西葛西駅近くのサイトに六〇〇〇平米程のメディアセンターを新しく設計し、隣地の大団地五万四二〇〇平米の土地に合わせて一万平米程の何がしかを設計させよという課題である。本日九月二十八日サイトを一時間程かけて見学した。私なりの答えを大体得たが、それをここにまだ出すわけにはいかない。
今、思い描いている私なりの解答は平面のアイデアとセクション、そしてサイト全体に四千平米程の機能を分散させるアイデアの基本形である。
この地域に多くのインド人が集り始めた第一の理由は、都心近くの駅から至近距離に安い高層アパートの部屋が多くあったという事につきる。移民(外国人労働者)が先ず第一に考えるであろう事は先ず経済である。今度の課題の対象となっている知的労働者といえども、港区に住居を得る階層の人々とは、ここのインドの人達は異なる。つまり、極めて即物的合理性がこの地域にあるのだ。一種の日常性、生活性を帯びたグローバリゼーションの性格がここにはある。
今日の見学に際して、実に数多くのインド人の姿を見受けた。サリー姿の婦人、小型車に乗るインド人若夫婦、それはカナダのバンクーバーにも見る事が出来る汎世界性でもある。
大ゲサにインド人労働者を考える必要は無い。しかし商業性の枠の外にある、日常生活圏の世界性とでも呼ぶべきが、学生がイメージすべき都市性、空間性、場所性ではないか。
もう少し、具体的に言えば、クリストファー・アレグザンダーの「都市はツリーではない」の論が、参考とすべき思想としては最も適用されてしかるべき、ここはサイトであり、与件であると考えた。
そこ迄考え切れぬ者は、しかし最低限コルビュジェの「輝く都市」批判位からスタートすべきであろう。だから、先ず、最良の類の人材ならば都市生活像の抽象的なイメージ把握をする為のドローイング像の如きからスタートしたらよい。
「都市はツリーではない」の、アレギザンダーの理論を短く要約するに、ある時期に計画された全体像は時間の経過に耐えられぬ(必ず失敗する)というものである。つまり近代主義的な計画の概念は有効ではないというものだ。
ただし、この考えを作図するのはかなり高度な知的作業とそれに直結した身体性(手でするデザイン)を必要とする。
最近の学生に遠投を試みる人材をほとんど見ない。遠投とは、出来るか出来ないか不可知の未来に、できる限りの理想を思い描く事だ。設計製図とは若い人材のプロジェクトという事だ。その姿形(考えの)を見れば大方その人間の可能性らしきのキャパシティは感じられるものだ。それが設計教育の面白さである。
遠く迄行きそうな人材に出会えたら、できるだけ脚力をきたえさせる。それが教育だろう。近場でウロウロする人材には、余り無理をするな、程々の人生の方が俗っポクはあるが幸せだよと、アドヴァイスするのが良い。
早大建築学科三年設計製図課題後期第一課題に取り組む設計コース総勢は八〇名。昨年よりほぼ二〇名減量した。それでも全員の顔と、それぞれの個性を把握できるのはこの課題の修了間際になるだろう。学科の人数が多いのは私学の宿命だ。文句言わずにやるしかない。しかし、東大は全員で六〇名だから設計製図の先生方は完全に一人一人の才質能力を把握できるだろうと思うと実にうらやましい。
安藤忠雄さんから、「六〇名全員の話しを聞くのはホンマ大変やで」と度々聞いていたから、大体東大では設計、デザインに眼を向けている学生の数は二〇名にも満たないのではないか、と余計な目星はつけていた。東大建築は実に民主的なところで、クリティークは六〇名全員にしているそうだ。早稲田の三年製図のクリティークは二〇名程度。ほぼ良しとした者のクリティークしかしない。それでも、四、五時間の時間がかかる。覚悟して全員やったら四〇時間かかるだろうし、これは学生も多大なエネルギーを浪費するばかりだろう。
ちなみに、私の早大建築学生の頃はクリティークは一切無かった。AとかCとかの点が製図用紙につけられて返却されるだけであった。私が母校で教えるようになってやった改革は、先ず池原義郎教授、穂積信夫教授にクリティーク(講評)だけはやらなくては、やりたいと申し出る事であった。ほぼ二〇年の昔の事である。それ以前の吉阪隆正教授、武基雄教授の頃はキチンとしたクリティークは無かったのではないか。吉阪隆正教授は登山と旅に明け暮れていたから、学生達の憧憬の的であったが、キャンパスに姿を見る事が稀であった。吉阪教授は四年生にならぬと直接指導して貰えなかった。私も大学へはあんまり顔を出さぬ学生であったが、妙に設計製図と演習はさぼらずに、ほぼ出席はしなかったが、提出はキチンとしてのけた。
まだ記憶しているが、古谷誠章教授の先生であった穂積教授の課題の採点はC、入江正之教授の先生である池原教授の課題はBであった。しかし、あと二課題は誰の出題であったか忘れたがA+とAであったと記憶している。AとCの間を揺れ動いていた。ただ、私は点には当時から、あんまりこだわらなかった。先生は先生で俺は俺だと、マア、傲慢というか、鈍感な学生であった。
ただ、その頃は先輩、後輩のつながりが濃くて、私は良く先輩方から声を掛けていただいた。穂積教授から喰らったCは、手抜きのCではなかった。図面はたっぷり描いた。設計事務所を設計しなさいという課題で、私はスタッフの作業部屋を全て小さな個室にして、しかも標準化した箱にした。そして、矢板状の鉄板を地面にたたき込んで、その箱を十数個プラグインした。ミーティングルームと所長室は別にもう少し広い空間を用意した。全体のプランの形状は飛行機が羽をのばしたようなものであった。自信満々であった。クリティークが無いから製図が返却されている製図室の片隅(当時の製図室は今の図書館のある、元安部球場のかたわらの木造二階建の校舎にあった)にウズ高く積まれてあった。私のモノはそのウズ高い最下部にあったらしく、らしくではなくCは最低点であったから当然一番下に置かれていたようだ。ようだ、と言うのは、こちらは当然Aだと確信していたので、製図室に堂々と出掛けたのであった。
積み重ねられた製図の山から一つ外れたところに置かれたモノが一点あった。赤くしっかりとCとつけられていた。穂積教授としても、確信的なC、これは間違いだと考えられたのだった。しかし、もっと大きな字で、イヤ違うコレはAだと書かれていた。先輩の何がしかが書き込んだものであった。私は、そうか穂積教授は全くワカンネェー人だ、やっぱり先輩はえらい、あいつらは偉大だと思い込んだ。それから、私はほとんど学校には出ず、その先輩達がたむろしていたアトリエに入りびたりになった。人生の岐路であったのかも知れない。
又、当時のTAは皆歳を取っていて、早稲田には二理という夜間の学科があって、彼等は何故か皆老成していた。黒川紀章の初期のプロジェクト、カプセル共同住宅等を実際にデザインしていたのは彼等であった。彼等はTAとして、実にホメ上手であった。ホメる天才であった。例えば象設計集団の一員でもある丸山欣也さんは私の汚らしいパースを見て、「凄いね、君の絵は紫に見えるよ。コルビュジェのパースがそうなんだ」なんて、見てきたような嘘を言うのだった。私は当然この人も人を見る眼があると感じる事にしたのだった。つまり、製図教育はいかに芽を大事に育てるか、つぶさぬようにするかに尽きるのである。
私はうぬぼれが強い男であったから、そこをうまく先輩達が自然に大事にしてくれたのである。先生方は皆距離が遠くて、そこ迄は見てくれなかった。だから、私はTAの役割を非常に重視するのだ。学生は身近なTAの言葉によって実に右往左往するのを知るからだ。
昨年の、この課題に際して私はTAが直接学生を指導する事を禁じた。何故ならTAの設計の力量と学部三年の力量が同じ、時にはそれに劣るのを知っていたから。しかし、TAはTAという制度上の立場から学部生には優位に立ってしまう。いいですか、昔のTAはキチンと歳を取って社会体験すら豊富であった。今は、自動的に学年が上だからTAになる。このシステムは良くない。それで今年はTA全員に学生と同じ課題に取り組むように要請した。昨夜は二名のTAがキチンとその要請に応えた。彼等だってたかが院生なんだから、勉強になるに決まっているのである。TAのプレゼンはマアマアのものであった、それに対するに充分な学部生のプレゼンが四点あった。TAには無いモノ、才質もあったように思う。TA二名は、それを感じ取った方が良い。君達もハードに勉強できるのだから。提出しなかったTAがどうやら石山研所属のTAでもあるようで、困ったものだ。
昨日の二〇グループ程の発表を見聞きして、私は私なりに幾つかの才質の島を想定した。一,自主的想像力の島 二,社会性への感受の島 三,ごくごく健全な市民派の島 四,何しろ背のび派の島である。今のところ、4つのカテゴリーに分類して、それぞれに指導してゆく積もりである。たかが一ヶ月半だ力を尽さなければ、こちらも生きてる甲斐もない。マ、学生達もたまには本当に変なオッサンに出会うのも良い体験になるだろう。
端的に言えば、非常勤の講師の先生方、及び助教の先生方が、昔のTA(若き丸山欣也先生がやっていた)の役割だと私は考える。つまり、私はあんまり人を(特に一見平凡に見える人を)誉めるのが上手な人間ではないから、助教と講師の先生方は私がクリティーク出来ない人材を集中して見て貰えれば良い。五組位のグループは私がやった方が良いと思うのだがどうだろうか。先生方の意見を聞きたい。
言葉を吐きながら、同時に手を動かす。要するに、スケッチをすると良い。一人言をつぶやきながらスケッチするのが我ながら不気味な人は(普通は人前でやるものではない、やはり不気味なものだから)スケッチブックの一枚毎に何を描こうとしているのかの主題を右上に書き込んでからエスキス・スケッチしたら良い。無意識に描いている線にそれ程価値があるものではない。
その時、右上に書き込む言葉の質が決定的な意味=価値を持つ。何を描こうとしているかをそれは表現する筈だから。
例えば、私は先程あるプロジェクトのエスキス・スケッチをしていた。私は学生ではないのでペーパーの右上に言葉やらは書かない。何をスケッチしながら求めているのかをほぼ知るからだ。しかし、描いているモノが何であるかを、かなり熱心に言語化しようと、同時にしている。無意識に描く時間をなるべく少なくしたいからである。
三人の共同設計では、(リサーチは別だけれど)議論をする時には必ず何らかのスケッチを持ち寄って論を戦わせた方が良い。時に言葉は言葉としてだけ宙を漂い、リアルなモノ、リアルなイメージの世界と遊離しやすい性格をも持つ。
批評は言語を使うしかあり得ようもないが、デザインは言語で枠付けられる論理を時に超えてゆく自由を持つ。仲々、言語ではその良さを言い表わされないのだけれど、不思議な力があったり、人の心を動かしたりするきっかけになったりするものだ。しかし、それによりかかり過ぎても良くない。キチンといつでもできるだけ説明できるようにするのは民主主義の鉄則でもある。そんなキレイ事ではなく、説明し尽そうとする情熱も又、デザイン自体をふくらませてくれるものだ。
スケッチの量は、その人の才能の量をそのまんま表わすものである。下手なスケッチでも五〇点する人は十点しかしない人よりも歴然として上なのだ。良く言葉を使う人はデザインも沢山するし、少しづつ内実がついてゆくものでもある。何しろ、良く言葉を留め込み、吐き出し、手を動かし続ける事。手で表現できなかったら模型をつくる事。作った模型が良くなかったら、すぐ壊して次に進む事。つまらぬ模型を捨てられぬのは愚の骨頂である。模型は考える道具でもある。
西葛西のサイトを使った課題のようなスケール(広がり)があると、どうしても学生諸君それぞれの思考の広がりが先ずは問題になってくる。敢えて名は記さぬが女性の学生が民族の壁、民族の島、民族が必然的にかつ自発的にイメージしてしまうコミュニティの問題について、第一回のプレゼンテーションでも言及していたが、それは建築学生としては仲々の考え方であったように思う。しかし、インド人知的労働者の街、都市をイメージせよと問われて、それを第一の主題にするのはどうだろうか。
ベルリンの壁の崩壊に象徴される如くに政治的な、あるいは共同体の意志の表現、その道具としての壁は、実は余りにも直裁過ぎて、どうやら未来に開かれてはいない(この言い方は甘い)。
しかし、あの女学生のグループが描いていたドローイングは、そのイデオロギー的な言説とは別種の、もっと柔らかいイメージが描かれていたのである。ドローイングは稚拙な言説を時に超えるのだ。
アレギザンダーは結局、彼の理論を見事に実現する事が出来なかった。まだ存命なので何か奇跡のような事が起こる可能性が無いわけではないが、彼が残したモノは書物が主である。きっとアレギザンダーはあんまりドローイングをしなかったんだろうな。エスキス・スケッチの連続を馬鹿馬鹿しいと思ってしまうような頭脳の構造だったのではないか。
明晰な言説を吐ける人程沢山なドローイングをしなさい。
課題のサイトを訪ねた帰りがけ、西葛西駅のエスカレーターに乗ろうと思って、フッと何気なく振り返ったら、課題対象のあの団地の一角が道路のゆき止まりに、程よい距離で切り通しの向うに書き割りの如くに眺められていて、いいなと思った。
スペイン・バスク地方の工業都市ビルバオを訪ねた時、くすんだ石の重い街路の向こうに、同じようにビルバオ・グッゲンハイム美術館が、金属の生体の如くに視えたのを思い出した。
こんなささいな事だって設計の手掛かりになるんだよ。だって、考えてもみてごらんなさい。インド人であろうとなかろうと、勤め帰りの夕暮、あるいは夜中、帰るべき部屋のある団地の一角が見事に書き割りの如くに、大げさでもなく、さり気なさ過ぎる事もなく、キチンとしたスケールで街路のアイストップとしてデザインされていたら、家に帰る人にとっては素敵ではなかろうか。
そんな、ささいなアイデアを発展させて、団地の何カ所かにささやかな、アイストップとしての何がしかを配置してみるのはどうだろう。その造形が問題になるだろうが、それは学生諸君の趣味趣向が反映されるだろうから、自分で考えるしか無い。
ここ迄書けばビルバオの造形や、パピーの如きオブジェクトはもう描けなくなる筈だ。あれはヨーロッパの都市、石造の建築群につくられた街路があって初めて成立した造形なのだ。
何故なら、ビルバオの街並みと、西葛西の町並み、街路の持つ重力の如きはまるで別世界のものだから。西葛西の町並みの街路の風景の、何と言おうか、決してどんな日曜画家でさえイーゼルを立てようとはしないだろう、無意味さ、ただただ小さな商業的欲望で作られている街路の風景の先に、君たちに求められている、何かの風景らしきをデザインしてもらいたいのだ。
こんな風に書くと、四〇〇〇平米が許容されている団地内の散在的建築のアイデアをすすめている様に受け止めるかも知れないが、それは違う。ささいなアイデアの一つに過ぎない。こんな小さなアイデアらしきが幾つも重なり、組み合わされて総合的な設計になってゆくのです。一つのアイデアだけで走らぬように、それは愚かな事です。
要求されている規模六〇〇〇平米のメディア・センターの設計はそのスケールを先ず把握しなさい。スケールアウトなアイデアに逃げないように。
一時間、メディア・センターの設計(エスキス)に集中したら、次の一時間は団地内のエスキスに、あるいは他のアイデア作りに集中したらいい。ズルズルと無為な時間を過すのは全くの無駄です。アイデア作りに集中できるのは、私の場合は長くて一時間です。次の一時間は別の事を考える。その連続を三日間くらい続ける。それで駄目なら、一日休んで講評会に出て、他の学生がどんな事を考えているかに耳を澄まし、目をこらす。そんな生活を一ヶ月続けてごらんなさい。諸君は生れ変ったように建築設計が実に面白い、遊びの中の遊びであるのを知るでしょう。
構造について。メディアセンターの建築のスケールは小さなものだ。構造的に無理をしたり、大胆なアイデアを適用すべきではないと思うが、常識を働かせて無理のない構造を考えたら良い。建築に方向性(軸性)を持たせたいと考えたら、格子状のラーメン構造は避けたら良い。軸の方向に並行した壁状の構造が自然に生まれてくるだろう。無方向性(軸の無い)建築をイメージするならば、構造も必然的に無方向な形式になるだろう。平面形が自然に構造の形式を導き出すのである。
公共建築は必然的に省エネルギーを目指す。小さなメディアセンターにエスカレーターは必要か否か、位はチェックしなさい。商業建築ではないからね。電気代は市民の税金でまかなわれるのだ。つまり、君達が支払うのだ。しかし、健常者ばかりではなく、障害者、高齢者、年少者のための動線は配慮するべきでしょう。大きなVOID空間、吹き抜けに頼らないで、良い空間を作る工夫はないかと考えてみるのも面白いだろう。
どうしても、大きな空間を作りたい人は、それはそれで良いから、それをどんな風に、何処に作るのかの作戦を立てられたし。建築の内部ばかりに空間があれば良いというものではない。個体としての立体を作る事によっても外部に空間らしきを作り出す事は可能である。誰かそんなやり方を試みたら良い。
団地内のサイトも、メディアセンターのサイトも必然的にそれを求められている様な気がするな。
十月三日第二回の製図指導に際し十五分程度のミニレクチャーをした。東大の都市史教授伊藤毅先生のグリッド論、建築史教授鈴木博之先生から示嗟を受けて、いささか深く成程ねと考えていた、ニューヨーク市に現れたグリッドとミース・ファン・デル・ローエのシーグラムビルのスタイルに深く共有されているかに視える都市の歴史。それを鈴木博之は地霊と呼ぶのだが。大方の人間は現代都市に地霊なんてあるのかねと、上滑りの考え方しかしないのだけれど、私は伊藤、鈴木両氏より二度にわたり放しを聞いて、ようやく理解できた。二〇世紀はオフィスビルの時代であった。その建築表現形式の最高峰がシーグラムビルであることは論を待たぬ。つまりシーグラムビルは寡黙であったミースが、古きヨーロッパから新世界アメリカに渡り、それ故新鮮な感性でニューヨークを体験して得た、都市への私的全体性(鈴木氏の造語)、つまりニューヨークの総合的歴史、詩的直観としてのゲニウス・ロキの存在の表現であったのだ。ミース・ファン・デル・ローエは母国ドイツでは良い建築を残していない。アメリカやスペイン(バルセロナ)に名品を残した。それはミースの奥深い処での感性が揺り動かされたからだろう。つまり、気持が新鮮でフレキシブルな状態になっていたからだ。誰だって住み慣れた街から離れれば感性は開放されるものだ。
十五分のショートレクチャーではニューヨークのマスタープランの格子、シーグラムビルのエレベーションの格子を並べた映像だけを見せた。残念ながら学生達の反応はほとんど無かったように感じた。それ位の事は解る。学生に「時代の空気は当然感受している筈だ。それが君たちの特権なのだから」と述べた事は、実はそのまま私にも向けられている。話している場の学生の空気位は読めなければならない。
学生の大半は私の話しに殆ど反応しなかった。私は私の新鮮な驚きを話したのだけれど、それは学生と共有するものにはならなかった。このケースは明らかに私の間違いだった。話しの方法をミスったのと、やはり三年生に感受せよと期待する方が無理だったのである、と反省。もう少し愚直に話す力を得なければならない。私の大半の話しは学生に伝わっていない恐れが充二分にある。
と、反省はしているものの、実は一人か二人くらいの気持の奥底を密かに震わせているかも知れぬ、とは期待しているのだ。コミュニケーションの最奥部の一つは感性の共振にあるから。
私がニューヨークの格子とミースファンデルローエのシーグラムビルのアナロジー(深層の模倣)の話しを、新宿の安台湾料理屋で聞いた時の話し手は鈴木教授、話され手、つまり学生は私と中国人社会随一の建築家李祖原の二人であった。李祖原は鈴木に執拗にゲニウス・ロキ、しかも巨大都市のそれの存在の有無の論拠を問うた。非常に真剣であった。
李祖原の家族は中国大陸から台湾に移り、今、再び彼は中国大陸で仕事をしている。北京オリンピック会場に面して巨大建築をすでに成就した李にとって、鈴木の言う地霊の存在の有無の論拠は非常に重大な問題であったのだ。
鈴木だって余りの李の真剣さのプレスに押されての詩的直観の吐露であったのかも知れない。彼が描いたニューヨークの格子とシーグラムビルの格子の図形を、李は北京に持ち帰ったが、それを観想しながら次作の構想を練っているかも知れないのである。
建築は面白い。底知れず面白い。しかし、その面白さを感受するのにはいささかの経験が必要でもある。李だって、私だって三〇代の時にこんな話しを聞いたって、何をバカなと思っただけであっただろう。鈴木だって、あんなに上手く話せなかったと思う。それを二〇代の若者に話した方が実は浅はかであった
そんな事は学生には話せなかったが、李のような大きな建築家が、ニューヨーク=シーグラムビル=地霊論にドスンと反応したという事が先ずは大事なのだ。
人の話しを聞くときは己れを空にしておいた方が良い。一言二言の中に原理原則を垣間見る事がある。
早大建築三年生のいくたりかは、このネット上のレクチャーというか、設計の手掛かりというべきを読み始めてはいるようだ。しかし、言葉でのヒントは仲々、設計製図迄落とし込むのが難しいのを痛感する。
リサーチ(初歩的な感じ方のレベルの)をチョコリとして、得々としゃべり、何のスケッチ、模型の進行も無いという堂々巡りが、もうだいぶ続いてしまっている。スピーチするのが設計ではない。説明する能力は大事だけれど、その基になる設計自体が空虚では、どうにもならないのだ。設計=デザインがあって、そして説明能力。説明お話しだけならそこらの無能な政治家とかわりがないじゃないか。
先ず若い先生方とキチンと相談してみよう。今のまんまではどうにもならない。システムを変える。大体、学生諸君も我々が製図の採点をする時に、君達の説明、お話しを聞きながら採点をするわけじゃない、という当り前の現実を直視すべきだ。
全員平等に発表させるというシステムが良くないのではないか。八〇名ならば全員見れるのは見れるのだが、指導も又、全員平等、機会均一、全品品薄に落ち入るのは眼に視えている。これでは、のびる可能性がある者の芽をつぶしてしまう。のびる可能性をとるか、底上げをとるか、その双方をするのは私には難しい。先生も複数いるのだから、キチンと役割分担をした方が良いのではないか。
次回の製図の指導は、三〇分前に製作物を全て何らかの形式で展示して、先生方がそれを全て見て廻り、私は私の考え方で数点を選び、それに関して密度の濃い指導、設計そのものの指導をする。他の先生も何点かを選び、そうする。選ばれなかったモノは何故選ばれなかったかの説明だけをする。そんな方法はどうかな。
設計には色々な径がある。個人の異能を生かす径。これは芸術的才質であるにせよ、実務的総合力であるにせよ、着実な市民生活の直視能力であるにせよ、学生一人一人が本来皆異なるのである。その全てを均等に眼配りして、進ませる教師は何処にも居る筈がない。先生にだって、それぞれの個性、才質のちがいがある。歴然としてある。
これを多様性と言う。一見均質に視えても、先生も学生もそれぞれに皆異なる性向、才質を持つ。それを誤ると擬似民主主義的教育になる。つまりサークル的状態に落ち入る。
設計製図は実は数学的才質と同様に能力の差異が明快に出てしまうフィールドなのだ。優劣ではない(それもある)。違う問題の解き方がある。教師として最善を尽くそうとするならば、私は私の方法を学生に開示するしかできない。それに不向きな学生は他の先生にお任せするしかないのである。
今度の課題は早稲田建築内だけのものではない。東大建築との共通課題である。将来は国際的な共通課題が実施されるようになるだろう。だからこそ多様な、しかも地力のある人材を育てなくてはならない。今のやり方は、修正が必要である。昨年に近い方法に戻そう。と先生方に先ず提案する。
地力というのは、キャパシティー。思考の体力とでも呼ぶべきもの。古くは情熱と呼んだ。もっと平明に言うならば、設計・デザインが楽しい事、好きな事である。あんまり、それが感じられないのだ。
設計は何処で行うのか?製図室か自宅の机か、パソコンのフレームの中か。一体どこで行うべきものなのかのヒントを。
小さなメモ帖を常にポケットにひそませておく事。アイデア、らしきはいつ、何処で発生するか全く解らないものだ。そして、アイデアなんて生まれたためしがネェーよ、ないわよ、なんて決して言うなかれ。アイデアは誰でも、ほとんど平等にチカチカと発生しているもの、そんな類の極めて平凡な、そこらにゴロゴロ転がっている、日常的なものなのだ。
それを、アッ、コレはアイデアかも知れぬと感知するのはその一瞬を記録する能力である。これは実に誰にでも出来ることなのだ。アイデアは生まれても、すぐに去る。アッという間に去って、忘れてしまうものだ。記録する努力をする者がそれを記憶にとどめて、うまく編集する。
アイデアは作るものではなくって、編集するものなのだ。眼の当たりにしている現実、教師のわけの解らない発言、自分で何も考えられないと思っているのだけれど、実は、刻々と考えている、その刻々を、何しろ記録しなさい。
言葉で記録しやすい者は言葉で、図形で記録しやすい者は図形で、毎日、毎日、一刻一刻を時を惜しんで記録しなさい。
言葉で記録しやすい者はそれを次に図形にする努力をしなさい。図形で記録しやすい者は次にすぐそれを言葉にする努力をしなさい。一ヶ月、それを続けてごらん。君の頭脳細胞には沢山のアイデアが記録されて残るから。次には、もっと容易に記録できるようになるのは一目瞭然なのだ。
アイデアは記憶、記録の編集作業から構成される様々な微細な部分の集合なんだよ。何しろ、メモしなさい。記録しなさい。エスキスブックを沢山つぶしなさい。小さな手帖を積み重ねなさい。
歩いている時に、アイデアらしきがまとまる事が私の場合は多い。あるいは電車の中とかね。それで、考えたい時には山の手線を一周してしまう事もある。
ルイス・カーンは言った。走っていない車はアグリー(美しくないもの)である。だから駐車場を都市の陸上交通のチェンジングポイントとして考え、壮大なスケールの車のPORTのイメージをフィラデルフィア計画として描いた。駐車場をモニュメンタルな巨大な造形として提案したのだ。詩的な建築のイメージが横溢する風景を、紙上ではあったが我々は見て、心震えたものだ。
このような詩的イメージは得てしてフィールド、場所の壮大さによる事が多い。フィラデルフィア計画と西葛西計画では大分スケールが異なる。与えられた場所のスケールは実に日常的でコンパクトなスケールである。そこを間違えてしまうと、詩的イメージがただのアナクロなものになりかねない。昨年の合同課題の土地であった調布駅前広場のスケールとも異なることを学生は考えるようにしたい。スケールアウトの詩はここでは唄い上げる事が困難なのだ。
ここで求められているのは、あくまでも日常生活、前に述べた日常生活のグローバリズムの中に、それでもあるかも知れぬ詩であろうか。駐車場の設計に日常的な詩を描くというのは大変な事ではあろうが、誰か取り組んでみたら良い。意外に手つかずのフィールドであるかも知れないぞ。
日常的なクッキングをテーマにしようとしたものがあったが、それを外国人料理教室、あるいは小さな菜園と短絡させずに、駐車場と結びつける考えもあるだろう。何故なら、走っていない車は意味の無いモノであるけれど、車の駐車していない駐車場も又、グロテスクなものでしかない場所だから。駐車場に時に発生する空白を、合理的にコントロール出来て、それをより良い生活の場として使えるようなシステム、及び簡単なシェルター等を設計してみせるなんてのは、かなり高度なレベルの思考法だと思うのだけれど、どうか。
駐車場の事が忘れられているWORKが余りにも多いので、注意をうながしたい。メディアセンターにも団地内にも美しい駐車場を作ろうとするのは、極めて現代的な姿勢だと思う。それに、現代建築、あるいは現代都市計画、地域計画で見事な駐車システムが設計されている例をいまだ見た事がない。若い優秀な諸君は試みたらいい。
私のような教師との対応の仕方
「製図に対する取組み方の、気持そのものがなってない。」
ペラペラな、十分位で、間に合わせに作ってきたような模型を前に、私は怒っている。しかし、作者の学生達は顔に薄ら笑いを浮かべて、立っているだけだ。感情を全く抜きにして私は言う。
「笑うな」
まだ笑っている。再び言う。
「笑うな」
小さな声が返ってくる。
「笑ってません」
明らかに、彼等の顔には薄ら笑いが浮かんでいる。このコミュニケーションが設計製図のある種の学生達との縮図である。あるいは、
「これは全然駄目だよ。やり直したら」
の指摘に、
「何処が、どういけないのでしょうか」
と問い返さないで(こちらは、それを当然前提にしている)、ただ、ただ、ふてくされて、幼稚極る思い付きを繰り返し述べる。全く、くり返し述べる価値なんて、ツメのアカ程も無いのに。本能的に知るのは、彼等はあんまり叱られる、怒られるという体験を持たずに育ち、大学生に迄なってしまったらしいという事である。
いつも、良い処なんて、あんまり無いかも知れぬのに、先生や両親、あるいは友人達に、「カワイイ」とか「マジかよ、それって、ハマってる」くらいの会話で、これ迄やってきたのに違いないのだ。はっきり、叱っているのに、薄ら笑いを続ける学生に、私は「笑うな」と言い、彼等は「笑っていません」と笑いながら言う。では、その薄ら笑いの正体は何なのか。恥かしがっているのではあるまい。恥の意識があれば、こんな模型をノコノコ提出するわけもない。照れているのでもない。照れ笑いは卑屈さの変形したものか、幼稚なナルシシズムの表われかのどちらかであろうが、あの薄ら笑いは、明らかに別のところからやってきている。「コミュニケーション恐怖症」の如き、からやってきているのではあるまいか。
設計製図の世話をし続けて気付くのは単純極る本質である。一昔前は何人かの教師が一対一で机を並べて、かなりリアルな、しかし今から思えば密度は薄い指導をしていた。すると、先に述べた如くの薄ら笑い派と、ふてくされ派は、グルグルと先生方の巡礼を開始する。誰かが「イイヨ」といってくれるのを待ちながら、幼稚極る固い自我の巡礼を開始する。だから、どうでも良くって、マア、イインじゃない、と言う先生の机は大繁盛という事になった。戦後民主主義の良くないところだろう。標準を最低の方の焦点に絞ろうとする。だから最高が出て来ない。異質も、それ故に本格的多様の風景が出現しないままだ。「最高ッす」なんてのは、プロ野球選手のキッチュ極る決め言葉になってしまって、本当に最高な、つまり個人として、しっかり自立しようと努力している若い人材には、あまり出会う事も無くなってしまった。我々、教育者の責任も極めて重大なのである。
下らないものを誉める、親切なように見える努力も必要だが、悪いものを「悪い」と叱る事も、もっと大切だ。しかし、実はコレは大変な勇気が必要なのだ。ホメるのは楽なんだ。この戦後民主主義教育の決算とも呼ぶべきは、今度の課題、インド人知的労働者を考えの対象として想定し得る、メディアセンター、及び集合住宅の再生的計画、という課題自体との極めて奥底での問題なのではあるまいか。イスラムとは又異なるインド亜大陸の近代化によって生じた知的労働者、彼等の母国は深くイギリスによって(一部フランスにも)、植民地化された。ネール元首相のインド論は苦渋に満ちたその状況を冷徹に見据える。驚く程の知性に溢れたものである。
アイヌや沖縄民族という他者としての異民族はいるにせよ、我々は言語的=文化的にはゆるい(今ではぬるいと言うらしい)サークル的なコミュニケーションの歴史の中に居続けた事も確かで、薄ら笑いと、ふてくされ、没交渉はその歴史としての結果でもある。彼等には圧倒的な他者として、イスラムの如くに対してみようと考える。無駄だろうとは知っているのだが、仕方ない。これも。
気持ちを自由に解放できる人と、自分の我執の中に固く閉じ込もろうとする人。設計製図の指導を集中的に続けていると、その違いが先ず際立ってくる。正確に述べれば、こちらに伝わってくる。
難かしいものではない。ただ面白いのは、サイトを検索してその情報を組み合わせて、自分の考えとして表現するといった事が、それ程簡単にはできない。ある程度迄作業に時間をかけてくると、製図の紙面に作者の人格、品格、歴史(どういうしつけを両親から受けてきたか、否かというような事)までが、露出して視えてくるものです。
恐いのは、すでに大学生になって形成されつつある人格は簡単には変えられない事。いくら幼児退行性の群になっているとは言え、もうそれぞれに一人前の人格らしきは形作られていて、それをデザインし直す、製図の用語で言い直せば、リノベーション(再生)するのは、それ程に容易な事ではない。
昨日、二〇〇八年十月十四日の夕方からの設計製図で一人の女性を中心としたグループの設計製図を見ながら、そんな事を痛感しました。もう、何回目かになるエスキスを見て、その成長、発展の仕方に、並々ならぬものを感じたからです。そのグループの製図は会う度毎にジワリ、ジワリと変化、成長しているのです。テイスト(趣向)の一貫性はある。指導される通りに全てを受け容れているばかりではなく、自分達の等身大のアイデアも附加しながら、実に自在に振舞っている。そんな感じのエスキスでした。
頭一つ抜け出したなと思いました。設計製図はドングリの背比べ状態ではどうにもならない。やはり、スーッと抜け出て、その自由自在さ、持続力、受容力そのもの、つまり流行の言葉で言えばライフスタイルの小宇宙そのものが、他の人間にとってのモデル(雛形)になるようなものが必要です。
グループ設計であればある程に、個人の顔、才質が浮き彫りになるのだなあとも思います。このグループは一人の女性の趣向(趣味)の良さを中心に据えて、上手にその才質を生かしながら、しかも、自由にやっていました。
考えても御覧なさい。それが、近未来の我々の社会のモデルではありませんか。男性中心の社会はすでに固まって、我執の中に崩壊し始めている。女性の趣味(趣向)に目を向ける必要があるのです。男性ばかりでなく女性も。この課題で注意しなければならぬのは、インド人知的労働者との共生が一見主題として表に掲げられている事です。
でも、インド人労働者との共生なんて簡単に計画の形式にまで落し込む事は出来ない。しかし、その主題らしきを自分達の身の廻りの、それこそ学習環境をじっくり観察しながら考え進めてみたら、そうか、これは女性と社会の問題でもあるなと、直観できるでしょう。
このグループには瑞々しい女性の趣味・趣向が横溢している。だから、ここまで来れば、グループにはそれこそアレギザンダーが提起した方法や、技術世界の問題までも、少しづつ注入できるかも知れないと感じました。これは間違いかも知れない。買いかぶりは、誰だって、何時だってあるものです。しかし、良質の買いかぶりこそ、設計製図の指導法の極意だろうと、それも又、確信している。もっと、買いかぶらせてもらいたい。
どうして、こんなに歩みが遅いんだろうね、と若い先生に尋ねたら、いかにも当世風の答えが帰ってきた。「誰もそれ程建築に熱中してないし、出来ないからです。だから、そんなに製図に時間なんて割けない」まあ、そりゃそうだろう、それ位の事は私にだって解っている。
でも、設計製図を一生懸命頑張ったって、その先どうなるの、個性的な建築を作れる可能性なんて限り無くゼロに近いのに。設計製図の先に理想的な職が待っているとも思えないし・・・。
そんな幼いつぶやきも聴こえるような気もする。すぐに間近で。
設計製図の面白さは、その類の世間の常識にまみれるモノに対面する事と、同時に、そんな常識に埋没しないかも知れぬ才質らしきに時に出会う事、それが同時に起きる面白さでもある。次第に論調が設計製図のヒントというよりも、設計製図指導のヒントになってしまっている。
学生も困っている。未来がそんなに明るく開かれていないのを普通に知るから。教師も困っている、明るくない未来を知りながらそれでも、頑張れよと言い続けたいから。
決して、建築の未来は、今のところ明るくはない。でも、明るくはない未来を持つ時間の歴史はとうとうと繰り返されてもいる。「建築」には昔からそんなに明るい未来は無かったという歴史が在るのだ。
近代建築の時代になったばかりの頃、草創期にそれは一瞬輝いた風にも思えるが、それはあくまで歴史家の想像力の中でそう記述されるだけであって、当事者達、設計製図を続けていた人達にとっては、そんなに明るい未来があったわけではない。実ワ、皆、暗かった。
いきなり、事例を持ち出すが、チャールズ・レニー・マッキントッシュ。イギリスの近代に独自な建築を残した。グラスゴー派の華である。マッキントッシュの日々はこれ、設計製図の連続であったと言う。小さな家具から中位の規模の建築まで、ほとんど全ての設計製図を自分一人で描き抜いた。
好きで描いていたなんてそんな馬鹿な事はあり得ない。イヤな事、明日の暮らしへの不安。人間関係、健康の事。身辺は、それこそことごとく嫌なことばかりだったんじゃなかろうか。マッキントッシュはそれ故に、若くしてアルコール中毒になり、血を吐いて死んでしまった。その人生は決して明るくはなかった。彼の明日は殆ど絶望に近い程に目途の無いものでもあった。
でも、しかし、結局それが人間が生きるって言う事の平凡な真実でもある。人生は四苦八苦と言うだろう。生老病死の宿命からは誰も自由じゃない。人間は皆、マッキントッシュなのだ。今の若い人、学生は酒をあんまり飲まぬから、マッキントッシュみたいに血を吐いて死ぬ事もないだろう。楽なもんだ。
明るい未来なんてものは、歴史的にあったためしは一切無い。歴史の現実は常に未来がそれ程あるわけではない。その事の繰り返しだ。馬鹿な言い方を敢えてするけれど、誰もが、日々を設計製図の如くに暮らしているのが、真理なのだ。
つまり、たかだか繰り返しているに過ぎない歴史の中で、どうせ何やったって駄目だろうと頑張らないのも、それでも少し頑張っちゃうのとは大きく眺めれば、それ程大きな違いはない。ドングリの背比べだ。しかし、悲観の海に沈むドングリと少しでも海面に浮かび上がろうとするのとでは、その断面図を想定してみれば、ホンの 1mm 程の違いしかないのだけれど、実ワ、大きな違いがあるのも、本当の事だ。
現実の海からは世界らしきを視る事はない。虚無が視えるだけだ。世界は薄皮一枚、つまり 1mm 浮いた海面上の光の中に在るものだ。
設計製図を一生懸命やるって事は、金もうけの現実の成功の為にやるものではない。設計製図を続けて金持ちになるなんて事は端から、あり得ない。それは学生だって、とうに知っているだろう。
でも、設計製図を一生懸命やると、段々、世界が視えるようになる気分がするものなのだ。四〇年設計製図を続けてきた私が、勝手にそう思っているだけだろうが、この実感は次第に歳を重ねる毎に確かなものに育ってもいる。
設計製図は人格を表してしまうものでもあるよ、と度々偉そうに言うのは、それ故である。
課題の与件として与えられたメディアセンターの延床面積は六千平米である。駐車場の広さを調整可能なようにしておいたほうが賢いだろう。この課題の重要なテーマの一つが車社会にどう対応するかである。メディアセンターのみならず四千平米の増床を求められている団地内の車処理にも頭を使わねばならない。
どうも早稲田建築の学生はメディアセンターの単体デザインに意識が傾いてしまうきらいがあって、度々駐車場の計画はきちんと考えなさいと言っても、仲々耳に入らぬ者が多い。これは単純な欠点である。駐車場がほとんど何も考えられていないアイデアなんてあり得ないと、再び口をすっぱくして言う。
特に、メディアセンターをオブジェクティブな表現主義的造形として考えようとしている者達はキチンと駐車場の問題、他、サービス動線への初歩的気配り位は示してしかるべきだろう。恐らく、これ迄の課題では一度たりとも駐車場の問題、駐輪場の問題は考えた経験も無いのだから、初体験しているわけである。
余りにも当然な事ながら、団地内の増床計画は増床した建築の機能はキチンと説明できなければならない。機能の無い建築なんてあり様が無いのだから。
その機能は当然初歩的なリサーチから導き出される必要がある。場所の特性、周辺の既存都市機能は把握しなくてはならぬ。それに附加し得る機能を考える必要がある。これは飛び跳ねる必要は全く無い。極く々く当り前な普通の機能が良い。
中間発表ではそれ位がキチンと述べられれば、それで良いのだ。又、それが述べられねば中間発表の意味も無い。それから、何かとんでも無い形を考えている者は、それが無いと、ただの表現馬鹿になってしまうのは歴然としているから、何か他人と違う事してやろうとウズウズしている者はそれを先ずクリアーする必要がある。他人と違う事をやるって事は、それだけ余分なエネルギーとリスクを背負い込むくらいの常識は身につけておいた方が良い。本能的に!それが無い者は普通にやったら良いのだ。普通で充分なのだ。
典型的に普通で充分な者達が、飛び跳ねると、見苦しい状態が出現してしまう。一昔前の木下サーカス状態と呼べば良いのか、あるいは何のフェンスもオリも無いサファリ・パーク状態というか。空中ブランコから芸人は落ちるは、観客は獣に飛びかかられて血まみれになるばかりの、無惨な幼児的自己主張状態というか、ただのエゴを露出してしまう状態が出現してしまう。実は、指導教師としてはそれが一番恐ろしい。
飛び跳ねて芸を見せるのは二、三で良い。残りは地味にやってもらいたい。
「問われて、あるいは念入りに尋ねられて、解らない事は解らないからと、キチンと断って必らず尋ね返す事」
とり敢えず解ったような振りをする人間が余りにも多過ぎる。
「このアイデアは、現実にあるこの団地計画、これは仲々悪くない計画だよ。公団の設計者も相当に緻密に頑張っていたんだ。日照も、団地内都市空間も、決してベストでは無いと思うけれど、でもキチンと段階的漸次的努力が積み重ねられているのが、良く解る。だから、君の思い付きのアイデアを展開するよりも、この現実に在る団地計画自体を生かしながら、そのエキスを延長してゆくというアイデア、つまり幼い君のオリジナルアイデアを展開するよりも、自分の思い付きを殺してでも、この、今、ここに在る歴史の積み重ねの現実をエクステンドしてゆこうという考えは、とてもすぐれているんだ。解るよね」
「ハイ、解りました」
「だから、この団地計画、マスタープラン他の工夫の歴史それ自体をリサーチしてみたら良いのではないかな」
そして、次の製図の時間。このチームの発表はいかにも無惨な結果になってしまう。指摘した事が何も理解されていなかった事だけが、私に痛切に伝わってきてしまう。
「何やってるんだ。何も解ってないじゃないか。ハイ、解りましたって、何を解っていたんですか」
かくの如きやり取りは、教師としての私の側にも大きな問題があるのは歴然としている。私は、学生が当然、私が端的に指摘した事位は理解したものとして話しをすすめてしまっている。もしかしたら、ここ迄言っても理解できてないのかも知れない、という当り前な考えが完全に抜け落ちてしまっている。考えの伝え方に難があったのか、解らないでいる事を解らなかった受け手の方に問題があったのか。
その両方であるだろう。
この辺りの按配の塩加減というか、解ったかな、解んネェだろうなの想像力の働かせ方が、その間合いの取り方だけが、マア取り敢えず、早稲田建築の中間層クラスの学生とのコミュニケーションの困難なところである。設計製図は学生間の格差を露出しやすい種目でもある。
しかしである、設計製図は最終的には図形でのコミュニケーションになる。先程の会話は勿論、途中経過でのやり取りである。つまり、考え方のプロセスそのものを問うている。要するに図形を使用せずに解り合えるレベルの抽象的な思考を問い、又、それに答えようとしているわけだ。当然の事ながら明晰さが要求される。論理的思考のモデルが何処かに想定されていなければならない。思い付きや、あいまいさにゆだねられるイメージの範疇の外の世界なのだ。
だからこそ、問われたら、解らない事は解らないと言える筈だ。それが言えないのは、解らない事よりも、もっとズーッと愚かな事である筈だ。
だから、こそ、この段階でのやり取りは極めて論理的である筈の世界内なのではないか。論理的やり取りは極めて各種スポーツに類似している。身体的才質はとも角、頭で考える世界にそれ程の差はない筈だ。つまり、解らない事は解らないから教えて下さいと申し出れば良いだけの、単純明快な出自がある世界だ。芸術的趣向だの、パッションだの、わけの解らぬ趣向まみれの世界に属してはいない。
だからこそ、この土台は重要である。マア、言ってみれば、デザインという芸事のベースになるべき世界なのだ。だから、他人と少しでも違う事をやりたいという、シンプル極る性向を持つ表現欲のある人間(初歩的学生)は必らず、それをベースにしなくてはならない。自分の過剰さの表現を支えるべきベースが充二分に他より大きいかも知れぬ事を他に知らしめる必要がある。
社会は常に説明を要求する。途方もないアイデアや表現であればある程に、それを要求する。その事も又、早々と本能的に知る必要がある。この<本能的>にというのがクセ者である。ここしばらくお目にかかっていないのだ。
次第に設計製図のヒントが、学生生活の過ごし方の如くになってしまっている。しかし、製図は突きつめるならばその世界に入ってゆきやすい、そうならざるを得ないFIELDであることも確かだ。
設計製図「オタク」らしきは私の学生時代には少なからず居た。面倒臭い哲学らしきを話し、一般の、普通の科目群にはそれ程熱中しない。ところが設計・デザインらしきは仲々にそれなりにクセを発揮して、一目置かれたりする。そういうタイプの人間は明らかに居た。性格は少し暗目で、私みたいにガキっぽい人間にとってみても、この男は将来、あんまり世の中と、世間様とはうまくやっていけるのかしらといぶかしんでしまう様な奴だ。ゴロゴロと多くはなかったけれど確実に存在していた。この手の人は、もう学生時代から、自分はサラリーマンや役人にはなれない、だからならないと決め込んでいて、卒業しても大学院なんかに進学したりの無駄はせずに、暗くジィーッと息をひそめるように、相変わらず一人で考え、一人で製図らしきをやっていた。
私が指導教授から「君の家は裕福かね、ああそうか、裕福じゃない。それでは設計を一人でやろうなんて事はあきらめなさい」と言い放たれたのを、彼等にあてはめて考えてみるに、当然、「そんな愚かな事はやめなさい。早く、大きな会社に務めて、あきらめながら暮しなさい」となった筈であった。
学生時代、私の友人にはそんなタイプの人間が多かったように記憶する。S氏もそうだった。彼はと言えば目一杯暗かった。世間(社会とは言わない)に対して斜に眺めているようなところがあった。
彼は、私の記憶では早稲田近くにあった不思議な学生下宿で暮らしていた。その学生下宿のオーナーはどうやら、早稲田出身の建築家らしかった。記憶が定かでなく、失礼したらお許しいただきたいが、Tという名前であった。私も彼の処に遊びに行って、T氏には紹介された。ミース・ファン・デル・ローエに傾倒しているらしく、描いている図面もその風があった。しかし、部屋には香が炊かれていて、何やら怪しい密教的雰囲気も漂っていたのだった。曼荼羅なんかも見せられたような記憶がある。
密教とミース・ファン・デル・ローエは関係無いんじゃない、と馬鹿ガキの私はSに問うた。T氏に聞くのはガキながら失礼だろうと、世間の常識を働かせたのだ。Sは言った。「そりゃそうだけど、Tさんは学生下宿やって喰ってんだからいいんじゃない」そのミース好きの、しかし、密教もありの、要するに何も無いT氏は後に梵寿綱と名乗って、建築ジャーナリズムに登場した。今、早稲田の大隈講堂近くにある、グロテスクな装飾満載の、ガウディまがいといったら、流石のガウディも横を向くだろう、世間の臭み満々の建築の設計者である。
Tさんはミース信奉者であった筈だが、いつの間にやら大変貌を遂げていたのだ。良くは知らぬが、友人SはTさんに卒業後お世話になっていたらしい。ミースから梵寿綱に大変身したTさんの事は良い。問題は友人のSである。彼は学生下宿をして自身の生活を成り立たせる商人の才は一切無かった。人附き合いも良くないし、第一暗かったから設計の仕事を作る、あるいは、いただく如才無いところも無かったろう。彼が仕事を作る為に営業の愛想笑いをしているところ等は、今でも想像もつかぬ位だから。
ここの、ところなんだろうな。私の指導教授が「君あきらめなさい」と言ってくれたのは、と良く解るのである。友人のSはしばらく前に亡くなった。私は別れの式に出席しなかった。友人の話しによれば、それは残酷な位に貧しく寂しい別れの会であったという。「棺オケにね、『製図の道具を入れてやろう』って、親戚の方が言った時、俺は設計やってて、しまった。と本当に考えたぜ」と、取り敢えずは設計やって、喰えている友人はつぶやいた。
Sも、チャールズ・レーニー・マッキントッシュ族であった(ヒント13参照)。だから、教師としての私は、設計製図に入れこむ、そして、程々にデザインが上手な人材に、言う。あんまり、深入りしない方がいいよって。いい奴程、純な人間程に不幸になるのは目に見えている。
だけど、待っているのも確かなんだな。大金持ちや、二代目じゃなくって、今の御時世そのものの構図の世界を外して自由に設計製図をやり抜く人材を。でも、それは自分のライフスタイルをデザインできないと、不可能だ。
ネット時代の設計製図の学び方についての雑感を。ネット時代、すなわちコンピューターの時代。ウェブサイトの時代である。
このページは広く良く読まれている。どれ位読まれているのかをすぐ知る事が出来るのもネット時代の特色である。設計製図の課題に取り組んでいる学生諸君の総数をはるかに超える読まれ方をしている。それ故に、私の方もそれなりに対応したいと考え始めている。つまり、毎日の、毎時の、毎分の、毎秒の読者への対応法について、考え始めている。
要するに、このページは広い意味での対話になっているのだろうか。不思議な対話である。私は読者数、ヒット数の数字だけを眺めている。変なもので、これを続けていると、その数字の背後に顔の無い無数の人間の影が浮かび上がってくる。そして、その影の群が時に語りかけてくる。
「ヒント16みたいな事を書き続けていたら、そりゃ、君が本当に願っている事とは逆方向に、若い人は行ってしまうんじゃないかな」
「エッ、小さな声で聴こえなかった。もう一度、大きな声で、そう、あたかも肉声を演技して、しゃべってくれないか」
「もともと小さな声の人に、そんな事言ったって、無いものねだりって言うものですよ。ですから私が代役で」
話し相手は、どんどん代わる。それがこの対話の特色でもある。
「私もヒント16については疑問でしたよ。例え話しにチャールズ・レーニー・マッキントッシュを持ち出した頃から、こうなるんじゃないかと心配してました」
「忠告してくれる、そう言うあなたは何者かね」
「君はとうに知っている筈だよ。私が何者であるかを」
「そんな、思わせ振りを言われちゃっても、あなたは今日の五百十三番目の読者です」
「そうであって、そうではない。私は君の、このページの読者だけれど、何故の読者であるかを、君はもう知り抜いている筈だ。そうだろう」
「マアね。株のディーラーみたいに読者数、ヒット数の移り変わりの数字だけを眺めていると、時に恐ろしくなる事は、確かにあるよ」
「そうだろう。私は君の、このページの読者に過ぎないけれど、君がようやく巡り会った読者の中の読者なんだぜ」
「チョッと古い言い方ね、それは。ネット時代とも思えない」
「冗談じゃない。君。そんな俗言吐くんじゃない。お互いに、何より大事な時間っていう奴を支払っているんだから。読者としての私は君のページに時間を割いてしまっているんだ。サラサラと流れる流砂みたいな時間だけれどね」
「読者の中の読者を名乗る君は、だから何者なんだ?」
「私は、建築だよ」
「やっぱりね。そうではないかと思いはしていたけれど、やっぱりそうか」
「私は建築である。それ以外の何者でもない。だからこそ、君のヒントと称する言論には、いささかの危惧を抱いているんだ」
「それは、私も当然ながら気付いていないわけじゃない。だけど、あんまりストレートな物の言い方は好みじゃないんだよ。私は」
「そんな、照れてるような年令じゃないだろう。それに、今は私は姿を消しつつあるんだ。私、建築がね」
「それが切なくってね、それでついつい、こんなページを開店しちまったんだがね」
「そう、そういう言葉を聞きたかったんだ。今は、もっと、ストレートに話さぬと、本当に読者の大半は私から去ってゆくぞ」
「それ程、このページの読者は馬鹿じゃないだろう。もっと、君を好きになってもらいたいから、だからこんな事書き始めている位の事は誰でも解る筈だろう」
「イヤ、その大前提が間違っているんだ。君が思ってる程、読者の多くは抵抗力があるわけじゃない。こんな書き方してたら、免疫体を持たぬ若者はどんどん私から去っていってしまうぞ」
「それ程の影響力は持たぬよ、このページは」
「それが甘いのだ。キチンと力を及ぼすぞ、それ位、毎日の数字が物語っているのは、いかな君でも薄々知っている筈だ。だから、書き方を変えてもらいたい。もっと明るく。もっと私を好きになってもらえるように。君が私を決して見捨てようにも、見捨てられぬように」
「君がそこ迄言うのだったら、それだったら、少しの努力をしてみましょう。次回を楽しみに。」
あと、中間合同講評会まで今日(十月二十四日)を入れて三日である。昨日東京大学建築製図室で東大生の仕事振りを見て、もう今年は振り逃げしか無いかも知れないと腹をくくった。しかし、二十数組振り逃げってわけにもいかないし、これは現時点では、みじめな脱落者を出さずに、いかにして堂々とした敗戦に持ち込むかに意を注ごうと決めた。
そうせざるを得ないと思ったのは、一つの模型である。西葛西の敷地のみならず、周辺一帯の街の風景が念入りに、微に入り細に入り作り込まれていた。恐らくグーグルから読み取ったものであろうが、素晴らしいものである。キチンとディテール迄作っていて、色鮮やかな、それこそ街がザワザワと息づいている風が伝わってくるような町の模型であった。
その模型に色を塗っていた学生にN教授が声をかけた。「君、TAだろ。そこまでやらなくてもいいんだよ。」この一言で私は設計製図教育に対する東大建築教室の布陣というか、体制と呼ぶべきかを体感したのである。
昨年のこの課題に於いて、早稲田が程々に良い成果を残せた原因を私は把握している。頑張れ、頑張れと体力に任せて押し切ろうとしたわけでもない。第一昨年は主力が皆女性であったから、体力に任せて押し切れる筈もなかった。それ程、設計製図教育は粗雑なものではない。小さなエレメントの複雑な組み合わせ、精密機械状のものでもある。
ここしばらくの、あるいは長いと言うべきか早稲田建築、設計製図の低迷振りの一つに、私はTAの放任と、その結果としてのシステム抜きの、低レベルの上意下達振りがあるとにらんでいた。TAは大学院の学生が担当する。早稲田建築学生はサークル化している。それはそれで実は良い面もある。明るく擬似民主的で、それこそ色のないフラットな感じが共有できる。TAは実に製図の現場では話しだけして去る教師よりも余程大きな影響力を持っている。先輩後輩の旧陸軍的初年兵精神教育みたいなもので、つまらぬことを言われても初年兵は、したがわざるを得ない事も多いのだ。旧陸軍と言っても、私だって知らぬし、若い人には当然ピンと来る筈もないけれど、そう表現するのが一番である。海軍じゃなくって、陸軍と言ってるのがミソなんだ、実ワ。それはさて置く。
そう考えて、昨年、この課題に関して私は一切のTAの助言らしき、指導らしきを禁じた。つまり指導形式そのものに手を入れたのである。先生方の中には多くの異論があった。「TAは教える事でのびる事もある」がその理由である。が、そのTAも共に成長してゆくというシステムが無い、と私は考えて、我がママを押し通させて貰った。つまり、小さい部品を入れ変えて、システム化しようと考えた。今年のTAの役割は、学生と同じように課題に取り組むというものである。TAは実際に同じ課題をやってみせる事、その成果だけで学生を指導するアシスタントになれ、という考えからである。このやり方なら、力不足を、いい加減な口先だけで上等兵振りを発揮してしまう事もない。出来ない。TAの一人はそれで、延びるキッカケをつかんだようにも感じられた。
そんな経緯を視ていたので、私は一瞬のうちに東大製図教室の風景を、少し構造的に眺め、知る事ができた。まあ、大方の読者諸兄姉は何を大仰なと、たかが学生の製図で騒ぎなさんなと思われるだろう。しかし、である。この様な小さな努力がいずれ全体に及ぼすであろう力は必らずある。設計製図は建築そのものでもあるのだから。だからこそ、コチラも一生懸命になるのだ。神は又、こんな細部にも宿るのである。
今日は中間講評前の最後の指導である。もう、東大で見てしまったアノ模型と同じようなのを作れとは言えない。それはエチケットというものでしょう。見てしまった、凄いなと思ってしまったのであるから、それはもう出来ない。いくらなんでも、アト出しジャンケンはいけない。今のところ、途方に暮れてはいるが、マ、その事自体を学生達に伝える事から、今日は始めよう。
東大の製図教室のアノ模型を作ろうと言い出した人間の顔を見てみたい。君は私の足許を揺るがせたよ。東大生があの努力、見事な努力、一見無駄にも見えかねぬあの努力をするのか。あの模型は文化である。昨日時点で完敗である。今日から倍の努力をさせる、努力をしなくてはいけない。
共同設計のポイントについて。
共同設計を上手にやってゆくのは、それこそ社会モデルを設計する能力に等しい事を先ず自覚する事。社会モデル、すなわちこんな社会になって欲しいと、想いを巡らせ、知恵を働かせる=設計である。住居の設計も又、当然社会モデルの設計であるし、集合住居の設計はより解りやすく社会モデルそのものだ。
実は椅子の設計(デザイン)だって、突きつめて考えるならばその意味合いがある事が理解できる。椅子の座の高低は座りやすさ、快適かどうかを計り知る基準であるばかりではない。それ位の事なら誰でも考える。その先に高度なデザイン(設計)世界が実は拡がっている。
すでに多くの論考、批評もあり、私もその考えをベースに言うのだが、椅子の座の高さは視線そのものの高さ、低さを決める。立っている時、すなわち立食パーティの時など、背の高い人間は必然的に背の低い人間を見おろさざる得ない。明治時代、まだ日本人が背の高いヨーロッパ人に多く出会う機会が無い頃、明治人はこの視線の上下、交差に多くの、そして大きな政治的意味合いを感知していたのではあるまいか。特に明治社会をこれからどんな社会モデルとして設計していけば良いのかを真剣に考えざるを得なかった指導者達、エリート達はことさらに、立ったままヨーロッパ人と話し合う、特に政治的な問題を話し合うのは得策ではないぞコレワ、位の勘は働いたに違いない。畳の上で、つまり和風の座敷で、座りながら話し合うのは、日本人にはだから視線の上下を感じなくて良いから有利で、それ故に楽であったに違いない。
しかし、タタミに座らされるのはヨーロッパ人には苦痛であったろう。大体、彼等の肉体的特徴の延長そのものである、ズボン(今はパンツと言う)、スカートの類いは、コレは畳に座るなんて事は殆ど考慮されずに生まれ、そして変化(進化とは言わない)してきたものである。
話し会いの時には椅子を用意してくれ、あるいは用意して貰いたい位の意志は伝達されたに違いない。特に政治的意志を持つ会合にはそれは最重要な問題であったに違いないし、実は今でもそうなのだ。
TVに良く登場する内閣閣議の報道用映像を思い起こしたら良い。内閣総理大臣が中央にドデンと座り、それを中心とした席順は恐らく高度な、(あるいは、むしろ低級なと言うべきか)政治的配慮で決められている。
それに、アノ適度と呼ぶか過度にと言うべきなのかは言わぬが、両肘掛け付の低い座の安楽椅子風の椅子は、ドッシリと座った風に見える政治家の姿を、とり敢えずは御立派に見せているではありませんか。少くとも猿にも劣る知性とは見せてはいない。アレはデザインの力だ。アノ椅子に座ったところを報道用に流し続けるというのは仲々のデザインなのだ。首相のブラ下りインタビューと呼ばれる立姿での映像は、アノ、どっしりと座った映像と比べれば、はるかに頼りないものだし、実際はるかに人間的であり、不安定感が露出している。時にインタビューの記者の背が高くて、見上げる如きの視線が発生してしまえば(見たような記憶もあり、そんな記憶もないような気もしないではない。余りにも首相が短期に変わり過ぎるので憶えるヒマもない。つまり、すり込まれる危険もない)、マスメディアの政治に対する優位性そのものが報道される事になり、政治家らしきの存在意義そのものが怪しい事が映像化されてしまう。
似たような事が明治時代にも仕切りに考えられたであろう。畳の上に椅子を置いて座られてしまったら、交渉も話し合いにもならない。なにしろ目線の位置、つまり空間の政治的力学が決まってしまうのだから。そんな、こんながあって、それなら明治人も椅子に座ってしまった方がましだ。視線の高さが平等には近くなる。と椅子の導入が早まったに違いない。
その点、織田信長は奇矯に見えて、実に論理的明快さを持っていた。彼はヨーロッパに憧憬を持つのではなく、どうやら世界を見る、一望の許にする事を熱望する類の資質を持った人間であった。信長はキリスト教も宣教師も椅子も、同じ類の道具として見なす視線の所有者であった。地球儀という当時の初歩的世界モデルを異常に偏愛し、それを自らの政治的モデルの指標としようと試みた。
つまり、かくの如き建築専門知識の外の一般教養、歴史、文化に迄、複雑に多愛ない思い付きや想像力を駆使してゆこうとする思考モデルそのものが、社会モデルの粗型である。社会モデルと呼んでいる内実を少し理解してもらえたろうか。
そして共同設計を上手にやってゆけるかどうかが、その社会モデルの中心にある、又もう一つの小さなモデルになる。
一昨日(十月二十四日)の製図の早稲田建築教室での指導の重要な事は、二つのチームにチーム自体の両編成をうながした事に尽きる。チームを解体して、別の形に再編集したらどうかとうながした。勿論、強要はしない。当り前である。
出来の良い学生と、出来の悪い学生。これは明らかに格差が存在している。設計製図はそれが露出しやすい種目。スポーツとも異なるから科目と呼ぶべきだろうね。科目としては近代十種競技みたいな種目なんだなコレワ。日本人には人気が無いけれど、ヨーロッパでは重要なスポーツの種目。つまり、総合力を競う種目である。日本では何故人気が無いかと言えば、オリンピックでも放映されないでしょう。それはこの種目では仲々勝てる人が居ないからだけの事。陸上も強くて水泳も、さらには槍投げも出来る、馬術迄こなすなんてのは複雑に過ぎて、とても単科、単種専門の日本人気質には向いていないのかも知れない。と言うよりも、そもそもこの種目に挑んでみようという意欲、意志の体力とでも呼ぶべきものが欠けているのだろう。ある意味では十種、五種という複合種目的競技は文化的総合性を持たざるを得ないのだ。つまり、総合的にやってみようという意志の発生源が文化的性格に属しているような気味がある。(この競技をやっている人に知り合いが無いので解りにくい。)
設計製図の出来の良い悪いの格差を生み出すのはそれでは何か。設計製図の出来の良い、と言うよりもスクスクと、グングンとのびてゆくようなのは先ず、多方面の好奇心が何より必要。サブカルチャーもハイカルチャーも分けへだてなく好きで、音楽の趣味もでたらめ、何しろ音が出ていれば、とり敢えず耳を澄ましちゃう位のが好い。つまり、多面体であろうとする自分を肯定してゆくタイプは、大体、のびるんだな。あるいは偏愛する傾向を自覚していても、それをいい加減に、ルーズに泳がせておくだらしなさをチョッと自覚できるタイプが、これは確実に出来が良くなるタイプだね。
反対に出来の悪いのは、偏愛する傾向のある自分を全く意識できない人間ね。言ってしまえば未熟な、そして未熟であるべき学生の、その本来的な段階を意識できない人間、コレワ出来が悪くて、のびる余地はあんまり無い。さらに初歩的に自覚できぬ人間も居て、これはたんなる幼稚な自我を大人になりかかっている今も持ち続けている人間で、これは馬鹿と呼んでも良い位に手当ての仕様が無い。処方の作り方が無い段階で、ただ甘やかされて育ってしまって、途中でその事自体に気付けなかった鈍感さを悔いるしか無い。
いくら、この点を直した方がいいよと言っても、聞こうともしない本格的な馬鹿で、そんなに一向に聞かないんだったら、学ばなきゃいいんだと言ってしまう位のが実に居るんだなコレが。他人のアドヴァイスに耳を傾けないなら、家の子供部屋で一人でシコシコやってなさい。一人で。独学で安藤忠雄になれるなんて決して思うなよ、ああいうのは、又、あの時代に彼だからあり得た特殊解だ位の頭は持ちなさい。マ、このタイプは手のつけようが無いから、少なくとも私はなるべく時間を浪費しないでパスする。するとコノタイプの弱いのは、イイじゃない、頑張んなさいというタイプの教師のところに逃げて廻ってホメられたいだけなのも目に視えているのだけれど、私は関係ないの、そういう世界は。
当然解体をうながしたチームは、解体して手をうてばまだ何かを得られるかも知れないと思うから、そうしたのであって、全く見込みのないのにそんな無駄はしない。
二つのチームには歴然とした一つの性格があった。一人の強い性格、感性をそれぞれに持つ、女性の才覚を中心に据えて組織されたと見えた。一人の女性は外国人女学生で自分の出自、つまりアイデンティティに、日本人学生には無い明晰な自覚を持ち、それを表明する言葉の能力も持っていた。前の課題のクリティークで初めて私はその存在を知った。形をつくる能力はそれ程自在ではないのは一眼見て解ったが、そんな事はトレーニング次第でなんとかなる。なにしろ自己の意志を表現する事ができるという、何よりなものを持つ。
もう一人の女性は、この学年ではその感性らしきが際立ったとされる人材で、前の二課題に於いてそのカケラらしきを私も感じてはいた。同時に、この手の人材の多くがそうである様に、自分の外への知的感心が薄いという弱点も同じ位に強くあるのだった。
二チーム六名はそれぞれに相談したようだ。結果としてチョッと目立った二人の女性は同じチームを編成する事になった。当然の帰結である。強い二人がブチ当ってチームを作るしか答えは無いのだ。リーグ開幕中に再編を余儀なくされたチームがとり得る唯一の合理的方法である。お山の大将が二名というダテや酔狂では出来ぬこととあいなったのだ。それで良い。女は度胸、男はあいきょうの時代なんだから。
しかし、更に、これが現代の中心問題なのだが、二人の人材に去られた残りの人材はどうすれば良いのかの大問題が残る。こちらの方が問題は深刻である。それ故、この残されてしまったチームには、取り組んでいる課題、インド人知的労働者の為の、それをキッカケとしてとらえた難民の国境を超えた移動という問題は、実は残された君達の問題でもあるのだ。そうキチンと自覚できたら、あるいは自覚してみちゃおうと覚悟したら、君達は非常に強いチームに一気に生まれ変わるだろう。寄る辺なき荒地のペンペン草が、砂漠のサボテン群位には育つだろう。
何ですか、その阿呆臭い例えは。そんな事で残された私達の虚脱感は埋められませんよ、と言うだろうね確かに。しかし、弱い者同士がチームを作るという、他の連中には無い意識を持つ事は出来るではないか。だって強そうな人材が抜け去る現実を、方法的にイヤと言う程酷薄に見せつけられているのだから。
明らかに君達は難民状態です。国境を超える勇気は持っているインド人知的難民程の勇気は欠けるけれど、それは仕方がない。その状況を生かし得ると思いますよ、私は。君達は本格的に、しかも意識的な頑張り方をして下さい。本物の難民とはもう失うモノは何も無い者を言うのだ。
十月二十七日は東大・早大合同課題の中間講評会であった。東大 19 グループ、早稲田 26 グループがそれぞれ三分の発表、二分のクリティークの予定で開始された。 先ず中間講評会のホスト役である早稲田建築学科を代表して早大第一グループの女性が合同課題、及び合同講評への御礼の小スピーチ。仲々良いスピーチであった。ともすれば勉学の日常に流されやすい建築学生の、少し背伸びしてみなければならぬ理想の如きものを上手に語っていた。
課題で与えられたサイト、そして諸々の条件を日本の近代化が行き着いた涯の問題としてとらえ、外国人労働者の問題をキチンと自分達の問題として共有したい事等キチンとした立派なスピーチであった。 女性は学生達が自主的に選んだ人間で、当然の事ながらいささか緊張しつつも臆さず話し切った。 設計製図よりも、こんなキチンとしたスピーチが大事な事があるのは言うまでもない。
双方第一グループより発表開始。極々自然ななりゆきだが、当然 45 グループの発表を見、聞きし、クリティークするとなると、早い回に発表するグループに批評、アドヴァイスが集中してしまうのはやむを得ない。それ故、早大はクリティークが集中しやすい前半に、集中してもらいたい案を配置した。この仕分けは学生が自分達でやるのは不可能に近いから、教師達が行った。
東大建築は登録順に並べたそうだ。この二つのやり方しか無いだろう。が、可能であればスタイルはそろえた方が良いと思うが、今のママで良いと言う事であれば、どうしてもと言い張る迄の事ではない。
早稲田建築の伝統的な設計製図教育の方法は、なるべく早く突出した人材を探り当てて、その人材に牽引車の役割を担わせるという、実にプリミティブなものである。それ故、歴然とした才質が存在している時は実に効率の良い方法なのである。教師達はそんな人材を上ズミと呼んだり、梅干しの種と呼んだりしてきた。
ところが、いつの頃だったか、それが仲々上手くゆかなくなってしまった。その肝心の上ズミ・梅干しの種が見当たらなくなってしまったのだ。それで早稲田建築は卒業計画をグループ設計とするという一大転換を実行した。実行せざるを得なかったというのが真相である。
今年の三年生、つまり第二回目の共同課題の当事者達はどうか、と言えば、上ズミらしきが出現するかな、しないかなのギリギリの処に居る、非常に不思議な学年だ。昨年の学年は上ズミの役割を個人ではなく、幾つかの女性小集団が担った。今年もその傾向は継続しているような、いないようなところがあるが、恐らく時代はそれを望んでいるのだろうと思う。「時代」という者に意志があるのかどうか知らぬから、それを建築という主語に置き換えてみれば納得できるような気もする。建築は自身を転形させる為に女神を必要としていると考えてみると、少しは未来らしきも透視できようものだ。
早稲田建築のラインナップはそれ故、前に比較的ハッキリした作品群、後に明快なコンセプトらしきの薄い、あってもトンチンカンなものが並べられた。 しかし、発表を振り返ってみると、難しいモノで後半のハッキリしないモノの群の数が余りにも多くて、全体としてはモヤモヤとした水準の群になった。清流は濁り水に呑み込まれたのである。
東大建築学生の今年の印象を一言で言えば、アナロジーは理解を助けるから再び水の流れに例えれば、清流ではあったが、流れに速さが無かった。 早稲田の後半グループに一部見られた知性の淀みというか、幼稚さの極みの如き状態は見られなかったが、清流に飛沫が飛んだり、小滝として落下する如きの姿を見て取ることが出来なかった。
講評で繰り返し述べたが、東大建築学生のプレゼンテーションに感じ取る、サブカルチャーへの傾斜あるいは浅い日常への傾斜が過ぎた趣向は、疑問である。ひらがな重視、つまり日常性重視の傾向は、今の少々盛りを過ぎてしまったファッションであり、わざわざ身を浸す程のものではあるまい。 二、三点キッチリ建築していたものがあったが、望むらくはこの正統的アプローチ派が過半を占めるべきではなかろうか。
東大O先生のクリティークが今年は冴え渡っていた。 「早稲田のは概して、古い建築の型にはめて、オーソドックスにやらせようとしている。」 然り、名言であった。 東大の諸君の作品は、普段着の日常会話感覚に溢れていて好感は持てるのだが、建築ってその程度のモノだったのかと思わざるを得ない古い建築愛好者の私も、歴然として居るのだった。
一点、私が勝手に想い描いていた東大生的作品があった。要求している延床面積、ボリューム他を過不足なく表現しているものであった。東大の中では異色であったが、これが異色であるようなのは少し計りおかしい。 建築計画的にキチンと間違いを犯していない、これならスグ出来るよと言えるのは、早大東大合わせて、この作品だけであった。デザインもキチンとモダニズムの中に在り、整然としている。決して面白くは無いが、なにしろキチンとした姿を出している。私としてはO先生が指摘した古い建築の正統性を表現していたのはむしろこの、東大の一点であった。
この一点が寂しく孤立してしまうのは少し計りおかしい。が、しかし、これを孤立させてしまうのも時代なのだろう。メディアセンター前の道路にブリッジを架けた、スケールアウトのないアイデアもこれ一つであった。誰でも始めに考えるだろう、アイデアなのに。このグループが最終的に何処迄設計をみがき上げてくるのか楽しみである。 しかし、みがき上げるのには、設計を自ら楽しまなくてはならない。この段階で過不足無いものにまとめるオーソドックスな知力はある。その先だな、どう楽しむのか、他の多くのように日常会話の楽しみの中に入るのか、建築の枠を利用して匍匐前進するエネルギーの素を何処に据えるかだろう。
このグループは歩道橋らしき、ブリッジのデザインに力を注入してみたらどうかな。ブリッジのデザインが建築のデザインを変えてしまうような力を持ったら面白いのに。
十月二十八日、昨日の設計製図中間講評会の反省も含めて、東大N教授より相談と申し入れのメールが入る。
一、学生の発表者をそれぞれ十グループ程度に絞る。
二、先生の発言者を五、六名に絞る。
三、それでも、何とか全員のクリティークはやりたい。
要約すると以上である。二十八日の中間講評会は良い会であったが、緊張感と盛り上がりに欠けた。精選された学生作品に精選された教師陣のクリティークがあってしかるべきだろうの、N教授の意向は私も同感である。一、二の件に関しては早急に態勢を整えたい。三をいかに実現するか。最終発表会は東大の福武ホールと決まっている。ここでの発表は両校十グループづつ、とし但し全員参加。十組終了後、次に第二ステップとして同会場にて同形式で全展示品を若い先生も含めて、クリティークとしたら、どうか。東大には申し訳ないけれど、東大の設計製図教室の活用も何とか考えられないだろうか。あの設計製図室は、早稲田にとってはのどから手が出る程のものだが、あそこで一度徹底的なクリティーク、議論をしてみたい。廊下みたいな処で学生に作業を強いている早稲田のボロ廊下製図教室在住教師としてはそう願いたいが、勿論ワガママである事も知っているから無理は言わぬ。
私はこの東大早稲田共同課題、共同クリティークは重要な試みであると考えている。それは建築教育の小さなモデルとしてだけの事ではない。勿論、多くの大学での設計製図教育のモデルになり得る事は最低限の我々の目標ではある。 それ以上に、時に歴史は驚く程の停滞を続ける事もある。停滞の中に熟成を含まぬ、ただのよどみ状態の連続になる事もある。
ジョサイヤ・コンドルによって英国式近代建築が東京大学に独特な移入のされ方をして一世紀以上の時が経つ。コンドルが教示、実践、種を植えつけた日本の近代建築様式の延長上に、東大の建築学科は存在している。当り前だ。私の言い方をすれば、東大建築は梅干しの種である。当然の事ながら上ズミであれとも言いたい。早稲田の建築学科は東大に次いで日本で二番目に古い歴史を持つ。しかしその歴史をたどれば始まりは東大建築出身の人材を礎にしていた。例えは悪いが、腹違いの兄弟みたいなものだ。
建築評論家長谷川堯はかつて、一つの図式を描いた書物を何冊か書いた。要約すれば、建築設計に於ける国家の意志 VS 私性の意志に尽きてしまう。神殿と獄舎、丹下健三と村野藤吾、東大と早稲田という単純明快な図式である。この図式は単純であったが故に無視出来ぬ力を持った。特に団塊の世代と呼ばれる世代以前の日本の建築界ではかなりの浸透力を持った。
この評論の単純明快さを打ち砕いたのが、鈴木博之である。鈴木は典型的な東大人であるが、その内に長谷川的単純さに落ち込まぬ複雑さを持っている。その複雑さの有り体こそが文化の中枢なのだが、それは機を改めて論じたい。「建築の世紀末」から始まる膨大な論考、編纂、そして保存運動は、まだその全体が視えぬ程に広いが、私はかねてより、鈴木自身が生み出しながら、乗り捨てたように見えなくもないアイデア、「私的全体性」なるヴィジョンらしきに、鈴木自身の全体を視る様な想いを持ち続けている。その先は?
それは、これからのお楽しみにと言う事で。いきなり言うが、鈴木博之自身の私的全体性の鏡像は安藤忠雄ではないかと、最近になって気付いた。しかも、設計製図のヒントを書きながら、学生の製図を見ながら、フッと思い付いて、ドッシリとした確信に変わり、育ち始めた。安藤忠雄の出現、そして出自その成長振りは長谷川堯が言ったような単純な図式を完全に壊してしまった。丹下健三 VS 村野藤吾の講談をコケにしてしまった。そんな図式を今更持ち出しても、どうにもなるものではないと、その存在自体が示してしまったのだ。大きく眺めれば、それ故に東大建築 VS 早稲田建築の単純極まる図式もすでに霧散しているのである。それ故に、この共同課題の共同の基盤も、そんな図式をベースにはしていない。
ただ、何故こんな事を書いているかと言えば、こんな事があったよと知らせたいだけで、それを知っておくとより設計製図を楽しめるよ、とそれだけ。
で、先に、歴史は驚く程の停滞期を迎える事があると書いたが、今はどうやらすでにその最中である。そして、そんな時を転形期と呼び得る種だけは作れないかな、と言うのが私の課題であり、この設計製図に取り組むチョッとした気持でもある。
さて、本題に戻ろう。戻りながら又、枝葉に踏み迷ってもみよう。設計製図のように。 中間講評のタイミングは実はもう少し早い時期の方が良かった。全部の学生がすでに模型まで作り終えていたので、アレを後戻り、あるいは別仕立てにするのはエネルギーが必要だ。
しかし、東大の先生方のクリティークもいただいた事だし、早稲田建築としては、原則として今作っている模型は壊しなさい。特に力のあるグループはね。という事にしてある。まだ二週間チョッとあるから大丈夫。パネルは最低十一枚を課した。
中間講評会では東大生が皆八枚描いてきたのに驚いた。昨年はスケスケだったのに。それに対して早稲田は平均三枚。ひどいのは二枚であった。あんまり沢山描かなくても良いからと指導したので、そういう指導は良く言う事を聞くんだからな。これは私の指導ミスであった。何故ミスであったかと言えば、二、三枚描いてすませるという合理性、しみったれ性は意外と早く身についてしまい、いきなり十枚、二〇枚には辿り着けなくなってしまう事が、多々ある。つまり、設計製図は体力、精神力も必要で、私はそんな単純な事をGAの二川幸夫から教えられた。
良く知られるように、学生は知らないか?二川幸夫は建築の目利きとして、当代一を自負している。本人が「俺が世界一である」と言っているのだから、そうなのだ。この怪物の事も学生諸君に話しておきたいのだが、どうなるか。自分が世界で一番だと、スッキリ言ってしまう人間は世界に居る筈もないから、それ故に二川幸夫は建築の目利きとして世界一、つまり唯一である。建築が好きで、好きで仕方なく、それで誰が頼んでいるわけでもないのに、世界中の建築を見歩いている。
藤森照信も、「俺は日本の近代建築、洋館全部見ているから、俺が一番」と言っていた。それで又、こうも言ってたな。「俺くらい見ていると、その何かいいモノがこっちに乗り移ってくるんだな」 で彼は作家になっちまった。鑑賞、目利きの総合が身体化したわけだ。このやり方はしかし、十年二〇年五〇年かかるので、設計製図の極意ではあるが一週間、二週間でどうなるわけもない。
その二川幸夫が私に言った。言い放ったというのが正しい。 「イシヤマ、何教えたって基本はエネルギーだからな。50cc の小型バイクの奴に何言ったってどうもならんよ。750cc のエンジン持ってないと世界はダメだ」 マ、それは納得するのだが、750cc は恐らくもう出ない。それ前提に、50cc は 50cc なりに排気ガスもクリーンにして、電気自動車もあるしな、というのが今の時代なんだろう。むしろ 750cc は敬遠してですね、125cc 、250cc クラスをいかに多量に世界へ送り出すかが大事なんだろうと思うが、いかがか。
しかし、「世界」が設計製図のステージになっている事、これは確かな事である。「世界」が身近になっていて、設計製図の課題、しかも三年生の課題になっているというのが現実なのである。二〇〇八年三年後期、早稲田は三年生の三課題目。後期の選択必修課目として出されたのが以下の課題である。この課題は東京大学の先生方が考案し、早稲田がそれを受け容れた形である。
2008 年度 3 年後期設計製図IIIa 早稲田大学・東京大学合同課題
課題:みえないインド人コミュニティと都市の活性化
(西葛西小島町二丁目団地)日本では、1990年に「出入国管理及び難民認定法」が改正、就労可能在留資格が増加された。この改正により従来は違法であった単純労働への就職などが合法化され、現在、移民労働者が増え続けている状況がある。わたしたちの身の回りでも、コンビニなどの店員が移民労働者であることがあたりまえになった。しかし、移民は必ずしも低賃金の労働につく者ばかりではない。近年では、IT技術者など頭脳労働者の移民が顕在化するようになり、その代表格としてインド人の東京への大量移動があげられる。
そのインド人の定住先として人気なのが、東京メトロ東西線の西葛西駅周辺だ。当駅周辺には、UR都市機構の小島町二丁目団地や清新南ハイツなど、都心へのアクセス(大手町まで約15分)の良さの割には安価な家賃の住居が大量に存在している。それらの良好な団地を中心に、自然とインド人が集まり、いまでは町中で頻繁にインド人を見かけるようになった。とはいっても、従来のエスニックタウンのように、移民向けの商店が並んでいるわけでもない。彼らは、西葛西の社会に浸透的に存在しているわけだ(インターネットによる情報交換が活発であることが理由としてあげられるだろう)。
課題では小島町二丁目団地を中心としたエリアに注目し、東京(もしくは日本)において無視することのできない存在になりつつあるエスニック集団の活動が、どのように都市の活性化に結びつくことができるのかを考えてほしい。公共的な都市空間(施設)といえば、商業的に囲い込まれたテーマパーク的な空間ぐらいしか思い描くことのできない日本の都市空間に対して、移民達は何をもたらすのだろうか。おおらかで明るく展望のある提案を期待したい。
具体的には、「小島町二丁目団地」に隣接する敷地にメディアセンターを計画する。移民も利用できることのできるマルチリンガルなメディアセンターだ。そのメディアセンターを中心に、いくつかの付帯施設を自由に設定し、総合的に西葛西北側を活性化する提案をしてほしい。団地内にはオープンスペース、周辺には江戸川区立スポーツセンターや西葛西中学校が存在するので、それらとの連動なども考えられるだろう。インド人のみならず、他の国からの移民、そしてもちろん日本人にも開かれた、真に公共的な都市施設を構想してほしい。
■各回エスキスについて提案と調査
課題主旨を踏まえ、西葛西の街を調査する。建築や都市計画的な調査に加え、歴史、文化、公共性、コミュニティ、経済など、それぞれが独自の視点を発見して行う。インターネットのみによる簡単な調査は不可。次の設計に繋がるような視点で調査する。
その調査、その他の広い視点から導き出されたテーマに従って提案(プログラムと造形)を行う。
エスキスの際は、調査だけの提出は原則不可。必ず同時に提案が行われていること。
■■本課題:10月27日(月)中間講評、11月16日(日)最終講評
各チーム3名の自主的に組まれたグループ(東京大学20-24チーム、早稲田大学30チーム程度)で課題に取り組む。A課題とB課題の両方が課せられる。両方で10,000平米程度。
A規定課題
用途メディアセンター
現況は貸駐車場の敷地にメディアセンターを新築する。延床面積は6,000平米程度。
課題主旨を踏まえて日本人も外国人も利用できるメディアセンターを設計する。
メディアセンターのプログラムも自由に考える。
B自由課題
用途Aの規定課題との関連性を考えて自由に設定する。
敷地は「小島町二丁目団地」で、リサーチを踏まえて必要なプログラム、規模を考える。公共施設あるいは商業施設で一般の人が利用出来る施設にする。
ただし、団地の既存の建物はなるべく利用しながら設計し、新しい建築の挿入も可。全面解体し建替えるという案は不可。延床面積は4,000平米程度。
中間講評、最終講評とも選抜はなく、全グループが発表を行う。グループあたり発表1-2分、講評3分程度を予定している。
□提出物:A1用紙(縦づかいを基本)に、以下の図面をレイアウトする。
・配置図1/500、各建物平面図1/100 - 1/300。
・各建物立面図1/100 - 1/300(4面)、各建物断面図1/100 - 1/300(2面以上)。
・外観透視図(模型写真でも可)、内観透視図。
・説明文、ダイアグラムなど。模型は縮尺、個数自由。
注意:中間講評では、図面は屏風綴じにすること。最終講評では、パワーポイント(と模型)の発表になる。
この出題に関して私は課題開始のミニレクチャーでインド人労働者にあんまり眼がいってしまうと、変な答えしか出ないだろうと指摘した。インド人労働者は金を得たらいずれ姿を消すだろうし、例え定住したとしてもそれが公共建築のスタイル、公団住居のスタイルを変化させるだろうとは考えられなかったからだ。
せいぜいエスニック料理店が増え、スーパーマーケットにエスニック衣料が増え、エスニックサロン、集会所、ゲストハウス等の多機能な都市像になるだろうが、その多様性は公共建築のスタイルを、根幹に於いて変えるものになるとは考えられなかったからだ。
出題文中商業的に囲い込まれたテーマパーク的な空間くらいしか思い描くことのできない日本の都市空間、を少しでも変え得る提案をせよ、とある。
しかし、エスニックをテーマの一部に取り組めば、それは自動的にテーマパーク的多様さに入り込みざるを得ないのではなかろうか。インド料理屋、カレー食材店、香辛料屋が少し多くなる程度で、それは自然な商業の力に任せればよい。あるいはモバイル性を持たせた移動店舗、屋台スタイルに任せれば良いので、それによって出現するであろう街の姿の如きがサラリと描かれていれば、それで済む事だ。街をことさらに多様な姿に仕立てるよりも、モビリティー店舗の重視の方が賢い答え方であろう。
ただ、そんなことをグローバリズムの日常化のニュアンスで考えたらどうかのアドヴァイスはした。普段の生活の中に自然に外国人の姿がある。そして交わる。会話する。それに必要な場所は用意しなくてはならないだろう。でもそれは描いたプランの室名が変更される事だけであって、機能の組み合わせ、すなわちプランそのものが変化するわけではないだろう。
インドの近代化されつつある都市を訪ねて、その都市の姿や建築形式が日本のそれとの、大きな違いを全く私は感じられなかった。近代化というのはそんな隙を見せてくれる程に優しいものではない。酷薄なものでもある。
できるだけの価値観の多様性は保証されなくてはならないだろうが、価値観、ライフスタイルの多様性を保証する新種の建築的形式性が、骨組みが、それだからこそ設計されるべきではなかろうか。
そんな考え方から見れば早稲田建築の第二グループの発表に可能性を感じる事ができた。Aサイト・メディアセンター、Bサイト・団地内、それだけでなくムンバイの似たようなサイトにも日本人移住者(それは彼女達の将来像であるかも知れない)の住居、建築を全く同じスタイルで計画しようというものだった。例えは古いが、二〇〇一年宇宙の旅(スペース・オデッセイ)に登場したモノリスが同時出現しているイマジネーションである。
インターナショナル・スタイルの陳腐さをさらに突きつめて空虚そのものが現前しているらしきスタイル。均質さを超えた、スーパーフラットな退屈さも楽々と超えてゆくシニシズム的物質化を突きつめてゆくと、ある種の物神性の如きに辿りたどりついてしまうような、そんなデザインへの可能性を私は見たのである。物質への偏愛はアニムズムである。このグループが念入りに描いたドローイング。不安の闇(空虚)に浮かんでいるスニーカーの自分。この内的イメージは実に素晴しい。この不安な自分の内的風景はともすれば、ドイツ表現主義的表現に流れていってしまいやすいのだが、そこで踏ん張って、それをせずミース的モノリスにしようとしている。
東大のO先生のクリテーィク、 「スニーカーでボンベイまで走れないぞ」 つまり、余程強い表現にしないと言っている事は伝わらないぞの意味であろう。確かに、これ位の生意気を考えようとしている人間には、それなりの表現が又、必要とされるっていう事だ。 何処迄、彼女達が表現し切るかはとも角、早稲田建築はこれを大将にして布陣してみようと思う。
今年の設計製図は面白い。週二回のエスキス、プレゼンテーションチェックの度にトップ集団が入れ替わる。こりゃ、どうしようもない鈍だな、野暮天だなと思っていた学生達が、意外な頑張りと粘りを見せてくれて、前線に踊り出てくる。
一方で、呑み込みが早いし、感覚もいいから大丈夫かも知れないと安心している学生達が、頑張らずに停滞してしまっている。と言うよりもズルズルと後退している。設計製図に頑張れないのは、設計製図に努力しないって事で、要するにそれ程の時間と情熱を割かない事でもある。多分、他にサークル活動のような時間を過しているのであろう。それはそれで個々の学生のライフスタイルの趣向であるのだから仕方がない。その選択をとやかく言う事はしない。しかし、学生同士のサークル活動は相互の厳しいクリティークが不足しがちであり、自己満足に陥り易いのも確かだ。キャンパスに転がっているガラクタ様のオブジェクトのゴミを眺めれば、こんな事やっているのかと、あきれ返るばかりである。このようなゴミ作りにも声高なリーダーの様な存在が必らず居る筈だ。そのリーダーの見識や、知性の幅、高低がやはりどうしても反映してしまう。
この低級なライブ感覚ともいうべきモノ、これは設計製図の学習とは似て非なるものである。その場当たりの瞬間芸でもあり、仲間内の共時感を頼りに、他者が不在のままである。どうやら、ズルズルと後退を続ける学生達はこのサークル活動に時間を割いている連中のようで、そのリーダー達でもあるようだ。
こんな学生のサークル事情迄眼に入ってきてしまうところが設計製図の教師の辛いところであるし、マア、面白いところでもある。サークル、ライブに逃げる学生は置き去りにするしかないだろう。
ところで、では何故、マラソンに例えれば後続集団、つまり先頭集団ではなく、第二集団、第三集団から先頭に踊り出てくる者が多いのであろうか。実はこの現象は今年になって初めて体験するものである。であるから教師としては、いささか当惑している。
前から考えていた方法を一度実行してみようかと考える。十年に一人あるかどうか解らぬ人材を心待ちにしながらも、もう少し着実な設計製図教育の方法を、この際思い切りやってみるかと眼を光らせている。
模倣である。模写に近い製図の方法。ボザール風の装飾模写ではない。それは社会的リアリティに欠けている(個人的には私は関心を持っている。ウィリアム・モリスとコンピューターとして活字化する予定)。学生時代の個人的な発想らしき、私性のよんどころない発露の如きを私は愛する。というよりも、むしろ同情する。それは、ハシカ、風疹の如くに一度は通過しなければならぬ儀式のようなものであるから。しかし、その微弱さ、余りの骨格の無さ故の持続力の欠如の宿命も今は良く知るのだ。
複数のグループに、すでに古典的近代建築を模倣することを指示した。当然、近代の古典と覚しき建築である。生きている建築家の模倣はいけない。五〇年後の評価が覚つかぬからだ。消失してしまう存在である可能性もある。その可能性に気付かぬ者は知恵が無いだけだ。しかし、日本建築の古典とはいえ、桂離宮や宇治平等院鳳凰堂を参考にしろとは言えない。あの類の古典を模写して設計製図に仕上げられたら、完全に脱帽、土下座、引退しなくてはならない。そんな形の天才は現れないだろう。
参考にしてみたらとアドヴァイスしたのはフランク・ロイド・ライトのシカゴのオフィスビル、ラーキン・ビルである。少し工夫すれば、メディア・センターの土地に納まりそうだったし、ビルディング・タイプとしてもフレキシビリティーに富む。それよりも何よりもあの中心のヴォイドの空間が良い。キチンと模倣させれば、恐らく少しはましなスケール感、プロポーション、何よりもその風格らしきを学べるだろう。何も手本にしないで、幼稚なゼロスタートを繰り返すよりは設計製図としては余程ましな成果を得る事が出来よう。ル・コルビュジェの模倣はあのサイトでは模倣になり難い。丁度良いスケールのビルディング・タイプがコルビュジェには無い。アールトの模倣は難かし過ぎる。と、とり敢えず割り切ってやらせた。結果、仲々良い模型を作ってきた。
他の、あんまり模倣を意識してない、しかし実は模倣の三流オリジナルの模型と並べてみると、やっぱり仲々いかしているのだ。なにしろライトだもの。都市のスケール、雰囲気を良く把握している。うまくいくかどうかはまだ解らないけれど、この路線で一つ実験してみようと決めた。ライトやアールトにはコルビュジェみたいな教条的ニュアンスが少ないから、むしろ模倣の対象としては向いているかも知れない。強い個性を持つ作家ではあったが、その作品の中には、自由な模倣の対象となり得る空間の、近代建築様式の骨格らしきがあった可能性もある。
それで、今一つのチームはフランク・ロイド・ライトのオフィスビル(勿論、ジョンソン・ワックスではない!)を模倣している最中である。どんなモノが出てくるか、これは楽しみである。これが上手くいったら、設計、デザイン志望の半分位の学生にはすすめてみたい。
恐らくは全国的に各大学共、設計製図教育には大変困り果てているのだろうと思う。困ってないところは四流である。と言うよりも番外だな。困り抜いているのはまだ脈があると思いたい。
唐突に言うが、今は近代の行き着いた涯、つまり崖っぷち。崖っぷちと言ってもドラマチックな涯が視えているわけでもなく、我々凡人に視えているのはフラットな白昼の廃墟状の都市の姿である。鈴木博之いうところの近代の、都市の哀しみそのものの光景だ。アメリカ合衆国のサブプライムローン破綻を緒に発する再びの不動産価値の崩壊の予兆は赤裸々にその光景を現実の切実なものとしている。歴史家の直視能力を否応なく現実のものとして見せつけられている.都市そのものの価値の揺らぎが発生していると考えざるを得ない。
建築学生達は勿論未成熟なりにその空気を感じ取っている。空気の匂いにはまだ敏感なのだ。その敏感ささえ失ってしまったら建築学生群そのものが廃墟状態になってしまう。
こんな事はとても面と向って学生達には言えないが、だからコンピューターにしゃべらせているのだが、学生は良く頑張っていると思う。デッカい模型を幾つも作って、図面だって若いなりに良くやっていると思う。それでも、まだまだと思っているこちらの方に問題がありはしないのかと、実は昨年も考えてはいた。
設計製図モデル自体が時代に合っていないのではないかという疑問が深いところにくすぶっているのだ。正直なところ、学生達がここ迄頑張ってしまうと、こちらが不安になるという、ニーチェじゃないが、何とも行方の無いグルグル廻りの回帰の伝に近附いてしまうのだ。永劫回帰の大ゲサは言わずとも、風が吹けば桶屋が儲かる的サイクルとでも言おうか。
学生達は良く頑張っている。どういう頑張り方をしているかと言えば、自分達のフラットな横並び現象をわずか計りではあるが、自分達で揺らがせ始めた、と私は感じた。俗な表現になってしまうが、本来所有している筈のそれぞれの多様性、個別性、言い切ってしまえば個々の尊厳だが、それを少しづつ表現しようとする意志を自己確認する、その事自体を自己発見し始めているように感じた。こんな時代でもあり続ける消しようの無い価値は実はそれしか無い。
設計製図の初期段階での、学生の発想は押しなべて均質的である。一見すると多様な表れ方をしているようにも見えるが、一皮むくと驚く程に同じだ。多愛のない自分の思い付きを吐露しているに過ぎないのが実に多い。
早稲田建築では二年生に設計実習という演習科目がある。週に一つの、あるいは二週間の短期の小課題が課される。色光の体験と称して、小さな箱に光を導き入れる工夫をさせるような事をさせていた。そんなのを年に二〇回以上やらせる。実はこんなやり方の第一期生が私であった。四〇年以上も昔の事だ。この教育プログラムは建築史家の渡辺保忠が中心となって考えられたものだった。渡辺保忠はバウハウスのモホリ=ナジ等によって考案されたデザイン教育モデルを雛形にした。今から考えれば私の受けたプログラムは実にモホリ=ナジ的であったなと痛感する。
良く知られるようにバウハウスはW・グロピウス派とイッテン派との激しいが故に根の深い確執があった。イッテンはドイツ表現主義の流れを汲む。そのストラグルを経て、グロピウス派はバウハウスデザイン教育の純化を成した。モホリ=ナジはグロピウス的抽象理論に沿ったのである。ゲニウス・ロキはバウハウス近くの小川のほとり、森の影に潜んだ。
しかし、歴史は実に面白い複雑さをそれ自体に内在させる。特に設計教育という系に於いてはなおさらな事だ。グロピウスの純化作業の裏に隠されたイッテン等の伏流は建築史の本流を補完し続けたのである。(この詳細は別の機会にしたい。)歴史は勝者によってのみ紡ぎ出されるものではない。それは敗者の影によってもあぶり出される、実に複雑な陰影に満ち満ちた、全体を自ずから形成する。
早稲田建築三年の設計製図には、だからその歴史だって未だに複雑に反映されるのである。敗れたイッテン派の影の力がキチンと反映されてくる。勝ったグロピウス派の政治だって反映されている。それが近代ドイツ表現主義にルーツを持つものであるとは自覚もしない学生のドローイングにそれは継承されてくる。建築史家渡辺保忠のバウハウスによるモダニズム・デザインに対する史的認識を介して、それは学生達によって表現され続けているのである。
そんな視界の中で、私は設計製図教育を考えたいと夢想しているのだ。だからこそ、どうもこのシステムが今、現代ポストモダーンな歴史の現実には、どうやらあんまりしっくりしない、合っていないのではないか、の疑問を同時に持たせるのである。
共同課題の共通ルールとして最終的に十点の選択を余儀なくされた。積極的にも幾つかの学生作品の選択を望んだ。何故なら良い努力には良いクリティークが義務としてなされねばならぬのは自明の理であるから。全ての学生作品に等分のクリティークを割くエネルギーを教師は持ち得ない。それは不可能に近い事だ。やっぱり良いモノには良いクリティークが触発されるのは極く極く自然な事でもある。教師にとってクリティークは自らの存在価値の橋頭堡でもある。
クリティークと言っても最終結果に対する寸評では仲々役には立たぬ。毎回のエスキス、プレゼンテーションに即して、少し計りの手直し作業、身をもって示す類のクリティーク作業も含まれる。
先ず、学生に図像、図型をもって提案させる。その最初の一歩を基に、二歩目の方向を手を加えてでも示す。具体的に手を加えても、まだ学生には充二分には伝わらないのは、すでに知っている。それを、出来る限り繰り返す。辛抱強く繰り返す。すると、何人かの学生がスーッとこちらの考え方を嗅ぎ取って受容し始める。それが起きると延びは遅くはない。
肝心な事は、最初の一歩の学生の意志の発見である。石コロであろうと、土マンジュウであろうと、ただの木片であっても構わないのだ。素材さえあれば、いかようにも磨き、時には少しでも育て上げる事も出来よう。
今年も何点かの作品はそのようにして発見され、磨き上げられ、育ったように思う。それは具体的に合同講評会で学生の作品を示しながら伝えたいと考える。
要するに、唐突な様に聞こえようが、設計製図教育には歴史家が入るべきだと言っている。文化の結晶としての建築の中枢は生きた建築史家の存在なのである。批評家、理論家とそれを言い直しても良い。
一番困ってしまうのが、最初の一歩も何も無い建築学生達である。三年生の秋になって初めて、建築に対する自分の考え、情熱、意志の力はそれ程のものではなかったと気付くタイプの学生群である。勿論、いまだに気附きたくないから、気附いていない学生群もそれに入るのは言う迄もない。東大の場合では、三年生は専門課程の製図教育は初年度であるから、この考えはあんまり通用しない。東大には二年間の駒場の教養課程の特権がある。これは他の大学にはない東大の特権である。そして、どうやら建築設計製図に最も必要な基礎体力らしきは、この一般教養の積み重ねによって得られる性格のものでなかろうかとも思うのだ。実に複雑である。
東大建築学生は設計製図における早稲田建築学生の一部の早熟振りを気にする事はない。早熟振りは理の当然なのだ。二年生から、設計まがいをやらされているのだから。私の見るところでは、早稲田建築学生の特に三年生の表現力は世界的に眺めてみても並々ならぬものがあった。しかし、四年生、大学院の二年間を経て、その表現力は翳りを見せてくるのも、世界に有数である。凋落振りも群を抜いている。十年以上もこんな現象が続いているのだから、これは明らかに構造的な欠陥があるのだ。
表現能力を模倣するのは比較的に容易である。上手に表現されている図面群を眺め、その配列振りに眼をこらしてみればノウハウは比較的容易に頭に入る。実に単純である。あとは手を少し計り動かしてみれば納得も出来よう。ああ、こんな風にやれば考えを良く人に伝達できるのだな、話しを抜きにして、というのが良く解る。問題は、話しを抜きにしてという点にある。建築のプレゼンテーションは話しを抜きにして評価され、その評価が定着される事が多い。眼は口程にモノを言うの例えではないが、言葉は考えそのものの輪郭をなぞる限りにおいて、かなり的確である。一寸一分の狂いがないとも言える。しかしながら、図形は、視覚的媒体は、時にそれ以上の働きをなす事がある。つまり、考えていない事まで表現してしまう、神の手の如き働きをする事がある。これが設計製図の最高度の極点だ。しかし、そんな極点は、それを発見評価する人間が居て、初めて生きる。そして、発見者はその何ともモヤモヤとした気分、気配の如きを、言葉を尽して言語空間化する必要がある。そうしないと制作者すなわち学生は自分の成した事の良さを自覚できぬから。
自覚できぬ、つまり意識化できぬ才質は延びてゆく事が実に困難なのである。階段を登る如くに、一年毎に十年程をかけて設計というのは上達する類のものだ。ただ、最初の一歩は本人次第なのだ。その最初の一歩とは何であるか。それは先ず建築らしきが好きであるという事だ。ここでらしきと附け加えるのは、私だって建築って簡単に呼んでいるけど、その中枢はまだよく解らない。だから、偉そうな事は言えない。でも、本当に好きですぞ。半端じゃありません。三仏寺の投入堂なんかは最近は夢に迄出てくるからな。何とかして、ああいうのを作りたいのだけれど、チャンスがあるかどうかは解らない。だから虎視眈々と狙っている。狙い続けている。依頼者を獲得できぬのは決して不幸だとばかりは言えぬ。口惜しいだけだ。自分で自分が口惜しいだけ。学生と同じだ。こんなことも出来ぬのかと、イラ立ち続けるのが学生時代だと思うけれど、私の場合はこんな依頼主も現われてくれぬのかという歯ぎしりに成長しているに過ぎぬ。
どんな形式でも良い、好きでありさえすれば、そうすれば最初の一歩は踏み出せる。恐らく、新入生の頃は大半の学生にそれがあった筈だ。
好きな建築、好きな絵画、好きな映画、好きな小説、好きな哲学、好きな料理、好きな人間、好きな音楽、それを先ず、一度だけでも良いから抽象的な図形にしてみたら良い。
例えば丹下健三設計の代々木のオリンピックプールが好きであれば、それを出来るだけ抽象的にスケッチして、こんな感じの設計にしてみたいのだけれど、と製図の課題の教師のところへ持ち込んでみたらどうか。
オリンピックプールより原宿の街並みの方が好きだという学生がいたら、それをスケッチして、抽象化して課題に当てはめてみたら良いのだ。ただし、言葉だけでは駄目。「オリンピックプールみたいのをやりたい」って言われたって教師の方だってどう受け止めていいのか解りようが無いからな。街の雰囲気が好きです、と言われても、「そう、そりゃいいね。ブラブラ歩いてなさい」としか言いようが無い。
でも、そこに一枚のスケッチ、少し好きなモノを抽象化したスケッチが一枚出てきたら、更にそれに学生の説明の言葉がそえられたりしたら、教師はそれにアドバイスが出来なければ駄目だ。そこには学生の、建築への意志が表明されているのだから。
公開講評会の発表形式が決まった。
それぞれ十組。順次発表は東大一、早稲田一、の完全にガチンコ方式である。残りの東大十組、早稲田十五組程は入り乱れてのプレゼンテーションとなった。
早稲田の学生には建築学科ですら、大学入試で東大に落ちて早稲田に来ているのがいる。把握していないが、恐らく相当数居る筈だ。
つまり早稲田の学生は、ハッキリと一度負けた相手との再試合だ、位の気持で行けばいいのだ。むづかしい事考えるんじゃないの。シッカリ気持の腰を据える。フンドシを締め直す。そうしないと、赤門見ただけでうつむいちゃう学生がいそうだ。特に最近は多そうだ。
だから、野球で言えば一番バッター。剣道なら先鋒は大事だな。と教師としては余計な事迄考え始める。教師じゃなくて、これでは監督だな。でも仕方ない。一番最初のプレゼンテーターがびびったり臆したりしたら、今年は総崩れになり兼ねぬ。一番バッターにどれを据えるか、大将は温存しときたいし。と、そんな事、考え始めたら何とこれが意外にも面白いではないか。極めつきのゲーム論理の域に迄入りそうだ。
それぞれの案の特色や力量、そしてプレゼンテーターのキャラクターまでが良く頭に入ってくるのだ。共同課題、しかも対抗戦の役得である。十組+αの布陣を、つまりフォーメーションを考えるのが、より良くそれぞれの作品を批評する事に自然になってくる。
どうせ手の内はこのノートで明かしているのだからラインアップも皆公表してしまおう。今年の早稲田は一作品ではあるが非常に良いモノを得た。ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸は眼キキの人達によれば凄味のある、日本で言えばある種の神社のたたずまいがあると言われている。神社の本体は空虚であり、同時に物神性でもある。このチームの作品は、そんな黙示録的な予兆としての建築を良く表現し得ていた。学生、つまりまだ素人、の特権である。ミース・ファン・デル・ローエの建築をグローバリズムの素、つまりは平板なインターナショナリズムの帰結としてとらえるのは俗論でしかない。均質空間、とか、それの翻訳語にしか過ぎぬ。フラットとかの呼び方は何も未来を産み出さない。
この作品は、そのミース的な無機質世界らしきを突き抜けて、別種の予感の如きを表現しかかっている。勿論、こんな大ゲサな物言い自体が理知に欠けている。そんな事は充二分に知っている。しかし、我々教師はね、本当に待ち望んでもいるのだ。若い、無知で、何の経験らしきも無い世代、つまりは学生から、見た事も無い様な建築世界の様相が示されるのではないかと言う、その事を。細かい事情は抜きにして、この作品が示し得ている世界は、まさにそれに近いものがある。
これは、かなりの水準の作品ですぞ。むしろ評者、教師の水準にナイフを突きつけている作品である、コレワ。そんな感じを見事に表現し切った作品である。もし、これが実現したら世界は仰天するだろうな。
この作品を作ったチームは良いペアーであった。非常に質の良い詩的感性を持つ女性と、それをキチンと建築図面におとす事が出来る男子学生。この男子学生の働きは大きい。女子学生は詩人だから、実ワ仲々イメージを物体に置換できない。だからドローイングを念入りにした。それを別種の才を持つ男子学生が、キチンと傷めずに、製図した。アトの一人の学生は、ただ、ただ、そこに居た。余計な事も言わず、せず、時々やりかかったけれど、基本的には空気だった。それが良かった。
かくの如き、常軌を逸した感想、思い入れ自体を又、冷笑してはならぬ。冷笑は設計製図の教師自身の存在価値に降りかかるものだ。
学生の作る製図に感動し得ぬのは設計製図教師たり得ない。又同時に、それは建築家としても失格なのだ、実ワ。
早稲田建築としては、これを中軸に、陣形を整えるデザインをする。
十六日の公開講評会のプレゼンテーションリスト(予定)
1)チーム Cooking
地域計画の初歩的アプローチ、その町の雰囲気を体感する、それをより過度に進めた生活学的アプローチとが上手くミックスした案。具体的な特色は移動店舗や、幾つかのモビリティーをベースにした道具をこのエリアに持ち込むのを提案している。デザインもやり過ぎず、中庸で仲々良い。恐らく、市民の方々、インド人の方々にも解りやすい案であろう。これが一番バッター。
2)チーム公共的占有
当初は非公共とニックネームで呼ばれていた。言っている事の意味はまだ充分にこちらに理解できぬのだが、特にB課題、団地内の計画が秀逸である。その計画、造型は良くこの団地計画の特色をつかんでいると思われる。メディアセンターの計画、デザインも、さしたる特色は無いのだが、とても趣向が良い。さわやかである。
3)チームトランクルーム
なにしろ、強引なアイデアで走ったもの。当初は物流倉庫に着目した、あるいは着目し過ぎたチームであったが、団地棟の結節点に細身の小タワーを附加する事で立体的に、不足機能を附加しようという案。リアリティもあり、団地の増築として面白い。又、その小タワーも色々と工夫されたデザインが施されており、デザインが好きなチームである。又、見上げる位に大きな模型を作って、先生方に見上げてもらえと言ったら、本当に見上げてしまうようなのを作ったので、それは立派であった。メディアセンターの計画に難あり、それを当日迄に修正出来るかがポイントである。
4)チーム NO.18 モノリス
この作品に関しては、これ迄に触れてきたので繰り返さぬが、強い案だと思う。プレゼンテーションも良い。御覧下さい。ただし、一般市民やインド人の方々には理解されにくいとは思う。問題作である。ホームランを狙わせたい。
5)チーム NO.20 ラーキン
チームの編成迄変えて、努力したチームである。フランク・ロイド・ライトのオフィスビルの名作ラーキンビルを模倣した。そこのところの努力の仕方をプレゼンテーション当日、いかに皆に説き聞かせるかが勝負どころである。又、短期間ではあったが自分達の模倣の進化状態を上手く伝えられたら良い。設計製図の学習モデルとしても興味深いものとなろう。どう話せるかがポイント。又、彼等自身が今度の体験をどう生かしてゆけるのかも当然の事ながら大事だ。
6)チーム NO.12 つくしんぼ
良く努力して育ったので、つくしんぼというニックネームがつけられたチーム。チームワークとしては最良の部類に属する。それぞれが、つつしみ深く、ひかえ目に自分を主張して、当然妥協もする。協調して実に平和な姿を作り出してきた。その作業、学習の有様が良くそのまま建築計画に表わされている。当初はひかえ目過ぎて、何処に居るのかも解らず、つくしんぼの如くに、乱暴者の足に踏みにじられていた印象もあったが、最近では仲々、堂々としたデッカイつくしんぼに育ってきたのが嬉しい。少子化社会のあり得べき見本みたいなチームだ。団地内計画のデザインがとても良い。
7)チーム NO.22 バラの名前
何故、バラの名前という高尚なニックネームがついてしまったのか、それがとても神秘的なチームである。ウンベルト・エーコの「バラの名前」読んだ?と聞いたら、チームの一人だけ、読みましたと答えた、それだけだったかも知れない。しかし、バラの名前読んだの、と尋ねさせた何かがあった事も確かな事だ。光の中の図書館というような当初のドローイングとは似ても似つかぬ案になっているが、勿論あのオリジナル・ドローイングは今の彼等の力ではとても作図迄にも落し込めなかった。しかし、作図に迄落とし込める機会が失われたわけではない。身体が強くないのが心配であるが、これを機会に本格的な学習をしたら良い。先ず身体作りをした方が良いな。
8)チーム NO.16 パーゴラ
団地内計画、メディアセンター計画共に、さわやかな風が吹き抜けるような案である。つまり、建築という程堅固な固い概念ではなく、内と外とが、それ程に固く分かれていない状態を作り出している案である。昔、といっても一九五〇年代以前の日本の家屋、町並みがかろうじて保有していた自然との共存状態と呼ぶべき状態を上手く表わしている。その事を上手く説明できれば、5番のラーキンチームと順番を代えても良いと思われる。モノリスとは好対称な案でもあるから。
以上の八点のみが十一月十五日現在固定されていて、あとはまだ決められぬ状態である。第二部幕開けの三作品はほぼ決定している。アイデア・造型は面白いのだけれど、非力でまとめ切れなかった作品を先ず見ていただく。
講評とアドバイス その1
早稲田大学 5班 クッキング
とても良いプレゼンテーションであった。西葛西の町、与えられたサイトの特色を身体、感性で良く受け止め、それを明るくカラフルな幾つものドローイングに表現していた。ドローイングは現代感覚に溢れ、活気に満ちており、今和次郎の考現学風を良く学んでいるのをうかがわせた。良く勉強した。これを機会に更に今和次郎の研究した事、更には吉阪隆正の残したスケッチ等を参考にして、このドローイング能力を高めてゆくと大変良いと考えた。東京大学生が作った素晴しい街の模型作りと同じような情熱が感じられる。中間講評で指摘したようにあの街の模型は良く作り込んであり、手で作っているうちに東大学生は西葛西の街を自然に身体で再体験し創作のヒントにしていた筈だ。とても良い街の模型だった。しかもグーグル世代の鳥瞰感覚も良く表現されていた。鳥の眼と、虫の眼、時にはモグラの眼になってみせるのが設計の極意だからね。そんな事を吉阪隆正は良く言っていた。吉阪の著作を読んでみるのも悪くない。とても大型の先生だった。あんまり学校には出現しないで世界中を飛び歩いていたけれど、コスモポリタンとはかくの如くかと感じさせてくれる先生でもあった。君達のドローイングに私はそれと似通った匂いを嗅ぎ取っていた。
課題の為ばかりではなく、自分で自主的にこのドローイング的才質を積み上げてゆくと、とても素晴しい。言うは易く、行うは実に困難だけれどね。でも、本当に実行したら女性の今和次郎が出現するでしょう。
クッキングという君達の造語はとても新鮮だったけれど、当然すでに先行者がいてね、編集者達だったが、ロイド・カーン達だったと記憶しているけど、バッキー・フラーの思想と言うよりもビジョンを読み直した人達がいて、彼等は「ドーム・クック・ブック」という本を作った。アメリカがベトナム戦争で傷つく以前の良きアメリカの精神、フロンティア・スピリッツを彼等は継承したんだ。君等のドローイングからバッキー・フラーを連想するのは余りにも手前味噌だけれど、クッキングという言葉から自然に連想したのはそんな連中の顔だよ。
つまりクッキングという言葉の背中には、すでに多くの歴史が潜んでいるんだ。それをもっと勉強しなさい。無意識なままにしておくと、思い付きで終ってしまう。
「生活学と地域計画の融合」と君達は言ったけれど、言うは易く、実践は困難なんだ。でも君達は直観的にそれを嗅ぎつけた。それが収穫なのだよ。
移動性、可動性はこれからの建築のテーマとしてもとても重要だ。君達は理屈からではなく、直観でそれにも接近していた。可動屋台的な自動車の活用と言う事を介して。自動車のデザイン迄やっていたのは大変良い。やらないより、はるかに良い。エネルギーがある。
メディア・センターという我々が与えた古めかしい課題に、君達はその箱物の前に、小さなモビリティー・ステーションを設置している。私だったら、メディア・センターの古めかしい設計よりも、このステーションのアイデアを更に拡張する努力をするだろう。しかし、それは思い付きだけでは不可能であるから、短期間の設計製図の課題では不向きなんだ。だから敢えて言わなかった。興味が持続するようであれば、更に勉強、研究してみたら良い。これも深く考えれば考える程に面白いテーマになるだろう。恐らく、今和次郎が今に生きていたら、そんな風に考えるのではないか。歴史はいつも新しいのだ。
東京大学12班の考えは早稲田大学クッキングチームと実は同じ様な事を考えている。モビリティと概念づけるよりも、流動性への着目と呼んだ方がより精確である。講評会でも述べた通り、その「動き」への若い知性が、より具象的にモビリティという早稲田クッキングのデザイン展開になるか、流動性そのものを抽象化した建築モデルにしようと試みるかの違いに過ぎない。まだ上手に建築化への手掛かりがつかめていない様な気がしたが、考えの中枢は誠に正しく、適確である。講評会で私は「チョッと古いけど、村上春樹的」な感触があると述べた。少し言葉足らずであったからもう少し書き言葉に直して講評を続けてみる。
ただし、この講評は余計なお世話ではあるが、極上なものである事も確かであるから、成程ネと思ったら私の処にボールペンのいいデザインの奴一本くらいは送る事。何故なら、私は東京大学から給料もらってないし、合同課題の講評の義務もすでに果たしているわけで、いわば時間外勤務になるわけだから。勿論、いいデザインのものと言うのは安価であると言うのと同義だから暮々も誤解の無いように。成程ネと思わなかったら勿論それは必要ではない。
東大12班の作品は敷地模型の上に置かれていた透明なフィルムに白く描かれた流動的なフォルムの図形の表現に尽きている。あのフィルムの意味を徹底して考えたら面白かったし、大きな可能性もあったのではないか。あのフィルムは敷地模型の上でうねりを見せる立体になっていた。つまり何かの立体的思考を思わせた。一方、君たちのパワーポイントのプレゼンテーションは一見立体を描いている如くに視えて、極めて二次元なものにしか視えなかった。解り易い言葉を落し込めば、グラフィックに近い世界であった。建築的な断面図が描かれていても、そこに立体は出現して来なかった。断面図が上手に描けていなかったなんてつまらぬ事を言っているのではない。断面図をもう少し経験主義的に熟成した手続きを経て表現したって、それは君たちが考えようとしている事とは異なる世界なのだと思われる。
あの透明なフィルムに描かれていた図形を何と説明していたか正確に憶えていないし、一番肝心な透明フィルム自体の説明が無かったので不明だが、私は君達が透明フィルムに図形を描かねばならなかった、あるいは描こうと思ったその事に着目したい。
実は僕もあの土地を訪ねて、歩いた時、君達が描いたような流れを感得した。でもね、それは君達の描いた自由曲線ではなくって太い直線だった。与件として与えられたメディアセンターのサイトと現存のスポーツセンターを結ぶ、はっきりとした意識の流れだ。ここで言う意識の流れは、こうあって欲しいと考える設計者の意識であり、当然、人々、つまり市民の皆さん、インド人知的労働者もそうあるだろうと言う予測に根差した計画の意識だ。
つまり、何らかのメディアセンターが出来たら、スポーツセンターとの間に合理的な人の流れが出来るであろう、出来たら良いというアイデアだ。つまり、メディアセンターらしきが出現したら、スポーツセンターとの間に新しい人間の流れが必ず出現するだろうという予測だ。人間の日常は形而上学的なものではない。休日にスポーツセンターに来る市民の何がしかは帰りに図書館に寄ってゆこうと考えるだろうし、又、その逆もあり得る。その時に人間は当然最短距離を歩こうとする。つまり、三角形の二辺の和は、他の一辺よりも必ず大きい、のだ。
つまり、メディアセンターとスポーツセンターを関係づけようとする市民は、あの、間にある四角辻を介して三角形の二辺は歩かない。団地内を横切る最短の直線を歩きたいのだ。君達の感じた流れ、恐らくは設計者としての意識の流れの実体はそれであったのではないかと、僕は思う。
学生達に偉そうな事言えないから、僕も二時間弱あの街を歩いた。その時に感じたのが、スポーツセンターとメディアセンターを最短距離で結ぶ流れをデザインして、余暇社会に於けるスポーツと読書の市民生活像といったものをデザインした奴が当たりだなと実は思っていた。
余りにも正解過ぎて早稲田の学生達にも黙っていた。カンニングはいけないからな。
中間講評の際に言ったでしょ。設計製図は知恵と体力ですよって。アレって本当は、それこそ、設計製図のヒント、そのものだったんだよ。スポーツセンターとメディアセンターを最短距離で結んだらって言う。
君たちの案への私の共感は先ず第一に、その最短距離の流れに気付こうとする本能があったっていう事。これは大事な事なんだ。君達、あるいは君にはその本能、直観する力があるのだよ。素晴しい財産だぜコレワ。
講評会終了後のパーティで君は言った。早稲田のモノリス良かったですって。でも君はまだ知らない。あの早稲田の四番のモノリスの良いのはね、君等と同じように、何となく同じような、街の視えない計画すべき流れを感じ取っていて、メディアセンターの位置と、対角線を形作るところに、必要の無い建築を、立体駐車場として配置していた事でもあるんだ。だからこそ君は共感を寄せられるのだ。設計って本当に面白い。
さて、君達の案の良い処は指摘したから、チョッと難ありという点について。「古い村上春樹みたい。」な感触について、述べる。
街の流動的な流れを曲線状に、しかも複雑にコンピューター画像にフラットに表現した君達の気持ち、それはチョッとギクリとするだろうけれど、建築史の中ではアールヌーボーの創作者達の気持と似通ってはいないだろうか。
先程の話しに戻ろう。コンピューターによる画像に立体が出現せずに、透明なフィルムに描いた図形に立体が現われかかっていたという件に。
そこにアールヌーボーの問題が登場するんだ。君達の直観は街への計画の流れの意識だった。しかしコンピューターによる画像の無意識な中心はアールヌーボー的世界であるのではないか。
結論を言ってしまえば、君達の透明フィルムの立体図形のモデルは君達の脳内風景のモデルであろうとしていたのではないか。しかも物質の構成を伴わざるを得ない建築的風景のコンピューター時代の初期モデルになり得たのではないかと僕は憶測したい。希望するのは自由だから。そういう本格的な若い知性の出現を待ちたいから。透明フィルムという、それでも物質に描かれていて、下の土地模型、街の模型と不思議な交差関係を持つ新しい地のイメージで、それはあったのではないか。透明とか半透明とかの俗論ではなく、物質と眼に視えるモノ、あるいは物質が脳内風景に入り込む地、つまりランドスケープ状の意識のフィルムについて、もう少しやさしく言えば意識だけで構築される、重力を伴なわぬ建築というような空間モデルを考える糸口になったのではないかと思った。マア、そこ迄飛ばなくても、何故、透明フィルムに図形を描く事によって街の流れを表現できると考えたのかは、一度キチンと考えて記録(メモ)を残しておいた方が良いと思われる。今、僕の眼前には君達のモデルが無いので、私の考えも生ぬるくなってしまう。つまり、実物に対している時の人間の想像力、感応力、イマジネーションの構築力は、何もフィルターとして介さぬ時よりも、はるかに確かな実在性を持ち得るのではないか。それが情報化時代の物質の、つまり建築的表われの橋頭堡なのではないか。解り易く言い直す。君達の意識のラインがコンクリートのうねる床や屋根として、コンクリートの表示を施された途端に、君達の考えは、君達が望んでいる事から遠離る一方なのではないだろうか。つまり、街に何か計画すべき意識の流れを読み取る知力と、その流れを直接コンクリートの素材に置き換えてしまう手つきとは、かなり開きがあるのではないかと思う。簡単に物資化、つまり建築的立体にさせようとしない方が良いのではないか。これは設計方法のモデルであると意識化した方が良かった。
パソコンとケイタイ的モビリティは必ず更に進化する。それは人間の欲望に根差しているから。そのテクノロジーが二次元を易々と超える枠、方法を持ち始めるのも時間の問題であろう。あるいはそのテクノロジーが人間の脳内風景にもう一つの立体を立ち上げる事もあるだろう。君達の直観はそれを予測しようとしているのではないか。
誤訳、誤読は時に正しい翻訳を超える事もある。君達のアイデアにはそんな誤読を促すような力があった。
アールヌーボーの件をまだ充分には言っていないが、装飾芸術に属する世界を、街のスケールの考えと比較するのは間違いだとは私は考えない。君達のフリーハンドの曲線の連続を、一気に思考モデルの中で室内スケール、あるいは小建築のスケールに縮めてみると、アッという間にアールヌーボー世界の流動的曲線の世界になってしまいはしないか。街に計画の視えない意識の流れを見て取る事を充分に意識化する努力をしないと、主観的感性的、しかし時代の趣向は汲み取っていたアールヌーボーの流動のラインに限りなく近づくのではないか。
早稲田23班 非公共非占有空間的
君たちの作品の特色は突きつめると、計画・デザインによって、ともすれば公共、私有、商業として現れる資本によって占有されやすい土地そのものを、デザインによって作られる空間の質によって別種の価値を持たせられないか、という事でしょう。もっとシンプルに言い直せば土地は必ず何者かに属さざるを得ないが、空間は、あるいは空虚そのものはその属性をあいまいに解放出来る可能性があるかも知れない、それがデザインだと言っている。マア、そんなヘ理屈はとも角として、あいまいな美しさのある作品でした。それが意識化されると次のステップに進む事ができます。特に団地内の施設計画で、今ある建物の配置計画の角度を巧みに使用した小さな変形コートヤードのデザインは良かった。安手の言葉ですが、すでに在る建築との共生、寄生のデザインですが、そのカテゴリーに関しては君達のデザインが際立っていたと思います。出来るだけ努力をして、君達が考案したデザインを意識的に言語化しておいた方が良いでしょう。そうしないと積み上げたり、次の段階に操作する事が出来なくなり、又、白紙からの出発になりかねません。
しかし、作家論で三島由紀夫がはからずも言った如くに批評と創作はコインの裏表で、ともすれば批評は創作の飛翔をむしばむ事がある。君たちは初心者だからその事をまだ恐れる必要はない。思い切り自分を信じて、思い切り豊かになったら良い。それに幸いな事に君たちは女性であるから、それ程三島の言う事を真に受けなくても良い。女性はもともと肝玉がすわっているものだ。でも若いうちに沢山のモノを吸収しておいた方が賢い。アッという間に年は過ぎ去ってゆくものです。
最近の若い女性の文学(少し古い言葉ですが)の世界、物書きの世界への登場振りに着目したい。あの人達は君たちとそんなに年の開きはない。あの女性達の不安を想像するに恐いものがある位だ。でも図太いよね彼女達は。あの感じをもう少しエレガントに身につけたらいい。
文学部のキャンパスは近いから、出掛けていってハード目の研究会で眼を光らせている女の子を見つけて友達になったらいい。恐らく君達とモノの考え方に相当の開きがある筈だ。早稲田文学で作家志望なんて女性のモノの考え方、感性の働かせ方は随分参考になるのではないかな。ライフスタイルは参考にしない方がいいかも知れないけど。
君たちに心配なのは本当に好きな建築があるのかなっていう事。勿論現代モノではなくって出来れば古典と言われるモノでね。それがあると情熱は持続しやすい。十年二〇年四〇年と続く事ができる。現代モノ、今モノにつかまってしまうと情熱も消費的サイクルに落ち込みやすいんだ。
僕は君達の作品にある種の書院建築を感じたけどね。日本建築の書院の名作を少し体験してみたらどうかね。三井寺圓城寺の光浄院が最高傑作と言われている。銀閣寺東求堂は君達にはまだ早過ぎる。アレは変な建築なんだ。毒を持っている。光浄院は実にオーソドックス、正統です。しかし庭と建築の関係も素晴らしい。数寄屋程に崩れていない。三年生の秋にチョッと頑張って、ある程度の初歩的な事はした。自分達の作った作品持って光浄院を見学に出掛ける。そして、何処が似てるんだろうと絶望的な気持ちになる。わかんなーいと明るく言う。しかし、似ているんです。
書院と数寄屋に関しては大江先生が書いておられた記憶がある。でも先ずは身体を書院空間にひたしてみる。解らなかったら何度も訪ねてみる。静かな庭のような空間が出来たらいいねと、エスキスで度々言ったでしょう。あのアドバイスは忘れないでおいて貰いたい。二〇年位はね。忘れないでいれば良い建築を作れると思います。
早稲田13班 シャフト・トランクチーム
この案の特色は、現在の西葛西団地に不足しているやに想われる機能を、細身のシャフト状に垂直空間化して、それを中高層アパートの平面の垂直動線部分に、サラリと附加したところである。このサラリとした印象が実はとても大事である。極めて現代的である。大仰にみえて、実は既存建築に附きそわせている。差し掛けている。最小限なモノを附加して、既存の風景を大きく更新しているのである。
このグループは当初物流と叫んで、団地の各住戸には物が一杯過ぎて溢れ返っているので、トランクルームの新設が急務だの考えに凝り固まっていた。都築響一の「東京スタイル」の影響か、あるいは自分達の部屋の実感なのだろう。随分前に私も日本引越センターであったかに調べに行って、例えば3LDKの団地の部屋の一つは不要と思われる消費物の倉庫になっているのを知り考えさせられた。だから、彼等の直観は正しいと思う。
しかし、当初の案はそれ以上のものではなかった。その直観をいささか大仰な絵にしただけのものであった。これでは実は設計製図という持続的なトレーニングにはなり得ない。直観の視覚化に過ぎない。
実は設計製図は実に文化的領域に属するものだ。彼等はエスキスを続けているうちに、何とか自力でシャフトを附加するという、直観を再び手に入れた。大事な事はトランクルームの過剰な表現をたしなめられて、そうかこれではどうにもならないのかも知れないと、ホンの少しでも気付いた、そこなのだ。彼等のエスキス作業はアイデアだけの点作業から線としての持続性、つまり連続的スタディの姿に転換したのである。
学生は面白いもので、シャフトの想を得た途端それは今度はトランクルーム(物流)への着目、ブルータルな表現から、いきなりブルータス的消費生活的流行的表現に変相してしまい、私は仰天したのだが、それはそれで仕方が無い事でもある。学生に流行に鈍感になれと言う訳にはいかない。せいぜい建築史を少しでも考えよ、特に近代を!としか言えない。つまり、このグループはブルータリズム的物流表現一発勝負から、ブルータス的傾向の内的表現らしきの発露のミックスへと展開したのである。東大での発表はまさにその混合作業の中途のものであった。
君たちは、今度の設計製図のエスキス過程を一度、キチンと振り返って、それをキチンと記録しておいた方が良い。そうしないと更にその先に行くのは困難になる。直観、アイデアの持続的連発は不可能なのだ。だからこそ創作者は方法という概念にとりつかれるし、さらには歴史というのも方法の一つか、等と想ったりするのだ。
それはさておく。
君たちの作品はブルータリズムとブルータス的の混在併存過程の中にある。つまり、ダブルBスタイル。ダブル・ブルータである。
しかし、良く大きい模型を作った。あの努力は大変良い。でも、よおく見ると小さく作った模型と大きな模型、スケールが違うのに示している内容にほとんど変わりが無い。そこが残念だった。先生方に見上げてもらうという君達の意図も、発表当日は先生方の座る席が少しきゅうくつで自由に動けず、見上げてもらえなかったのは残念だった。
しかし、大きな模型を作る意味は、本当はそんなところには無い事もハッキリしている。自分の身体を、眼をその内に入れられるという事につきるのだ。建築模型の縮尺の面白さだ。縮尺を自由に旅するのも、歴史を自由に旅するのと同じ位に、設計製図の楽しみなんだ。君達は良い努力をしたから、もう少しアドバイスを続けよう。
早稲田13班 シャフト・トランクルーム
このチームの諸君達の次のステップについてのアドヴァイスを。
有体に言えば、トランクルーム、物流(パレット)への直接的な君達の関心は極めて表面をなぞる類の感覚的なものであると知っていた。それは一向に差し仕えない。何かに心ひかれるのは、何も心ひかれぬのよりズーッと良い。好奇心のゲートは開かれたのかも知れない。次は是非共、倉庫の歴史に眼を向けたらどうかな。物流・パレットへの関心は思いつきであり、思いつきのままに放り投げていると、それはゴミになりドブ河に流れ去ってしまう。ほとんどの学生が恐らく設計製図の日々をそうしたドブ河に流しているのが現実だろう。
倉庫の歴史は面白いぞ。
メディアセンターと呼んだ今度のもう一つの課題の箱だって、突きつめれば一面では本の倉庫だと考えられるし、恐らく君達はそう考えたかったのだろう。倉庫のタワーを二本たてて、その一方を横に寝せてみせるというアイデアは面白かった。でも説得力には欠けていた。何故なら倉庫自体の意味が一向に尽きつめられていなかったから。何故、突きつめようとしなかったのか、それは倉庫という建築への知的教養が少な過ぎたから。知的教養とは何か、それは設計製図のアイデアが生まれる畑である。アイデアの倉庫だと言った方が君達には解り易いかも知れない。
近代、近世、中世、古代、ありとあらゆる時代の倉庫のありようを研究(勉強)してみたら良い。一生モノの財産になるよ。
君達の倉庫イメージが熟成へと向かわなかったのは、参照するものが無かったからだ。
例えば、イタリアの中世山岳都市サンジミアーノの倉庫タワー。林立する細身の石の塔が都市の風景を叙事詩的に作り上げたものだ。ルイス・カーンはこの倉庫都市の風景を参照して、自己の建築風景を作り始めたと言われてもいる。
例えば、日本古代の国宝正倉院。あの建築を見直してごらん、環境と極めてあいまいなままに叫ばれている概念そのものが見事に建築化されている。調べれば調べる程に無数の倉庫の姿が歴史の中に浮かび上がってくるだろう。
今のところは、これ位にしておこう。意図的にね。君達のスタディのプロセスを観察していて、今はこれ位で停止した方が良いだろうと思う。
東大15班
この作品と、一人で対面して細部迄眺め入ると、仲々のものである。どういう風に仲々のものであるかと言えば、私はこの作品によって遠い国での二つの忘れる事が出来ぬ出来事を思い起こし、しばし時を忘れたのである。やっぱり、一人で考え抜いた作品には一人で向き合うのが一番なのだろう。
唐突ではあろうが、忘れる事の出来ぬ出来事というのを伝えてみたい。合同講評会で私はこの作者に対して、あなたが共同設計のシステムから一人孤立せざるを得なかった、その事は理解出来る気がすると言った。再び作品と対面してその第一印象は間違いではなかったと考えた。
課題考案者や、教師の側の意図を乗り越えて、君はこの課題自体が持つ、可能性、そして不可能性に肉薄している。東大、早稲田全45グループ、百四十名程の中で君の考えは最も原理的な性格への傾斜が見て取れる.早稲田の四番のモノリスが詩的直観によって、その性格を帯びざるを得ぬのと同様な世界だ。一方は詩によって、そして君は論理的思考によって。あるいは倫理的と言い直すべきか。
私は君の思考の形式に全てと言って良い位に同意する。しかし、君の思考の形式に問題があるとすれば、その形式が、全て同意するか、全てノーかの匕首を突きつけてくるところがある事だ。原理的な思考へ傾斜せざるを得ない者の宿命かも知れない。だから、君は共同が不可能になり、孤立せざるを得なくなったのだろう。クリティークらしき風を帯びた感想も、君の様な思考を前にすると、いささか原理的にならざるを得ない。梶井基次郎の「檸檬」のようなおもむきが君の作品にはあるよ。そのように真情を吐露せざるを得ない圧力がある。原理というものは、結晶せざるを得ないから猥雑物を排除せざるを得ないのだ。でも、それでは息苦しくなる一方で、私の様な猥雑な者も君に排除されてしまいそうだから、二つの遠い国での出来事を伝えて、それをクリティークの代わりにしたい。例え話の効用に頼ろうというわけだ。
ネパールの首都カトマンドゥ。今は毛主義者達に占有されていて、人々の日常の生活や、君の様な学生達の生活がどのようになっているのか推測もつかない。
カトマンドゥの近くにヒンディーの聖地パシュパティナートがある。ヒンディーは死ぬとここで焼かれて、灰は河に流される。インドのベナレスのガンジス河の有名なガートの光景と同じ、言ってみればヒンドゥー教徒達にとって原理的な光景のエキスが在るところだ。
そこにマザーテレサの死を待つ人の家がある。私は三度目の訪問でようやくその建築の中を見て廻ることができた。二度目迄は恐ろしくて入る事が出来なかった。そこには君が君の作品で描いてみせた世界が全部現実のものとしてある。団地のエレベーターホールが宿泊所みたいになっていたり、ドアを開けると本棚があったり、バスルームが変化して別の目的に使われたり、要するに団地に街を埋め込み、団地がメディアセンターになるという君のヴィジョンが、君のヴィジョンを超えてしまう現実となって、すでに在る。
つまりヒンディーの僧院に街が、世界が埋まっている。そして、そこは、マザーテレサの死を待つ人の家はヒンディー達ではなく、キリスト教の修道女たちによって運営されていた。
私は、君のプレゼンテーションにその家の記憶を重ねて視、そして聴いていた。
東大15班 その2
君が設計製図で描こうとした世界は、これは一種の理想郷(ユートピア)だろうと思う。君の意図がどうあろうと、そこに描かれているのはそれへの渇望でしょう。今在る現実の団地が一つの街、すなわち共同体になってゆく。インド人すなわちヒンディーの移民による一部占有によって、それが実現するかも知れぬ可能性が描かれている。これは現実の制度の枠を超えた一種の倫理的世界でもありましょう。君は人々の市民の倫理世界を信じたいと願っている。その不毛を知りながら、その不可能性を感じながらも。マザーテレサの死を待つ人の家は、まさに死を待つ人、究極の家ですから、人間の尊厳が自然に表現されてしまう、様々な制度の枠を超えて。僧院が病院になり、集合住宅になり、祈りの場所にさえなり得る、そんな理想郷が現実の光景となり得ている。
ブラジルのサンパウロ大学でのワークショップも実に興味深かった。建築の学生達は積極的にファベーラ(貧困なインディオ達、都市流入者達)の住まい作り、街づくりに対面しようとしていた。サンパウロは御承知のように世界有数のメガシティで、東京よりも人口は多い。超高層ビルが、それこそキノコの様に林立している。かたわらの古いダウンタウンのビル群は打捨てられたモノも多く、そのビルを多くのファベーラが不法占拠している。オフィスビルが集合住宅になり、街として自主管理されたりしている。建築学生達はその自主管理的共同体の運営維持に協力して、その有様を学習しようとしていた。ワークショップで私は一人の女子学生に出会った。ガブリエラ、彼女はリオデジャネイロ大学からの学生でリオから夜行バスでサンパウロまでやってきて、彼女の設計製図を私にプレゼンテーションしてくれた。
それは忘れられないものになった。これ迄、出会った設計製図では群を抜く衝撃を私に与えた。
一人の実在するファベーラの老婆の眼鏡のデザインであった。老婆は眼が視えなかった。まぶたが自然に垂れ下がる病に犯されていた。ガブリエラは老婆の眼鏡を作ろうと考えた。垂れ下るまぶたを上に引っ張り上げる仕組みを持つ眼鏡。そればかりではない、様々な病に犯されているファベーラの現実を考え、何故、貧しいインディオ達が都市に流入し、都市でホームレス生活を送らねばならぬのかの研究をすすめ、それに対応する社会政策を考え、老婆の眼鏡をいかに作り得るかの方法をデザインし、その小工場までデザインしようとしていた。
この女学生に、私はアドバイス等できない。逆にアドバイス、クリティークされているようなものだ。その設計製図は私にはまぶしかった。地球の裏側には凄え女学生が居るものだと痛感した。平和ボケした自分が実にうらめしかった。ヒューマニズムらしきを内にも外にもリアルに感じられ難い自分が変な存在だなと知ったのだ。近代建築の初心とでもいうべきを視たとも思った。
君の設計製図にはガブリエラの姿もダブって視えた。でもガブリエラのものとは少し違う感じも当然ある。過度な消費社会の平和の中で君の倫理観らしきを浮かせてしまう辛さがある。
私には勝手に君の設計製図の中に今の日本では過度に見えてしまう原理性、つまり倫理の透明性を視たのです。それをピュアーだと、とり敢えずの印象批評としたのでした。
リオデジャネイロの女子学生ガブリエラの今を良く知りません。ラテンアメリカに踏みとどまっているのだろうかと、君の設計製図を見ながら思った事でした。
東大4班
この作品に関して、私は合同講評会の時には触れなかった。何故ならば印象を上手に自分の頭の中で整理出来なかったから。思いつきの印象を述べたらマズイと考えたからでもある。早稲田の全グループの作品は当然全て私の中に入っていました。そりゃそうでしょう。私はこの課題の指導責任者であり、統括者でもあるから。三年の秋の設計製図は実に重要な建築へのゲートだから。東大は全部で 19 グループです。私の経験では、これ位の数の設計製図作品群を全て把握するのは、とても困難です。それぞれの設計製図参加学生の才質、キャラクター、体力、気力などをほぼ把握するのは大変な時間がかかります。十二グループ、三十六名を把握するのに一ヶ月はかかるのです。東大の 19 グループだって、それぞれのチームの構成員の才質他を感じ取るのは仲々困難だろうと、思います。先生は大変な力を必要とするのです。部分と全体を把握する、そして設計製図の方向をデザインするのには。設計製図は若い学生の世界モデルの提示ですからね。早稲田は 26 グループ、八〇名程ですから、全体を把握するのは設計製図修了間際になってしまう。別に、こんな事を言って君達に下らない、教師のグチを垂れ流そうと思っているわけではない。
この東大、早稲田の合同課題のおかげ様で、恥ずかしながら僕は八〇名単位の早稲田建築学生の才質を初めて、隅々迄知る事が出来ました。初めての事です。昨年の第一回合同課題では、せいぜい三〇名位の把握力にすぎなかたけれど、今年は二回目だから、それは八〇名とは大きく言わずとも、昨年とは倍の六〇名位には拡張する事ができた。
それで、君達のプレゼンテーションに出会った時、僕は動揺した。あのノアの箱船の、仲々の力作ドローイングと神話的マニュフェストを聴かされた時に、実に動揺したんだな。俺が把握している筈の、うちの学生が隠し玉を投げようとしたのかと思ったからだ。それこそビンボールを私に対して投げたとさえ感じた。身内の学生がね。 マ、最初の一枚目の印象はそんなところだ。
で、今、僕は君達の設計製図作品を詳細に見直している。そして、仲々、正攻法で考えているのに驚いている。
君達の作品は、コルビュジェのマルセイユのユニテの二〇〇八年版だよ。ノアの箱船の隠喩はやはり正しくなかった。LCのユニテのポセイドン・アドベンチャーではなかったろうか。それ位に前向きに知的であった。言うのもはばかるが、東大にはいかにもなロバは居ない、と痛感した。それは、さておく。
君達の案は、実に荒っぽいけれど、とても、まともだ。その事に驚いているのだ。君達の考え、つまり設計製図の作品が言おうとしてる特性は、LCのユニテに、リノベーション、コンバージョン、エクステンションそして保存等の現代に必然な設計手法を組み込んで包含したところにある。団地の一棟をエキスパンドして、メディアセンターとし、現存の団地棟をマルセイユのユニテの如くに、屋上からデザイン化、つまり文化化する。そして現団地棟をバランス良く侵触する考えで、まとめようとした。実に筋が通っている。それ故に、もしかしたらあるかも知れない若い世代の可能性のリアリティの芽がある。しかしながら君達のプレゼンテーションの最後の一枚、僕はそれを今、凝視しているのだけれど、この透視図のニュアンスに現われている君達の意志の趣向には、僕は馴じまない。
ここに描かれた現実主義的論理の風景と、君達のノアの箱船のドローイングは、やはり、はるかに異なる世界なのは歴然としている。君達ね、最後の一点の作図と、最初の一点のノアの箱船のドローイングとキチンと連続させて比較してくれたまえ。僕にはこの分離状態は一種の諦念として写るけれど。
トルコのアララット山は想像以上に巨大な山だった。しかも独立峰の山容を示している。富士山は世界の山と比較すると小さな低い山でしかない。ある種の美しさはあるけれど。
考古学者、科学者達が、埋没しているに違いないノアの方船を探査し続けている話しを聞いた。彼等は決して諦めないのだろう。その営為には、人間の尊厳を見るような気がして、出来る事ならばその発掘の現場を訪ねたいとさえ考えたものだ。
君達の設計製図のスタディそのものにも、かすかで小さなものだけれど、そんな考古学者、科学者の物腰、思想、忍耐へと、つながり得る芽を視たいと思いました。
東大16班 都市の葛
中間合同講評の際に、東大のチームで幾つか記憶に残ったものがあった。メディアセンターをキチンと 6000 平米のボリュームに抑え、余計な事をせず、一本のブリッジで団地側と結んだものがあった。派手ではなかったが適確だなと実は思っていた。デザインも日本の中期近代建築(人によって異る見解があろうが)、私にとっては一九五〇年代〜一九六〇年代前半の初々しさ、清々しさを持っていて、ホーッ、いいじゃないのコレと内心つぶやいていた。同時にこのグループをどのように導いてゆくのか、コレワ教師の腕次第だろうとも考えた。教師の楽しみは良い人材との出会いと、どうその素材をのばすか、のばせるかに尽きるから。
で、最終講評会で私はあの案がどう展開したか、どう育てられたかを興味深く、楽しみにしていた。一眼であの案の成長したのを見分ける事は出来なかったが、後に触れる9班「ゲート」か、この16班の作品に変身、成長したのだろうと思われる。もしも、この16班のものであれば、成長は著しい。早稲田建築の学生達の初期エスキスでも実は君達の最終プレゼンテーションのような団地内の計画のアイデアは少なからずあった。すでに触れた東大12班の提出している流動的イメージの様々な意匠の表われである。学生達にはこの一筆描きのラインは何なの?と問うた。勿論キチンと答えられるわけは無い。キチンと答えられるわけが無いだろう事は東大12班のクリティークで書いておいた。このラインは思考モデルであって、仲々直接的に物質化は困難なのだ、それを先ず認識しないと、ただの流動的表現的になってしまうから。君たちの考えの特色はそれにスケールという概念を持ち込んだところだ。団地内の大きな空虚なオープン・スペースにラインすなわち道を挿入してその空虚のスケールを変えるというわけだ。
しかし、人間は、特にその日常は君達が描いた図式の如くに形而上学的なものではない。広い空地を人間は決してジグザグには歩かない。B・フラーが考えた様に、地球上の二点間を結ぶ最短距離は直線なのだ。君達は道という人間の移動の為の道具の建築化を考え、それを団地内に設定しようとした。途端にそれは誤りを含んだアイデアにならざるを得ない。それ故に早稲田建築生にはそのアイデアの多くをたしなめて、再考させた。小建築を挿入して日常的身体的スケールに転換するアイデアは良い。素晴しい。しかし、それと道が合体した途端に怪しくなるんだ。
でも、その折れる坂道がメデァイセンターになってゆくイメージはとても良いと思う。折れる坂道をというのは立体を暗示しているから。そして、メディアセンターのデザインは実に良い。平面形も清々しくなおかつ非凡である。この形が誕生し、進化したプロセスをこそ聞いてみたかった。今度、会ったら話してくれ給え。この形は実に良い。色々と展開できそうだ。団地側前面に突き出したブリッジの平面角度なんかは、しびれるね。格好いい。中身の”混在”とかは、どうでも良い。言ってしまえば無計画の計画らしきに過ぎない。しかし、この形が驚く程多様な人間の行動や想いを励起するだろうかと考えてもごらん、建築が、デザインが持つ可能性の大きさを知るだろう。
講評会修了後、君達には「覚えてますか」と声を掛けられたのだが、残念ながら顔と作品が一致してなくて失礼した。今は、君等の案は凝視したから私の記憶の貯蔵庫に完全にストックされている。不整形な整形プランとして。
ピュアーでありながら複雑な立体への萌芽が読み取れる。
こういう建築をいつか建ててくれ給え。
東大14班 帰属意識からの逃走
第一グループ、つまり先生方に選ばれた作品群の再検討、批評から始めている。東大四点、早稲田三点を振り返ってみた。少し疲れをいやしたい。こんな事をするのは恐らく一生に一度切りの事だろう。だから、もう少し自分で自由に楽しみたい。順序からすれば次は早稲田の4番モノリスだ。これは仲々に手強いから、もう少し後に廻したい。楽しくやれそうなのは無いかと眼を光らせたら、あるわあるわ、後半グループとして区別された集まりは宝の山ではないか。
昔、学生時代にCの採点を喰っていた私としても、この集まりには着目したい。で、後半2グループの中の東大14班、帰属意識からの逃走。
最終講評会のこのチームのプレゼンテーションにはいささか驚いた。しかし、今、手許の資料を良く読み込んでみると・・・この作品に少々唖然として、驚いてしまった自分こそ、気をつけねばならぬなと気付いた。
教育という制度自体が極く極く自然に階層性を自発的に要求してしまう。突きつめればモダニズムデザインはその表われでもある。シンプルで何処にも、いかにもなディオニソス的とは言わずとも、このチームが提出した洞穴的なものをしりぞけ、その趣向をより良いものとしてきた。それは論理的帰結ではなかった。端的に言えば趣味の階層化に過ぎなかった。良い悪いを区別するのは教育しやすいのだ。デザイン、設計教育は実はそれにつきるものでもあった。何を良しとするのは実は趣味、趣向に対する偏愛の如しだ。社会的に良いデザインなんてのはあり得ない。教育しやすいのは階層化の押し進める事でもある。例外をあまり認めない事である。
しかし、バウハウス創設時、その確執において敗者となったイッテンが勝者のグロピウスに勝って、そのデザイン教育のヘゲモニーを握っていたら、そして、ナチズムの血と大地と結び着かぬ見識を示していたなら、東大14班のこの作品は圧倒的な評価を設計教育に於いて受けていただろう。歴史にもしもはあり得ず、それは全て必然の帰結であるとしても、例えば、現今のグローバリズムの帰結としてドバイで起きている様な建築・都市の現象をどう捉えるのか。デザインの階層化の問題を実は提起してもいたR・ベンチューリの失敗は残念なものであったが、今はそれを数倍増の形で、イスラム圏、オイルマネーが実現している。
君達がプレゼンテーションに於いて、この計画はイスラム資本の導入を前提としていると、言明した途端に我々、先生方はこの作品の評価が不可能になってしまっただろう。そんな夢想をしてみるならば、この作品は圧倒的にリアルなのだ。この作品が後半グループに押しやられたのは、何の論理にも基づいてはいない。恐らくはプロテスタント、白人知識階級が押し進めてきたモダニズムデザインの趣味趣向の規準からに過ぎない。
その様に考えてみると、この作品は生き生きとして視えてくる。小じんまりとした日本のマネーじゃ無理だろうが、イスラム圏では大当たりかもなと想うのだ。西葛西にインド人が移民して来る時代である。イスラムだって来て当然だ。
このグループには第一部でプレゼンテーションさせても良かったのではないか。少なくともより大きく主張の場を与えるべきだったと今は思う。
君達には建築デザインを止めてもらいたくない。描かれたスケッチや図像、図形は、そこに書き付けられた個人のつぶやきみたいなものよりも、はるかに良い。
イスタンブールのアヤソフィアの前に、小さな建築があって、壮大な地下宮殿の入口である。地下に降りてゆくと、そこは大貯水地となっている。昔は地上の住民は地下水を汲み上げるのに、長いロープにオケやバケツを使って測鉛する如くにそれを地下に降ろしたようだ。日常の生活が営まれている地下に水の王国があったのだ。現実に存在するんだ。君達のイマジネーションは。ただし、そこには何故だか巨大なメドゥーサの女神像が水に侵されて横たわっている。蛇の髪がユラユラ水中の光に輝いて生きている。
イスラム建築は水の建築であると言いたい位に水を造形の素としている。
東大13班 うさぎはどこ?
この13班と、たった一人に孤立した15班が組んで、ゆっくり時間をかけて研究、考究させたら、大変なプロジェクトが出来るだろうなと、考えさせられた。いくら冷静を装って見せても、どうしたって私には物体(立体)に対する偏愛がある。モダニズムの趣味趣向の階層的教育の偏向からは出来るだけ距離を取ろうとはしているけれど、やはり趣味にはどうしてもかたよりがないわけではない。と言うよりも多いにある。
で、ここ迄やってきてまで気取る事は無いので素直に言う。君達も実に素直に考えを描いているのが了解できたから。それが礼儀だ。
中間講評会の時から、この作品は眼に入っていた。知覚には入らなかった。何故なら私の眼の趣味が受けつけなかった。造形の遊びだな、しかも今風の、という偏見のサングラスを私はかけてしまったのだ。今風の造形遊びは私の趣向の階層性の中では最下位にランクされてしまう。それでこのグループの大きく作ったモデルを見て、私は気持を閉じてしまった。大人を装う創作者としての子供にはあるまじき事だった。だから君たちに、「でも、大人はこどもの出口ではありませんでした」なんて、さめざめとつぶやかれてしまったのでした。自分の趣味の鎖国状態が残念でなりません。
君達は街を、団地を書物に例えたんだ。
そしてルイス・キャロルのアリスをガイドに、その入口を探った。
「書物の中に入ってゆきたいが入り口がみつからない」。それで「アリスはどこだ?鏡の国の査証をおくれ!」となり、表題のうさぎはどこ?に戻る。課題に対する思考のゲートとしては最高級の部類に属するね、コレワ。設計、デザインの言語も次に述べられている。
「でもそれからあたし、何回か変わったみたいで」
「一日でこんなに大きさがいろいろかわると、すごく頭がこんがらがるんです」
という、設計への方向が直観として明言されている。
ここ迄はお見事というしかない。そして、ここ迄により集中すべきだったのではないか。
団地をアリスの迷宮として把える。そこに子供の為のスケールの秩序が一切無い事を看破する。大人への通過点としての子供ではなく、もう一人の小さな怪物としての子供を設計の主体として仮定する。そして大小様々な子供部屋としての建築を団地に挿入してゆく。更に子供世界の劇場性に想いを馳せて、子供劇場としてのメディアセンターを足許に構成した。明快で文句のつけようが無い。この想像力の創造性は良いと思う。良過ぎてガラス細工の様なもろさを同居させているけれど、でも良い。
ここで、その想像力を急いで構想力に置きかえようと急ぎ過ぎた。じっくり、その子供部屋らしきのスケール、形のエスキスを繰り返した方が良かったのではなかろうか。もう少しなんだが、そのもう少しが全く姿形の違うモノの表情になって表われたのではないかと、僕は思うけど。で、そこのところが私に色眼鏡をかけさせてしまった原因だったのだろう。
先に述べたように、この考えに15班の考えが同居したら、それこそ鬼に金棒なんだけれどなあ。子供達が自分で部屋を作る余地を残したり、その道具を考えたり、その為の書物や、コンピューター情報を提供したり、と考えたい事は山程ある。
東大1班 土手の先にあるもの
君たちの作品に関しては、先に私の世田谷村日記で触れており、パスしようかとも考えたが、それも中途半端だと考えた。中途半端は好きではないんだ。で、もう一度クリティークをやり直す。君たちの情報は私には四度入っている。初めては中間合同講評のプレゼンテーション。2度目は最終発表会、そしてその際に貰った手許資料。そして今、手許にある縮小いた最終プレゼン資料である。
最終に手にした縮小版の資料が一番良い情報であると思う。面白いものだな情報というのは。きちんとトリミングされ、レイアウトも良い9枚の画像と図は、縮小されて君達の考え、イマジネーションがそれこそ等身大に表現されていて見事だ。そして短所も目につきにくかった。何故なのだろうかと考えてしまった。君達も是非九点に要約されたA4判のペーパーを手にして眺めいった方が良いと思う。
先に君達の作品についてはこう述べた。もしも私が君達のもっと近くに居たなら、つまり設計製図を指導していたら、君達のアイデアと、イギリス型ハイテク建築の近親性を指摘して、とり敢えずはイギリスの温室技術の歴史に眼を向けさせただろう。そうする事でもう少し建築的形式に近づける努力の方向性は示したかも知れない。
君達が示したイメージをそれは決してそこなうものではない事も教えただろう。先に、私は君達の示したモノはファンタジーだと指摘した。今度はイメージと言っている。何故か、図像が縮小され、結晶化的効果があり、より建築という形式に接近している様なそれこそイメージを受け取ったのだ。人間のイメージは多愛がなく、揺れ動き、あいまいなものだ。不精確極まる。だからこそ我々はそれを技術によってより精確なモノへと固定したいと欲求する。スケールを操作する技術、建築史に拠り処を見つける技術、集団や個人の人間の行動や気持を想像する技術、等々を使って。その過程が仲々に面白いのだ。実に複雑極まる難問を解くような喜びがある。
ファンタジーやイメージはその面白さへの入口なのだ。しかし、それが無いと本格的な面白さに辿り着くエネルギーが得られない。
君達には良質な建築イメージがある。少し計りのスケールアウトや、人間達の行動への想像力の未熟さを今は気にしないで良い。チョッと気にし始めた方が良いかもしれないけれど、特に団地内の完全にカーテン状の壁のイメージは初歩的なスケールアウトであり、機能が成立し難い。しかし、そんな事はいずれイヤと言う程に気付かされるから心配する事はないのだ。このアイデアは恐らく思考モデルなのだ。(この考え方については第12班へのクリティークで述べているから参照して貰いたい。君達のも流動モデルなのだ。)
ただし、メディアセンターに適応しようとしたイメージ、アイデアはもう少し建築の形式にまで落としておいた方が良いと思われる。これは、それだけのもう少しの努力をしてみる価値がある。縮小された模型写真はかなり格好いいからね。もう少しつめて見る価値がある。先ず四周の床の巾が小さ過ぎる。それを先ず太らせる事からやってみたら良い。そうすると、段々建築らしく、どうしても不格好になってくるのだけれど、それからが知恵の使いどころなのだ。
結果として、J・スターリングのケンブリッジ大学図書館に似てきたり、レスター工科大学に近くなってしまったら、もう一度、頭にねじり鉢巻して、イギリスの温室に歴史を遡行したら良い。
今のまんまだと、町の打放しゴルフ練習所のマストとネットを参照していると思われかねないぞ。それは本意ではないでしょう。
メディア・センターの中の中空な虚体とも呼ぶべきのスケールが大事だ。自分で作った模型の中に入ってみる想像力が必要です。
そこ迄やって、初めて土手の先にあるもの、が視えてこようと言うものです。僕も実は土手が大好きで、いつか土手みたいな建築を作りたいと虎視眈々と狙っています。土手の好きなのは、やはり河の流れに沿った動きが造形化されているところです。しかも、長いのね。日本の河の土手は程々に小さくて、それも良いと思います。
東大14班 晴の日に傘を開いたら
批評するに難しい作品であり、考え方である。君達の傘のインスピレーションは一体何処からやってきたのだろうかと、仕切りに考えたくなる。中間講評会の時のプレゼンテーションから一切の振れが無く、それこそ一直線の傘だから、余程強い確信があるにちがいない。
「マナー」への着眼点につきる。デザイナーでマナーに着目しているのは少なくない。数寄屋、茶室の意匠はこれこそマナーの結晶であり、現代では工業デザイナーの栄久庵憲司氏が道具論に於いて「作法」についての考えを展開している。人々の行為が空間をかたちにする、と君達が考えるのは良いと思う。しかし、江戸しぐさ「傘かしげ」につかまり過ぎたのではないか。それが現代西葛西しぐさ「傘びらき」になる迄は良く解る。しかし、そこで堂々巡りして、どうやら展開していないのではなかろうか。自分達で差した傘の下に囚われて、本来、君達が望んだのであろう、より自由な建築形式への径が、まだつかめていない気がする。
君達の傘は一体何処から来たのだろうか。
クリストかな。茶室かな。京都の湯豆腐屋の傘かな。自分で開く傘に空間のはじまりを視ようとしたのは、繰り返すが面白い。道具のスケール、動く道具の特権としては考えられる。でも、その直観が、そのまま重量の大きい建築の形になってしまうのは、どうなんだろうか。ここで、もう一つの段階の考えの操作が必要だったのではあるまいか。古代エジプトを考えようとしていた建築史学者から、こんな話しを聞いた事がある。もう四〇年位も昔の事だが忘れない。
エジプトの砂漠では王権の象徴は傘であった。烈火の陽光から身を守る、影を作るモノとして。そして王のいる場所を知らせるモノとして、それはやがてイコンになった。古代インドに渡り、ストゥーパーの頂のイコンとなり、やがて中国で塔となった。何重かの傘の屋根を持つ塔になった。日本の塔もそのイコンの伝播の中に在る。
この話しを聞いた時、まだ学生であった私は、建築って凄いものなんだと思った。私の血が古代エジプト迄つながっているとは、正直想う事は出来ない。が建築という形式を考えると、それが近くなるのも確かな事だ。
江戸しぐさ、らしきを私は知らなかった。君達に教えられた。でも、もっと自由に歴史を遡行する事が出来た筈だ。
古代エジプト迄は、もうチョッと年輪を重ねてからの方が良ろしかろうが、少なくとも茶室の情報性の如くは君達の感性ならば今風に感得できるだろう。茶室の露地も面白い、傘かしげと同じ位に、あるいはより深く面白い筈だ。室町は日本の前衛達が自在に、様々な意匠を作り上げた時代だ。
フランク・ロイド・ライトのジョンソン・ワックス本社ビルは近代の中の君達の先行者であるかも知れない。あれは正に傘の建築だ。今や、君達は膨大な歴史のデータを情報として持っている。それを使わぬ手はない。
合同のプレゼンテーションの際の君達の作品の印象は大量消費社会の趣向にどっぷりつかっているのではないかの疑いであった。しかし、君達の描いた図像、そして不思議な人間たちが描き込まれた建築の光景に見入ると、どうもそうでは無いらしいと思い始めた。ここに表現されている君達の感受性、それは恐らく消費の時代の趣向を抜け出し得る、何者かが在る様に感じる。暗い中に、小さな光がポーッ、ポーッと灯いている様で、とても落ち着いて静かな光景が描かれている。コンピューターの画面はそれ自体が発光体で、それを見入るというような光景は歴史的に初めての事だ。君達は更に、
そんな事を考えたいと思っているのかと、そう思いました。
東大17班 農業と暮らす
私が世田谷村と呼んで暮らしている自宅の庭の畑や、屋上の菜園で考え、細々とやっている事、そして猪苗代湖畔鬼沼で順次実現している農業的生活への、建築からの提案という事では全く同意せざるを得ない作品である。
又、日本という風土のこれから抱えるであろう問題を巨視的に考えれば、当り前のように農業と暮らす必然、あるいは身近な食料問題、地球環境の問題などに思いを巡らすならば、君達のスローガンはビクともしない主題の強さを持っていると言わざるを得ない。
しかしながら私の最近の建築的活動らしきは、それ故に余りにも直球過ぎるの批評もある。直球過ぎるとは、要するに思考が単純過ぎるというのである。しかし、農や食の問題に直球もカーブもあるのかなとは思いつつも、確かにまだ複雑なシステムを思わせる迄の活動にはなっていないと、自省もしているのだ。
君達の作品に接してみて、これで私は直球だけの過激派農本主義者と呼ばれる事はなくなるかも知れないと内心安堵の胸をなでおろした。
あきらかに君達の設計製図の作品は私がやっている事よりも、はるかにハッキリと過激なのである。なにしろ、全部の提案が農業へと軸足を、足並みそろえて、駆け出している。もう、とまらぬ位に走っている。
単純過ぎるかも知れぬ農的暮らしへの直球を投げている筈の私も呆然とする位の直球である。しかし、同病相あわれむ体の私にでさえ、君達の設計製図作品は説得力が欠けている様に思えた。この大問題を建築設計製図として旗印とし、一直線に進むのには、それなりの手続きを踏むべきだったと思う。
建築設計製図の課題に建築学科の学生として、農業と暮らす、と言い切るのには、それなりの農業世界的体力が必要なのではあるまいか。まだ、建築設計と農の問題はハッキリと別種の世界に属すると考える人間、教師が多いのは、知っているだろう。理解しまいとする人達の真只中に君達は居るのだ。だから、理解を求めるのには他人の倍以上の努力が必要であった。
先ず第一に何故、農業と暮らしたいと考えたのかの説明を深くして欲しかった。自分の体験、経験からも説明して欲しかった。
日本の食料自給率の信じられぬ位の危険度と共に、君達の身近な生活から発した事を述べて欲しいと思った。
良く、良く図面に眺め入ると、その一枚にさり気なく小鳥飼育園の表示があった。凄い事、考えているんだ、この人達と思った。
巨大団地内に決して小さくはない、小鳥の飼育園を欲しいと思っている君達の感性を私は大事だと思う。
そう言えば烏以外の小鳥の姿を最近ではあまり見かけなくなったなと考えていたから。このイメージ、君達の希望は仲々なものだと信じたい。
信じたいからこそ、もう少し、何故、農業と暮らすのかを最前面に出したのかの説明の努力を積むべきだったと思います。ストレートな正論は、それなりにそのストレートさを表明する手続きを踏まなくてはならないのではないのでしょうか。
中国の農業の現実も凄まじいものがあるようです。21 世紀のはじまりは中国とインドの時代なのは間違いがないのでしょうが、その中国の農の中心地帯からは小鳥の姿が消えているらしい。私もそこに小鳥を見ることは無かった。
「小鳥飼育園」の書き込みは、そんな我々の未来に対する君達の直観だと思うので、僕は良いと思った。次は、成程ねと説得されてみたい。
早大22班 薔薇の名前
しばらく東大生の設計製図のクリティークに没頭したので、久し振りにと言ったら何だが、早大生のものに戻ってみる。懐かしい気さえするのだが、東大生の設計製図と向き合ってからの事なので、色々と考えさせられる事もある。ホームグラウンドに戻っての第一に、これをやってみようかと選んだのがこの作品である。つまり、この作品には早大建築生の特色が良くも悪くも良く表われているのだ。この作品に薔薇の名前のニックネームがつけられたのは前に述べた通り、教師の側の勝手な思い込みからである。課題出題後の第一回エスキスに彼等は横長の大きな黒々としたスケッチを描いてきた。荒涼たる荒地に墓地のような、遺跡群の如きスケッチを丹念に描いてきた。
当然私は尋ねた。
「コレは何だ」
「・・・・・・・」
「この絵で何を言おうとしてるの?当然コレをそのまんま建築化しようというのじゃ、ないんだろ?」
「・・・・・・・」
「この絵捨てなさい。これは建築にならないよ」
要するに彼等の一人のコレは心象風景のようなものなのを知る。しかし、この感じは私には既視感があった。ウンベルト・エーコの薔薇の名前に流れる中世の僧院の荒涼たるニュアンスのようなものがあった。その荒涼さには時間の荒涼さ迄もが描かれていた。と、言う事は、このスケッチには仲々な力があったという事だ。それを彼、あるいは彼等は言葉に出来ないだけなのだ。
「薔薇の名前、読んだ?」
一人だけ、「読みました」の返答。恐らくこの男だなスケッチの描手と知る。大事なのは他の二人はこの物語りを知らないと言う事。つまり、そんな世界への感性と好奇心が無いのを知る事だ。仲は良さそうだが、アンバランスなチームだなコレワと知る。
案の定、二度目、三度目とエスキスを重ねる度に彼等の建築のイメージの骨格は変わらぬのに、彼等の説明の仕方は悪い方へ変化していった。いわく、ネットワーク、プログラムと月並みで、俗な当世学生流行気質そのまんまの言説が開陳されるようになった。しかし彼等の建築イメージは何故か宗教性を帯びた聖堂風のモノであり続けた。建築イメージの骨格は変化しないのに、それを説明する言葉だけがグルグル廻り続ける。
問題は、この変らないイメージの中心である。何故か、西葛西のインド人知的労働者も関係なく、光が上から降り注ぎ続ける聖堂の如きの骨格はまったく変化しないのである。
いよいよ土壇場になり、どうにもならなくなりそうになって、教師としての私は言った。
「あの、最初のスケッチを、まさか破って捨ててないだろうな。アレをプレゼンテーションの一番最初に使いなさい。君達の原点なんだろ。あれで良い。アレでまとめなさい」
「どのスケッチでしたっけ・・・?」
「初めの一歩の奴だ。アレはイイヨ。とても良い」
「でも、捨てろって・・・」
「本当に困った時に頼りになるのは自分だけなんだ。今は本当に困っているんだから、アレを頼りにするしか無い」
そんな紆余曲折の末に彼等の設計製図は未完のままに仕上げられた。
最初の捨てさせたスケッチを、生き返らせたのを、チョッと早過ぎたのかなとも、後悔している。あのままがたがたに崩れ去って、Bクラスに落ちさせた方が良かったのかも知れない。長い眼で視ればね。でも、今の若者は本当にあきらめるのも早いから。建築を好きになりかかっている気持さえ、あっさりと捨てかねないのだ。三年生の設計製図はその最初の、気持の選択の第一ゲートだから。
彼、あるいは彼等の最初のスケッチ。あれを描いていた気持を、四〇才、五〇才になっても忘れないでいる事は大変な困難さを伴うのを、今では僕は知っている。
しかし、あのスケッチは彼等の建築への深い愛情の表現だったのだから・・・・それが無くては、本当は設計製図なんて、ただの技術表現になってしまうではないか。
だからこそ、あのスケッチを忘れるなよ、と言うのは少し計り早過ぎたのかも知れないとも思う。まだ本当の困難さに対面してるわけではないのを知るから。切り札を早く使い過ぎたかもしれぬ。建築を好きであり続けるのは本当に大変な事なんだ。だから、彼等のこの課題の成果は、アノ一枚のスケッチを拾い返したというに尽きる。今なら、課題本体の模型も図面も捨てなさいと言うね。アノ最初のスケッチをズーッと忘れないでいれば、それで良い。四年生になり、院生になり、社会人になり、当然周りにはその類の人間はバタバタと居なくなってゆく。大半の人間は経済効率の原則に呑み込まれて、君達のアノスケッチさえも描く情熱も失くすんだ。そんな先の事の余計な予測迄しておいて、だからこそ言うのだよ。アノスケッチを忘れるなって。
早大17班
このチームも実に早稲田の建築学生の長所短所を典型的に持っていて興味深い。最初に提示された最初の一歩のエスキスから次々と変化し、その変化の仕方に脈絡が無い。しかも、極めて短期間にその都度のアイデア、あるいはアドヴァイスを表現としてまとめる能力を持つ。解り易く言えば短距離型の身体能力を持つのである。最初のエスキスからの変化の仕方を注意深く見守っていたが、その変化の仕方に遂に一定の規準を発見し得なかった。その意味では22班薔薇の名前、の諸君とは極めて好対称である。22班の進歩の仕方はいかにも遅々とはしているが、その中心は余り振れることは無かった。三年生の秋に好きな建築の中心を視ている、とは勿論とても言えぬのだが、将来そうなってゆく可能性はある。それが彼あるいは彼等にとって幸せな事であるかどうかは別としても。好きな事に自らを打ち込んでゆくライフスタイルへの可能性は充分に見てとれるのだ。
17班にはその類の核は今のところは見てとれぬ。感性とは呼べぬ、身体的反応、瞬発力で、その場、そのケース、つまりは各課題をしのぎ続ける。この様な身体力も将来は必要になるのであるが、実ワ三年生の秋には必要ではないのだ。かくの如き身体能力の器用さとでも言うべきは、四〇才過ぎて、ソロソロ本格的な困難さに立ち向かうべき時に手練手管として温存しておけば良い。
しかし、私の学生時代を思い返してみれば、この様なヒントは恐らく彼等には理解できぬであろう。学生時代は実にその日暮らしの連続でもあるから。私もそうだった。ホンの一部の教師の助言しか憶えていないが、それも自分に甘い助言を多く憶えている仕末なのは、今の学生と変わるところは無い。しかし、思えばイヤな助言もあって、それがマサにその通りであるのを知るのは、三十五才くらいになって、もう後戻りはし難いなコレワ、と考えざるを得ない年の頃であった。三年生の頃に、もう少し本格的な勉強をしとけばよかったな、と気附くのは実にその頃にあってからである。それも、まだ建築が好きであり続けるというバカな事が我身に起き続けていればの事で、大半の人間はその日、その週、その月暮らしの人生を送っているのに間違いが無い。
君達の条件反射能力と呼ぶべきは大変な巾と力を持っている。それは確かだ。しかし、四〇才のボクサーやフットボール選手が居ないように、それは若さだけの特権でもある。建築設計製図は四〇才過ぎから本格的にしなくてはならぬものなのだ。そして、それを三十五才になってイヤと言う程に知るのではもう遅過ぎる。不可能性に近い事ではあるが、それを三年生の秋くらいにチョッと嗅ぎ取る位の感性は欲しい。
君達は上手に作図したり、スケッチ出来たりが感性のたまものであると、うぬぼれてはいまいか。イヤな、耳ざわりを敢えて言うが、感性というのはそんなものではない。感性は認識の一つの傾向、趣向とでも言うべきものなのだよ。条件反射力とは違うものだ。そして感性は決して生まれつきのものではない。それは学習して身につける類のものなのだ。
東大との合同課題で一番振り廻されたのは、君達17班と、発表の一番最後に廻された15班だった。それ位のことは知っている。良い体験だったと知りなさい。そして、実に簡単なアドヴァイスを一つ。感性を深く育てなさい。歴史の勉強不足や、論理的思考の欠如は反射能力の高い君達の事だから、イヤと言う程に思い知ったでしょう。それ程鈍くは無い筈です。三年生のこれからの冬に、一度独人でじっくり考え込んで見給え。四〇才迄、建築設計とは言わず、作ろうとする気持を強く持続するには何が一番自分に欠けているのかを。
東大建築学生の設計製図 19 点 60 名程を克明に凝視しました。その大半が君達の条件反射的能力と比較すれば、つまりチョッと見は、見てくれは良くないけれど、実によく考えているのだ。しかも、他人の眼を意識した考えや反応ではなく、実に自分の為のトレーニングをしている。それを今度は実感することが出来た。僕もいささかの勉強をさせられた。彼等が建築を本当に好きになり、そして好きになり続ける事が出来たら、大変な事を成すだろうと思った。一人一人が一人でよく考えている。
君達17班はその姿勢を殊更に意識して学んだら良いと思う。今度の体験を生かしなさい。
早大20班 ラーキンビル
少子化社会がどんどん進行している。マ、昔は田舎(地方)出身者が多かった早稲田も東京周辺出身、あるいは在住の学生が大半になっているのが現実だ。誠に大雑把ではあるが、そうするといかなる俗な現実が学園キャンパスに出現するか。一人っ子や、せいぜい二人兄妹の一因として、両親から過保護に育てられたであろう男子学生は、オタク的性向が強まり、コミュニケーション能力が不足気味の現実となる。何故か女子学生は家庭では自由放任されたのであろうか、それ故に男子学生と比べれば異常に元気なのである。女子学生は言葉は悪いが居直り、男子は枠にはまりたがる、如くの風潮を感じてならない。つまり、女は度胸、男は愛嬌を良しとする風がキャンパスには吹いている。早稲田建築もその潮流の中にある。
私は苔むす程に古いタイプの化石人間だから、やはり男子はもうチョッと背筋をキチンと延ばして、決然と生きて欲しいと思っていたのだが、数年前に余りのキャンパスの現実の変化振りに、流石にそんな考えはまさに非現実であると悟り、方針を転換させた.こうなれば、現実を味方にするしか無いのである。現実の傾きを元に戻す事なぞ出来ない。
つまり背筋のしっかりした骨太い女性を育てる方が、現実的であると考えた。男子学生は行儀作法をむしろ教えて、すんなり社会の現実の枠に嵌めた方が手っ取り早いのではないかと気がついたのである。端的に言えば設計製図という効率の悪い、知情意の三位一体が要求され易い総合科目は現代では女性に実に向いているとさえ考えたのだ。
勿論、東大と早稲田では事情が異なる。東大は日本一の大学入試難関校である。なにしろ入るのに困難だ。東大生に設計製図を介して触れてみて、感じ入った事がある。人間のフォルムがすっきりしているのである。早大生は、勿論我ながら俗論を承知で言っているのだが、どうもかもし出す姿形が決然としていないのが多い。ミラージュの如きが少なからず存在する。これは入試最難関という難事をくぐり抜けて来た自信を持つ者と、そうではない者の差なのだろうとシンプルに思ったのである。では、早大建築生は皆ミラージュなのか、つまりフワフワとして思考の実体無き者が多いから、可能性が小さいのかと言えば、それはちがう。
設計製図には、入試に典型な問題を解く能力とは違う才質も要求される。問題自体を自分で創る能力である。自分で解くべき問題を作り出して、しかも同時にそれに答えてゆくという得体の知れぬ総合性が要求される。問題を解くのは、やはり東大生が上かも知れないが、問題を作るのは早大建築生に分があるかも知れぬ。そうだとしたらそれ故にこそ、東大早大合同課題の意味があるのではないか。つまり、問題を作る能力と解く能力の双方のバランスをより明確に知る事が出来易いかも知れない。
こんな風に仮説を立てて考えてみれば、早大20班ラーキンビルチームの作品は大きな意味を持ってくるのである。この男性ばかりのチームは合成された人工のチームである。あんまり共同設計そのものが上手く進まなかった二つのチームが合併され、多少人数を整理したものである。
だからこのチームに途中から言ったのは、無い袖は振るな、って言う事だった。共同設計がうまくいかないのは、要するに、共同の問題を作れないという事である。三年生位が変な自意識ムキ出しにしてトンチ比べの如きのオリジナリティ露出ごっこはするな、と。一歩引いて、すでに古典と覚しきを模倣する事から始めたら、どうかという事であった。つまり、問題はすこぶる付のやつを与えるから、それを解くだけに力を集中してみたらという事。
近代建築の在庫品目録から得られるモノは何であろうか。巨匠達の歴史観やデザイン思想だろうか。あるいは設計のコンセプトという如きを学べるのだろうか。とても、そうとは思えない。名作から三年生が直接学べるのは、その平面の見事なスケール感や、機能処理。断面図からは空間のプロポーションとバランス、コンポジションといった極めてハッキリと把握しやすい即物性だろう。
そして、今の設計教育には一切それ等が欠けている。誰も教えようとしない。しかし、設計の評価をする時には、やはり作図されたモノが不格好であったり、無様であったりすれば誰も評価しない。でも。その具体的なデザイン技術は教えないという大矛盾がある。
このチームがフランク・ロイド・ライトのシカゴのラーキンビルをスタディして、初めてその模型を作って西葛西のサイトの模型に置いた時、私は他の学生が自主的にそれぞれのオリジンらしきを表現しているモノの模型と見比べて、実に驚いた。凄く格好良かった。まるで異なるモノであった。学生達の作り出す模型とは。
私だけではなく、若い先生方もホーッという感じで見入ったものでした。古い、新しいは関係なく実に堂々たる比率を持ったたたずまいとして、それはあった。実際にすでに設計をしている若い先生方も、その事にはすぐ気附いた様でした。凄いな、ライトは、名作はと感じ入った筈です。
しかし、学生達がそれに気附いたかどうかは覚束ない。きっとライトのコピーなんかやらされて不満だったのでしょう。それに気附くのにはまだ年月を要するのかとは思います。しかし、早稲田的設計アイデア競争、オリジナル才能擬似ゲームの中では、実にそれこそ実体のある学習の形式であるように思ったのも確かなことなのです。
少々、まわりくどい言い方になった。テーマを見つける、要するに問題を作る能力が薄い者は、先ず何よりも問題を解いてみたらと言う事。その問題は教える側が与えるからという事です。このチームの諸君は先ずそれを自覚したら良い。自分達は問題を解く事は素早くできるのだから、その才を先ず磨けば良いのだと、割り切ってみる。問題の発見は、取り敢えず教える側に任せてしまおう。そんな風に考えてみたら良い。
しかしながら、ここに来て、先程私が立ててみた仮説、もしかしたら早大建築生の方が東大生よりも問題を作る能力、発見する力は上かも知れぬという考えとは、それは矛盾をきたしている。
そして、実際に二つの大学の設計製図をジックリと比較検討してみると、どうやらハッキリと、問題を解くのは早大建築生は上手いけれど、問題を作る(主題を発見する)のは東大生がより自由で上手であるという、基本的な性格が浮かび上がってくるのである。
それを君達のチームは自然に示してくれた。この把握の仕方にそれ程の間違いはない。プレゼンテーションの雰囲気で言っているのではない。一点一点を詳読し比較してゆくと、その結論にならざるを得ないのだ。
こう書いていて、私自身が驚いている。しかし両校の設計製図作品を精読すると、そう判断せざるを得ない。この現実にいかに対応するかを考えていかなければならない。
何と、東大建築生は問題発見型で、早大建築生は問題解決型なのである。
東大10班 分断と孤立の先に
設計製図のヒントも連載48回目となった。ネット上の公開連載としては良く続いている。自分で書いていて面白いのと、それなりの緊張感があるからだろう。何の緊張感か。それは公開合同講評会以降の両校作品のクリティークに際して決して個人を傷つけない、出来得れば何とか励ましてゆきたいというルールを自分に課したからである。何故、励ましてゆきたいと考えたかと言えば、それ程に、本当に若い世代を励まさねばならぬ程に、今の建築が落ち込んでいるからだ。ではアナタは実体によって見本を示せば良いではないかという指摘もあろう。それも精一杯やってはいるのだが、建築は社会の産物でもあり、幾ら私が良しと考え、提示しても社会がそれを認めてくれなければ、作品としては成就し得ないのだ。つまり、社会の方がオカシイケースは現代日本では決して少なくはない。と、私は考えている。
ヒント47でようやく私は一つの仮説に辿り着いた。東大建築生諸君の設計製図作品は問題発見型であり、早大建築生の多くは問題解決型であると。実に単純な仮説である。
しかも正しい仮説は常に発見的なものである。
ここ迄辿り着いた私は実に変な努力をした。学生の作品のコピーを大きな拡大鏡でのぞき見る、しかも長時間にわたってと言うアブノーマルな時も過したのである。しかし、驚くべきは、学生諸君の製図をのぞき込むのは、その気持ちの中をのぞき込むのと一緒である事を私は実感した。あるいはもう少し現代風に言い直せば、学生諸君の脳内風景の中に私は初めて入り込む、その点景となって、という体験をし得たのである。役得であった。教師としてと言うよりも、一個の創作者として実に得難きを得たのである。
表面的に両校の学生の作品を見比べれば、早大建築生の方が上手でエネルギーも大きいと見えるであろう。しかし、そんな印象はあくまでも表面的、つまり素人に任せておけば良いのであって、今年の私は今やその水準はとうに通り過ぎてしまった。表面から内実へと侵入した越境者である私が得た仮説が、東大問題発見型、早大問題解決型であるというものだ。解り易く言えば、東大天才型、早大秀才型って言う事であり、東大一人一人の個別の才の重視、早大一人一人よりも類型へと言う事でもある。
この辿り着いた事実に、先ず私自身が仰天した。その逆であって欲しいと内心望んでいたからだ。むしろ辿り着きたくない仮説であった。ヤブをたたいたら蛇が出て来てしまった類である。コレワ。しかし、辿り着いてしまったのは事実であるからその仮説をベースにしてクリティークを更に続けたい。言ってみれば後半戦、第二ラウンドに入って行く。
東大10班の作品は、やはり発見的思考の産物であり、次に述べる11班18班の作品同様に実に興味深い。
公開合同講評会の際の10班のプレゼンテーションは決して解りやすいものではなかった。
グレゴール・ザムザのように。と言われたってグレゴールを知らんもんねの類はどうすればいいんだよと、ムッとした者も多いだろう。グレゴールとくるからムッとするのであって、私だったら今流行の南方熊楠の粘菌の寄生くらいに例えていれば良かったのにと思った。
この作品が発見的姿勢を貫こうとしているのは重要である。是非、ここでつかんだ粘菌寄生的環境概念を原理的に発展、展開する努力を続けてくれ給へ。ここでストップしてしまったら思い付きに過ぎなくなる。東大では1班の「土手の先にあるもの」と似たような世界を視ようとしていると感じた。あるいは2班の「帰属世界からの迷走」も、姿形は異なるけれど、遠くに視ようとしている世界は通底していよう。君達には遠視者の趣きがある。一時代前には幻視者と呼ばれたが、もう少し現実とリアルな距離感を感得できるからあくまでも遠視者である。ここで言う、リアルな距離感とは時代の切実な夢とでも言い換えられるかも知れぬ。
1班の「土手の先にあるもの」にこう書いてあった。なぜ、同じ人間同士でかたまりたがるのか。・・・本当に大事な事は、向かい合って話す事では伝わらないのかもしれない。確かに、土手の心地よさは、話すのも向かい合わずに、けれども同じ方向を、しかも遠くを眺めながら話せるからなあ。
君達の「分断と孤立の先に」、分断・孤立により人々の関係が近づく。“ムラ”世界が一見バナキュラーで無原則な相関のもとに、回帰的身振りの中に、けれども新しい原理を注入する事で出現し得るのだと、そういう事だよね、君達が考えようとしている事は。意識的な分断、孤立によって初めてコミュニケーションの基礎ができるんだ、と。
早大18班モノリスがつぶやいているのも、そういう事ではないかな。あの、ミースのファンズワース邸が黒く直立した複数に分断、孤立した形の中に、君達の"ムラ"があったのを思い起こしている。次に粘菌の寄生概念について述べる。
東大10班 分断と孤立の先に2
巨大な団地の無機的な壁に、少し趣向の異なる生命体の如くを寄生させて、団地を今とは違う状態にしよう、ムラ化できないか、が、君達の考えだ。
形は異なるが早大13班の細身のシャフトを団地のエレベーターコアに挿入し、沿わせて建てようとする考えに手法は似ているが、随分違う事を考えているのが良く解った。むしろ思考の奥に通じるものがあるかも知れぬのは東大13班、東大1班、東大2班だろうか。つまり、君達の考え方は僕が今要約してみせた様な仕方では、巨大な団地の無機的な・・・寄生させて・・・ムラ化できないか、このような要約の仕方では考えの中に入ってゆくのが困難なのが少し解りかけてきた。
そうか、それならば君達の道案内に全てを任せて君達のグレゴール・ザムザの中に入り込んでみる事にしよう。
で、僕は今、君達のドローイングの中の黒い影の人間らしきに変身している。つまり、君達の思考をそのマンマなぞってみたいと考えている。と、驚くなかれ、すぐに見えてくるものがあった。僕が変身して君達のドローイングの黒い影そのものになった途端に、僕は自身がグレゴールそのものであり君達が物質の建築的形状、アイデアらしきをグレゴールと呼ぼうとしているのは、やっぱり例え話しであり、つまりは、これも又、思考モデルだったのかと理解できたのだった。全く、面白いね君達の思考形式は。これはすぐに建築の形なんかに落とす必要はない、それを求める方が間違いを犯しやすいと思わざるを得ない。
もっと基礎的なスタディをしたらいい。リサーチを、西葛西の町のリサーチなんてものではなく、君達が呼んでいる一つの生命体のリサーチをしたらいい。勿論、全ての思考には先行者が居るものだ。君達の思考に類似する考え方の研究は実に面白いだろうな。建築の未来にとっても大事な研究になるだろう。
で、そのヒントとして僕は南方熊楠の粘菌研究のリサーチを先ずはおすすめしたい。戦後、設計製図的思想で輸入専門ではなく、輸出できたものの一つはメタボリズムだった。しかし、あの思考モデルも今では消費社会の消費の自動律に呑み込まれて、それこそメタボライズされる必要がある。その一つの径が熊楠の思考形式の中にあると思うのだけれど、そして、君達の考え方が実にそれに近いと僕は考えた。
分断、孤立の先に人々の関係が近づくのを遠視したいと考えている君達だったら、それ位の事はできる筈だと、僕もいささかの遠視をしたい。
熊楠に近づいてみたら、どうか、その寄生の研究に。ピラネージもそんな事を考えていたのかも知れないなと、これは夢想である。
早大14班 早大12班
14班は淡々と、頑張れる才を持ったチームだった。もう途中であきらめるだろうと考えていたけれど、ハードルを上げる度に、それを乗り込えようとする気持ちが強かった。メディアセンターの建築デザインに対しての関心が強く、課題全体への視野の拡がりは感じられなかった。その欠点を修正するよりも、先ず、何故あきらめなかったのか、執着し続けたのかの気持の中心と対面するのが今は一番だろう。デザインが好きだという自分に対する誇りなのか、負けず嫌いなのか、その都度向上している自分が面白かったのか、考えてみたら良い。
何度か模型作りを介してアドヴァイスしたけれど、その都度の対応の仕方は柔軟で良質な受容力を持つと感じられた。その資質をどう生かせるか、それは自分で考えるしか無い。
早大12班は、早大5班と同様にとても良いチームであった。初々しくって、清新な感受性を失なっていない。それが実に新鮮にこちらの眼に映るのが驚きであった位に。君達が製図室の一角で、いつも四人そろって相談して、作業を進めている様子は実にさわやかで、いつもその一角が明るく輝いている様に思っていた。恐らく良いコミュニケ―ションが出来ていたのだろう。この課題の隠れたテーマはチーム作りのそれであるのだから、君達が良い成果を挙られたのは我々も大変喜んでいる。
少しばかり自信が生まれていてくれていたら、更に嬉しいのだけれど、それは又、自分自身が独自につつましく作り上げてゆくものだ。そうなんだ、君達のチームが清新だったのは、君達が共通して持っていた、つつましさだった。君達はこの課題で一皮剥けたのだろうと思う。でも、つつましさだけは失わないで貰いたい。現今では稀な才質であるからね。自信があって、それでつつましかったら、それこそ鬼に金棒なんだけれども、是非そうなってくれ給え。そうなれれば、何をやっても上手くゆくと思う。
ビクともせぬコモンセンスとでも言うのかな、誰にでも通じるけれども決して俗ではない。正義や大義を振り廻したりしないが、堂々とした常識を決して曲げぬ。そんな設計家、あるいはモノ作る人になってくれたらなと望みたい。そして出来得れば時に弱者の側に立つ、あるいは立とうとする本格的な見識を身につけてくれ給え。
何故なら、失礼な言い方に聞こえぬ事を望むけれど、君達は早大建築設計製図集団の中では、明らかに弱者の立場に居たのだから。少なくとも強者の立場には居なかった。それで良い努力をしても良い成果を得られる迄になった。だから集団の中の弱い人間達の気持はキチンと理解できるに違いないのだ。早大建築の設計製図では君達のような人材はこれ迄ジイッと、うつむいたまんまで卒業してしまうのが通例だった。しかし、今年は少なくとも5班12班の二つの集団をその集団から育て上げる事ができた。
これは僕にとっても望外の嬉しさなのだ。
仲々、こういう事は伝えにくいものなのだけれど、設計製図を介して我々も又、独特のコミュニケーションをした、これはその成果でもある。
14班に関しても何か言い残しているような気持ちがなくはないのだが、余計な事を言わぬが方が良い時もあろう。
東大11班 Sequential Noise
「今度はうまくいったと思うんだけれど」と君達のグループの誰かがつぶやいていたのが実に印象的であった。という事はこれ迄何度かの設計製図では不充分であったのだが、今度はうまくいったの充実感があるって事だ。
君達の設計製図作品はどう考えたって上手く建築物として納まっているとは思えないし、君達にはどうやら初めから、そういう事は眼中に無いって風なところもうかがえる。実ワ、僕も決してそんな姿勢は嫌いではない。
唐突だが提示された形そのものに僕はかなり興味を持った。街のノイズの集音、拡声、微細化等の装置のようだが、街とノイズの関係への着眼を度外視して、この形のイメージには未来への可能性があると思う。何故ならば、この形は未見の形に近い。つまり近代建築の在庫品目録の中には無い。君達の意図とは別に、そういう視方もあるのだ。ここに示された形に近いのはフレデリック・キースラーのエンドレスハウスだろう。君たちのエンドレス劇場はしかし、耳管状のチューブが四つ集合していて、こんなイメージには初めてお目にかかった。
フレデリック・キースラーはユダヤ人の環境芸術家で日本には山口勝弘氏の労によって紹介されている。生前、建築としてはイスラエルに「本の神殿」をただ一つ残している。あとはイマジナリーなプロジェクトのみを残した。フィリップ・ジョンソンによって建築を建てずに歴史に残ったとされた創作家でもある。キースラーの残したプロジェクトの形に君達の提出した形は類似している。キースラーの出したイメージは洞窟的なものでもあったが、君等のはそれが軽く、ドライなメタルになって表現されていて、繰り返し言うが四つ集合しているところが面白い。身体の内臓器官が四つ組み合わされている。金属で模型が作られていたから、それは何だかスピーカーのようにも、管楽器のようにも感じられた。
紙にプリントアウトされた君達の作品に眺め入る。拡大鏡を使ってその内に入り込む。するとブーンと音がしてプリントアウトされた図像が立体になり始めた。つまり紙が丸められた筒状のトンネルになった。君達の形がそこに出現し始めたのだ。
手許にある2、3のナンバーが振られたペーパーは美しい。どうしたら社会にリアライズされるのだろうかは、今は考える段階ではないと君達は割り切ったのだろう。それで良いと思う。君達は少なく共、原理的な思考を企てようとしている。
鎌倉時代の再建大仏殿の勧進僧であった重源の師匠筋であった法然はこう言った。山川草木皆響きありと。山も川も石ころも皆バイブレーションして響きを発しているのだと。天才空海の理趣経もまだ充分な理解に達することはないけれど、そのような宇宙に満ちる響きを述べ続けている。
君達の街に満ち溢れるノイズに関する思考も同様な直観をベースにしているのだろうと考えたい。突きつめれば都市のアニミズムの感知である。クロード・レヴィ=ストロースの思考の手付きとでも言おうか。このモデルを作る手付き、形を作る仕草にそれを感じる。
中間発表の時にコレワ面白そうだと感知した。クセナキスの方へ行くのかなと思っていたら、おっとどっこいキースラーであったのが意外であった。ここで示したイマジナリーな世界はより深く追求した方が良い。この一回切りでは思い付きだと片付けられかねぬ。誰かやるべきだと思うよ。
それだけの価値はある。充分にある。
早大16班
過度なものが何も無い、過度な良さを持つ作品である。恐らく先生方が投票したら、その評価は先ず上位になるであろう事は間違いないであろう。建築とは呼べぬパーゴラらしきが美しく整合したアメーバ状に団地内に繁殖し、又、メディアセンターとして構成されている。緑と光と風に溢れていて文句のつけようがない。団地内の駐車場もサラリとレベルを沈めていて、自動車の車輪が見えぬように工夫されている。これは見事である。走らぬ自動車の現代的な見苦しさ、消費欲の象徴とでも呼ぶべきを視線の操作だけで非消費的に、あるいは非浪費的世界へ転化しようとしている。
そこに出現している、ささやかな構築物も徹底した省エネ型で、設計も省エネになっているのが仲々面白い。この最小限建築架構らしきを徹底してつめて行くと何処に辿り着くのかと考えさせられる。この作品は第5ラウンドで東大14班と並んでプレゼンテーションされた。その際、私は建築としたら早大16班に分があるなと発言した。しかし、良く良く考えてみれば、16班の作品は驚く程に非建築であり、この発言は修正を要する。16班の作品の良さはその極度な非建築性、つまりは壁の無さの状態にある。透けて透けて、ピューピュー風が吹き抜ける状態の、マア、言ってみれば東南アジアのさわやかな軽建築みたいな価値の呈示にある。ヨーロッパ文明は寒さを防ぐ事が先ず第一にあったから壁が必須であった。暖房優先であった。それに比較すれば一九五〇年代までの日本の住宅は実に簡素でヨーロッパから見ればまさにバラック、掘立て小屋に過ぎなかった。しかし、二十一世紀に突入して、地球的な規模で気候が変動しており、日本はアジアモンスーン地帯の亜熱帯になりつつある。16班はきっとその直観においてそこ迄見越していたのであろう。
それはさて置く。この眼に入らぬ程に切り詰められた架構だけの建築の状態というのは可能性がある。大いにある。東大14班の傘のアイデアと実は酷似している。早大16班は架構をさしかけようとして、東大14班は傘を架構しようとした違いに過ぎない。双方、良く自覚できていないだけで着目しているポイントはとても良い。その着目の方向性の勘は若さの特権である。
16班の全体配置図のドローイングはとても美しくて見事なものであった。君達の今のところの価値はこれにつきる。この君達が描いた配置図に独人で対面したらどうか。裸の感性と倫理が正直に捉えている時代の趣向とでも呼ぶべきがそこに視えてくる筈だ。東大14班の黒い人間のいる内部パースに描かれているのも同じ趣向だ。言葉になり難い時代の本格的な趣向。つまり時代に沈み込んでゆくのではない、時代が希望しようとしている趣向がそこに、君達双方の手によって描かれているんだ。
これが設計製図の成果である。アトはそれを出来るだけ自覚するだけ。
もう僕もこれ以上のヒントを示す能力は無いので、アトは自分で考えてやってみて。
自分の良さを自覚、つまり意識できないと設計製図は上達しない。さめた意識はナルシズムとは遠い。決して崩れようとはしない。だから、積み上げられるんだ。無いモノを在るとセンチメンタルに誤解するのはタダの無知な傲慢だ。これは早晩崩れる。君達、あるいは君達双方にあるのはそれとは違う才質であろうと思う。恐らく、それは女性特有の倫理の研ぎすまされた処から生まれてきているものではないかと感じている。
東大18班
葛西奇譚、或る街並みの誕生という作品名に全てが言い尽くされている。現在の西葛西団地が陸の島であると仮定し、それをスーパーブロックと名付ける。いつまで、団の地であり続けるのか、と再び仮説を立てる。つまり、現在は団と呼ばれる集合体の地になり得ていないの直観があるのだろう。そして次に、このスーパーブロックにパリのエトワール広場、ニューヨーク・マンハッタン、銀座みゆき通り、京都四条、根津界隈の街並みを当て嵌めてみる。面白い作業である。要するに、このスーパーブロックと呼んだ団地サイトに様々な街をそのまんま移送してみる訳だ。様々な街がそれぞれの固有性の可能性の表現として表れているのが、このブロックに当て嵌めて見せられるとよく解る。つまり、それぞれの街並みの特色が明快に浮き上がってくる。
そして、そのリサーチから組み上げたのであろうスーパーマイクロブロックと呼ぶ幾何学グリッドをこのサイトに写し込む。スーパーマイクロブロックには当て嵌めてみせた世界各地の街並みの諸性格が混成されているのであろう。インドを植民地化したイギリスの街並みがそこに無いのは片手落かも知れぬが、そこ迄律儀さを求めるのは却ってナンセンスであるだろう。
グローバリズムの只中の街並みの性格とは、そのように潜在的に規格化されているのだと、君達は考えようとして、その考え方のモデルを提示した。不思議な区画割り、もう一つの道のグリッドが団地内の空白に出現して、それを地にしてもう一つの街が発生し始める。その、もう一つの街は実に今の日本の大方の街と同様に実に現実の経済原則からだけ産み出される類の街である。
別の見方をすれば、人工的にシンガポールの小型になった如きがそこに産み出されてくる訳だ。
この作品は、だから必然的に一種のテーマパーク状になる。グローバリズム・ミニパークである。その意味ではシニシズムそのものを表現していると言えるけれど、考えようではある種のユーモアをも感じさせるのであり、それが救いであろう。この街に入り込むと我々は、グローバリズムって仕方が無さ過ぎて、笑っちゃうよねと、笑えれば良し、笑わなくては、ただただ哀しいだけになる。
9班「うさぎは何処へ」の作品とは対をなす、しかし、同様な気持から産み出されたもののように感じた。
東大早大会わせて二十一グループの作品を通り過ぎてきた。想わぬ発見もあり、大層面白い。
が、少し計り疲れてきた。東大3班、早大18班の講評をやってから、少し計りの休みをいただく。
設計製図のヒントは続ける。
東大3班 染み出す
この作品はとても良い。発見的であり、同時に発見した問題を上手に解決している。総合的力量が高い。
何処が発見的であるか、から先ず述べる。
その前に先ず苦言を。”染み出す”という作品の看板は君達が発見している内実に見合う言葉ではない。当然の事ながら良い作品には批評も少々厳しくなる。それ位の事は君達は本能的に知っているだろう。嗅ぎ取っている筈だ。中間講評で述べたように東大建築生の少なからぬ数に気になったのは、この”染み出す”というに代表されてしまう、思考の、言語への転換形式の、いささかな日常会話振りへの傾斜の意図への意識的自覚の薄さである。損をしていると思う。君達の作品はもっと古典的で実にしっかりした建築形式の構造を持った言語形式の考えから生まれているのに。それにわざわざ消費感覚的な身振りをまとわせる事はない。
確かに殊更で重く大仰な漢字的表現は内容が空疎な思考をごま化すだけのボロ衣である事が多いが、キチンとした思考を変だとしか思えぬ消費的言語で表現しようとするのも同様におかしい。どのようにおかしいかと言えば現実に質量共に大きい文化的表現物である建築には、それ故に歴史性がおのずから備わるもので、良い建築であればある程に何等かの形での歴史性が帯びるものだ。
建築科学生にとって設計製図の作品はそれぞれの思考の旗印であり、それ故にその題名はマニフェストの一種であろう。”染み出す”は君達の意図を上手く表現し得ているとは思えないし、恐らく、その言葉作りへの編集的才の質は一時代前のコピーライターのそれと同様な表層的な小イキさの如くでしかないし、それがデザインの細部の水準を落としてしまう可能性だってかなり大きいだろう。
君達がこれとは別の形式の形の言葉を案出していたら、そのデザインはもっと異なる凄みさえ帯びるようになるのだ。歴史性をいや応なく帯びる。
苦言はそれだけ、あとは申し分ない。
マスタープランには時間軸が同時に示されていて君達の四次元的Fieldモデルが明晰に示されている。南北軸に対して沿わせて順応した計画のラインと、それに直交したライン、そして 45 度振ったラインという現在の葛西団地の基本的な計画の軸に上手に順応して、同時にそれを更に現代風にアレンジし直している。全体を律するルールを発見しながら、それを更に抽象化して、何よりも良いのは、それにある種の動きを注入しているところだ。君達の時間軸を入れた立体的なマトリックスへの志向、それは実に発見的である。その発見性が現代アートからの参照ではなくって、まさに現実の都市から抽出したものである事が実に新鮮である。
メディアセンターの計画の斬新さに目を取られていて、団地内にも仕込まれた考えに迄目がいっていなかったので、今度じっくり図面を眺めて、ホーッ仲々凄いじゃないのと改めて感心した。
マスタープランに時間軸が内在しており、それが静止せざるを得ない図像をピッ、ピッとデジタルに動かしている。この感じは実に新しい。計画想定サイトの既存建物の総ボリュームに対する新規計画のボリュームも適確に現代を把えている。より正確に言い直せば今日の日本のマイナス成長の現実と予兆を把握している。それを妙にみみっちく無く、エレガンスに成しているところに感心した。人口減少してゆく文明圏のなかの計画の現実をうまくとらえているのだ。
現在の日本の若い建築家や、その若さに傾いてゆく経験を積んだ建築家達にもそれを表現しようとしている者はいる。しかし、それはプログラムレベルであったり、前に述べた様にそれよりも現代アートを参照したりが多いのが現実である。君達はその近未来の時代趣向を現実の都市から刷り出していて、これは実に本格的な発見である。
既存団地の骨格を基本的に残して、その上で少しだけ更新するアイデアは今度の課題では基本的に要求されていたものだと考えるけれど、君達はそれを更に新種の建築として、メディアセンターの建築としても創り出している。大きなシティウォールの如くの団地の一棟を延長し、連続性を持たせながら、しかも、その先端をY字型に分離し解放した。そうした理由がマスタープランから良く理解出来る。それがこの巨大団地の視えない骨格だからである。
課題のサイトを見学に行って、その間に、当然、私だったらどういう答えを出すかは考えた。東大12班へのクリティークにすでに述べたような大づかみな事と、同時にメディアセンターは私も直線状の強い隣りの団地棟を延長させる答えがあると考えていた。私の案は延長しながら、あるポイントで団地に在る角度で一方にだけ曲げて、その曲げによって対面する道路を挟んだ向う側の団地棟との間に都市的な外部空間のスケールを創出するというものだった。
Y字の3片の1片が抜け落ちて、抜け落ちた部分に小さく点を打つ位の感じかな、が第一案だった。君達のY字案を見て少し計りビックリした。手は動かしてはいなかったけど、頭の中でそう考えていたから、君達のY字が何処から生まれたのかといぶかしんだのだ。マスタープランを見てようやく成程ナアと思った。Y字じゃなくては全体がビシリとしまらないんだ。ザワザワとうごめこうとする全体がね。
更に君達のY字はダブルになっている。一本のラインにクレバスを開けて、つまり裂け目を作ったのかと思っていたが、マスタープランを眺めると、明らかに違う。これは明らかに他の部分、すなわち既存棟に計画部分をそえ木を当てるように沿わせたように、新築部分も互いに沿わせて共存させようとしているのが解る。君達の発見的姿勢はかなり本格的である。常に支え合う、自立しない、差しかけの状態を君達は発見したのだ。
中間発表の際の建築表現よりも、キチンと脱力化させているところも泣かせる。上手だ。内の豊かさがそのまま外に露出されている部分と、隠されている部分との関係が次に問題になろうが、それはキット良い答えを又、発見するだろう。
この作品は一度キチンとアイデアを自己管理しておいた方がよい。磨いてね。四〇代で何等かの形で実現したら、見に行きたいものだが、その頃に体が動いているかどうかは何とも言えない。でも、君等が表現しようとしている全体と部分の関係性、さらにその力の動きへの嗅覚は正統である。
マスタープランが生命体の細胞組織を想わせるのも適確な予見性を裏付けている。
早大18班 モノリス
作者はこの作品を自身の中の詩を発見する事から始めて、忍耐強く様々な工夫をこらし、仮説として立てた問題を解きほぐし設計製図として解決した。明らかに最良の質を備えた設計製図作品である。
作者には詩という核がある。それは自己表現の欲求の自我ではない。その類の自我は豚に喰わせておけば良い。作者の核は時代の趣向に対する感受性である。君達の時代は未曾有の大転形期だ。特に建築という分野はそうだ。日本に移入されたヨーロッパ発の近代建築の歴史は実に浅い。又、これも移入されたアメリカ発の民主主義、そして大量生産大量消費の文明の歴史もたかだか半世紀だ。その潮流がまさにUターンを起こし始めている時代が今だ。Uターンと例えれば安易過ぎるが、過去に戻ろうとしているわけではない。そんなに歴史は優しくない。酷薄なものなんだ。つまり破断状態を起こしている。当然、僕もその最中に戻る。そして、それを自覚している。
作品のはじまりは作者の核の表明になっている。スニーカーの足許に奥深い闇がある。不安への直覚だろうか。不安や絶望の無い創造なんてあり得ないのをすでに知っているのだろうか。
でも、若いから時に失敗もある。作者の生きている今への不安らしきを、そのまんまダイレクトに大地下室の闇として建築化しようとしたりもする。ささやかな指摘でその誤りを修正できる受容力もある。そして表現したい核にそれ程の振れが無い。あの高い峰に登ってみたら、この深い谷に降りてごらんの試行の実験も、大半ゆとりを持って超えてゆく力もあるようだ。そうすると、教える方も面白くなる。この資質、何処まで走ってゆけるのか試してみたくなる。で、少しばかり、そそのかしてみる。そそのかした先をやってくるので驚く、相当のキャパシティを持つ人材かも知れぬと緊張する。三年生では無理を承知の難題を吹きかけてみる・・・まさか出来る筈もない。
結果、出てきたのがこの作品である。私の想像を超えていた。ハードルの超え方が。歯を喰いしばるでもなく、眼を吊り上げるでもなく楽々と超えてきている。
この作品の意味を今更とやかく言っても、もうそれ程の意味はないのだ。作者はいつか、このようなモノや、イメージを更にリアルに表現すれば良いのであって、恐らくはできるであろう。
作者はこの作品を忘れたら良い。もっと先に走ってゆけば良い。
群れるな。決して群れるな。単独で走りなさい。スタスタと風の如くに走り続けたらよい。あのスニーカーで、ボンベイなんてケチな事言わずに、銀河系迄、走り抜けていったらいいんだ。想像力には限りがないのだから。