭で、奈良は賑わっていることと思います。東大では毎年3月に関西旅行があり、一昨年は石山さんや鈴木さんと一緒に法隆寺から京都まで北上しましたね。その時に感じたのですが、有名な寺自体は以前と変っていなくても、周りの環境はロードサイドショップが濫立して悲惨な風景になっていましたね。嘆いてもどうにもなる訳ではないけれど、これも車社会の裏面です。

石山さんの第6信にあるベンヤミンのアウラ論を読んで、ひとつ感じたことがあります。単純にいうと、石山さんはイームズ邸を代表とするアメリカ文化にはアウラがないと言っている訳ですね。読みながら、ああそうか。石山さんが言うアニミズムとはアウラのことなのかと膝を打ちました。アメリカとりわけ西海岸のカジュアルポップにはアニミズムがないというのは、何となく分かるような気がします。

1930年代にナチに追われて、フランクフルトの社会研究所から哲学者テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーがロサンゼルスに亡命してきます。その時の経験にもとづいて書かれたのが有名な『啓蒙の弁証法』です。啓蒙つまり文明化の過程もたらす諸矛盾を分析したもので、直接的にはナチズム批判なのですが、同時にカリフォルニアの「動物的ポストモダン」の批判にもなっています。これを読むと、彼らがカリフォルニアの文化風土に馴染めなかったことがよく分かります。アドルノはベンヤミンの盟友でしたから、彼のアウラ論をよく知っていたはずです。生粋のヨーロッパ人であるアドルノは、アウラが完全に欠落したカリフォルニアの文化を受け入れることができなかったのですね。でも、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』で展開されているアウラ論は、単純にアウラの欠落を嘆いている訳ではありません。写真や映画と言う新しい技術が、かつての芸術のアウラを消失させる一方で、無意識を通して大衆の感性を変容させると主張しているのです。新しい芸術はつねに古い芸術のアウラを消失させるのです。では、新しい芸術のアウラとは何か。それはアメリカ人がヨーロッパ的観念性に対して抱くコンプレクスなのか。あるいはアニミズムなのか。どのようなものであれ、それは「歴史」が生み出すものではないかと、僕は考えています。

2010年5月3日(月)

難波和彦

5/1

鈴木博之 第5信

石山修武様、難波和彦様

論考の応酬に押されっぱなしですが、わたくしも少しだけ書かせていただきます。

イームズ邸がサーリネンとの共同で設計開始され、イームズ夫妻が空間のボリュームを最大にする方向で修正して、今あるすがたにしていったのだと、どこかで読みましたが、そこにプラグマティストたるイームズの本領があるのでしょう。

それが、ウエスト・コーストなのですね。フィリップ・ジョンソンはイースト・コーストの人ですから文化が違いすぎる。

イースト・コーストには欧州文化への憧憬が、いまなお色濃く存在していますから、イームズをアメリカと呼べば、ジョンソンは亜種のヨーロッパ人ということになってしまうのかもしれない。磯崎さんはまさしく亜種の西欧人でしょう。そんなところです。

さて、イームズをアメリカと捉えると、あまりにあっけらかんとして、我々との接点が見えなくなってしまう「カリフォルニアの青い空」といった、雨知らずの世界に、われわれは入り込めるのか。

そうした文化性の違いを、あたかも無いかのように無視して、からりと乗り越えてしまう視点こそ、(途中をはしょれば)マーケットの視点でしょう。

貨幣が(ドルが)最も普遍的な国際言語だと感じてしまえば、日本とウエスト・コーストも、イースト・コーストも無媒介につながってしまう(様な気になる)。かつて、人間が一致団結してバベルの塔を築き始めたとき、神様は焦って言語をばらばらにして、人間の仕事を分断しましたが、貨幣という共通言語を手に入れた人間は、ウエスト・コーストもイースト・コーストも、日本も欧州もつないでしまったのではないでしょうか。

イームズ邸に見られる異文化性を、拒絶的にではなく、けれど確実に意識しておくことが大切なのでしょう。

ここで、貨幣と並ぶ国際言語と考えられてきている「技術」について考えたい。これは大江宏論への屈折した布石であるつもりなのです。難波さんが、「大江論をしようよ」と呼びかけてくださったことは、わたくしへの思いやりと思いますが、大江論に入ると、一挙に国際通貨否定になりかねないので、その中間に海老原一郎という建築家を置いてみたいと思います。大江宏もいまやポピュラーな存在ではないけれど、海老原一郎はもっとポピュラーではないでしょう。東京芸大を卒業して、たしか石本事務所に勤め、銀座に事務所を構えて仕事をした彼は、尾崎記念館などで知られ、芸術院会員になった建築家で、おなじく芸術院会員になった大江宏とは盟友でした。

最近その仕事の一部をあらためて知って、興味を感じました。彼は大日本インキの仕事と、そのオーナーであった川村家の仕事を手掛けることによって、ほとんどすべてのキャリアを積んだのだと気付いたのです。日本橋の大日本インキのビルは高層オフィスビルの先駆けであり、名作ですが、それ以外にも多くの工場をこの会社のために設計しています。日本バイリーンという工場も、大日本インキの子会社だと知りました。工場は、特にバイリーンは、空調設備のデザインが重要で、それを海老原一郎は造形化していたのです。空調は技術ですし、工場に必要な大空間も、技術です。それを追求しながら、仕事をしていった海老原と、初期の大江は共感するところがあったのでしょう。海老原事務所のチーフを務めていた倉田康男は、独立してから大江のいた法政大学で非常勤をし、高山建築学校を開きます。石山さんやわたくしはそこで倉田・大江圏に触れることになりますが、そこから海老原一郎も透けて見えてきたのでした。

海老原一郎にとっての技術、大江宏にとっての文明、そのはざまでバイリーンを担当しながらも海老原のもとから大江の方に移った倉田、彼等の間での普遍的言語はなんだったのか。わたくしには、大江論に進むための必要なポイントです。

4/29

石山修武 第6信

4/26

難波和彦 第5信 「イームズ・チェア 再論」

石山修武 様 鈴木博之 様

第5信で、石山さんはイームズ・チェアについて突っ込んだ歴史分析を展開しています。これを読むと、僕の第4信に対して、暗にこう戒められているような気がしました。

「椅子を論じるにあたっては、自分の趣味や好みからではなく、歴史的な視点から論じるべきである」

僕としては、石山さんが4月6日の書き込みで、椅子に関する自分の趣味と好みを述べられていたし、第4信で鈴木さんの自邸の椅子の選択基準を聞かれていたので、僕もそれにストレートに応えたつもりだったのですが、確かに趣味や好みは歴史的に制約されているから、もう一歩の踏み込みが足りなかったと反省した次第です。

なので、もう少しイームズ・チェアについて歴史的に検討してみたいと思います。

まず、石山さんはイームズ・チェアの歴史的展開に関して少し誤解されているようなので、再確認しておきます。イームズ・チェアの開発は以下のように展開しています。

1945年 プライウッド・チェア:成型合板を使ったシリーズです。

1950年 プラスチックシェル・チェア:初期はFRP、後期はポリプロピレンの一体成型シリーズです。

石山さんが指摘したアームチェアDARは、このプラスチックシェル・チェアのシリーズのひとつです。

1951年 ワイヤーメッシュ・チェア:スチールのワイヤメッシュを使った一体成型シリーズです。

1956年 ラウンジ・チェア+オットマン

1958年 アルミナム・グループ:アルミニウムのダイキャストをフレームに使ったシリーズです。

第5信で石山さんが指摘しているように、プラスチックシェル・チェア(アームチェアDAR)とラウンジ・チェアの間に断絶があることは頷けるような気がします。プライウッド・チェア、プラスチック・チェア、ワイヤーメッシュ・チェアは一体成型による大量生産をめざした大衆向けの椅子ですが、これに対して、ラウンジ・チェアはどちらかといえば手づくり的で、エグゼクティブという名が示す通り、上流階級向けの椅子だからです。ちなみにラウンジ・チェアとオットマンは、ハリウッドの映画監督ビリー・ワイルダーの誕生祝としてデザインされた椅子です。ワイルダーはポーランド生まれのユダヤ人で、オードリー・ヘップバーンの『麗しのサブリナ』(1954)、マリリン・モンローの地下鉄の通風孔シーンで有名な『七年目の浮気』(1955)、チャールズ・リンドバーグの自伝を映画化した『翼よ、あれが巴里の灯だ』(1957)、名喜劇俳優ジャック・レモンの『アパートの鍵貸します』(1960)といった映画で、当時は超売れっ子の監督でした。まさにハリウッドを代表するエグゼクティブです。だからラウンジ・チェアを車に例えればキャデラックである、という石山さんの指摘は、言い得て妙ですね。キャデラックは現在でも、アメリカ大統領の公用車として使われているそうです。

で、問題はアルミナム・チェアをどう位置づけるかです。

石山さんは、これを大衆向けの椅子だと言われていますが、アルミナム・チェアのデザインは、初期のプラスチック・チェアとはまったく異なります。ラウンジ・チェア(この脚もアルミニウムのダイキャストです)の後に開発されている点からすれば、むしろエグゼクティブ向けの椅子の一環ということになるのではないでしょうか。前期のプライウッド・チェアやプラスチック・チェアに比べると部品数が多い点、ラウンジ用に専用のオットマンが用意されている点、表面が本物のレザーで覆われている点、ハイコストのアルミニウム・ダイキャストを使っている点、などを考え合わせれば、確かにエグゼクティブな椅子と言ってもいいかもしれません。

しかし、デザイン・ポリシーの点では、ラウンジ・チェアとも異なります。ラウンジ・チェアはローズウッド合板であるのに対し、アルミナム・チェアはフレームすべてがアルミダイキャストです。実際に座ってみた感じもまったく違います。マットは薄くて堅く、座ると背筋が伸びるので、リラックスするよりも頭がクリアになる感じです。石山さんに倣って当時の車に例えれば、フォードのムスタングということになるでしょうか。クリント・イーストウッドが主演・監督して、昨年大当たりした『グラン・トリノ』はムスタングの延長上にあるフォード・トリノの名称で、大衆向けの高級車ですね。

要するに、イームズはアメリカ社会のあらゆる階級に対して、それぞれに相応しい椅子のシリーズをデザインしたのではないでしょうか。

ところで、川合健二のドラム缶住居にはイームズのラウンジ・チェアが置いてあったそうですが、それがキャデラック的な存在だとすると、川合健二のポルシェ好みとはどうつながるのでしょうか。

石山さんによれば、川合は徹底したプラグマティストだったそうですから、ラウンジ・チェアを単に「休む」という単純な機能性において捉えていたのではないか。そういう意味ならば、イームズ・ハウスに置かれたラウンジ・チェアも同じではないかと思います。

鈴木博之さんは第4信で、レイナー・バンハムを引きながら、ミースがモダニズムの様式をアメリカ資本主義のエグゼクティブのフル・セットとして提供することによって世界を制覇したと指摘しています。私見では、それが可能だったのは、コーリン・ロウが「事実としてのフレームと観念としてのフレーム」(『マニエリスムと近代建築』所収)で言ったように、ミースの観念性がアメリカ人のヨーロッパ・コンプレックスをくすぐったからだと思います。フィリップ・ジョンソンの趣味にも同じようなヨーロッパ・コンプレックスを感じます。ジョンソンは若い頃バウハウスで学んだことがあるし、ミースの作品集をまとめたし、MOMAでインターナショナル・スタイル展を開催したことからも、それを傍証できるでしょう。デヴィッド・ホックニーとの付き合いも、その延長線上にあるのではないでしょうか。

これに対して、イームズにはそのようなヨーロッパ・コンプレックスは微塵も感じられません。中西部セントルイスのワシントン大学で学び、フィンランド人建築家エリエル・サーリネンが創立したクランブルック・アカデミーに招かれ、息子のエーロ・サーリネンと共同で建築を設計している。さらにジョン・エンテンザと『arts & architecture』を編集し、ケーススタディ・ハウスのプロジェクトを企画しています。要するに、ヨーロッパ文化を換骨奪胎したヤンキー(最近のヤンキーではなく、60年代的な意味でのアメリカン)な文化です。そのような意味で、ジョンソンの自邸にイームズ・チェアが置かれるはずがないのです。ジョンソンはヨーロッパ贔屓だから、カリフォルニアを軽蔑していたに違いないからです。

第3信の最後でも述べたように、イームズ夫妻は建築、家具、什器、を同列に捉えていました。彼らはイームズ・ハウスでの日常生活を記録した写真集を出していますが、それを見ると、すべての要素を並列的に捉えようとする彼らの主張がよく分かります。すべては断片的で、散逸的で、序列というものがありません。これは夫妻が映画製作を仕事にしていたこととも関係があると思います。彼らにとって日常生活は、映像のシークエンスのようなものだったのかもしれません。ワルター・ベンヤミンは、映画のような新しいテクノロジーは、建築と同じように、カジュアル化を通して人間の感性を変えて行くと言っています。川合健二の鉄骨住宅にも、イームズ邸と同じようなテクノロジー観を感じます。徹底してプラグマティックなデザインを追求した点において、両者は共通しているように思うのです。つまり、デザインやテクノロジーに関して、川合健二とチャールズ・イームズは同じような合理的な思想を共有していたのではないか。石山さんに怒鳴られそうですが、これがとりあえずの僕の結論です。

大江宏論については、まず鈴木博之さんに問題提起をしてもらいたいのですが、いかがでしょうか。

2010年4月24日(土)

難波和彦

4/23

鈴木博之 第4信

石山先生 難波先生 御許

出張続きで、いまも福岡のホテルで書いています。

先週末が犬山・京都、昨日は日帰り山梨、今日明日は福岡・戸畑、今週末はまた犬山・伊賀上野ですから、考える時間がない。

という前書きを書いた上で、イームズのラウンジ・チェアについて。嫌味かもしれませんが、わたくしが近代建築史を習ったのは留学中のロンドンで、レイナ—・バンハムからでした。彼がいったことで面白かったのは、ある様式が世界を制覇するためには、社会の需要に対してフルセットで応えるキャパシティを持たねばならぬということでした。バンハムはそこで、ミース・ファン・デル・ローエが戦後の重役室のデザインを決めることによって、モダン・デザインが社会的ステータスを確立したのだと言っていました。

ラウンジ・チェアは、ミースのバルセロナ・チェアと並ぶ、モダニズムのラグジュアリの体現です。これをデザインした人がケース・スタディ・ハウスを造る。これはモダニズムのステータスを上げるための行為ではない。モダニズムのカジュアル版であり、同時に商品化でもある。モダニズムのピュアな理論から右に外したスタンスかもしれません。それに対してモダニズムから反対側に外したのが、石山先生が言及したロールス・ロイスでしょう。

車におけるモダニズムの中央値は、トヨタやニッサンがになったのだと思います。フォードでもキャデラックでも欧州車でもなかった。

イームズから見えてくる一つの問題は、モダニズムのスペクトルの広がりではないでしょうか。面白い問題提起をいただいた気がします。

大江宏先生をめぐるお話に移るのは、面白そうですね。よろしくお願いいたします。

鈴木博之

4/22

石山修武 第5信

4/19

難波和彦 第4信 「イームズ・チェアについて」

しばらくイームズ邸について議論してきましたが、石山さんがそろそろ切り上げてもいいのではないかと言うので、この第4信でひと区切りつけることにしましょう。磯崎さんも言うように、イームズ邸が提出している建築の工業生産化の問題は20世紀後半の建築を通底するテーマなので、Xゼミの第1ラウンドとして相応しかったけれど、最初からいきなり核心的なテーマを詰めるよりも、しばらくの間、別の問題を迂回してから、再び戻って来てもいいのではないかと思います。

さて、最後にイームズ夫妻がデザインした椅子について考えてみたいと思います。いきなりで恐縮ですが、僕はラウンジ・チェアには、どうしても食指が動きません。いかにも座りやすそうで、座るとあまりにも快適で、思考が停止してしまいそうな椅子だからです。川合健二さんのコルゲート住居に相応しいのは、挑発的な住空間とラウンジ・チェアの快適性がちょうどうまくバランスするからだと思います。川合さんが座っている情景を想い浮かべても、休憩しているというよりも沈思黙考している感じがします。それに比べれば、イームズ邸に置かれたラウンジ・チェアは、カリフォルニアのブルジョアの生活を描いたデヴィッド・ホックニーの絵みたいで、完全な思考停止状態を連想させます。東浩紀流に言えば「動物的ポストモダン」ですね。ただ、典型的なカリフォルニアの生活を描いたホックニーが英国人であるように、『第一機械時代の理論とデザイン』を書いたレイナー・バンハムも、晩年には英国からロサンゼルスに移住していることを考えると、ヨーロッパ発のモダニズムの究極点がイームズ邸にあることも頷けるのではないかと思います。

イームズがデザインした椅子のなかで、僕が一番好きなのはアルミナム・チェアです。2000年に大阪市立大学の建築学科に就任した時、研究室には何としてもアルミナム・チェアを置きたいと思いました。研究室のある建物が病院の診療室のような殺風景な雰囲気なので、大学に頼み込んでドイツのウィルクハーン社の作業テーブルと、5本足に改良されたアルミナム・チェアを買ってもらいました。アルミナム・チェアは一見座りにくそうに見えますが、実際座ってみると適度に快適で、思考を喚起される椅子です。2003年に東京大学に移る時には、大学に置いてきましたが、今は誰が座っているのでしょうか。東京大学に就任した時には、気分を変えてハーマンミラーのフル装備のアーロン・チェアを買ってもらいました。作業用椅子の中で、快適性においてはベストなデザインだと言われていますが、実際に座ってみてアルミナム・チェアにはやはり敵わないと言うのが実感です。

石山さんは僕の自邸(「箱の家112」)の椅子を憶えていないそうですが、食卓の椅子はロン・アラッドがデザインしたトム・バックです。プラスチック一体成型の椅子で、機能性と製造法が不即不離であるデザインに惹かれました。英国のデザイナーらしい、ハイテクでエスプリの利いたデザインで、コストパフォーマンスも優れています。半透明と黄色のタイプをそれぞれ2脚ずつ並べています。

椅子をデザインする建築家は多いようですが、僕は基本的にやらないことにしています。一度試みて手痛い失敗をしたことがあるからです。1980年代に幕張メッセで建築家がデザインした椅子の展覧会があり、僕も招待されました。そこでスチールで可能な限り軽い椅子をデザインしようと考え、構造家の佐々木睦朗さんに協力を得てデザインしました。当時、倉俣史郎さんのインテリアや椅子の製作を担当していた工場に依頼し、6ミリφのスチールバーとパンチングメタルで3本足の椅子をつくりました。オブジェとしてはきれいな椅子に仕上がり評判も良かったのですが、座るとひっくり返りそうな椅子で、使い物になりませんでした。椅子は床との摩擦によって自立するので、床との設置面があまりに小さいと、座ったときの荷重の微かな移動だけで滑ってしまうのです。要するに、建築には基礎があるけれど、椅子にはないのです。両者は境界条件がまったく異なることを痛感しました。現在、この椅子は僕の事務所の帽子置き台になっています。

さて、次回のテーマですが、イームズ夫妻からは、ある意味で180度正反対の位置にある建築家・大江宏を取り上げてはどうでしょうか。石山さんと鈴木さんは、大江宏さんとは長い付き合いがあるようですし、丹下健三と同級生でありながら、まったく別の道を歩んだ点でも興味深い建築家です。僕は大江さんについてはまったく無知ですが、千駄ヶ谷の「国立能楽堂」を見て、僕自身のデザイン観をひっくり返されるくらい驚愕した記憶があります。その辺りを、ぜひ勉強してみたいと思うのですが、いかがでしょうか。

2010 04 16 記

4/15

石山第4信

4/14

鈴木博之 第3信

4/13

難波和彦 第3便

石山修武 様  鈴木博之 様

もう少しイームズ・ハウスについて考えてみたいと思います。

最近読んだ『磯崎新の建築・都市をめぐる10の事件簿』(磯崎新+新保淳乃+阿部真弓:著 TOTO出版 2010)の中で、磯崎さんはこう言っています。「スタンダードとは、近代に考えられた概念なんですね。僕はよく、20世紀の後半はイームズ自邸を考えればいいと言っています。これはすべてカタログでできている」(第5章「19世紀」)。磯崎流のアイロニカルなメタファーですが、的確な指摘だと思います。20世紀後半に世界を席巻したモダニズム・デザインの核心には、スタンダードの概念があったということです。要するに建築の工業生産化ですね。それに対して石山さんは、イームズ邸の工業生産化=部品化は、アメリカン・プラグマティズム特有のものであって、世界中どこにでも通用するものではないこと、その点を理解するには、敷地の広さに注目しなければならないと主張している。つまり建築の部品は、スタンダードなプロダクツとしては世界共通かもしれないけれど、住宅として特定の敷地にアセンブルされる場合には、スタンダードな解答にはならないと言っている訳ですね。僕の考えでは、磯崎さんと石山さんの考えは対立していません。解釈のレベルというか、視点が違うだけだと思います。磯崎さんが主張しているのは、建築の工業生産化には、部品の標準化が不可欠であり、20世紀後半の建築生産はひたすらその方向に進み、その方法を典型的なかたちで実現したのがイームズ邸であるということです。

しかしイームズ夫妻は、最初からその方向を選んだ訳ではありません。なぜなら、彼らは敷地を掘り込み、コンクリートの擁壁をつくった上に上部構造を建てているからです。これは斜面の敷地だからこそできる構法であり、明らかに部品化には逆行しています。もし最初から徹底した部品化をめざしたのだとすれば、サーリネンと恊働した第1案のように、ピロティによって建物を浮かし、地面から切り離す構法の方が相応しいでしょう。しかしイームズ夫妻は、そのような構法は採用せず、まず斜面敷地を活かす案を考えた上で、上部構造を建設する構法としてカタログ部品のアセンブリーを考えたのです。イームズ夫妻が考えたこの対比的な構法を、石山さんは直観的に見抜いているのだと思います。鈴木博之的に見れば、これはゲニウス・ロキと工業化住宅の野合と言えるかもしれません。ともかくこのような構法を、その後誰も模倣していないことも、イームズ邸が普遍的でありながら、固有の解答であることを証明しているのではないでしょうか。

近年ではイームズ邸を工業化構法ではなくライフスタイルの視点から再評価しようとする動きがあります。それは既製部品のアセンブリーである建物と、散在する家具、設備機器、什器などの生活部品とを等価に見ながら、生活空間を工業製品の並列的な集合として捉えようとする視点です。この点は、イームズ夫妻が建物よりも、主に家具や什器のデザインに取り組んだこととも関係があるでしょう。とすれば、彼らは住まいを家具の延長としてデザインしようとしていたのかもしれません。

このあたりから、イームズ夫妻の家具デザインや映像作品にアプローチしてみてはどうでしょうか。

4月3日(土)

難波和彦

4/12

鈴木博之さん、第二信へ 石山修武

週二回の定期更新ではまどろっこしいので、わたくしはわたくしで不定期に更新してゆきます。勿論、システムに乗った更新は守りますが。

鈴木博之 第2信>www.kai-workshop.com

そうか、これは舞台のような家なのかと腑に落ちました。わたくしはわたくしで、ハーマンミラー社のショールームみたいな家だなと思っていましたので。この視角はゼミの一つの主題になりませんかね。

舞台のごとき家、すなわち舞台装置のごとき家、すなわち見せる事を主題の一つに、意識した家という事になるでしょう。

何に対して、何を見せようとしていたのかが問題になるでしょう。イームズ自邸の場合は、イームズ夫妻の職業柄から推理するに、自分達のライフスタイルをアメリカ西海岸文化的に社会にアッピールしたいと考えていた事は確かでしょう。アメリカ西海岸文化と言えばパーティです。芝生の緑の上にテーブルや椅子をセットして、ケンタッキーフライドチキンのバスケットに、コカコーラ、バドワイザーのアルミカンという訳です。

デザイナーはパーティ好きです。それは職業のアイテムの一つであると言える位に。イームズ夫妻のジャック・アンド・ベティ風のいかにも明るく、くったくの無い感じは、そのまんま、芝生上でのウェストコースト・スタイルのパーティを思い起こさせるに充分です。パーティは彼等の生活のメインステージであった可能性もある。

イームズ夫妻くらいのデザイナーであればパーティの客は、クライアントであったり、ジャーナリストであったり、時には取材パーティだって想定されていたに違いない。

鈴木博之さんが指摘する舞台のごとき家は、実にリアルなパーティの舞台でもあったのではないか。イームズ夫妻にとって自邸とはショールームの如くであらねばならなかった。

そう考えてみると、イームズ自邸を視る立ち位置が変ってきます。パーティは情報社会のリアルきわまるステージです。ゲストはまさにイームズ夫妻のプロダクツの観客でもあったろうと思われます。

建築作品と呼び得るモノは大なり、小なり必然的にそんな性格があるのではないかと、思い知るのでした。イームズ夫妻はパーティも含めて自邸をそのようにとらえていたと考えると現代的な意味合いが生まれてくると思います。

4/9

鈴木博之 第2信

4/8

石山第3便

書き込み 4月6日

イームズの椅子に関して、及びそれを介して椅子のデザインについての議論がしばらく続くのかも知れないので、わたくしの好きな椅子について一言。幕間です。

わたくしは椅子に関して一切のマニアックな趣味は無い。

申し訳ないが、座れればいいやという位なものである。建築への好き嫌いは人一倍激しいような気がするが、椅子にはその厳しさが無い。何故であるか、考えてみると面白いかも知れぬ。

きっと、ずーっとタタミに座って暮してきたからなのかな。

わたくしが、しかし一番大事にしている椅子が一脚ある。

それは、若い頃、鈴木博之さんと参加していた「高山建築学校」の、校舎にあった、つまり廃校に置き去りにされていた小学生のための木製のノンデザインの椅子なのである。

何年目かの「高山建築学校」は、秋田の藤里で開校された。校舎は大きな墓地の隣にあった。

捨てられた校舎の中に、一脚の小さな椅子が残されていた。というよりも置き去りにされていた。

わたくしはその椅子に、深く愛情を感じた。恐らく感傷からであろう。自分の小学生時代へのノスタルジーからであろう。

でも、その時に、わたくしは歴史という巨大な概念自体が、人間の感傷、ノスタルジー、メランコリー、哀しみというような深い気持の底の底から生み出されるものであるのも直覚したのである。であるから、わたくしの椅子の中の椅子は、その木製の尋常小学校の、ありきたりの椅子なのである。この椅子に座ると、わたくしは失った時を思う事ができる。椅子にも本格的なバナキュラーがあるんだ。

場外コラム

十一時半、研究室ミーティング。諸々の件について。十五時半迄。次のミーティングは明後日として、主にデザインを見る。と、サイトでスタッフに告げる。

Xゼミのサイトに工夫が必要である。難波和彦さんのサイトと石山研のサイト、双方に同じ内容のモノがONされているのは、いかにもプレモダンならぬ前サイト的というか、知恵がない。

ひとつ気がついた事がある。しかし気付いた事を難波和彦さんに電話する気になれないのである。サイトの事は全て、サイトの上で処理した方が良いという、サイトの倫理の如きが、わたくしの中に発生しつつあるのだ。要するに会ったり、電話で話したりの必要が無くなるというのが、わかるのである。

つまり、これをやり続けてゆくと必然的にオタクにならざるを得ない。それを覚悟せざるを得ないのである。

鈴木博之さんから、サイトをのぞいてるから会う必要がないと、言われていたのは、この事であったかと思う。これを密にやって行くと本当に会う必要も必然も失くなるな。

それを覚悟してやらなくてはと覚悟する。一種の別れだぜコレワ。と実に大ゲサである

しかし、XゼミのサイトONの方法は、今のやり方はいかにも阿呆臭いので、変えたい。例えば毎週月曜日は難波和彦さんのサイトで石山のものを交信、木曜日は石山のサイトで難波さんのものを交信というキャッチボールにしたらどうでしょう。鈴木博之さんのコーナーは金曜日が良いのではないでしょうか。

これに対する応信は難波さんのXゼミのセクションにONしてくださればと思います。今回だけは読者のヒンシュクを買うのを覚悟で日記に記しますが、二度とここにはONしません。

Xゼミの読者は、しかし時間は割いてくれるけれど、金は払わないのだから、もしも、読み続けてくれる気持があるのなら、何等かの遠廻りくらいをしてもらう意地悪くらいはしても良いだろうと思いますがね。いかがでしょうか?

これも、Xゼミのコーナーでお考えを聞かせて下さい。ウダウダはこれで終り。

002

わたくしはイームズ・ハウスを実見した事はない。確かに中途半端に終った議論の事は記憶に残っている。記憶が正確であるかどうか覚束無いけれど、京都の建築家がイームズ・ハウスを訪ねての印象を、難波さんが自分に引き寄せて論じたものではあるまいか。ユーカリの大木の配列がイームズ・ハウスの環境形成に意図的にデザインされたもので、それが強い日照を防ぐ装置になっている、という指摘が印象的だった。

不充分ではあったが、わたくしが近代の名作と呼ばれる住宅の敷地の広さに言及したのは、写真と図面でしか知らぬイームズの家も、先ずそれが建築写真に納められるにしても、自分の土地の内部だけでカメラアングルが自在に操作できる位のゆとりがあるのだなあという印象からでした。

わたくしが手掛けてきた小住宅のほとんどは、その外観を記録しようとすれば、大方は前面道路から見るしかないのが現実です。つまり、自分の家の外観は自分のモノではあり得ず、通行人の為のモノ。である。コルビュジエのサヴォア邸、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸、アルヴァ・アールトの自邸、みんな大きな敷地に建てられているものばかりです。

日本の工業化住宅が対面しなければならなかった最大の問題はですから土地の狭さへの適合という、非建築的とも呼べる問題ではなかったか。ここで非建築的と言うのは、今もまだ連続している建築教育に於ける建築というイデーらしきと、工業化住宅の問題はそれがよってたつ土地の問題からして、随分と距離があり、明快に言い切るならば世界が異なるのではないか。

ずさんな言い方かも知れないが、我々の住宅に対する営為は世界から視れば不思議な狭小住宅として眺められているのではあるまいか。

我々の日本近代住宅史の中心的な課題の一つは、最小限住宅という主題への試行であった事実がある。しかし、最小限住宅=狭小住宅という視点もすでに現実にあるように考えられる。

以前、充分な議論に確かにならなかったチャールズ・イームズ自邸、ケーススタディハウスNO.7を振り返る時、かつて多くの工業化住宅論者、あるいは建築家たちがアメリカ迄足を運んで考えた、視点は余りにも工業化という生産方法への視界に、それこそ狭小であったのではあるまいか。

しかし、この批判は今だからこそ言える事であってわたくしだってその問題に取り組んでいた頃は気がつかなかった。

今回短く述べている事はイームズ邸のユーカリの樹列への着眼は実に現代的であるけれども、日本の小住宅への試みで、果たしてうまく行くでしょうか。

2010年3月19日                  石山修武

難波和彦様

CC: 鈴木博之様

追伸

どのように公開するか、文体を調整する必要があるか等ご意見下さい。

鈴木博之 様  石山修武 様

「イームズ邸は隅々まで明るくてどこにも翳りがない」という指摘や、それをベルリンのライヒスタークと重ね合わせて、近代の議会制民主主義の翳りのなさに結びつけるあたりは、さすがに歴史家の視点だと目から鱗が落ちました。『去年マリエンバードで』の冒頭のシーンには、まさに近代建築以前の暗さへの視点が読み取ることができますね。近代建築は直接的にも隠喩的にも翳りをめざしていないのかもしれません。近代建築の空間的透明性は、全市民が参加する議会制民主主義や、ユニーヴァーサルな資本主義の表象と言えるでしょう。今年の正月休みに10年ぶりに香港の香港上海銀行本店を再訪しましたが、その抜けるような透明な空間は、現代の銀行が貯蓄ではなく投資による貨幣の流通をめざしていることの表れであることを痛感しました。とはいえイームズ邸においては、朝日が2階の東面にユーカリの樹の影を投げかけるとき、そこに微かな陰翳を見ることができます。近代以前の奥行のある翳りに比べれば浅い翳りに過ぎませんが、その点が他のケース・スタディ・ハウスとイームズ邸との決定的な相違点ではないかと僕は考えています。

石山さんはイームズ邸の敷地の広さに注目しながら、イームズ邸を工業化住宅の原型として捉えることへの疑問を提出しています。確かに建物の東に広がる庭がなければ、朝日によってユーカリの影も建物に落ちようがありません。しかし逆に、こうも考えられるのではないでしょうか。つまりユーカリの樹列を隣家の壁と考えれば、イームズ邸は一種の町家に転換するのではないかと。南北に細長く、間に中庭を挟んだイームズ邸は、東側に庭がなくても十分に成立する住宅なのです。イームズ夫妻は何度も日本を訪れ、陰翳のある日本の空間をこよなく愛していたそうです。イームズ邸の竣工パーティでは、イームズが作った手製のお盆に料理を載せて、床に座り込んだ客に供した写真が残っています。その様子から僕はイームズがサーリネンとの共同によるミース的な第1案を捨てて、ユーカリの樹列を一種の壁に見立てた町家風の自邸をデザインしたのではないかとさえ憶測しています。近代建築のスタイル(国際様式)が、たまたま日本の数寄屋に類似していたことは、よく指摘されていますが、日本から西へ向かって流れて行ったスタイルが、ライトやミースを経由して、西海岸で世界を一周したとは考えられないでしょうか。ならば近代建築における最小限住宅というテーマを、他のケース・スタディ・ハウスには無理だとしても、イームズ邸に読み込むことは可能ではないかと思うのですが、飛躍のし過ぎでしょうか。

いささか足踏み状態で、生産的な議論がまったくできずに終わってしまい、大変恐縮ですが、とりあえず今日はここまでとします。

次のステップへの議論転換を期待しています。

3月23日(月)

難波和彦

001

交信の形式の事なんですが、論らしきを闘わせる必要も大事ですが、今の時代そして日々の暮しとの密着感があると良いと思います。その辺りはやりながら次第に獲得できるようになるのかも知れませんが、箱の家の住人である難波さんは人工環境の調和の中に生活しているので、季節の移り変わりへの身体的即応に欠けるきらいがあるとかねて思っておりましたので、余計な事でしょうが一言。

わたくしの家、世田谷村は内外の区別が著しくうすい。しかも、この件は意図的にした事ですので、箱の家とはその点でも対極でしょう。

又、互いに歴史上で好ましいと考えてきたサンプルにも大きな違いがあるのは歴然としています。B.フラーのドーム理論、川合健二自邸と池辺陽のナンバーシリーズでは、開きがあり過ぎて、これでは恐らく議論が始まりますまい。

時に鈴木博之さんの適切なアドヴァイスが必要である由縁です。

わたくしが川合健二に学んだ事の一つは暖房技術の発達史のような事でもありました。

川合は極めつけのボイラー設計者でもあった。彼は鋳鉄製のアメリカン・スタンダード社製ボイラーの日本での販売代理権の所有者でしたから。それはともかく、川合は若いわたくしに「暖房が無いと生きていけない処から近代文明は生まれたんだ。ヨーロッパの都市の大半は緯度が高い」と、そんな事を教えました。

日本でも西日本から東京くらい迄の太平洋岸は黒潮の影響で世界中の都市と比較すれば比較的温暖な気候の中に在ると思われます。アジアモンスーンのシェルターを意識して、その意識をいささかデフォルメして作ったのが世田谷村でもありました。

例えば、チャールズ・イームズのケース・スタディ・ハウス自邸の暖冷房、他設備関係はどうなっていたんでしょうか。調べた事が無いのですが、知っていたら御教示下さい。

2010年3月17日                  石山修武

難波和彦様 鈴木博之様

石山修武 様

第1便。ありがとうございました。早速の先制パンチ、あり難くお受けします。

1年ほど前にイームズ・ハウスについては石山さんと議論した記憶がありますが、憶えておられますか。確か住宅の工業化に関して、石山さんがイームズ・ハウスの敷地の広さに言及されましたね。その時にも話したことですが、途中で議論は止まってしまったので、もう少し詳しく話してみます。

僕は3年ほど前に、ロサンゼルス郊外のイームズ・ハウス(ケース・スタディ・ハウスNo.7)を訪問しました。敷地は南方の眼下に太平洋を臨む高台の緩やかな東斜面の中腹に位置しています。建物は間口の狭い南北に細長い2階建てです。北側からアプローチするので、北側にガレージとアトリエ棟を置き、中庭を挟んで南側に住居棟という線形配置です(これが間口の寸法といい、長さといい「箱の家112」にそっくりなのです)。敷地は斜面に沿って南北方向に堀り込まれ、建物の西側の1階部分は地面に接した擁壁になっています。つまり斜面上の西側からは1階建てに、斜面下の東側からは2階建てに見えるわけです。イーロ・サーリネンと共同でデザインした第1案は、斜面に直角に配置された東西に長い建物で、建物全体がピロティで持ち上げられていました。実施案はこれを90度回転させ、地面に半分埋め込んだ案に変えられました。変更の理由は定かではありませんが、僕はイームズ夫妻が半地下のRC壁の熱容量を期待したためではないかと睨んでいます。居間のアルコブやアトリエが擁壁に沿った位置に置かれているからです。あるいは東側隣家のエンテンザ邸のプライバシーを守るための配慮かもしれません。建物の東面は2層分の開放的なガラス面で、建物に沿って南北に細いアプローチ通路を通し、この通路に沿って背の高いユーカリの樹が一列に植えられています。ユーカリの樹の東側には緩やかな芝生の庭が広がっています。イームズ邸を含めてケーススタディ・ハウスのほとんどは軽量鉄骨造で、断熱もほとんどなく、骨組も外部に露出してヒートブリッジだらけです。それもそのはずで、ロサンゼルス一帯は太平洋に面した温暖な地中海性気候です。年間の平均気温は18度で、四季の変化もほとんどなく、雨も降りません。おまけに眼下に巨大な熱容量である太平洋が控えています。高さが20m以上もあるパームツリーが林立する風景はロサンゼルスの象徴的なランドスケープですが、これはロサンゼルスが亜熱帯に近い気候だからです。そういう気候ですからイームズ・ハウスには空調設備はありません。ただ、ケーススタディ・ハウの多くは暖炉を備えています。イームズ・ハウスの斜め向かいにあるエンテンザ・ハウスにも、家の中央に暖炉があります。しかしイームズ・ハウスには暖炉はありません。多分、暖炉は暖房のためではなく、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの記号として置かれていたのでしょう。ロサンゼルスの住宅にとって唯一の問題は夏の日射です。イームズ・ハウスの住宅棟の南側には深い庇があります。アトリエ棟の南側には庇はありませんが、2階は完全な壁なので直射日光は入りません。日射のことを考えていて、僕は建物の東側に南北に一列に並ぶユーカリの樹が朝日の制御スクリーンではないかと推測しました。イームズ・ハウスの西側は半分埋まっているし、樹もあるので西日の問題はありません。しかし東側はほぼ全面ガラス面なので、夏の朝日はかなりキツイと思われます。なので、ユーカリの樹列のスクリーンをつくったのではないでしょうか。さらに、2階寝室の東窓は半透明のガラスになっているので、朝にはユーカリの葉の揺れる蔭が映り込んでとてもきれいであることも、イームズ夫妻のお洒落な趣味でしょう。

という訳で、イームズ・ハウスの空調設備は極めて軽微であり、気候制御はほとんど建築的に解決されていることが分かります。しかし東京で同じ方法が通用するでしょうか。多分無理でしょう。夏は35度を越え、冬はゼロ度以下にもなり、年間雨量が2500ミリの東京の気候は、ロサンゼルスに比べるとずっと厳しいからです。多分、石山さんは「世田谷村」をイームズ・ハウスに重ね合わせているのだと思いますが、果たしてうまく行くでしょうか。

とりあえず、今日のところはここまでとします。

3月18日(木) 難波和彦

石山先生

難波先生 御許

イームズ邸は3年ほど前に見ましたが、開放的で明るくて、裏がない感じでした。何かの必要であの建物の内部写真を撮りたかったのですが、覗き込むだけでインテリア写真が撮れたことに、奇妙に感心しました。近代の透明性、究極のアカウンタビリティとか。

これはノーマン・フォスターがベルリンのライヒスタ—クにガラス天井をかけて、議会制民主主義に透明性を持ち込むところにまで通じている、近代建築の倫理でしょうか。たしかに東側にあったユーカリの木立が人をホッとさせてくれる存在でした。敷地の広さと、それは関係しているのだと、今気付きました。同じように、それが遮光スクリーンのような役割もはたしているとは気づきませんでした。

敷地の広さの問題は、ソーロウや川合健二邸につながる問題なのでしょう。その点について、今後お教えください。 おなじく、わたくしは、熱環境に関しては関心がなさすぎるのだと反省しています。

しかしながら、むしろ、近代建築以前の暗さについて感じるところがありましたので、それを書かせてください。

数日前、青山にある小さな映画会場を覗いてみたら、「去年マリエンバートで」をやっていたので、ほとんど十数年ぶりに映画館に入ってみました。映画は40年近く昔に見たときの鮮烈な印象そのままに、眼前に展開していきました。出だしの部分のバロック的なホテルの廊下のシーンが、西欧的建築の内部世界を目の前に展開してゆきます。これは、建築映画だったのだなあと、改めて思いました。

そしてその一週間後(昨日なのですが)、赤坂の迎賓館の会議で迎賓館内部を歩き回り、電気の消してある廊下に、日本では珍しい存在感のある(マリエンバート的)空間を感じました。そしてその翌日(つまり、今日)東本願寺の内事所という武田五一の設計した大正12年完成の巨大な西洋館と和風御殿の複合体のなかを歩き回って、ふたたび謎めいたマリエンバート的空間に遭遇しました。

近代は建築を透明にし、建築をエネルギーの体系として整合させ、「環境調整装置」としての建築を生み出しました。しかしその一方で、確固たる存在としての建築内部、その内部に宿る謎としての空間、そういったものを失ってしまった。イームズはその代償を払って何を得たか。健康か、正直か、、、、

石山修武
石山修武研究室
鈴木博之
難波和彦
難波和彦+界工作舎