| |||||||||||||
二〇五〇年の交信 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
渡辺豊和X石山修武 | |||||||||||||
石山修武二十一通目 | |||||||||||||
渡辺豊和様 しばらく、音信不通で失礼いたしました。インドに一週間程出掛けておりました。漫画学校の計画が着々と進んでいるようで、心強く思っております。御健闘を祈ります。
私の方はようやく世田谷村での猛暑の夏も終り、体調も回復しましたので、仕事に本格的な復帰をしようと考えています。本格的再生という覚悟の為には「南インドの旅」は我ながら効果的であったと自覚します。旅をしてもロバはロバのまんまだ、とは山本夏彦の名寸言ですが、自分を振り返ってみれば誠にその通りなのに驚きます。 インド亜大陸の近代の特徴は、やはりイギリスの植民地政策を抜きにしては考えられません。今の日本が構造的にアメリカ帝国主義らしきの植民地である事と根本的には、タイムラグはあるにせよ酷似しているように思います。 ポンディシェリはインドに於いては珍らしく、ここはフランスの植民地でありました。都市の姿が他のインド諸都市とは全く異なっていました。どう異なっていたかと直観的に言えば、それはイギリスと少々違う農業、農園、農村的なヴィジョンが都市の植民地化に色濃く働いているように思われました。 例えば、この事は東南アジア諸国の植民地の歴史を考えてみても歴然としているように思われます。例えば、ヴェトナム、カンボジアを考えてみても農本主義的傾向が強いではありませんか。 カンボジアのレッド・クメール、ポルポトを考えてみれば、彼の近代化の考えがフランス留学でつちかわれたものであった事は歴然としているし、毛沢東主義に対するフランスの寛容さ、ある種の同調の傾向もハッキリとあると思われます。 岡倉覚三、天心の「アジアは一つである」という大アジア主義はすでに昔のものとなってはいるが、ヨーロッパこそEU連合体の形成はとも角、より以上にヨーロッパは決して地政学的に単一とは考えられぬのも歴然としているのではないでしょうか。 建築デザイン畑を考えてみても、イギリスのハイテク建築とフランス人の現代建築観とは大きな開きがあるように思います。イギリスはやはり産業革命の発生の地ですから、そのベースは技術観らしきであるでしょうし、どうもフランスのそれはそれとは異なる筋かた形作られていると思われます。 そんな思い付きを、ポンディシェリのアシュラムセンターや、オードビルに建設中の共同体デザイン等からハッキリとうかがい知る事ができました。 ヨーロッパ近代にも色んなディテールが計り知れぬ程にあるのだなと、思い知ったのでした。それを植民地としての歴史から学ばねばならないところが我々の辛いところではありますがね。 まだまだ不勉強なのですが、ポンディシェリのアシュラム共同体の特色は、それが極めてフランス的感性の産物である事のようでした。
何故、こんな遠廻りな事を言うのかといえば、我々のモダニズム批判は今思えば、いささか単純過ぎて荒っぽかったなと考えるからです。モダニズム、反モダニズム、あるいはポストモダニズムという思考形式自体に、それ程の実体が無かったのではないかとも考えるからです。
これから必要なのは、ヨーロッパから、あるいはヨーロッパ近代が生み出したバーチャル国家アメリカ合衆国から、東アジア、ひいては日本を眺めてみる、そんな視線なのではありますまいか。これは仲々に厄介な事であり、歴史家の仕事のようにも思われますが、それでも我々はそんな視線を直観的に持たねばならぬのではないか。 これが返信が遅れた理由ではありませんが、今回は交信らしきの再開を準備する、そのお知らせ迄と思いました。
二〇〇七年九月十八日 石山修武 |
|||||||||||||
渡辺豊和 十六通目 | |||||||||||||
石山修武様 よくも愚鈍なる小生を忘れずに通信ありがとうございます。
先週建築文化の野崎正之の追悼会に上京しましたがこれが昔の建築仲間と最後の会い瀬と思い少々無理をしました。まあそれなりに懐かしくもあり楽しくもありました。 | |||||||||||||
| |||||||||||||
二〇五〇年の交信 01 渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信 02 渡辺豊和X石山修武 |
|||||||||||||
Toyokazu Watanabe Architecture Studio | |||||||||||||
ホーム |
ISHIYAMA LABORATORY