音の神殿 11
世田谷村の二階平面図は原理的には神殿造り、である。高床式に構えられたデッキに部屋状のプランが散らばっている。部屋のまわりには縁側のようなスペースがあって、部屋の周囲を人が歩く事が可能だ。
母は自分の居場所を西端に決めた。
部屋は壁で構成されている。二層のデッキに壁を挟み込んで部屋が作られている。壁は木製(つが)の柱にシナ柾ベニヤを落とし込んでいる。釘は一本も使わずに止めてある。止めは木栓である。組立て家具の如くに作った。木栓で止めた木箱だと考えたら良い。
その木箱に母は仏壇を持ち込んだ。
仏壇の他に、栗の木の飾り戸棚と、飾り台の三点を新しく持ち込んだ。
イヨイヨだなと覚悟した。
母はこう切り出した。
「この栗の木の茶ダンス、覚えているか」
「イヤ、覚えてない。」
「コレワね、私が、お前を連れて、どうしても欲しくって、買ってきた茶ダンスだよ、お前が三才の時のモノだ。」
「六〇年前のモノか。キレイなマンマだね。」
「そうだよ、大事なモノなんだよ。お前をリヤカーに乗せて、町迄、買いに出たんだよ。それで、又、お前と一緒にリヤカーに乗せて帰ってきたんだ。忘れるものかね。私の最初の買い物だったんだよ。」
三才の記憶は今は無い。失なった。しかし、母と一緒に家を出た記憶は強く残っている。四、五才の頃だったか、母は私の手を引いて家を出た。一九四八、九年の事だった。
今度は、私は荷車に乗せられたりせずに、田舎の白い道を母と一緒に歩いた。駅迄は遠かった。
そんな記憶が母の話しと、小振りな栗の木の茶ダンスから、はっきりと脳ズイに映し出された。
世田谷村は一瞬、劇場と化した。六〇年の歳月を飛んで、私は記憶を取り戻した。
それに、どんな価値があるのか、まだ良くは解らない。しかし、ハッキリとした歴史が、世田谷村に現われたのは確かである。
世田谷村の住居部の下の地面には、家のカケラが散乱している。
ここには以前、やっぱり、もう六〇年位昔になるかの、家内の両親が建てた平屋の家屋があった。ほぼ、寿命が来ていて、それは取り壊した。しかし、瓦や木軸の木組みは捨てられずに持っている。何故か、捨ててはならぬという声が聴こえている。あるいは、声にならぬ、音声の如きがある。響きと言っても良い。
人間は、何故、死者を懐かしめるのに、物質にその感情を持ちにくいのだろうか。
あるいは、時間を経た物体を好む人間と、ピカピカの新品を好む人間とは別種の人間なのであろうか。
母が持ち込んだ、三種の神器ならぬ、茶ダンス、変な小物群、そして仏壇は世田谷村に、今、低い響きを立て始めている。下の家のカケラ達も、それに呼応し始めるのは必定であろう。
石山修武