I
2016 年 5月
1、終日フクシマ計画の段取りで過ごす。
2、フクシマ計画の若干の資料集まり始める。
3、夜中になるとナーリさんは独人でレンガと小造小屋の三階に上がり、そこで地元の強いウイスキーを飲み続けるのが常であった。
いつもヘベレケになる迄に酔いつぶれた。そして、これもいつも「♪ここは、お国を何百里、はなれて遠き満州の、赤い夕陽に照られて、共は野末の石の下♪」を切々と唄い続けるのであった。
何故、ナーリさんが日本から離脱したのか、そしてカンボジアの寺院に居を構えて、アジアを放浪し続けたのかは知らぬ。人間には尋ねてはイケナイことがそれぞれに、いくらかずつあるものだ。
「日本なんて、シケた国は帰っても仕方ねえ」が口ぐせであったが、この人にしてやはり故国と呼ぶべきはあるのだなと知ったりもした。ナーリさんは死ぬのはアフガニスタンと決めてるんだも口グセであった。あそこの族長たちは皆、カラッ風野郎みたいにドライで残酷なところがしびれますが理由らしかった。
4、ネパールのヒマラヤの山並みを星明かりに望みながら酔いつぶれての、良く知る軍歌の繰り返しは、それでも、それを階下の土間で横になりながら聴いていると、それなりに切々たる思いが込められているのであった。
5、やはり遠い距離がその中にある。歩いても、追っかけても到底辿り着けぬ唯物論的な絶対距離がそこにはある。
6、絶対距離についてはやはりカール・マルクスがその中枢について考えていた。ドイツ・イデオロギーでフェニキア人の海を介しての交易について、遠い距離は商業の源であるとの考えに辿り着いていた。フェニキア人の海洋貿易は莫大な銭を生み出したのだと。海洋貿易、すなわち遠い距離である。
7、昼に福島で、予定通り松谷彰夫氏と会い、いささかのヒヤリング。
第一に、福島第一原発事故の被災地の土地は取得できるのだろうかと相談した。
「できるでしょう」
との事であった。できるに違いないとは考えていたけれど、半端な土地は必要ない。土地を求めるには「金」が必須である。フクシマ被災地の諸事情の現実を知る松谷氏に土地取得の件を相談できたのは収穫であった。それが可能であれば次にその(土地)場所の選定に入ることができる。
8、「フクシマのニワ」計画はアーティスト・クリストの様々なプロジェクトをヒナ型にする。国(政府)や地方自治体の支援も必要となろうが、先ずはそれを頼りには一切しない。現実のフクシマの放射能汚染はその土地を人間が安心して住めぬ場所にしてしまった。
人の住めぬ、耕せぬ土地、つまりは荒地(廃墟)を人間のための何かを作ろうとする。これは当然すでに「建築」領域の問題に非ず、「芸術」領域の問題ではある。「芸術」は利便の問題には属さぬ部分がある。良い芸術ほどそうである。それはすでに歴史が証明している。「フクシマのニワ」は国、自治体による人災である。それに異を唱えるのは評論家の仕事である。わたくしは「作る人」であり続けたい。であるから先ずフクシマに土地を取得して、そこに自治区の如きを設定せざるを得ない。数々の裁判記録を読むにそんな結論に到達したのである。
1、「フクシマのニワ計画」第一段階の企画書作成する。あまり固めないで幾人かの方々からの批判やらをいただけるようにするのが大事なのは、すでに知る迄になった。これで少しずつ外の人に相談できるようになった。
井上雅靖著 牙青聯話余録 「感想」
発行所(有)書籍工房早山
電話03-5835-0255
FAX03-5835-0256
定価本体1300円+税
1、昨日の芳賀牧師との相談で「出来れば世界中のプロテスタント教会の助力を得たい」と申し出てしまった。牧師は教会のそれなりの処と相談してみるとの事だったが、相談するにはそれなりの書類が必要であろう。痛感するにキリスト教は特にプロテスタントは「契約」「誓約」の概念が日本仏教よりも余程明快であるから、それは必須である。
それと同時に日本仏教各宗派にも声をかけなくてなならない。ヒロシマにも仏教徒は少なくない。政治家でもあった平岡さんは先ず、その辺りで心配して下さるにちがいない。当然、馬場昭道を介して「南無の会」などの仏教各宗派への越え掛けは必須である。わたくしにとっても、年令、体力気力からして最期の大仕事になる予感もある。「ひろしまハウス」の体験もあり、そんなに容易なことではない。そんな理由もあり、先ずは全体のシステムならぬ運動自体の構想を明快にしてゆく必要がある。
連休明けの来週始めまで、その、皆さんに送る書式の第一段階を作らねばならないだろう。
2、急いては事を仕損じるし、急かねば何事も動きはしないのである。出来る限りの多くの人の力が必要なのは必定であるから、先ずは運動母体の形式を定めなくてはならない。フクシマの大事故からすでに5年の歳月を経ているが、ちょうど良い「時」になっている気もする。遅過ぎる事は決して無い。チェルノブイリの大事故から数十年程経過しているが、事は何も解決される糸口さえも見付ける事も出来ていない。
10年程は何かを見えるようにする迄かかるであろう。それを覚悟してヤルしかない。
1、午後1時半世田谷千歳教会へ。今日は千歳教会は小林宏和牧師の教会就職式との事。多くの人々が集まり始めていて、「こうゆう式はわたくしも初めての事です」との知り合いの信者もいて、どうやら今日は教会の「ハレ」の日のようである。いつもは駐車場の庭にテントも張られ、受付の記帳。誰でも参加出来るのでわたくしもやって来た。わたくしはいつも讃美歌の合唱がどうも苦手で、その時は立ったり座ったりを続けている。我孫子真栄寺の読経もやはり苦手である。
2、前奏、招きの言葉、讃美歌、聖書読詠、祈り、牧師の誓約、就職の辞、教会員の誓約、間安の辞、就職の祈り、讃美歌、そして牧師と教会に対する勧告は友人の東京中会牧師就職委員、芳賀繁浩であった。芳賀牧師は真情のこもった立派な談話をなさった。
3、夕方、17時オーパで芳賀牧師とお目にかかる。芳賀牧師とは読んでる本が重なるようでもあり、今日は辻邦生の諸々についておしゃべりする。辻邦生もキリスト教に近いモノを感じていたので尋ねると、とても近い人であったとの事。森有正の思想もきっとそうなのであろう。東西の思想の狭間に生きた一群はどうやら宿命的にそうなるようだ。
4、芳賀牧師と「フクシマの庭計画」についていささかの相談。ヒロシマ、ナガサキの人々にも声を掛けて良いだろうかの問いに是非そうして下さいの言をいただく。ヒロシマの平岡元市長に声を掛けさせて頂くことにする。そうなると、わたくし奴も退くに退けぬ立場になるから、不退職の意気込みにならざるを得ないであろう。それが目的でもある。
1、大学教師時代、わたくしは住宅設計は設計施工が良いとの持論をもっており、喜んで背いつ率の相談に乗った。聴けばもう設立21年になるとのこと。分室も作り着々と成果を上げているようだ。
1、テーブルの下に未整理なままに放置された古い新聞を読んでみる。古いと行っても、たかだか未週間弱程の古い新聞。
4月17日日曜日の朝日新聞である。普段は眼を通すことの無い「読書」欄を集中して読んでみる。書評世界である。この世界の良いところは、何日遅れて読んでも、読むまいと現実社会とはほとんど無縁であること。たとえ、一年遅れても2、3年遅れても一向にその価値に何変わるところは無いだろう事である。11面(書評ページのトップ)は認知症介護研究。研修東京センター研究部長のいかめしい肩書きをもつ、永田久美子さんの、認知症共に生きるをタイトルにした、3冊の本の紹介。認知症については関心があるが、まだ我が身に切迫せずの鈍さもあり、どこに我が身を置いて読むべきがよくわからないのが正直なところである。なかの一冊『認知症・行方不明者1万人の衝撃、失われた人生・家族の苦悩』NHK認知症・行方不明者一万人取材班著 幻冬舎は読んでみようかと思ったが幻冬舎はイヤだなとかんがえたり。商業主義のど真中に居る出版社が何の目論みでこの世界に?NHKと幻冬舎の組み合わせも何故かキナ臭い。
13面には、かつて鶴見俊輔から商業主義のド真中の、不思議な真空状態と、その才質を射抜かれた横尾忠則が『根源芸術家、良寛』新関公子著、春秋社を評している。相変わらずにわたしは何者であるのかを尋ね続けているような書評である。横尾忠則の最大の関心事は「自分」である。グラフィックデザイナーから画家に転身しても、それは変りない。余りにも器用な手と、商業主義的所作を身につけ過ぎた自分自身に対する不安であろう。鶴見がかつて限界芸術と名付けた中心を持たぬ表現芸術でもある。
『その姿の消し方』堀江敏幸著、新潮社 ミリョウ的な書名を持つ本に対する、それほどミリョウ的ではない書評である。評者は大竹昭子。詩と小説の相対的な世界を批評の軸としているのか定かでない。宮川淳の「表現しない事の不可能性」は実にミリョウ的な論評であり、それ自体が詩であった。だから宮川淳の文体は極度に切り詰められた。何にも無くなる。つまりは「その姿の消し方」の鏡像でもあった。大竹昭子の短文には(批評の)その作家としての最低限の努力が見られない。
『戦争の物理学』バリーパーカー著、藤原多伽夫訳、白楊舎、は「兵器の追記 時代背景から学ぶ」のタイトルで建築批評家の五十嵐太郎が評している。五十嵐太郎は実にその数も少なくなってしまった建築批評家である。
戦争に関しては五十嵐太郎はすでに著作がある。戦争と建築だったかの書名をもつ書物であった。何が書かれていたのかすでに記憶が無い。大きく包括的なテーマに取り組む意欲は十二分にあるのだろうが、その言説は常に平板な解説に終るのが特徴である。
建築しかにして建築批評家である者の特性が十分に発揮されてい無い。建築を書くというマーケットがあまりにも縮んでしまい、競争者が出現しないからか?五十嵐太郎の世代の上には、鈴木博之、藤森照信の双翼があり、その言説h建築界に少なからぬ影響を与えた。その背中を見て色々と考えてしまったのか?書いて、言って何になるのか?のただ現実的な功利主義は守るべきのない保身主義でもあり、言説に生きるべき歴史家批評としてはどうか。今の正統たるべき建築界の低迷振りは、歴史家・批評家の核心が見え難い。処女論文は天理市の歴史を主題にした「宗教都市」論であったはずで、これは現代に歴然と通じる主題でもあった。宝のもちぐされとしか言いようがない。宗教都市の生態そして成長変化の歴史は、現代のグローバリズムにおおわれた標準化画一化=拡散化した都市への視えざる退行的構想と酷似しているのではないか?
同じ12面に「スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタビュー」ジョナサン・コット著、木幡 和枝 訳、河出書房新社が在る。開店しながら引き出す「素の私」とタイトルがつけられて、これは評者の宮沢章夫のサービス精神からであろう。
スーザン・ソンタグのロックンロール、ましてやローリングストーンズへの関心(関係)をわたくしはしらなかった。だからギクリとさせられた。この本は買って読みたい。スーザン・ソンタグがローリング・ストーンズかといささか刺激を受けたのであった。書評に引き込まれたのでなく、知らされた。そういう役割もまた、書評欄にはある。
気になって一関ベイシーの菅原昭二に、「ロックンロール」は何処からやってきたのかと尋ねてみたら、珍しく余り関心が無さそうであった。モダーンジャズはアフリカの黒人ブルースから生まれた原点を持つけれど、ロックンロールはどうやら違う系統のようである。何故なら菅原昭二がモダーンジャズとは異世界だぜと言外に言ったような気がするから。
写真がノーフィルム・カメラの出現で別種の世界を切り抜きつつある、あるいは切り抜くのを余儀なくされているように、明らかにロックンロールは電気ギターの普及と諸々の装置の普及としての影響力を同一にしている。
今や建築設計がパーソナル・コンピューターの普及と切り離して考えられぬように。ザハ・ハディドやフランク・O・ゲーリーの建築デザインも然りである。彼らの先鋭性もまた、電子機器(コンピューター)に支えられ同時に侵犯されているのである。興味と関心を持たざるを得ぬが、同時に危惧を痛感するのである。
とても小さなコーナーだけれど「海を渡って」鶴崎燃著、赤々舎を紹介する武田徹の小文がさえわたっている。やすくはない本だがせっかくだから買って読みたい。
「乱世の中世」白拍子・乱拍子・猿楽、沖本幸子著を紹介する蜂飼耳も同様である。吉川弘文館「中世の乱舞の芸能が、いまに伝わる能楽にどのように包含されているのか」の言に、前ページの、スーザン・ソンタグの「ローリングストーンズ・インタビュー」を思い起こした。紙メディアの妙である。書評欄も自分勝手にレイアウト(編集)を変えて読んでみるのはスリルかもしれない。書評者の何気なく漏らした一言、一フレーズがあらぬ方向への糸を張り、思いもかけぬ連想を生み出すことがあったりする。新聞の大判サイズに意図されずに曼荼羅の如くに配布された言葉の縞状が、思いがけぬ列島状を作り出したりもするのである。島々は組み合わせによってはまるで新しく読めたりする機会もあるだろう。大きな紙面に印刷された活字を読む、面白さではある。
『GA JAPAN 140』より。photo by Yoshio Futagawa
1、GAより『GA JAPAN 140 MAY/JUNE』送られてくる。巻頭に二川由夫の「追悼・ザハ・ハディド」桜は散ってしまった、が在る。突然死んでしまったザハ・ハディドの才能を惜しむ追悼である。父親の二川幸夫の素晴らしい写真を折りたたみ、その追悼の意が伝わってくる。写真の力そのものである。二川幸夫は言葉にならぬ何者かを、それこそ写真で伝え続けた人であった。二川由夫はザハの才能を惜しむ、真情を、自分の言葉と二川幸夫の写真の対で伝えたのである。朝日新聞での大西若人アレンジによる磯崎新のザハ・ハディド追悼文には磯崎新の、ザハの突然の死への憤懣とも言うべきが新国立競技場事件を介して、メディア化されていたが、GA JAPANはより建築の問題として表現されている。必見の二川幸夫写真であり、追悼文である。建築ジャーナリズムのなすべきを良く示した。
2、この号には伊東豊雄のメキシコでの仕事が紹介されている。伊東豊雄はメキシコの風土の中で、よりゆったりと自然に本来の感性を表現しているようだ。
メキシコには創作者をのびやかに解放してやまぬ力があるのだろう。花びらをばら撒いた如くの建築の様相は日本的とも言うべき現れ方をしており、興味深い。
3、巻末近くには、トラベリング・アラウンド・ザ・ワールドのページが設けられている。140/141ページにまたがる写真が良い。二川由夫写真。メキシコ、チリ、他のラテン・バロックにはいたく興味を持ち続けてはいるのだが、その多くに触れる機会はそれほど多くはない。このモノクロームの写真には、二川幸夫とは異なる何かが在る。今はうまく言えないけれど、ピラネージの版画さえ想わせるエネルギーがある。二川幸夫からはそのメキシコ好きを良く聞かされたものだが、写真家としての才質の血統も又、継承されるのかと驚いた。日本の民家と同じ質を持ち、かつ異なるのである。
1、世田谷村では広間の北と南を双方共に眺めることができるので、なんだか時に異世界の狭間にうずくまっているような感がしないでもない。フクシマ行はなかなかハードな世界であった。なかなかどころではない。突きつめてハードであった。日記にはアレコレ雑感を記したけれど、道を歩きながら、これは気安く話したり、感想を述べたりする類ではないなと実感してしまう。
フクシマで視た風景は核によって人間(人類)が不在になった光景を目の当りにしていたのだろう。本当に恐ろしい光景に接すると、やはり言葉は失われる。福島計画にはデービッドも参加してもらうのを決めた。
1、10時ベルリンのアトリエ・ファバ、デービッド・バウアーさん来る。わたくしの大学研究室時代のスタッフである。ピュアーな好奇心と知性の持ち主で、時に舌を巻いた記憶がある。久し振りに会って、すぐに昔の如くの建築的アイデアの話になった。夕方の再開を約し、彼は北烏山の建築現場見学へ。
2、デービッドの新作ポートフォリオ等視る。決定的に日本人建築若手の諸君とは異なるモノを持つ男である。ワイマールのバウハウス大学から来ていた人間あ、特に旧東ドイツ系の若者は優れた人間が少なくなかった。真っ当な精神の持ち主達でもある。
デービッドは何かの形でわたくしのアニミズムに関する考えを知っていて、それで話はゲーテの中の神秘主義的な傾向、その他に展開した。日本人との会話ではこうはゆかない。ワイマールの人々と付き合いを持てたありがたさではある。
オーパもこのところわたくしが外国人を連れてゆくことがあり、なんとなくオーパらしきになった。開高健は若死にしてしまった。もっと遠くへのロマンチシズムは遂に老成の成熟を見せるまでにいたらず、未完であった。
1、フクシマの海の汚染状態はどうなっているのか我々には十二分に知らされることもない。フクシマの海ならぬ太平洋は巨大な黒潮により巡回しているから、この汚染は環太平洋圏の問題でもあるだろう。津波で破壊された様々な断片が太平洋をわたり、アメリカ西海岸まで辿り着いている事を我々は知るが、放射能汚染も辿り着かぬ筈はない。
海を介した放射能汚染の問題は充分過ぎる程に考えてみる必要がある。「核」について考えることは、必然的に科学のみならず、人間の宗教心について考えるに迄行き着く。太平洋に生まれたマナ(アニミズムの原型)について考えるに帰結するのである。請戸小学校の廃墟は今日も凄惨であった。東電第一原子力発電のお膝元でもある双葉町はいまだ立ち入る事が禁止されていた。フクシマ原子力発電所は行政的には大熊町に属する。双葉町ではほぼ一年前、津波前に掲げてあった「原子力明るい未来のエネルギー」などの標語が書かれた町内2カ所の看板を撤去せずに町役場で保存することが決められたそうだ。保存すべきは恥とも言うべき負の遺産も含めるべきだろう。今はすでに空語となった原発の安全神話の歴史もその大事に保存すべきモノであろう。ドイツがナチズムの遺産である、国内のユダヤ人収容所跡を決して撤去せぬままにいるようにである。間違い、そして恥の保存も又、文明文化の最も大事な事実である。学者達の名に値せぬ御用学者達の今もある原子力発電所運営「イエス」の発言なぞはその最たるモノのひとつだが、その名の群は長く記憶にとどめたい。大熊町フクシマ第一原子力発電所は白いサヤ堂でおおわれている。その白い姿は蜃気楼の如くに風景に浮いている。メルトダウンした核原子炉の炉芯の状態はどうなったのか、溶融した核燃料はいまだに大地深くに解けて沈降し続けているのだろうが、その現実は明らかではない。いずれチェルノブイリ原子炉の如くに鉛とコンクリートで巨大な塊として永遠に残されるのだろうが、その時期さえ不明のままである。残された核燃料の廃棄物の行方も不明である。問題の中核は放置され続けていると言わねばならぬ。
2、イスラエルの原子力発電所の第一号は建築家フィリップ・ジョンソンが設計した。昔その写真を視た記憶がある。建築愛好者でもあり、芸術への趣向も大きかったフィリップジョンソンは原子炉を神殿状の如くのコンクリートの塊で包み込み固定化した。アレはジョンソンの究極のニヒリズムの表現であったのだろうか。チェルノブイリの原子炉は見苦しい形でコンクリート浸けされてしまったが、それをイスラエルの、つまりは人工の国境線で囲まれた政治的国家イスラエルの、歴史の無い国家の神殿として考えたのであろうか。案内してくださった方々にその事実を話したら「神殿ですか、、、しかしそれはわかるような気がするな。」とつぶやいた。人々の歴史のあるパレスチナに政治力学の現実により作られたイスラエルの第一原子力発電所の姿形については、建築史家達の論評があってしかるべきであろう。ジョンソンの知は原子炉自体がすでに神の力を超えてしまった黒い神の如くになっているのを透視していたのであろうか? 科学技術者が作り出してしまった黒魔術の如くの呪術に近い神として?
3、このフクシマ第一原子力発電所の鉛とコンクリートによる埋設工事も又、現代建築の一族ではある。ある意味では一族の長のひとつであるのかもしれぬ。工学科学技術の中心的成果であったのだから。
岡本太郎が生きていたら、第一に第二の太陽の塔を建てよ、そして埋め尽くせと言ったかもしれない。これは技術工学の枠の外の世界でもある。太郎の太陽の塔の背中には謎めいた黒い太陽が秘されていた。太郎の一見の楽天性に満ちた振る舞いのこれも又、謎である。フィリップ・ジョンソンのニヒリズムの対極であるやもしれぬ。考えてみたい。
フクシマ第一原子力発電所周辺には膨大な廃棄物の山が現実に出現している。長大なフェンスで囲まれ、内に中途半端なランドスケープとして、すでに現実に出現している。
黒い中国製の梱包ビニールコンテナの群として現実に在る。中間貯蔵庫(地)に移送されるのを待っているゴミの山々、あるいは群島である。今現在、建築された貯蔵庫は全体のゴミの山の3%に過ぎない。
その先はアテが無いという。
アテが無い現実は、これ等の黒いゴミの山は長期にわたって残るという事である。固定されたランドスケープになっていると考えるのが自然である。
建築家たちが商業パースの如くに描き続ける、明るい未来の如くのランドスケープの対極として、それは描くべきであり、描かれるべきである。
4、道ばたの黒い「耐候性大型土のう」は、一般財団法人土木研究センター性能証明として、しかし長期仮設(3年)対応が記されている。材質は黒原着ポリプロピレン(PP)と記され、生産国は中国である。
今、フクシマ「浜通り」の町と村には大量の労働者が投入され、大型トラックが途切れることなく走り廻る。山や田畑の表土を削り取り、汚染物としてこの黒い土ノーにつめ込むためえある。恐らく産業として活況を呈しているのであろう。巨大な利権も発生したにちがいない。しかし、その先は全く見えていない。仮室に近い中間貯蔵庫への、これも仮設工事である。
再びフクシマは巨大な矛盾の中に閉じられ続けている。
1、九州の被災地の報道も次第に少なくなり、民放は再び相も変わらずの面々(タレント)らしきの花ざかりである。政府は暗にNHKの報道規制をしているようだが、民放のこの類の番組に口を出すのが筋ではないのか。商業主義的民主主義は大災害を脇に視てふてぶてしい。ギリシャを旅したときにTVチャンネルが異様に多く、その大半がポルノ番組であったのに仰天したが、古代ギリシャの栄光は今や無惨に破壊されているなと痛感した。EUもギリシャ文明の歴史的楯板が欲しくってギリシャを加盟させたのに、その欲しかった楯板の重みはとうに青い空だけであったのだ。古代オリンピック発祥の地での聖火の点火式が今も成されているけれど現実を知る程に空々しいなと想うばかりである。地球は青かったの初代宇宙飛行士の名言も、その青さはすでに薄味の青さであったか?
2、昨日は午後にローマのBarbicanよりキュレーターFlorence Ostendeさん他1名、そして国立近代美術館の保坂さん、他二名が世田谷村GAYAに来て、顔合わせを再び兼ねた打ち合わせ。展示の方法他に意見を求められもしたが、全体がまだ視えていないので応えられず。建築展の宿命として、すでに出来上がってある程度の評価が固まっているモノの展示になってゆくのであろうが、わたくしの方は昔のモノにはすでに大きな関心は薄く、近未来のこれからに関心が集中しているので行き違いは仕方ないことなんだろう。
3、磯崎新は国際的な建築展、そして国際コンペの審査に異能振りを発揮し続けたが、アレは中々以上に凄い事であり続けたのを今更ながら知る。夕方、アメリカ、サンフランシスコからレウ・ベレズニキ夫妻来る。レウは20年程前のスタッフであった。ウクライナ生まれのキャリアを持ち、カナダの父親は会った事があるけれど、今はタイの南へ移住したと言う。
4、日本建築士会連合会より本年度の作品賞現地審査のスケジュール表が送られてきた。今年はわたくしは11作品の審査をこなすことになった。これは雑用に非ず。他人の作品らしきに触れるのはわたくしには楽しみでもあるので6月7月の11日間は建築の旅にあんる。審査委員長の村松映一さんは13件を視る予定のようだ。何事も長の名がつくと大変であるを知る。
5、エリザベス女王は大英帝国の言わば「長」であるが、どうやら90歳にさられた。昔、義理の祖父からニュージーランドやオーストラリアに女王が出掛けられると大型船の甲板から小さなハシケにスカートのまんま飛び移る豪胆さであったと、それを間近に視て、女王は大変であると聴いた覚えがある。日本の天皇皇后も高齢をおして第二次大戦戦没者の霊を巡る旅を続けているが、これも義務とは言え大変な事であろう。天皇制そのものは別としてその努力には敬意を払いたい。
話は飛んだが、要するに他人の作った建築はその善し悪しを問わず、やはりある種の敬意を払うのが礼儀でもある。ジョン・ラスキンの建築に鋳込まれた労働の質への言及と何変わりもない。
6、今の近くの小建築の現場へ、正直、近さ故に多く足を運んでいるが、最近は現場の職人、労働者から少しの声かかるようになった。設計屋がこんなに現場に来るのかの意外さもあっての事であろう。これからいよいよ仕上がりを目指すわけであるが、出来上がって彼等が少しは驚いてくれたら良い。キレイ過ぎる言い方ではあるけれど、本当に歩くように毎日建築の小径をコトコト歩いている。
1、田町の建築会館へ。日本建築士会連合会賞の審査。村松映一、櫻井潔、竹原義二、中谷礼仁、難波和彦、松川淳子の各氏集まり審査(書類)。岸和郎さんは一足先に審査を終えていて会えず。17時前終了。近くの飲み屋で会食。
2、しかし新国立競技場のドタバタ劇がやはり影を落としているような気がする。後に訪れるであろう制度的な低迷は予想もつかぬ程に大きく長いのであろう。業界のみならず、アカデミーの奮闘が大事なのだろうがその兆は視えず。ここ数十年にわたり展望、視野は霧の中に埋もれる可能性が大である。皆さん口には出さぬがそんな空気であった。
1、この状態は戦争と同じであろう。九州の自身は長期化する可能性があると報道されている。天災と人災の区別は時に区分けするのが至難な時代になっている。だいぶ昔に「複合汚染」なる言葉が流行した。それが今や眼に視えて、明快な形として露出しているようだ。複合汚染は様々な形で大きく進行している。我々は大災害と呼ぶ複合的災害(その多くは人間が招き寄せてもいる)に対して、すべからく難民である。豊かで平和な日常生活を1枚ペロリとはいでみると、それは事実だ。
1、九州熊本の大地震被災者の方々が多く車に寝泊まりせざるを得ず、それでエコノミークラス症候群が話題と成っていて、自分もそれだなと考えた。被災者の方々を思えば小さな車に避難せざるを得ず、ビジネスクラスもファーストクラスの選択もあり得ない境遇であるので、わたくしの場合は勝手にエコノミークラス状況を選んでいたのだから、比較するのも申し訳ないのであるけれど、やはり申し訳ない。
2、九州の大地震はこれ迄の災害と異なり、その状況に途切れと言うべきがなく、数次にわたり定常化してしまっている。つまり揺れその他が長く持続している。九州、四国の原発はそれでも、これも異常な運転をとめようともしていない。日本人は自然の大災害に対する宿命とも言うべき、あきらめに近い管制を大方の人々が持つ。不安を根にする原発運転を止めよの世論らしきの存在もマスメディアでは報じられぬから、これは確実に国家の規制が働いているのであろう。九州各地での自動車部品工場の生産はままならず、それは電力不足よりも恐らく部品の物流が不可能だからだ。道路その他の運搬が停止しているのだから。そんな現実からも原子力発電所の運転停止は常識ではなかろうか?原子力による万が一の、とゆずって考えても人間の生命に対する尊厳の意志が政治家、そして官僚達において痴呆状態になっているとしか考えられない。万が一の確立はその小さな一でさえ広く人類と言うべきの生命(遺伝も含む)にたいしては、その一 が無限になってしまうのはすでに誰でもが知っている筈なのに。
3、自然の力が人智を越えるのは我々はすでに幾つもの大災害で知り尽くしている。まずは九州全域での原子力発電所運転停止は常識とも言わねばならない。
4、大地震からの避難生活者の否さんの生活状態は、これは難民キャンプの世界の状況と何変わることはない。人間が安心して住み暮らせる住居と場所の関係は特に日本の場合は最優先して考えられるべき時に なっていよう。
1、8時世田谷村にシェアーハウス社長武藤弥、早稲田大学准教授渡辺大志、旧石山研OB平山君集合、伊豆西海岸松崎町へ発つ。途中世田谷古民家園にて古民家研究家稲葉和也さんを拾い、小さな車にギューギュー詰めで東名川崎インターチェンジに乗る。本格的な雨降りであった。
13時観光協会2階で近藤先生にお目にかかる。今日の目的の一つである近藤邸なまこ壁通りの二連の倉をズバリ譲り受けたいと申し入れる。もう何度もうかがい続けてきたので先生も、ここ等が潮時だと観念したのだろう、「イイデスヨ」となった。故佐藤健と数年にわたり借用した歴史もあるし、敷地内には故鈴木博之基本設計の「会所」もあり、わたくしには大事な場所でもある。良かった。
14時、同じ会議室で松崎町長斎藤文彦さん、これも旧地お産業観光課長山本公さんとお目にかかり、近藤先生との会見の結果を報告する。町の協力も得ねばならない。他にもう一つの案件、広大な土地への農園、他の大都市住民との連携事業についても申し入れる。又、大沢温泉ホテルの将来計画についても、仲間に入ってもらいたいと伝えた。会談終了後、近くの蔵らで安良里の藤井晴正さん、宇久津の鈴木敏文さんも交え歓談。
3、続いて大沢温泉ホテルへ。過年、驚いた事に競売に附され、広大な土地、庭園、三百数十年の古民家を含むすべてが驚く程の安値で落札されたのである。少し早めに連絡下さればその入札にはぜひ共参加したかった。帯広(姉妹都市)市長にも相談したけれど良い返事はもらえなかったらしい。
1、
1、車椅子の物理学者スティーブン・ホーキンスがケンタウルス座アルファ星への宇宙探査機を飛ばす計画を発表した。アルファ星は太陽系にもっとも近い恒星である。わたくしのオボロげな記憶では宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にその名が出てきたような気がするが、定かではない。賢治が地球に一番近い恒星であるのを知っていたのかも分からない。おそらく知っていたのだろう。「銀河鉄道の夜」の古めかしい宙を飛ぶ汽車の行き先がケンタウルス座のアルファ星であったかどうか、賢治をスティーブン・ホーキンスが知っていたかどうかもわからない。賢治は世界60ヵ国語に訳されているから、ホーキンスのような天才物理学者は読んでいた可能性もないではないだろう。ホーキンスの発表した光速の2分の一で飛ぶ探査機のシステム図を眺めて、これは銀河鉄道列車じゃあないかと思った事であった。車椅子の物理学者は詩人でもあるようだ。
2、50年後あらたにこの銀河鉄道の夜行列車が打ち上げられて、それでケンタウロス座のアルファ星についたとする。そしたら賢治の書物に登場する妙にバタ臭い名前を持つ、ポストモダーンな人びとが生身で暮らしていたりするやもしれない。
人類最大の夢の一つは地球外生物、とくに宇宙人と呼ばれる人らしきとの遭遇である。太陽系の星々にはほとんど形を持つ生命体存在せぬだろう事は、今や大方の人間たちに共通しているだろう。一時期、世界での外宇宙のものが死の世界ではないかと、人間達は知ったような気になったのである。もしそんな昨今に車椅子の物理学者が一人、銀河鉄道列車を設計していた。
1、昨日11日は午後国書刊行会の永島さんに会い『異形の建築群』(まだ仮)に関して打ち合わせ。失礼ながら現場事務所に来て頂いて話した。毛綱モン太の釧路「反住器」の写真は毛綱の子息が撮ったようで興味深い。毛綱自身がディスプレイしたのだろう、妙なヒョータンやらが吊るされていたり、又、何かのおまじないかなと想ったり。奈良の渡辺豊和さんからの「餓鬼の舎」の写真を渡したり。
で六角鬼丈、安藤忠雄の自邸および「住吉の長屋」の写真も収録するので、かなり本の体裁が変わってくるだろう。
清貧のワビ、サビの気配も内、今のただの省力、脱力建築群と比べれば随分と十二分にアナクロ・ナンセンスとも受け止められかねぬ建築群であり、わたくしをも含めて建築家群ではある。大体、今風の建築家たちは誰も知らないのではあるまいか。安藤忠雄はいざ知らず。
2、4月12日朝。寒気は去り、マア中天気か。世田谷村の朝食は中々充実している。今日はタケノコの煮物、タマネギ、トマト、ゼンマイそして納豆。時に庭で採った野草があるので嬉しい。
1、再び寒い曇天である。昨日伊豆松崎町行の段取りを済ませた。いよいよ本格的にプロジェクトを進めることになる。
2、少し昔には近くに大きな区民農園があった。そこで戦後台湾で自作農を余儀なくされた老人の見事なゴーヤ栽培を教えられたりで、少なからぬバランスのとれたおつきあいが発生していたけれど区民農園が失くなって、それも消えてしまった。世田谷村の小さな畑も近くの区民農園に刺激されての事ではあったが、一人でやる畑作りくらい味気ないものは無い。歩いていける位の範囲内で共同の極小農園みたいなのをやってみたいとは考えているのだが、中々手がかりが無い。3坪程あれば、それで十分なのは区民農園の体験で良く知っている。
南米のチリに出かけた時に中南米の都市では都市内に公園に代わり、農園らしきを計画するという先進的な試みがあるのを知った。自分の年を考えるに巨大な農園の計画はもう不可能であるだろう。小さな農園を、小さな小さな農園を世田谷で計画してみるか。
それに引き続き広大な農地が有り余っている伊豆松崎町岩地集落には釣船もあるし、安良里にはハンマの立派な船もある。10名程集まればそれを活用するのも可能であろう。アメ横の摩州という人材も、6月から半年程はポッカリ時間も空いているから声を掛けてみたい。
小さな農場と大きい農場の組み合わせはリアルな可能性がある。
1、今度の福島行で桜に再開するかも知れぬ。福島第一原発周辺(間近の)植生の状態も知りたい。
先輩の稲葉和也さんに連絡して17日の伊豆松崎町行に同行していただく事になった。稲葉さんは民家の研究家であり、現在伊豆下田のなまこ壁修復などをしている。
2、教会の帰りに南蛮茶館に寄ってコーヒー飲みながら、こんな事、書き付けているのだから、全く南蛮ならぬ野蛮であるな。
1、今日はハガキを5通ポストに投じた。知り合い非知り合いとの通信はだんだんと葉書に頼ることにしたい。郵便のスピードがわたくしには手書き文字と共に一番適しているのでそうする。
朝2017年の六角鬼丈との二人展の出品作として「福島の家」を準備することを決める。ささやかではあるが、磯崎新の2020年東京オリンピックへの諸活動、そしてザハ・ハディドへの追悼文に共感、同意しての事である。パラパラとした言説だけではもうダメだなと自覚したからでもある。これでようやくカンボジア・プノンペンの「ひろしまハウス」の続片が提示し得るやも知れぬ。孤立を恐れる年でもあるまい。
1、電車車中で思い立ち福島計画のスケッチを始めた。以前描いた囲いのある提案を少し計進めて、その鉄板の囲いの中の「祈りの場所」(建築)の考えを始めた。4月23日に福島の現場に行くので、可能不可能は別として先ず、わたくしの気持ちを立てておく必要があるのだ。場所は福島第一原発の隣地である。わたくしにとっては「ひろしまハウス」プノンペン以来の建築本来の意味--現代に置ける--とも考えられるので、全力を尽くすつもりだ。力を尽くさせてくれと祈るばかりでもある。
1、朝から現場、諸々の打ち合わせ。地元のティンバークルー(木材・木製品)志村造園等身近な人々との仕事が始まる。どうも身近な地域で身近な人々との仕事が増えそうで、ありがたいけれど、それが続くとコレではイカンと思ってしまうところがわたくしのイカンところだ。松崎町や唐桑(気仙沼市)で生活している人たちはコレを更に濃密にやっているのだから。でも人それぞれの生き方がある。
1、早めに切り上げ千歳烏山へ。オーパで森繁建さんにお目にかかる。久しぶりにお目にかかったので話が弾んだ。森繁さんからは「アナタ全く世間から認められてないよね。もう少し、しっかりやれ」と発破をかけられた。知られすぎた人間を親父に持つ人なので、何言われても仕方ないのである。
1、庭の梅の樹にうぐいすが来て鳴いてくれる。先日は姿を見せただけで声は聞かせてくれなかった。何年振りかなウグイスの声を身近に聞くのは。
1、午前、松崎町プロジェクト段取り、福島プロジェクト段取りで過ごす。午後北烏山現場。打ち合わせ終了後、アメ横へ。呑める魚屋、魚草店主大橋摩州さんに久しぶりに会う。大橋摩州は慶応大学、東大大学院を経てアメ横に徒手空拳乗り込んだ異能の人である。今は大繁盛でアメ横目抜通りの人々を集めている。将来はアメ横の、おそらくは変転きわまるであろう一帯の新しいタイプの指導者になるだろうと、わたくしは自分勝手に決め込んでいる。
浅草仲見世の飯田くんと言い、アメ横の摩州さんと言い卑弱なエリートの影はまるでないのが素晴らしい。本当に清新なモノの考え方、そして行動はかくなる若者たちから生まれるのではなかろうかと期待したい。何しろ、生きようとしている場所が、浅草、そしてアメ横と半端じゃなく大衆(民衆)の伝統がしみこんでぬぐい難い場所ではある。
2、赤穂浪士ってのは大体300人いたんだ。47人が討ち入りして、あとの253人は皆逃げちゃった。落語ってえのはその逃げちまった人間達の世界なんです。立川談志が店に貼ってあった。
1、朝世田谷千歳教会に出掛ける。今日は蓮見牧師の後任である小林宏和牧師の話しが聴けるので楽しみである。
2、まだまだお若い牧師であるので、蓮見牧師と比較したら恐らく頼りないのではあるまいか?と失礼な予測をして出掛けたのであったが予想は見事に裏切られた。つまらん説教であったなら、磯崎新の「偶有性操縦法」でもこっそり読み返してみるかとも考えていたのである。何故そんな事を考えたのかと言えば時間は逆転するけれど、戦争が終わったのを知らず戦争を続けた島の話しが、今の島国日本の、いきなりだが「偶有性操縦法」が描く日本の現実に似ているなと考えたから。つまり順不同であるが磯崎新の書き振りはそれ程にわたくしなりに言えば予言者風の所がある。書物のなかで「わたくしは予言者ではないので、、、」と繰り返し言っている処が怪しい迄に予言者風なのである。磯崎新の中の「占い趣味(タロット)」の如くは突き詰めればそういう事になる。
3、浄土真宗西本願寺系の僧侶馬場昭道の知り合いにフィリピンの密林で終戦となったのを知らず一人で隠れすみ、すなわち戦い続けた人に小野田少尉がいる。ブラジルで農場事業が最後の仕事であった。奥様にはお目にかかったことがある。
ブラジルへ氷川丸で移住した人々も又、島国に本を脱出した群である。交通事故で死んでしまったブラジル日本人会の谷さんもその一人であった。仏教の馬場昭道の知り合いにそんな人が少なくない。馬場昭道も実ワ、ブラジルでの仏教寺院開設が夢であった。彼ならやれば出来た(出来なくなはなかった)と考えるが、僧侶だって現実の生活の重さに対面しているから、もう不可能であろう。
死んでしまった谷さんや、小野田勇の眼からは磯崎新の観念的な日本脱出(亡命)願望の如くは絵空事である。どんなに筆を尽くしてみても密林に実際に隠れ棲んだ小野田勇の如くのネガティブの極みでもある亡命者、すなわち戦争は続いていると信じざるを得なかった人物の実体験と比較するならば、磯崎新の言説は甘い。乱暴な比較をするなと言われたって、実に磯崎新は今やそこ迄言説の境界線を拡張してしまっている。大きい存在であることに違いはないけれど「偶有性操縦法」に記されている言説は一建築家としての言説の枠を超え始めている。
4、余りにも「建築」中心主義であり過ぎる。磯崎新の岡本太郎の死に際しての朝日新聞への追悼文が忘れられぬし、忘れない。「太郎さん、あなたはそれ程までに日本を愛していたんですね」という愛情に溢れたしかもアイロニーでもあった。この科白は今の磯崎新にそのまんま帰ってくるだろう。
日本を建築という言葉に置き換えれば実にその通りの実寸大スケールになる。磯崎新の独自なのはそれがほとんど同義であるに尽きる。
5、福島の事、そして身近な世田谷の事、相談してやってゆきたい。
6、世田谷でやる事が少し計り視え始めたのでそうするつもりである。
我孫子の真栄寺馬場昭道に連絡するも留守であった。仏教の坊さんは誠に忙しいのだ。キリスト教にはどうやら檀家らしきの地域の地盤はない。しかし仏教に於いての檀家は自力で築いたものではなく、コレワ徳川幕府が一揆封じの戦略で作った制度である。当分の間、仏教とキリスト教の間をゆききしてみるつもりである。
1 「博之桜」
すぐ近くにM地所の大きなマンション二棟が出来上がりつつある。この計画では大きな敷地内に生活道路を設けよと近隣住民の一人として計画者に要求した。これは区役所も当然な事ですと、誰でも通り抜ける事が出来る道路が実現された。もお一つある。低層コートハウス群があった土地には、その一角に大きな古木桜が7本もあった。この桜の根元では地元の人たちと何度か花見の宴を持った事があった。それはそれは見事な桜の花を咲かせるのであった。それで7本の桜の樹を保存せよと申し入れた。これは仲々うまくいかなかった。やはり人は花よりダンゴならぬ、花より不動産なのである。それに古木であるからいずれ自然に枯れるぞと言われたりで、それに対して論理を返せなかったりもあった。この小さな桜の樹群の「保存運動」と言うべきには、無理を言って鈴木博之東大名誉教授の名も、要望書の筆頭に置かせてもらった。当時、鈴木博之は近代建築の保存運動に関して日本を代表する「知」であった。だから、建築ばかりじゃなくって桜の樹だって力を貸せと、考えたのであった。
結果はあんまりうまくいかなかった。7本の古木のうち、一本を敷地内に新設される児童公園の一角に移植することにはなった。
工事中は現場の仮囲いの陰に隠れて移植された桜の上部が、随分切られて見え隠れであった。工事がほぼ修了に近づき、仮囲いも外された。桜の古木は枝を大きく切り刻まれ樹体はコレ万身ホータイだらけの痛々しい姿で、それでもかろうじて立ち尽くしていた。今年は花はとても咲くことはないだろうとあきらめていた。
もしやと万が一があるかと、半分あきらめて今日、久しぶりに桜の老木の全身にあいまみえた。何と見事に沢山な花々をつけていた。これは鈴木が気持ちで天界から咲かせたのである。
1 昨夜はオーパで世田谷美術館の野田さんにお目にかかった。野田さんはイタリアに4週間出張の旅であったから久しぶりだった。 図書刊行会からの「異形の建築群巡礼」(仮)の、まだ先になるけれど出版記念会(パーティ)の計画や来年の数度にわたるだろう展覧会の話し等について相談した。
1 奈良の渡辺豊和さんより田原本町八尾の自邸「餓鬼舎」(がきのや)の写真、データ送られてくる。わたくしの依頼通りに前の川、そして土手と周囲のバラック住宅街の風景と渡辺作品としての小住宅が共存している写真である。同様に毛綱モン太の「反住器」も周辺住宅群を背景とした写真(もしかしたら子息の撮ったモノ)を入手したと図書刊行会より連絡があったようだ。住宅の作品としての価値の真底はそんな周囲の風景との関係の中に出現するーが今のわたくしの考えである。その意味では送られてきた写真は良かった。土手には花も無く「餓鬼舎」は周りの、いかにもな日本人の文化の実力とでも言えよう普通な家々(バラック)と、同じ大きさつまりは個人の資力の表現でありながら埋没もせず、少し汚れても凶々しさも失せながら、孤立している。
坂口安吾が奈良、京都は焼けてよい、焼け跡には停車場でも立てればよいと言い放ったまんまの哀情である。創作者を美化する愚は犯したくないけれど、「餓鬼舎」が在る風景には創作家の想像力の哀しみがある。哀しみなんて甘い言葉は使いたくないけれど、それに勝る言葉を今は見つけることができぬ。
特に日本の近代建築家の良質な者にはこの哀しみ(それは滑稽さにつながるものでもある。)が付き物なのだ。これが一切無い者は突き詰めればご体裁づくめの小商人同然の建築家である。創作家の想像力とは突き詰めれば歴史に対する自意識である。特に建築家の場合は日本の建築史に対する考え方そのものなのである。建築史はヨーロッパ史そのものである。毛綱はそれを透視した。ヨーロッパルネサンスとはキリスト教のヨーロッパスケールでのグローバリズムに対する”人間復興”であると考えた。それでカテドラルとしての母の家を北海道釧路に建てた。渡辺豊和の活動もそれに近いが、彼はヨーロッパを飛び越えてイスラムの原野に想いをはせた。それも又ある種の日本近代建築史の悲劇であったのだ。悲劇を感じさせる日本近代の建築的産物は希少である。特にその住宅作品群に於いて。おや。
このツインの小塔を持つオブジェクト主義とは言わぬ。そんな隈研吾風の通俗は自己宣伝臭にまみれて、これも又小商人風情があって、消費社会に典型である。このツインの塔を持つ建築風景は何処かで視た記憶がある。このツインの塔の建築風景に酷似したモノをわたくしはフィリップ・ジョンソンのニューキャナンのガラスの家で視た。ガラスの家はデービッド・ホックニーと同棲していた自邸(二棟ある)の他に、諸処のパビリオン建築があり、そしてジョンソンお気に入りのコレクションを集めた私(わたくし)美術館がある。機会があり、そのコレクションを丹念に眺めたことがある。マルセル・デュシャンの絵なんてのは、これはジョンソンの他人の眼を意識したポーズである。オヤ!オヤ!これはジョンソンの本音かなと想わせる、幾つかの砂漠の廃墟の写真があった。皆、何処か、シリアあたりの砂漠の小さな小さな遺跡のカケラであった。その何処かに、ギクリ、渡辺豊和の自邸「餓鬼舎」と同じぢゃないかの類があった。シリアの砂漠はキリスト教発生の地でもあり、最古層のキリスト教にちなむ遺跡のものであったのか。恐らく、ジョンソンのコレクションであるから、それなりの理由はあるのだろう。ジョンソンは親の遺産もあり、大金持ちであったからシリアの砂漠に残された廃墟の中の、歴史的王者であろうその廃墟のなにがしかをコレクションしていたやも知れぬ。ガラスの家には本物の古代ギリシャの不気味な彫刻が、偽物のプッサンの「アルカディアの葬送」と共にセットされていた。これは値段がつけられないんだよ、と磯崎新は教えた。偽物のプッサンは「ジョンソンの自画像の意味がある」と、引き続き磯崎が教えた。この人、本当にジョンソンが好きなんだなと直観したり。
渡辺豊和は勿論、コレクション好きほうだいの遺産相続人ではない。「先祖はロシア人かも知れへんで」とホラを吹くが、そのロシア人だってニコラス大帝親戚の者である筈もない。そんな人間が秋田弁丸出しズーズー弁で、ピラミッドやアトランティス大陸幻想を口からアワ吹いてしゃべりまくるのは想像力のこれは枠外である。
ただこの人物は身体の奥底から、建築が好きでそこから逃げられぬ人なのである。
で、金は無いズーズー弁のオッサンであるが、異常とも考えられる直観力の持主である。それが無い人間は実に日本近代建築家としては偽物である。渡辺が何処から、この砂漠の廃墟の如しの双塔の風景を得るに至ったのかは知る由もない。嘘だと言うならジョンソンのガラスの家の美術館に行ってみるがイイ。要するに、この建築風景は周囲の砂漠状の奈良のバラック群に埋もれる如くの、建築の原風景なのである。渡辺や毛綱といった規格外れの才質を日本は好まない。規格の枠にこじんまりと納まり返った才能を便利だとして使いたがる。だから今現在の如くの歴史の完全な停滞状況に於いては何も誰も現状を切り拓く、キッカケさえもつかめない。建築家だけではなく、こんな時には歴史家の力が大きい筈だが。、、、、。
そして、誰も居なくなった。
1 これで猫どもが大学に行きたいなんて言い出して動物病院ならぬ動物予備校に通いだしたら大変な出費であろう。犬猫他に大学教育は不要であると、ましてや犬猫エチケット教室とか、しつけ教室まがいは断固反対したい。折角、教会で牧師がヨーロッパの難民について触れられ、これは仏教の坊主共にないナと感心したばかりであったから、動物病院に払う金があったらシリア難民に喜捨したらナアと思ったりであるが、身近な猫も大事な生き物ではある。人間様と動物様とその生命の価値は比較はしようがないので、やっぱり共に大事にできる間はそおした方が良いのであろう。
2 「作家論 磯崎新」はじめて総目次を作ってみる。作品論だけでこの建築家をとらえる事は至難であるが、やはりそれ無しでは「建築論」にならない。序論に川合健二(丹下健三)そして鈴木博之との関係論らしきをセットしたので、輪郭は明快になっているが、作品論がやはり手薄である。 日本の近代建築様式が終末を迎えるであろう2020年に完成させたい。国立競技場も完成しているだろうし、磯崎のアンビルドの終わりも見据えられるだろうから。
1 ウウム、ニーチェは仏教の輪廻転生から、永劫回帰なる思想に辿り着いたとされるが、その考えは、要するに「神は死んだ」のキリスト教否定の世界への入り口であった、、、ようだ。短時間の説教であったが色々と考えさせたれた。考えさせたれながら、手はスケッチを続け919に続き、ようやく920にたどり着いた。
蓮見牧師のお陰である。ようやく、化物らしきを飼い慣らせる、あるいは慣らしつつある。
1 画家の藤江民さんから「藤江民近作展」生成絵画のお知らせをいただく。この様なポストカードのお知らせはともすれば見過ごしやすいものであるが、二日程たってカードの裏の見えないことを見るということーと言う自身の解説文を読んでコレワもしかしたらイケるな!と考えた。2200×2750mm大の雪肌和紙に油絵具のタッチを生かし描き、あるいは染み込ませ、さらには和紙を薄く剥がし、光を透過させたりしているようだ。ポストカードの写真からはとてもうかがい知ることが出来ぬ類である。
とてもうかがい知ることが出来ぬと言えば先日観た中里和人の写真展のお知らせのカードはほとんど真暗で何が写っているのかもわからず、写真家なのに随分な無駄しているなと考えてしまったが、足を運んで出掛けた展覧会の作品は素晴らしかった。どおやら今日の芸術の仲々なモノはポストカードの写真やらでは伝えられぬモノであるようだ。
実物を見ればやっぱりを納得できるのだけれど、薄っぺらな情報だけではうまく中身の中枢らしきは伝わりにくいモノになっている。逆に薄っぺらな芸術まがいはポストカードのヴィジュアル程度で充二分に伝わってしまう。つまり、それで全てであるからだ。芸術家の精進振りが薄っぺらでチッポケなのである。
藤江民の小作品であるタイル画は気に入ってコレクションした。手許に置いて一人で楽しむに勿体ないと感じて、わたくしの建築作品に密かに埋め込んでしまった。
最新作らしきの雪肌和紙と言う素材自体と格闘している作品は、コレワ、和風アクションペインティングである。和紙をブッチャブッたり、剥いだり、薄くしたりと「紙」という物質と格闘しているのである。中里和人が写真器を暴力的にと思わせる程に長時間露光させて、人間の眼ではうかがい知ることが出来ぬ闇の中の岩石や、渚の光景を写し取ろうとしているに実に近いのである。
藤江民の作品(最新の)はまだ未見である。四月十八日~五月一日の東京での展示会に期待しているが、、、ギャラリーの展示で、その価値がうまく発揮されるかはどおも解りようがない。それが絵画であり、同時に絵画の枠を踏み出しているからだ。和紙という物質そのモノの転生になっているように思われる。ヨーロッパのカテドラルや僧院にはステンドグラスによる色光の集中がある。日本にはそれは無い。しかし、京都大仙院の襖絵にはほのかにその色光らしきが実に微細に表現されていたりする。藤江民の和紙再生作品を建築の一部として組み込めないかと楽しみなのである。
1 昨夕オーパでつまんだホヤは旨かった。東北唐桑の海辺で食べた洗面器一杯のホヤを潮の匂いと共に想い出した。津波の前の唐桑臨海学校の建設現場はユートピアであったなあ。鯨テキも良かった。主人の大森くんが市場に出掛けて仕入れたと言う。
「やっぱり市場に行って仕入れないとダメなんだなあ」
そおだよ。建築も料理も現場が大事なんだと一人ごちる。ホヤの香りに東北の人たちの続くであろう苦労がしのばれる。気仙沼・唐桑のあの十年間はわたくしのキャリアではやはり宝物であるが、何にも今は出来ていない無力も痛感する。安婆山の植林だけである。今は黙してゆかん、いつの日かの北帰行を胸にとどめたい。あの唐桑臨海劇場での6年間の体験はとても建築物として表現することはできぬ、とそれだけは今はわかる。今夏、気仙沼安婆山の花は咲いてくれるだろうか。
唐桑の元町長佐藤和則に電話した。
「浜は今はもうコンクリートづけです。国のやり方は、、、。早く決断すべき事と、もっとゆっくり決めるべき事があるような気がするんですけどねえ」
東北の海辺の町や村には台湾の僧侶が一人歩いて、馬鹿にならぬ金を喜捨して巡礼したと、風の噂に聞いている。まだ会えてもいない幻の僧である。その巡礼の僧だけが独人、見事な行動をしたのであろうか?防潮堤などのコンクリート建築物は全く、長い長い眼で考えるならば愚の骨頂であるのは言を待たぬ。渚は、すなわち浜辺は島国日本にとってその国家としての生命の源なのであるけれど、それは宗教家らしきの本モノしか直観し得ぬモノなのか?渚はアニミズムそのモノである。
1 「中里和人写真展の印象」
惑星と名付けられた写真群は夜景ばかりの海辺や磯波しぶき等の写真である。この写真家は石のコレクターでもあり、鉱物(物質)としての石に興味を持ち続けているのは前から知っていた。石と言えばロジェ・カイヨワの「石」の著述が思い起こされるが、カイヨワの「石」は入り込む事が出来ぬ「石」の内部へのスペイン人らしき異常な偏執狂的想像力の産物である。それはつまる処、宝石にたどり着く。中里和人の想像力は闇に浮かび上がる原初の風景とでも言うのだろうか。地球は太古海から全てが始まった。人間もあらゆる生物も海から生まれたのである。中里和人はその地質学的想像力(関心)を持って、そして写真と言う技術の成果を使いながら、地球の原初の風景に迫ろうとしている。カメラはその機能を使い切り、人間の眼では視ることが出来ぬ闇の中の風景を露光(出)させることが可能である。この主に海辺の夜の風景とも呼ぶべきは実に人間の眼の力では及ばぬさらに遠い何者かを視ようとしているのである。その何者かとは、これは地球の太古への物質としての地形の歴史なのである。写真のアニミズムである。
1 昨日も現場にて幾つかのスケッチをしながら設計の微修正を試みた。この微修正がわたくしには必須である。中庭の東側の不完全な壁の向かいにある世田谷区公営住宅の三階に上り建築の全体をよおやく見渡す。小さな建築にもやはり全体はあるのだからナアとつぶやきたいネ。でもこの全体を通常の視点の高さからはほとんどの人が視ることもない。しかし眼に入らぬだろう細部への工夫無くしてはこの全体を設計者としても視る、すなわち自身で納得することもできない。 スーパースタジオがフィレンツェの洪水に際し、得た一葉のドローイングは彼らを近代建築史に残すことになるだろうが、ここはフィレンツェならぬ東京世田谷である。フィレンツェの洪水に際して彼らが得た幻視は東京世田谷ではまるでカルカッタ(現コルカタ)の大雨の風景である。こおやってスケッチしてみるとやはりフィレンツェと東京世田谷は遠い。はるかな距離がある。昔、NHKに「バス通り裏」という番組があった。♪小さな庭を、真ん中に、お隣の窓、うちの窓、、、♪の唄が毎夕だったかTVに流れた記憶もある。 ジョン・キーツの詩作の根は「受容的可能性」にあるとの評論があり、教えられて読んでみたら「受容的可能性」の親玉はウィリアム・シェイクスピアとの事であった。シェイクスピアのアノ手この手の主体無きとも、あるいはカメレオンの変幻自在を想わせる創作形式であるらしい。シェイクスピアを持ち出すのは、でもしかし恐れ多いのである。やはり東京世田谷は「バス通り裏」なのである。ヒッチコックの「裏窓」のスリラーも無い。でもそんなバス通り裏にだって小さな、かけがえの無い庭は作れるのである。しかし、かくの如くの場所での、それでも創作と言うべきは随分なエナルギーを要するものではある。
1 今日の現場はよおやく全体の骨組み(ボリューム)を眼で確認できるだろう。前面道路からのファサードが呑み込めるかな。ファサードとは古い言葉だけれど、特に狭い敷地での仕事には必然的に発生してしまう。ファサード側にデザインしている引き込み電源及び電話線等の電気系の多さに対応するのに大径の柱が必要となった。それを生かそうとスケール規準器の如くを、特にその高さを昨夕現場でより低くするのを決めた。この空間規準器はアスプルンドの森の葬祭場の十字架と同じに、周囲のゴチャゴチャした空間にビシリとある尺度を与えようと考えついた。
2 太いゴムチューブは外壁の大波小波メタル材のコーナーを制御するためのものだったが、それがどおやら898に描いた如くに、やはり空間制御の役割をし始めているようだ。
1 だが現場は動くのでイソイソと出掛ける。今日で小さな建築のガタイが姿を現してくれる予定。建築は大きければ大きい程に建築家の本来的な力を発揮できるのだけれど、この建築は実に小さいのである。一番建築家としての手が打ち様のないスケールであろう。が、しかし、繰り返すけれど、それが面白くてほぼ毎日現場に通っている。 設計もほぼ全て終了して、何故そんなに現場に出掛けるのか?それは建築は設計の大枠だけでは、その本当のドンヅマリの姿らしきは姿を現してくれぬからだ。ドンヅマリの姿らしきと言うのは、当然の事ながら、スキあれば何処かでウッチャリ逆転を狙っているからである。その逆転と言うべきは現場にはり付いて、あらゆる時間空間(環境)がキシミをみせてくれるのを待つのである。
2 この小建築を取り囲むのは東西北にそれぞれ4軒3軒3軒の住宅群と、南は前面道路を典型的な世田谷区の住宅地の中に建てる小建築である。 だからわたくしとしたら、結果20軒程の小住宅、及びその住民の方々の、ここに住む意志のようなモノに適う何物かを考えざるを得なかったのである。 「受容的想像力」あるいは可能性と言った言葉が仕切りに頭に出没した。この小建築は立派な大きい公共的建築とは決して言えない。が、しかし立派で大きくなくとも周りの住宅及び住宅地から浮き上がるのではなく、むしろ沈み込む如きの姿形を持たせたいと考えたのである。周辺の世田谷的住宅は一軒一軒の家は住み手の、それなりの意志(都内二十三区)に棲む、という気持ちを表現したモノである。都市らしい都市と言うべきに棲むのには住宅は建築らしさへの希求から自らを脱落させねばならない。
1 師であった野の人川合健二は一時期パートナーでもあった丹下健三について不思議なことを言っていた。丹下健三も又、大建築家として自立する以前は決して短くはない教師時代があった。ただ彼は教師である事を徹底的に厳しく利用し得たのである。川合がほとんど奇跡的に野の人として自立し得たのは丹下さんは全く金をくれなかったからだ。自分の事は自分でせよと突き放されたから。とマア、グチに非ず良く言っていた。それで川合は技術商人として一本ドッコになったのである。糧を得るのにそれこそ必死な行動をとらざるを得なかった。その必死さは鬼気せまる者ではあったナア、と今は懐かしむ。彼の歩いた道はアルチュール・ランボーが詩作を捨てて砂漠の商人になったのと同じである。それは資本主義社会に於ける自由の残酷な形式としての生き方でもあった。
2 「作家論磯崎新」は磯崎の言によれば「天敵歴史家鈴木博之」についても触れねばならぬと心に決めてもいるが、更に川合健二についても丹下健三との関係を垣間見た者としては入り口として記すべきであろうか?仲々大変な事になってきてしまっているが、作家論は一生に一つだけ書けば良いのだから、これは曼荼羅状にならざるを得ないのだ。
1 左官職人に良い人材がいるのでその能力を最大級に生かしてみたいのと、飛び切りな天井を作らせてみる。天井高が低いのでそれは必須であろう。
1 若い頃に川合健二から鉄の薄板圧延板(コルゲートシート)を徹底的にたたき込まれた。それで今度の建築のような軸材(線材)による建築には正直うとい感がある。世の常識である軸構造に関して、わたくしは初心である。それで現場に居続けてあきない。眼に入るモノが全て新鮮なのである。鳶職達もこんな設計者は珍しいようであった。しかし軸構造方式は木構造から受け継がれたモノが多く、本来の鉄(金属)構造の可能性とは少し違うのではあるまいか。薄板圧延板による巨大な構造物と、その内に水平、垂直を旨とする軸構造を投入する如くの形式を一度是非試みてみたいものである。気仙沼のリアスアーク美術館はそのアイデアのかなり初歩的なモノであった。 建築の構造は小宇宙としての人体に限り無く接近してゆくのだろう。
2 現場に出現していた金属階段の下で小さな空間の実験ができそうだと気がついた。この鉄板の小スペースに子供たちのために飛び切り面白い極小空間が作れるかも知れない。昔、インナーヒマラヤで出会った巨大なアンモナイトみたいなのが階段したに蠢いていたら面白いのじゃあなかろうか。隣家の樹木がニョキリと顔をのぞかせていても良い。
1 「福島のにわ」はわたくしにとって「ひろしまハウス」プノンペン建設、そして気仙沼安婆山植林計画(安藤忠雄と協同)に地脈を通じるモノである。重要なことはキャリアの全てを賭けるに等しいの自覚もある。
2 それ位に「福島のにわ」計画は、時間を魔物のように喰い尽くすだろう。
1 建て方の鳶職人の動き言葉に耳を傾ける。「小せいな」「オモチャみていだ」が鉄骨に触れた職人の印象である。意を強くした。確かに鉄骨フレームは2階建ての高さだが、周囲の家並みよりもズーッと低い。現場監督も「周りの家より低いですね」と驚いていた。様々な理由で低く小さくなったのだが、設計者としたらそこの処にこの小建築をヤル意味を見出してゆかねばならない。それを現場の風に吹かれながら痛感した。幾つになっても現場に吹く風は色々な事を教えてくれる
2 夕方になり、室内の仕上げに関して、いささかのアイデアが生まれたのでノートにメモしておく。小さが取り柄の建築だから。更に小さなアイデアを集中しなくてはならない。基礎部分に施した波型のシワが建築の小ささに微妙な力を与えてくれるのも実感できた。
1 ひろしまハウスをプノンペンに建てたときには自分には充分な時間と体力があった。アレと比較すれば今は少し計りキツイ。若くないし、体力も落ちている。でも何とか、出来るだろう。しかし、キリスト教会の方々のためにだけ何かヤルと言うのはダメだろう。宗教、宗派を超えて行かねば意味もうすい。その辺りのことを牧師と相談してみたい。
1、GAYAドキュメントはすでに100部以上手渡しているのだが、実質的な行動だけの報告であり、どうも逃げが無いようで、これは長く続けるのに酷だなと考えるに至った。それでも少し気軽なメディア関連の性格が強いのを作ってみたいと考えた。GAYAドキュメントがGAYAの実体報告としたら、これは対社会的な宣伝・工作の部類に入るだろう。
GAYA MEDIAと命名する。
1、建築の異形群 国書刊行会発刊
2、絶版書房より発行の、小林澄夫作「まんもすのかげ」発刊
3、3月のGA ギャラリー及びGA HOUSESへの出店、および新作発表
4、アニミズム紀行9 絶版書房
プーラン族への計画案、DVD16分程および、石山2016年2月原稿
が主なる内容であり、3のGAギャラリー関係の項目には、今年は一人でインドへ行きスクール運営をすることになった佐藤研吾のヴァローダ・スクールおよびベンガルスクールでの講義録に関する広告が含まれることになる。
2、何につまづいているかと言えば、広告文というべきの文体に関して、どうもグラグラしている。これがささいな事であるからこそ、実にムヅカシイのである。特に2の小林澄夫の「まんもすのかげ」の売り出し広告が厄介極まるのである。自分で自分に、こんな事やってて良いのか?といぶかしむ気持ちも正直にあるし、コレシキの事でビビッテいたらどれ程の者かと考え直したりで、こいつが一番危ないのはよく分かるのである。ひ弱なアナーキストを売り出す才質なんぞは今のわたくしにはないのにね。
6時半離床。上天気。今日は房総半島へ小旅行する。長靴を持って地底トンネル(洞穴)探訪である。
2、今日の小旅行は中里和人、小林澄夫、佐藤研吾とわたくし石山の例の4人組である。
3、この4人組の特色はと言えば、何をやっても銭の世界とは無縁状なところがあることだ。でも中里和人はわたくしの知る限りでは、一番着々と小さな売れそうにない本(写真集)や写真の個展を開き続けている人間である。売れても、売れなくっても、そんな事には我関せずの感じがある。この人物は伊勢松坂の由縁ありと聞いた事がある。ところが今度の小さい旅のつれづれに聞いたところでは、どうも宮崎は高千穂辺り、正確には焼き畑農業が現存するので知られる。しい葉村がそのルーツであるそうな。最近その親戚の者を訪ねてしい葉村へ行ったら、自分の顔とそっくりな人間に出会ってしまい驚いたという。なんとなくこの人間にはヒドク古層な深さがあるようで、伊勢、高千穂高天が原は日本神話の捏造の宝庫ではあるが、それは中里和人の罪ではないのである。プロレスのアントニオ猪木とヤマトタケルの尊が入り混じった顔をしていて、これは凡庸なる大和民族の顔ではない。色濃く南方系の血が通っている。
4、「小屋の肖像」は良い仕事であったけれど、アレはせいぜいヘンリー。デービッド・ソローの「ウォールデン」の森の小屋作りくらいのモノに過ぎなかったが、今や彼はより古いマサチューセッツの森の民、あえて言えばネイティブ・アメリカンの世界へと歩を進めて行こうとしているやもしれぬ。
わたくしの関心事は「アニミズム」であるから、近々それとの接点が生まれるかも知れない。
5、一番初めに観たのは岩谷観音である。この実に小さな石窟群は第1窟から第14窟まである。何やらインドの石窟群と似たような並べ方であり、奇妙だ。第1窟は社に鍵がかけられており観覧不能だった。一窟の裏手に回廊状に彫られた第二窟は、インドの初期の二三世紀の窟院に在る形式を真似てつくられている。これは驚きである。歴然として、これはインド初期の寺院の性格である。
1、昨夜来「建築の異形群」のゲラに手を入れ続け、ようやく今朝終了した。末尾に言うべきを付け加えた。これで始まりと終わりが蛇がシッポを噛む如くになって、自分なりにようやく納得している。
書き進めながら、実に稀有な時代を希有な資質の所有者達と過ごしたの実感がある。
1、国書刊行会よりのゲラ、「建築の異形群」をじっくり、現場事務所で読みふける。だいぶん読みやすくなっているが、多少、手を入れる。建築と同じに、わたくしは書物も多作ではない。だからゲラは手許に置けば置く程に手を入れることになる。
2、日本の近代史は浅く短い。そして更に、日本の近代建築史は更に浅く短い。
「建築の異形の群」で書きたかったのは、浅く短い歴史の只中を、それでも何とか借り物ではない、人間の生を、表現しようとした数少ない建築家群である。そしてその極小史でもある。
1、昨夜はオーパで林部誠一さんにお目にかかり話し込んだ。林部さんは烏山で魚屋さんをやってる人だ。
2、花園神社では唐十郎の状況劇場が赤テントをゆらめかせていた。面白い時代であった。あの新宿で、しかも三丁目でBARやってたんだから、強者である。これはイイ男と知り合いになれたものである。良く生き残れたなと痛感する。
3、西の道路側に木のカケラをお持ちくださいの看板を吊るしたりした。世田谷村の改装がとりあえずはひと段落した。旧い風呂場を手直ししたので古材の青森ヒバやらが廃材として出た。捨てるのも勿体ないので、以前にもやった様に、道を通る人たちに向けて、木のカケラでも持って帰ってもらおうと考えたのである。
4、そんなことで下の地面階をうろついていたら、藤野忠利の芸術作品やらにもぶち当たってしまった。これは芸術作品だから通りすがりの人々に持って帰ってみらうにはチョイト惜しい。で、そうだ今やってる現場に埋め込んでしまおうと考えついた。だから今日のコンクリート打ちに間に合うように現場へ持って行って、捨てコンらなぬ、捨てアートにしたい。さぞかし藤野忠利も喜ぶであろう。万が一怒ったら、それは芸術家じゃネエの話である。具体派の生き残りの藤野忠利の作品らしきも大いに生き返るのではなかろうか。
5、藤野忠利の芸術作品は子供達の足洗い場の床に埋め込むことにしたい。丁度、ビー玉や何かの栓なぞを埋めこもうと考えていたんでピッタリだろう。豪華な足洗い場になるであろう。青森ヒバの古材も分厚くて良いので手許に残しているのだが、アレは埋め込めぬから、何か別の生き返らせ方をしてやらねばならぬ。
1、今日はコンクリート打設なので現場に出掛けてみる。
2、GA JAPAN139号が送られてきた。作品レビューは隈研吾の三作だけど、あとは「建築への旅、建築からの旅」と題された建築を巡る旅の特集である。わたくしも少しばかり話している。わたくしのインタビューでは毛綱モン太との江戸から東北への栄螺堂をめぐる旅、磯崎新とのチベットの旅、そして鈴木博之とのシチリアの旅が付け加えられ、同行者によって旅の本質は左右される、とサブタイトルが附されたものである。二回のインタビューを試みた編集部のコレワ手柄である。やはり、旅そのもの、建築そのものよりも、人間とそれとの関わりが一番面白いのだから、人物論の匂いがする、建築論らしきは読者に分かりやすいのかもしれない。読み返してみればやはり我ながらかなりゴッツイ人物たちと旅をしてきたんだなの気持ちが強い。旅には、どんな種類の旅がであるにせよなにがしかを切り拓いていかねばならぬ現実との対比がある。それは遊びに見えて実は遊びではない。時に、創るに似た痛みさえ伴うのである。体力気力が衰えてくるとどんな旅も不可能になる。
夜になって万歩計のデータを見れば、なんと6880歩の少なさである。コレはイカン、安藤に笑われると恥じて、無理矢理世田谷村内を歩き回って、ようやく7047歩に迄、たどりつかせた。これは連日、一万歩なんてのは夢の又、夢ではないか。彼が東京に状況の折、東京駅のプラットフォームを必死になって歩いたという話を聴いて、何とバカな事してるかと笑ったが、コレワ、笑った俺が阿呆であった。
1、10時過北烏山の建築現場へ。外階段、そして子供たちの外遊びようのスペースのための基礎配筋および、給排水ダクトの埋込み作業他を視る。
同時に外壁の寝未板の隅部納まりに使用する堅ゴムのフレキシブルダクトの大小径を見比べて、大きなモノをセレクトした。この部分はこの建築の表現の要である。だから、念には念を入れて確認作業を続けた。
2、気仙沼の畠山さんに今春の樹木の植林計画について連絡。又、国書刊行会の永島さんに、まだ早いけれど出版記念の会について相談する。
3、午後世田谷村に戻ったら、安藤忠雄さんよりの「万歩計」が届いていた。ウーム、やるもんだなあ。大阪で「歩かなアカンデ」の連続であった。帰京して一日空けての午前中指定便での「万歩計」である。
安藤忠雄の建築デザインにも通じる、人間のあらゆる機微に精通した眼があるな。それも、そこらのチョッと気の利いた商人たちの心遣いの水準を超えている。これは真似ようにも真似が出来ないのである。
ベイシーの菅原に用があって電話したついでにこの「万歩計」の話しをしたら、いたく感じ入っていた。タモリやJAZZの人々にも「万歩計」の話しはすぐに伝わるであろう。こうして安藤忠雄は世界の安藤になった。この全体が人間の実力なのである。
今更、わたくしが真似したって万歩計が、最初の一歩計になってしまうのがオチである。わたくし奴はやはり自分流で無愛想な、憎まれ口をたたき続けるしかないのである。