I
2016 年 11月
10月31日 月曜日
晴れる。陽光もあり気持ち良い。昨日はめっぽう寒かったと異常な寒さを思い出したり。ちくま書房の井口かおりさんより「セルフビルド」交通出版社、を文庫本で出版したいとの知らせを受け取り、アノ本も再編集したら良いモノになるのだろうと考えたりしている。佐藤研吾は「異形建築巡礼」の注釈作業で苦労しているようだ。がしかし、設計でジタバタしたり現場の世のジタバタに巻き込まれるよりは余程良い時間を過ごしているのだろう。
渡邊大志に今日会うことにした。彼には「セルフビルド」の解説を依頼しようと考えている。「セルフビルド」のわたくしの頭書きはわたくしなりに精一杯のものであった。手を少し計り加えねばならぬが、若い世代のアイデアを育てる意味でもそおしたい。わたくしの「バラック浄土」相模書房もすでに40年弱の歳月が経っている。わたくしの歴然たる初心である。「異形建築巡礼」の原形である「異形の建築」連載とほぼ同時期に書いた。「バラック浄土」中には「異形の建築」連載の何がしかが入っている。
それ故に「バラック浄土」は「異形建築巡礼」と同一、あるいは対として考えられよう。
「セルフビルド」はだから「バラック浄土」「異形建築巡礼」の血を継いでいる。いわば辿り着いた旅の到達点でもある。今のところの「アニミズム紀行」絶版書房、は未完であるが、それ等を踏み台にしているとも考えられようし、そお考えなければならない。「銅版画」は「足の記憶」と命名した連作にする。マア言って見れば頭の旅とは異なる「手の旅」身体の奥底の、決して短くはない、これも又旅なのである。
GA JAPAN142,143を読んだ感想
今や、GAJAPANはわたくしの視るところ日本では唯一の建築ジャーナリズムである。単純な理由からでGAJAPANには建築作品らしきの写真と、ある種の質を持った言説とが同居しているからだ。広告によって新建築誌のざっきばらんに言えば厚さ(ボリューム)は成立しているが、GAJAPANは自社の出版物以外に一切の広告物が見受けられぬ。142号では、ゼネコン4社のインタビューに基づいた記事が、安藤忠雄の国内での新作2点と共に大きくピックアップされている。これは編集者二川由夫及び編集部の大きな決断である。正しい決断であると考える。余計な御世話ではあるが。
GAは二川幸夫以来、「建築」を謂わばスターによる「作品」群として扱うメディアであった。しかも写真(ヴィジュアル)として扱うことによって成立し、かつ成功を納めてきた。二川幸夫の写真の質がバックボーンであった。
高度経済成長期、知り合いの設計事務所を訪ねると、そこには大判の「GA」が神棚に奉納される如くにウヤウヤしく並べ立てられていることが少なくなかった。それが設計事務所やその運営者としての建築家の日本に於ける小さくはあるけれど確実にあった存在証明のごとくであった。海外、つまり日本では世界であった。往時のアメリカ人がPANAMで大量にヨーロッパを巡ったのと同じであった。
「フランク・ロイド・ライト全集」は「日本の民家」と並び、GAの(二川幸夫の)屋台骨であった。
わたくしは教員時代その全てと、更には「堀口捨己全集」を研究室に並べ立て、それで何とか安心していたものだ。
GAや新建築誌の、それでは読者は誰であったのか。建築史家渡辺保忠が雑誌国際建築廃刊記念号で「建築ジャーナリズムの意味するもの」ではからずも記した如くに、ジャーナリズムは読者と寄稿者と編集者のトライアングルで形成されるとした。
今は、寄稿者と編集者は厳然として居るのだが肝心の読者がいない。姿を消してしまった。かつて新建築の編集者からその実質的な読者は35歳以前の設計事務所員であると聞いたことがある。学生は当時から建築雑誌を買って読むことをすでにしていなかった。そんな金は持っていなかった。昔も今も。皆んな、努力すればスターになれるかもと見果てぬ夢を持つばかりでなく、実質的に学校で教えられなかった建築の姿形を建築ジャーナリズムから学んでいたのであった。
又、数少ない大学を除いて「建築教育」をなす当事者としての教員にはそれほど多くの建築家が参入しているとは言えぬ時代でもあった。
「小住宅万歳」を八田利屋として記し、また「公共建築ことそが建築であり、住宅はそれに非ず」と言明したのは磯崎新であった。
それに対して「住宅は芸術である」との、一見エキセントリックでもある信念を吐露したのは篠原一男である。篠原一男は大学に籍を置く教師でもあった。
「住宅は芸術である」とした篠原一男が籍を置いたのは東京工業大学である。東京大学はその存在の意味からして「芸術=文化」を前面に出すことは出来ない。やはり工学を主にした教育機関でもある。
かろうじて建築の総合性を目指すべき東京大学を補完すべく工業単科大学として東京工業大学は発足した。その存在理由を考えるに、如何にも篠原一男の「住宅は芸術である」はねじれている。
又、それを暗に批判した磯崎新は丹下健三門下の東京大学出身である。しかし、大学院は建築学科に非ず、創設されたこれも都市工学科に籍を置いた。
端的に言えば磯崎新はほとんど芸術至上主義者であると見まごうほどの人間ではある。
つまり、芸術志向の極めて顕著である建築家同士が一時火花を散らしたのである。
大きな矛盾であり、ねじれが明らかに見てとれよう。
ねじれを生じさせたのは、小さな構造=制度である。そして制度としての大学の建築教育のほぼシステムでもあると言わざるを得ない。
篠原一男の名言の一つに「民家はキノコである」がある。極めて危うい人工的な美の構築を目指した篠原一男としては理の当然の言明であった。
生態学的建築、今に言えばバナキュラーの否定でもある。
日記827、825に記した松村秀一「ひらかれる建築」ちくま新書は、きりつめてしまえば、建築家そしてその作品らしきを必要とせぬ世界へのヴィジョンを書こうとした本である。
篠原一男が民家はキノコであると言い放ち、磯崎新が小住宅万歳と、小住宅を手がける教師建築家たちを皮肉ったのも住宅はキノコであるとの公共建築家の視点からであった。松村秀一のヴィジョンはその双方を、それこそ微細な世界でしかない、つまりキノコであると断じているに他ならない。実は大変包括的な本なのである。それゆえに長い感想を記した。
松村秀一は東大教授であり、旧内田研究室の後継者でもある。構法材料を核とする、いわば建築工学の中心でもあり、日本建築学会の世界では「計画」と「構造」の双方にまたがる分野でもある。いわば東大建築学科の中心たるべきの位置に在る。彼からすれば、磯崎、篠原は似たような世界の住人である。
つまり、松村の書は建築工学をより民主的世界に開こうとする書でもあろう。
イタリア、ルネサンス期に「建築家」はキノコに非ず王侯貴族そして教会をパトロネージとして生誕した。以来、建築家およびその建築は実ワ、工学と芸術の間に揺れ動いてきたのである。
GAJAPANはヴィジュアルな本であるから(二川幸夫が創始者であったから)本の性格はどおしても芸術系に偏りがちである。時に工学系の記事があったとしても、その工学は極めて表層に属するモノでしかない。このことは建築ジャーナリズムの宿命とも言える。そして広範な読者を持ち得ぬ因でもあろう。
繰り返して言うが、しかし読者あってのジャーナリズムでもある。渡辺保忠がかつて述べたようにジャーナリズムは寄稿者と編集者と読者が本来構築すべきものである。その点で、GAがゼネコンの人々に眼を向けたのは読者の獲得の一点で一歩前進したと思われる。ゼネコン傘下の日本の工務店、大工、職人こそが日本の建物、建築を生み出し続ける現実でもある。
「作家論磯崎新」について 1メモ
何日か前から、何年から前から手掛けようとしている「作家論磯崎新」について再び、更に考え込んでいる。
一生に一度の作家論を書こうと言う考えには変わりはない。そう簡単に変えるわけにはゆかぬ。しかし書く状況が極めて悪い。正直なところこんなに悪くなるとは考えてはいなかった。
建築家磯崎新論ではなく作家としての磯崎新を書いてみたいの、当初からの考えは正しかったと考える。2016年暮れに近く、建築家という少なくとも社会に公称されてもいるようであった存在形式は瓦解した。「建築」と言う言葉の枠は、これはヨーロッパ社会の歴史から産み出されたものである。これは歴然としている。植民地政策及び強大な軍事力を背景にそれが世界に流布した。今でも旧ヨーロッパ(EUに非ず)が支配した世界各地域では「建築」も「建築家」も厳然として存在する。
イギリスの植民地支配が長く続いた亜大陸インドでは、田中角栄元日本首相のインド的再来の如くであるモディ首相の登場で、根強くあったガンジー、ネールの流れ(文化的しかも政治的な)はほぼ断たれた。イギリスからの独立の祖であるガンジー、その知的な流れを汲んだとも考えられるネール首相は根深くイギリス的と言うよりも大英帝国の文化を、その芯に於いて継承していた。教育も英国で受けた。明らかにインドの上級階級に属していた。スーパーエリートでもあった。ガンジー、ネール、ラインとも言うべきエリート層からの出身者を選挙において破り、大統領に就任したモディは路上のチャイ(紅茶)売りから身を起こした。アンタッチャブルの出身である。アンタッチャブル出身の首相は彼が始まりではないが、エリート層出身者が為政者になると言う道筋はこれでほぼ断たれたのではあるまいか。高速道路、高速鉄道の建設が急ピッチになった。 岡倉天心が「アジアの理想」で述べた如くの大ヒマラヤ山脈をはさんでの中国・インドは共に古代的眠りから覚めたのである。この辺りはまだ性急に過ぎるが、大づかみに言えばそうだ。
建築家磯崎新とせずに作家磯崎新として論じたいの意は、日本の近代建築かの呼称らしきの根の浅さへの考えからであった。明治期にイギリスからのジョサイア・コンドル招聘による「建築」との遭遇に端を発する、その日本での東京帝国大学での「建築教育」が始まりであった。コンドルの教えた5名の教え子の筆頭、辰野金吾がなした日本銀行本店、そして東京駅がその歴史を印したものでもある。日本の「近代建築」はそのようにして始まった。
辰野金吾と磯崎新はある意味で繋がり、ある意味で断絶している。
建築という様式、それは建築家という存在様式に根深くつながる。磯崎新は辰野金吾の流れを汲む東京大学の出身者である。良く知られるように丹下健三を師とした。丹下健三は東京大学教授でもあった。しかし本流としての東京大学建築学科の教授ではなく、新設された都市工学科の教授であった。それ故に様式建築=(日本の伝統様式とも繋がる)からはある意味でも自由であった。日本の近代をアブストラクトして伝統からは自由に建築を造型としてなすことも可能であった。
丹下健三の初期作品香川県庁舎、広島ピースセンターは日本の伝統(建築に非ず、もともと日本には「建築」という存在形式は無い)と少なからず連結していた。そして後期の代表作である「代々木屋内国立競技場」もその美学に於いて連結している。しかし、国家の視えぬけれども根深い要請からは自由であった目白の「東京カテドラル」は日本の伝統から無縁である。キリスト教カソリックの日本での本山とでも言うべきであり、日本の伝統と言うよりも、むしろ世界宗教の表象であり、よりグローバルである。
そして、丹下健三の最期はカソリックに改宗し、東京カテドラルの地下に眠っている。宗教よりも自分の作品の内に永眠したいと考えたのだ。これも又ある種の宗教である。建築と言う宗教。
カテドラルにはミケランジェロのピエタのレプリカ(本格的な)もあり、丹下健三の卒業論文でもあったミケランジェロ頌の詩に帰ったのである。丹下健三の原像とでも言うべきヨーロッパ、ルネサンスの芸術への憧憬でもあった。
つまり、丹下健三の一生の創作活動はルネサンスの芸術への憧憬と「日本国家」の象徴表現との強い混交であった。それは建築という文化活動と「都市」なる政治経済活動の現実という二つの種子の分離の実存との大矛盾の現れでもあった。
磯崎新は色濃くその大矛盾の継承者であった。(つづく、が、これは覚え書きである。)
『ひらかれる建築』松村秀一 ちくま新書
感想2
いつになく、あらかじめ書こうとするモノの趣旨を箇条書にした。が書き始めればこの下書きめいたモノは自分で踏み外してゆくだろうこともすでに知っている。
チャールズ・イームズの自邸について建築家磯崎新は20世紀を代表する住宅であるとした。何故ならばカタログ住宅だからだ、といかにも磯崎らしいシニカルな文明批評の趣の強い視点からの評価であった。イームズがアメリカのマーケットに十分に溢れかえっているレディメードの各種部品、部材をアッセンブルして一個の住宅としたからである。磯崎自身の立脚点は要約してしまえばヨーロッパ建築史である。その立脚点からのいわばアメリカ文化への批評でもあった。松村秀一の民主化のキーワードはいうまでも無く極めてアメリカ文明文化的世界に属している。敗戦国、しかもほぼ占領下におかれた日本という国家はその枠組に支配されるのは歴史の現実でもあった。松村秀一が本書中で触れている渡辺保忠の「工業化のみち」は不二サッシのパンフレット状の小冊子である。しかし建築史家の(日本の)不可能性とでも言うべきに反して近代から古代までを批評するの「日本建築史の通史的意味合いも持っていた」。早稲田の歴史研に属していたわたくしはその小冊子をコピーして熟読していた。
渡辺は研究室での設計活動らしきの一切を禁じた。わたくしに学門と言うモノはそんな卑しいモノではないと教え込んだのである。
松村秀一が属した東大内田研究室はより大らかであったようで実践と理論の中道を歩いていた。松村の本書もその成果の一端であり、とりあえずの成果でもあるだろう。しかし学門の絶対らしきを教え込んだ渡辺保忠は、その後禁じた筈の設計の道へ踏み込んだ。社寺民家等のいわゆる文化財の復元設計、松村の言うリノベーションの純粋形式でもあるが。
わたくしは、成る程、君子は豹変する者だと肝に銘じた。しかし歴史への傾き、頭が上がらぬ気持は今に続いている。教育とは恐ろしいものでもある。
後年、渡辺保忠は「もう少し早く設計をやっておくべきだった」と洩らした記憶もある。
これからの松村秀一の活動、著述の方向は何処に向かうのであろうか。大きな関心を持つ。
教師時代のわたくしは、学生に設計経験としてリノベーションを課した記憶がある。すでに「建築」の世界、それも歴史の浅いとも考えられる近代建築の世界にも遺産とも思える「作品」も実に多い。わたくしが課した課題はコルビュジェのサヴォワ邸をリノベーションしたらの乱暴なものであったりしたけれど、日本の近代建築にもすでにあり余るモノが無いわけではない。
しかしこの著作において、すでに「建築」「建物」世界から卒業しようとしていると宣言した松村秀一が今更、モノの形に関わることもあるまい。しかしながら自身のリノベーションも決して悪いモノではない。「建築」でも「建物」でもなく「場」の問題、すなわち人間の生活、つきつめればコミュニケーションの問題であるとしても、その「場」さえもリノベーションするのは巨大な課題であろう。
松村秀一から示唆された問題は実ワ、決して少なからぬモノがある。例えば、東西問題から南北問題への移行、さらにはコケのような存在の在り方等々である。それ等の投げかけた問題をもう少しわかりやすい形で世に示すべきではなかろうか。
バウハウス大学のカリン・ヤシケの佐賀での講義が忘れられない。或る種のタブーに関するモノであった。
子供たちは何故、宝物のように大事にしているモノを「箱」に隠したがるのか?に発して、その考えを近代建築全般の思想に拡張しようとする考えの形式を示そうとしていた。つまり、タブーを封印しようとするモノとしての「箱」=建築である。吸血鬼ドラキュラの棺オケまで引っ張り出してのレクチャーであった。
わたくしの作品「ドラキュラの家」はその講義にも刺激されてのモノでもあった。「箱」すなわち「パッケージ」は資本主義社会=消費社会においては、その商品としてのアグリーな中実を運輸するに便利なだけではなく、その内実を封印するものであるとも指摘していたようにわたくしには考えられた。
松村秀一の第三世代の民主化なるものが、それに近似したモノなのかは知らぬ。しかし、デザインをしない、あるいは稚拙であるままに放置し、それ故に発生する、ゆるいコミュニケーションの類ではあるまいと考えたい。この辺りのわたくしの考え方を松村は好戦的な姿勢と呼ぶのであろうか?
又、アメリカの建築家フランク・O・ゲーリー(彼はユダヤ人でもある)の処女作でもあるゲーリー自邸とチャールズ・イームズの自邸との関係はどうなのか?そして少し遠いが剣持レイの作品に非ざる、それでもレッキとした名作でもある規格構成材方式=バカチョン方式による実作はどうなのか?
剣持レイの父である剣持勇の事務所は目白の栄久庵憲司のGKインダストリアルデザイン研究所のすぐ隣りにあった。栄久庵憲司は坊さんでもあったし、ハワイ生まれの日本人でもあった。剣持レイの死(事故死)は父の勇氏が事務所の庭に何処からか持ち運んだ小さな地蔵仏がたたったんじゃないか?とわたくしにささやいた事があった。栄久庵憲司の仕事、道具論に代表されるは、実に大きな仕事であった。仏教的思想と工業デザインの日本創始の混交ではあった。
松村秀一の本書での用語の一つに「作法」がある。その用語は栄久庵憲司の道具論に通底している用語でもある。
日本の工業デザインの世界は栄久庵憲司が創始したGKがあまりに強過ぎるが故に固有名を持つ工業デザイナーが中々に育ち難いの現実がないわけではない。
松村秀一の言う第三世代のひらかれた建築と工業デザイン、そして工業デザイナーの世界の未来に関係ありや、無しやも問いたい問題ではある。
コミュニケーションのツールであろうと、常に現実界にモノがある形式を持って出現してしまうのは、更に巨大な現実である。その現実界の問題として、今は性急に問わぬの考えは理解できるが、いずれは対面しなくてはならぬのではないか?
いささか感想が長くなってしまった。長い感想を書くはこの本の持つ力である、と記して終わる。
『ひらかれる建築』松村秀一、ちくま新書
感想
この本の著者松村秀一は、わたくしの若い頃の友人でもあり、わずかな期間ではあったが行動も共にした大野勝彦の若い友人でもあった。過去形で書くのは大野勝彦は道半ばで病に倒れたからである。だから当然松村秀一とは友人の友人の関係にあり親しい関係である。
つまり書評の形式はとらぬ。それで恥ずかしながら、若い友人への私信という形をとりたい。コンピューターサイトへこれを記すのは半端公開でもあり、半端私的でもあると言うことになる。松村が言うところの実に第三世代の薄いコミュニケーションの形である。
大野勝彦の今でも鮮烈な記憶は、彼が若年期においてセキスイ・ハイムという世界でも稀なレッキとした量産住宅の原型らしきを描き、しかもその原型を大きな企業に工場まで作らせて実行に移した事である。大野はいわゆる建築家らしきではなかった。個別の建築を設計し、その設計料らしきで世を渡っていたわけではなかった。身近に彼の生活振りを眺めていて舌を巻いたことが幾度もあった。
彼は実ワ、その事務所に仕事の継続を断りにきた私企業を時間をかけて説得しにかかり、遂にはその設計料ならぬコンサルタント契約(今で言う)を2倍にもしてしまう様な驚くべき才があった。しかもその一部始終を悠然として成すのではなく、油汗をかく様にして全身全霊で成していた。わたくしはその日常を見ながら、恐るべき奴だなと感心していた。彼の親はキチンとしてはいたが、いわゆる弱小でもあった設計事務所を自営していたから、その血を引いていたのだろう。
わたくしには仕事を断りに来たクライアントに設計料を倍にして帰すという土性骨は著しく欠けていた。
40代のはじめに大学教師にもなったわたくしの二足のワラジ状態を、大野は「残念だ。イシヤマさんみたいな人は町場にいてこそ価値があるんだ。」とたしなめた。言いたい事はわかってもいたが仕方なかったところもあった。町場に生きる設計屋の状態を続けていたら、わたくしは野垂れ死していた。
今考えてみればそういう大野だって才覚ありとは言え大企業の住宅部門の創始者の一人として、キチンと生活費はかせいでいたのだから、企業と大学という一見分野が異なるに見える活動形式を透かし視れば、共に人材育成、活用の境界線は紙一重でもあり、大野から残念であると断じられる筋合いも実に細いものであったと言わざるを得ない。
産学協同(働)は一九六八年の学生の造反運動に反するものだが、アレも今にして思えば、学生の生活の基盤を考えてみるに実に妙な世界の中に在るモノでもあった。
松村秀一は大野勝彦や、これも彼の先輩筋であった、規格構成材方式の主唱者でもあった剣持レイの活動などを間近に眺めながら、若干の矛盾をすでに感じ取っていたのではあるまいか。
そんな矛盾(日常生活の)は歴史とは言わず、近代建築史にもつきものである。
松村が度々触れるバウハウスのグロピウスの言説さえも、実に近代建築史のタブーの如きを内在させていた。
良く知られるように初期のワイマール・バウハウスはヒトラーのナチズム、の分厚い支援のもとに生み出された。教師学生合わせて30名弱の小さな学校を始まりとした。小さな学校には純粋理論も生まれやすいが、当然小ささ故のコミュニティでもあるから権力闘争も激しい。イッテン、グロピウスの確執もあった。いわゆるドイツの表現派の連中を撃破したと視える、グロピウスにも闇は当然在る。在り過ぎる程に。
初期バウハウスはアドルフ・ヒトラーの思想下に「フォルクス・ハウス」国民住宅の研究が一つの軸であった。その思想は「住宅」に於いても小さな成果を得た。がしかし、それはむしろフォルクス・ワーゲン(フェルディナント・ポルシェ設計)などの車やアウトバーン高速道路に解りやすい成果を示した。
しかし、今、ワイマールのバウハウス大学を訪れると、大きな矛盾、それは歴史にとっても一種のタブーを眼のあたりにするのである。グロピウスの校長室がのこる後者のすぐ隣りに巨大な墓場の森がある。ワイマールは別名死の都市とも呼ばれる。
その墓場の巨大な森のほぼ中心近くにグロピウス設計(実際は彼の指導した女子学生のデザインとも言われる)の大きなモニュメントが残る。高明なアナキストが暗殺された事の記念碑である。そのデザインは、これはグロピウスの論敵でもあり、内部闘争の只中にもあったイッテン等のドイツ表現主義の形そのものの表現物である。
巨大な竜(ドラゴン)がとぐろを巻く形をしている。それが今でも残っている。今でも教師たちはその事実を学生達には教えないと言われる。とわたくしは学生から聞いた。教えられなくとも学生はよく知る者でもある。
松村秀一の言う、第一世代のイデオローグにも実に大きく、深い闇があるのだ。
だいぶん以前のことにはなるが、批評家の柄谷行人とワイマールで会った。柄谷行人には松村秀一と極々似通ったところがある。「自分はデザイン、芸術にはあまり関心がない」と言明す如くにかなり冷淡なのである。その前年であったか、柄谷行人とニューヨークのグッゲンハイム美術館での国際シンポジウムで御一緒した。そこで彼は、R・バックミンスター・フラー、アレグザンダー、そしてウィリアム・モリスの重要性を説いた。会場に居並ぶ国際的なスター建築家はその講義には無反応であった。ある意味では現代建築家名だたる者達をナザ切りにしたも同然であったからだ。
そして、ワイマール。柄谷行人は胸中、ここならば、つまりバウハウスならわかるんじゃないかの一抹の期待があった。
ところが再び、会場の空気は実に冷淡であった。柄谷行人のレクチャーはニューヨークと同じフラー、アレグザンダー、ウィリアム・モリスであった。
彼のレクチャー終了後、我々はヒトラーがそこで演説するのを好んだエレファントホテル前の広場近くの、路上でビールを傾けた。「どうなってるんだ?建築の世界は?」いわゆる思想らしきの言説と建築家の世界は近いものか、の彼には幻想があったのだ。
「わからないのと、わからぬ振りをしているのと半々じゃないですか」と答えたのを記憶している。
松村秀一の言う第三世代の民主化であろう「開かれた建築」の実態はわたくしにはいまだ不明である。わたくしのバウハウス大学でのレクチャーは「マイノリティの建築」であった。「ヘレンケラー記念塔」「難民のための病院」「ツリーハウス」その他をヴィジュアルを使いながら話した。ヘレンケラー記念塔は北海道の盲目の人たちのための建築、ツリーハウスは秩父の森の中の車椅子の人々に森林体験をしていただく建築であった。
幸い、わたくしのレクチャーにはグローバル都市の研究家サスキア・サッセンが聴いていてくれて、彼女は大きな反応を寄せてくれた。「あなたは、実にスペシャルな存在だ」と、当然のことのように建築(近代建築の主流)及び、建築家の外の世界に居るという自覚を見抜いたようであった。
根深いところでわたくしは建築の世界には居ない。昔も今もである。
ヨーロッパ=建築の中心、で話をする時そして展覧会を持つ時にはそれをかなりストレートに表現できるし、伝達できもする。しかし、日本ではどうもうまく伝達できない。言説=思想とデザインは分離しているが、日本では大前提であるからだ。
松村秀一が本書で「第三世代のひらかれた建築」と呼ぶ世代の人々の実相をよくは知らない。旧石山研卒の何人かが、それらしきを経済活動として行なっているのは知っている。その人々は実に玉石混合である。なる程なと考える人もいれば、コレワ、ただの日銭稼ぎの商人まがいではないかと疑わしいのも居る。日銭稼ぎが悪いのではない。魚屋や、八百屋の活動は重要である。しかし、ただの情報のピンハネみたいなのをわたくしは好まない。松村秀一が述べる如くの生き方の多様性の肯定はそこのところが不分明である。
そのところを突き詰めてゆくのが、今は望ましくはないという妙な覚悟も時折述べられてはいる。だから性急に問いつめるのは正しい態度ではない。
実ワ、わたくしもすでに若くはないから、身体の力も弱まってくる。すると自然に近所付き合いが多くなっている。付き合っているとどうしても程々の問題が発生する。その類が第三世代の民主主義と同義であるのだろう。ここのところはわたくしにもまだ良く理解できていない。近所は珍しく地価も上がっていて活況を呈しているわけでもないが、世田谷特有とも言われる空家も歴然と多くなってはいない。建築家は全く必要ないけれど、松村の言う第三世代のなりわいと言うべきも更に必要ない状態である。
日本の近代建築はひとまず終わっている。がわたくしの今の認識である。
言葉の字面から考えるだけなら、建築家伊東豊雄の「みんなの家」は松村秀一の「ひらかれる建築」ー民主化の作法と同族の如くに響く。しかし、伊東の言う「みんなの」はあくまで建築家主体から発する「みんなの」であり、第三世代のと言う松村の言う「民主化」の主体無きに等しい状態とは明らかに異なる。人間はそれ程簡単に自分の小歴史をさえ消し去ることは不可能である。
わたくしなぞはなにを今更「みんなの」というのかが全くげせない。自分で自分のなしてきた事を消そうとするのかが不可思議である。かつて伊東は消費の海を泳ぎ渡るの発言もあった。あくまで泳ぎわたり、何処かに辿り着こうの意志があった筈だ。かくなる方便をわたくしは信用しない。
隈研吾の「負ける建築」はクライアントに伏し、ゼネコンにも伏し、要するに決して強面のデザイン趣味や、組織形態を持たず、グローバリズムに合わせながらネガティブなわずかな可能性を探りたいの意志だけれど、「みんなの家」の又もの偽善がないだけマシである。
時代錯誤的としか卑下するしかない。まだ建築家の固有名詞なんぞ持ち出したけれど、旧建築家達は少しは解りやすいと考えての事である。
わたくしの自宅である世田谷村も第4期のリノベーションを一段落させた。若い建築家に設計を依頼して、その施工は地元のリノベーション専門業者に依頼した。このリノベーション専門業者は小さな工務店ではない。関東を中心に数十カ所の拠点を持ち、協同倉庫も所有している。幾つかの業者から合い見積もりを取ったが、断然合理的な値段で色々とこなしてくれた。営業部は一人制であり、同時に5、6カ所の現場をかけ持ちするとのことであった。職人達は、その都度のフレキシブルな契約らしい松村秀一の言う、第三世代のリノベーター像よりも、余程、更に資本主義的であり、地域拠点はハウスメーカの仕事に飽きたらぬ人間らしきが自主裁量とおぼしきで協同するのだと言う。
部品、部材のストックは協同管理して、それ等は協同仕入れによって異常に安価に入手するという。
「仕事、面白い?」って聞いたら、
「しんどいですけれど、一人の裁量(自由)がきくから、面白いです。前の職場よりもズーッと面白い」
の答えが返ってきた。マネージメント付きの人材確保を含めての現場監督である。彼の仕事振りがいつ迄頑張れるのかは未知数である。しかし、今の所最もいそがしく、しかも面白そうな生き方をしている人間の一人かも知れない。彼は自転車である一定の地域内を走り回っていた。いわゆる製造業ではなくって、これは地域サービス業だなと実感した。ターナーのフリーダム・TO・ビルドの実践はフィリピンまで見学にいった。共同の部品だけが管理されたオンボロ倉庫で便器が一個5ドルという途方もない値札がついていた。
つづく
「彫琢論之2」
その次段階の問題が歴然としてある。
銅版がという素材と人間の身体との原理的関係については考える糸口はつかめた。次にその彫り込んでいる内容と言うべきか、フォルムについてはどおかである。銅版という素材の表面の薄さと地球表面での人間の生活域のこれも極薄とも言うべき関係の原理的な類似について考えが辿り着いたので、やはりその点に焦点を当てて考えを続行させてゆきたい。
結論を先ず先に述べたほうがわかりやすいだろう。
どおやら、わたくしが無意識下の深層において考え、そして彫り込もうとしているのは「フクシマ」に計画したいと考えているニワ(ランドスケープ)のイマージュなのではなかろうか、である。それに昨深夜に思いついたのである。たどり着いたと言うべきであろう。フクシマの第一原子力発電所の大事故については余りにも当然ながら深い関心を持ち続けてきた。フクシマの被災地の中心にも出掛けてその回復不能とも考えられる荒野と廃墟はつぶさに眼に焼き付けたのである。この21世紀初頭に津波で出現してしまった回復不能の荒野に、創作者として黙示録としての「ニワ」をランドスケープとして作りたいとの考えが出現したのであった。
そして、今、やっている最中の数々の銅版画はその計画案の始まりのスケッチなのではないかと思い当たったのだった。そお考えると一連の作業はスッキリと一本道になるのだ。
で、そお考えることにした。
それで、とどこおっていた銅版画の大中小、とりまぜての数々の命名もその一本道にしたがってする事にした。
トータルの主題を「フクシマの庭」あるいはニワとする。そして副題として「神々の棲家として」としたらどおか。
一つ一つの作品の名もそお考えるとこれも又、一本道になってくれる。
例えば、フクシマのニワー荒地を蠢く生命ー、そしてフクシマのニワー封じられた生命ー、さらにはフクシマのニワー虚無への門ーなどなどである。そんなに容易ではないが命名によって、更なる行き先が望めてくるだろう。
言葉は強いモノであるから、無意味なアブストラクト、例えば番号、数字にしたらどおかの考えもあろうが、それではどおも考えを完徹できそうにない。フクシマのニワー四ツ辻ーでも構わない。フクシマのニワー二本松通りーも良かろう。
「彫琢論」
銅版を彫る楽しみについて
鉄筆やら、ノミやらで銅版を彫る。
厳密に言えば銅版の表面の極薄の表皮を彫ったり、かきむしったりする。
これが実ニ、わたくしには向いている表現の形式である。あるいは道具でもある。紙の上のスケッチや、絵、そして各種立体らしきでは、こんな風にうまく自分の気持ちらしきを表現することは出来ない。
表現すると言うよりも、自分の内をのぞき込むと言った方がより適確である。
人間の気持ちは揺れ動いて止まない。だからそれを静止の形式にとどめるのは実に困難である。わたくし自身の気持ちのうごき、あるいは思考の速力はそれ程に遠くはない。恐らく、今している如くの肉筆で文字を書くに似た遅さの中に在ると言えるだろう。自分の事はよおやく少しはわかるようになったのである。随分時間がかかったものだ。
自分の気持ちの奥底に蠢くものがどおやら在り続けて止まない。わたくしの我欲と呼ぶには、それは簡単に過ぎる。自身を基とする表現欲らしきは、どんな幼児でも在るモノだが、それとは少し異なる。それを創作欲と呼ぶことにする。これもまだ厳密な言葉ではないが、そお命名しておきたい。それが一番率直である。実態の無い空間、あるいは空虚に近い。しかもモノではある。それを何らかの形に静止させたい。いささか長く「建築物」に関わってきたが、建築物がつくり上げる空間とは似て非なるモノである。建築物は社会的な産物であり、工学の領域中にも在らねばならぬ故に、これは不自由の固まりでもある。そんな不自由と闘うのは面白い事でもあるが、余りにも不自由に過ぎて、とてもわたくし個人の内部の満足が得られぬ。そんな気持ちが満ち満ちてきて、それは正直な自身の欲動とはやはり遠いのである。この内部に蠢き続けるものは創作者たらんとする者の全ての始まりである。と、気付いた。
銅版を彫ることで、銅版の実に薄い皮膜に生まれてくるモノが実に問題の中心である。
銅版の表面を彫り、きざみ込める部分の厚さはせいぜい0.5mmくらいだろう。個人が人力で彫れる範囲の厚みである。この薄さが実に銅版を彫ることの価値に通ずる。
鉄筆で彫ろうが、ノミで彫ろうが銅版の表面は人間の自由にはままならない。直線状を定規を使わずに描くのに、人間の手は不可能である。ましてや硬い銅版の表面に直線を刻み込むのは出来ない。銅版と鉄の密物が激しく衝突し、抵抗し合い連続して長い直線なぞは刻み込めない。定規を使えば別であろうが、それは一本の大切な線の生命力が全く失われてしまう。機械やコンピュータが描く線と代わりはないからである。人間の手が描く生命力とは、機械(コンピュータ)が凄い速力で描くことができる線と異なり、間違い、失敗、狂いと言った方が正しいのだろうが、その狂いに満ちているからだ。
どんなに息を止めて気持ちを指先に集中しても、彫る線は必ず狂いを生じさせる。その狂いはフラクタル理論の線は点の集合であるとも異なる。科学や物理学では決して説明し切れぬ。人間の身体の奥底である。人間の手は狂いを生じさせて止まぬが、その手の機巧(仕組)は骨と筋肉と、それに指令を出す神経系統、脳細胞の蠢きの総体である。そして、どおやら筋肉や骨といった古びた性格を持ち続ける。眼に視えやすい人間の身体の非神秘的とも考えられる物理的部分とも言うべきも、時に一本の線を彫るに人間の神経系統の指令を裏切り続けるのである。どんなに息を止めて、筋肉を静止させ、固定化しようとしても、その状態は決して持続できない。人間の心肺機能と筋肉は密接に関係しているからだ。
要するに、人間は長いフリーハンドの直線なぞは引けやしないのである。ましてや直角を描くのも不可能である。更に、それは彫ろうとする線状の深さにも関係する。より直接的に関係するのである。極薄と言っても銅版の表面にはやはり厚みが存在する。その0.5mm程の厚みの内で鉄製の彫り道具、鉄筆やノミの類も、平面の直線状よりも更に安定した均質の深さの持続を拒否し続けるのである。わかりやすく言えば、その線状の彫りモノは大地を流れる自然の川の断面状に酷似してしまう。
小さな銅版を彫る。ありとあらゆる線状のラインは川の流れの如くの実に複雑極まる深度、形状を持つのである。
だから、一つの銅版に彫られた、ありとあらゆる線の全ては地球を削り、彫り込み流れる水の流れと同様である。原理的にそお言わざるを得ない。
つまり、小さな銅版を彫る作業は知らず知らず、無意識のうちに地球と呼ばれる球体の表面を流れる水の運動にも似た性格を内在させているのである。
わずか0.5mmの極薄な厚みの中で。
銅版の表面の極薄を笑ってはならない。
人類が生存し得ている地球の表面の、生存圏の厚みはどおだろうか。それは、せいぜい1万メーターに満たないではないか。成層圏を飛ぶ大型ジェット旅客機の飛行高度がそれ位。大型ジェット旅客機内部は気圧調整されていてさらに気密であるから、アレは原理的にはもうひとつの小さな地球とは隔絶された人工の天体である。長く飛べないところが消費的生産物の無常でもあるけれど、成層圏を飛行している時だけは星なのである。
大型の渡り鳥である。鶴の飛行高度はヒマラヤ山脈の高度を超えるのが知られている。鶴の心肺機能は、はるかに人体のそれを超えている。ヒマラヤ地方には何カ所か、一定した上昇気流が発生し、持続する場所があるようだ。鶴はそれを熟知しており、ひな鳥をインド北部で育てたら、それ等を連れてその上昇気流に乗せて飛行訓練をなし、地球北部への大旅行をするようである。
長距離の渡り鳥には、人間の能力をはるかに超えた神秘的とも言えよう地球スケールの地理把握能力があるのだ。地球を気流の組織図の中に恐らくは把握している。
人体の生息圏の厚みはせいぜい4500メーターである。普通の人体はそれを超える高地に登ると酸素欠乏に襲われる。地中の超温度には太陽光が届かぬから長く生存するのは不可能である。
人類が共同で使用している地球の球体としてのスケールが限りなく有限で、決して無限に非らずは、すでに我々の知るところである。
有人人工衛星や、月の表面から送られてきた球体としての地球の、歴然とした無限に非らずは、今や人類に共有された、すでに感覚でもある。
数々の映像で記憶した、地球の表面の、しかも極薄の厚みについて、その危ういはかなさに似た薄さへの想像力を持ち、かつ共有すべきであろう。
地球の姿の映像には一切の厚みが、勿論、欠けている。
それが、映像の伝達力の限界でもあろう。その限界らしきを、我々は想像力に於いて補完したいものである。
地球という球体の表面は、青く美しいと感嘆するばかりではすでに不足なのだ。その表面の極薄の危うい厚みの中に我々はかろうじて生息を続けている。
そのかろうじての極薄の厚みは、銅版の、分かり易い表面の厚さに酷似しているのである。銅版の表面は地球の表面と通底している。
九月二十二日之二
夜、頭を切り替えて『異形建築巡礼』最終ゲラに手を入れる。
編集者からの依頼で全ての章立ての見出しを書き直す。これで随分と、今に読み得る枠になったように考えた。
一章、異形の再発見、その正当性。日本近代建築の見直しへの一石
二章、螺旋。旅の原型を求めてタイムトリップ、アニマ巡礼
三章、神々の宿る地形・建築巡礼。日本的なるもの之別系統
四章、機械のはじまりへ。日本の遊戯機巧
五章、擬洋風建築。日本近代建築之伏流
六章、遊行者集団之人力掘削建築之極。日本の神々を闇に視る
七章、異形の地平から。日本の近代建築を再考する
八章、メビウスの環。時代はまわり、日本の近代建築之はじまりを幻視するもう一つの回路を求めて
とした。まだ全体として座りは良くないが大方は良かろう。
小見出しや、タイトルで古い文章も生き返る可能性もあるだろう。まだ本文は四章まで手を入れただけである。明後日までに全て修了させたい。
本日は終日雨降りで、外には結局一歩も出なかった。自分の内への旅に終始した。これでは万歩計も不要であるが、身体には良かろう筈もない。夜中に歩いたりすれば、コレワ完全に徘徊老人であり、職務質問されても文句は言えないから、やはり内にとどまりたい。しかし、随分と疲れた1日であった。
区切りなく月日は過ぎてゆく。しかし、やはり区切りはつけたいと駄文を付け加える。世田谷村二階はほぼ美術館状態になった。自作も他人の作もすべて大事にとっておいたものばかりである。自作は作った当初はそれ程のものとも思えなかったものもある。でも15年程の月日を経ると、こんなことを考え続けていたのかと感慨が湧く。少しばかりブレない自分を信用できるかと考えたり。なんのためにブレないのかと更にいぶかしんだりである。特にいささかせかされるようにやった「銅版画」はまるで建築のドローイングの如くで、アレレ、俺の創作の幅なんてこんなものかと驚きもする。来年の何度かの展覧会で見ていただくつもりだけれど、同じ事をシコシコとやっているものだなあとあきれたりもする。見た目は多様だが、わたくしには同じだ。
8月21日 日曜日
日記1250-1255の自己解説めいた事を記す前に、日記本来の日々の事共について書いておく。どうやら嬉しい事に日記を記し続けることと日々の、とは言えずとも月々くらいのとはようやく言える「創作論」を書くことがシンクロしているようなのにようやく気付いてきた。回りくどいようだが生きることはそんなに単純に整理できるものではない。70才を程々に超える年齢になって、ようやくそんな事がわかるようになってきた。多分これも日記らしきを長々と一見無目的に続けてきた事の果報でもあろう。
もっとハッキリと仕組みらしきを表明しておきたい。
「作家論・磯崎新」は少しばかり休んでいるが、これは今の建築および「建築家」らしきをとり囲む日本社会の知的状況が冷淡になっているから、今、無理してまでも書き進める事もあるまいと決めたからである。放り投たわけではない。磯崎新論はあくまで作家論である。建築批評の核は「作家論」であるの考えには変わりない。そして「作家論」は「創作論」を補完するの機能をもたせたいと考えた。
自分自身の創作を客観視、あるいは相対化するのは創る現実の身体にそれ程の意味はない。そして、その現在の日本社会的現実はその事実を歴然と露出してしまっている。
今、現在の事実認識であるから、詳述は避けるが、整理されて社会に公表、任地されたであろう『磯崎新著作集』岩波書店の見事な言説が、今、一向に社会的機能を十分に果たしているとはとても考えられない。教育は言説の遠い目標である。言説は何者かに継承されねばなんの価値もない。いずれ砂漠にしみて消える河水の如くである。
批評は伝えたいからこそ在り得る形式である。ところが磯崎新自身の言説はひとまとまりの小体系としてまとめられた時に、一向にその肝心の伝えたい事の中心が見えてこない。なぜならば磯崎自身が相対化=客観化の、日本近代の浅い近代史の中にまぎれて正体を見せようとしないからである。
小総論を言えば「作家論・磯崎新」は、日本の近代建築かの不毛とは言わず、どうしても落ち込み易いニヒリズム、アナーキズムの変な枠を露出してしまうのである。その書き方を乗り越えねば、実は今に書く意味はそれほどに大きくはない。それが今のところの「作家論・磯崎新」の小結論である。
そのジレンマともいうべきは、やはり「作家論」が無くしてはあり得ないのである。
「銅版画」制作=創作論がどうやら、1256頁に記し始めた如くに対の構造をこたざるを得ぬように、「作家論・磯崎新」も又、創作論との対の構造無くしてはあり得ぬモノである。
10時過教会に出かける。小林宏和牧師の説教は「セビの賢さ、鳩の素直さ」について。この話の主題は単純な絶対主義的発想は今に危うい、という事らしい。聖書マタイ伝の一節からの引用であるようだ。引用といっても磯崎新的知の産物である「引用」が小さな世界に自閉されかねぬとは歴然と異なり、絶対神への帰依をベースとして、しかも単一的思考に落ち入る事無く、二つの思考の態度を持つほうがよろしいという事であり、解り易い。やはり磯崎新の思考には絶対とも呼ぶべき軸が不在の上での総体であるから、焦点が結び難いのを知った。
教会では世田谷千歳教会「主なる神の在すところ」加藤登美子の、本教会の小史が記された報告書をいただくことが出来た。
1250頁の「銅版画」エスキスには明らかに、非絶対神である「仏」の寝姿が登場しているから、これから先は十分にスリルの連続である。
8月20日 土曜日
昨日の日記780に記録した「銅版画」のエスキス、スケッチについて、それを言葉に置き換えておきたい。
「銅版画」は295mm*365mmの銅板2枚を彫り、中途でほうり投げている。このまんま続けようにもどうしても続けられないからだ。[1]はほぼ彫り終わった感があり[2]は彫り始めたばかりである。1から彫り始めたから、ここ数年の不可解な気持ちの中のモヤモヤが全てこの習作(エスキス)状の中に在るのだろう。モヤモヤの最大は「なんでこんな事再開してるんだろう」に尽きる。なんでこんな銅板彫りしようとするのかは実はなんで生きようとするのかにつながる。若いねえと思われるやも知れぬが、突きつめて考えればそうなる。1日1日の人間たちの暮らしだって要約すれば二つの世界しかない。「眠る」と「起きている」である。起きている間に様々な事を成しているようにも思うが考え詰めればやはり「起きている」に尽きてしまう。歩いたり、何やらの目的で動いたりもするのだけれど、それはたいした事ではない。起きているは要するに動いているに同じだ。もっと正確に言えば眼に見えて動かずとも静止して何やら考えようとの状態も含められよう。起きている時の大半のそんな動きは、ようするに眠るための準備の動きでもある。フロイトはそれを無意識あるいは夢と名付けようとした。フロイトよりも夢に対する考えが深く、一見神秘主義者らしきでもあったユング*1はそれを曼荼羅と、呼んだ。ユングの曼荼羅は静的で形而上学の世界に属してもいた。 *1 とされる、付記したほうが良かろう
南方熊楠の曼荼羅はより人間の思考の中の動きが描かれているが、その動きに対する論はない。図像として表現されているそれ等はアニミズム*2の世界である。 *2アニミズムに関しての論考はアニミズム紀行5,6,7,8絶版書房で述べているが、未来に対しての論述を要約すれば、それはアニミズム=想像の秘密である。
「銅版画」彫りは無意識の、深いか浅いかはわからぬが底へと降りてゆく作業であり、その作業の結果としての表現である。
途中でほおりだした[1]の図像について簡潔に述べる。
この山という漢字による表意文字に似た図像は山という表彰文字に似せた「建築世界」の長くなりそうな表現作業の入り口らしきは、どうしても「建築世界」になってしまう。その世界に50年ほども入り込んでジタバタしていたから、謂わば尾骶骨である。
正直に言ってしまえば、この図像は3本の塔と、底に1つの横に長い洞穴が彫られている。スケール(縮尺)はあって、ないが如しである。曼荼羅一般にそれは言える。極大に近く同時に縮小でもある。大きなスケールの、同時に無スケールの観念が実に小さな断片や画に描かれている。
塔と洞穴は考え詰めるに「建築のはじまり」である。東西文化の距離を問わずそうだ。距離ばかりではない。時間も問いはしない。古代と現代との境界だって乗り越えてゆく。
アルタミラやラスコーの壁画と洞穴の関係から説き起こすのは今(現代)は不可能である。なぜなら人間が過去が積み上げ、構築としてきた時間の総量を「近代」以降のそれとは圧倒的な量の開きがある。今、我々が暮らしている地球の表面上の生活圏は巨大に今も拡張し続けている。それが無限に拡張し得ないのに気付いたのは、たかだか1960年代である。地球の水や空気というを含む資源のみならず、世界人口の増大に伴う歴史的な生活空間の変異はその積み上げの積層性をも破壊してしまった。人類の未来は、地球資源の枯渇のみならず自身の空間破壊、更には巨大な消費意欲の結果としての大量のゴミの処理技術の非対称的未発達によっても大きな危機に対面している。最大級の危機は核廃棄物の処理不可能であろう。
その全てを、今ここで述べるのも又不可能である。それ故に我々の地球上の空間について考えようとするに、古代からの純正な時間と物質の変遷が不可能であると考えざるを得ないのである。
それ故、この「銅版画」彫りという「創作論」は今を起点とする「アニミズムの旅」の形をとる。すなわち近現代におけるアニミズム=物質と人間の基本的(底流)としての諸関係をできれば露出させてみたい。
[1]の図像はアニミズムを意識した時に、創作者=マテリアルから決して自由になり得ぬタイプの人間の、それでも不可能としてもあり続ける創作者の図像好み=図像探求=曼荼羅を考え続けることである。図像作りは「物体、物質の本来の形象を求めるに通じる。それでわたくしは「建築」のはじまりの形象らしきをまず求めることにした。
「建築」のはじまりは先に述べた如くに、大自然の作った洞穴の発見にあった。人類発祥の地は現地球上のアフリカ大陸の大地溝帯なる大きな浅いクレヴァス状の谷間にあったと言われている。
さすれば今のわたくしの先祖はアフリカからはるばる時間・空間をリアルに経た旅を続けてきたことになる。父、母、祖父、祖母などを延々とたぐって、歩ける距離の連続のはてに、どうしてもアフリカの大地溝帯にたどり着いてしまうのである。今、アニミズムは縁遠いと考えるような近代主義者たちは、それぞれの厳密にリアルな遺伝子をたどる想像力が欠けている。[1]の図像だけをてに思考を続けるのは危険である。それは建築的図像であろうとするが故にあまりにも我々の現実から離れすぎようとしているのは歴然としている。
それで[2]の図像を併せて用意しようとした。この図像は実に現実そのものから、現実社会の即物的思考から出発させようとした。[1]の図像の独立し過ぎた原理主義的思考を自己内で批評することが必要だと考えたからだ。一人の創作者であろうとする、それでも社会的存在でもある人間が理性的であり続けるためのバランスの重しの如くである。それ故にこの図像は現実界をなぞろうとした。現実にこの世に存在する土地に、現実に建設しようとする「建築」の輪郭を描いた。現実の土地のいささか抽象化した図形に、初歩的に抽象化した建築の平面図と立面図を同居させ、融合させようとした。
現実社会の断片でもある。しかしながら、この作業はあくまで思考の旅の指標作りのためになす作業であるから、建築設計に恒例の設計作図そのままでは図像にならない。なり得ないのである。何故ならそれでは作図は現実世界に根を張った記号にしかならない。土地の形状は現実の資本主義下に社会では常に理想のモノとは言えない。(理想があればの事ではあるけれど)
建築は大地から離れる事が出来ない。宇宙船や人工衛星も建築であり、深海をゆく原子力潜水艦も又建築であるは正しいが、それは例えばR=B=フラーの世界でもありそれはそれで純粋な技術世界数学世界の産物でもあり、
これから考えようとする「建築」世界のある種の古さとは別種のモノである。
これから扱う「建築世界」は古い、あるいはその本格的な古さを考えてゆこうとする指標でもあるから。
とりあえずここでは[2]の図像は[1]の図像を補完する構造のために作る。それを前提とすることを確認して次に進むことにする。
1250-1255のスケッチに関しても述べてみることとする。
「東京都知事選」について
それにつけても気がかりなのは安西直紀くんの動向である。政治家の秘書として丁稚奉公の如くの修行中であるけれど、どうも現実が彼の考えている様なスロースペースで進んではいない。特に舛添都知事の不祥事発覚からの政界中の動きが全く外からは見えにくくなった。おそらく知事は辞職不可避である。すでに後任者選びが相談されているのだろう。それが政治だ。安西直紀はその将来を都知事にフォーカスを絞り勉強中だが、ここに来て身の振り方を充分に考えねばならなくなった。舛添都知事の後任に本来のプログラム外のネガティブな事故の如くで退任するだろう現職の空白に誰がすべり込むのか?
恐らく選挙になれば野党は、かなりの大物を投入せざるを得ない。都知事選はかなりの確率で勝機があるからだ。
都自民党の表面上の要は、最近いささか影の薄い石原伸晃だ。安倍首相との距離も微妙であり、おそらく選挙の責任は石原伸晃がかぶる事になる。前の衆院選で都連自民の代表を落としてしまった過去もある。石原慎太郎の威光はすでに落莫たるものだ。その苦しい選挙の責任をとらせられるのは歴然としている。しかし、安西直紀は自民党員としてこの選挙に何らかのコミットをしないとマズい。大勢としては知事選は自民公明敗北、参院選では自民公明が予定通り勝つのではないか。選挙の票は生きもので、不思議なバランスを取らせるモノである。国政にすぐに野党が出る幕は一切見当たらぬ。だからこそ最大の地方選のシンボルでもある都知事選は現野党にチャンスがある。その際に将来の都知事を目指す安西直紀はどのような径を選ぶのか?大事な局面である。大事であるのだけは不肖、政治オンチのわたくしでもハッキリとわかるのである。
1、朝伊藤左官工業の宮崎さんに連絡して、今日からの左官工事の記録を撮ることを伝える。昨日5月31日少しばかり考えて、年末からの展覧会の連続プログラムに伊藤左官工業の手を借りようと決心したからである。
2、ガラパゴス族の一人としては、これも又、業界ぐるみでガラパゴス族である左官業と、まさにガラパゴス的洞穴状を作ってみたいと考えた。
1、東京都杉並区が今在る公園15カ所に保育園建設を計画している。そしてそれにたいして区民が反対している事がTVで報道された。待機児童数の多さは世田谷区も同様であり、すでに大都市ではよく知られる大問題でもある。わたくしも世田谷区北烏山で保育園を手がけている最中であり、それに似た問題はまさに体験中である。保育園建設は、都市生活者には、子育ての必須機能としてインフラストラクチャーである。がしかし、国、及び自治体にはその認識が薄かった。それで地域にバランスよく配布することが後手に回り過ぎた。/p>
1、ジャズ喫茶というモノはこれも又、ガラパゴス族に属する珍妙なモノである。ジャズの本場のアメリカには無い。日本独特の珍妙類である。日本独特の学習精神があって、ジャズ喫茶の最盛期も又、1960年代であったのではなかろうか。学習精神とは、要するにモノ真似に近い。模倣の繰り返しの気持という位のものである。これは言うに易し、行うのは実にむずかしい。
ベイシーの菅原は古いモノを好む。であるからモダーン・ジャズの名盤の数々も、当然レコードというガラパゴス的UFO=円盤を際妙なプラスチック製円盤の廻し、レコード針で溝の凹凸を拾う。その凹凸に録音された、つまりは音の遺跡を発掘するのである。そしてJBLのスピーカーで再生する。このJBLはLBLアメリカ本社社長が噂を聞いて、ワザワザ一関までやってきた。そしてベイシーで音を聴き、「これは本当にウチのスピーカーから出てる音なのか?!!」と言った。いい話である。
2、モダーン・ジャズは1960年代にピークを迎え、今や下降期にある。モダーン・デザインと同じである。菅原程の達人になると、そればかりではないようで、レコードに限らずあらゆる録音技術は1950年代にピークを迎えていたそうだ。アナログ・カメラも又、世の中から姿を消しつつある。極々少数の人間が好むコレも又、ガラパゴス類の産物となった。
3、ベイシーでは少なからぬガラパゴス人間たちに出会った。類は類を呼ぶのだ。フランク・シナトラしか聴こうとしなかったフランク若松はその最たる者であったが、亡くなった。
高橋令夫人もご主人共々たびたび、今回お目にかかった。依頼人はや書きな奇病となり、今は動けぬ人となった。夫人は介護の日々を長く送っている。それでも時々、ここに来られて、ここの音を聴くとホーッと気持ちが真空状態に中吊りになって救われるという。
1、8時中里和人、小林澄夫、渡邊大志、佐藤研吾、GAYA集合。車で中央高速道を経て長野県八ヶ岳山麓尖石縄文遺跡へ。尖石遺跡は縄文中期、今から4000年から 5000年昔の、三百軒を超える集落跡である。
2、午後2時前、小諸の布引山観世音到着。藤森照信さんに「岩屋づくり」あるいは「かけ造り」と呼ばれる類のいいのないかな?」と訪ねて教えられたモノである。
3、牛に引かれて善光寺参りの伝が、この地方では最大の口承大衆文化の象徴である。善光寺はそれほどに面白くもない寺ではあるが、やはり、たたると恐いので悪口はいわぬ、布引山の山名(寺院の)から知るようにここの沢(小谷)に露出している地層には白い岩肌が布状に、つまり滝の如くに現れている故の命名であろう。昔の人は地名をつける名人であった。
4、小さな峡谷状を登る途次は、牛岩馬頭観世音不動滝の如くに異形の岩やその表面に露出する地層の文様に何かを見立てようとする人々の思いつきが面白い。特に善光寺穴と呼ばれる小さなひしゃげた割れ目状の穴と言えば穴かなと思われるのが、よくもこの浅い穴が遠く善光寺まで通じていると、言いはやしたものだとオカシイ。人々は嘘を好む。そして地底の怪=暗闇は嘘を承知で、そうはやし立てさせる。やはり力があるのだろう。自然の異形は人々の嘘好みをそそる仕掛けであろうか。
5、登りつめると天台宗総本山比叡山延暦寺直系釈尊寺である。100m程遠く、水平方向に目的の「宮殿」 が観世音の岩屋内に安置されているのが眺められる。図太い角柱の長大な4本が岩屋の木造テラスを支えている。柱は赤黒く塗られている。その色は朱色とはちがい、やはり修験道の色なのかと想わせたり。宮殿に向けて水平に移動していく。この水平移動は三仏寺への最終アプローチと同じである。室町時代の白山社の小堂は美しい。六道をあらわす六地蔵の小さい横並び等が水平方向の移動を楽しませる。この水平方向の移動のアプローチは中々見事な仕掛けである。移動の途中に岩峰の狭間に浅間山が望まれる。噴煙を吐く火山は修験道の裸体でもあろうから、この神山への眺めも又、これを造った修験者たちの眼目であったろう。地水火風金の五大が水平状の移動の中に配布されているのが感得できる。
6、修験道者は山懸けの修行中に、あるいは日本中の山岳聖地をめぐる体験の中から極々自然に地質学らしきに接近した。ヨーロッパでの錬金術師たちに近い異形のモノ達である。天台宗の末寺を誇る系統には似合わぬ、むしろ空海の高野山系真言密教に近いと考えられるが、そんな筋道は修験道者たちにはどうでも良いコチコチ頭系のモノの考え方であり、彼らはそれこそ空を飛んだと言われる役の行者の子孫達のおおらかさの持主であり、ゴチャゴチャに全てをるつぼに投げ込むゴッタ煮の名人たちでもあったろう。
しかし、この4本の巨大な柱はどのようにして、あんな空に浮いた様に実に危険きわまる場所に迄、運んだのであろうか。
7、修験道者たちの中には大工職人、あるいは土木工事に才のある者たちの集団があり、その特異な能力を発揮したのであろう。筑波山中で視たカケ造りも図太い柱が多用されていたけれど、アレは大工職人の仕事ではなく、半農半職人の人々の集団の仕事であった。やはりこの事は比叡山延暦寺の直系を名乗る寺の誇りと金力があったからである。
8、宮殿は1258年建立。岩壁に岩ノミで穴ならぬ、律儀な水平状の天井と床を彫り込み、それを平滑に仕上げ、様々に建築装飾で荘厳している。これを見るに工事としては岩を刳り抜くという大作業の前に、その工事をするための図太い足場としてのテラスが構えられたにちがいない。鳥取の三仏寺のカケ造りには、この足場テラスが無い。それ故に工事は随分困難であり、あの高さに小堂とは言え構築物を構えるのにはおそらく死者も出たにちがいない。それ故の夢幻のごとき美を感得できるのだが、ここ小諸の「宮殿」=直方体の洞穴こそその前の空に浮いて突き出したテラス(足場)には北方の武士、鎌倉時代新興の武士階級の特色でもある、合理性への力が感得できる。
9、三仏寺はおそらく平安貴族階級の淡麗な美学を体現したものであり、少し時代は経つけれどこの「宮殿」は鎌倉武士階級の実利精神が表現されている。
10、この長い水平移動の危うい道づくりは、修験道者たちにとっては、その頭脳の中においては空中の道造りであり、一種の橋であったのではないか。藤原定家の「夢の浮橋」とは異なる、建設、建立の夢に近い精神の表現であったと考えたい。虚空への人工の橋が修験道者(建設者)の頭の中に架けられていた。山中他界の想像力の中に、もう一つの「作る」ことへの熱烈な夢が具体化されていたと、考えたい。
1、最後に紹介された「美ホロ大仏」がとても興味深かった。北海道の霊園の巨大な大仏坐像に巨大なシェルターをかけて、頭だけをポッカリ空に浮かせたものである。霊園に在る巨大仏の、大衆にはいざしらず、いわゆる知識人たちにはおそらく余り評判のよかろう筈の無い、新興大仏をポッカリ、パンテオンのドーム状に孔をあけたシェルターを架けたものである。安藤忠雄の新境地となる作品になろう。霊園の建築計画としても、これは画期的なモノである。
1、10時半、国書刊行会永島さんGAYAにくる。「異形の建築群」あるいは「異系の建築と人間達」(題はまだ未定)のブックデザインに関して打ち合わせ。その後、いささか頑張るつもりの出版記念パーティーにかんしても相談する。
1、「フクシマのニワ」
この計画に関して、他人の力、つまりは「金」をアテにしてはならない。特にその場所(土地)を求めるにそれはならぬ。
でも出来得る限りの長い距離を持つ土地が欲しい。線状のまるで国境線の如くの土地が欲しい。それはすでに決めていた。これを一人でやりきりたい。しかし、少しばかりはある私の私的財産は投げ出せない。わたくしにだって家人、家族がいる。彼らは健全なる常識人である。常識人は芸術家になり得ない。ましてやフクシマにおいては常識が通用せぬ現実がある。彼らが被災地(荒野)を取得するに賛成するわけもない。それでこそ常識人なのである。であるから、わたくしはわたくしの手持ちの札で全てをなさねばならない。「金」と言わずに「札」と言うのは、わたくしには「金」は無いけれど「札」があるからだ。足りなければ「札」を作り足せば良いだけの事である。で、わたくしはわたくしが死ぬまでの、生き得る時間を考える。
2、シュリーマンは賢い人間であった。彼はその人生を、その長さを計画した。「計画」自体が芸術そのものであった。その人生の前人生、と言うよりも始まりを全て金儲けの時間に費やした。究極の目的であった「トロイアの発掘」という「古代への情熱」を実現するためである。で、思い切り金を蓄えた。そして、その金財産を賭けて
トロイの木馬で知られる、しかも実在するかどうかも知らぬトロイアの発掘に後半の人生を費やした。
まったく、シュリーマンは賢い人生を送ったと言えよう。
わたくしは間抜けな人間であったから、そんな古代への情熱らしき「夢」らしいキチンとした「夢」を持ち得なかった。だから生きるに必要な、生きられる時間への段取りを考えることをしなかった。人間の生は限り無いものではない。有限の中で生きねばならぬ。出来ることも又、有限である。
がしかし、そんな間抜けであってもまだ生きてはいる。それだけがほとんど唯一の取り得である。
だから、今、あと何年は生きられるだろうかを考えたのである。