石山修武
 音の神殿

 

 

 

音の神殿 13

 母が置いて、又、去った、三種のデク。大黒様、ロケット弾状の木片、インドネシアのヒョロリの女人像。この一つ一つのいわれには、ましてや形状に、母の家、終の棲まいを設計する根拠は無い。
 又、それ等のいわれ、形状から、いかなる物語りを強引につむぎ出しても、それ程に得られるものは大きくないだろう。
 ただ一点、八十六才の母が、自分の最後の棲家に残して置きたいと考えた、デザインしたモノ達の群である事だけに意味がある。
 栗の木の茶ダンスと仏壇、父の写真にも同様、同等な意味はあろう。これ等は今でも、田舎の完全に近代化(モダンナイズド)されたとは言えぬプリ・モダーンな家を訪ねると、数多くの額縁入りの肖像写真が長押の上に掲げられているのと同等である。天皇、皇后の写真も並べて飾られたりもしていた。
 写真技術が蔓延してからの、先祖達、あるいは戦争や病気で死んだ人々の記憶が、ギャラリー状に座敷に掲げられている。素封家の座敷には絵画、銅像までも置かれている。これは、ハウスギャラリーである。しかも、家人の表現した作品ではなく、その家自体の記憶が展示されている。だから、家の総体としての原像、天皇皇后の写真も並列されていた。その更なる典型が仏壇である。位牌を中心に、組織された先祖霊の集合が家を作り出していたのである。
 今でも、盆・暮の帰省ラッシュの小旅行はこの先祖霊達が引き起こしている。まだ彼等は生きている。そりゃ、そうだろう。世界というのは膨大な死者達によって構築されているのであるから、消されようが無いのだ。
 それは、さて置く。仏壇の先祖はインドであるから、それで私はデカン高原のアジャンタ窟院、そしてエローラ窟院へ迄、巡礼していたのであろう。アジャンタで得た初期的な音の神殿への構想の足掛りは、要するに仏壇内の出来事であったのだ。

 母は母の家をデザインしていた。
 世田谷村の母の部屋に置き去られた、三種の棚と、それ等を従えた三つのデクで。この併置のデザインを読む必要がある。
 私は私の母の家をデザインする。
 三種の神器ならぬ、三種のポストモダーンとも呼ばれた建築をテクストにして。これ等は歴史上のデザイン語彙の引用集積を特徴とされるポストモダーン風デザインにくくられている様だが、実はその枠には入り難い建築群なのである。
 一、は毛綱モン太の給水塔の家
 二、は渡辺豊和の餓鬼の舎
 三、は石山の幻庵である。
 二の餓鬼の舎に関しては、渡辺豊和はまだ元気に活動中なので、彼とのダイアローグの形式を借りてその価値を読み解く試みをサイトで開始しているので、そちらをテクストにして欲しい。
 それ故、ここでは一の給水塔の家と三の幻庵について読み進めてみたい。

 毛綱モン太(毅曠)一九四一年〜二〇〇一年
 毛綱は反住器(母の家)の作者として近代建築史に足跡を残した。
 神戸に毛綱アリの噂を聞いたのは誰からであったか、今では覚つかぬ。一九六〇年代は、まだ情報は肉眼で記憶され、肉声で伝えられる事が少くはなかった。彼を広くメディアに取り上げたのは、亡くなってしまった「室内」編集発行人山本夏彦であったか、と記憶している。
 「都市住宅」(1967年創刊〜1986年終刊)誌が若い建築家達の共通のフィールドであった。死語になってしまったが左翼ッポイ雰囲気をグラフィカルに表現していたものだ。そして、チョッと当時からブルータスッポイもの、つまり消費社会の傾向をよく体現していたと思われる。
 毛綱の「給水塔の家」はプロジェクトとして、この都市住宅に発表された。 一九七二年。
 石山修武

 


 

音の神殿 12

 母の三種の神器、栗の木の茶ダンス、仏壇、阿弥陀三尊ならぬ、デクの三兄弟としか呼びようの無い、オブジェ三体。
 一体は明らかに大黒様。
 中央は何やら不明な、でも何かの立像。
 向かって右端に、インドネシアの何処かで手に入れたのであろう、女人立像。これは、ホッソリとしているが、他の二体は、あくまで、ズングリとしっ放しな、ブツである。いずれも木製。
 大黒様の前には、これ又、いかにもな、大黒様に決まりセットであるうちでの木ヅチがドデンと置かれている。母は金銭欲はそれほどに無かった人間だが、貧乏教師に嫁いできちゃったので、それなりに、金の有難味は良く、良く、知っていた。
 真中の得体の知れぬ、砲弾状フォルムの像を、母は「ここのお守り神だからね」と勝手に決めつけた。何の因果で、あるいは何の根拠で、そう決めつけたのかは知らぬ。
 しかし、その口振りには、ウムを言わせぬ響きがあった。
 母が、そう断言した途端に、そのデクの棒状は世田谷村の守り神になってしまった。守護神である。インドネシア産らしき、ホッソリスタイルの女性像のいわれは何も話す事は無かった。
 大黒様、黒いデクの棒状守り神、と、母なりのバランスをとったのであろう。その母なりの、配置のデザインを面白いと思った。

 これらの引越しは、黒猫ヤマトの引越しのプロの手になった。飾り戸棚の、沢山な小物のアレンジは皆、彼等が彼等なりにやった。
 ところが、母には母なりのアレンジが全てにあるようだった。
 「みんな、違うんだよ。直さなければ。」
 とつぶやいていたから。
 だから、この三尊の配置は、余程大事なものであるらしく、全て、母の手で修正され、母なりの定位置に置かれたのだった。

 キッチュの配列、と片付けるのは簡単だ。
 それは、ただの解釈であり、つまらぬ批評でしかない。
 ここには精一杯のデザインがあり、母なりの技術らしきが使われていると考えたい。(時間があれば開放系技術論 5/21-5/22 を参照していただきたい。)
 ここには、明らかにデザインの現在の問題がある。
 母は、ものを作るのが好きな人間である。グラフ用紙に、作りたい家の平面図を描き始めると、止めようが無い位だった。借家であろうが、ささやかな持家であろうが、常に改修計画を考えるのが趣味の人だった。過去形で、だったと書くのは、流石に八十六才になってプラン作りは、ほぼ、あきらめた。第一になにしろ金が無い。息子の私も、母がかなえられぬマンマの普請好きを実現する力もない。
 「しっかり、しろ。」
 とは昔からの度々な叱責であったが、こればかりは自分の事で精一杯である。でも、家作りに突破口が開けないと悟るや、かくの如き、記憶のカケラ状のモノ達のアレンジメントに没入するのだった。

 ここ迄、グラリ、ダラリと書き連ねてきた事共の中から、いささかを拾い上げてみる。

 音の神殿、設計の準備を始めてみる。
 一、スケールの問題
 二、時間(記憶)の問題
 三、消費生活の組織化へ

 今日(六月八日)の段階で、要約するとこの様になる。

 設計を進めてゆく時々に、これ等はより具体的な言葉に置き換えられるだろう。その置換、取り替えの進行がデザインの現場だろう。現場は、先ず脳内に構えられる。
 石山修武

 

音の神殿 11

 世田谷村の二階平面図は原理的には神殿造り、である。高床式に構えられたデッキに部屋状のプランが散らばっている。部屋のまわりには縁側のようなスペースがあって、部屋の周囲を人が歩く事が可能だ。  母は自分の居場所を西端に決めた。
 部屋は壁で構成されている。二層のデッキに壁を挟み込んで部屋が作られている。壁は木製(つが)の柱にシナ柾ベニヤを落とし込んでいる。釘は一本も使わずに止めてある。止めは木栓である。組立て家具の如くに作った。木栓で止めた木箱だと考えたら良い。

 その木箱に母は仏壇を持ち込んだ。
 仏壇の他に、栗の木の飾り戸棚と、飾り台の三点を新しく持ち込んだ。
 イヨイヨだなと覚悟した。

 母はこう切り出した。
 「この栗の木の茶ダンス、覚えているか」
 「イヤ、覚えてない。」
 「コレワね、私が、お前を連れて、どうしても欲しくって、買ってきた茶ダンスだよ、お前が三才の時のモノだ。」
 「六〇年前のモノか。キレイなマンマだね。」
 「そうだよ、大事なモノなんだよ。お前をリヤカーに乗せて、町迄、買いに出たんだよ。それで、又、お前と一緒にリヤカーに乗せて帰ってきたんだ。忘れるものかね。私の最初の買い物だったんだよ。」

 三才の記憶は今は無い。失なった。しかし、母と一緒に家を出た記憶は強く残っている。四、五才の頃だったか、母は私の手を引いて家を出た。一九四八、九年の事だった。

 今度は、私は荷車に乗せられたりせずに、田舎の白い道を母と一緒に歩いた。駅迄は遠かった。
 そんな記憶が母の話しと、小振りな栗の木の茶ダンスから、はっきりと脳ズイに映し出された。
 世田谷村は一瞬、劇場と化した。六〇年の歳月を飛んで、私は記憶を取り戻した。

 それに、どんな価値があるのか、まだ良くは解らない。しかし、ハッキリとした歴史が、世田谷村に現われたのは確かである。

 世田谷村の住居部の下の地面には、家のカケラが散乱している。
 ここには以前、やっぱり、もう六〇年位昔になるかの、家内の両親が建てた平屋の家屋があった。ほぼ、寿命が来ていて、それは取り壊した。しかし、瓦や木軸の木組みは捨てられずに持っている。何故か、捨ててはならぬという声が聴こえている。あるいは、声にならぬ、音声の如きがある。響きと言っても良い。

 人間は、何故、死者を懐かしめるのに、物質にその感情を持ちにくいのだろうか。
 あるいは、時間を経た物体を好む人間と、ピカピカの新品を好む人間とは別種の人間なのであろうか。

 母が持ち込んだ、三種の神器ならぬ、茶ダンス、変な小物群、そして仏壇は世田谷村に、今、低い響きを立て始めている。下の家のカケラ達も、それに呼応し始めるのは必定であろう。
 石山修武

 


 

音の神殿 10

 母の故郷である岡山県吉井川沿いの小さな町、佐伯町。
 廃線になった片上鉄道、備前矢田駅跡。その名残りのプラットフォームから山につづれ折れして登り、北向観音の洞穴で、音の神殿は停止していた。  停止していた、とは異な。もともと神殿が動く筈ないだろう、と賢明なる読者はいぶかしむだろう。
 しかし、私のサイト全体は動く建築として設計されている。それが段々意識化され始めている。であるから、私の音の神殿は動くのである。
 岩手県一ノ関、JAZZ喫茶べーシーの暗がりから物語は出発した。いきなり星降る地球の屋根チベット高原、そして、ヒマラヤを隆起させたインド亜大陸、デカン高原へと飛び、北向観音に停車していたのである。
 まるで、うまく走れない銀河鉄道じゃないか、と皮肉な眼差しを飛ばした人がいたら、それは、当たり。
 音の神殿は「銀河鉄道の夜」を下敷きにした、建築的架構作りの試みなのである。
 もちろんのこと、私には宮沢賢治の才のカケラ程もない。しかし、賢治をテキストにした数々のパロディ群、その中の秀品であった、唐十郎の唐版「風の又三郎」の、その又パロディくらいなら出来るんじゃないかと、思い立ったのである。パロディという呼び方は後ほど修正を要するが。
 廃線になった片上鉄道、岩手、天空との交信、それ等が、いささか乱暴にスリップし、ショートした。

 唐十郎は一時の低迷振りから、少しは抜け出たようだ。唐版「風の又三郎」は、航空自衛隊員の、飛行機を盗んでの失踪事件を下敷きにしていた。
 高田三曹だったかな。自衛隊航空基地から飛び立ち、行方不明になった事件である。新聞の三面記事となり、すぐ忘れられた。唐はその記事に触発されて、脚本を書き上げたといわれる。それが唐の創作の方法の幹らしきものであった。
 これは既に多くの指摘がある。

 唐十郎の小説は、唐十郎の演劇程に、また、その脚本程には面白くない。その基本的な性格が、実は極めて建築に接近するベクトルを持っている。

 物体を呼び集めての演劇の組立てに唐は才を発揮した。新聞の三面記事を特異に読み替えてゆく才能と同様に、それが唐の創作の両輪であった。

 水道の蛇口、自転車、荷車、注射器、鏡、眼鏡、杖、塩昆布、どてら、時計、といった小さな物体が、役者の肉体と同様に、等価に並べ立てられ、役者の口から、その物語が紡ぎ出された。
 それが、小劇場としては、多くの観客を引き付けた要であった。観客は、物語を物体を媒介にし、役者の肉体を通して、普段より、より身近に感じることが出来たのだ。特に、物体は、ありふれたモノであればあるほどに、唐十郎と観客を仲介する回線になり得たのである。
 作者の想像力、構築力の一方的誇示に終りかねぬ、近代演劇には稀な回路であったと言えるだろう。
 焼跡に残された廃屋の、水道のカランに耳を当ててとか、古い音の時間へと遡行することは出来ない、というような事を唐は書いていた。ロートレアモンの、手術台の上のこうもり傘とミシン、は現実を超える意識の、ともすれば幻想的になりがちなのを覚醒させる道具として引っぱり出された。
 同様に、唐の物体群は、唐の激しいノスタルジィへの道しるべであった。

 ノスタルジィは誰もが愛してやまぬ愛玩物である。たとえ、無惨な戦争でも、それを時に懐かしむのが人間なのだ。
 唐十郎のノスタルジィの力はあまりにも強かった。それ故に、それは像をハッキリと結ぶために、一点に集約され過ぎた。戦後の焼跡どまりになった。そこを巡り続けたのである。

 母が世田谷村に仏壇と共にやってきた。私の「音の神殿」はようようにして、動いたのだ。
 石山修武

音の神殿 01

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