石山修武 世田谷村日記

世田谷村スタジオGAYA

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世田谷村・スタジオGAYA日記 100

6月18日 8時過ぎ市根井立志とスタジオGAYAの設計施工活動について話す。8時半渡辺大志を交え中国プロジェクト打合せ。24日より杭州でのプレゼンテーションの準備にかかる。12時半大方の方針を決めて散会。

世田谷村・スタジオGAYA日記 99

6月18日 6時過離床。昨夕からの打合せを少しばかり。
1、スタジオGAYAは「独人大工」を続けてきた市根井立志の「独人大工のすすめ」を中心とした塾をも開催する。
2、GAYAと市根井立志の協同作品の典型としてスタジオGAYAを皆さんにプレゼンテーションする。
3、プレゼンテーションはそれ故に「飾りのついた家」組合の主活動としても位置づける。
4、スタジオGAYAは設計施工を一体化した小部門を設計業務とは別に持つ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 98

6月17日
7月12日土曜日にスタジオGAYAギャラリーをオープンする事に決めた。それ故、6月30日、7月1日2日を引越しとする。新事務所を作りながらの仕事の継続であり、大学の研究室からの移転も同時にしなければならぬので、呑気な様でなかなかの綱渡りである。
マア、今のところは綱渡りを乗り切ることが出来そうだ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 97

7時半前、ポンプ脇のテーブルで「松崎町の自然に関するノート3」を書き進める。8時前一段落させて小休。ポンプ脇のテーブルで今日の仕事の準備運動に入る。
大き過ぎる問題への取り組みは我ながらコッケイではある。小さなスタジオGAYAの小建築を眺めながらの事であり、この両方を結びつける力が自分に在るとは思えぬのだが、恥はかいてナンボのモノでもある。笑わせる、あるいは笑われる事に取り組むのはこれはもうクセとしか言い様が無く、直しようもない。

世田谷村・スタジオGAYA日記 96

6月16日
9時過ぎポンプ脇のテーブルで打ち合せ。10時世田谷村を発つ。高田馬場より早大正門前へバス。観音寺両親の墓参。11時大隈会館で名誉教授認証式。総長より名誉教授証を受け取る。高等学院時代友人と「君もか」のあいさつ。創造理工学部の山川教授と話す。いつかオフィスビルへのロボット工学の適用をやりたい旨等お話しする。

世田谷村・スタジオGAYA日記 95

16時半世田谷村発。渋谷経由新橋へ。17時半コットンクラブ。一関ベイシー菅原正二の『聴く鏡2』出版記念パーティ。開場前から大変な人の出である。菅原正二、夫人、娘さんに挨拶。髙平哲郎、坂田明、渡辺篤史等と同じテーブルに座る。いつの間にか渡辺貞夫ライブ始まる。坂田明負けじと加わる。タモリ伝説の口ラッパというのか、何というのかは知らぬ絶妙な芸を披露。会場沸く。つまらぬスピーチは最小限で楽しい会となる。嵐山光三郎、DUGの中平穂積氏等と談笑。ナベ貞さん乗りに乗って演奏やまず。ジャズメン達の良いところなんだなあ。一関からも旧知の方々が見えていて再会を喜ぶ

6月15日 日曜日
終日世田谷村に沈没して『聴く鏡2』を読みふける。菅原正二の並々ならぬ人格の高潔振りに驚く。自分でも気付かぬまんまに彼は高みに登っていた。鈴木博之も晩年いい奴と附き合っていたのだ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 94

9時中谷礼仁より電話あり、ヴェネツィア・ビエンナーレより帰った旨の報告。
「残念ながら賞はとれなかった。」
「アノ、ディスプレイじゃあ取れるわけないよ。誰が担当したんだ?」
のやり取りがあった。
暑い陽射しの中、GAYAエントランスのスライド扉の組立て作業を眺める。

世田谷村・スタジオGAYA日記 93

6月13日 5時過離床。雨は止み青空が広がる。陽光だってさしている。
GAYA工事は今日西側道路側の鉄の壁に軽い家型フレームを取り付ける予定だ。入口のドア材もつけられるかな。

世田谷村・スタジオGAYA日記 92

6月12日 8時過ポンプ脇のテーブルへ。8時半松崎町への提案書の整理されたのを見る。
やがて隣家の向山一夫来て、山梨県と松崎町の交流についての相談。スタジオGAYAの二階に仕事机、椅子を上げる。10時過、初めて新しいスタジオでの仕事となる。一階での市根井立志の仕事の音を聴きながらの作業である。間近に雨音を聴きながら、手に触れるように樹々の中での仕事となる。

世田谷村・スタジオGAYA日記 91

6月12日 5時半過離床。雨降り続く。
昨日はほぼ終日スタジオGAYAの現場と、手押しポンプ脇のテーブルを往復しながら、松崎町への提案を考えるに費やした。考えてみれば川合健二ゆずりのコルゲートチューブに閉じこもり続けたのを救ってくれたのは松崎町である。わたくしに初めての建築らしい建築を作るチャンスを与えてくれた。しかし、鉄板で囲まれたがやの極小空間で職人と綿密な打合せをしていると、アア、これはコルゲートチューブの中に居るのだなあ、と気付くのである。今も鉄の洞穴に沈潜したいという自分がいる。そして、洞穴の外のだだっ広い吹き抜けに出て、そのこだわりらしきから解放される。そして松崎町の事を考える。この状態は30数年前の繰り返しではないか。
より抽象化して考えれば、小さな特殊と、広い普遍の距離を振り子の如くに往復運動している。きりもみのような一点集中の理念と共同体の夢の双極を行ったり来たりしているのだ。それ程肩ヒジ張って気取ることもない。要するに行ったり、来たりなのだ。片や物学の領域であり、こなた人間学とも言えよう領域である。
昨日の日記にはからずも「共同体の夢」と記した。気恥ずかしい言葉を思わず記してしまったわけだ。明日、ここは除外しようかと考えて、今日になり、今更恥じていてどうなると考え直した。だから消さぬ。
GAYAの空間は個人の想像力の問題でもある。開放系技術は言うようにそれに尽きよう。しかし、その考えが向かうところはやはり集団の(社会とはいわぬ)想像力=夢なのであろう。それ故に松崎町の、わたくしにとっての夢は集団の、すなわち共同体への夢に他ならぬ。

両岸はかくして、か細い糸で結ばれていようか。

世田谷村・スタジオGAYA日記 90

市根井立志には東北のアトリエ海の佐々木君吉と組んでいただき、スタジオGAYA直轄の施工チームを作っていただこうとプランを立てている。小さな物件は設計施工で請けた方が合理的である。
八時過市根井立志トラックに荷を積んで来る。すぐに予定通りの打合せ。GAYAの地下を小型建築の設計施工の拠点にしてゆきたい旨も伝えた。市根井さん、佐々木チームの宿舎にもなり得るようにしたい。

世田谷村・スタジオGAYA日記 89

「飾りのついた家」組合には松崎町の森さんの奥さんも参加している「蔵ら」組合の皆さんにも参加していただけぬかのアイデアが何処からかやってくる。
先日久し振りに訪ねた松崎町の有様はズシリと重いモノをわたくし奴につきつけた。昨年のある時期の町の子供の出生はゼロであり、そして死亡が17名との事だ。人口はここ30年あまりで3000人程減少した。現在は約7000名である。
人口減少がそのまんま町の姿、そこに流れる空気に反映している。
結論を言うならば、松崎町には「活性化」という言葉(概念、考え方)はすでに通用しない。にぎわいに代わる考え方が必要なのだ。その理屈は少し計り時間の助けを借りて詰めてみたいと思う。でもそれは日本の近代の基本的性格とは異なるモノであろう。

世田谷村・スタジオGAYA日記 88

6月9日 7時過離床。もう梅雨に入ってしまったようで、青空はのぞいていないが今朝は雨は落ちていない。伊豆西海岸松崎町の事、あれこれと考えているが、なかなかに良い考えなどポッと生まれるワケもなく、しばらくは考え続けるしかないであろう。

伊豆西海岸松崎町を海から眺めるならば、まちのたたずまいの背後に、まちを抱き込むようにそびえるでもなく、ゆったりとした牛の腹の如くにやさしい牛原山の姿が盟主のように在るのがわかる。まちの人々はこの山を「うしろ山」と呼ぶ。かつて東北気仙沼の人々が松崎町を訪れた時に、この「うしろ山」の名に強くひかれたのを記憶している。今、我々が気仙沼の人々と共にすすめようとしている気仙沼の「うしろ山」である安波山計画の、そもそもの源泉になった山である。

世田谷村・スタジオGAYA日記 87

松崎町を去り、安良里の藤井晴政邸へ。これはわたくしの作品である。グライダーの如くを作ったのだが、美しくメンテナンスされていた。あんまり多くの人の眼に触れてはいないけれど、この住宅は伊豆西海岸随一のモノであると自負しているのだ。晴正(ハンマ)のグライダー模型作りの趣味を聞いて発想した。個人的な気まぐれ発想はイカンと、とやかく言う類の唐変木もいようが、個人が好きでやっていることにヒントを得て何が悪いのだろうか?好きで無心に近くやっている事には立派な真実がある。と、誰からいちゃもんつけられているわけでも無いが言い張りたいのである。
15時過、ハンマ、玉ちゃん邸を去る。玉ちゃんは猫の名ではない。ハンマの愛妻である。今や、伊豆西海岸どころではなく、ハンマの船は静岡県唯一の大型サンマ漁の船となった。「今年はバカに漁がいいのだ。俺のウデと勘がそうさせた」と御本人が言っていた。

世田谷村・スタジオGAYA日記 86

今日の松崎行きは、わたくしにとっては重要な旅でもある。鉄という材料から入り込み、この建築で一気に鉄から土へ、そして水へと使うマテリアルを変えてしまったのだから。
そして、今は鉄やアルミやチタンといった材料と、木や土や水やらの材料を比較する事にそれ程大きな意味を持たせることはしない。全てを変化させて止もうともせぬ時間という絶対を前にしたら、これ等は大同小異でしか無いのである。人間の生の時間はそれ程長くはない。500年も、ましては千年も生きたりはしない。それなのに、その人間の生の道具である建築が長命を望むことに何の意味があるのだろうか?

世田谷村・スタジオGAYA日記 85

世田谷村・スタジオGAYA日記 84

世田谷村・スタジオGAYA日記 83

しかし、その独特さが気なり始めるのである。自身の表現欲という我に根差しているのではないかという内省ではない。そんな水準はすでに通り越してしまっている。

でも生き方を賭けた如くに考えてゆくと明らかに何かが欠けている。

それで沢山なドローイングを描いたり、古材を手に取って、何がしかの手を入れてみようと考える。

佐藤が作り残した「蚊取り線香の台」その結果として現れた表現ではある。実に馬鹿馬鹿しいモノなのである。でもこれには表現と目クジラを立てて我を立てようとする世界は一切ない。第一にこれは佐藤の表現物であり、わたくしのモノではない。しかしそうでもない。土台が120年経った古民家の断片であるから、先ずその民家自身が表現の主である気持良さが在る。

第二に別人が作ったモノではあるが、わたくしも何がしかは参加しているという、いわば共有感がある。

要約すれば記名性が論理的に著しく欠けている。その欠落に自覚的であろうとするからだからとっても自由になる。自分が開放されてゆく。

マルセル・デュシャンの仕事に近く見えようが、似て非なるモノである。

世田谷村・スタジオGAYA日記 82

9時半、佐藤ポンプ脇のテーブルに何やら持って現れる。

「これなあに」

「実は昨夕に作っていたんですが・・・あまりにも馬鹿馬鹿しいかなと思って・・・」

「それは面白いかもしれんぞ・・・それで、何なのこれは。」

「俳句づくりのための、紙をのせる台なんですが、古竹を割ったのは筆置きです。」

「ヘエ、芭蕉がこれ腰にぶる下げて、奥の細道か?」

「芭蕉っていうよりも川柳に向いているかな・・・。」

「君、本気で考えたんだな。」

「マア、本気と嘘ん気の境目というか・・・」

「で、これに幾等(なんぼ)の値付けするの?」

「400円くらいかな。」

「包装して、送ったらその値段の方が高いかもな。」

「今はインターネットで1円のモノ、送料200円で売ってますから。」

「妙な時代だなあ。おかしな時代のおかしな商品って事でやってみるか。」

「本当ですか。」

「冗談言い続けて何になるんだ。実際にやって見せたら、みんな本当になるんだから。」

「この、デッカイ古板は床の間無用論批判になるかもしれません。鈴木先生が床の間に関してそんな事書かれていました。」

「そうか、博之さんそんな事考えてたのか。」

「はい。」

世田谷村・スタジオGAYA日記 81

12時過世田ヶ谷村を発ち京王線、地下鉄丸の内線、銀座線を乗り継ぎ銀座へ。日本建築士会連合会賞現地審査。資生堂ビルは銀座に少なくはない。銀座にうといので資生堂ビルの受付に、ここに行きたいたいのだけれど、と訪ねる始末である。少し遅れて、すでに審査員の方々が待つ資生堂銀座ビルに辿りつく。設計者の竹中工務店設計部の方の説明を聞き、すぐに内外の見学を始める。テイストは1930年代のアメリカンアールデコである。外装のアルキャストによる装飾に興味を引かれて見たいと思ったのだが、実見して実に村野藤吾的な建築だと考えた。骨格は近代そのものであり、それにいささかの、どころでは無い化粧が施されている。まさに資生堂という大企業の商いの性格の中心が表現されていた。

20世紀の都市・建築の主座はオフィスビルであった。その頂点はミース・ファン・デル・ローエのシーグラムビルに結晶した。モダニズムの華である。資生堂銀座ビルはそんなモダニズムの枠からは明らかに外れている。村野藤吾の建築がそうであったように。

アールデコ建築はそのモダニズムの枠外のスタイルであり、商業、あるいはその資本のある意味ではアナーキーさを体現していた。建築におけるモダニズムは言ってみれば建築教育の歴史が作り出したものである。

建築家という存在形式も又然りである。そんな意味では銀座資生堂ビルは建築教育を中軸としたモダニズム建築ではない。もし、これを学生の達者な者が製図作品として提出したら、ほとんどの教師はB+の採点をするだろう。

しかし、教師は資本主義の実相にうとい類の種族である。銀座にもうとい。つまりモダニズムデザインは教育によって確固としてその中枢を形造られた。建築家の多くは教育者でもあった。そして、それは教え易いデザインであったからだ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 80

17時迄ウトウトと2階で昼寝する。ノロノロと起き出して再び地面に降りる。一階に大きな吹き抜け空間を作っておいて良かった。こんなにこの建築用語でいうところのピロティ空間が使い得であったのを初めて知った。高床の下は東南アジアでもニワトリを飼っていたり家畜小屋があったりして作業の場所になっている。

18時迄、古材を眺めながらGAYA工作ノート39のスケッチをする。古材による格子窓を完全に分解して(工作ノート39スケッチ参照)図のように格子窓として編成される以前の最小部品と化す。もう、それを無理して建築やら、家具と呼ぶモノに再編成することはないだろう。

世田谷村の梅の樹の実が大きくなった。大変な量である。明日拾い始めることにするが、より多くはやはり植木屋さんに穫っていただくことになろう。地面に落ちた梅の実はおいしくないと誰かが言っていた。今度は失敗せぬように粗塩、漬物のカメなどを用意したい。

世田谷村・スタジオGAYA日記 79

10年以上も前に世田谷村すなわち、「村」と名付けたのは、そういうことであったかと、今頃になって気付くのである。

9時下に降りて世田谷村の花をスケッチ。読者の方からの要望もありアニミズム周辺紀行8、二冊に描き込んだ。

スタジオGAYAが使えるようになって、驚く程に世田谷村は多様になった。動いていると小旅行をするに同じである。

世田谷村・スタジオGAYA日記 78

5月31日土曜日
5時離床。二階の広間でGAYAの日記77を書き、GA二川由夫インタビューのゲラに目を通す。インタビューや対談は実は苦手だ。でも二川由夫が相手だったので気取らずに話すことができたようだ。二川由夫はオヤジである二川幸夫の障壁と活字離れの若者達の文化の中でどう戦っていくのであろうか。インタビューされながら本当はこちらがインタビューしたいような気持ではあったのだが、このインタビューにはそれは表れてはいない。


それでは古材による、あるいは古材と新材の組み合わせによる家具を沢山デザイン・制作して、それをGAYAスタジオ内に展示し続けると言うのはどうだろう。OLD & NEWというようなテーマで。昔ここ世田谷村にバウハウスのウルフ・プライネスが暮らしていた時にそんなコンセプトに関してはよく話し合った事がある。フィンランドの家具デザイナーでそれに取り組んでいた人間が居たのも思い出す。


やっと本来の世田谷村の生活らしきになってきている。
16時渡邊は古材とメタルを使った家具を一つ完成させかかっている。佐藤もライト兄弟の飛行機みたいなフレームを規格部品を使いながら組立試行を続けている。
市根井さんは二人を指導しながら自分の仕事を快調に進めている。わたくしも7点のスケッチを得た。晴耕雨読ならぬ晴耕雨作図の生活である。耕は米作りならぬモノ作りだ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 77

午後ダクトフレームの部分が届く。富士山に行っていた家内が戻りひともんちゃく起きる。GAYAの土間部分に仮置きを始めていた古材がいやだと言う。感覚的にイヤなのではなくて知らぬ人の長年使ったモノには何か霊のようなモノが乗り移り、しみ込んでいるのでイヤだと言うのであろう。女性とクライアントには逆らうのは難しい。ひとまずホコを収めようと決める。面白い事には必ず障壁が出現するものなのだ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 76

5月29日8時過大工市根井立志、GAYA現場に来る。福島県の古民家解体の古材を多く持ってきて頂いた。水で洗浄しGAYA作業場に並べる。10時半市根井立志、渡邊、佐藤と中国プロジェクトに関して打合せ。茶館とは別に一番大きな棟の内部に小茶館を建てる算段を立てる。クライアントの童さんに今日の午後にプレゼンテーションする事にしてすぐに模型をつくり始める。市根井さんGAYAスタジオ2階北半分の床工事する。13時半童さん趙さん等一行世田ヶ谷村に来る。作ったばかりのA棟童邸内の茶館の模型をプレゼンテーションする。気に入っていただいた。市根井さんを紹介。彼には一人で現場に入ってもらい和式の茶館を作ってもらう予定も伝える。

世田谷村・スタジオGAYA日記 75

5月28日10時半スタジオGAYAに童さん、趙さん、そしてテイさん、GAYAスタッフ集まる。すぐに杭州満覚路上山庄計画最終案仕上げに向けての綿密な打合せ。まずは世田谷村で一番良い空間である一階外部で、宗柳で昼食をとり14時からは二階広間に席を移して続行する。

16時半世田谷村にクライアントグループと渡邊大志を残し佐藤と新百合ケ丘へ厚生館至誠会のお祝いの会である。渡邊は調整能力があるので不安はなかった。任せる時には任せた方が良いのだ。
18時前祝賀会のホール着。理事長、顔見知りの人達とあいさつ。やがて宴が始まる。至誠会グルーフは8カ所の保育園他をもつ大きな集団になった。保育士の先生方は総勢172名である。

世田谷村・スタジオGAYA日記 74

聞けばスカイツリーのインフォメーションは1階2階4階5階にあると言う。
何処のインフォメーションなのかのインフォメーションが無かったと言う現代的な笑い話であった。
10時過ぎそれでも村松映一、難波和彦、日建設計・土屋哲夫氏他数名と会う。
間違ったお陰様でスカイツリーの根本上部から押上自転車駐輪場を眺めることが出来た。散在していた駅前の駐輪場をまとめて2600台の大きな駐輪場にしたものだ。

松村秀一先生からのメールが転送されてくる。剣持れいの規格構成材建築「秦邸」のYゼミでの見学スケジュールに関して。楽しみである。

世田谷村・スタジオGAYA日記 73

スタジオGAYAのメタルの外壁に付ける軽いフレームの最終チェック。17時前に終わり、すぐにメーカーに発注する。1個何十円という部品を集成しているので、実に面白さ極まる。GAYAが世田谷村に引き継ぎ開放系技術らしいテクノロジーで作れるのは今の時代に正統な技術観であると主張したい。

5月27日
6時半離床。小雨降るが空は明るくなっている。
佐藤研吾がXゼミナールにエッセイと小作品を投稿したので、それを読んだ。難波和彦の論評の前にアレコレと言うのは控えるが、面白く読んだ。20代半端なのでまだ実作らしい実作は無い。しかし大いに将来を期待して良い人材であろう。

Xゼミナールは鈴木博之と言うゼミナールのトライアングルの要を失ったが、それでも少しずつ前へ進めたい。難波和彦も同様に考えていてくれているようだ。

明らかに鈴木博之は書物の形式をウェブサイトのそれよりも上のものとして見なしていた。そりゃそうだろう。彼はしかしわたくしや難波和彦のサイト上の日記やらは、恐らくは一番の愛読者でもあった。何かの小文にこの類のサイトへの発表形式が書物の生まれる過程を変えるやも知れぬと述べていた。

世田谷村・スタジオGAYA日記 72

16時GAYA2階の北半分にほこりまみれになっていた父親の蔵書の一部を出来上がった南半分の床へ移動させる。父親のデッカイ写真他まで出てきた。田舎の家々の座敷にはご先祖さまの写真が額縁に納められ飾られていた。家の歴史がそこに表現されていた。今の家、あるいは部屋にはそういうモノが無い。家や部屋には自分だけ、あるいは核家族だけが暮らしていると思い込んでいる。実は人間の誰もがその存在の背後に多くの先祖、ばかりではない死者達の歴史を背負っている。

18時市根井立志世田谷を去る。


松浦武四郎の一畳敷、ヘンリー・スミスの泰山荘をじっくり再読する。武四郎の一畳敷についてはむしろ日本人よりもアメリカの研究による評価が高いのだが、これはブルーノ・タウトの桂、そして伊勢神宮に関する論よりも余程知的には高水準であるのは間違いではない。

世田谷村・スタジオGAYA日記 71

18時過ぎ作業終了。現場から世田谷村3階仮事務所に移る。市根井立志には出来れば中国杭州満覚路上山庄計画の茶館、木造部分の建設に参加してもらいたいので、その考え他を伝える。

19時過散会。今晩も彼はGAYAスタジオ泊まりである。

5月24日土曜日5時離床。朝の陽光が美しい。今日は暑くなりそうでありがたい。工事中のGAYAスタジオからは庭の樹木の緑が間近で、しかも幹や根の部分ではなく、緑の葉っぱのザワザワした群の中に居るような気持である。市根井さん立志に言わせれば「ツリーハウスみたい」なんだそうである。樹木と共に仕事できるようになりそうで楽しみだ。

世田谷村・スタジオGAYA日記 70

12時半前世田谷村を発つ。人の多い新宿を通り抜け地下鉄で早稲田大学へ。13時半田中智之さんの作品による学位請求審査会に出席。ホントに久し振りの教室会議であった。この制度は永年の建築学科の宿題であり、システムとして学科発展の礎ともなろうから自説を述べた。満票で合格となる。

世田谷村・スタジオGAYA日記 69

10時梅沢良三先生とスタッフ来所。13時過まで星の子愛児園増築構造計画の打合せ。大方の目処をつけた。

午後遅く、又もや銅版画が気になり始めて一点を手掛ける。2011年に制作したものの続行作業である。このやり方で5点程は完成させる事が出来ようがその先は全くわからない。

世田谷村・スタジオGAYA日記 68

8時半下の庭に日建設計の坂本君、磯崎アトリエの牧野君、サードパーティの李君集まる。植木屋さんから菩提樹の樹が届くので石山研のOB達が立ち会ってくれるのだ。皆、以前世田谷村の地下実験工房で働き勉強していた連中である。予定していた場所に4メーター半程の樹を植えた。うまく育ってくれれば良いが。

これで世田谷村の庭に27年の研究室生活の記念が根をおろすことになる。若いOB達の成長と共に見守りたい。


フッと魔がさしたように夕方近くの銅版画を彫り始めた。何故だか自分でも解りはしないのだ。銅版をカリカリ鉄筆で彫る感触がいきなりよみがえった。何年かほうっておいた未完の銅版画作品を見つめ、オヤ、と気に入ったモノから手をつけ始めた。休止したのはいやになったからで、再び始めたのはやりたくなったからだ、としか言えない。

小判型のモノに面白い未完があるので、しばらくそれに手を入れて楽しむことにしたい。


18時宗柳で世田谷美術館学芸員野田尚稔さんに会う。幾つかの相談事をする。

1、 インド・グジャラート州の驚くべきペインター達が生き続ける村のリサーチに関して。

2、ちょっとしたコレクションのアドヴァイスについて

3、年末に予定されている(している)ジョサイア・コンドル設計の古河庭園、大谷美術館での展覧会について、等の相談であった。

「1、」の相談は最重要の相談事であった。

世田谷美術館のはじまりはいわゆるプリミティーフ、素朴画家達と呼ばれるルソー、ボーシャン等の作品コレクションからである。インドで体験した村のペインター達の絵は、その村がどうやらインド先住民族の人々の生活圏であるらしいのと、関係がある筈だ。北方からのアーリア民族の侵入、そして古来のドラヴィダ民族よりも更に古いインドのネイティブ達がいるようで、この村に近いところにはインド先住民族博物館がある。

世田谷村・スタジオGAYA日記 67

5時過離床。今日は朝、石山研究室OB・OGから贈っていただいた菩提樹が届くので早く目が覚めてしまった。樹が届くというのは嬉しいものだ。しかも小さな苗ではなくって4メーター程の樹木のようだ。OB・OG諸君には大した事もしてやれなかったが、そんなわたくし奴に樹でも贈ろうかという気持はありがたい限りである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 66

9時半よりポンプ脇会議。向風学校の事等話して、3階のスタジオへ。昨日は日曜日であったが沢山のWORKが蓄積されたのでGAYA工作ノート、世田谷村日記共々編集を進行させる。17時半迄WORK。20時過夕食をとる。仕事を終えてチビリとやったウィスキーが格別であった。


世田谷村・スタジオGAYA日記 65

日曜日5時前離床。すぐにドローイング制作に入る。8時一段落させるも手こずっている。中国杭州満覚路上山庄茶館の計画は面白さが深いが、中国、日本の茶の文化の開きがスパリと割り切れぬ大きな原因であろう。杭州つまりは江南文化は奥深い。それ故混乱する。

15時混乱状態を何とか切り抜ける。やはり四苦八苦しながら仕事は前進するものだ。満覚路上山庄内の旗印的な建築になりそうである。昨日の工作ノートに記録した案は一部継承させ一部を大幅に手直しした。筆のスケッチでは表現出来なくて鉛筆描きとする。

手探り状態の思考は筆が良いが、スケール、細部がどうしても必要になってくると、やはり固いペンとか鉛筆がスケッチには適している。


家内がわたくし奴が丹精を込めて作っていた梅干しを捨ててしまった。カビが浮いて失敗作であると簡単に決めつけたのだ。非常に無念で憤懣やる方無い。この怒りは、しかし2匹の猫にブチまけるわけにもゆかぬ。それはヒキョーだ。中国とインドが増々力を持ってくれるしかないのである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 64

先日高尾山に同行した飯田くんは仲見世飯田屋の四代目を襲名した。襲名披露は無しにした。ガタイ(身体)がデッカイので披露する必要がなかったとは本人の弁である。

11時半仲見世にて飯田くんの父、そして仲見世商店街振興組合副理事長金子弘之さん等とビールを飲み、何がしかをつまむ。

神輿が出るぞと言われ外に出る。大変な数の人である。人間の群をぬうようにして先に出た16番の神輿を追う。安西他GAYAのスタッフは中々かつぎ手に入ることが出来なかったが、浅草寺本堂近くでようやく、かつぎ手に加わることができた。必死に「ワッセ、ワッセ」の声をあげて、すでに汗ビッショリである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 63

日本は外からの視線、そして言説に滅法弱い。タウトが発見した(日本人建築家のガイドによるが)桂はその美の価値をそれ迄、日本人は知りもしなかったのである。

が、しかし桂はパルテノンであるの言説よりも、はるかに「日本の住宅」をはじめとするタウトの住宅論の方が重要だったのである。こんな事をいきなり日記に書き始めたのは Xゼミナールの第二ステップのためにである。

Xゼミナールは歴史家鈴木博之の不在により、一度幕を閉じる。そして次の段階へ進みたい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 62

9時半中国満覚路上山庄計画修正作業に入る。全体部分を2度チェックして16時終了。昼飯抜きのWORKとなる。図面リスト面積表他をつけて中国にメイルで送付する。膨大な図面量なのでハードであった。

「飾りのついた家」組合作品録109「治部坂キャビン」のゆずり先が決まったので、クライアントに報告する。喜んでいただいた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 61

5月16日6時離床。晴れてはいるが薄い雲が全天をおおっている。すぐにドローイング制作にとりかかる。人に会ったり連絡を取ったりも仕事だが、これも同様に現実的なこんな制作をしたいのだという意志の伝達に他ならない。

7時半MAN MADE NATURE・ランドスケープスタディ02を3点描き終える。いきなり中国杭州の満覚路上山庄茶館の設計がグイと進み我ながら驚いた。今日のまとまった思考はこれで終わりだな。空は陽光が満ちてきた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 60

9時45分京王稲田堤にて渡邊大志、佐藤研吾と落ち合い星の子愛児園へ。10時近藤理事長、近藤園長先生、二人の運営者としてのベテラン保育士の先生達に保育園増築計画の最終プレゼンテーション。プランに若干の変更があったが、このプレゼンテーションの基本的な枠組である草屋根の考え方はほぼ受け容れていただいた。ホッとするが、ここ迄辿り着くのに一年かかり、4案程を作ったのでそんなに容易な道のりではなかった。

11時半終了後、愛児園の外部階段まわりを現場で点検する。今在る建築の外部が内部へと反転する興味深い処でもあり、専門的には一番面白いところでもある。12時京王稲田堤プラットホーム待合室で時間を惜しんで打ち合わせ。

構造設計の梅沢良三さんに最終案の構造打ち合わせを来週世田谷村GAYAで行うのを依頼。又、GAの二川由夫さんにXゼミナール改め、YゼミナールのGA誌上への掲載を依頼する。その後中国杭州満覚路上山庄計画の変更計画のドローイングを拡げての打ち合わせに入る。


世田谷村・スタジオGAYA日記 59

昨日難波和彦氏に電話した。Xゼミナールのこれからについての相談であった。一昨日、松村秀一氏に電話してXゼミナールへの参加を打診して了解を得たので、その報告であった。鈴木博之も天上か地下かで苦笑いしている事だろう。何故なら鈴木は松村秀一と意固地とも言いたい程に距離をとっていたから。工学系の理論的支柱と見なしていたからかも知れぬ。一切の私情を挟まぬところも彼にはあった。だから建築及び建築学らしきが工学に包摂されようとするのが耐えられなかったのかも知れない。それも現実を超えるべく、ヴィジョンの全体への過度な夢であった。

しかし、Xゼミナールは海老原一郎の1950年代の工場建築の見学から始めた事を振り返ると、やっぱり実物を見て、触れて、そして論を尽くすべきだろうと考えたのである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 58

11時過、NYよりCASEY MACK氏来る。波形理世さん通訳として同行する。吉阪隆正について、石山の開放系技術について、メタボリズムについて等のインタビューを受ける。知的なインタビューで、こちらも気が抜けなかった。開放系技術の典型としての世田谷村内外を案内する。恐らくGAの撮影以来世田谷村内部を体験してもらったのは彼等が初めてである。

吉阪隆正の他に内田祥哉を調べたいと言うのに驚いた。剣持昤の規格構成材方式についてを教えた。吉阪隆正の不連続統一体への関心がメタボリズムに連なり、わたくしの開放系技術の考えに連続するとは面白い視点だなあと考えた。


二川由夫は世田谷村がまだまだ未完で、風が吹きさらしの時に三階で話をした記憶があるが、このインタビューも1階の井戸端で行うことができた。「のんびりしますネェ」の言が印象的であった。3階の作業所にも上がってもらい15時過終了する。


世田谷村・スタジオGAYA日記 57

5月12日7時過離床。三階の温室用部品の開閉用モーターが作動せず、一階の分電盤等からチェックするもピクリとも動かず。手動式にしておけば良かったと後悔する。どうやら三階の電気系は皆ダウンしてしまった。コンピューターも電話も午前中は動かぬだろう。電気文明はあやういモノであるな。たった一つの端子の故障がウィルスのように広がる可能性がある。端子の内の機構は素人では解らぬ。それで安全対策とやらで又、機構自体が膨張してしまう。


世田谷村・スタジオGAYA日記 56

昨日5月10日は9時半に皆で下の手押しポンプの脇に集まり打ち合わせ始める少ないメンバーなので打てば響くが、すでにほぼリミットまでの稼働だ。満覚路上山庄、京王稲田堤星の子愛児園増築、そして子供のためのバイオシェルター、「飾りのついた家」組合等々。三階に上がり各プロジェクトの細部をつめる作業に入る。14時半迄みっちり働いて、今日は土曜日半ドンであると長崎屋へ昼食と息抜き。昼間からの息抜きは実に気持ちが良い。17時半解散した。


気がつけば、何と5月12日の4時前である。乱読の荒廃が何やら気をせかしてしまったようである。何も残らぬのを知っているからだ。
4時、眠れないのであろうが眠らないわけにはゆかぬ。横になってみることにしたい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 55

5月10日7時離床。すぐに工事中のGAYAの現場へ。太陽の光がどんな風に差し込んでいるかをのぞく。一昨日7時半に視た光と少しちがうような気がしたが写真を撮る。7時半にもう一度のぞくがやはり何かがちがっていた。刻々と地球は動いているのだなあ。

ベイシーの菅原正二さんからFAXが届いていた。奥の正法寺に行ったとの事。フランク若松が亡くなる寸前に是非見せたいと、病院を抜け出してあんないしてくれた寺だ。山のような草屋根で、確かに樹が生えていた。凄いモノ見せていただいた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 53

砂と砂利と石灰と水の集合物であるコンクリートの大矛盾は、中に入り込む鉄筋、すなわち鉄と他の熱による伸縮率がまるで違うことにある。原理的に鉄と石灰を中心としたコンクリートはあいまみえないのである。
しかしながら、建築物という、ローテクノロジイの集約とも言うべきは、それ位の矛盾は中にしまい込んでいても良いのではないかと、自分は考えている。


世田谷村・スタジオGAYA日記 54

昨日は総勢4名にて新スタジオGAYAの地下階の腰壁そして地上階の入り口土間のコンクリート打ちにはげんだ。8時半から17時迄いささかの重労働だった。若いスタッフは船でのコンクリート手練り、諸々の運搬、そして枠内への打ち込みと一通りの事は体験した。わたくし奴はウロウロその廻りで口を出したり、突き棒でコンクリートを突いたりで、マア近くに居続けたいという感じであった。昨日工作ノート9に描いたスケッチのうちデッキプレートと外部土間コンクリートがぶつかる部分の、とっておいた屋根瓦をチョっとした意匠として使うのは夕方間近になって実現させた。全くの素人工作であるが、それなりに見応えがある。

打ち終わった土間コンクリートにこれも又、恐らく60年くらい昔の屋根瓦を砕いて貼り込む作業も仕遂げた。若い者には初めての実物による制作であったろう。良い体験であったことを祈りたい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 52

6時前離床。日記を書こうと机に向うが、猫の白チビが机に上がり込み原稿用紙の上を歩きまわるので、しばし遊ばせた。今朝から前橋の大工・市根井立志がスタジオGAYAの内装工事の先ずはチョっとしたコンクリート工事を始めるので手伝いたい。

作業の合い間合い間に、大工が作る家具をシリーズ化するアイデアや、持ち運べる小屋の考えなんかの相談もしたい。良い一日になるだろう。わたくし奴も市根井立志に負けぬように刻苦勉励するように努力したいものだ。

新GAYAスタジオは全体が金属で出来ている。床下には思い切り切り込んだコルゲートシートも仕込んである。世田谷村はもう使い始めて十数年になるが、屋上に畑を作ろうとしたりで大きさ共々、いわゆる民家に向けて進もうとしていた頃の産物である。

新GAYAスタジオは実ワそれ以前の工業製品の直截な使用という考え方をストレートに表現した。わたくしにとっては少し計り古い考えによるものだ。それ故に今、現在というよりも「GAYAの地図」に示したここ10年でやろうとしている事といささかのギャップがある。今日から始める工事はそのギャップをどれ程埋める事ができるかの試みでもある。この金属製の書庫であったモノは母の願いで父の遺品を納めるために作ったので、わたくしには大事な歴史の具体物でもある。


世田谷村・スタジオGAYA日記 51