I 世田谷村スタジオGAYA日記

石山修武 世田谷村日記

世田谷村スタジオGAYA

2015 年 12月

>開放系技術による世田谷村第四期工事の経過報告

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世田谷村スタジオGAYA日記 588

1、昼から世田谷の先ずは烏山エリアでのまちづくりのようなものに関して世田谷村で打ち合わせするので、朝からその準備をする。

2、チラシ作りは随分経験を積んだので、その効果も良く知っている。意外に機能するのである。

3、来年(2016年)1月初めには通りを作る会の新年会があるので、その頃に第二便をと考えている。ホンの小さなチラシ作りからつまりは始めたい。

世田谷村スタジオGAYA日記 587

1、午前中遅く烏山神社に厚生館理事長副理事長他スタッフの方々、アセットホーム社長他、スタジオGAYA集合。烏山神社神主さんのもとに烏山翼保育園建築工事地鎮祭を執り行う。終了後近くの料理屋にて直会。
計8度にわたる周辺住民の方々への説明会を経て、よくマアここ迄辿り着いたものである。

2、わたくしも日本各地でまちづくりに参加してきた小史を持つのだけれど、あの経験は日本経済がまだ成長を続けている時代であった。。21世紀になってその成長が停滞した。そして人々の気持ちもどうやら固く自己内生活に自閉した。東日本大震災、そして大津波の大災害後に、、特に若い世代の人たちのおおボランティア活動が顕在化したけれど、国家はその単純だけれど、明らかな「友愛」の精神を方法として支援する術を持たなかった。友愛は勿論フランス革命の根本理念であった。ただし、その理念は王族他をギロチンにかけ、すなわち血を流して得たものであった。民主主義の発端は血なまぐさい歴史を 持つのだ。我々にはその歴史がない。だから民主主義も他者からゆずり受けた偽りモノの性格を持たざるを得ないのではなかろうか。

3、今度のフランス、パリでのテロリズムによる大きな犠牲者たちに向けての儀式んにおいて パリ市民は自然な振る舞いの如くに、ラ・マルセイユズ、つまあありは自由と自治の根本である唄を共にしていた。たかが唄、されど唄である。パリ市民の徹底しいいいいた個人主義にはそのような根と広がりが消えてはいないのであろうか。

4、保育園はとても重要な公共建築である。

日記道楽4

世田谷村スタジオGAYA日記 586

1、午後、南蛮茶館でケーキを食べて「日記道楽4」を書く。明後日からシルクロード、サマルカンドに行くので、その旅について書いた。書いてて面白かった。同時に世田谷烏山地区を中心とした散在混合機能について考えを進める。

世田谷村スタジオGAYA日記 585

1、昨日は午後五月女くん来室。例によって外のテーブルで打ち合わせ。上海の展覧会に予定しているアニメーションを見る。中々良い出来であった。一月中旬に後半の映像を作り始めるとの事

2、夕刻北烏山の保育園建設に関して工事についての周辺住民説明会。説明会も計6回を重ね、6月以来の最終回になる。我々は最終計画変更案について説明した。区役所の子育て課、課長をはじめとする面々、厚生館副理事長をはじめとする面々、GAYAそして施工者のアセットホーム社長とする面々が顔をそろえた。会場ほぼ満員の人々だった。周辺住民の関心の高さを再び実感する。

3、本日は午前中二つの業者が世田谷村に来る。リノベーション計画がまとまり始め積算に入るので現場を見せる必要があっての事だ。渡邊大志の担当なので彼が丹念にそれぞれに説明している。猫が二匹びっくりしてウロウロしている。家人以外に内に入る人もないので驚いているのだ。
渡邊大志には今日中にティンバー・クルーを紹介して、それで世田谷村のリノベーション工事に関する積算のまとめとしたい。

日記道楽3

世田谷村スタジオGAYA日記 584

1、上海の日本伝統美術工芸展の件で久し振りに日本各地の古い友人と連絡を取っている。わたくしはメールをやらぬので、やはりどうも肉声を聴かぬとダメだ。古い人間になっているのを実感するが、肉声に勝るモノは無い。

2、ここ数日一ノ関ベイシーに電話しても誰も出ない。これは何かあったのかと心配になり禁を犯して朝の自宅訪問の電話したら、「イヤイヤ、おなつかしいや」と元気な声が返ってきた。ソニーミュージックの伊藤八十八さんの一周忌で東京にでてきていたそうである。菅原正二も義理堅い男である。モダーンジャズの男であるから「イシヤマさん、ピース&ラブってのは義理と人情ってことですよ」と教えてくれたりした。そうか、カウントベイシーと菅原の仲も又、それであったか。

世田谷村スタジオGAYA日記 583

1、朝、伊豆西海岸松崎町森秀己さんと連絡とれた。中国上海の日本伝統工芸展に松崎町蔵らの品々を出展できぬかの依頼について。他に新しく5件程各地の知り合いに連絡。20程に依頼ルートを拡張する。

2、午後、佐藤研吾に幾つかのエリアの美術工芸品関連組合他とコンタクトするように依頼。コンピューター世代は人脈を頼らずに、情報だけで事をなす可能性があるかも知れぬと考えての事。

世田谷村スタジオGAYA日記 582

1、早朝、中里和人、その助手、小林澄夫、佐藤研吾、世田谷村に集まる。すぐに出発する。朝のうちに吉見の百穴に到着。昔、異形の建築取材で訪ねた「岩窟ホテル」「岩室観音」を視る。続いて隣りの「吉見の百穴」見学。更に近くの「黒岩横穴墓群」へ。だいぶん歩いた。

2、次いで「武甲山資料館」へ。この資料館に展示されている「資料」はマアこれは人間の恥そのものである。原罪と言っても良い。この辺りの事をよくよく考えてみたい。武甲山はkつて秩父の信仰の山であり、今は山そのものが廃棄物の如くに破壊されている。

3、今日の最終目的地「高麗神社」へ。吉見百穴にも朝鮮人労働者を使役した軍事工場の巨大な地下トンネルがあり、申し訳程度の朝鮮人労働者への植樹事業があった。古来、渡来人の問題は日本史におけるタブーの如くだ。

日記道楽2

世田谷村スタジオGAYA日記 581

1、昨日、予定通り日本全国13カ所ほどの知り合いに来年上海で予定されている日本伝統工芸他の展示即売会の情報を流した。
すぐに十勝の後藤さんより「北海道全域の伝統的物産、工芸を任せてくれるそうで頑張りたい」の返信があった。

2、今は昔、石山研で「町づくり支援センター」の活動をしたけれど、今になってアレが生き返ってくるやも知れぬ。

日記道楽

世田谷村スタジオGAYA日記 580

1、寒く曇天の日が続く。朝顔の花の姿は無い。朝GA・HOUSES SPESCIAL MASTERPIECES 2001-2015 03届く。わたくしの作品は2001の世田谷村だけ。ここ15年の作品=個別社会の住生活への価値観とも言うべきが、古い言葉だがカタログ化されている。敷地の条件の他にナショナリティーはほとんど見られない。

2、わたくしの作品のみならず恐らく仕事振りはこの本を介して視る限り、世界に孤立しているようだ。孤立主義のヒロイズムなぞは無いけれど、余りの状況(作品群)からの隔絶を眺めるにあんまりイイ気分ではない。世界中から55作品がピックアップされている。世田谷村にそれでも近いのはウィーン近くのヴィエンナに作られたゲオルグ・ドリエンドルのソーラー・チューブと名付けられた住宅だけである。

3、この孤立振りは何なのか?技術の普遍を目指した筈のモデルが余りの個別解の如くに見えてしまっている。他の大半の作品は技術に対する考え方は見え難い。デザイン表現世界に自閉している。編集がオカシイわけでなはい。視覚(ヴィジュアル)を優先した価値観からはこうなってしまうのであろう。

4、冒頭の小論文、二川由夫のマスター・ピース2001-2015が掘り出しモノである。簡潔に、余りにも簡潔にここ15年の世界の建築家による住宅作品を概説している。概説であるから更にそれを要約して紹介する愚は犯さない。「住宅建築はどこに向かうのか、未来を予測することは容易ではない」これが結語である。
建築の未来は巨大なカーブを描いて住宅建築を焦点とするのではないか。ただ今の如くの戸建住宅のライフスタイルではなく、住宅の中に様々な都市機能がビルトインされたミニマムな都市構成單位としてのそれでも住宅であろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 579

1、午前早く東京国立近代美術館保坂健二朗さん、アトリエ・ワン塚本由晴氏来所。寒かったけれど外の座で打ち合わせ。保坂さんは二度目の来訪である。ローマの国立美術館での展覧会について再び。前回はこの展覧会は辞退するとのわたくしなりの結論であった。再度来訪され、住宅を中心とする事の意味などを塚本由晴氏を交えて話し合う。寒い中を再度の来訪でもあり、わたくしも若い頃のかたくなさはすっかりとは言わず弱くなっているし、又もやイヤだを言い張るのも大人気ない。一度ハッキリ申し上げていたので、それで言いたい事は伝わったろうと考え、何らかの形で参加する気持ちとなった。

世田谷村スタジオGAYA日記 578

1、夕刻、上海の趙城埼さん来る。オーパで打ち合わせ。数件のプロジェクトについて。終了後中村明記さん参加。上海での日本伝統工芸展、展覧会に関しての協力要請。趙くんは東京での周恩来首相を偲ぶ会に夫人共々出席の過密なスケジュールで深夜便で上海に戻るとのことであった。

世田谷村スタジオGAYA日記 577

1、「磯崎新2020年祝祭都市構想」感想

11月21日東京、一般社団法人カルチャー・ヴィジョン・ジャパン主催、2020年磯崎新構想「祝祭都市」プロジェクトについて、もう少し考えを続行させたい。

2、84才の年齢で磯崎新は何故かくの如きプロジェクトを立ち上げようとしているのか?100才を前にして亡くなった磯崎好みの建築家フィリップジョンソンについて、磯崎がすすめようとしていたカタールのプロジェクトに関して、参加の打診をしたそうだ。常識的に考えれば、もう全てを成し遂げてニューキャナンのガラスの家隣りの、レンガ積みの、チョッと重い建築にデビッド・ホイックニーと二人暮らししていたジョンソンは何も砂漠の国のカタールの仕事なぞ断るだろうと考えるのが普通である。
「ヤルって言うんだよ。ジョンソンが」
と持ち掛けた磯崎新も驚いたようだが、嬉しそうでもあった。建築家は死ぬ迄仕事するのが良く似合うのかな。
当時、磯崎新はニューヨーク、MOMAの指名コンペを谷口吉生にさらわれて、「ジョンソンって人の考えが良くわからない」と不満であった。
デッカイ建築家たちは、そんな人間模様なぞ平気で踏みにじってゆくんだと、知ったのである。

3、フィリップジョンソンは世界の建築潮流を見極めるに敏であった。超一流の目利きであった。好き嫌いではない。そんな個人的な趣向とは別に、マア、重厚な歴史的流行、つまりは、はやりすたりの繰り返しとしての現代建築の潮目を見るにジョンソンは長けていた。と言うよりも大きな関心があり、それに対する、似合わぬとも言うべき情熱があった。ジョンソンくらい人間的過ぎる言葉、情熱とほど遠い人間は居ないように思われる。

4、ジョンソンがMOMAの新デザインを谷口吉生に任せた如くに、世界のデザインの潮流は動いた。グローバリズムの名の許の退屈極まる「美」、平坦な美の世界に浮遊したのである。その潮流は今にいたる。

5、84才の磯崎新、その年齢を考えずには「2020年祝祭都市構想」はあり得ない。建築を取り巻く社会(世界)の動向は、建築の動向と一体であるが、おおよその磯崎新の考えである。自分自身の創作の中枢もその考えに置く。自身の創作の方法も又、その自他の関係の鏡像として結ばれる。若い頃から、磯崎新はその様な社会との、建築が置かれる状況への相対性に充分過ぎる程に意識的であった。つまり自己の創造の源らしき、つまり古い考え方であろうが、その中心は空洞であった。驚異的に多い著作の数々はその空洞を埋めるべく意図されている。

6、岡本太郎の「お化け都市」になるたった一片のドローイングが残る。プロジェクト=イリュージョンと磯崎新の「2020年祝祭都市」構想の類似について述べようとして、クダクダと廻り道をしている。
岡本太郎の「お化け都市」の位置=場所は皇居と東京湾にまたがっていたと想うが、定かではない。「天皇」の巨大な不可思議と、日本の首都が首都であるべき中心であるの芸術家としての直観がなせる一片のプロジェクトと言うには余りに小詩の如くの作品で、アレはあった。植民地的様相の近代での繰り返しを連続させてきた日本と言う国家に対する、マア戯画とも言えよう一片ではあった。

7、岡本太郎には太陽の塔がある。磯崎新にはあのような代表作と呼べるモノが無いのが、不思議なのだが、変転を今も続けるそのキャリア、そして創作群、著作を含めての全体をそうだと、今のところは言う他はない。

8、どんな日本の近現代建築家も岡本太郎の「太陽の塔」にかなうモノは作ってはいないのである。そしてアレは国家がなせる業でもあった。国家的事業としての大阪万国博覧会の、今思えば中心であり、シンボルであった。それ故に「太陽の塔」は今も保存されている。あのデザイン=造型はアメリカの自由の女神の如くにキッチュとしか言い様がないけれど、しかも本格的に大衆の支持を得られたモノであったやも知れぬ不気味さを持つところが真骨頂であったし、今もそうであり続けている。

9、岡本太郎の東北、そして沖縄での写真集などの仕事を考えての事であろうが、磯崎新の岡本太郎に対しての追悼文が忘れられぬ。確か朝日新聞にかなりの長文を磯崎新は寄せていた。
要約すると、「太郎さん、あなたは何故、日本に固執し、愛し続けたのか?」である。
岡本太郎への追悼には磯崎新の真情があった。怜悧な相対主義者の顔に似合わぬモノがあった。余程、岡本太郎が好きだったのであろう。太郎には日本近代の芸術の歴史的な矛盾が溢れ返っていた。あくまでも澄んだ天駆ける哄笑があった。磯崎新の資質に最も欠けたモノがあったのである。磯崎新の笑いはアイロニー、パロディの類の知識人にしかわからぬ、そして受容されぬ体のモノであった。晩年の岡本太郎の道化振りには、わたくし程度の者でも眼を疑ったものである。駆け出しのタモリ程度にからかわれているのをTVで観るのは悲しかった。民法TVという大衆の鏡像に哄笑ならぬ、嘲笑されている風があって悲しかった。大衆的でもあろうとした芸術家の末路を見てしまった思いが今でもある。

10、磯崎新の岡本太郎追悼文を思い起している。そして、磯崎が岡本太郎の最期にあてた私信の如くは、今、そのまんま磯崎新の「2020年祝祭都市構想」に当てはまると考える。アノ磯崎新が何故にこんなに日本にこだわるのか?しかもその中心である天皇の居場所でもある皇居前の広 場に。
この構想は大サーカスの空中ブランコを想わせる。実現されても、されなくとも永く飛び続ける大役者の空中ブランコだ。
そして大きく実現されても、小さく実現されても意味は薄い。日本の大衆文化の上の空を飛び続けた方が良いのではあるまいか。

11、妹島和世は実に巫女の如くに出現した透明なスターでもある。卑弥呼は少し重苦しく呪術的過ぎるが妹島和世には無垢な創造力がある。世の男共の権謀術数、悪知恵の外に彼女は居るようでもある。

12、「2020年祝祭都市計画」は優れて演劇的構想である。演劇は音楽と同様に跡形も無く消え失せる。建築はすぐには消え失せぬという限界がある。アンビルト的な、しかも徹底的なリアライズが必須であろう。それは演劇である。
磯崎新について書いているとどうも長くなってしまう。やはり気になるのである。

世田谷村スタジオGAYA日記 576

1、夕刻虎ノ門ヒルズ5階フォーラムへ。「2020年祝祭都市構想プラットフォーム・2020」のお披露目の会である。磯崎新、妹島和世、浅田彰、名和晃平の講演と懇親会。浅田彰司会で磯崎メインスピーチ。妹島が補足スピーチ。雑誌等では一部の人々に知らせていたが、世に公表するのは初めてとの事である。磯崎新のスピーチはパリの都市構造と1990年昭和天皇の大嘗祭、1996年宗冬の呼吸(パフォーマンス)2015年中国天安門広場中国抗日戦勝利70年軍事パレードの映像を対置させることから始められた。何時の頃からは解らぬが、これは会場の聴衆には難解であった。わたくしにも磯崎新の意図が充分に解ったとは言えない。
磯崎新は用意周到の人であるからパリの都市構造(軸上に禁園、秘園があるのを初めて教えられた。)中国北京の都市構造と、ポイントは天皇の大嘗祭のパビリオンの布置計画あるいは祭儀の意味そのものとの関係性に関する創造力なのだろうが、もう一歩踏み込んでいただかぬと消化不良を起こしかねぬ。しかし会場の受講者とも呼ぶべき人々の余りの種々雑多振りを考えれば、踏み込まぬのも理ありかもしれない。恐らく、磯崎新が手慣れた建築世界とは全く別種の人々があつまっていたから。会場には驚くべき事に建築界に住人の姿はほとんど視られなかった。広汎な分化サロンなのか、それにしては自民党なぞも姿を店、懇親会では頭のスピーチをしていたりがあった。

2、自民党政治家は「皇居前広場という場所にかんしてはどうかとおもうが、オリンピック前後には全国で数百カ所のイベントを用意したい」と挨拶していた。前行の各種イベントを踏襲しようというもので磯崎新の意図とは異なるのは言うまでもない。

3、推測するに磯崎新の意図は世界の首都におけるオリンピックの革命なのである。自民党政治家が、それだけはいい当てていたが、まさに博覧会とオリンピックを合体させた如くの起機能を東京に、しかも皇居前に出現させようとするものである。

4、浅田彰は敢えて安藤忠雄構想と言うべきであろう、東京湾に緑の島を出現させようとの考えを評価していた。お台場と呼ばれる小島を緑で埋めるのは、美学的にはクリストのキャンバスで画然と輪郭を確保された島々のイメージから来ているが、これは良い計画だと思う。人が踏み込むこともない森林は今は皇居内にしかない。皇居の森は動植物昆虫にいたるまで野生生物の楽園であると聞く。つまり秘園である。安藤構想に秘園的発想はあるまい。もっと今に解りやすい環境問題、人間の為の環境という考えから東京湾の緑の小島構想は来ているのだろう。現代芸術の解りにくさはみじんも無い。

5、前回のオリンピック誘致計画に際して、安藤忠雄はお台場に巨大な土でおおわれ、線でおおわれた国立競技場案を提示したが、あの考えは何処に消えたのか?当時は都知事は石原慎太郎であった。良くも悪くもオリンピック誘致に協力な指導力を発揮した。そのバックアップもあり安藤は東京オリンピックのメインの施設であもある新国立競技場の案を作成したのであった。その案に対して福岡誘致に立った磯崎新は「アレは石原慎太郎の古墳である」と断じた。避難の側に立った時の磯崎新の言説は時に鋭く、又、大衆的でもありわかりやすい。

6、自民党を中心に首都でのカジノ構想が歴然として在るのは多くの人々がすでに知る事である。賭場は現代の祝祭の極だ。アートよりは大衆の支持も得られよう。

そんなに簡単には大衆の支持は得られぬ、の常識的な考えもあろうが、2020年オリンピック以降に日本が置かれる世界的状況(経済も含む)を考えようとするならば、健全なだけの文化、芸術を中心に据えての、謂わばオリンピックの変革なぞは”日本発”はあり得ぬだろう。

7、浅田彰は磯崎新の「2020年祝祭都市構想」を要約して「スタジアムは要らない、スタジオがあれば良い」とのラディカリズムだと紹介した。
その通りなのであるが、今や磯崎新の数少ない伴走者でもある(文化的領域で)浅田彰もそのあたりの事は十二分に知り抜いている筈だ。アーティスト名和晃平の提案は1950年ベルリン、オリンピックに於けるシュペアーによる「永の神殿」に遠く及ばない。むしろロスアンジェルス・オリンピック以降のアメリカ商業主義の匂いがある。つまり「永の神殿」の凄まじいサーチライトの巨柱群を卑弱にうねらせた装飾的モニュメントである。

世田谷村スタジオGAYA日記 575

1、午後TIMBER CREW小久保圭介、赤𡈽善尚両氏来所。寒かったけれど外のボロテーブルで打ち合わせ。

2、夕方、オーパで久し振りと言っても数日振りに中村明記さんに再会。
朝顔の話になる。中村さんのところの朝顔は今、沢山咲いているとの事。何だウチの朝顔だけが特別じゃあないのを知る。チョット、ガッカリするところが、まだわたくしもガキである。
夜は雑読の果てに佐藤健の「東欧見聞録」毎日新聞社、を読み直してみる。パレスチナ問題が今のパリのテロリズムに続いているのを知る。新聞記者の文章は簡潔明快で実に読みやすく、それ故に読み過ぎてしまう嫌いもあるが、何度も読み直してみると彼が深く気にしていた事が浮かび上がってくる。

世田谷村スタジオGAYA日記 574

世田谷村スタジオGAYA日記 573

1、でも、日記となると自分でも意識していなくってもやはり「建築」の事を記すことが多いようだ。専門家らしきのこれも又限界である。

2、昼間からテキーラとは危ないなと思いつつ、テキーラを飲み交わす。本日の用件であった、年内のアニミズムの旅=洞穴と社を巡るを話した。

3、写真家の中里和人にすぐ連絡した。こちらは本当に忙しい人間であるから、再びスケジュール調整が複雑となったが、エイヤと何しろ決めてしまった。わたくしは遊ぶのに忙しくって仕事するヒマも無い位なのだが、それなりに忙しいのである。かくして、中里、小林石山あともう一人の珍道中が始まることになった。

4、文学は建築と同じに、実に人間学でもある。世の先生方にその自覚は無くっても、一回、一回の講義にキチンとしていなくっても、その時、その空間でしか吐けぬ言説を吐いてもらいたい。今、建築も文学も低迷の極にある。国家からもうとんじられ、工学系の予算ばかりが肥大するばかりの末世である。

5、今は昔、小林さんの雑誌「左官教室」で藤森照信とわたくしが失言した。と言うよりも暴言を吐いたのである。すぐに○○組から発言取り消せの追求があり、わたくしと藤森照信は、すぐに、これはヤバイ、もしかしたら、、、の正体見たり枯尾花の弱気になって、すぐに謝罪文を左官教室に掲示したことだってあった。小林さんにはホトホト迷惑かけっ放しである。

世田谷村スタジオGAYA日記 572

1、パリでのイスラム国のテロリズムもあり、イスラム建築の深奥とキリスト教聖堂との同質と差異は古来戦争と呼ぶべきの源である。偶像否定と実物としてのアイコンの肯定である。モスクの建築はイスラムの世界観の表現であり、その中心は空虚である。バーミアンの巨大仏はイスラム教徒によって破壊された。その類似は山程に歴史に残る。イスラム教とキリスト教の根は同じなのに、類似同様の併存には至らず、破壊にまで行き着いてしまう。

2、自爆テロはベトナム戦争時の仏教僧侶たちの焼身自殺同様にそれぞれの観念を具体化する。それぞれの個体を焼失破壊するという、究極の人間という偶像破壊でもあるのではなかろうか。人間の生命そのモノを破壊するのだから。
自爆するテロリスト達は自己破壊の直前に神は偉大なりと叫ぶそうだ。自分の、それぞれの肉体が巨大な神秘とも言うべき内部世界を持つことを無視してまでの自己破損である。それぞれの人間の肉体が神同様の不可知を持つ現実が置き去りにされている。

3、このタイトルには女性評論家に一様に欠けている「笑い」がある。笑いは笑いの対象を笑い飛ばす力がある。現政権のツートップ、総理、副総理共に知性らしきの欠如は多くの国民が感じ取っているだろう。大丈夫かいな、と心の底でつぶやいているだろう。政治家に知性らしきは必要であるかの考えもあるだろうが、我々大衆の権力への批評精神は不可欠である。わたくし奴が言ってもせんない事は承知で、アホノミクスは今年の流行語大賞に推されるべきである。女青鬼が吐いたところに価値がある。早速、書店で求めたい。本体1100円の安さもありがたい。

4、虚偽申請の悪は悪として、建設の元請け下請けの責任の所在が問われることなくして社会に認知され、すでに役所(国交省等の)による幕引きが噂されているようだ。
傾く迄の現場の放置は当然元請けの監督責任者の責任でもあろう。

5、最近の元請け(ゼネコン)の現場管理能力は劣化しているように思う。若い管理者がコンピュータに表示される各種データ群をうのみにして、実物の現実に眼を光らせることが出来なくなっているのではないか。建築はデータに、つまりは書類に表示されるわけもなく重量のある実体である。元請けには元請けの大きな現場管理の義務があろう。それなくしては元請けの名に相応しくない。ペーパーマージンの下請けからの上前をはねる商社まがいになってしまう。この杭の問題は元請け、下請け一体で対処すべきである。

世田谷村スタジオGAYA日記 571

1、それぞれの人にはそれぞれの部厚い歴史があるものだ。オーパでは少なからぬ人間達と知り合いが増えている。わたくしは自然に身の周りに人が集まってくれる人間の器は無いから、やはり努力して人の輪を作るしかない。

世田谷村スタジオGAYA日記 570

1、建築を志す若い人間にとっては、すでに何年も前からイラク・イラン等に出掛けて、イスラム建築の至宝群を見て、触れることが不可能になっているが、更にその状態は厳しいモノになるだろう。
ホメイニ師のイスラム革命により、イランのパーレビ国王は国外に脱出した。その直前にわたくしはやはり身の危険を感じて、イランからシリアへ、そしてパキスタンへの旅のルートを変更して、テヘランに居た。飛行機でテヘランからカラチに飛ぼうと考えたから。イランから国外への飛行便はチケットを取るに困難で、三日程テヘランに足留めを喰らった。アミール・カビール大通りには戦車がゴーゴーと重苦しい音を立てて走行していた。テヘランには戒厳令が施されていたのだ。
夜、街を出歩くことは禁止されていた。夜の歩行者は射殺されるらしいと、外国人旅行者の間では噂されていた。
その時がイランの古都イスファファンやペルセポリス他のイスラム圏の遺跡に触れた最期になってしまった。強烈な体験であったがフラリと視た体のモノだったし、又、来ればいいやとも考えていた。
その、又、来ればイイヤが恐らく、もう二度と来ないのである。
記憶というモノは面白いモノで、もう二度と視ることも、触れることも出来ぬと覚悟すると思いもよらぬ細部までよみがえることもある。イスファファンを流れていた堂々たる河の水量の多さや、その流れる水の音までがよみがえってくるのだ。それよりも、なによりもモスクでの朗詠の声の響き。フライデーモスクの廃墟の静寂さ、までカーンという響きのごとくに耳に残っているのである。無音は心の中に音を発する。
青空に傾いた昼の三日月の白さや、建築やその廃墟までが、カーンと言う音を発していた。あれは虚空の音であった。
イランには名は忘れたがキリスト教徒も歴史的に存在している。そして隠れキリシタンのごとくの聖堂、すなわちモスクをも建立している。その内部には勿論眼に視える具象などは一切無い。しかしながらモスクでのコーランの詠唱や、内外のペルシャ文様の幾何学的アラベスクに、フッと他のモスクには感じられぬ、異音の如くを感じた様な気もした。イランに於ける異端とも呼ぶべき宗派の聖堂であるとの情報は持っていたので、そう感じさせられたのやも知れぬ。そういうことやら何やらがとても濃密に思い出されるのだ。
年齢からして、二度と視ること、出会えぬモノがほとんどになるだろう。私奴の未来ではあるが、それでも百聞は一見にしかずであるのは間違いない。
それが何に役立つだろうのケチな根性は無い。建築は驚く程の浪費の成果でもあり、それしか歴史には残ることが無い。

2、午後新宿で安西直紀さんに会う。ちょっとした雑談事。久し振りの南口大階段下の長野屋食堂にて。この食堂は安西直紀が発見しため名食堂である。

3、最近ますます、わたくし奴は小洒落にイタメシ屋やら、ましてやフランス料理屋なぞからは足が遠のいている。ワイングランスをこね回しての味なども、もうとてもじゃないがサラリと卒業した。

4、間もなく新宿西口には巨大なバスターミナルが完成する。新宿を起点とした遠距離、中距離バスの発帰着センターになる。昔フーテンの寅の第何作であったか、寅次郎が弟分のキヨシだったかと上野駅地下、と言うよりもプラットフォーム下の大衆食堂で別れるシーンがあった。上野駅には上野駅の上京夜行列車、そして落漫の北紀行の哀愁が漂っていた。新宿駅はやはりせいぜい半日くらいで走る特急あずさに代表されるような、それでも何だか軽いフォークソングの匂いが一時漂っていたが、今は通勤者、学生、買い物客の乗り換え駅となった。

5、足許の長野屋食堂は恐らく一変するであろう。遠距離バスは乗る人々のチョッとした、あるいは人生最期の別れの場所として、長野屋食堂は使われるのではないか、メニューにもジョニーへの伝言なんてのが出現するであろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 569

1、装飾というのもこんな風に考えてみれば、とても良いモノだな。

2、昨日は世田谷区北烏山の保育園建設予定地、および周辺の集会所で計画案の変更についての説明を続けた。こうした説明、およびそれによる変更の積み重ねが少しでも出来上がる建築の質を高めてくれれば、それにこした事はない。

3、世田谷村をつくってから、住宅を離れた。他にやりたい事が一杯あったから。しかし、ここに来て(この年になったり、こんな状況になったりして)、「住宅」に再び取り組み直してみるかと考え始めている。「住宅」は歴然とした固有の人間の資産であり、しかし出来上がればこれも又歴然とした社会的資産であもある。環境という概念に非ず、社会的資産であり、人間という個体の外に広がる世界にも属するモノでもある。解りやすく言えば、風景として。もっと解りやすく言えば、世田谷村の三階テラスに咲いている冬の朝顔の紫が空の青さをより引き立たせているような如くである。

4、ここまで書いてきて、ようやく具体的な一つの思い付き、すなわちアイデアを生み出すことができそうになった。「住宅」ではなくって、世田谷に作る保育園の美について。

5、個々の建築の美はプロポーション、マテリアル、フォルムによって生み出される。市街地に建てねばならぬ小建築=住宅はフォルムについてはそれ程期待することが出来ぬ。土地は狭小だし、独自なフォルムを求めても、廻りの既存建築群が、そのフォルムを埋め尽くしてしまう。つまりフォルムを視ること、体感することが困難であり過ぎる。つまり全体を認知することが個々の人間にとって難しい。
レオナルド・ダヴィンチはフォルムに描く、すなわち「モノ」の輪郭を描くこと、つなわち線描することを脱して、その周りの空気を描く描法を発見、実施した。いわゆる「朦朧体」である。スーラの点描法もそれに通じる。山口勝弘のストローク画法もそうだ。
日本画の伝統においても岡倉天心の指導のもと横山大観、菱田春草等によって試みられた歴史を持つ。

世田谷村スタジオGAYA日記 568

何とか頑張って良い展覧会にしたい。まだテーマに関しては充分な議論をしているわけではない。でも「住宅」が良いかもしれないとは話したような気もする。

世田谷村スタジオGAYA日記 567

昨日夕方、午後の区役所を交えた保育園建設の打ち合わせの跡、オーパで森繁建さん、浅草の飯田くん他と会食する。森繁さんには二件程の依頼ごともした。飯田くんは浅草老舗四代目の貫禄がついて、やはりデッカクなった。
人間やはり持って生まれた器量らしきがあるようだ。デッカイ奴は次第に大きな器量を身につけるが、小さい者はやはりいつ迄たっても小さいまんまが続く。わたくし奴はどうかと自分を眺めれば、 小さくなったり、すこし大きくなったりの繰り返しである。一定しないってのも困りモノですな。

世田谷村スタジオGAYA日記 566

1、昨日朝ロンドンよりTAKESHI HAYATSU, SIMON JONES両先生に率いられ英国人学生15名程が世田谷村見学。皆熱心にスケッチしたり採寸したりで実に真面目だ。

2、午後は京王稲田堤へ富士ソーラーハウスの大澤さんと。星の子愛児園の工事まとめについて理事長、副理事長と打ち合わせ。
夕方、オーパでTIMBER CREWの小久保社長と会い打ち合わせ。

3、今年の1月に亡くなった石井和紘を偲ぶ会の発起人依頼の通知が来た。さて、どうしたものか?

5、石井和紘の初期の代表作とされる「54の窓」を、今、わたくしはそれ程に認めない。むしろ石井の作品群が集中している瀬戸内海直島の町役場、西本願寺飛雲閣をもじった、和風ポストモダーンな作品を始めとする、日本の伝統様式らしきを明るく、ユーモアを交えて表現した一群は、将来再評価されてしかるべきであろうと考えている。今、直島と言えば安藤忠雄の作品群を人々は思い浮かべる。石井和紘の作品群に触れる人は少ないだろう。これも又、石井自身が招き寄せた酷薄ではないか。

世田谷村スタジオGAYA日記 565

1、建築を内装の側から考えて、実際にやってみるのもコレワ面白いのではなかろうか?そんなわけで「オーパ」に内装業、のみならず小さな建築業務を一緒に出来ぬかと思いついたのである。
我ながら、良く思いつく奴である。

2、夕方オーパに出掛けた。主人の大森くんと話して、明日夕方6時に社長と話し合うことになった。どうなりますか?

世田谷村スタジオGAYA日記 564

1、昨日は北烏山の保育園建設に関して敷地に隣接した方の家で、区役所3名、事業者の縁から2名、GAYA2名が訪ねて3時間弱話し合った。こうして一軒一軒の住民の声を聞くと、それぞれの家にはそれぞれの歴史があり、市街地に保育園を建てることの困難さが実に身にしみる。地域に保育園が必要だの謂わば大義が、個々の住民の生活圏の歴史よりも上位にあるとも考えられぬ事を、今度の計画の過程で思い知った。

2、そして新しく「オーパ」の人々との付き合いが始まっている。何か歴然とした目的があっての付き合いではない。しかし一緒に事を起こすのが好きな自分を知っているから、いつか何かを共にするようになるのだろう。これ迄もそうであったし、これからもそうなのだろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 563

早朝、昨日来の「建築の異形群」を書き継ぐ。冒頭に1970年代建築論らしきを加えたが、最後に「六角鬼丈自邸」を書き加え(日記558)て、取り敢えずは完了とした。
又、書き足したくなるのは眼に見えているのだがきりが無い。ディテールは少し手を入れることになろうが、今日中に国書刊行会へ送ることにしたい。大部の本になろうが、先ずは毛綱への花向けである。

世田谷村スタジオGAYA日記 562

小林澄夫さん主宰の青空結社の本

1、早朝から国書刊行会の本「題名未定」のゲラに手を入れる。古い異形の建築連載は毛綱モン太との併走でもあったから、毛綱が亡くなって今は手を入れることが出来ない。毛綱が手を入れない以上わたくしも手を入れぬのが道理である。
それで新しい草稿を書き加えたのだが、それに更に手を入れた。又、この日記558で触れた「六角鬼丈邸」を新しく付け加えることにしたので、その総量は大きくなりそうだ。
しかし、これで本の形も一新となるだろう。そう考えて頑張ることにした。昔のマンマの形で本としたりしたら、毛綱にも顔向けできぬ。

2、おまけに少し計りのビールが廻った小林さんは攻勢に出る。
「建築家テエのは年を取るとクン章欲しくなったりで品が無い人たちですね。」
わたくし奴が謝る必要なんて何処にも無いが、少し計り後ろめたい気がしないではない。建築家たちは潜在的な権力欲の持主であるから、図星なのである。

3、更に酔った小林さんは椅子の上に、スネ丸だしの片ヒザをつき
「偉そうな事言っても、結局クン章欲しいんだから、建築家は」
と追い打ちをかけてくる。
まるで雲ならぬ椅子に座った久米の仙人である。女色には全く興味無さそうなので、地上には落ちそうにない。こうなったら手の打ちようが無い。天上天下唯我独尊の仏ならぬ、仙人である。

4、あの人チャンと家に帰れたのかな。俺は足は強いと威張っていたが、口も充分に強いじゃネエか。

世田谷村スタジオGAYA日記 561

1、山口勝弘先生に電話した。わたくしが設計した「淡路山勝工場」は今、地元と永久保存の方向で動いているそうだ。
「なかにあった先生の作品群他はどうなるんですか?」
「アレ、NY近代美術館や、ロンドンのテートギャラリー他にみんな売れちゃった」
「ぢゃあ、先生今大金持ちじゃないですか」
「エ、ヘヘヘ、、、、」
「ここ引っ越すことにした。
京都へ行こうかとも考えたんだが、まだ娑婆の方がいいと思って、それで生田に引っ越す」

世田谷村スタジオGAYA日記 560

1、藤森照信に電話して、日本の岩屋(洞穴)神社に関して尋ねた。山岳信仰との関わり、つまりは懸造りの事例を中心に数例を教えてくれた。空にポッカリ咲いている世田谷村の朝顔を懸造りならぬ懸け朝顔だな。 
インドの石窟寺院を見て廻りの果てに日本の洞穴に辿り着こうとしているわけだが、この流れ、すなわち系譜をたどるのは深く面白そうだけれど、体力も必要そうで、頭の中で旅するしか無いかなと覚悟する

2、国書刊行会の『異形の建築』(題名は変える予定)に書き送った新原稿に手を入れる作業をしなくてはならない。六角鬼丈との二人展を来月秋にやれそうなので、この刊行との連関も考えたい。新原稿には毛綱、渡辺豊和、安藤忠雄の三名について触れたのだけれど、ポッカリ六角鬼丈が抜けていたので、是非とも書き加えたい。日記558に記した「六角鬼丈邸」をベースにすることになろう。

3、六角鬼丈、竹原義二と二件、良いモノを見て、それぞれに小エッセイをサイトに記した。これを少し計り続けてみたいと考えたが、次の心当たりが皆目ない。

世田谷村スタジオGAYA日記 559

1、早朝六角鬼丈自邸論を書きつけた。竹原義二自邸について書いたのも我ながら楽しかったが、六角自邸も実に書いていて面白く、又、刺激ともなり面白かった。これも建築家名冥利、役得である。又、勉強させてもらった。

世田谷村スタジオGAYA日記 558

六角鬼丈自邸-西荻窪

六角鬼丈に会う。

昨日は午後から夜にかけて杉並区西荻窪の六角鬼丈邸を訪問して鬼丈さんにお目にかかり、良い時間を過ごすことができた。六角さんとは一時期かなり濃密に付き合ったような気もする。若い頃、六角鬼丈はわたくしよりも数歩先を歩いていた。本人は嫌がるだろうがスターであった。何によってスターであったかと言えば、この自邸の設計により歴然とその才能の形を世に知らしめたのである。建築ジャーナリズム最盛期の頃でもあり、六角さんは今から考えれば驚く程にあった建築雑誌、振り返れば「ペーパー」の時代の歴然とした先頭を走っていた。ただし我々とは違って良い品格の持主であったから、自分で「俺は今、先頭に居るぞ」と大言壮語の一切が無かった。
我々と言うのは毛綱モン太、石井和紘、石山修武、そして六角鬼丈である。後年、と言いたいところだが、出会ってすぐに血気盛ん、と言うよりも早く早く成り上がりたいの気持が強かった我々は「婆娑羅」の名を冠したグループを結成した。気持ちだけは「メタボリズム」グループに対抗してやれとの意気があった。当時華の中の華であった黒川紀章、菊竹清訓のスター達に、背伸びしてでも立ち向かってやれのヤクザ言葉で言えば鉄砲玉みたいな連中ではあった。
婆娑羅の名は毛綱モン太の命名であった。毛綱はアノニマス建築と言うよりも、その概念自体の研究者(アカデミスト)であった神戸大学の向井正也の弟子筋であったから歴史趣味らしきが濃厚で、日本中世の婆娑羅大名山名宗全等の美学の傾奇好み、過剰過多の振る舞いを伴った生き方らしきをヨーロッパ、ルネサンスの人間復興、人知主義と結びつける才の持主であった。
何しろ、何かやって名をあげたいの気持が有り余っていたから、しかし状況の認識は皆たけていたから、そりゃいいぞ、それで行こうと相なった。
毛綱の知の形式とは違っていたが、頭の回転はそれよりも余程クルクル廻る類の知、言葉の才があった石井和紘は当然リーダーシップを取ろうと思案したが、毛綱の命名の妙には流石に異を唱えようが無く、婆娑羅鍋とやらのデカイ絵を描いて、その名を相対化させようとしたりもした。相対化は当時から磯崎新の持札であったが、石井はそれをより端的に茶化そうとしたのだった。
磯崎新のメタボリズムグループへの立場も、要するに茶化してやれの一語に尽きた。
アイロニー、パロディーの批評性とは突き詰めれば茶化してヤレ、笑ってヤレなのである。笑いの薄い茶化しは石井和紘の持味でもあった。その意味では石井は磯崎新の才質の形をより正直に、赤裸裸に所有していた。
4名のグループなのに、初めから集まりは二分化していた。六角・毛綱の形而上的傾向と石井・石山のいわば形而下的傾向とに。
婆娑羅大名群たらんとしたのに内状実体は小さなペアーが平氏源氏に分裂していた。その気質においてである。

アレから何十年経った。毛綱、石井は今はすでにこの世に居ない。毛綱の本性は「建築への想いを捨てることは出来ぬ。それならば君傾城の婆娑羅ゴト」であった。ヨーロッパルネサンスの渦中に身を投じたかった。が、地の利時の運に恵まれてはいない。それならば精一杯この極東の島国日本で婆娑羅事をやるしかない、であった。ある意味では歴史主義的な思考からの発想を身上としていた。
石井和紘は言説による建築設計の大衆化、すなわちエンターテイメント化にすこぶる付きの才があった。建築そのものの設計の質よりも、それをどう説明するかに関心があった。今の時代には無い才質の持主であった。
時は巡り、そんな才質の人影も消え失せた。婆娑羅の生き残りとも言えよう六角、石山はそれぞれに独立した。しかし毛綱の言でもあった、建築への想い捨て難しはまだ双方共に消えてはいない。

本日の六角邸訪問には幾つかの目的があった。旧交を暖めるの茶飲み話は二の次である。
第一は、これは同行の佐藤研吾、つまりは次次世代に託す意味もあり。インドでの大学にアジア学部、あるいは研究所設立に六角鬼丈の協力を得たいの願い。六角は親子三代東京芸大教授をあい務めるという、まさに伝家の宝塔の持主であり、実力の持主である。
父、祖父共に岡倉天心とは深い縁もある。その小史もあり、佐藤は、特に東京で、インドでの講座設立準備のためのセミナーを準備中であり、六角の意見をうかがうの、目的があり、わたくしはその後援者として同席したのである。
答えは?
六角鬼丈が今、その一端を担っている、岡倉天心、フェロノサが寄進した奈良、櫻井の大蔵寺弁事堂、改修の基金集めを佐藤研吾が若い者として下支えする。それならば考えてみても良い。である。
六角鬼丈も内外で重要な役職をこなしてきたから、話は形而上の世界だけではすまされない。それで、佐藤は勧進活動を喜んですることになった。具体の固有性の先に普遍の抽象は視えてくるの考えである。
第二は石山から六角へ。二人の二人展をやりたいの申し入れである。婆娑羅の影を引きずるのではなく、新しいモノのプレゼンテーションである。
もう面倒クセイよの答えになるかと予想して話は長引くかと覚悟していたが、コレはあっけらかんと「やってみるか」となった。
六角邸、旧「クレヴァスの家」スケッチは今日は出来なかった。六角邸は通りから少し奥まった小路の行き止まりにあり、その全景は断片しか見えぬ。スケッチは容易ではない。勿論、かの名作「クレヴァスの家」はしかと見たが、この内部のスケッチはとても難しいので先ずはお手上げ。肝心のクレヴァスと六角が呼んだスペースは直角が消えているので、透視図的なスケッチが不能であるので再び訪れて別の方法で描くしかないだろう。

しかし、そのスケッチ技術に関わる問題よりも何よりも、六角鬼丈のアトリエに置かれていた住宅の模型にわたくしは驚いたのである。六角邸はクレヴァスの家に同程度のボリュームが増築された。謂わば新旧の複合住宅であり建築である。この複合住宅の模型が良かった。複雑にして単純。新旧が融合して何とも呼べぬ体のモノに変化している。
旧クレヴァスの家はその劇的な裂け目と言う、シンボリズムが強いモノであった。強烈であるが、それ故に旧くなりやすい性格もあった。ところが大きな増築群が融合され、建築の姿は内外一変していた。
これが、勿論ある種の有機性と出現させている。そればかりではなく全く新しい「都市性」をも出現させている。それに驚いた。増築を含めたこの小建築は名作である。クレヴァスの家の先見性については更に述べねばならぬが、この増築と旧建築の実に知的な都市性は着目すべきである。
六角鬼丈自邸はいわゆる良き中央線文化の中心である中央線西荻窪に在る。中央線は高架であり北と南は駅舎により分化されぬが、やはり北と南はチョット何もかもが異なる。改札口を南へ出ると広場は無くすぐに細い路地裏状の飲み屋街が70メーター位2本奇妙な場所を作り出してる。
わたくしの居る京王線烏山にもそんなここは場所はあるけれど駅に直結していない。だからここは務め人は会社の帰りに寄りやすいであろう。酔ってノレンを出れば少しよろけたって安全に歩いてそれぞれの家に帰ることができるし、自由業に近い連中も行き帰り歩いて出入りできる。
案の定、打ち合わせ、見学を終えて六角鬼丈は「マア、チョッとやってゆこう」とこの駅前路地の旨い小さな寿司屋に我々を誘った。6・7名で一杯になるような、高級屋台である。この一角の駅前文化のグレードは我が町千歳烏山よりかなり高い。中央線文化の厚みを感じさせられる。
個人住宅の良し悪しは一軒の住宅に自閉される世界ではない。その周囲、間近にどんな風な飲み屋だけではない地域サービス空間が作り出されているかに大きく左右される。子供がいる家だったら、近くに良い幼稚園や学校があるか、あるいは家を構成する男や女にとっては家を出て、くつろげる場所が近くにどれ位あるかって事にもなろう。
その駅前の魅力的な小路群から、六角邸までは楽に歩いてゆける。
閑静なしかし、ほとんどが新しく建て直された住宅街の、通りに面して少し凹んだ路地状の空間の行き止まりに六角邸は建つ。路地には円い砂利をつめた小さな円形の何だかこれは不思議な造形物が5つ連続している。六角鬼丈のことだから、何やら由縁があるのかも知れない。奥の門扉はきれいなモダーン、デザインである。毛綱だったら石を挟みつけた妙な呪術的なデザインやらかしたろうなとホッとする。毛綱には随分まじない、その他で脅かしつけられたモノである。
増築部分は住み心地の良いケレン味のないデザインである。内に六角独特の「伝家の宝塔」らしきの家具が数点納まっている。六角でなければ「伝家の宝塔」はイヤ味にも通じかねぬが、六角がやるとイヤ味ではないのが不思議である。家系に誇りを持つ、先祖をうやまうは道教の基本だが、それをドーンと派手にやらかしたのが毛綱風であり、六角はなまじ誇らなくても良いレッキとした家系の歴史があるのでそれをケチなどはつけられない。うらやましい限りである。

複合住宅の模型は50分の1のスケール、勿論六角鬼丈の手作りである。旧いクレヴァスの家は木製で40年程の歳月が経ち経年変化して黒ずんでいる。六角本来の物神性が、それで自然に表現されている。新しい増築部分は白い紙で作られている。それで黒ずんだ旧作と白く清新な部分がオーッ、いいなと時間の表現(歴史)としてもそこに在った。これは六角鬼丈自身の又言わずもがなの「伝家の宝塔」だな。この模型一つでこれからの10年は喰ってゆけるぜと、わたくしは形而下的に直観した。
この小さな複合住宅の模型には中央線西荻窪のまさに都市性が表現されている。クレヴァスの家の平面図は土地の形状から、その非直角の透視図法的斜線が導き出されたと設計者本人が解説してくれた。その土地の形状そのまんまの斜線の反対側は設計当初は広い空地であったろうが、六角の建築家としての本能が直角に向けて開放したようだ。そして直角が主体の増築部が補完された。
黒・白の時間の対比と透視図法的斜線と直角とが複層しているのである。その融合と衝突の妙が得も言えぬ自動生成的複雑さを作り出している。建築の内と両者に囲い込まれた外が融合された。これが「都市性」の表現の素である。内の外にもう一つの内が生み出され、アノニマス的としか言い様のない全体が出現している。そして建築家本来の才質でもある「クレヴァスの家」の象徴性が実に複雑に秘匿されることになった。
六角邸の全体は街、すなわち外からは視えない。つまり、スケッチが出来ない。在るのは全て内の断片であり、その内にはキラリノ象徴性が隠れているのだ。都市はすべて内部空間の集合にならざるを得ない現実が自然に生成されたのだ。ここには神社もあり、小さな路地もあり、庭も体内化されて在る。象徴的に在る。その象徴性が、再び言うが見事にエレガントに無理なく表現されたのである。
今、現在の建築家がなし得る最良の可能性がここに表現された。恐らく六角は数十年の歳月、すなわち時を味方にしてこれを成した。時を味方にするのも又、建築家の特権であり、才覚そのものだ。

世田谷村スタジオGAYA日記 557

1、写真家の中里和人さんにお目にかかった。インドの石窟寺院の本を出そうかの相談である。アジアの窟院と大きく出たいところであるが、残念ながらその体力気力ともに今は無い。顔を突き合わせて話しているうちに言葉とは裏腹に、これは日本の窟院らしきをやらないと中里和人との仕事にはならないと考え始めていた。

2、藤森照信は住居の始まりは樹上だとの説を言っているが、あの説は心の御柱の諏訪大社の氏子らしき藤森の諏訪びいきのなせる技であるやはり人間の住居の始まりは洞穴なのだろう。

3、マア洞穴と言っても自然の穴には興味は無い。やはり人間がコツコツと彫った穴がよろしい。

4、大阪の堺市に伊勢神宮の原型じゃないかの説もある大きな高床式住居跡が復原されているが、その大型住居の周辺には更に原始的な巨木トーテムや穴蔵倉庫も在る。

5、トーテム(柱)と倉は集団生活に欠かせぬモノ以上のモノであった。
モノ以上のモノ=住宅以上の住宅=神殿である。

世田谷村スタジオGAYA日記 556

1、中国のクライアントがこれからは微細なモノの時代だと言っていたのを想い出す。小さな建築と言わずに微細なモノと言うのが中国人らしいところだ。
そんな体験が連続して、私奴も当然非常に受け身になっているから、ボツボツ本格的に微細なモノ、家具をやってみようかと考え、考えをまとめ始めている。

2、古きを引きずり過ぎても良くないけれど、引きずらなければ当然、自分を見失うのも、これは常識でもある。

世田谷村スタジオGAYA日記 555

1、昨日は夕刻新宿味王でグライターさんに会った。20年来の友人である。

2、彼とはまだまだ共にやりたい事があるので、当然、インドでの計画を話した。

3、そんな事のセオリーらしきもインドで聞きたいものである。彼の本格的なセオリーらしきはその類のものである。わたくしにも不可欠な人なのである。

世田谷村スタジオGAYA日記 554

1、本願寺の喫茶室で上山大峻氏にお目にかかる。印度ナーランダの森の計画等の準備について打ち合わせる。わたくしも上山先生も生きて眼が黒いうちに印度国立ナーランダ大学の森を視ることはできぬであろうが、だからこそ力が入ってしまうのである。

2、何故だか珍しく長尻になってしまい、12時過に店を出る始末であった。

3、朝顔はいかにと空を見上げればアレ花の姿はない。昨夜来の少し計りの風で飛ばされたかと一瞬の夢幻能の気分。よくよく見れば下の方に別の奴が一輪花を咲かせていた。
小さな子供を連れたお母さんが世田谷村のデクの棒地蔵の社をのぞいている。子供はそれこそ手を触れんばかりに見つめている。昨日も来た子供である。いい景色である。少なくとも子供はデクのボーに凄く関心(好奇心)を持った。明日も来てくれるかな。
朝顔の花の数を知ろうと三階に登ったつれづれに出会った風景である。

4、しかし、猫と朝顔は実にもって似合わない。
今は昔、ビクターだったかの商標になっていた犬が蓄音機の大きな朝顔に耳を傾けていたが、アレが猫であったら全く変な世界になっていただろう。
今日は夕刻にベルリン工科大学のグライター先生に久し振りにお目にかかる。楽しみである。昨日は台北のC.Y.LEE(李祖原)から「どうしてる?」の電話もあった。古い友は安心出来るから好きだ。

世田谷村スタジオGAYA日記 553

1、昨日、昼に近くの下田病院に緊急入院した長崎屋のオバンを見舞った。京王線間近の南の陽当たりの良い部屋にゴロリンと横になっていた。「イヤイヤ起きなくてかまわない」
「そういうワケにはいきません」
とかえって気を使わせてしまった。

2、アッ 突然想い出した。シラーズだった。
「シラーズのバラを見ずして、死ぬなかれ」もう行く機会も無いだろうが、マア、遂にシラーズのバラは見ずして、死ぬことになるだろうが仕方ない。見ても見なくってもバラはバラであると居直るしかない。つまり、今、わたくしの頭の中には見てもいないシラーズのバラが一瞬咲いたのである。マイク真木のバラが咲いたよりはちったあマシかも知れぬバラではある。脳内に咲く、朝顔ならぬバラの花くらい美しいモノは無い。
モノ忘れの激しい日々になってはいるが、こんな風に忘れの国から蘇ってくるモノもある。

3、GA JAPAN137届く。だいぶん部厚くなった。それが心強い感じがする。薄く薄く、パンフレットみたいになってしまうのかと心配していたがズッシリと重いのは良い。二川幸夫を継いで二川由夫が二代目としてキリ廻している。ペーパーは全て苦戦の真っ只中である。どう切り抜けるか、それが一番の見処である。

世田谷村スタジオGAYA日記 552

1、「アリャ」紅いノレンが消えている。どうしたんだと裏口からそれでも潜り込んだ。オジンが娘さんと居た。相変わらずビール飲んでいる。
「どうしたんだ。オバン外出か?」
「イヤ、入院しちまった。」

「エーッ、どうして」
「骨折だ。今日手術だよ」

2、「土煙モーモとする中、家に上がったら誰の姿もなくなってたよ。」助かったのはほとんど奇跡だった。
それだからと言うワケでもないけれど、オバンは心が澄んでいる。店の勘定はしっかりしてるけれど、欲がない。もう、一度死んだんだからって想ってるからなのかは知らぬ。オバンの心は戦後の廃墟の上に広がっていた虚空の青のように澄んでいる。恥ずかしながらわたくし奴は尊敬している。

3、小林さんは言う。
「もう、一ヶ月くらい人間と口きいてないです。うまくしゃべれるかもわからない」
「エッ、、、、」
この人物は何故だかマンモスにひどくこだわっていて、葉書状の紙片に手作りらしき活版印刷もどきでーーー「マンモスのかげをはなれて」なぞの文言を印刷したりしている。
要するに詩人なのである。

4、「電力会社から電気止められて、いきなり止めるんです。今は夜になると空は真っ暗でケイタイ、ほら光るじゃないですか。ケイタイで辺りを照らしてモゾモゾしてる。」
「金払うのも忘れたんですか?」
「面倒くさくってネ。ケイタイの電池切れたら、マッチすって暗闇ハッてます。」
「ウーン、たしか杉並区だったよね。すまいは。杉並の限界集落住民だね。」
「でも。今は猫が一緒にいるんで。野良にエサやってたら居ついちゃって。今も俺の帰りを待ってます。多分。野良がいつくと、その子供が生まれると親は家を出てゆくらしいです」
「ウーン、上品だね野良は。人間はみんな居座るからナア。それで世の中悪くなる一方なんだナア」
小林さんを、オヤと想ったのは、いずれバイカル湖辺りで死のうと想ってるって話を聞いたからだ。
「バイカル湖までの足代どうするんだ?歩いちゃ行けないぞ」
「死のうと本当に思ってるのかも、わからないんですよ。」
「イヤ、そちゃ死んだ方がイイ、バイカル湖で」
「やっぱり、そうかなあ」
で時々、小林さんがバイカル湖へ出掛けたかどうか、知りたくって連絡しているわけだ。

世田谷村スタジオGAYA日記 551

1、方向感覚、つまりはオリエンテーションは今の日本の人々には無縁になりつつある。自動車に乗ってもナビゲーションの案内に任せるまんまだし、普段の生活でも方向(東西南北)感覚に大きな神話性なぞとの関わりは薄い。
特に住宅の在り方から共有する方向感覚が去って久しい。方向感覚とはつまるところ、その土地に固有な神話性につながる部分がある。固有な神話性とは住む人、そしてそれを設計する人間の創造力でもある。その小さな住宅が建つ個別な土地、あるいは一番悲惨なのは土地区画に閉じたモノであっては、それは望めない。
日本の住宅から家相、方位学が消えて久しいが、大きな時間の単位で考えるならば、固有な場所での神話学を失っているのである。

2、フランク・ロイド・ライトの建築には平面のみならず、家具のデザインにいたる迄六角形の図像の枠組みが表れ続けた。他の近代建築の巨匠達のそれには表れていない。
やはり、それは住宅(建築)から神話学らしきが失せてきたに等しい。ル・コルビュジェはパルテノン(アクロポリスの丘)が自身を反逆者の道へと向かわせたと、のたまっているけれどアレは嘘だ。パルテノン神殿には一切の六角形は出現していないが、アクロポリスの丘は円形劇場の集合体である。六角形は円形に通じる。勿論、ギリシャ特有の円形劇場(半円形であることが多いが、同じだ)は世界の中心に通じる観念から生まれたモノである。世界の中心なる神話学から生まれた。

3、アメリカの実利的(実際的)精神から生まれたとも言われるR・B・フラーのドーム理論は数理学から生まれたと理解されているけれど、奥底には固有な普遍性の共通表現でもある神話学の産物でもあった。フラーの母親マーガレット・フラーはアメリカの超絶主義者群の一員であったし、R・B・フラーの「詩」には端的に宇宙の神話学への深い関心が表れている。更に解りやすく言えばR・B・フラーとルイス・カーンの親交は恐らく、神話学を共通の基盤としているからだろう。今、使っている「神話学」の言葉自体が古めかしくって伝わりにくいだろうけれど。ルイス・カーンの名作バングラディシュの建築などに表れている巨大な円形の開口部や、半円形の図像は円形の断片、すなわち六角なのである。

4、岡倉天心の六角堂も又、彼の言う東洋の理想である。固有の具体への関心、すなわち神話学への関心から導き出されたモノである。
それは天心がフェノロサと共に同じ六角形を持つ法隆寺夢殿に秘匿されていた執金鋼神のグルグル巻きにミイラ状にされていた像(神話)を解き放ったとされる、日本の表現芸術の画期にも実ワ、通じる。確かに「神話学」なんてのは「迷信」に通じる。メメズにオシッコかけると金玉がはれるに通じてしまうのが普通だろう。

5、しかし、日本という固有の場所最大のナゾである天皇、及び天皇制は迷信ではあるまい。我が国固有の歴史であり、神話学の一つなのである。

6、(GAYA)は初めて、八角堂らしきの茶館を設計した。又、大きな邸宅に八角堂を内包し、同時に屋根に三連の円盤状の天蓋を乗せた。中国政府の環境管理セクション(役所)から、この円形は環境になじまないとの指摘を受けたりもしたが、この一連の造形こそまさに中国の伝統の中枢だと考えての事ではあった。

7、先ずは「六角」の研究をしてみたい。
それで、形は人間に通じるとばかりに「六角鬼丈」さんに会いたいとて来週お目にかかる子にになった。

8、六角鬼丈の六角ならぬ「クレヴァスの家」はむしろ毛綱の諸々の建築の、実は先駆けであった。どうしても視ておきたい。又、六角鬼丈さんとは是非共二人展らしきを持ちたいと考えている。

>ときの忘れもの

世田谷村スタジオGAYA日記 550

1、11時過茨城県北茨城市大湊町五浦の六角堂にそれでも辿り着いた。再訪である。太平洋を望む海間近の六角堂は岩棚にヒッソリと建つ。早速スケッチする。

2、天心はここの波の有様に心ひかれたようだ。波は宇宙の波動そのままだの想像があった。晩年の天心はここに座し瞑想の世界に沈潜したのである。

『東洋の理想』によれば天心は平安期の音楽(和楽)にも深い関心があったようだ。能楽を産み出す直前の人工の音である。天心の実に抽象的ではあるが、時に具体の固有性とも言える普遍に満ちた言説が、ドドーン、ドドーンの波の繰り返しと融けて、何となく解ったような気になったり。これが具体の妙であろうか。解ったような気にさせる処が凄いな。森羅万象全て具体の無限の集合であるのを、これも又、解ったような気にさせる力がある。具体の固有は。及ばずながら、そんな事を様々に天心は想っていたのだろう。

3、パルテノンの白に圧倒されてきた日本近代の建築の色とは全く異なるところも面白い。天心みたいな観念の壮大さは、その大きさ(スケール)なぞは気にもとめなかったであろう。

4、天心の六角堂は実に小さく、しかもその色、素材、質量は多様であった。会津の栄螺堂の六角堂も創建時は同様の色彩であったろう事は東京に残る栄螺堂の色彩からも想像できるが、この深い朱色については考え直してゆきたい。

5、気になっていた小さなストゥーパ状の土マンジュウである、天心の墓へ。スケッチする。この墓はストゥーパである。平櫛田中デザインである。秘めやかな木立ちの中に在り、海に面した六角堂とは対称的な妙を持つ。近代の墓所として最良のモノの一つである。

6、どう転んでも届かぬ巨人をしのぶのは何か痛みも感じるモノである。

7、日没間近に西光院に辿り着く。

8、大工職人が丹念に作ったモノと言うよりも半農半職の人々が、それでも一生懸命に造り上げた建築である。すぐ脇に巨大な神木二本が立ち、これは良かった。この今は神木に添わせて建立したのではないか。

9、お百姓さんのウデの立つ者が彫ったと想われる寄木造りの、しかし6メーターはあろうかの立像であった。見よう見まねの徒手空拳で気持だけで彫り上げた姿が良い。

10、死んでもらっては困るので、それでも走りに走った。

11、10時国立近代美術学芸員、国際交流基金の2名、スタジオGAYAに来る。ローマの美術館での展覧会への出展について相談するも、その全体の骨組が不可解で気乗りせず。結局辞退させて頂くこととする。

世田谷村スタジオGAYA日記 549

1、目覚めて、起きようと思ったが、体が動かぬ。左脇腹が動くとギリギリと痛い。ほとんど絶叫するくらいに。

2、昼迄、それで寝床から離れられなかった。それでも意を決して、ヒイヒイ言いながらなんとか起きた。恐る恐る歩いてみるが、歩くと時に脇腹に走るが、何とか歩ける。

3、ケイタイもメールもやらぬ化石人間はこんな時に打つ手がない。

4、昼過ぎ、オーパにようやくたどり着くも、当然店はまだしまっている。閉まってるシャッターをジイっとにらみ、長崎屋へ廻る。脇腹は痛むが腹は減るので昼飯は食いたい。

5、内臓からの痛みだったらコレワ即刻入院だぜと、それも解る。

6、満身創痍のオバンに飯を頼み、身体がイテエといったら、オジンの常備薬だと言って病院支給の経皮吸収型鎮痛・抗資症剤をくれた。何のことは無い今風のバンソーコーのデカイ奴である。
おまけにモモさん(大桃が本名)がこれやるよと鎮痛剤ワンカプセルくれた。筋肉痛にキクのかと言ったら、飲めばわかるだろうとの事であった。

7、その後同窓会へ行くかと試みたが、コレはやっぱり不安であったから、入手した電話ノートで同級生のTへ連絡。「お前、どうしたんだ」「イヤ、ハヤ、やっぱり動けネエ」と一応連絡だけの義理をはたす。

8、人間すこし計り病んでコワレかかった方が円満な人格になるようだ。

9、長崎屋にはお世話の人情があり、オーパには淡白な社交性がある。双方共に奥深いのだろうが、往復してたら身体が持たぬだけは確かである。

10、オーパの名は開高健の本から来ている。この人の中心はメランコリアであった。おそらく家にあんまり居たくなかった。それで世界中釣りやら美酒を求めて放浪した。豪快なようで、むしろ弱かったんじゃないか。老子、荘子の本もようやく読了間近。彼等の思想は「弱さ、小ささ」の肯定である。反資本主義だな。

世田谷村スタジオGAYA日記 548

1、昨17日夕刻北池袋の日本キリスト教会豊島北教会とGAYAの協同主催の映写会には多くの人が集まってくださった。小さな教会の小ぢんまりとした会であったが良かった。「100,000万年後の安全」のタイトルでフィンランドの地下岩盤に深く洞穴を掘り、核廃棄物を埋設するという計画のドキュメンタリーだ。この洞窟には誰も入ってはならぬの冒頭のメッセージが全てを語り尽していた。まさに今の、そして未来への黙示録である。
急用があったので後ろ髪を引かれる思いで途中で抜けた。

2、変な事は何もない筈であったが、小変事が起きてしまった。

世田谷村スタジオGAYA日記 547

杉並の中瀬幼稚園園長井口佳子さんより『子どもは風をえがく」長編ドキュメンタリー映画の案内をいただいた。
10月24日(土)まで、JR中央線阿佐ヶ谷北口3分、ラピュタ、及びユジクで上映。
問い合わせは「中瀬幼稚園」03-3395-3636

今日は夕方に北池袋の「豊島北教会」でマイケル・マドセン監督「100,000年後の安全」上映会がある。

世田谷村スタジオGAYA日記 546

世田谷村スタジオGAYA日記 545

1、ネコオヤジも猫もモヘンジョダロが姿を消して寂しいことだろう。

2、「土地の値段も下りはしないから、一気に100万円千円札に変えて、バアッと神楽坂に繰り込みましょう」
「繰り込んでどうするんだ」
「マア、そう言われたって、金持ってともすぐに死んじまうんだから、千円札バラまくだけですよ」
「俺は神楽坂はいかないよ」
「センセイだってどうするのよ、あんなデカイ家建てちゃってさ、土地だって持ってあの世に行けるわけもネエのに」
「でも、神楽坂にはパアッとしに行かないよ」
「固いこと言っちゃって、知らないよアタシ」
「知らなくても神楽坂には行かない」
「ぢゃあ、仙川のキャバクラ行きましょうバアッと」
「俺はバアッとはしたくない」
「どうせ、死ぬの解ってるのに、何すんの」
と、言われて、口ごもる昨日でした。

3、鈴木博之も言ってたけれど、
「でも俺は字を書くのが好きなんだ」
に尽きるであろう。
わたくしの、日記もそれに尽きるだけだ。描いて、書くのを止められないだけ。

4、覚三天心の終の棲家は大洋の波しぶきをあびる六角堂であるが、あの巨人も又、深い無を実感する毎日だったのか?

5、サイトにベイシーの菅原正二から贈られたカウント・ベイシーの音楽をUPしている。クリックすると音も出る。何の為かは知らぬ。でもそうしたいのである。

6、天心の六角堂再訪は来週になりそうである。

世田谷村スタジオGAYA日記 544

世田谷村スタジオGAYA日記 543

1、昨日書こうと考えていた、ここ3日程の世間的には連休の日記を書こうとするが、これと言って記す事も無いのに気づき書かなかった。と言うより書けなかった。かと言って中断する程の事も無いと今日書いた。一日一行とかたった数行で足りてしまうのに驚く。そのぶん「プーランの人々」が進んだのにも考えさせられた。
日記はほとんど無意識の闇の中で自動的に記すこともできる。「プーランの人々」は一切の無意識はない。更には近い将来実物の世界に落とし込もうとしているので、それへの計画論の如くでもある。つまり日記より数段難しい事をしている。

2、このところ老子、荘子を読みかじっている。J・L・ボルヘスが度々触れているからだが、父も祖父も漢文学者であったから、やはり老年にはDNAに回帰するのかと考えたり。複雑な想いもある。
老子、荘子とギリシャ哲学者群との違いはある。老荘は平易に平易に語ろうとするが、アリストテレス、ソクラテス等は平易なことをよりムズカシク言い廻そうとする。それが考えの根元のところから異なる。それはラテン語の表音文字と中国の表意文字との違いでもあるだろう。

3、コイツ等はまさに荘子の蝶の如くの世界を日々生きてるのであろう。猫の世界は孔子の言う、礼、思、義の世界は全くない。ヨーロッパの個人主義とは違うのだろうが、明らかに老荘の世界の住人である。勉強しないでその世界に居るとは、学んでも、学んでもわからぬに近いわたくし奴よりも余程エライのである。簡単に蹴飛ばしたりは避けたい。
ペルシャ猫らしきは種として在るらしい。ギリシャ猫と言うのは聞いた事がない。猫はギリシャでも育っているのであろうか。

4、コイツはいまだに眼に険があり、油断できぬ。その点白チビは少なくとも人間に害をなすことはなさそうだ。昔、小説家の深沢七郎が、小説家の小田実だったかに、ギリシャの女性の性器はタテに割れてなくて、水平に割れているらしいがと真偽をしつように問い質したそうである。そんな事もあって三島由紀夫は深沢は本格的に知識人とは異なるルーツを持つと言った。ギリシャの猫と世田谷の猫の外見はほとんど変わりはしない。性器も同じ仕組みを持つであろう。しかし、ラブ、なんとかの怪しい商品名を持つ人工猫の白チビならぬ、保健所で兄弟7匹と共に消却されようとしていた間一髪の野良猫黒デカは、まさか建築と同様に源をギリシャに持つという諸説(今も本質的に建築教育ではそう教えている)からは自由であって欲しいモノだ。

5、さて、昨夜は仕上げたフォルクスワーゲンの犯罪のドローイングに、それなりの小言談を附してから仕事にかかることにしよう。
このドローイングばかりは説明を要する。ドローイングの下敷きになってしまった渡邊大志のドローイングもヨーロッパの遺跡の如くに埋まってしまっている。

世田谷村スタジオGAYA日記 542

世田谷村スタジオGAYA日記 541

世田谷村スタジオGAYA日記 540

今日は何とか時間を作って「プーラン族の人々13」を書き進めたい。12において何故プーランの人々なのかを短く要約して記した。13は始まり部分のクライマックスとも言える。トーテム=世界樹との遭遇である。スケッチを添えるが、本当はこのスケッチ一枚で良いとは思うのだが、それではあまりにも不親切に過ぎる。このスケッチは出来の良し悪しにかかわらず実に一心不乱に描き続けた。聞こえていたであろう樹々のざわめきや鳥の声も一切耳に入らなかった。似たような体験を想い出そうとしているのだが、思い当たらない。プーランへの計画のそれ故に中心になるだろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 539

世田谷村スタジオGAYA日記 538

中里和人さんより新写真集「水のトンネル、岩のトンネル」送られてきた。
ワイズ出版3,800円+税の、これは見事な写真本である。中里和人さんはこれ迄にもこの類の本の出版を続けてきた。失礼ながらワイ雑物の多い写真本であった。が、一転この本はテーマも明快であり、表現のモヤモヤした神秘とがあいまって素晴らしい。テーマを絞り込み針の穴状にいじめたので得られた表現のクオリティだろう。
中里和人のこの写真評とインドの初期窟院で体験する感触らしきは極く極く近い。中里和人にインドの窟院をとらせてみたいなと思ったり。

世田谷村スタジオGAYA日記 537

「竹原義二自邸について」

1、昼をだいぶん廻って梅田より阪急宝塚線で岡で下車。竹原さんに会い竹原自邸へ。
竹原さんの作品の中で一番良いの見せてくれと生意気を言っておいたので、やはり自邸だとなったようだ。
「竹原義二自邸」は実に良かった。内外が融通無碍な空間の連続の建築であった。わたくしの世田谷村とは趣が全く違うが、実はわたくしが自邸を考え始めていた頃のオリジナル案に近いモノであった。
わたくしが当初考えていたカナダのバルーンフレーム納屋作りに近い木造住宅であった。毛綱の反住器ならぬ、毛綱の地であった「北国の憂鬱」の小屋作り、ニシン漁の番小屋の如くである。しかもわたくしはバルーンフレームの巨大な奴をカナダから移築しようと考えていたのだ。つまり古びた納屋を作ってみようかと。
竹原義二自邸は築14年になるそうだ。おそらく新築当時から古びていたのだろうと思わせる。そこが中枢である。
100m2の土地にはギッシリと建つ家である。土地の形状は約6M×16Mくらい。建築の内外がとても入り組んで有機性を帯びている。沢山ある部屋は大方巾が3.2m程であり、これはスタジオGAYAの内巾とほぼ同様である。竹原さんは材木の大径にこだわった。210mm-180mmの大径の、しかも紫タン、黒タンの類の広葉樹材である。これ等の材はカンボジアでポルポト政権が経済力の基としていたので、わたくしも知っている。
大径の木材を使用した住宅に関しては、建築史家渡邊保忠が吉阪隆正の住宅について、「M邸の意味するもの」を今は亡き国際建築だったかに書いていたのを記憶している。大径の樹木、木材が使われなくなったのは、森林の力が衰えているからだ。日本には古来大径の樹木が良く育ち、育てられていた。重源の鎌倉期の大仏殿再建の折には山口県で得た巨木を二本中国に贈り届けたの記録がある。すでに中国大陸では森林が衰えていたのを知る。竹原自邸の大径の木は南洋材である。一部はアフリカあたりから来ているのではないか。アントニオ・ガウディのカサバトリョやグエル邸の内部に使われている木材は恐らくスペイン産のものではない。アフリカ産のモノではないか。それ故に内部空間は濃密なのである。竹原義二の頭の中に大径の木材の世界地図があったかどうかは知らぬが、紫檀等を使うことにより、特殊であり、社会的普遍性に欠ける等の通俗な意見があるとすれば、それは実に愚劣である。
この大径の南洋材の使用は、竹原のその手触りへの傾倒を超えて、実に通俗の普遍をも超えたのである。普遍を超える特殊すなわち建築の本質である材料の内に存在するコスモロジーの感得である。
中国人はその家具の高級なモノに古来、紫檀、黒檀、紅檀を多く使ってきた。その総量は住宅等への使用量をはるかに上回るのである。今、現代でもカンボジア・ミャンマの広葉樹は実に貴重品であり、その流入ルートは複雑極まるものだ。巨利を得るモノでもある。
日本独自の様式である数寄屋は小西行長の朝鮮出兵時に朝鮮半島の農家の小屋作りらしきが持ち帰られたのが始まりだとも言われる。竹原義二自邸は大径の外来木材を多様した。
これも又、数寄屋である。その構成的な美学は数寄屋風ではないあが、明らかに自然との融合を目指した全体として堀口捨巳の非都市的なる数寄屋に他ならぬ。日本の茶室はか細く、洗練を目指したが竹原の数寄屋は図太く、ある種の空間の骨格を目指したのが独自なのだ。
この独自性は本格的なものである。それ故に人々からはそれ程簡単には理解され得ない。
空間は素材に支配されている。おおきな空間は除去されており、あらゆる「片隅」と言うべきの集合である。勿論、密閉された箱状とは遠く異なる。ガストン・バシュラールの「空間の詩学」と名付けられた書物が、そのマンマ立ち上がったようなモノだ。そして全てに自然への思考が色濃く表現されている。
地下、天井裏、階段、暖炉、大と小の弁証法その他諸々の総合的断片である。通俗モダニズムのボキャブラリーは何処にも視ることが無い。
この住宅は大きく見逃されてきた。歴史的価値を。

2、車で芦澤竜一事務所に向かう。もう一人芦澤竜一さんも大阪の若手として上海プロジェクトに参加してもらおうと考えている。

世田谷村スタジオGAYA日記 536

1、18時半より「ひろしまハウス20周年記念の会」始まる。100名程の人々の会。平岡さんの話は現在の政治に関する考えもきちんと含まれ、相変わらず本来のジャーナリストの風があった。続いてわたくしが30分強の話。予定したモノとは異なる話となった。最後に広島ハウス副館長より図書館の活動状況が報告された。どう使われるかが最大の関心であったからこの報告にはいささかホッとした。カンボジアの子供たちに絵本を作り続ける活動がなされている。とても良い図書館が三階に作られている。
副館長の話ではプノンペンの市民の意識もここ10年で激変し、ポルポト時代の悲劇性は何処かに消えて、子供達は何と受験勉強に明け暮れるという、日本と変わりがない状況のようである。ひろしまハウスのあるウナロム寺院はその真っ只中にあるのだ。

わたくしの話は平岡さんがフッともらした言葉「石山さん、ひろしまハウスは完成させずにズーッと作り続けた方が良いよ」を巡って終止したのだが、今の三倍くらい大きく高い、まさに塔の如くにしておけば良かったにつきる。そうしておけばきっと今だに未完の状態であったろう。周囲が皆ピカピカの超高層ビルになり、その中に日干しレンガの場があるなんてのは実に理想であったろう。

2、随分、カンボジアもプノンペンも変わったな。東京都変わりのないプノンペンにはわたくしは全く関心がない。

3、まさか日本人と同様な歴史健忘症になっているわけもないだろうに。歴史は忘れられると必ず繰り返す。

世田谷村スタジオGAYA日記 535

昨夕京王稲田堤厚生館にて近藤理事長他幹部の方々とお目にかかる。世田谷区北烏山の保育園建設のスケジュールについて。終了後近くのレストランで食事会。21時GAYAに戻り明日の広島行の件等の段取り。

世田谷村スタジオGAYA日記 534

10月はたそがれの国だったかはレイ・ブラッドベリーの小片アンソロジーの名篇であった。月の表面を遠く視て、そこに鏡像を感得するは日本の叙情詩人の得意とするところであった。ブラッドベリーは何と本が一冊一冊燃やされて消えていく風景を視て描いた。秦の始皇帝の焚書坑儒の歴史を知っていたのだろうし、ナチスドイツも同様な事をした。
今の「本」の悲哀とも言うべきを予知していたのかも知れぬ。

昨日は昼頃西武高田馬場線花小金井へ。吉元医院で定期検診を受けた。はるばるこの病院に通うのは、気に入っているからだ。吉元一族で営んでいるのだろう、老先生若先生共に人格者で医者の臭味が無い。地域に密着している。待合室で手に取った「老荘とその周辺」古代中国医学の源流および道家・道教との関わりが滅法面白い。看護婦さんが呼びにきたのに気づかぬ位に一気に没頭した。若先生の診療を受けた後に是非この本を入手したいと考えた。部厚い本であり、とても待合室で読み切れるモノではない。高価な本であったが老先生は譲ってくださった。金は不要だという。まずいなと考えたけれど、ここは御好意に甘える事にした。
老先生は一方で漢方医薬の名医として知られている。帰りの電車でも読みふけり、そのまんま昨日はこの本にドップリつかった。こんな事があるから日々は新である。今、すすめようとしている仕事の入口としてピッタリの本であった。勿論、この本は老先生吉元勝治の最新の著作である。今年で87才になられる。イヤハヤ、わたくしなんぞはまだ若僧である。
先生はどうやら、1973年湖南省長沙の馬王堆古墳から出土した「老子本」に刺激されて、この本を書かれたそうである。又、1993年に湖北省莉門市郭店村の小型楚墓一号から発掘された竹簡(竹に書かれたモノ)老子本にも触れられている。本の表紙に大きく甲骨文があるのから推察するに老先生は漢字の歴史にも大きな関心があるようだ。本の最終部(まだ読めていない)に医学関係甲骨文字と蒙字の項がある。早くここまで読むのをたどり着きたいものだ。
先生の著書は多く台湾、中国、韓国などで翻訳出版されているようである。
まったく、良い人の良い本と待ち合い室で巡り会ったものである。
J・L・ボルヘスの有名な「荘子の蝶」も登場する。医学者による荘子の蝶はボルヘスの手になる蝶とはいささか趣を異にする。
それが面白い。
まだまだしらねばならぬ事は無限に近くあるようでボー然としかねぬが、メゲずに行こう。

世田谷村スタジオGAYA日記 533

1、昨日は午後五月女くんがGAYAに来て打ち合わせ。上海で発売予定の動画DVDの始まりの4分間を見る。なかなか良く出来ていた。動画と実物の設計との関係についてはまだ良く分からない。でも未知の重要な関係があるにちがいないの、今のところは思い付き程度があるに過ぎない。しかし五月女くんとは石山研究室時代に6本程の動画を作って来た経験がある。楽しい体験であった。その結論だが、動画=コンピュータによる個人向け映画作りは絵画、彫刻、文学、演劇といった現在の芸術分野を変えてゆく可能性があるにちがいない、であった。
動画のプリミティブなモノが漫画であった。よくよく考えてみればコレワ建築設計の不自由に似ている。本、ペーパーメディアへの最終商品形態が不自由きわまるので、その原質としての作画、ストーリー制作も極めて保守的な現場を持たざるを得ない。多くの最終商品を作るための膨大なマテリアルを作らざるを得ない。建築設計の現場と同様である。
我々が今作ろうとしている動画は動画としては初歩的なモノにしか過ぎない。しかし創作の現場としてそれをとらえ直すならば別のパースペクティブが浮かび上がってくる。

2、今美術館はそれ程面白くない。何故なら動かぬ死体としての作品が展示されている事が多いからだ。創作者の制作の射程、特に発想法、その千変万化がわかりにくい。作者の頭脳の中を覗き込むような事ができない。
それが出来るようになれば、そんな展示方法が開発されれば美術館は変わるであろう。小さな劇場、動画劇場の集合となる。
なんて事を朝方に書付けているが、字を書くスピードは頭の内でうごめく字体ならぬ、アニマ(生体)の如くの変化のスピードにはとても及ばぬ。頭の中の、恐らくそれは気持ちの中の、と同義であろうけれど、その動きは一瞬一瞬と言って良い程の火花状のスパークなんだろう。誰の頭の中、頭脳ではそんな事がおきている。

3、その不自由さにこそ、わずかなりともそのチャンスがあるのではないか。五月女くんと共に年内の作業を楽しみたい。

世田谷村スタジオGAYA日記 532

1、正橋孝一さんは最近の温暖化で畑仕事に出る期間が年に2ヶ月は延びたと言っていた。変わらぬのは花の色の鮮やかさだけだ。世田谷を8時半に車で出て12時過には「開拓者の家」に着いた。20代の終わりからほぼ10年間通い続けた開拓者の家の工事期間の道路事情と今は高原の下迄は激変した。

2、途中横川のサービスエリアでコーヒーを飲んだ。昔のカマ飯荻野屋の姿はかすみ、高崎のダルマ弁当屋が幅をきかせていた。わたくしはダルマ弁当よりカマ飯が好きだが、当世風の小洒落たマヅイ、コーヒー屋で、キチンとマヅイ、コーヒーを飲んだ。「なんで皆さん、こんなヒドイもの飲むんだろうね」とつぶやいたら、佐藤が「コーヒーカップで飲むよりも、このロゴマークがついた紙コップで飲むのを好むからじゃないでしょうか」と理由知りをぬかした。疑わしい奴だ。
「昔はね、横川は鉄道がアプト式っていう急傾斜用の歯車付きの奴に切り換えたんだ。それでその切り換えの時間待ちにカマ飯が出現した」と歴史をひとくさり。
「へえ、知らなかった。」
「昔は東海道線だって浜松で電気機関車から蒸気機関車に切り換えていた」
と、言い聞かせても知らんの顔付きでありこの若者は鉄道と言えば新幹線世代である。そう言えば若者はすべからく新幹線ボディみたいなスラリとして面白くも何とも無いのがイヤだ。

正橋孝一さんは少し老けてきた。相手もわたくしをそんな眼で見ていた。

4、「開拓者の家」の内部、外部ともハヤ40年程の歳月が積み重なっている。昔からここは働く家であった。

5、南のステンドグラスの輝きだけが昔よりも新鮮である。光は古くない。日々新しいのがわかる。中は鉄だらけだが、それなりに手アカで古びている。
外に出て、正橋孝一さんオリジナルの油圧水平ポンプ駆動のマキ割りマシンを見る。
この人物はむしろヘンリー・デービッド・ソローなんかよりも余程モノ作りへの本能と好奇心の持主である。

6、恐らくは中国の山岳高地少数民族プーランの建築も基本的にはこんな風なんだろうと思う。私的な歴史も又、グルリと一巡するのである。「開拓者の家」が持つニュアンス、(決して表層のそれではない)はプーランのみならず、インド・バローダでのこれからにつながるモノがある。バローダのみならずインドの現代のキシミ、そこに在る人間達、大矛盾の赤裸裸さである。

7、帰りがけに畑と林の境界に、まだ置かせてもらっている「神官の間」の、マア言ってみれば遺跡のカケラでもあるコンテナを見る。コンテナの一方の壁につけた車のハッチバックウィンドウも錆びてはいたが健在であった。コイツを舞台に使ったら凄いだろうと考える。物神ですな。

8、正橋さんからは一農夫として、コンピュータでどんな風に必要な情報を得るかの見本も示していただいた。シンガポールから薬とか、あるいは農機具の(沢山の耕運機を含む)修繕に必要な小さな部品とかの入手方法である。今、世田谷村での第4期工事にも役立てられそうである。お元気で。又、会いたいものです。

9、日本は実に狭いなあ。
19時世田谷村に到着。岡倉天心の六角堂がいきなり丸い開拓者の家訪問となった一日であった。

世田谷村スタジオGAYA日記 531

1、「絶版書房 アニミズム周辺紀行8」の残部が少しばかりとなってきたので、6,7,8三冊合本5000円で在庫整理する計画も今日立てよう。

2、六角堂が一転してまあるいパイプの家になったのもいいんでないかい。今は菅平高原は良い季節だろうし、孝一くんは今はソバはダメだと言ってるが、うまいお新香はいただけるのではあるまいか。