石山修武 世田谷村日記

世田谷村スタジオGAYA

(今後新たに「週報 -GAYAの制作記録-」ページがはじまります。)

233-300

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世田谷村 スタジオGAYA日記 300

この日記は2015年1月4日迄動きません。しかし、病気かなと心配していただくのも、ましてや、死んでしまったのかと早トチリさせぬためにもひと工夫をこらしました。
明日30日より、1月4日迄は「忘れぬ前にインド絵日記」だけは動かすようにしたいと考えました。


世田谷村 スタジオGAYA日記 299

12月28日 日曜日 8時離床。雲の切れ間から陽光差す。
昨日27日は中国杭州満覚路上山庄中国側の完成透視図に手を入れ送信する作業。その後打ち合わせ。15時前南青山ときの忘れもののギャラリー。綿貫さん等と来年2月24日からの銅版画、画文集の打ち合わせ。等々。本日は先ほど8字半に狭山の町田靖治さんに電話したばかり。町田さんはわたくしの古いクライアントである。エベレストビューホテルのオーナーでもあった。10年程前に仕事を依頼されて中断していたのが、どうやら動き出すようで、町田さんの住宅である。

12月29日 昨日作った春迄のGAYAの催事を今日ウェブサイトにONしたい。昼は難波和彦さんから送っていただいた永平寺のカユを食べた。


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その9


世田谷村 スタジオGAYA日記 298


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その8


世田谷村 スタジオGAYA日記 297

山口勝弘先生から『IMAGINARIUM』と題された小冊子が送られてくる。不自由な身体で色付きのスケッチも続けられておられ、まことに頭 が下がる。先日亡くなられた宮脇愛子さんと山口勝弘さんはたまプラーザの介護施設で隣室にて暮らしておられた。芸術家同士で大変なんじゃなかろうかと 推測していたが、やがて隣室状態は止めて階も離れた。あれだけ強い意志を持つ者同士の隣室はやはり想像するだに大変だったのであろう。
今は山口勝弘先生は再び一人孤絶状態で暮らしておられる。わたくしも自然に足が遠のいている。凄いモノ(人間)を視るようで、何故か気後れがしてしまうのだ。
先生は滝口修造、西脇順三郎門下で、日本のモダニズムアートの草分けである。正統モダニズムであるとわたくしは考えている。
『IMAGINARIUM』はオノヨーコ、三島由紀夫等との親交も書き添えられている。又、先生の実験工房の活動のことも記されている。
発行は「絶版書房」となっている。
「絶版書房」は山口勝弘が初代創始者で、わたくしは二代目なのである。
小版の私家本である。
今、GAYAが発行して手渡している小冊子と同じである。
先生はメディア・アートの日本での創始者でもあるから、この私家本のスタイルは先生の活字、メディアの続編と言うべきで、当然GAYAの30冊の手渡し本も、その流れを汲んでいる。


世田谷村 スタジオGAYA日記 296

定例終了後、昨日埋め込んだ園のメモリアルな断片のコンクリート他の汚れをふき取る作業を皆で行う。埋め込んだフライパンとかシンバルなどの汚れを落とし、磨いたりをしているとフッと建築への愛着が湧いてくる。作ったモノは可愛がってやるのが道理である。子供たちに触れたりと、これは同じだな。


世田谷村 スタジオGAYA日記 295

14時前GAYAに戻り、再び打ち合わせ。17時前発。16時前神田岩戸へ。清水、馬場両氏との忘年会。本願寺伝道院でのナーランダ展の進行経過等話す。これ等はみんな故・佐藤健の作ってくれた縁で起きた出来事である。
うまい宮崎料理をいつものようにたっぷりいただいた。岩戸のオーナー、そして清水、馬場昭道両氏にもGAYA冊子を差し上げた。金子兜太さんをインド・ラジギールの旅に連れ出したいねと今年最後の、これは夢でもある。


世田谷村 スタジオGAYA日記 294

今は昔、渋谷に望風楼と名付けた小住宅を設計した。その批評に、個人的な記憶や、その断片を集めたモノで、例えば太平洋戦争の鉾巻きやらをコレクションすると何変わりがあろうかと、京都の高松伸に指摘された。当時はうまい事言うなと思ったが、アレは80年代の出来事であった。もうコレも遠い記憶ではある。個人的な造形の趣向を色濃く打ち出していた高松伸に言われた事が、今は実に妙なことであったとわかる。高松にもどんな意味を共有できるかは考えつめてもいなかったろう「普遍」という、ただの説明容易な、あるわけも無い基準らしきへの信仰があったのであろう。


世田谷村 スタジオGAYA日記 293

12月22日 8時過世田谷村を発ち、京王稲田堤星の子愛児園増築工事現場へ向かう。9時現場。今日は地上階のコンクリート打ちで我々はそのコンクリート土間に様々なメモリアル、園の歴史やらの部品を埋め込む作業のために集まった。
12時近藤理事長親子と昼食。いくつかの物件についての打ち合わせ。
午後は星の子愛児園のメモリアルな諸物品のコンクリートへの埋め込み作業に没頭する。建築が合理性以上の意味(価値)を持とうとする具体的な手立てについての試行なのだが、これについては建築が完成してから述べることにしたい。小建築ではあるが、それ故にこそ中身は濃いいのである。エヘン。
17時作業終了。
トビの親方、平野平四郎他、左官職2名と記念写真を撮り、お別れとする。良い仕事をさせていただいた。


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その7


世田谷村 スタジオGAYA日記 292

12月20日 9時過烏山コミュニティカフェ小広場。GAYA・世田谷式国際屋台お祭りの会場へ。すでに屋台出店者が多く集まり店ごしらえの作業をしている。驚く程の人数である。タイ料理、ネパール料理、台湾料理に混じり地元の飲食業組合・メール街のテント、焼鳥屋、GAYAの屋台、野菜屋、長崎屋などが出店。10時前より人が集まり始める。天気は持ちこたえていて、人の出は良い。皆さん配ったチラシ持参で集まってくれる。12時過保坂展人世田谷区長来る。スピーチ。
15時には売り切れの屋台も出始めた。タイ料理、味王、ネパール料理も好調のようだ。16時過大方の店が終了。天気はギリギリのところで持ちこたえた。
全部で1200名程の来客数となった。

12月21日 日曜日 10時日本キリスト教会千歳教会へ。蓮見和男牧師のクリスマスの説教を聞く。蓮見牧師の姿をスケッチ二点を得る。昼食会(祝い会)に出席させていただく。蓮見牧師の誘いであった。教会にて手渡しGAYA草子を牧師、長老の方々に手渡す。蓮見牧師は気仙沼をよく知っておられた。


世田谷村 スタジオGAYA日記 291

12月18日 菅原正二の友人であった伊藤八十八さんが亡くなって、今日はその追悼の会でもあった。菅原の某誌への追悼文「星から来た男」をなぞり、「見上げてごらん夜の星を」の飛行機事故で死んだ坂本九の唄なんかが吹かれた。会場には何の説明もなかったが、コイツ等の仁義は固いなと感心した。八十八さんにはベイシー他で何度かお目にかかった。日本のジャズの底を支えた名プロデューサーであった。菅原もそうだが日本のジャズなる妙な継木世界、ある意味では盆栽みたいな世界で一生懸命道を極めている人間、特に裏方の如き世界の住人には超一級の人物が時に、居る。八十八さんはその中のイブシ銀であった。坂田の音には情がこもる。熟成されるのが美質だが、何でアヴァンギャルドが坂本九なのか、中村八大なのかは言はずもがな。
坂田はそんな自由な境地に辿りついたのである。コイツ、俺より一歩先んじたな。


12月19日 サア、明日はいよいよ烏山祭りだ。

2015年2月24日〜3月1日の東京古川庭園、大谷美術館、及び南青山ときの忘れものギャラリーでの、わたくしの「窓の内、窓の外」と名付けた展覧会の期間内に坂田明のソロライブを実現させることになった。坂田明のサウンド及び唄は今が華であるやも知れぬ。多くの人々に接していただきたい。わたくしだって負けずに頑張りたい。
世田谷村 スタジオGAYA日記 290

12月17日 昔日の立山アルミに居られた佐脇さんから暮のご挨拶をいただき恐縮した。懐かしい方だ。決まりの因習には記憶を呼び起こすこともあり、捨てたモノばかりとは言えぬ。
返礼をしなくてはいけない。
下で言太郎が烏山祭りの子供のための神社を作ってる音がしている。ヤリ切るかどうかは本人次第だが、どうなりますか。


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その6

コナラク・スーリヤ寺院に移る。この余りにも有名な寺院建築は永年見たい、見たいと考え続けてきたので、念願成就である。
40年程も昔の言うも恥ずかし青年の頃、ここに来るのにはカルカッタ(コルカタ)から双発のプロペラ機しか無かった。それに乗りそびれたのであった。
乗りそびれて、ここに来るのに四十年程かかってしまったのだけれど、それでよかったのかも知れぬ。スーリヤ寺院は観光地として変貌していた。プーリ他からのインドの人々が老若男女問わず、華やかに着飾って賑わっていた。40年前には話を聞くに、さびれた農村でしかなかったが、そしてそれなりのインドの歴史の悠久不変ぶりがあったらしいが、今はここには高速道路が近く迄通じている。それで、わたくしも比較的容易に来ることが出来た。
数年前に南インドの旅でインドの高速道路に初めてお目にかかり驚いた。まさかインドに高速道路がと考えていたからだ。上野動物公園に象を贈ってくれたネール首相も知れば仰天したであろう。ネール首相はインドに通り相場の近代化は困難であろうと考えていた。
要するに、日本の明治維新の脱亜入欧政策が内的になされずに外から、イギリスの植民地政策としてなされた。その深い処での因は識字率の相違であった。つまり江戸時代三百年の平和で世界クローズされていた故に独自の寺子屋教育らしきが普遍したからだと良く言われる。
しかし、今の日本の政治、文化状況を考えるに本当に内的に変革したのかどうかは疑問ではある。今の日本の文化状況は相も変わぬ黄色の入欧脱色が続いており、脱亜入欧の次の段階に進んでいるとは考えられぬ。ダーウィンの進化論は人間学を除いた処での理論で、人類と言う類はそれ程簡単な系統的思考ばかりではくくれるものではあるまい。

堀田善衞以来多くの人間がインドに対しては複雑な思いを持ち続けてきた。敏感であるべき(世界の事象に)文学者たちも今やアジア・アフリカ会議やらもすっかり解体してしまい、知る限りではすでに地球上の場所について健全な思考を考えようとする拠点らしきは壊滅してしまったようだ。
岡倉天心、タゴールの如きはアジア主義者として整理棚に棚ざらしになっている。
でも地球の表面は実に複雑な地形によって形成されていて、それ故に日々の天気は、特にアジアモンスーンの視えぬシェルターに覆われている島国日本のような処では変幻極まりない。モンスーンは海洋と、極論すればヒマラヤ山脈によって作り出される変幻の源である。変幻すなわちアニマなんだけれど先は急がない。まだまだインド絵日記は入口辺りでウロウロしているに過ぎぬ。
インドの天気は乾季雨季の二元であり、その人々の思考も又壮大な二元論であったように思う。 ラーマーヤナ、ウパニシャドの神論もそうだ。古代エジプトの世界に近いのだ。

スケッチを試みたスーリヤ寺院は巨大な車輪の上に恐らくはヒマラヤを形象する神殿が乗ったスタイルを持つ。制作者はモバイルを想念していた。移動可能な状態を考え定めていた。
スーリヤ、すなわち太陽神である。太陽は大地上の人間にとっては天を地を移動する驚異そのものであった。それを表象しようとすれば徹底した不動を表現するか、動を表現するかしか無かったろう。突きつめた表現とはそのようなモノである。
ここでの制作者は動を選んだのである。重い重い石造建築を何とかして動かしたかった。制作者は質量の世界から、特異ではあったが逸脱する想像力をも持っていた。それで巨大な車輪を神殿に装着したのだ。陽光の変化、朝夕の天空の荘厳の中で彼らには神殿は実際に太陽や月、星々と同様に空に浮いていたのであろう。
恐らくは、それ以前に木造の、実際に動く巨大な山車がモデルとして実在していた。それ等は現在も南インド地方では巨大な山車として祭礼に出現し続けている。沢山な像がその数10メーターにも及ぶ山車を引くと言う。
残念ながら、わたくしはその象たちによって引かれ、動き廻る巨大山車を実見し得ていない。まだチャンスはあるだろう、実見する。しかし、その祭りに備えて動かぬ山車の幾つかはインドのみならず、アジア諸地域で実見している。
日本でも秩父地方、京都、高山、他多くの地域でそれは視ることが出来る。祭りの主役でもある神輿は車輪のついていないモビリティの表現でもある。
天皇のよみがえりの儀式の一端でもある大嘗祭にも悠紀殿、主基殿の2台の山車が儀式の先導役として出現したのは知られている。このあたりは実に日本論の中枢であるのだろうがわたくしには不可能である。

先日ボストン美術館による京都の山車の調査経過がTVで放映されていた。それによると京都の山車(祗園祭に登場する)の緞帳(山車に吊るされている思いカーテンのようなモノ)が織られている羊毛そのものはどうやら中央アジア系の羊のモノであるらしい。
山車そのモノの形式の起源が那辺にあるのかはまだ知ることが出来ない。

コナラク・スーリヤ寺院で行われていた儀式がどんなモノであったのか知ることが出来ぬが、その一端を知ることが出来れば人々がどのように移動(動くこと)に対しての観念、感想を所有していたのかも知ることは出来ようが。
今は、少なくともわたくしにとってはスーリヤ寺院に残されている遺跡、あるいはその断片から推測、想像する他に手だては無い。

古来、神殿の類はそれを作る事に主目的があったわけではない。
そこで持たれる儀式の類の道具立ての為に制作されたモノでもあろう。
我々は、今は眼で視ることが十分に不可能であるうごめくモノでもある儀式を隠されたモノとしてのそれを視ようとしているのだ。
スケッチしながら、この神殿を舞台としてなされた諸々の儀式祭礼の壮麗さをしのびもした。スゴイ、モノスゴイ音も発せられたのではあるまいか。だってこんな重いモノがそこでは実際に動かねばならなかったのだから。音や匂いや、光までもが用意されていたに違いない。数々の基壇は今も残るけれど、そこで演じた人々や、小さな数々の装置は消えた。


世田谷村 スタジオGAYA日記 289

12月16日 すぐに昨夜アレコレ考えていた冊子の文章を書き始める。
十時書き終えて、十時半過GAYAで打ち合わせ。雑談。今日は寒い。雪になるか?

12月17日 昨夜は気仙沼の臼井賢志さんとお話しできて十八日にお目にかかることになった。恐らく出来たばかりになるだろう小冊子を手渡すことができるだろう。
世田谷村 スタジオGAYA日記 288

12月15日 星の子愛児園では増築と増床の2つの工事が同時に進行することになるやも知れぬ。

夕方、GAYAにて上海からの連絡に目を通す。又、20日の烏山祭に際して、限定30部の小巻物を制作して来訪者の、しかるべき人達に配布することも決め、早速その制作にもとりかかることにした。 手作り冊子なので大量にはつくれない。あるいは作らないので、とても皆にはゆき渡らぬだろうが、それ位のワガママは許されたい。ペーパーメディア、小さくとも冊子にはそれ位の価値があるのだ。


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その5


世田谷村 スタジオGAYA日記 287

12月14日 日曜日

八時半離床、晴れている。インド絵日記4を少し計り書き、十時過ぎ日本キリスト教会世田谷千歳教会へ。言太郎先着。十五分より礼拝始まる。又も蓮見和男牧師の気迫ある説教に接する。蓮見牧師は89才であるそうな年寄りは皆さん心棒が通っているなと痛感する。
言太郎礼拝後の後に初めての礼拝参加者としてアイサツする。彼も北池袋の教会の息子であるから、何がしかの人の繋がりがあるのだろう。勿論、20日の烏山祭へのご案内である。いつもより、キチンとした挨拶であった。やはり牧師の子は教会に馴染んでいるのか?
言太郎がチラシを皆さんに配ったので、わたくしはチラシを持て余し、帰途の道すがら郵便ポストに投函して歩く。

世田谷村に戻り、芦花小学校へと衆議院小選挙の投票へ。気乗りのしない事おびただしい選挙であるが、棄権するのはやはり後ろめたい。やはり、チラシを持って投票所へ。径々チラシを投票ならぬ投函する。行き帰りで思わぬ量をこなした。


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その4


世田谷村 スタジオGAYA日記 286


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その3


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その2


世田谷村 スタジオGAYA日記 285

12時半山陽新聞書評、『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会)、『現代の建築家』(GA)、それぞれ鈴木博之、井上章一著の書評を書きおえる。東西文化の違いに焦点を絞った。


わすれぬ前に、インド絵日記を、 その1


世田谷村 スタジオGAYA日記 284

GAYAで小ミーティングの後、言太郎と街にチラシ配りに出る。70才になってチラシ配りはないだろうとは我ながら思うのだが、どうにも身体がそうしたがっているので、その意に従う。だいぶん歩いたので予想以上に疲れたが、健康維持の散歩よりはマシなのではあるまいかと自分をなぐさめる。


世田谷村 スタジオGAYA日記 283

12月9日 10時前京王稲田堤星の子愛児園増築現場。基礎梁の底部コンクリート打ちを終え、上にセットされる異形の基礎プレート鉄板 の設置がほぼ終了している。


世田谷村 スタジオGAYA日記 282

インドの旅、ベトナムの計画の経過報告。金子兜太さん95才になられたが、かくしゃくとしておられる。
12月8日も終日満覚路上山庄内計画に明け暮れた。


世田谷村 スタジオGAYA日記 281

昨日6日は朝方冬支度のための買い物の準備、環八の店を二件程巡る。昼過、溜池山王のキャピトル東急ホテルへ。13時半安藤忠雄、 難波和彦と会う。三人の昼食会となる。
「元気そうやないか」「以前より身軽で足取りも軽いね」の会話。
「コレ、できてきた」と安藤忠雄事務所の最新作、および積み重ねの仕事の小史をダイジェストした小さな巻物状の印刷物をもらう。 「コレ、誰が作ってるの」「ワイが自分でやってるのや」
相変わらず、畑に水やるようにコツコツとマイペースを崩さぬな。この小巻物の作り方はすぐに真似してみようと決めた。
15時半迄、会談。
16時半GAYAに戻りすぐに満覚路上山庄計画の最終図面のチェック。熱が入り、23時半迄続け、全てを見終える。


世田谷村 スタジオGAYA日記 280

12月6日 8時半、満覚路上山庄の庭園計画のスケッチ始める。庭、街路に関しては実に多くの体験をしている筈なのだが、 その体験が上手く身についていない。


世田谷村 スタジオGAYA日記 279

12月4日13時半近くの世田谷文学館へ。学芸部長生田美秋さん、副会長坂倉茂さんに会う。 12月20日の世田谷式祭りの説明。この先の祭他の展開と世田谷文学館との連携の可能性について話し合う。結として、 2015年春に世田谷文学館周辺で子供のための紙芝居大会、屋台祭 をやろうかのアイデアが生まれた。

12月5日 昨夜はGAより送付されていた、井上章一の本、『現代の建築家』を随分遅くまで読んでいたので、目覚めたのは9時であった。この本は建築論としては物体に関して大事なモノが欠ける感があるが、建築家の評伝としては実に面白かった。
鈴木博之が居なくなった今、全く異なるスタイルで建築家の生き方を描く、あるいは描ける人物が出現したの感がある。
日本の関西、むしろ京都大学在の人間から眺めた関東、東京の建築家たちの生き方が描かれているようにも考えられる。多くの建築家たちが取り上げられているが、わたくしには殊更に堀口捨己、磯崎新の章が、書かれ方が興味深かった。
こんな風に堀口捨己を書き、磯崎新を書いた批評家はこれ迄、皆無ではなかったろうか。


世田谷村 スタジオGAYA日記 278

12月3日 13時過代々木のGAへ。二川由夫と会う。ニューデリーの国立現代美術館で観たドーシ展のカタログを渡し、GAギャラリー他での開催の可能性について話し合う。


インド日記 276/7

21時15分発のTOKYO往エア・インディアのフライトは2時間程遅れた。
11月30日 9時前成田着。


12月1日は終日横になり眠りこけた。
12月2日 10時過渡邊、佐藤、言太郎GAYAに集まり定刻ミーティング。佐藤は幸い体調は回復したようだ。やはり若いな。むしろわたくしの方がボロボロ状態になりつつある。年だな。


インド日記 275

15時Mr.ドーシ会場に来る。抱き合って再会を喜ぶ。この大建築家には何の身構えも、壁を立てることもない。極く自然に率直に対応できるのだ。Mr.ドーシの力のなせる技であろう。わたくしの心も自然に開かれてゆく。


インド日記 274

ドーシの大きな展覧会を観る。
感動した。


インド日記 273

11月29日
6時半離床。佐藤の体調は思わしくないが、動けるようだから、動いてもらうしかない。顔色は悪くはないから大事にはいたらぬだろう。腹をやられてのカゼとの合併症か?ニューデリー空港で仮眠させた方が良いかも知れぬ。 9時45分ブバネシュワール空港発デリーへ。


インド日記 272

11月28日
24時、何となく日記を記しておいた方が良いと気がせいてホテルのデスクに向ってはいるが、書かねばならなぬ事は見事な位にいっぱいあるのだが、とても書き切れぬ。再び言うが書き切る能力が不足している。

銅版画のほうは何とか手持ちの銅板の全て5枚は彫り込みを入れた。あとはコツコツと地道に彫り込めば良いのである。言葉はどうもこんな風なオートマティズムらしきがきかぬので中々に苦しい。

しかし、銅板を5枚も彫ったのは我ながら異様であったな。ただただ思い銅板をこのまま持ち帰るというバカバカしさに耐え切れぬ小心さからやり抜いてしまったのではないか。
自分でも、飛び切りに異様な事をやった。その結果、極々自然にわたくしなりの新境地が開かれてしまったようである。こおいう恥ずかしい事も書けるようになったし、マア良かったんじゃあなかろうか。
旅は銅板を持って歩くにかぎるなと思えど、もう二度とこんな事をしまい。

佐藤はまだ具合がよろしくないようで、少し計り心配になってきている。もう今日の朝にはリッツホテルを発ちニューデリーに飛ばねばならぬのだから。アーメーダバードの飯田さんはすでにニューデリーで我々を待ち、空港で会う事になっているようだし、さりとて佐藤をここに置いて、わたくしだけニューデリーというわけにもゆかない。
いやはや困ったことにんらなければ良いのだが、わたくし奴がジタバタしても仕方がない。生水に当たったのではなくって、気温の変化と冬のインドの直射日光の強さにやられたのではないか?


インド日記 271

11月28日
20時過。ホテルリッツに戻った。18時に戻り、GAJAPANの原稿5枚、石山修武銅版画、アジア巡回展の広告、販売促進用のチラシの原稿を書き、長井美暁さんに送る。佐藤研吾が昼に飲んでしまった生水にどおやら当たったらしい。先ほどから珍しく元気が無く、赤い顔してる。おまけに毛布をかぶって寝ているから「どおした、元気ないぞ」と言ったら「昼の水に当たったみたいです」
こいつ、旅ズレしているわたくし奴をさておいて、時に、より元気なので、このヤローと思っていたので「そうか、気をつけろよ」と言いながら、実はザマミロなんである。
俺をさておいて元気にするなの、いましめでもある。しかし、本格的にブッ倒れられたら大変なので、今夜はメシ抜きで、水をガブ飲みして休むことにしたい。
いやはや、人間の体調なんてのは一瞬のうちに変化してしまうものなんだな。

銅板の、旅に持って出た最後の一枚に手をつけることにする。


インド日記 270

11月28日
7時にメモを記す。リッツホテルの一室である。自分も衣類も洗濯を終えた。又、4点目の銅版画にも手をつけて大方を決められた。最後の5点目の彫り方も頭の中で出来上がった。5時半に起床したお陰様である。
今日はここから70km程離れた仏教遺跡を見学にゆく予定。さてチャイでも飲みに外に出ようか。


インド日記 269

11月27日
19時過、再びブハネーシュワールのリッツ(チ)ホテルに戻ってこのメモを記している。18時にインド東海岸プーリ周辺集落から戻ったばかりである。
先ほど札ビラを勘定するような我ながらイヤな手付きでスケッチをすませた大判の画用紙をチェックした。上海ではほとんどスケッチは手つかずであったので、30枚弱の量にしかなっていない。50枚も東京から持って出たのが気恥ずかしいではないか。スケッチは内容はともかく数をこなさなければ力にならぬ。何の力かと言えば、それは作る(創ること)の基礎体力みたいなモノなのだ。自身の経験から創るのには観ることは重要だが、ただ観ていたのでは眼の体験は積み重ならないものだ。写真を撮っても経験にはならぬ。
勿論、わたくしの個別な体験だが、大きなスケッチを描くのが一番である。
時に、あくまでも稀ながらなんであるけれど、描いている対象が乗り移ってくるような気持ちになることがある。大方の創作と呼びたい事は、特に視覚芸術のそれはその組合わせに過ぎない。無から有を生み出すなんで事は絶対にあり得ない。何処かで視たモノが必ず組み合わされている。本格的なと思われる創造は、それが各種メディアからの感覚ではなく、やはり生モノ、自然とか膨大な人工物の断片が組み合わされて出現する。

そして、どおやらそれは決して言葉に触発されることは無い。皆無ではないが、自分でもこれはもしや凄いモノ(アイデア)なのかも知れぬとほくそ笑みたくなる類はフーッと言葉を仲介することなく出現してくるようだ。言葉が役に立ちそうなのはそうやって生まれてくる断片群をつないでゆく時に必要となる。


インド日記 268

2軒の屋台でチャイをハシゴして、スナックカレーを食べた。屋台の人々をスケッチ。浜に出て数点のスケッチを得る。終日、海を眺めて暮らしている人間も居るのだろう。
老人達の顔が素晴らしい。若いのはモルモン過剰でこれが絵にならぬのだ。
インドに来て一番良いスケッチになったような気もするが。それでは日本の何処か浜辺で描いたら良いだろう。ワザワザ、ベンガル湾まで来ることないだろうとも思われるが、それはそれ、大きな無駄のプロセスがあってのことだろう。
今、10時前。10時には昨日のドライバーがホテルに来ることになっている。一昨日のドライバーは波長が合わぬのでキャンセルした。イヤなモノはイヤである。ワザワザ、インドまで来て遠慮することはない。
インドの旅は良いドライバーに出会うのが必須である。


インド日記 267

11月27日
6時離床。東の空は薄紅色にそまっている。沢山の人が浜辺に出て海を眺めている。海はやはり動くから面白いのだろう。特に波打ち際は。早朝はラクダや馬はまだ出勤してはいない。
2日分眠ったので顔のムクミや足の痛さは消えた。まだまだ回復力はあるのだな。
古代建築は途方も無く面白いのだが、何しろ階段の段差は大きく、しかも数が多いので消耗してしまう。わたくしの年齢ではヨイショ、ヨイショの連続である。スーリヤ寺院はその名の通り太陽神を祭ったもののようで、だから日差しも強かった。
遂にスケッチはその全体を描くのはあきらめた。力及ばずである。平山郁夫の絵みたいになってしまったらどおにもならぬ。あの絵らしきは典型的な日本人の非建築性=非構築性ばかりがしみ出していて、わたくしは好きではない。タゴールの絵にもいささかそのようなところがあるようだが、その抒情性は宗教心にも近くより深いような気がする。
帰りにニューデリーの国立美術館に寄るので、もう一度見てみたい。

さて、スーリヤ寺院だが、これは凄かった。有名な24の車輪が凄かったわけではない。当初のわたくしの観念性=抽象性を帯びた卑小な考えは見事に打ち砕かれた。太陽の動き=天動説を基にしたモビリティの表現じゃないかと目星をつけて来たのだけれど、それはそれ、ある種のテーマパーク性は古代建築の全てに在るもので、やはり我々は残念ながら地動説の初歩的科学を知っているので、そんなモビリティらしきをそおやすやすと信じてみせる演技力を中心に据えるわけにもゆかぬ。
では何に驚いたかと言えば、部分の人間の想像力が建築全体のフォルムを構築している有様に仰天したのだ。
ラーマーヤナやヴェーダの古代インドの神話は何処か遠い世界から降臨したものではないのじゃないか。
人々の日常の生活の途方もない繰り返しの中から生まれたモノではないかの、自分の思い付きにビックリした。

スーリヤ寺院は恐らく未完の建築である。
正面入口(現在の)裏側にはその未完の状態が露出しており、その凄まじさに打たれた。アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリア聖堂やコロニア・グエルの地下礼拝堂に通じるモノがある。
スーリヤ寺院は今、修復中であり多くの職人がそれに取り付いていた。その修復への人間の情熱がいつ未完の全体に目を向けるようになるのか、ならぬのかは今は知らぬ。人間はやはり今でも途方も無い事をやり出すからね。


インド日記 266

40年昔のインドの旅は、凄かったなあと思い返している。カルカッタの路上は路上生活者で溢れていた。夜になると彼等が焚くたき火がチロチロと道に光をともしていた。
恐らく、死んでいて、それで路上に転がっていた人々も少なくはなかったであろう。ビクリとも動かず、石ころのようなモノでもあったから。ベナレスのガンガのガートに行かずとも死者の姿は路上にたき火の煙が地をはう中に見え隠れしていたのである。戦争を知らぬわたくしは死者=死体をまざまざと視た体験もなく、それだからインドに旅しようと考えたわけではないけれど、それに近い事は頭の中を巡っていたのも確かなことであった。インドを旅する事は、そおいう事でもあったのだ。


インド日記 265

11月26日。今は23時前。
夕方16時過にこのホテルPURI・HOTELにチェックインして、わたくしはすぐに眠ってしまいもう7時間も眠ったんだろうか。
折角ベンガル湾に面した町プーリに来たんだから、と柄でもなく海に面したPURI・HOTELの3階テラス付の部屋である。ベンガル湾の波音も聴こえるし、浜風も室内に心地良いのである。
7時間も眠ってしまったので、今夜はもう眠れないだろうと、起き出して日記をつけている。
忘れてしまうのには余りにも勿体ないモノを視たからだ。

今朝はブバネーシュワルのHOTELリッツを8時半に発った。リッツというのは面白いからそう呼んでいるに過ぎず、実はリッチHOTELなのであるが、あそれは余りに泊まるに恥ずかしい名であるから、ねじ曲げた。
デザインも日記も同じようなものなのだ。ここはねじ曲げようが無いプーリのプーリHotelだ。

インド日記には沢山なことを書けるのではないかと我ながら期待していたのだが、面白かった事は、実に面白いなりに書くのに苦労するので、後回しにしてしまっている。こうやって愚かな人間は大事な事を忘れてしまう堂々巡りなのであろう。偉そうにタメ息をついてみせるが、本当のところは書く力が無いからなのは気付いている。書くに思い事はどんどん後回しにしてしまう事が多い。

11月25日のウダヤギリ、カンダギリの2つの対の洞穴寺院群と、本日26日のコナラク、スーリヤ寺院である。
2つ共に建築である。でも建築には相も変わらず立ち向かってはいるけれど、いささか立ち向かい方が変化してきているのに自分では、気付いてきている。その辺りの事を書こうとはしているが、これはわたくしの絶版書房、アニミズム紀行に書こうかとの思惑も無いわけではない。
だから、日記には日記らしくメモ程度にしておこうと考えてもいる。

コナラクのスーリヤ寺院には本来ならば40年程昔に訪れていた筈だが、果たせなかった。仕事仲間のダムダンの連中との初めてのインド旅行であった。カルカッタ(現コルカタ)から小さな双発の飛行機で飛ぶ筈だったが、満席でわたくしは仲間に席をゆずって、ここには来れなかった。やっぱり残念であったのだろう。
40年程の昔にここを訪ねていたらの今はその考えが頭を巡っているので、先ずはそれを記しておくことにしたい。


インド日記 264

ささいな事をそれでも記録する能力と、それとは無関係に、ただただ無為、無常に万人に共通して通り過ぎる時間との距離は大宇宙の巨大さに等しく同等である。つまりどうあがいてもどうしようも無いという事。
昨日の記録が仕切れぬままに、今日も暮れてしまった。
今は11月25日19時である。ホテル・リッツの前でこのメモを記そうとしている。ルームサービスでビールを頼み飲み終わったところである。ルームサービスはカタコト混じりの英語でいかついインド。ドラビィダ系、つまりアーリア人の男とやりあわねばならぬ。インドは禁酒なので大ピラに道路脇のテラスで飲むわけにもゆかぬのだ。
デッカイ男に問う。
「ビール一本いくらなんだ?」
「5000だね」
「エーッ5000RP(ルピー)なのか?」
「5000だね」
「5000RPなら、冗談じゃない。ルームサービスはキャンセルだ。」 -------気まずい空気--------。
「だからビール一本いくらなんだ。」
「1本130RPだ」
「じゃ、さっきの5000というのは何なんだ」
-------再び、気まずい空気--------。
「だって、君はさっきビールは5000だねと言ったではないか」
「だから5000かと聞いたんだ」
「じゃ、その130RPというのは何なんだ?」
--------------------。実に気まずい空気が凍りついて、コチコチとなる。

ビール一本5000RPはいくらなんでも法外である。
マア、人間らしきの常識を信じて、ビール2本をたのむ。清水の舞台から飛び降りる感じである。
やがて、ビールが届けられて大笑いする。インドのビールは銘柄が、つまり名前が5000というのであった。
正式には、
「THE ORIGINAL. --HAYWARDS. 5000--SUPER STORONG BEER」
である。
決して、ビール一本5000RPではないのである。5000RPと言えば泣く事も黙りかねない大金である。ビール一本にそんな値がついて、まかり通っていたら、実にハルマゲドンなのである。
ルームサービスのオヤジと共に大笑いして、やっと凍りついた空気はとけた。
「10RPもチップくれるのか」
とオヤジは満面の笑み。
どうなってるんだろうね。世界の通貨基準は?


インド日記 263

さて、昨日11月24日に戻る。忙しい。街をゴロゴロ荷物を引いて歩いて次に行ったのがツーリストインフォメーションであった。立派な初期近代建築でイギリスのコロニアルスタイルはそれ程入っていない。10時半にスタッフが来ると言うので、しばらく待つ。2階に上がれと言うので中を見る。銀色のいささか気味の悪い三神の額オブジェがあったのでスケッチする。やはりジャイナ教のアイコンらしく、ここはジャイナ教を信仰する人の多い街なのだった。

10時半に歩くのはあきらめて、リキシャを広い駅裏、あるいは前のこのホテル・リッツに辿り着いたのであった。
勿論、「気味のひとみに乾杯」のバーグマンも、ボガードもオウムさえもいないホテルである。何もなくって、それが良い。


インド日記 262

6時銅版画2点に手をつけて何を彫るかは決められた。うまく彫れそうだ。6時半ホテル・リッツの外、街のT字路のインドの土着神(名を忘れた)小寺院のシンバル状の楽器がかなでられ始める。屋外にも人がむらがり始める。シャワーを使う。ぬるいけれどお湯が出るではないか。これで1500ルピーちょっとの部屋代なんだからいい感じなのだ。
ようやく、気分はインドらしくなってきた。グローバリズムの佐藤はインターネットが上手く接続できずに弱々しかったけれど、昨夜近くでインターネットカフェを見つけて外と接続できるようになった。元気そうである。街に出て、スケッチを始めている。
ブバネシュワールはインターネット用のアンテナが街に少ないので外との通信が不自由なのだと言う。アーメダバードのドーシ事務所の飯田くんとも連絡が再開できるやも知れぬ。


インド日記 261

4時離床。流石に昨日11月24日の夜はグッスリ眠らせてもらった。なにしろ上海からの飛行を含め、まるまる二日間程ほとんど眠っていないから。
ここはインド・オリッサ州、ブバネシュワール、ブバネシュワール駅前のホテル・リッツの二階の一室である。昨日の夕方17時半からベッドに横になり10時間くらい眠ったのかな。ガイドブックを眺めて、ここだけは泊まるまいと決めていたビカビカのガラス仕上げのホテルである。
リッツと言えば、不確かではあるが映画カサブランカでハンフリー・ボガードが経営していたホテルであり賭博場(カジノ)の名前であるが、外見はビカビカ、ガラスしかも少し何色ともつかぬ色までついているのだが、中はそれとは似ても似つかず古びていて、貧乏臭くて汚れていてよろしい。
こういうのに限るのである、わたくし奴は。エレベーターは一応付いていて、外廊、内廊共に手動の時間モノ、これも中々によろしい。 一応シャワールームと立派な洋風水洗便器もついている。お湯も出るようだが、まだわたくし奴はシャワーは使ってもいない。それ程疲れたのである。
なにしろ昨日24日は早朝朝日が昇ったばかりのブバネシュワール空港に着いて、ようやく11時頃このハンフリーボガードのいないホテル・リッツに落ち着いた。
それ迄、数時間は初めての都市で大きい荷物をゴロゴロ引きずりながら、それこそ「かたつむり」の如くにうろついたのである。
リキシャという名?のパタパタには荷が多過ぎて佐藤と二人では乗り切れず、エイヤとばかり車とパタパタだらけの都市を歩いた。
空港から乗ったTAXiが連れていったのは、あるいは連れていかれたのが薄汚れた近代建築のホテルだったが、これは全く好みが合わず、部屋も清潔ではなかったので仕方なく町をうろついてホテル探しの旅に出た。 何日か泊まるので宿舎は大事なのである。
インドはメシと酒は全く期待できぬので、せめて宿舎だけはと思ったのだ。
若い頃のシルクロードの旅では夕刻に新しい街にようやく辿り着くと、足を引きずりながら、それでも何軒もホテルという名のゲストハウス、ルームらしきを見つくろってうろついたのを思い出す。
わたくし奴の旅の流儀は、それこそ地球の歩き方、ヒッピー達の流れ方の作法が身にしみついてしまっているのだ。これは仕方ないし、今でも賢いやり方だと信じて疑わないのである。
若い佐藤は、なんでこんなグローバリゼーション下の地球上で、荷物と大きな画板を持ち歩いて、排気ガスの充満する道路をうろつかねばならぬかといぶかしんだだろうが、今のうちに60年代の「地球の歩き方」を学んだ方がいいだろうの親心なんである。
いずれ、近い未来、地球上のありとあらゆる都市という都市は、酒も水も食料も不足がちとなり、「地球の歩き方」時代の如くになってしまうんだから。
ハンフリーボガードのカサブランカも、ブレードランナーの近未来もそれ程のちがいはないのである。
そう言えば、ブバネシュワールで最初に訪れたカンダギリの、インドで恐らく初源期の石窟寺院の遺跡にはブレードランナーの美しい女性ロボットならぬ、ケバケバしい女装をした男たちが居たのには仰天した。
やっぱり、ここはアニミズム帝国なのだという思い込みはやっぱり当っていたのである。
カンダギリ、ウダヤギリはオカマロボットうごめき、カエルや象までうろつく貧しいユートピアであった。
が、先を急ぐまい。せいては事を仕損じるのである。
今、5時になったので、銅版画をひと彫りすることにしよう。
ようやく、何を彫れば良いかもわかってきたから、古代の人間共が石窟寺院を彫ったように、わたくしはホテル・リッツで銅板を彫る。


インド日記 260

22時離陸。ニューデリーに向けて飛ぶ。機内はギッシリ満員。スケッチさせていただいた老人は何のためにインドに出掛けるのかな。古ぼけてはいるが清潔な服装で、簡素さがその人間の内側から立ちのぼってくるようであった。それが実に特異で際立っていた。今の建築、都市には視えぬモノであった。それに感動した。この素朴さは消費生活、消費都市では出会えぬモノなのだとようやく気付いた。インドへの旅は遺跡になってしまった建築や都市への強いノスタルジーからだとも考えていたけれど、むしろこの老人の如くに出会うのを奥深くで求めているのやも知れない。今、11月24日早朝4時半(上海時間)である。あと30分程でニューデリーに着陸するようだ。


上海日記 259

17時半、趙さん、フーチェンと別れてTAXiで上海プードン国際空港へ。18時東方航空カウンターでインド、デリー便チェックイン。
待合ロビーでやはりデリー行の中国人初老男性ととなり合わせる。その人物の立ち振る舞いそして表情に何故だかとても心ひかれた。スケッチしていいかと身振りで尋ねたら、イイヨの笑顔で応えて、それでスケッチさせていただく。


上海日記 258

11月23日9時ホテル2Fレストラン朝食。おかゆ、ラーメン、果物をたっぷりいただく。10時半過チェックアウト。11時趙事務所。「かたつむり計画」を中心に雑談。石山銅版画展inテャイナについて少々つめる。昼食は事務所2階テラスで又もラーメンとなる。枯葉散る中でのラーメンは「かたつむり計画」と共にかすかに希望のあるような、今の日本の如くに白昼の廃墟のようでもあり、まだきちんと把握できない。
14時過TAXiで磯崎新設計の複合施設ヒマラヤへ。15時ヒマラヤにてフーチェンと久し振りに会う。磯崎アトリエ上海の社長で昔の石山研OGでもある。ヒマラヤを案内してもらい説明も聞く。すぐには印象すらもまとめようも無い建築である。気持の準備をしてきたスケッチは遂に果たせずじまいであった。何故?かはすぐに書きようがない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 257

磯崎新論に関するメモ
作家論磯崎新としていたモノ(Xゼミナールでの連載)の、頭の作家という文字を取り外すか否かを決めようとするところから論に入るべきか。
鈴木博之がかつて度々洩らしていたように、磯崎新には代表作と呼びたい作品がない、のには同意せざるを得ない。初期のN邸、あるいはは大分県立図書館をのぞいて作品らしきは無いのだ。
つくばセンタービルが磯崎新の作品らしきの系譜自体をそれこそ解体してしまった。しかし何とも不思議なことにモノを作らぬ作家としての建築家=ヨーロッパの存在形式は残る。あるいは残りそうなのだ。佐伯彰一の三島由紀夫論、三島由紀夫は第二の岡倉天心である、とも異なる日本の建築家の悲劇か?


世田谷村・スタジオGAYA日記 256

11月23日 日曜日
5時離床。疲れは取れたようだが、どんよりよどんでいる気もする。鏡に写る自分の顔はやはり疲れ顔である。大体わたくし奴は若い頃から疲れ顔であったな。
今日は磯崎新の作品、上海ヒマラヤを見学。磯崎新論の再発を期さねばならぬ。
様々な風評は聴いている。磯崎新的建築家は終わったという様な。自分の眼で確かめたい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 255

11時CCDオフィスへ。今日は休みのようだ。趙事務所に廻る。満覚路上山庄計画、そして「カタツムリ計画」の打ち合わせ。昼食は近くの南京包子の小店へ。街角に湯気を立てて、わたくしの理想の店だ。安くて美味。
13時半杭州より童さん等来る。上等な服をみやげにいただく。
東京で作ってきたエントランス部、茶館部分の考えは大幅に修正を余儀なくされた。世界遺産の中での仕事なので役所の保存の意志が当然働く。しかしながら何度も何度も修正を重ねながら次第に全体として落ち着いてきたのではないか。
すぐにでも着工したい旨である。現場をコントロールするのは至難な技であろうが、できるだけのことはしたい。
「かたつむり計画」は中国銀行からの融資枠も決まり2000㎡のオフィスを構えたそうだ。やる事が早い。一段落して夕食は上海一の精進料理レストランへ。豆腐と野菜だけで酒はビールだけ。美味であるが腹一杯になる。21時半了。杭州へ帰る童さん等と別れホテルに戻る。まだ早い時間だが目一杯に近い仕事をしたので疲れた。シャワーも使わずドタリと横になり休んだ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 254

朝食の前の数分、満覚路上山庄の各住戸から茶館の視え方について考えを巡らせる。思い切ってエントランスの守衛ゲートの上、あるいは横に茶館を持ってくるという手もあるな。先ずは住戸と茶畑、そして茶館の高さ関係を示す略図は必要だろう。又、エントランスに茶館を持ってくる案もすぐに断面図を作成する必要がある。佐藤に1時間でやらせてみよう。


世田谷村・スタジオGAYA日記 253

17時45分に上海虹橋国際空港着陸。予想していたよりもはるかに暖かい。21℃。迎えの人が来ていてすぐにTAXiでHOTELへ。趙さんと会う。2階の上海料理屋で夕食。
上海でのスケジュール、満覚路上山庄、銅版画展、かたつむり計画等々の打ち合わせ。
20時半前(上海時間・以降全て上海時間)歩いて実に不思議なワインBARへ。
中国住友林業社長・乾実司氏他と会う。
23時了。別れてHOTEL迄歩く。

11月22日
6時半離床。4時間程それでも眠れたか。そう言えば昨日上海空港で飛行機から降りてターミナルへのバスに乗り換える時にバス内で何かにつまづき床に転がってしまった。バスの中国の人々が皆手を差し延べ、声を掛けた。自分の体力のおとろえを感じたのと同時に、日中関係の政治は冷えているけれど、人々の気持は政治力学とは異なる体温であるなと、実感した。それが最大の昨日の収穫である。

銅版画展に関しては趙事務所に中国語訳他色々とお世話になりそうである。
満覚路上山庄は修正案の一部を昨夜渡したので今朝その感触がわかるであろう。今日は午後クライアントの童さんが上海に来るのでかたつむり計画共々打ち合わせとなる。今朝は曇天で外は寒そうだ。8時半にホテル内レストランで佐藤と落ち合う予定。


世田谷村・スタジオGAYA日記 252

大判の画用紙50枚、かなり大仰な色鉛筆の二段木箱セット、絵筆1本、その墨入りカートリッジ50本、筆記用具、鉄筆、銅板5枚が旅の道具だ。上海での打ち合わせの為の諸資料は佐藤が持つことになる。わたくしは楽である。
インドはわたくしも未知なエリアへの旅なので、いささか心細い。ここも佐藤が同行する。彼は大変だろう。わたくしは楽である。
GAYA発11時前。羽田国際空港定刻通り14時半離陸の中国東方航空にて上海に向けて発つ。銅版画の鉄筆他も無事に通過。機内は満席である。
東方航空の機内誌も随分部厚く立派になった。PRページに面白い工場らしきの航空写真があったので1枚失敬した。
今度の旅の目的の一つである「作家論磯崎新」のはじまりをボンヤリ考え始める。
Xゼミナールに連載したものは没とする。


世田谷村・スタジオGAYA日記 251

11月21日 7時離床。雲はあるが陽光は指している。8時半旅の荷造りを終える。上海5℃、インド35℃の気温差があるので服装は両極端となる。でも荷物は小さいのが一番である。
銅版画彫りのセットは持って出ることにする。先日の5点の後、彫るモノが無くなった。彫る場所を変えるのが、これもまた一番であろう。荷物チェックで没収されなければ良いが、銅板は5枚だけ、鉄筆は1本だけとする。上海はとも角、インドではネットの接続がおぼつかぬだろうから、スケッチの送信は望めまい。必然的に今日の日記251から全て活字送信としたい。又、恐らく日付が入り乱れるだろうから、日付は日記中にさし挟むことにして、本来その狙いがあったのだが、日記番号を主なインデックスとした。日記の文体が変わるのではないか。


世田谷村・スタジオGAYA日記 250


世田谷村・スタジオGAYA日記 249


世田谷村・スタジオGAYA日記 248


世田谷村・スタジオGAYA日記 247

昨日、銅版画を彫り進めたお陰で中国杭州「満覚路上山庄」計画の、わたくしの中での考えの骨組がのぞき視えた。これは大判のスケッチでは得られない事である。カリカリ、コリコリと銅版を彫ることが、自然に脳内の深いところを彫ったのだろうか。
10時スタジオ、諸々の打ち合わせ。13時半まで。


世田谷村・スタジオGAYA日記 246

11月16日 日曜日 7時離床。今日も好天気。すぐに銅版画彫りにとりかかる。過日途中まで彫って息切れしたモノを彫りすすめる。
9時半1点完了。日本キリスト教会世田谷千歳教会へ。10時過千歳教会着。流石に祈りの人々の姿は大判のスケッチをするにははばかり、いただいた今日の説教の小紙片に蓮見和男牧師の説教の姿をそれでもスケッチした。この老教師の説教は気迫がこもっていて、その気迫は信用するに足るものがある。道元の話しが出てきたものにはいささか驚いた。禅宗の坊さん共にキリスト教聖書を読み抜き、一家言ある者がどれ程いるのであろうか。
15時半、銅版画本日2点目を彫り上げた。すこし計り休まなければいけない。16時過3点目をほぼ彫り上げる。18時前3点目を仕上げる。今日はこれで銅版画は終了とする。彫りかけの4点目の仕上げを考えるにとどめたい。


スコブル工房の代島治彦さん等が製作した「三里塚に生きる」忘れられた人々の、忘れられない物語。チラシ他を入手する。<br> 11月22日(土)から、12月19日まで4週間ユーロスペース03-3461-0211にて不屈のロードショーと銘打って上映会を行う。先着20名に三里塚。小泉循環農場の里芋プレゼント!があるようだ。
どんな映画になっているのだろうか、アレコレ考える前に先ずは観てみたい。


世田谷村・スタジオGAYA日記 245

11月15日 土曜日 上海からは銅版画展の件、日時他詳細を知らせよの連絡もいただき、段々と外廻りだけは自分を追いつめてはいるのだけれど、肝心のわたくし奴の気持ちが今ひとつ全開していない。


エイヤッとやっつけてやろうと考え、準備していたら『グラフィケーション 195』が眼に入ってしまった。
「特集 時代劇の愉しみ」である。読み始めたら滅法面白い。克明に読み終わったらもう陽も高いのであった。やっつけてやろうと思ったのにやっつけられてしまった。今日もスケジュール変更しなくてはならなそうだ。


ロビーで「ステンベルグ兄弟・幻の赤を求めて」(1968年)、ステンベルグ兄弟の軌跡を見る。
ミュージアム・ショップでアレクサンドル・ロドチェンコの映画「眼」1924、ニコライ・マンサコーワ「身分と人々」1929年の、ポスターの複製ポスターを買い求める。


前回は見なかった2階のギャラリー「北大路魯山人」展も今度はのぞいた。わたくしには北大路魯山人の、料理は食べたことも無いし、陶芸、書その他の良さは全く解らないのである駆け足で通り抜けてしまった。一階のロシア・アヴァンギャルド展よりも、むしろ観客は多いのかも知れない。日本人は変なモノ好きなんだ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 244

11月14日 ほぼ毎朝、言太郎がスタジオ前の道路端に木切れを置いている。コンスタントに持ち帰る人も多いようだ。最近は色をつけて形を整えたりもするようになった。何をやらせても、まだ上手くゆかぬが、人間取り柄というモノはあるものだ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 243

11月13日 インドや中国のプロジェクトと比較すれば、動かねばならぬ距離が断然小さいのでこれは楽だなあと。けれども近過ぎて無為に流れてしまう恐れも十二分にある。スタジオGAYAから歩いて廻れる地域のプロジェクトを烏山計画とひとくくりにして先ずは呼んでみるかと考えたりしているうちに7時になった。早起きは三文の得である。
伊豆西海岸松崎町のこともしなければならない。


世田谷村・スタジオGAYA日記 242

11月12日 中国杭州満覚路上山庄エントランス守衛室(サービス部)、茶館新案を見る。前回のミーティングで中国側から大幅な条件変更が伝えられたので、それに対応する案の骨子はすぐに決めた。今日はそれにスケールを与え肉付けされたモノを見た。
渡邉、佐藤共にこの計画を担当して1年越しになろうとしている。共に建築家として進化してきている。実に自然なことではある。建築家として育てているのだから。二人の才質、個性はまるで異なる。大小ではなくって骨格が違う。渡邉はすでに10年以上、佐藤も3年になろうとしている。わたくしも大きなリスクを背負いながらクライアントとの関係も含めて、全ての経験他を注ぎ込んでいる。社会的には随分異様なことをしているなの自覚もある。社会的(日本の)には建築家の存在の意味は急速に薄れているのは知っている。しかし、急速に薄れているのは時代の流れでもあり、急速な変化自体も又、急速に変化するモノであるのも、わたくしなりに知っている。
実はそんな時間に対するそれぞれの才質に合わせた知覚=感覚こそが建築家=創作家の最も大事なモノなのだとわたくしは考えるようになっている。だから、それを渡邉、佐藤には伝えようとしている。人間の一生は実に短い。そして同時に長い。だからこそ、どう生きるかは実に重要なのである。どう生きるかは二人にはどう創るかに全く同じである。そんな風に考えているから、その通りに教えているに過ぎない。
わたくしだってつまらぬ人間であり続けている。それ故にいかに生きるかなんてことは教えようがない。だから、物質、物体の形式を介してそれを伝えているのだ。


12月の祭りは小さいけれども、出店は外国人オーナーも複数交えて国際的なモノにしてみようと決心した。街の商人たちはそれこそ必死に知恵を巡らせて生きているのだ。地付きの商人たちには無い必死さが外国人にはある。
それで祭りは少し計り、アジアの屋台食祭りの色合いを帯びさせようと決めた。それ位かな今日の収穫らしきは。地元では今、祭りの他に5つ程のプロジェクトを考えている。


世田谷村・スタジオGAYA日記 241

11月11日 6時半過離床。曇り。朝食を食べて7時45分現場へ発つ。8時半稲田堤星の子愛児園増築現場。9時半秋田より12t車でベースプレート到着。荷下ろし現物点検。アトリエ海・佐々木さんも立ち会い。人間の背丈程の部品もありユニックが働いた。梁が一切無い建築なので、基礎にそれ相応の応力がかかり、一つ一つが異なる形状、重量となった。トビの頭が優れ者で、墨出し他を上手に仕切り始める。佐々木さんも「あれが居れば安心かな。動きもいいし。」とつぶやく。
昼前に近藤理事長と少し計りの打ち合わせ。至誠館愛児園の理事長室でいくつかの計画について佐々木さん共々話し合う。


世田谷村・スタジオGAYA日記 240

11月10日 で、12月20日の「世田谷式お祭りin南烏山」には、わたくしの知り合いの"タイ料理屋"および"ネパール料理屋"も出店していただくことになりそうである。共に地元商店街では浮いている。何故ならばやはり外国人でもあるからだ。GAYAは少しでもそれを雑居化したいと考えている。


世田谷村・スタジオGAYA日記 239

11月9日 13時読経はじまる。本堂は超満員の信徒さんで溢れている。この寺の動員力はまことに際立っている。馬場昭道の日頃の努力のたまものである。やがて内田正祥氏の話し。
話術の巧みな方である。赤いカーネーションの話他。


世田谷村・スタジオGAYA日記 238

11月8日 11時世田谷村発。第三京浜を経て横須賀かすやの森美術館へ。宮脇愛子さんへの献花式に出席。時間があったので美術館の竹林に登る。竹林の中に宮脇愛子作うつろひがあり、スケッチした。
竹と黒い影法師みたいな人の姿、それに多くの石仏、そして銀白の一瞬の閃光の如く、うつろひが相まって良かった。
このスケッチは、竹林の上の空に昇った愛子さんに差し上げることにしたい。マア、何とか届くのではなかろうか。 

磯崎新は新国立競技場のザハ・ハディド案を日建設計が実施設計を担当したモノについて、数日前に各新聞に、まとまった自身の見解とアイデアを提示している。その件について話しかけられたところで、それはこういう処では無理な話しで、ストップ。
(磯崎新による、新国立競技場に関する意見の全文、architecturephoto.net参照)
桜吹雪の大岡裁きの如くの提案でもある。が、しかし巨大な?が在る。磯崎新の提案は以前、彼の下でその案を作成を手伝った福岡オリンピック招致案の、これは延長戦の如くであり、2011年3.11の東日本大震災に対しての、磯崎新の首都移転計画とも呼ぶべきプロジェクトをも包含したものである。
その意味では磯崎新としては大正論なのであり、筋が通っている。
が、しかし、大きなモノ言いには実に潮時が肝要である。新聞紙上ではすでに新国立競技場はその屋根工事、スタジアム工事共に建設会社が請負契約も終了したと報道されている。つまり、縮小された実施設計はすでにザハ・ハディドも承認した上での社会的現実があるのではないか。
それとも磯崎新はその現実をすべてひっくり返してまで、彼のアイデアを社会化させようとの考えなのだろうか。


世田谷村・スタジオGAYA日記 237

11月8日 曇天で寒い。10時GAYA。佐藤研吾が志村稲荷の奉納絵馬を作成していて、これもなかなかに良い。渡邊大志の箱型ポスター共々ページにオンしたい
志村稲荷の件では本日夕刻志村稲荷のオーナーでもある御当人志村さんと会う予定だ。


世田谷村・スタジオGAYA日記 236

11月6日 8時再離床。すぐにドローイング(建築のページ11にON)にかかり10時終了。GAYA STUDIOの完成予想図である。
世田谷美術館学芸員・野田尚稔さんより、お手紙いただく。以前、インドのプリミティブアートをさらに詳細にリサーチしたいと考えているのをお話しした。さらに世田谷美術館のひとつのルーツでもある、素朴画家達の仕事との関連などを思い付くままに話したことへの返信である。

今、世田谷美術館では「ユートピアを求めて」と題したロシア・アヴァンギャルドのポスターの大きな展示が開催されている。わたくし奴はその展示に異様な程に打たれた。
実は、わたくしの修士論文は恥ずかしながら「正統と異端」という大ゲサな、どうしようもない手合いのものだった。ガラクタ同然のものだった。
しかし、今でも秘かに大事に想っているのは、そのガラクタの論考中に素朴画家たちの仕事=表現を重要なテーマとして入れておいたことである。
野田尚稔氏にもこれは話してはいない。何だか脈略をつけて話すことがまだできぬような気がする からだ
わたくしのガラクタ修士論文は当然、自分で破棄した。半世紀ほどの時間を経て、ただ「素朴画家」たちの仕事=表現への着目だけ、あるいはそれに固執していた自分だけは何となく、わずかなりと言えども信用できるかなと考えてはいる。
その先はまだわかりはしないのだ。

「素朴画家」たちの遊び=仕事=表現と、我々が度々、なそうとしている現代の町での祭りづくりに、なんとなく関連があるやも知れぬと野田尚稔氏は言って下さった。百万の味方を得た気持である。

ロシア・アヴァンギャルドのポスター展は、そんなわけで(?)わたくしに様々な感慨をもたらせたのだが、わたくし共スタジオGAYAも手描きポスターを4点作成したのは先日述べた。たった4点である。
その4点はそれぞれ町に貼り込んだ。今日は長崎屋の店頭に貼り込むと言うよりも吊るさせてもらった。真紅のノレンの横、自動販売機の隣にである。
今はポスターの類は全てキチンとした印刷物の仕上がりになった。我々の手描きの、子供の落書きみたいなポスターは実に異色である。異色であるとコンピューターサイトで小さく述べねば、異色であると誰もわからぬ程の皆さん実にそんな感性に標準化されてしまっている
これが中々によろしいのである。この良さがわからねばアホだ。是非、読者のみなさんも一度、このポスターを見物に出掛けられたい。貼ってある場所は我々のスタジオGAYA西壁 、長崎屋入口、風風ラーメン入口内部、そして12月20日の会場である、ななつのこ・コミュニティカフェである。


世田谷村・スタジオGAYA日記 235

11月5日 これで12月20日の大会には8店程の出店がほぼ決まり、これ以上動いてもスペースが一杯なので、これで打ち止めとしたい。
タイ料理の屋台は「今、ニューヨークでバカ受けの特別料理出しましょう」と中々、鍵屋のオヤジは商売人である。屋台はGAYA特製の屋台として、デザインも少し頑張らせたい。
夕刻、スタジオGAYAの防寒対策として面白いアイデアを得たので、すぐに打ち合わせて、明日から仕事にかかることにする。


世田谷村・スタジオGAYA日記 234

11月3日 昨日は14時に長崎屋に出掛け、なんと大判のスケッチを5点得た。もう客も店主も何やってるのだと言う者もない。大判の画用紙に描いているので充分に目立つし、ラーメン屋でスケッチてのも異様なんだが、それはそれ空気みたいな存在になってきたんだろう。
昨日のも入れると6点になる。又、帰りに工事現場の空が美しいので道ばたに立って描いた。この2日間の休日は十二分に町の芸術家だったな。

11月4日 9時半GAYA朝会。渡邉大志が年末のラーメン大会の大きなポスターを作成してきたので皆で観る。手描きのモノでん中々大まかで良ろしい。早速4点を町に張り出そうと準備する。
中国満覚路上山庄の図面をチェック。13時終了。エントランス部の管理人の為の小建築の模型が提示されたが、どうも違うのだ。わたくしも本格的な石造らしきは初体験なので、うまく重みの感じがつかめていない。
17時井の頭線下北沢で、せたがや市民エネルギー合同会社、代表社員の浅輪剛博さんにお目にかかる。いささかの相談。


世田谷村・スタジオGAYA日記 233−2

11月1日 10時半1点を得る。
12時半2点目を完成直前までこぎつける。今日は銅版彫りはもうしない方が良いだろう。

11月2日 日曜日 7時離床。明け方になってグッスリ眠れた。銅版画2点はどうやらやり過ぎなようで、頭が高揚してしまい眠れないのであった。あんまり図太くはないなわたくし奴の気持は。

すぐに銅版画彫りにとりかかる。妙にはかどってしまい、遅い朝食をはさんで12時前に新しく4点に手をつけた。2点は中国杭州満覚路上山庄に関するモノとなった。
建築を彫るのは初めての事かもしれない。今日はこれで銅版画彫りは中断する。建築では出来ぬことを銅版に彫り込んでいるのがわかってきた。


世田谷村・スタジオGAYA日記 233

11月1日 土曜日 今日から11月である。昨日決めた通りにこの2日ばかりは銅版画彫りに集中するつもり。昨日は丁度良いバランスの一日であった。10時に長井美暁さんがGAYAに来て、「ときの忘れもの」から発刊される予定の2015年度版石山修武画文集の相談。自力で上海で売ってやろうかと考えを巡らせる。表紙は少しばかりガツーンとゆこうと話す。いずれにしてもガツーンでもガチンでも元気を出すには先ずは自分で全てやるしかネェなと覚悟する。
14時京王プラザホテルで上山大竣先生にお目にかかる。インド、ナーランダプロジェクトについての打ち合わせ。展覧会を来春、京都西本願寺伝道院ホールで行うことになりそうで良かった。伝道院は伊東忠太設計の格式の高い名建築である。ナーランダの森の植林計画も進められると良いなと話し合う。
16時終了。