プーラン族の人々 BLANG PEOPLE

世田谷村スタジオGAYA

プーラン族の計画

15      2015年10月13日


 1、トーテム(世界樹)を人々が鎮座させている山の頂の周囲にはそこかしこに異物が点在している。異物群はそれぞれに小さな場を支配している。先ずは「茶の神木」が在る。これが茶の樹かと思うような巨樹である。高さ15Mを超えようかの茶の樹である。おそらく野生の茶の原生樹ではあるまいか。周囲を竹垣等で取り囲まれて一方の側からしか樹の根幹には入ることが出来ぬ。その一方は山の下方部へと径があるから、集落の何処かから連結しているのやも知れない。トーテム(世界樹)が抽象化されもしている存在であるとするならば、この茶の神木は現世利益的でもあろう。古来、茶の栽培を生活の資としてきた民族の現実的な生活の守り神である。
世界樹(トーテム)が恐らく一年に数度の礼拝儀式の対象だとすれば、こちらの神木は毎日とは言わずとも茶の栽培の節目毎位には参拝されている気配もあった。
茶神木の位置する標高は山頂のトーテムよりも明らかに低い。すなわち聖なるモノの序列らしきが在るのだろう。人間達(民俗)の観念の共同性の高度な抽象性を想わせる。つまり、日々の生活を支えてくれる茶そのモノを対象とする恊働の崇拝を、より抽象化された世界観よりは下位に置いているのである。
それよりも更に山を下るとマンゴーの神木群がある。部族の王(貴族)へと南の遠い国から嫁入った女性(女妃)が故郷をなつかしみ好んだと言われるマンゴーの実をならせる特別な樹木の小さな群である。

2、南の国とは何処であったか?今のタイあたりであったか、それはまだわからない。この部族の宗教は仏教であり、大乗仏教でもある。そこかしこに明らかにタイ式の寺院があり、僧侶も存在しているようである。
中国には王昭君の歴史的故実がある。唐の時代、北の脅威であった凶奴(今のモンゴル族=騎馬民族)へ漢民族から懐柔のため人身御供として送られた朝廷の女性の伝えである。古来中国では悲劇の女性の代名詞でもあった。
名はまだ知らぬが、プーラン族へ嫁として送り込まれた女性は今もこの部族は愛情を持って語り継がれているようだ。
故郷の南の国のマンゴーを好み続けた女性として。
この計画のリーダーの若者が言うところによれば彼等の民族の素はクメール族であると言う。あの、アンコールわっとやアンコールトムの壮大な建築群を南アジアに作り出した民族である。彼等の骨格、顔付きには確かにクメール族の表情もある。今のカンボジアにはその歴史に対する民族的誇りはか細いが、クメール帝国のかつての北端であった中国雲南省の山岳地帯のしかも少数民族の人たちの間にその血統が残っているのかと想うのは楽しい。
普段、骨相、顔相に全くと言って良い程に関心も無く過ごしている我々日本人にはとても新鮮で興味深い体験である。

3、西欧世界が作り出した最大級の神話世界は、「ノアの方舟」神話である。ノア老人が神の啓示を受け巨大な木造船を作る。そしてつがいの動物達をその船に乗せ、大洪水の末期世界を乗り切るの話だ。全てが水没した世界にノア老人は一羽のハトを方舟から空に放つ。ハトはオリーブの葉を方舟に持ち帰り、老人はまだ水没せぬ陸地が残されるのを知る。
トルコとアルメニア、イランの国境にまたがるアララット山にはそのノアの方舟が埋まっているとの説があり、今でもその発見の報が流れたりもある。
旧約聖書創世記に記されている大洪水は実際にあったモノとも考えられるが、それが旧約聖書が記す如くに全地球的であったのか、一部の地域でのローカルなモノであったのかは両説があるようだ。
J・L・ボルヘスが繰り返し引用する「ギルガメシュ」英雄物語(ギリガメシュ叙事詩)にもこの大洪水の物語が出現する。ボルヘスは20世紀最高の文学者である。その手になる書物は実に彼の実人生の諸々と入子状になっている。南米アルゼンチン、ブエノスアイレス私立図書館司書であった。後にアルゼンチン国立図書館長となる。本をそれ故に隈無く読み進めた。そしてその良質なモノの大半を記憶した。コンピューターの如くであった。彼の頭脳は。コンピューターと異なるのは一に、歴然とした神話再形成への意志があったことである。J・L・ボルヘスはほぼ無限とも考えられる、彼の図書館状に集積された本の数々、すなわち情報を太古への情熱(バビロニヤ発見のシュリーマンと同様である。)にもなぞらえられる程の統合への径を歩んだ。恐らくはシュメールの粘土板書籍への知識もあったのだろう。そして書くモノは長さを退け、全て短く切り刻まれた短編の集積となった。何故ならそれ等は本の本とも呼ぶべき索引で埋め尽くされた形式に近接していったからだ。
書物からの情報がボルヘスの脳内では、図書館の書架内にキッチリと納められ、それを取り出す手際はグーグルをヨチヨチ検索する如くの鈍足ではなかったのだ。
繰り返すが先ず何よりも神話的体系に対する指摘再構築への意志があったのだ。創作の小さな神になろうとするよりも、古代神話群の書記官になろうと欲した。
ボルヘスの頭脳は索引、注釈と創作(本文)の区別がそれ故に無かったのである。シュメールの粘土板書籍までの膨大な知見を蔵した頭脳には暗にな創作などは視界に入りはしなかったのである。 

4、街道の脇に小さな祭礼の記念碑らしきと、祭具の仕掛けらしきがある。
近寄ってみる。村人の説明によればこの小さな記念碑+祭具は古茶馬道の始まり、あるいは、ここで馬がUターンしたのだとの事である。チベットまで続く古茶馬道は幾筋もあり、おそらくどれが主街道であるやも知れぬのであろう。中国西安とペルシャ商圏をつないだシルクロードも同様である。広い砂漠地帯も複雑極まる茶畑を持つ山岳地帯にも一つの主街道などあり得ぬ。馬やラクダの歩きやすいように自然に毛細管状に複雑化した。
中心に一本の頂部をけずられた柱が在る。その柱に4本のより低い背丈の、これも丸柱が添えられている。そしてそこに生まれる隙間には村中いたるところに見られる祭礼具であろう逆円錐形の歪状の竹細工がはめ込まれている。それが数段の基壇状の上に乗っている。そのすぐ脇には立派な石碑が立つ。これには漢字で古茶馬道を巡る由縁やらが記されているようだ。
この周辺集落は今、世界遺産の申請の動きがある。その動きに加勢しようと中国政府が設置したものであるやも知れぬ。村人は往時はここで牛が生け贄として天に捧げられたものだと言う。それは余りにも生々しく残酷なので最近はニワトリが捧げられるとの事。その儀式が茶の豊かな収穫を祈ったものであったのか、はるばるチベット迄のキャラバンの無事を祈ったものなのかは今は知らぬ。
インドの大掛かりな窟院の大方は、通商のキャラバンの径筋近くに掘られたようだ。巨大な窟院を彫るのには大金が必要だ。大キャラバンの運行は実にその巨大な金を得るためであり、その無事は大きな祈りともなったのであろう。つまり窟院(アジャンタ・エローラ)群は大キャラバンの経営の無事に対する奉納、喜捨の意味が多大であった。人間は神々への祈りだけで、巨大な建造物を作りはしないのである。しかし、この記念物は小さくささやかで、つつましく、とても良い。

2015年10月13日 石山修武

14      2015年10月13日


1、「世界樹との遭遇」2
世界の中心の山という創造力の自己肥大的観念がある。人間の創造力そのものが生み出したモノであり、それだからこそ資本主義的諸観念からは自由である。チベット文化圏、及びインド・ヒンドゥー文化圏に属する神話世界ではヒマラヤ山脈の西脇にあるカイラーサ山である。カイラーサ山は海抜6665M程の高さだが人間の眼で見る山の生え際とも言うべき高度は巨大で台形の独特な形をした巨大な岩盤を持つ。中国文化圏に日本は古来属しているが、ここではインド神話が創生した不在の山である須弥山であり(サンスクリットではSumeru)と呼ばれる山である。(チベット語ではカン・リポチェである。)

2、神々が棲む山オリンポスの神話は在るが、それの地理的特定(すなわちオリンポス山はこの山であるの)はされていない。

3、ゲーテでさえもヨーロッパアルプスを山越えしてイタリアに旅し、そして海洋らしきの大きさを体感したのは、すでに年月を経た老年ではなかったが、青年の時ではなかった。ヨーロッパにおけるその思想的中枢である古典主義的世界は実に全地球的には特定な世界での特殊な観念でもあったのである。

4、山頂のこの場所には自然な高貴さがある。密集した樹々の群れはない。つまり密林ではない。適度に距離を置いて樹々は配布されている。少し計りの人間の手が入っているやも知れぬ。山頂は平坦に近い。そこからの遠望は無い。近くの山並みに視線は遮られている。

5、空気は清浄を極め、時折霧が巻き、風が吹き渡る。プーラン族の住居地である集落からは壮大な山並みの眺望が在る。山々の連なりが大洋の波のうねりを思わせる。小さな集落から巨大なスケールの、砂漠地帯には無い波動の如き動きある風景が展望されるのである。
しかし、この山頂の明らかな聖域は小さくは無いが自然の地形によって歴然と閉じられている。風も空気も吹き抜けるが、人間の視界はグルリと囲まれて、包まれているのである。そう、天空に包まれている。そう感じる程にここには大きな空間が明らかに在る。
その中心にトーテムが立てられている。トーテムは木で作られている。高さは人間の背丈よりもだいぶん高い。大きな人間が両手を拡げた形をしている。

6、地球上のあらゆる場所にトーテムらしき物体は少なくない。インドにおけるリンガは石造の男性器の表象であり、大半のヒンドゥーの塔の中心にはリンガが鎮座している。又、塔はリンガのアナロジーでもある。
日本では1970年の民族の祭典と呼ばれた大阪万国博覧会における、岡本太郎のデザインによる「太陽の塔」が歴然たるトーテムであった。

7、岡本太郎はパリ時代民俗学をマルセル・モースに学んでいた。その後も岡本の民俗、及び民俗学への傾倒は強く持続した。縄文土器の美学の発見などはその一連の民俗学への強い関心があったこその成果であった。沖縄の民俗、東北地方のそれへの関心も実に総合的な全体性を所有し続けたのである。
「太陽の塔」は歴然としたトーテミズムの結実であった。

8、丹下健三は日本のリーディングアーキテクトとしての力を結集させ、それを表現しようと会場の中心施設であった「お祭り広場」を持つ、大屋根を設計した。大屋根には未来都市すなわち空中都市のモデルだとの提唱も付随していた。そのアイデアはヨナ・フリードマンのモノであり、技術的イメージはコンラッド・ワックスマンのスペースフレームのアイデアであった。しかし、ともあれ丹下健三は現実世界にそれらのアイデアを実現結合する力量と意志を所持していたのである。
岡本太郎のと、芸術家の固有名詞を付さねばらなぬ荒々しい未成熟さは太陽の塔のデザイン表現そのものにはあったけれど、それは丹下健三の諸々のアイデアの高度な編集能力の結晶でもあった大屋根をブチ抜いてニョッキリと天空に顔をのぞかせたのであった。

9、大屋根は丹下健三の洗練されたモダニズムの世界でもある進歩と調和の世界は呪術的とも言えるトーテミズムであった。実に相違する考え方が一つの場所に衝突したのであった。岡本太郎を登用したのは丹下健三であった。その意味では日本的なケチ臭い村落共同体的な政治からはここでは双方共に自由であったのではなかろうか。

10、今現在、大阪千里の丘(万博会場跡地)には丹下健三の大屋根は無く、岡本太郎の太陽の塔が一人残るのみである。これは技術世界と芸術世界の寿命の多少であり、双方の力量の相違からではない。進歩する技術世界は今も、恐らくは近未来もトーテミズムの世界は、ただただスレ違って孤立している。明らかに現実の技術的世界はトーテミズムなどは眼中にない。天皇制と天皇の存在を置いて他には。

11、人々はこのトーテム、及び石による基壇状がいつ作られたのかは解らないと言う。木材はいずれにせよ滅びやすいモノである。時々に応じて作り直されたのであろう。伊勢神宮の如くに定期的に作り直されてきたモノなのかは知らぬ。デザインに古調ならぬ調子が入り込んでいるのは最近の人々の仕事であろう。古調すなわち古代的香気とも言おうか。今のモノは正方形の基壇に対角線状の木棚が設けられ、明らかに異質である。
あらゆる平面図形状はそこで行われる儀式の機能的表現である。それ故、最近、ここで行われる儀式の形式に変化があったのではなかろうか。茶の産業の隆生と関連があるのやも知れぬ。

12、人体の両腕の如くに水平状にのばされた腕状の版木には装飾物が付されている。附されると言うよりも彫り込まれている。腕木自体が有機的な雲のような形を持つ。これは日本の古社寺における雲形の肘木や指木に類して、それが機能を持たぬ象徴形として在るのだろう。
雲形の版木には、更に雲形の中に漂う、雲形が彫られている。他に明らかに鳥の形も彫られている。

13、中国古来の道教は、要するに「気」の思想であり、気には明るくよどまぬ流動性を持つ気と、よどんで動かぬよからぬ気があるとされる。ここにある高貴な気配とも呼ぶべきは、明らかにその流動性に満ちた気であろう。版木に彫り込まれた装飾も、その事を表現しているのだろう。

14、この山の、森林のあらゆる場所に多くの歴史(物語)が埋め込まれる如くに自発しているのも知った。

2015年10月13日 石山修武

13      2015年10月7日


1、「世界樹との遭遇」

2、内発的に爆発する如くの創造力があるわけもない。創造の本体は無数の模倣の積み重ね及びその精妙な組み合わせの結果である。人間は全くの0から何かを生み出せる者ではない。影響と書いたが、これには各種の影響がある。一番数少なく、しかも巨大なのは人間という小さな総体から受ける影響。
それに近いモノにその人間が書いた書物からの影響。つまり言葉の群、あるいはある種のその体系からの影響がある。これも奥深いモノであろうがモノ(物学)の世界、特にそれを作り出してゆこうとする有形の世界では、実ワ、影がうすい。

3、ここで留意せねばならぬのは、人間はアッという間に居なくなってしまう事である。

4、音楽の世界が解りやすいから考えてみる。例えばクラシックと呼ばれる音の群れは、これは紙片に記された音符らしきの再演奏である。交響楽(オーケストラ)を作曲し得る才質は実に稀はものである。何しろ多様な楽器あるいは生身の人間の声を一つの場らしきに統合しなくてはならぬ。楽器というオーケストラの道具らしきの進歩、歴史にもある程度の知識が無くてはならぬであろう。それが一つ二つの体系ではない。無数とは言わぬが多様を極める。

5、一方、五線紙にベースを置こうとしない作曲形式も唱えられ、実行された。クセナキスを元祖とする12音階音楽である。これはジョンケージに継承され、日本では高橋悠治が引継いだ、現代のコンピューターを道具として使用するコンピュータ音楽や、あらゆる限りの音を電子機器を介してミキシングしたり、デフォルメ、あるいは微細化しようとするスタジオ・ファクトリー系の音は全てこの系列に属する。

6、それとは別の系列にヨーロッパならぬ新大陸アメリカに生まれたモダーンジャズがある。ジャズの母体はアフリカであり、そこから連れ去られた黒人達の哀歌であるブルースである。黒人達のブルースには勿論音符は無かった。全て唄い継がれ、演奏され続けたモノである。余りにも基軸(幹)が強かったので容易に音符なしでも伝達することができた。つまり余りにもアフリカを離れ、離された哀しみが深かったという事である。音あるいは音楽の基底は人間の深い感情の動きにあり、決して一つの西欧的論理(哲学)などに左右されるものではない。
ブルースはやがてアメリカ南部の黒人達の葬式パレードの音楽、ブラスバンドになりその厚みの中でモダーンジャズが生まれた。モダーンジャズのプレイヤー(プレイ=作曲であった)の大半が黒人達であるのはそんな歴史があるからだ。

7、楽器の種類も演奏者も共に多くなった。それで必然的に音符という伝達形式が重視されるようにもなった。

8、モダーンジャズの歴史は実に短い。アッという間にそれ故の頂点を迎えることになった。1960年代である。頂点の一人は歴然としてコルトレーンという個人奏者であった。コルトレーンの演奏はそのまんま作曲であり、それ故に誰も模倣することさえ不可能であったのだ。つまり即興演奏(アドリブ)が全てであり、その困難さを奏者は生き抜いたのである。それは過酷な世界であり、それ以外の何者でもなかった。

9、モダーンジャズの最盛期の演奏者の努力は一に、まだ誰も聴いた事のない音群の創出に向けられていった。モダーンジャズそのもののジャンル自体に歴史の積み重ねが無かった故の必然ではあった。
一瞬の即興の中に完璧に新しい音、すなわち簡潔した価値あるモノを聴こうとしたのであった。

10、1960年代のアメリカの表現芸術の一つであったモダーンジャズの世界は、これはいかにもこれと言った分か芸術の歴史が極めて薄い新世界でもあったアメリカが独自に生み出した表現形式ではあった。
それは日本中世の密教美術に酷似して、通底していた。特に曼荼羅と呼ばれる宗教的世界の作図法に同じであった。
密教世界の曼荼羅への作図法、及びその(作図法への)観念世界は高度に抽象化されていた。
専門の絵師、図像家(画家)が描いたものではない。例えばプリミティブな砂曼荼羅あるいは密教的儀式に参入するための図像に花を投げ等のアクションは、実に往時のアクションペインティングよりも余程高度な思考を伴うモノであった。
固定化され形式化された密教芸術の華としての曼荼羅世界ではなく、例えばではあるが、南方熊楠の曼荼羅論等に表示されている世界観なのである。形式化された図像学としての曼荼羅ではなく、そこに人間が一人の行為者として参加してゆく世界である。

11、頂の平地へ見事な原生林である。ブナや高地「ドングリの原始林」。その中央に祭壇があった。そして、コレワ、明らかに世界樹としてのトーテムが建てられていた。

2015年10月9日 石山修武

12      2015年10月7日


1、プーランの人々の群像画を、仏教のアイコンであるストゥーパの形をした地中を思わせるドーム状の内部に描いてみたい。これがこれ迄書いてきた事の一つの結論である。

2、すでに西洋建築史は日本建築史とゴチャ混ぜとは言わずとも、上手に整理されぬまんまに教えられていたので、わたくしもアクロポリスの丘上の神殿は、これが建築の源なのかの想いの中で眺め上げていたのだった。
この日本の建築史教育の幹とも言うべきは今も変わっていない。それ故に根本的な大矛盾を持たざるを得ない。

3、地理的には明らかに東洋に属しながら、西洋文化の中心でもある建築・都市の歴史である西洋建築史を建築教育の中枢に据え続けて来た。

4、色濃く日本の近代建築史に影響したイデオローグであった日本浪漫派の保田与重郎の思想も又、本能的に西洋建築史への、日本のそれとは歴然とした階層性すら持ち続けた西洋建築への、あきらめに似た賛嘆から産み出されたモノであった。
代表的著作であった「日本の橋」の冒頭部分にそれは歴然と表明されていた。曰く、我々の文明文化にはローマの壮大な土木技術や建築技術も無く、小さく哀れな日本の橋しか無い。そして保田与重郎はそんなモノの表れの日本文化の中心としての王朝文化、芸術へと接近していく。この道筋はドイツからの、ほぼ亡命者であったブルーノ・タウトの日本文化私観とも呼ぶべき、日本建築のアイデンティティとも彼が考えた伊勢神宮へと飛躍してゆく。天皇、あるいは王朝貴族の美を讃え、その象徴として桂離宮、あるいは伊勢神宮を持ち上げ、将軍の美学としての日光東照宮を批判する、に実に近いモノがあったのである。

5、「プーランの人々」のささやかな論述、そしてスケッチ、計画案は、その歴史的幹を、岡倉天心の「東洋の理想」「茶の本」等に求めようとしている。勿論、ひどく時代錯誤的であろう事は自覚しての事ではある。時代錯誤であろう、誰の眼にもそう写るであろう事は知るのである。しかし、日本の近代そのモノが内在させる文化文明の文脈が実に錯誤的な問題を含んでしまっているのだ。
江戸期の一見して閉鎖的であるが故に芸術的には民衆化されもした文化、芸術と明治期以降の荒々しい接木としての移入文化としての西洋文化、芸術の現実である。

6、この充足感はプーランの人々の祭礼の中に身を置いたのと極めて近いのであった。

2015年10月7日 石山修武

11      2015年9月26日


1、このスケッチの線描の感じをプーラン族のために作る建築の内部に実現したい。
どうすれば良いだろうか。

2、カタロニヤは民族自立の意識が市民に強い。広場の西の隅に2階建の本屋があった。その2階の広場に面した壁面にモノクロームの壁画があった。ピカソの手になる。ピカソらしからぬ豊かな色彩を使わずに太い黒の線だけでサラリと描いた風なモノだ。多くの人の姿が描き込まれていた。
今プーランの人々のための壁画らしきを考えていて、その、ピカソの大きな画を想い出している。

3、トランペットの単調な調べに乗って、輪になり、静かなステップを踏む。声も無い。唄もない。だからこそ、アノ踊りはカタロニヤ魂とも言うべき、無言の強い連帯を表していたのである。勿論、芸術家ピカソはそれを直覚していた。

4、アレはアクションペインティングの、ようなモノであった。踊りの、静かな動きを描こうとしたのだろう。

2015年9月26日 石山修武

10      2015年9月18日


1、古来人々の生活圏は驚くほどに遠くまで広がっていた。集落に自閉していた人々もいただろうし集落の外へと往来していた人々もいたのである。いつの時代、地球上のどこの地域でもそうなのであった。
日本の仏教文化はインドから波及したものであったし、中国大陸はその仲介点であり、又、サンスクリット語、ヒンドゥー語から中国言語、文字(漢語、漢文)へと翻訳した善導等の翻訳者という巨大な存在なくしては日本語(古語)へと変換されもしなかったであろう。

われわれが今、ミャンマとの国境間近のプーラン族の居住地に計画しようとしている建築も又、そのような人々の国境を越えて遠くへゆく事がある日常的な生活に含まれる遠征への衝動、あるいは生活の地力をベースにしている。いずれ詳細を述べることになろうが、今のプーラン族の人々の生活圏もミャンマとの現実の交通(勿論、徒歩やバイクでの)の存在を耳にする。又、部族の人々の血族(親戚)も又、国境を越えて存在していると聞く。
何故なら民族の血の繋がりは国境の存在よりも古い歴史を持つからだ。

2、そんな我々の欲求をも又、遡行するならば様々な事例に対面することにならざるを得ないのである。
王や豪族の墓、つまり古墳である。その玄室や更に石棺の内部には顔料の使用もあり極彩色の壁画が存在していた。
九州の装飾古墳群程には古くはないが、日本で有名な高松塚古墳の壁画などはその一例である。

3、法隆寺に復元されている壁画とアジャンタのオリジナル壁画はそのディテールが余りにも細妙に複製されているのである。アジャンタから法隆寺への壁画の移動は700年ほどをかけてなされたのである。
古代においては驚異的なオリジナリティ=エキゾチシズムの大半はその根底に遠距離への伝達(コミュニケーション)能力から来てもいたのであり、それは今の地球上の何処の場所の文化の中にも在る創造の源泉なのである。我々が中国雲南省高地山岳少数民族プーランの人々への計画で、本来の伝統的木造住宅の下に円墳(ドーム)を、そしてその内部に壁画をなそうとする気持も又、古きモノ、すなわち個別な文化の源を遡行したいとする考えから実に自然に生まれたのである。(そう考えたいものだ)

4、インドでは紀元前より崫院を掘る歴史があった。最も古いモノであろうオリッサ州のモノはいずれ詳述するとして、今はインド亜大陸の西岸つまりペルシャ湾側の、これも古層に属する石窟寺院および、その壁画の一端をスケッチにて紹介したい。
インド西岸は古来、大型木造船の良港に恵まれていた。イギリス帝国の東インド会社はボンベイ(ムンバイ)をそのインドでの植民地産品の大型木造船への船積みの場所、つまりは港をムンバイに所有していた。より古くは世界航海者ヴァスゴダ・ガマの墓もあるゴアも又、世界的な名港であった。
そして、重要な事は近代ヨーロッパの力の礎でもあった、更に赤裸々な略奪行為でもあったアフリカ大陸の、人間を含む諸々の略奪物の交易地としても盛えたのである。
インド西海岸は近代ヨーロッパの植民地政策の仲介点(ゾーン)でもあったのである。

5、スケッチはカン・ヘーリー遺跡の第二崫である。(他に第三崫であるとする資料もある)横に50m程にもなろうかという天然の岩山の裂け目とでも呼びたい洞穴があり、その自然が作った地形を崇拝の場として、人工物を付け加え、あるいは洞穴の形状を掘り変えている。自然の岩山(洞穴を含む)に先ず彫り込まれたモノ(物体)はストゥーパである。二基存在する。一基は洞穴から自立しており、一基は洞穴の天井をいかにも支えているフォルムとして彫り込まれている。この二基のストゥーパの形状と自然の洞穴との有様が諸々のアジア地域の洞穴寺院の全てである。
そして、そのストゥーパを荘厳するがごとくに壁画群が取り囲んでいるのである。

2015年9月18日 石山修武

6      2015年9月14日


2015年9月14日 石山修武

5      2015年9月11日

プーラン族の計画はリーダーの若者の発案に少なからぬ者が同意した形になっている。リーダーの若者は集落(まだどの範囲をさしているのか知らぬ)で唯一の大学進学者だと言う。名門中山大学で歴史を学んだらしい。その学費は集落全体の基金でまかなわれたと聞く。


2015年9月11日 石山修武

4      2015年9月10日


2015年9月10日 石山修武

4      2015年9月9日


2015年9月9日 石山修武

4      2015年9月8日


2015年9月8日 石山修武

4      2015年9月7日


2015年9月7日 石山修武

3      2015年9月5日


2015年9月5日 石山修武

2      2015年9月4日


2015年9月4日 石山修武

1      2015年9月1日


2015年9月1日 石山修武