HOME :

世田谷村日記
Setagayamura Nikki Diary
二〇五〇年の交信 渡辺豊和X石山修武
 開放系技術論
石山修武 Pieces of Story

 Nikki 2007/05/21
 A piece of Story in Setagaya Village

 世田谷村に落ちていたカケラである。開放系技術論にすでに書いたが、この土地には、有史以前も人が暮した可能性は薄い。家内の両親がこの土地を入手したのが六〇年程昔。当時はこの辺りは全て農地であった。
 今の家を建てて、しばらくして、下に残してあった平家の築五十数年の家を取り壊した。その際に屋根瓦は再利用しようと考えて、大事に保管した。だからこのカケラは、その際にこの土地に残された一部であろう。
 最近、小さな家庭用菜園を作り始めた。それで土地を随分掘り返した。石や、色んなカケラが出た。その一部は道端に捨てた。

 そのカケラの一部をスケッチしたものだ。
 カケラをスケッチしてみようと考えた事が、自分には大事だ。
 このカケラは随分前から気になっていた。何故、気になっているのかは良く解らなかった。そういう事は誰にも時々ある事だろう。
 しかし、今日、それが何故なのかの糸口がつかめた様な気がした。それでスケッチを残そうと考えたのだ。

 最近は、良くスケッチをする。メモも日常的に書こうとしている。日記スタイル友人との交信スタイル、エッセイスタイル、絵だけのモノ、とバラバラに多様である。我ながら垂れ流し状態だなコレワと気付いてはいる。
 全てバラバラにしか思えない。でも全て、やりたいからやっている事だ。どれ一つとっても、頼まれ仕事はない。全部、自分を何かの形で表現しておきたい、と考えての事だ。ウェブサイトにアップしているから、誰でも読めるし、観る事も出来る。つまり、今という時間に手軽な芝居小屋、あるいは無料冊子を放り出しているに等しい。
 バラバラにしか思えない。しかし、全て、やりたいからこそ、やっている事でもある。バラバラである、しかし、どうしてもこうしておきたいという一点では同じなのである。石山というあくまで私的な生き方がバラバラに日常的に何かを表そうとはしている。

 日記だけ読んでればイイヤの読者には、ウェブサイト上の記述や、画像がバラバラである事、そんな事はどうでも良い事であろう。しかし、開放系技術論を読んでヤローの読者には、物足りないものが残るだろう。
 当然、読者が物足りぬものは自分だって物足りない。その物足りなさが、どうやら飽和状態に達してきた。
 そこで NIKKI 2007/05/21 の A piece of story in Setagaya Village を描いた。この一片のスケッチはだから、バラバラになり続けて何年にもなる私のウェブ・サイトの、要石だと考えて描いた。
 世田谷村日記と開放系技術論に何とか方法的連関性を持たせたい。しかし、これは至難の技だ。日常生活を、モノつくる事と全て関係づける事は先ず、不可能である。しかし、開放系技術的生活とは、極論すれば、モノつくりながら生きる事、それを目指して生活しようという事だ。

 このスケッチは、バラバラに散逸し続ける私のウェブサイトに、一つの物語りの基準枠を設ける為の編集方法の物差しである。
 ここには明らかに何かが表現されている。先ず第一に、これ等の、道端に捨てたカケラに関心を持ち続けた事。それは、その物体が美しいと感じる計りではない事。その事を示さねばならぬので、レイアウト枠状のフレームを画面にワザワザ描き込んでいる。物体の美らしきを表現するのであればコノ枠は不要だ。関心の中心が、物体の光沢や質感、色彩感、フォルムには無い。
 それでは、関心は何に向いているのか。観ようとしているのは何なのか。それは、この物体がかって所有していた、何者かの全体像への関心なのである。
 この断片から人間は、それが所有していた人工物の全体を想像する能力を持っている。それは、知覚能力の極みでもあろう。歴史認識、科学的情報の編集能力、人間生活への総合的把握力などの成果を組み合わせようとしなければ、全体像の復元は覚つかない。

 開放系技術論、あるいは開放技術的実践とは、この一片のカケラから、本来存在していた全体像を復元するに酷似した世界観そのものなのであり、その全体世界をつくる方法たろうとする振舞いでもある。
 又、その復元的意志が、何もないところから何かを作り出そうとする振舞いとは異なっている。少し計り、論理の土台世界が狭小になるが、モダニズムデザインを大前提とした考え方とも明らかに異なっている。

Setagayamura Nikki
 Nikki 2007/05/22
 B piece of story in Dun Huang, the Gobi desert

 敦煌千仏洞への砂漠中にある、二世紀に作られた豪族の墓近くに、転がっていた石片である。興味深いモノであったので持ち帰った。
 敦煌の壁画よりも何よりも、それが目的で行ったのではなかった豪族の墓には仰天した。三、四階建くらいの塔状の直方体が完全に地中、砂漠の地下に埋まっている。その埋められた塔は実に見事な建築の姿をしていた。力強く、構築的で、建築物本来の記念碑的性格を見事に体現していた。ただし地表には、ほんの小さな土マンジュウしか姿を現していない。建築は地中に完全に埋設されていた。死者の永遠の眠りつまりその記憶を祈念しようとしたのだろう。

 この石片は、その墓の建設と関係あるものかどうかは知らない。しかし、地上に現われていた小さな土マンジュウ状の丘の表面で見つけた。ただの石ではなさそうだ。表面に朱色の模様状の装飾がある。石に耐久性のある塗料が塗られて、それが千八百年程の時を経て、表面に固着したものなのか、どうか。それとも石本来が持っていた装飾紋様なのか、解らない。考古学者であればきっと調べようがあるのだろうが、そこまで調べる情熱が一向に湧かない。

 要するに、この石の有様は、開放系技術世界のものではないのだ。A piece は明らかに、開放系技術世界への入口を示すものだ。しかし、この B piece は違う。
 何故なら、この B piece からは、何かの社会的産物の全体像を想像する事が難しい。不可能に近い。もしも、この石に在る装飾的紋様が、人の手でつけられたものならばまだしも、それは不明だ。万が一にも人の手でつけ加えられた紋様であるとしたら、その意味から、このカケラが属していた社会の全体像が追求できるかも知れない。何かの呪文的意味か、卜占的な世界への入口なのであろうか。縄文式土器が日常生活では併存していたに違いない、弥生式土器のカケラに出会ったようなものだ。
 この B piece は A piece と比較すれば、それが内在させる諸性格が余りにも完結し過ぎているのである。A piece は、それ自体では何ら完結した性格、形態ともに無い。それ自体に閉じて、自己充足した意味を持ち得ない。
 ジョバンニ・バチスタ・ピラネージは、そんなカケラの持つ意味を深く知っていた。古代都市ローマの大理石製地図「フォルマ・ウルビス・ロマエ」の断片は良くそれを示している。考古学的なカケラ一片の持つ壮大な叙事詩を読むことができた。それを彼なりに嘆じてみせた詩が、ローマの廃墟に住み暮らす人々の、バラック小屋の数々の風景(ローマおよびその近郊における墓所の遺跡他)である。
 ピラネージが描いてみせた、このローマの廃墟への小屋掛け建築の有体は、開放系技術的風景そのものである。そこに描かれた風景はこう語っている。
 「廃墟がただの構築物であることを脱け、建築としてある種の神話性を帯びるのは、それが崩れ落ち、カケラの集積になった時である。
 そして、そのカケラに人々が、それが断片であるからこそひかれ、とりつかれ、それに一体化したいと願う時、そこに人間の本来の物体への夢、それを自己同一化したいという欲望が出現する。人間は、対象が未完結で閉じられていないからこそ、それをより完全な自己の世界のモノにしたいと、深い内的欲求から夢見ようとするのだ。
 人間は物体をよりよく、全うさせようとする欲動の持主である。それぞれが、それによって自分を表現したいというだけではない。それぞれが、自分を良く生かそうという、全体性への意志とでも呼ぶべき自由を持ち続けているからなのだ。

Setagayamura Nikki
HOME

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2007 all rights reserved
SINCE 8/8/'96