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二〇五〇年の交信 渡辺豊和X石山修武
二〇五〇年の交信 01
渡辺豊和X石山修武
 石山修武 一通目
 二〇二〇年の八月のある日、忽然とニューヨークが消えてしまった。とWは記した。
 随分昔の事だ。
 Wは大部のSF仕立てのファンタジーを残した作家である。二十一世紀の初頭に亡くなったと聞いている。Wの名を知っているのは、どうやら曾祖父の友人だったらしいからだ。曾祖父のIは私の家系でも、ズーッと幹から外れた人で、終生まとまりのつかぬ人生を送ったと聞く。今は中国、インドの巨大複合企業に半ば買収され傘下に納められた東京のW大学の教師でもあったと聞いている。そのIとWとが妙ちくりんとしか言い様の無い友人関係であったらしい。竹林の賢人とはいくら先祖様でもとても言えず、妙竹林としか言えぬのには理由がある。
 Wもどうやら作家生活の合間に教師をしていたようだ。昔、二十一世紀の始めの頃まで、まだ京都と呼ばれていた小都市の大学に勤めていたらしい。今は京都地域はイスラム銀行の管理下に置かれ、ミニ・シラーズとも呼ばれている。ちなみに東京はニューヨークならぬ、5th(フィフス)ヨークと今は名が変った。東京はかつての帝国アメリカの今では世界でも数少ない植民地都市なのだった。
 街中に新型式のモスクが建ち並び、昔のままのアラビア語のコーランを尖塔から宙へと響かせている。これらの、まだ昔ながらの形を持つモスクはイスラム教の数ある宗派中でも最も過激な保守派イスマイルのものである。ミニ・シラーズには何故だかイスマイル派のモスクがとても多いのだ。歴史家達の最近の研究成果によれば、それはWの作家活動の成果によるものだという。
 Wは旺盛な作家生活を過ごしながら、時に驚いた事に建築家としての顔も持っていた。少なからぬ数の建築作品を日本列島のいたるところに残していた。イスラム建築風のドームや塔、そしてイコンらしきが混在するスタイルなのであった。二十一世紀初頭、つまりWが亡くなる頃は、その建築はほとんど世に受け容れられなかった。と言うより評価される事はなかった。ようやくにして、Wの建築が、もしやあの無評価は歴史的に間違いであったのかも知れぬ、彼は日本には稀有な予言者であったのではないかの意見がボツリ、ポツンと見られる様になったのは最近の事なのだった。昔、京都と呼ばれていた小盆地の小都市が、ミニ・シラーズの名に改変されてからの事だ。

 W再評価のきっかけとなったのは、彼自身の手になる大作SF小説が、彼の死後次第に読者を増やし続け、その読者達の熱烈な支持運動が始まりであったのは、今では良く知られた事実でもある。更に、その再評価のうねりの小さなきっかけとなったのが、これから語り始めようとしているWと曾祖父Iとの、実に妙竹林極まる往復書簡と言うか、連歌状のやりとりの記録の発見にあったのだ。

 WとIは膨大な量のやり取りを交わしていた。二十一世紀初頭の世俗の時代、彼等の孤立振りを、それは良く示すものでもあった。又、不思議に冷め冷めとした形式のやり取りであったのも発見者を驚かせた。二人の関係が通俗小説の如くに冷め冷めとしていたのではない。双方共に、その孤立を自覚するが故に冷め冷めとせざるを得ない眼の持主に育たざるを得なかった、そんな類の冷え方であり、森閑とした有様が描かれていた。

 その、やり取りの資料、発見のいきさつについて先ずは記すのが常道であろうが、後廻しにする。又、資料自体もいまだ未整理で錯綜としている。その全体が体系的に把握されているわけでもない。特に、書き、描かれて、やり取りされた時間について、彼等は異常に意識的な操作を、共にしていた。日付の一切が消されていた。どちらが、いつ何を送り、それに対していつ、どのようにして応答があったのか、のいわば証拠の一切が消されていた。

 双方共に今は世に居ない。だからそれを確かめようもない。しかし、この様は妙な仕掛け、つまり記録から時間を一切消す事に、意識の大半が費やされた事は事実だろう。生前の彼等はそれ程の意識家であったとは思われない。ささやかに残された彼等の記録を探っても、その性向は殆ど何処にも見てとる事はできぬ。むしろ、彼等は無意識の宙空に自分を表現しようとする幻視者を意図していた様にも見受けられる。幻視者は外から見れば夢想気味な非現実家である。多分、その性向も大いにあったに違いない。
 しかし、?
 そんな彼等が何故こんなに時間を消去しようと躍起になったのだろうか。その事にだけは意図的であろうとしたのだろうか。極めて個人的な私有物でしかありようのないこの類の記録に、何故、異常なやり方をもぐり込ませようとしたのか。

 WもIも双方共に、この極めて私的なやり取りの記録が、私的でなくなる可能性を誇大妄想的に信じていた風がある。ただ、現実に埋もれるであろう記録、彼等の確信に満ちた声明の如きものが、何時頃、誰の手によって発見されるかは、彼等にとっても不明であった筈だ。彼等の死後、すぐに発見されてはゴミのように捨てられるだけだ。又、余りに遅きに失しても同様である。発見されるべき時期の想定にこそ、彼等の意識は集中された。

 かくの如き発見の方法が彼等にとって理想的な状況であったのかどうかは知らぬ。又、時間には異常な迄に情熱を傾注した仕掛けをこらした彼等の事であるから、発見された資料の整理が進むにつれて、次の仕掛け、次の意図が更に白日にさらされてくるやも知れぬ。それは解らない。繰り返すが、封印されて発見された資料は今、読解中の最中だ。

toyokazu
 渡辺豊和 一通目
 1998年のことだ。国際コンペ「100年後京都グランドヴィジョン」にWが応募し入選したのが「再生平安京」だ。ここで計画の七原則を想定している。
 ・名所旧跡の全面保存
 ・自動車交通の全面廃棄
 ・土地公有化と一戸建て住戸の全面禁止
 ・家庭全エネルギーのソーラー化
 ・運河、グリーンベルトによる地区の隔離と自給自足
 ・都市人口の均質配置
 ・残余旧市街地の緑地返還
こうした上で市街地人口密度を旧来の倍とし市街地を半減させ残余を緑地農地に返還。建築は全て木造で中、高層。平安京の坊条の南に巨大な池をつくり「虚の平安京」とし坊条は橋とする。
 出す以上は最優秀をねらうということか随分と楽天的だ。
 こんな京都が100年後に実現しても実は少しも面白くない。事実実現はしていない。現状はミニ・シラーズなのだから、むしろ何かに蝕まれるようにして朽ち果てていく様を想像した方が遥かに刺激的だと思ったらしい。そこで自分で打ち建てたつもりの七原則をひとつひとつ潰しているメモがある。以下しばらくはそれをまずお知らせしたい。
メモ1。
 まずは名所旧跡の全面保存だ。
 京都が朽ち果てたのちに名所旧跡はどうなっているか。殆どは石ころが方々に散らばり、木々は密生し草ぼうぼうで見るも無惨な形になっているだろう。この予想は当然すぎるからこうなるまでの「京都人」の徒労を予想するのもあながち無駄な夢想ではあるまい。京都にやってきてあと数年もすると50年になる。その間に知った京都人の心性をいくばくか我が身に投影して朽ち果てるまでの悔しさを空間表現に置き変えたらどうなるか。
 名所旧跡は庭と建築が対になっている。金閣、銀閣みなそうだ。建築の高さも20メートルを越えるものはない。例外があるとすれば清水寺だ。小高い丘の上に建ち斜面を利用してはいるが庭はない。これを料理するのはのちだ。
 庭と建築の名所旧跡を文字通りの箱庭にしてしまう。勿論築地塀その他の歴史要素は完全保存し、それをコンクリート箱型建築群で囲繞する。
 市街地をまず単調にすることで名所旧跡を特異空間化して内包する。京都人は名所旧跡が危機に瀕したら多分このくらいのことは考える。彼らがしなくても彼らの先祖霊が憑依したオレならそうするはずだ。
 こういうイメージをまず抱いたのだがふとコンクリート箱型だけの単調極まりないスタイルでどういうわけか世界的レベルに到った建築家のことを思いだしてしまった。
 彼は大阪出身、名所旧跡といってしまえばみもふたもないが関西の伝統的風景を目立たさせる手立てとしての箱型コンクリートだったのかもしれない。好意的に見るとそうなる。
 まあ彼のことはどうでもいい。それでも彼流の建物が建ち並ぶだけの市街地ではぼく自身はどうも納得しかねる。京都人の祖霊憑依だけのオレはそれで充分というのだがやはり駄目だ。
 高さ10メートルの箱型建築の上部を無数の蛇が這いずり廻る。そんな形の木造三階建てをのせ市街地全体を覆う。勿論名所旧跡となる箱庭、穴は避けてある。
 蛇のような執念といういいふるしたコトバがあるが京都人は男でも女くさい。女ではないから女が腐ってしまっている。その男たちが小さな蛇を身の内に飼っている。蛇のような執念は普通は女の執念だから彼らの小さな蛇は腐っている。先祖も今の男とあまり変らなかったであろうからその祖霊も小さな蛇を身の内に飼い腐らせていたに違いない。
 古今や新古今の歌人たちはそんな先祖だった。彼らの霊がオレに憑依しているのだからやはり腐った小さな蛇が憑依している。
 それがうぢゃうぢゃと街中這いずり廻る。
 建築は基本的には入れ子だから小さな蛇を少し大きな蛇が包み、それを更にもっと大きいものが包む。何重かのうぢゃうぢゃ蛇の群れの入れ子を想像すると最初に想定した市街地がこうして朽ち果てへの道程を経ると飛躍してしまう。
 京都は蛇の入れ子で市街地を覆うイメージで朽ち果てていく。他の世界の都市はどう変容すると夢想できるかは今のところよくわからない。
 都市というよりは宮殿だがぼくは都市をイメージするとまず最初ペルセポリスの廃虚を思い浮かべてしまう。あれは主軸が正確に真北から20度西に傾くがBC500年の最盛期には冬至の午前零時南天にシリウスが燦然と輝いている方向だった。とぼくがその時代の天体図から探った結論だが果してそうかどうかは正直自信はない。それでもこれは「聖方向」ではあろう。
 しかし京都の末路を考えるときペルセポリスの廃虚と対比させてみたいという誘惑には抗しきれない。
toyokazu
 石山修武 二通目
 Wさん、今モロッコの旧都フェズに居ります。一昨日、メクネスのインターネットカフェで二〇五〇年の通信、第一回目に接触しました。イスラム都市ではまだホテルにコンピューター回線が備えられているのが稀なようです。しかし、新市街、旧市街(メディナ)を問わず、街にはインターネットカフェが増殖している様です。多くの老若男女がカフェのコンピューターにつながっています。
 今度の旅は同行者がパソコンを持ち歩きましたので、リアルに世界時間と接触しました。貴兄の曼荼羅都市の映像も、イスラム都市でコンタクトすると、非常に切実な世界の様で新鮮でした。
 貴兄の建築の優れたものは常に色濃くイスラム建築風のスタイルを持っていた事などが思い起こされます。しかし、イスラム建築の数学性が欠落していたなと痛感します。貴兄の建築の本質は、その本格的な欠落性にあるのですが、それはおいおい述べる事にいたしましょう。それはとも角として、イスラムの古い都市で貴兄の考えの一端に触れた体験は新鮮なものでした。彼等イスラム教徒が早く貴兄の考えに遭遇する事を強く望みます。インターネットのコミュニケーションからは何が出現し得るのか想像するのもいまだにまだ少数の人間だけがリアルなイマジネーションを持つにとどまっている段階だと感じています。コンピューターの可能性はその計算能力の拡大にとどまるものではありません。コミュニケムションの世界化の可能性を示すものです。奇形、異形とは形態の障害性の事でもあり、障害性は観念の過剰さと裏腹な独特な欠落性にある事は歴然としている。
 マ、貴兄を相手に積まらぬ解釈学は無意味ですがそんな事に思いを馳せたりもしていました。
 曼荼羅はどうやら古代インドのアニミズムに源があるかに聞きます。曼荼羅も又、コミュニケーションの道具であり続けたのではないでしょうか。
 この貴兄との交信状態をコンピューターのスクリーンで対面しているのは一種の曼荼羅の組織細胞の一端に触れているのと同じです。スクリーンに現われる図像や文字、言語そのものの光り方、発光状態こそが曼荼羅の目指したものであるようにも思えます。
 私はそんな視方、考え方から貴兄の曼荼羅都市に対面してゆこうと考えています。旅というものは思いがけず、ボンヤリと感じていただけの事を鮮明に自覚させる効用があるようです。
 現代の都市の夜景を上空から眺める時、それは曼荼羅そのものであるように考えたい。発光都市は異形の曼荼羅です。私は先ずそれを絵にしてみようと思います。
toyokazu
 渡辺豊和 二通目
メモ2

自動交通の全面廃棄

 こうなってしまうと南北街路では烏丸通りや堀川通り、東西ならば御池通りなどは広すぎて退屈な道路になってしまう。
 しかも3階まではコンクリート箱型建築で埋め尽くされてしまうからなおさらだ。
 こんな退屈な道路の交叉点に京都人の祖霊が立ちあらわれたらどうだろう。

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆえに
  みだれそめにし我ならなくに
                  源融

 乱れに乱れた女の黒髪に融は自分の心を重ね合わせこんなに心が乱れているのも誰のせいでもない、あなたのせいではないか。
 やっぱり女が腐っている。こんな祖霊があれよあれよと何人分も広い街路の交叉点に立ちあらわれてしまう。それが堤灯を持って下から照らしている様を思うと、これを巨大化してみたくなる。
 交叉点に角を突き出す4つの箱型ビルのその角の3階からにゅうと腕が延びる。そのまま延び続けたら当然対角線状陸橋ができるだろう。
 しかしそうはならない。
 幅3メートルほどの腕が交叉点の中心に向って降り斜路となる。中心の円形平面直径4メートルほどを残して斜路が対角線上に四方に延び3階に到る。
 中心の四角形平面の真中に柳が立つ。女の黒髪に似て折からの風に乱れに乱れる。これが一人の亡霊。
 斜面の真中に柳が4メートルごとに並ぶ。そして四方から建築の角に登る。女の黒髪の列のようにだ。
 これだけではやはり退屈だ。箱型建築の角が3階、2階と縦に大きく割れてぐにゃぐにゃ平面のテラスが飛び出してくる。広さは八帖分もあろうか。ぐにゃぐにゃしているから長い所では10メートル近いキャンティだ。
 テラス上は坪庭だった。低木、中木やたらにこんがらがって植えられている。
 交叉点だけではない街路を挟む箱型建築のファサードも2階分縦に裂けそこから同じぐにゃぐにゃテラスが突き出す。これも同じ坪庭。
 こうして京都市街の主要街路がこんな形になれば少しは退屈もしのげるかもしれない。
 ただこれは3階まで、その上はメモ1のままだ。
 それでもIのコンクリートの化物、観音寺の方が圧倒的に無気味だ。特に墓場とともに写っている写真は圧巻だ。不整形が今や彼の特徴となっているがぎこちなさがかえって非日常を喚起する。不具の様式。かつてぼくは自分の表現様式として定着させようとしたが思ったほどには不具にならなかった。何故だったのか。やはり亡霊イメージが足りなかったからではないか。
 それも女が腐った男の亡霊。みちのくのしのぶもぢずり、それでも乱れに乱れた女の黒髪とする平安の想像力は陸奥(みちのく)安達ケ原黒塚の幽鬼を生み出した室町には遠く及ばない。室町の想像力が枯山水や苔庭を創出した。
 このことは留意しておいていいのではないか。

toyokazu
 石山修武 三通目
 渡辺豊和様 第三信
 他人はいざ知らず、面白くなってきました。七〇才間近の貴兄から、女の乱れに乱れた黒髪、そして陸奥(みちのく)安達ヶ原の幽鬼(無知をさらけ出しますが、これは知らなかった。御教示下さい)、そして室町の想像力に関しての寸鉄を帯びた批評を教えられるとは考えてもみなかったのでいささかビックリしました。
 芸能論以来、持前のエロスは一向に涸れようともしないままなのを知って安堵の胸をなで下ろしました。
 他人はいざ知らず、これは極めて私的な交信です。それ故に、時間軸に意図した歪みを発生させようと試みています。その歪みの中に貴兄の言う室町の想像力とやらをほおり込みたい。
 他人はいざ知らず、を自覚しながら、何故ウェブサイトで裸踊りをわざわざ見せるのか、その一見皮相な演技性は何なのか、それが先ずポイントになると考えています。貴兄の、腐った女の黒髪は私にとってはウェブサイトの現実です。初期仏教の究極の修行に白骨止観がありました。愛する人間の死に際して、その死体を野にうちやり、その身体が腐乱し、ウジが沸き、ウジが腐乱した肉を喰い破り、それが白骨になる迄直視し続けるというものです。今は、そんな事自体が想像力の彼方にしかあり得ない。死体をまじまじと視ていたらすぐ捕縄され、大スキャンダルにもなっちまい、ニュースステーションでの馬鹿騒ぎになるのは確実です。
 だから、と少々こじつけ気味ですが、私信をこそサイトにさらそうと言う訳です。今の、何時の時点の今かは特定しませんが、腐った女の黒髪はウェブサイトの現実そのものです。張り巡らされ、管理され尽くそうとしている情報の現実が腐乱している。
 さて少々、性急な直感らしきを述べ過ぎているようです。貴兄が対手だと、どうしてもそうならざるを得ない。それが自分自身の狙いでもある訳ですが・・・・・。

 もう、何時の事であったか定かではありません。忘れるのも早く、速くなりました。デザインにも速力という新手のボキャブラリーが未消化のままに入り込んでいるようですが、こんな事は昔から月日は百代の過客なり、と中国大陸ゆずりの日本的詠嘆の中でイヤという程に繰り返されてきた。その詠嘆の持続から枯山水も、石にカビを生やす、つまり腐乱を擬態させる苔庭も出現したと考えたい。

 本題に戻ります。
 発光都市のスケッチを、先ずはアラブ首長国連邦産のジェット機の内部風景から始めます。
 イスラム狂騒都市ドバイの現実よりも余程不気味なモノに遭遇しました。それがこの風景です。こいつを入口に曼荼羅を考えてみたいと思います。

toyokazu
 石山修武 四通目
 渡辺豊和様 第四信
 日本からイスラム文化圏への飛行は随分楽になりました。とは言え偏西風を相手に飛ぶので時速八百 KM 程の速度で飛び続ける事になる。ただ今は中国大陸の上を飛行できるので昔のように南廻り、バンコク、カラチ廻りなんて事はしなくてすむ位の事。
 かつてシルクロードと呼ばれたアラビアから中国への交通路を一万メーターの上空を 70 KM 程の向かい風に抗しての旅になる。ジェット機の旅は退屈きわまるものではあるが、今は救いがある。座席に備えられたスクリーンに写る映像を楽しめる。映画、ニュース、各種ゲーム等が過剰に供給されている。私は映画は視ないが、飛行位置を示すナビゲーション・マップを視続けるのが好きだ。
 日本を離れ、東シナ海、北京近辺、シルクロードの北ルート、ヒマラヤ山脈の北を通り、イラン北部タブリッツを経てアラビア海へと抜ける大まかな空路を視続けるのが楽しい。何よりも、日本からどんどん離れているのが眼で解るのが良い。
 アラブ首長国連邦所有の飛行機は、やはりアラーの神のおぼし召しというより、オイルマネーの力だろう、内装、什器共に実に豊かだ。暗くした機内の天井にLEDによる星空が出現したりする。地球上空一万メーターの成層圏を飛行する翼付きの円筒断面内に星空が出現する。これを児戯にしか価せぬコマーシャリズム、あるいはトリップの遊園地化等と馬鹿にする事はできないように思う。窓の上は圧倒的な星空です。マイナス 50 ℃の空気の状態、70 KM の風、そして八百 KM の機体速度、薄い酸素などからプロテクトされた円筒状の上部に、星空を出現させようと考えた、人間、多分、機体はEUのエアバスですから、ヨーロッパの内装デザイナーのアイデアでしょうか、キッチュとしか言い様の無い代物ですが、渡辺さん、私はそこに一瞬の曼荼羅を視てしまったのです。
 星空の内の擬星空、つまり貴兄の言で言えば入れ子宇宙。このアイデアは超高層ビルの高速エレベーター等にすでにお馴染みのものですが、十万メーターを飛行する円筒形という現実を自己頭脳内にシミュレーションすると事は急展開します。又、薄い円筒形のメタル一枚の外は死を意味しています。何らかの技術的故障、障害、小事故一つで、この円筒形内は一瞬にして死の世界に転じてしまう。その事は誰もが承知の上で、誰もが空の旅に出ている現実があります。要するにジェット旅客機は時間そのものを買う、ベンティングマシーンである。
 と、ここ迄はチャチな解釈学の変種です。

 密教の修行に必携の道具曼荼羅とは、要するに即身成仏への道具だ。今の、少しぬるま湯的概念に置換するならば、即身成仏とはメディテーションの高位の状態だろう。
 貴兄、そして伊東豊雄氏等との若い頃のカトマンドゥ盆地への旅は、今思い起こしても実に楽しいものでした。あの旅の頃はカトマンドゥやバクタプールの観光客相手のみやげ店には沢山のタンカ、つまり曼荼羅が並べ立てられておりました。
 今は昔、あのカトマンドゥは急転しました。毛主義者達のネパール進出そして点拠状態は街を変えています。曼荼羅は街から姿を消し始めている、少なくとも明らかに減少しているのは確かです。カトマンドゥは今、毛主義者とチベット難民がごった返しの闇の都市になった。我々が共に旅した頃のカトマンドゥ盆地には、少なくとも貧しい平和があった。貧しい街には光が射していたように思います。それ故に、若かった我々はそれぞれの将来に不安を持ちながらも、その光によって平安を得られたように思います。ここで言う光とは、決して文学的比喩の世界のものだけではありません。カトマンドゥ盆地のおみやげ物店に並べ立てられていた安物の曼荼羅にはみな光があった。何故なら、アレは都市を写し出す鏡であったから。

toyokazu
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 渡辺豊和 三通目
 石山修武様
 しばらくメモを続けます

 メモ3
 土地の公有化と一戸建住戸の全面禁止
 京都だけではない。日本の現代都市風景は大小凸凹のビルがゴミと化し乱雑そのもの。しかし欧米の前衛作家たちはそれをほめると聞く。
 他人がほめようとけなそうとどうでもいいがやはり汚いことおびただしい。
 東京ではこれがエネルギッシュにみえなくもなくもない。人々の欲望が風景の喧噪を生み出しているともいえる。大小凸凹も面白いわけではないがこれがなくなると風景は単調になってしまいかねない。
 そこで集合住宅でも面白い方法はないのかと愚考してみる。
 下はコンクリート箱型の羅列。その上は大小の蛇がうじゃうじゃだが蛇が集合住宅としたら実は蛇の胴体をくらげとたこに変えてみる手はある。多足が重要なのだ。足が階段やエレベーターと縦交通になりぶらぶらゆらゆらと箱型ビルに吊り下がる。
 くらげの場合は数層、たこは十数層で住居がつまっている。
 箱型ビルでも四隅には一戸ずつメゾネットで住居を内包し各戸は坪庭を張り出す。
 くらげやたこの足が乱れる黒髪といってしまっては余りに平凡だが坪庭とからめて腐乱、さらに蛇体の中に点々鎖の如く連なるくらげかたこの胴体。
 そういえばこんな形でJR大阪駅北側の貨物ヤード再開発計画コンペで構想し落選したっけ。
 たこの足、くらげの足は仲々うまくいった気もしたのだが。
 庭とは都市空間の腐蝕現象の最たるものではないのか。少なくても京都にあってはそうだ。
 46年前に関西にきて若い頃は京都の庭廻りをした。今もって京都市中の建築には興味がもてないがどういうわけか庭は面白かった。
 和風嫌いなのだから仕方ないのだが庭は腐蝕すればするほどすごみがあり苔庭などその最たるものだが和風木造にはそのすごみがない。単に朽ちるのみだ。
 苔庭はそれでも手入れがよく行儀のよさを強いられ可哀想だがこうでないものがあった。福井大学時代退屈極まる4年間だった。しかし一つだけ面白いものがあった。織田信長に滅ぼされた越前一乗谷朝倉氏の屋敷跡だ。
 枝葉を思いきり横に拡げた樹木がうっそうと茂り丈の高い草がぼうぼうと生える中に朽ちかけた唐破風の門が一つぽつんと建っていた。これをくぐると朝倉屋敷でよくよくみると庭石が組まれ築山もあり池泉らしき沼まである。
 ただ雑草に侵蝕されかつて庭園だったことをわずかにしのばせるだけだった。庭に腐飾のイメージをつきまとわせてながめるようになったのはこのときだったかもしれない。
 このことを積極的にやってみせたのが足利義政の銀閣寺庭園なのだがこれも今では手入れされすぎる。

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 石山修武 五通目
 渡辺豊和様 第五信
 この連休はいかがお過ごしでしたか。今更、ことさらな休みも何も無いよとのつぶやきが聞こえてくるようですが。私の方は休みの始まりに、千葉県外房、九十九里浜に不思議なプロレスラーを訪ねた外は、珍しく、世田谷村で畑作り等してズーッと過ごしました。
 何故、九十九里浜のプロレスラーか、何故不思議なのか、と、それから先ず話したいと思います。「発光建築」よりも、何よりもそれを急ぎたい。
 世田谷村には時々、世代の異なる若者達が来訪します。好奇心の旺盛な人間達が多い様です。しかも、建築には無関心な者が多いところが好ましい。私の方も建築、建築、又建築の袋小路から、会話だけでも抜け出せます。何週間か前にS、Aの両君が来村しました。S君が息子の友達、の関係です。両君にはその前に一度会いました。後楽園ホールで共にプロレスを観戦したのです。後楽園ホールはエッグ・ドームの後楽園スタジアムの近くにある小ホールです。後楽園スタジアムは野球読売ジャイアンツの拠点球場。少し前まではメジャーなプロスポーツのメッカでもありました。今はご承知の通り、優秀なプロ野球選手は皆、アメリカのメジャー、つまり大リーグに出掛けてしまいますから、後楽園スタジアムは残った者だけの、つまりもぬけの空のマイナーなスタジアムになってしまいました。と、言うよりも、元からマイナーな存在であった事がより明白になった、とも言える。グローバリズムの功徳です。
 後楽園ホールは、後楽園スタジアムと比べれば元々日陰の存在でした。ボクシングや各種格闘技に供される小屋のようなものです。S、A両君はプロレスのファンで、それで何かの拍子で私を誘ったのでした。そうでなければ自発的に出向く場所ではありません。
 若者に導かれて出掛けた後楽園ホールには実に独特な気配がたち込めていました。6試合程のプロレスマッチを観戦しました。生まれて初めての体験でした。正直なところ、プロレスに関心があっての事では無かった。プロレスはまるで知らぬ訳ではない。半世紀程も昔の力道山 vs ルーテーズの試合は何処かにTVを観に行きました。中央線三鷹だったかの駅頭であったか、どうだったか、まだ自分の家にはTVも無かった頃の事でした。スポーツ紙ならぬ、一般紙にまだプロレスの試合の記事が載っていた記憶がある頃の事です。その頃、一九五〇年代でした。日本が一大転形期への道を自ら求めた今から思えば歴史的な時節でした。
 それは、ともかく。さておいて。
 後楽園ホールは中型劇場程の大きさでしょうか。収容人員五百名程の。その中央に仮設リングがしつらえられ、舞台裏部分に仮設スタンドが設けられ、千人弱程度収容可能な小屋に仕立てられていました。観客は七割程度でしたでしょうか。ポツリ、ポツンと空席が目につきました。聞くところによれば今、同様な格闘技界で盛会なのはK1、プライド等の新興格闘技で、プロレス、キックボクシングは押され気味なようです。キックボクシングは日本では消失したのかな。G・馬場、アントニオ猪木時代を最盛期にプロレスは建築界同様に右肩下がり、長い低迷期を迎え、その只中にあるとの事。
 それなのに、仲々趣味も良く思考力も行動力もありそうなS、A両君が何故、プロレスに熱中し、あるいは熱中しているのかの如く振舞うのか、それが妙に僕の好奇心を刺激したのです。S、A両君とその仲間共に慶応大学出身で、どうやら幼稚舎からの生え抜きの者もいる。これは、どうでもいいように見えて、しかし、チョッと重要です。慶応大学は取り敢えず一流私立大学です、別にどうと言う事はない。しかし、幼稚舎から、つまり幼稚園から慶応族というのは要注意で、この人種はある特別な階層に属しているらしきを示しているのです。俗にいう富裕階層、しかも、日本にはないかに見える名門らしきの子弟が多いと聞きます。S、A両君の身許はまだ知りません。息子も多くを語りません。しかし、後楽園ホールでの二人及び彼等の仲間達が作り出している奮囲気には独特なものがありました。汗の匂い、つまり労働の気配が一切無かった。
 彼等の少なくはない部分は大学中退、あるいは留年中という事で、学生でもなく、さりとて勤め人でもないという連中でした。汗の匂いが全くないというのは、つまり、働く必要が無いというのにつながります。それが汗まみれに見えるプロレスに熱中している、それが実に不可解だった。
 不可解は即、だから興味津々これは面白そうだにつながります。

 試合観戦の間中、時々S、A両君は呆気にとられて視入るばかりの僕のところに来て、沢山の解説をしてくれました。その解説が実に面白かった。解説と、現実のプロレスの試合らしきが混成して何とも言えぬ、現代的な空間を体験する事が出来たのです。今、対面している現実と、それを一人の人間の主観交じりの解説を同時に体験したわけです。

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 石山修武 六通目
 渡辺豊和様 第六信
 後楽園ホールでのプロレスの試合は6試合ありました。その6試合の流れ、つまり演出のプログラムの出来、不出来を、どうやらS、A両君、及び彼らの仲間達はなんと、そいつを観賞しようとしているらしかったのです。この感覚は面白い。
 例えば、第一試合。A君の解説が始まりました。
「この試合はですね、無我の新人レスラーがどれ程の力量、力量の中には当然ながら演技力が含まれているんですけれど、試合をどれ程自分で組み立ててゆけるかの構想力を先輩レスラーが試してみるっていう、そんな約束事みたいな、通過儀礼みたいな形式の中の試合なんです。勝ち負けは関係ありません。勿論、観客の大半もそれをわきまえているんです。それを頭に入れて、御覧になってください。楽しんでください。」
 「無我」というのは新日本プロレス協会から分離、独立したプロレスラーが旗揚げした新流派です。プロレス復古運動派とでもいうのでしょうか。なぐったりけったりの派手な、大向う受けするアクションを出来るだけひかえ、プロレス本来の、一見地味に見える技や格闘精神をメインにショーアップしてゆこうのポリシーを中心にしているらしい。
 第二試合は若手プロレスラーがどれ程成長したか、を先輩レスラーの胸を借りて、観客にお披露目するのが主旨だそうです。驚くべきは、その主旨をマットサイドのスポンサー筋、馴染みの観客、そして上階、立見客、歌舞伎座で言えば一幕立見客、(本当のプロレス通観客)共々、暗黙の了解の許に見守っているらしい。
 マット上のプロレスラー、観客共々、一体となった了解の許に演目が繰り広げられているようなのでした。
 解説を受けて、初めて了解できる類の劇場性とでもいうのでしょうか。
 第三、第四試合は、それぞれのプロレスラーのおハコ、つまり十八番、決め技の披露が旨のマットだそうで、その解説通り、かって相手をその技で本当に失神させてしまい、それによって神話的存在になったプロレスラーが、やはりその殺人技、古典的バックドロップで勝利を収め、観客も充二分に満足している様でした。
 当日は往年のスター、メキシコ系のプロレスラーの引退試合も花を沿えました。六〇才前の老プロレスラーが、良くもここまでやるかの頑張りを見せ、観客も別れを惜しんでいる様でした。テンカウントの引退儀式付きでした。メイン・イベントには藤波、西村というスター選手が登場し、試合がすすむにつれ、次第に技も、自己演出力もどんどん高度になってくるのが素人目にもよく理解できました。
 また、レスラー達も三〇代後半から六〇才近くと仲々に年期が染み込んだ身体と技を見せ始め、よく考えられた舞台を観ているような気分に引き入れられるのでした。全て、解説のお陰です。
 又、解説を続けてくれた、A君、S君の弁も次第に熱が入り、徴に入り細も入るという仲々のそれもテクニック振りなのでありました。

 日本の建築界よりも余程進んだ観客とプロレスラーとの関係だなコレワ、と思いました。
 渡辺さん、貴兄と僕の、このウェブ・サイトの交信は、さて、そんな観客を先ずは作りませんかの、プロレスのマット状のものでありたいと考えます。
 観客あってのモノ種なのです。
 今の我々の状態は、初老のレスラーが得意技を見せ技として出し、マットの中央にいて、その廻りをグルグルと、どんな試合にしようかと僕が間合いをはかっている、そんな状態でしょうか。
 まだ観客は、お互いでしか無い。
 先ず、質の良い観客を得なくてはなりません。
 貴兄の特筆すべきキャリアの第一は、残念ながら実見してはおりませんが大阪の喫茶店での、渡辺豊和しゃべりっ放し塾であったと思います。アレは昔で言えば、遊行の乞食僧、空也、行基に比すべき、アレヨ、アレヨの大愚行でありました。これは全然、皮肉でもなんでもありません。街の只中で、自説を説いて廻るというオリジンを貴兄はやってのけた。建築ジャーナリズムがそんな観客を育成するのには役に立ち難いの直観があっての事だったのでしょう。
 その延長上に、このウェブサイトの交信があるはずです。ウェブサイトは一種の記録が残るライブです。

osamu i
 石山修武 七通目
 渡辺豊和様 第七信
 さて、当日の試合の圧巻は西村修の登場でした。S、A両君から、すでに沢山の情報は得ていました。
「癌と闘っているプロレスラーがいます」
「癌と対面して、インドのベナレスで、死生観そのものに出会い、そして身体そのものの力を考えている、そんなプロレスラーです」
「マット界の哲学派」
「プロレスを超越した」
「K大の通信教育に入学して、本格的に哲学を学んでいる」
「インド仕込みの食生活とメディテーションで癌を克服しつつある」
「プロレス・オペラ派とは対極の瞑想派レスラー」
等々、いや、もっと沢山の情報を得ていました。

 癌という業病。
 これに関して、僕は友人の佐藤健毎日新聞記者の死にいささか付き合ったので、切実な想いがあります。彼は毎日新聞紙上に生きる者の記録としてそれを自分の死迄連載しました。遅ればせながら六三才になった今、僕も、どうせ死ぬな、との実感を持つようになりました。少し遅かった。七〇才になったのでしょうか貴兄は。僕より余程、その実感の如きは強いのではありませんか。
 どうせ死ぬな、の覚悟は必然として、世間体や下らん常識、俗論から自由にならなければ、これは非合理だの自戒につながります。
 同時に、これ迄にわずかながらやってきた事への、冷徹な観察にもつながります。
 あぶくみたいな事しかやってないぞ、の辛さに直面する事にもなります。

 話は変わります。
 二、三年前から、生老病死の必定を現実に多く視るようになりました。そして、それに見事に直面しつつある達人の如き、あるいはピクリとも、それでもブレない人間に強い関心を持つようにもなった。

 年長の友人、芸術家山口勝弘は脳梗塞で倒れ半身不随になった。驚くべき事は、それからの作品が実に見事なんです。以前の硬い観念、知識から自由自在になっているのが知れます。又、俗にいえば、そうなってからも絵筆を一向に離そうとしない。そうしている自分に圧倒的な自信を持ち続けてもいる。
 その生命力、生き続け、表現し続けようとする意志には随分と異様に励まされました。作品よりも何よりも、その生命力そのものがメッセージになっていると直観しました。
 他にも何がしかの同様な生きる方法を発見している、あるいは、せざるを得ない芸術家がいます。先行者として、彼等、彼女達を尊敬します。
 数多くの達人達、あるいは天才達は若い頃からそんな事を知り抜いていたのだと、今では知るのです。どうやらエンジニアーよりもアーティストの方が死に対面した時には強いようですな。

 西村修は身体が元手の職業、プロレスラーです。しかも、癌を抱えながらの身体表現を続けようとしている。
 勘違いしないで下さい。こんな、昔だったら決してしなかった直裁な気持ちの吐露に、貴兄は、石山、何か病気じゃないかと疑うやも知れません。年相応の身体の弱り方はしていますが、今のところ病気ではありません、念のため。ただ、何時、何が起きるか知れない現実を視ているだけです。

 プロレスラー西村修の現実に、現代の特質を視ているのだと我ながら痛感しています。

 渡辺豊和 四通目
 石山修武様

 なかなか丁々発止とならずまたいい舞台づくりもできず申しわけありません。「再生平安京」くずしのメモも平凡なんだろうなと気にはなりますがどうもこれをやり終えておかないと貴兄とのバトルができそうもないので少々自分でも困っています。実はここに描いた下手くそな線一つ一つを断片として万華鏡にしてみよう。そうすれば相当面白いことができそうだし貴兄からの通信にも種々様々の変態で少しぐらい目くらましはできるかもしれない。ただしそんなことは貴兄の方が遥かに上手でしょうが。そんなことを思ってはいます。
 はじめが退屈では劇にならないし貴兄のいうとおりです。
 「建たない建築」。若い頃はそれで一生終ってもいいや、その方が余程価値があるとしていたのは小生だけのことではあるまい。今更こんなカビのはえたことを思いだしても仕様がないがピーター・クックの植物に侵蝕された都市はよかった。ぼくの場合なまじ建ててしまったからイメージの鮮烈さが稀薄になっていたのかもしれない。
 それはともかく今「建たない建築」を生涯主題とする建築家を育てる大学の準備におおわらわです。
 二年前だったか三年前だったか「ロード・オブ・ザ・リング」を見ましたがあれの背景都市や建築が評判がいいと聞き、どこがそうなのか理解に苦しみました。
 こんなの昼寝していてもオレの学生の方が余程ましだ。と思うかたわら自分の学生たちを映画の背景づくりにさせるんだったと後悔した。そんな道を考えてもみなかった。ハリウッドに売り込むんだったとようやく気づいた時には後の祭り。それでようやくそんな学生をもう一度つくってみよう。70 才近い自分の最後の仕事になろうと決心した。それが今立ち上げ中の大学です。ただし建築の大学ではありません。
 さて自分の現在はどうか。何をみてもピラミッドと貴兄や藤森に笑われた「巨石」を建築にする方法もあろうかと土嚢を積んでやってみたりしたがものの迫力がとぼしいし、まあ貧弱だ。これから実存をゆさぶる奇想天外は生まれてこない。
 ただ地表は自由なキャンバスだからどんなイメージでも描けはするしそれが「大母」にまで行きつくのはそうむずかしくはない。天上的イメージよりは地獄図的イメージの方が小生にはなじみ易い。
 「京都」も小生にとっては極めて地下的なのだがこれも腐って少しづつしみこんでなっていくといった感じだ。
 いずれにしてもできるかどうかはわかりませんが映像、画像の通信ですから今までどんな映画にもなかったものを構想したい。それにはやはりあと4回分のメモがいるので送ります。
 それはそうと今書いているSFでこんなロボットを考えました。機械的ではないヤツです。一人の人間の脳は生命発生から自分になるまでの記憶が埋込まれていてこの記憶をその人間組成の総量分の有機化合物溶液に転移させ、一瞬にしてその人間のコピーができる。要はモデルの進化過程を一瞬の化学変化に還元するという着想です。フィクションだから気楽な想定です。ただしできたロボットはクローンとは違いモデルの今のまま。新陳代謝その他の生命反応はあるが年をとらず生殖機能もなく記憶の蓄積もできない。だからモデルから転移の瞬間までの記憶のまま。新しい知識、伎倆も余程の強化がなければ身につかない。一家族をモデルにしたら成員全員は現在のままのロボットになる。ある日彼らは金属疲労よろしく突然死んでしまう。  こうしたロボット社会が存在するならどうなるかを物語に挿入して楽しんだりしています。

toyokazu
地の亀裂(ヘラート、アフガニスタン)
 渡辺豊和 五通目
 メモ4

家庭エネルギーの全ソーラー化

 最も簡単な想定は均質な箱型ビルの屋上にソーラー電池がのっていて太陽光を反射してピカピカ光っている。それで全市を覆うのだが箱型ビルには蛇状の木造住居がのたうちまわっていることになっているからこれの屋根にうろこ状にソーラー電池がはめこまれている。計画のときはそんなことを考えていた。これでは余りにも当り前。
 蛇状木造住居にソーラー電池が東西南の三方を囲む細い柱を林立させるなら少しはましかもしれない。その柱がまた風力発電の羽根をつけているのだ。無数の槍がつきささってのたうちまわる大蛇の群れといったところか。ただしそのさきっちょには風車があってからから回っている。
 京都がハイダラバードになってしまうわけではないがハイダラバードが虫喰い状に孔があきそこに草木が侵蝕する。そんな感じなら坪庭に虫喰いされた風景とならないこともない。

  月やあらぬ春や昔の春ならぬ
  わが身ひとつはもとの身にして
              在原業平
 平安朝初期寝殿造りの町並は屋敷のほとんどを庭園がしめ寝殿などの屋根が築地塀越しにパラパラと見え隠れする恐ろしく空疎な風景を展開していたはずだ。そこに住んだ男たちはメソメソした如何にも芯欠きの長袖族。
 この時代から1200年。時々刻々変容していった風景を映像として重ね合わせてみたらどうなるのか。
 地中は地層の重なり具合で更には異地層間に挟まれてある遺物で歴年変遷の様子はわかるが地上はそうはならない。
 しかし地上も地中同様に層の重なりに似せてしまい一層を薄い映像フィルム一枚としその重ね合わせの1200年をはがして立体化する。そうすれば業平の詠嘆も地層間の遺物よろしく時代を信号する。
 いずれにしても映像フィルムの重合立体と「再生平安京」くずしを少しずらして並列させておく。二つの仮想現実をである。そのずれの隙き間に業平から現代の男系子孫を鎖状に連ねて挟み込む。ただしこの場合鎖は螺旋となって地中深くから立ち上がりスカイラインまで途切れない。
 ということは二つの仮想現実のずれの隙き間が螺旋をなしていることになる。
 文学だと煩雑だが画像や映像に再還元すれば明瞭には違いない。
 ともあれソーラー電池の柱が林立する「再生平安京」くずしと時代層映像フィルム立体が織りなす風景まではなんとか辿りついた。
toyokazu
 石山修武 八通目
 渡辺豊和様 第八信
 西村修は一九七一年生まれ、東京出身。ヘビー級のプロレスラー。九八年前までは、普通に人気のあるプロレスラーだったようです。
 渡辺大兄に格闘技の話したって、せんない事だろうとは承知の上で、勝手に一人で場外乱闘状をしてしまいます。場外乱闘というのはプロレスに決まりの、ショー的な見せ場の一つです。マット(リング)の外にレスラーが出てしまって、観客席のより間近で、あるいは観客席の真只中で、なぐる、ける、椅子やテーブルで相手を叩く、というような外道をやってみせる。解りやすいサービス精神の発露でしょうか。
 マットの上、その枠内で肉体をぶつけ合うケンカ状の闘い、それを見せて金を得るのがプロレスです。つまり、興行です。レスリングはルールが多いが、実際にレスリングの技を競い合い、勝敗を競う、アマチュアのものです。シンプルなものです。
 プロレスはもうチョッと複雑な価値体系の上の高度なゲーム状のものらしい。
 単純に考えれば、こういう事です。アマチュアレスリングは純粋な勝ち負けを競い、技を競うものですから、マア、ハッキリ言えば大学野球、高校野球の世界のものでしょう。本来は観客は不在でも成立するものです。ジャッジと選手だけが居れば、成立してしまいます。
 観客は、いても、いなくても構わない筈です。それで、充分に優劣は競えるでしょう。

 プロレスは興行ですから、観客は必須です、観客が居なければ、全く成立しない。その興行益で一つの小世界が喰べて、生活しているのですから。だから、選手の評価は技術、才質(肉体の性能)よりも観客動員力が時に上廻る事になる。それは理屈に合っている。
 観客動員力とは何か、それはある種の演劇性の有無、大小です。見て面白くなければならない。見て面白いとは、何か。当然、それは非日常性、すなわち異形の風につきるでしょう。
 それぞれの人間の普段の生活、普段の人間関係から、思い切り遠く離れているモノ見たさになる。誰が自分の生活の鏡状のモノを見たいものですか。
 普段の生活では、他人を投げたり、なぐったり、けったりする事は、決して許されない。だからこそ、我々は他人、演者を介してそれを思い切り見たいのでしょう。他人と口ゲンカ以外の、身体を使ったケンカでさえ許されない。
 ましてや、血みどろ状の争いは厳禁です。厳罰に処せられます。
 だからこそ、本当は、自分がしてみたいのは隠しおおせても、身近にそれを見たいと熱烈に思っている。そうではないですか。

 プロレスは競技としては八百長だ。シナリオ通りのショーにしか過ぎないと、多くの人は考えているでしょう。だから、スポーツよりも一段も、二段も下のモノだと。
 しかし、ですぞ、あらゆるスポーツは程度の差はあるにせよ、皆、八百長です。全て非現実な架空の世界に属している。
 レスリングひとつとってみても、現実社会では起こり得ぬ条件のもとで行われる事自体が八百長そのものです。八百長つまりゲーム、要するにバーチャル世界のものでしょう。あらゆるルール自体が架空のものですから。フライ級、ヘビー級といった体格が同じ者同士が格闘するというルールの八百長、つまり非現実性。マットの大きさが設定されているという、ゲーム性は、よおく考えてみれば、とても現実、つまり本物世界とは遠くかけはなれた世界です。

 渡辺豊和 六通目
石山修武 様

 プロレスのこと、特にガンの選手の凄絶さや佐藤健さんの連載。なるほど人生のピリオドとはかくありたいと思いはしますが小生自身はのんべんだらりんと年をすごしまるで無為のうちに今年古稀を迎えた。今現在もこれといった緊張感などない至って平凡な日々です。
 プロレスで思いました。小生自身の怠惰を棚にあげてあげつらうのは赤面の至りではありますが今現在建築は如何なる舞台ももちえなくなっているのではないかと痛切に感じています。
 勿論情報の不足があるでしょう。しかし問題作として紹介されているもの、一つとして表層デザインでないものがない。小生がずうとネオモダンと呼んできた傾向は変るどころか拡大している。欧米がそうなのだから日本はおして知るべしだ。
 時代というか歴史に対する鋭敏な感受性、まあ批評が全くなくなってしまった。こんなことはわざわざ言挙げすることではないくらい小生にも少しはわかっています。
 95年の震災以来実作から遠ざかったのは建築が批評を必要にしないほど零落し果てたし今後とも恢復の見込みがないと判断したからです。勿論今現在も状態は何ら変っていないようです。
 その間できたての芸術大学で建築空間イメージが何処まで拡張、深化できるかを学生の感性を刺激することで探ってきました。
 優秀なのはいないのだが刺激ひとつで相当の反応を得ることができました。
 仮想現実が現実を越えてこそ建築表現にも新たな地平が開かれ得ることを実感しました。
 こうして一人の学生をようやく育てあげました。台湾からの留学生でドクターまで小生のそばにいましたから計11年です。今35才位ですがどう今後展開していくのか。
 しかし一人だけではお話になりません。
 小生の方式は仮想現実の拡大、深化だから小生自身がそれを主題とする分野、マンガ、アニメ、映画の大学を創立しそこから仮想現実表現の建築家を育て上げる。こう決心してやりはじめたのは4年前です。
 09年4月には開学を目処にうろうろしているといった態です。
 小生自身の表現を建築の実作もさることながら仮想現実へと傾斜させそれを次代に託すという心境です。
 こんな楽天性、およそ凄絶なピリオドとは遠い。小生にはどうも楽天性はついて廻るのかしれない。仮想現実と現実を対比させて痛烈な批評へと至る道が必ずあると思うし貴兄のプロレス通信で小生には今やろうとしていることこそプロレスではあるまいかと愚考した次第です。建築史の大転換の起爆装置になる大学としたいなどと夢想します。
 さて貴兄から通信を誘われやりだしたのも仮想現実を今度は自分自身に返せるまたとない機会と考えました。ただメモはもう3回で終りますがそれまでは退屈でしょうが我慢して下さい。

toyokazu
ヒューチュアー・ヴィジョン(京都造形芸術大学環境デザイン 学生 1998)
 渡辺豊和 七通目
 メモ5

 運河・グリーンベルトによる地区の隔離と自給体制

 平安京は南北が緯度1分分1.8キロの3倍5.4キロ、東西がここ北緯34度の1分分1.5キロの3倍4.5キロだ。だから丁度緯度、経度3分分の面積でこれを9分割したら緯度経度1分分の単位をうる。坊条は必ずしもその分割線に沿っているわけではない。
 それでもほぼ緯度、経度1分を1地区とみなしてこの周囲を南北幅150メートル、東西に幅180メートルのグリーンベルトか運河で囲む。グリーンベルトは線状の森をイメージした。
 運河は鴨川を思い浮かべればほぼあんなもの。運河かグリーンベルトで囲繞される1地区は1単位の田園都市、270ヘクタール、5万4千人だ。逆にいえばこんな田園都市を9つ集めてある。
 京都が最も単調になったのは応仁の乱で全面焼野原になったときだがもともと単調極まりない風景を呈していたのだから焼野原になって草木がびっしりと生え茂っていてもそれ以前とそんなに変っていなかったかもしれない。
 更に最も凹凸に富む風景となっているのは現在なことも間違いあるまい。
 この現在風景を直線で切り削りグリーンベルトか運河を無理矢理差し込めばひょっとしたらそれなりに面白い風景に変じる可能性もなくはない。
 そうしておいて1単位の半分以上を虫喰い状にちぎって箱型ビルを埋め、全体の屋上に蛇状木造住居をはわす。
 それから何年か何十年か経って凹凸ビルは均一な箱型ビルにとって変わる。
 1.5対1.8は5対6。大きさの違う5対6の矩形が入れ子になっている場合もあれば、まるで無秩序にバラバラに置いてあることもある。
 高さと長辺が5対6なら箱は5対6が4枚、5の正方形が2枚。しかし箱は面がなく稜線だけのマッチ細工でそれが無秩序に重なり合っていたり入れ子だったりする。
 マッチ棒の交点の一つからは必ずヒレ(肩布)が長辺の3倍で強風にはためている。
 これが1.5キロ、1.8キロの矩計、高さ1.5キロの交点からのヒレとしたらどうか。しかも南側の巨大池「虚の平安京」に浮き沈みしている。
 京都でも台風はほぼ毎年通過する。町屋のカワラは飛ぶがかつては桧皮か杉皮の屋根材が風でめくれあがりはためいた。巨大から微小までの無数の鯉幟が層をなしてはためいているに似ていた。
 しかもそれはびっしりとつまっている。つまってうようよとはためいている。その隙間に建物が見え、マッチ棒細工が武骨な姿をさらす。坪庭の松の小枝がかすかに残る空(くう)をつきさす。
 これからは次第に「イスラム都市」に変容というか化けるのだがまずは迷路、迷宮のフラクタルとしてだ。
 現代京都の中小町屋の集合平面は迷宮様相が濃厚でこれを手がかりにそれははじまる。町屋研究は盛んでも奇妙なことに町屋平面が迷路、迷宮を示すことは誰も気付いていないらしい。

toyokazu
 石山修武九通目
 渡辺豊和様 第九信
 アマチュアレスリングになくて、プロレスリングにあるもの。それはどうやらシナリオらしきもののようです。そのシナリオは観客の潜在的な要求を汲みとって、つまり観客と共に作られているものらしい。プロレスの観客の高度な者達は、つまり、S君A君達は当然、プロレスラーのキャリア、肉体の性能、趣向、サービス精神の有無、演出力等をよく知っている。それ故に、試合の流れを読みます。あるいは、その日の興行の演出のシナリオをさえ読んでいます。その自分達の読み、想像力通りに試合が組み立てられるか、そしてタイミングや間合いがいいか、悪いかを、どうやら観に来ているようなのです。演じる者、つまりプロレスラーはその観客の読みにピタリと見事に肉体を合わせてゆくか、どうかの能力を問われている。歌舞伎の見栄みたいなものです。チョーどピタリの時に○○屋!の掛け声があるか、どうかで芝居の盛り上がりも別段にものになる。
 西村修はどうか。
 西村修はどうやら、そんな高度な観客達の読みを、大筋で少なからず、外しにかかる者らしい。こうくるんじゃないかのゲームの予想とは違うモノをマット上に演出するらしい。あるいは私生活他でも演出する者のようです。
 なぐる、けるの派手なアクションが受けるだろう、その時に、延々と地味な技の連続を演出する。寝技による決めの際に、穏やかなヨガのポーズをとってみせる。無意味に思われる逆立ちを延々と演じる。等々です。まだ一試合しか観ていないので上手く言えない。これもS君A君の話によれば、どうやら、そのようなのです。
 そこに彼等は惹き付けられているのではないかと、気がつきました。そしてそれは、もしかしたら、我々の表現方式と何処かで通じるのではなかろうか。

 西村修が、どうやら自覚的にそんな振舞いをするようになったのは、一九八八年に癌をわずらい、手術、療養生活から復活してからの事のように思われます。
 プロレスラーにとって肉体は全てであるでしょう。その肉体の危機に対面し、自力、他力あわせて、それを克服してからの事のようです。
 何が彼に起き、そうなさしめたのか。
 西村修は肉体の消滅、すなわち死と対面した。その体験を忘れないだけの事でしょう。忘れないだけの事と我ながら簡単に言っちゃってますけど、これは、そこから生還し得た者の特権でもある。僕なんかは平伏する計りです。しかし、その気持ちの状態を予測、想定できるようにはなった。年の功とでも言いますか。
 生死は紙一重だと痛切に知る事でしょうか。同時に一瞬の時こそが生の全てである。人間の一生はまばたきの一瞬のようなものだ。これは字に書くと、実に臭みプンプンになるものですが、でもそうなのでしょう。

 西村修は死との同床から帰還しても、プロレスラーである事を止めなかった。今はそれしか出来ぬ自分をも発見した。そして、今の彼のプロレスのスタイルを明らかにし始めた、そうなのだと思います。
 西村修は本格的な異形の者になった。
 プロレスラーはその存在自体が異形です。肉体そのものに華が無い者はプロレスラーにはなりようがない。更に、その上に、西村は精神をも合体させた異形の者になりおおせた、と思います。

 つい先日、千葉県外房九十九里浜に西村修を訪ねました。勿論、S君A君等の手引きによります。

 石山修武十通目
 渡辺豊和様 第十信
 千葉県外房州九十九里浜、大東。大波が押し寄せる。ここは日本有数のサーファーのメッカである。上級者にはそれなりの大波が、初心者には乗るに易しい波が、それぞれに押し寄せる。
 西村修道場はその海沿いに走る国道に面している。西村がアメリカ・フロリダの拠点にしているタンパに似ているんだろうか。二〇〇八年九月、北京オリンピックでの中国大躍進に日本が度肝を抜かれている最中。ここで西村修と渡邊豊和が出会った。そのマット上の会話はS君A君等によればまさに口の格闘であり、とてつもないスレ違い平行棒の如きであった様だ。両君の記録したメモより、以下に再現する。
 「現実の肉体なんて、全く興味ナイんだ。観念だけですワタスの関心は。」
 と、先ず渡辺がぶちかました。
 初対面であった。
 勿論、西村は渡辺を知らない。しかし礼儀正しい。二階の窓からは、波乗りに興ずるサーファー達の姿が笹の葉のように眺められる。日差しの強い午後であった。
 ここは、偶然で借りた道場です。でも、好きな南インドの海に、何か似てるような気がして。それで、離れられません。」
 西村はそうかわした。一階道場にドデーンと据えられた、プロレス用マットの上である。両者、マット上にあぐらをかいて座っている。
 「南インドか。インド亜大陸は三角形してる。ワタスはトライアングルには前から興味持ってきたノ。謎の大陸アトランティスなんかも、その三角法の方法でつき止めようとした事もある。南インドと言えば、コモリン岬、ヴァスコダ・ガマの墓があるゴアもそうだ。あそこはネ、旅人の行き着く終着駅なんだ。その先のない本物の突端なんだよ。」
 西村の冷静な対応に、先ずは本音をブチかました渡辺の気持ちも穏やかに静まり始めた。西村は流石、ヨガの達人でもある。
 「私も、八八年にチョッと病を得ましてね。もう、駄目かとも思ったんですが、手術後、死ぬって、どういう事なんだろうかを、思ってみたくなって、それでインドに行ったんです。まさに、おっしゃる通り、終着駅への旅でした。」
 ・・・・・。・・・・・。
 「そうでしたか。知らずに失礼しました。何にも事情を知らされていないんで、・・・・・ただ、面白い、哲学派プロレスラーが居るから、会ってみろの口車に乗せられて、来てしまったんです、ワタス。それなら、それで、口のきき方もあったんでしょう。失礼しました。」
 渡辺も流石に七〇才を超えた風格を、いきなり漂わせ始めた。状況判断は的確である。
 「イヤ、イヤ、お目にかかれて光栄です。それに、今は又、モノを考えるにイイ時期なんで。」
 「ヘエ。そういうモンですか。考える時期と、考えぬ時期が、二つにわかれているんですか。」
 「ハイ、本職がプロレスラーなものですから、どうしても体の好、不調もつきまといます。季節にも雨季、乾季があるじゃないですか。」
 「それは、解るような気がするな。雨季、乾季と、例えてもらえば、それは解る・・・・・ような気分になる。」
 「南インドの道場に、年に一回は行くんですが、いつも帰りは幸せになって帰れます。」
 「それはネェ、チミ(キミがなまっている。渡辺は秋田県出身である)、あそこ辺りは、世界最強の磁場が働いているんだ。何しろ、三角形の先端部だからネェ。」
 「そんなんでしょうか。私、そういうのには鈍いのかも知れません。ただ、アシュラム道場ではヨガと食事療法は徹底して習得しました。それで体も持ち直したんだと信じてます。」
 石山修武十一通目
 渡辺豊和様 第十一信
 窓から、波乗りに興ずるサーファー達の姿が、まぶしく光って見える。延々とスレ違いの会話は続くのだが、ひとまずは省く。省かざるを得ない。垂れ流せばバカにされるだけだ。S君A君共に、関心なさそうにうたた寝を始める始末である。若者は良く眠るのである。眠っているS君の夢の中に入り込んでみる。
 「腹一杯になると眠くなるっていうけれど、つまらん話を聞いてても眠くなるもんだ。ホント、石山さんもひどいよ。面白い奴がいるから、是非共西村さんに会わせてやってくれって言うからこうなったんだけど、全く、誰が聞いたって完全なスレ違いもイイトコだぜコレワ。どうも話に無理があるよな。プロレスラーと建築家の対談なんて、誰も聞きたくネェよ。
 でも、この渡辺豊和っていう東北弁交ズリの、イケネェ、うつっちゃったよ。口振りが。感染力強いな、このオヤジ。病原菌、相当持ってるよこの人は。
 誇大妄想狂ってのが居るらしいのは知ってたけど、実物見るの初めて、俺。吉村さんの方がズーッとまともだよ、本当に。建築家ってのはビジネスマンの最たる者だって聞いてたけど、この白髪のオッサン、全然、金の匂いと無縁仏だぜ。
 石山さんの友人って、みんな、こんななのかしらん。近附くのはチョッと危ないぜ、コレワ。
 二人共どっかの大学の教師らしいけど、本当なのかね。教師っていうより、宣教師じゃネェか。新興宗教の。

 でも、石山さんは何か目論見があるって言ってたな。何してるんだろ。もうすぐ現われてくんなきゃ、もうスレ違いも限界だぜ。西村さんだって、怒り出したらこんな白髪オヤジなんて一発でフッ飛ばしちゃうからなあ。しかし、口の減らんオッサンやでコレワ。天然記念物モンだ、コレワ。マッド豊和なんて石山さん、オッサンの事呼んでるらしいけど、アリャー冗談じゃなかったんだ。
 西村さんも人が好過ぎるぜ。だから長州力なんかに、いじめられるんだよ。アントニオ猪木みたいに一発張ってやればいいんだよ。もう、オッサンの話は途切れネェんだから。九十九里みてえに長いんだから、おまけに押しては返す、ザンブリコのリズムまでつけちゃって、マッタク。
 でも、ナァ、あれは去年の、二〇〇七年のたしか五月十七日だった。
 石山さんが勿体ぶって、相談があるって俺等二人を呼びつけたんだよ。新大久保の韓国料理屋へ。辛いけど、マアマアの味だったな。
 あの辺りは無国籍街だね。
 このオッさんの建築も、何処の国の人が作ってんだか解んネェみたいなところあるけど、さっきの車の中じゃイスラムだってワメいていたけどさ、とてもコノおやじイスラム教徒にゃ見えネェよ。カール・ゴッチみたいな顔しちゃって、白髪だからカミつきブラッシーじゃネェのか。
 アーア、まだ、しゃべってるよ。吸血鬼ブラッシーが。
 それで、あの日石山さんは俺達に言ったんだよネ。お前等、西村修の、プロレスラーのプロレスラーによるフリースクール作るって夢に加担しろって高飛車に言うんだから。マ、チョッと面白いかなって思っちゃったのが運のつき。それでこんなオヤジの長広舌聞かされる羽目になっちまった。もう地獄だぜ、コレワ。」

 戯作の駄作ぐらい、みじめなものはないですね。しかし、渡辺さん、貴兄とは大いに遊びたい。まだまだ遊べるぞ、を再確認もしたい。
 二人の福沢諭吉研究会の若者と、我ながら変な事を始めようとしています。完全に別分野、別系統の人種です彼等は。これは、非現実と現実のスリップ計画、昔だったら脱落、脱臼の術とでも言ったでしょう。
 貴兄の漫画大学計画は面白そうですな。大学を創立しちゃおうという考え方がイイ。その大学自体が漫画状に社会に出現する事を望みます。
 私の方も、交信に登場しているS君A君と、飛んでもハップンなプロジェクトを立ち上げました。その背景を点描してきたのが十一信迄でありました。そろそろ、交信が始まりそうです。

 渡辺豊和 八通目
石山修武 様

 リングに上げてもらって西村修とかいう凄絶なレスラーと対面(戦ではないですよネ)させてもらい光栄には存じます。
 光栄ではあっても何をすればいいかは皆目見当がつきません。仕方がない。今書いている最中のSFの場面をまるで脈略なしに思いだして形にしてみる位のことしか今はできません。思いだすとはいっても同時並行に近いのですが。小生の引き出しの中に残念ながらあれもこれもといろいろなものを仕舞ってはいないから今あるものを使うしか方法がない。
 1万2000年前の世界で「悪」を統治しているエンマ大王のもとに2020年の悪法師が訪れる。日本人ではなく謎のヨガ行者なのだが時代錯誤もはなはなだしく何せ世界支配の野望にとりつかれる。よくよく考えてみたらエンマが1万2000年の時空を越えて憑依していたのだった。
 それに気付いてエンマを訪れるわけだが勿論タイムスリップ。これをどうやって実現したかは少しはにんまりする仕掛けがあるのですが伏せておきます。
 ともあれ訪ねてみたらそこは巨大な映画セットもどき空間でした。というよりもピンホールカメラが100メートル立方の巨大な暗箱になった空間が4つ連続して反転の反転で正立する自分の巨大虚像をケンゾクどもに拝ませているのだった。ただし前後2つは暗箱というよりは前がエンマの本殿、後はケンゾクどもの拝殿。
 エンマは巨大な壁に写った背丈30メートルの姿だ。実の姿を直接はみせない。簡単にいえばそんな趣向だ。
 これから貴兄とのやりとりしながらこのエンマ大王と近未来の悪僧との交通を形にしていきます。悪しからず御了承のほどを。そのためにも残りのメモ二つ。

 メモ6

 都市人口の均質配置

 均質は近代主義の一大テーマだったがこれを崩したらポストモダニズム風になってしまっては余りに芸がなさすぎる。
 つまらないことではあるが均質と不均質、混乱の対立では京都と大阪の人々の気質の違いをすぐ思い浮かべてしまう。
 平安朝以来京都の貴族文化の流れは一口にいえば芸の均質さだった。現在みる茶道や工芸などの均質さからしてうなずけるのではあるまいか。
 大阪は浄瑠璃の世界だ。京貴族たちの均質さを破る事件の発生。それもお店(たな)の手代や女中が引き起こす事件。最後の道行きは心中。たった50キロしか離れていないのに京都は「大阪」を嫌い大阪は「京都」を馬鹿にする。
 関西に居住して45年以上。この対立が最も面白いことだ。
 面白い芸能が大阪から発生したのはわかる気がする。均質で半透明な薄膜を破って異界をのぞきたがるのは貴族ではあるまい。手代や女中であってこそその退屈を切り裂けたに違いない。さてそれでは今、現在均質をどう崩すのか。
 一番簡単なのはたとえば100メートル四方に限定して100本の柱をどう立てるかを考えるだけでも答えはでるのかもしれない。
 均質は当然縦横等間隔配置、その逆が混乱だからこれは時代とは関係ない。
 それでも多分空間モデルの長所はこんな子供でもできる簡単な操作にある。
 芸能の破調もこんなところから着想されるのではあるまいか。

toyokazu
 石山修武十二通目
 渡辺豊和様 第十二信
 渡辺さん、私の方の交信のマスタープラン、と言いますか、ストラクチャーを示しておかぬと貴兄に対して失礼になると思いますので、今回はそれを示しておこうと考えました。
 私の各種プロジェクト、論考の構築は全て、開放系技術世界の提示に向けられています。勿論、貴兄との交信も、私なりにその上に積み上げたいと考えています。
 私の方の交信が、一見戯作風に見られかねぬスタイルになっていますので、誤解を生みかねぬ。
 今回の交信にはそんな危惧から、私のベースにしている考えの断片を示したい。やり取りが、少しリズムを持ち始めました。急ピッチに展開してしまう前に、原理原則をと考えました。
NIKKI 2007/05/21 A piece of story in Setagaya Village
NIKKI 2007/05/22 B piece of story in Dun Huang, the Gobi desert
を御覧下さい。
 渡辺豊和 九通目
石山修武 様

 開放系技術。小生なりに理解はしたつもりですがどこまでも貴兄が先きの通信で述べてくれた比喩の範囲内でのこと。全くもって心もとない限りではある。
 貴兄の明確なテーマに対して小生、これといったものはまるでない。せいぜいそのときどきに浮かんでくる断片イメージを伝えるだけで終ってしまいそうでこれが情ない。といっても力以上のものはないわけで困ったことではあります。
 SFの断片もさることながらやはり建築に関する何事かがなければお話にならない。今現在「建築。森が和風を呼ぶ(仮)」という本を刊行準備中です。これは『群居』に連載した「森への帰還」を半分ほど削り削った分だけ工匠のことを加えたものです。
 とはいっても工匠も専門ではないから大河直躬などのものを小生の中世史感覚で解釈しているだけですが。飛騨匠を核にして展開したつもりです。それでも書いているうちに室町時代、特に応仁の乱以降貴種流離が日常化していて大方が時宗信徒となって「阿弥」を名乗り全国を放浪したことに深入りしてしまった。
 武野紹鴎の父も貴種の一人。というか守護大名の嫡男。時宗信徒となって放浪した気配があってそのとき仮の宿としたあばらや。これが茶室、数寄屋になっていたかもしれない。こんなことが気になりはじめた。
 しかし下克上は歴史上日本人全体が最もエネルギッシュだった時代でもあって貴種の流離、放浪と表裏になっていた。数寄屋もそうみると単なる寂びなどにはならない。それこそ安達ケ原の黒塚に近づく建築イメージとなる。奇岩に苔むす枯山水も含めてだ。
 まあこんなことを片側で考えながらSFの断片イメージを使ってやっていきます。
 繰り返しになりすみません。

 メモ7

 残余旧市街地の緑地転換

 「平安京」を主題にするならやはり女性だろう。しかし色恋の女性では勿論ない。文学ならいざ知らず建築や都市に着目していてはそうはならない。
 言葉が的確かどうかは問題だが端的にいって「システムとしての女性」こそが主題たるべきだろう。それも十二単をひきずり長い黒髪をかぜになびかせ河原に屯する若い女性群の姿だ。
 これが現代の郊外風景として現出したらどうか。残余旧市街地が緑地に変換されて郊外となりそのあちらこちらにこんな女性たちの姿がある。
 十二単の女性たちは勿論現代のこと、実際のいでたちがそうだというのではない。そうみてしまったらどうかということだ。
 これが「システムとしての女性」か。
 ここ関西は母系型社会がいまだ息ずいているが男がなよなよしているのもそのせいに違いない。郊外に屯する女性群は蝶なのではない。ここを基点にまさに駆け出そうとしている一瞬の静止の状態だ。動きだすと千年のシステムが作動する。黒髪、十二単でだ。

toyokazu
 石山修武十三通目
 渡辺豊和様 第十三信
 渡辺さん、勝手ながら次のステージにスリップします。序章というかプレステージでは、私の方からは時間に関しては方法的に錯綜とさせたいとだけ申し上げました。(第一信)貴兄の返信にも処々にそれを受け容れようの考えが示されており、心強く思います。
 プロレスラーの西村修との戯作振り 、でお伝えしたかったのは、第一ステージは身体を巡る主題ではどうかと考えた故なのですが、上手く通じなかった様なので、それにこれはもう大流行ですので、撤回します。かつて共通の関心であったかもしれぬ「異形」をガンを抱えたプロレスラーとして登場させようと企てたのですが、入口としては良くなかった。これは、しばらく眠らせておきましょう。
 貴兄の方の物語に登場するらしい、門魔大王、悪法師の振る舞い、と彼等の背景に登場するであろう物体群、風景に期待しています。それこそ、創立されるという漫画大学からの予想成果として示されたりすれば解りやすいな、なんて勝手に楽しみにしています。貴兄のサイトの「仮想学園風景」は面白そうですが、どんな風に展開してゆくんでしょう。あるいは展開なんて全然考えていないのかな、とも想像したりで、貴兄の事ですからハチャメチャも意外と構築的になってゆくのでしょうか。あの登場人物及び、その振る舞いは「落語愛岩山」そのもの、というよりも、「愛岩山」の吉本興業版だなと思いました。まさに関西です。関西の自爆テロですね。ノンセンスは自爆テロに通じるようにも思います。

 前置きが長過ぎるのが、すでにウェブサイトスタイルからスリップしているのは仕方ありません。今という現実から意図的に滑ってみようというのが当初からの目的ですから。1960 年代、ドロップアウトが話題になりました。アメリカのカウンターカルチャーの一翼を担い、我々もそれを輸入した。
 ウェブサイトを介した交信、そして、その交信をできるだけ多くの人達との交信への仲介にしようというのが、我々の試みの一つでしょうか。それだけではないけれど。でも、サイトの交信の意味をせんじつめれば、そういう事になります。でも、ドロップアウトというヘンリー・デービット・ソロー以来のアメリカ文明に潜在する意志の形式は、残念ながらそのエッセンスは我々の文化では、仏教の影響もあり、脱俗、解脱という宗教世界に行かざるを得なかった。道元の禅、そして一休の風狂、等をサンプルにしましょうか。(ちなみに、IT産業そして我々の交信を支えるウェブサイトはUSAのドロッパーをルーツに持っています。)
 私は貴兄や、死んだ毛綱モン太の中に、深く脱俗の情動を見ていました。脱俗を今風に言い換えれば、脱消費社会、脱市場社会という事になります。しかし、残念な事に、これは絶対的とも呼ぶべき矛盾を内在させていました。何故なら、貴兄や毛綱が選んだ仕事が建築であったから。
 建築は圧倒的に社会産物です。今では市場の産物と呼び換えても良い。グローバリズムは、要するに市場絶対主義です。そこに初期的な段階で脱俗原理主義者の貴兄や、毛綱が異を唱えました。これは社会的に上手くゆくわけがない。建築に於けるポストモダニズムの非成功は実にある意味で原理的であった。歴史的には、つい先日の事でした。
 隠しおおせようも無く、当然私にもそのような脱俗趣味、あるいはそれへの憧憬の如き、がありました。極めて幼稚なものであった。充分に意識せざるものでありました。充分に意識化されていなかった、その一点への自省から貴兄との交信を始めたいと考えたのです。

 今、という現実に六〇年代風に異議を唱えても仕方が無い。今、流行しているデザインに文句をつけても全くもう意味がない。私は、アレ等は、私が生きていこうとするもう一つの現実世界とは随分遠い世界の産物だと考え始めています。その間にも交信はあるでしょうが、幾つかの関門を設けなくては議論も成立しないマンマでしょう。

 ともあれ、次回にはウェブのステージにスリップします。
 実をいうと、まだまだ前書きが足りな過ぎるような気も強くあるのですが、観客はそれを望んではいないでしょう。

 石山修武十四通目
 渡辺豊和様 第十四信
 九通目拝読。貴兄の芸能建築論は当然折口民俗学への接近を当初から暗示しておりました。折口のマレビトそして貴種流離という「物語り」性の初源へと行きつくのは理の当然と言えましょう。
 「奇岩に苔むす枯山水も含めてだ」という貴兄の断言に面白さを感じました。何故なら、貴兄のイメージスケッチと呼ぶべきか、高踏落書きなのかに、最近、ある種の菌類のイメージを感得していたからです。安達ヶ原の黒塚に近付く建築イメージの入口なのか、四条五条の河原に長い黒髪をなびかせる、その黒髪と川のアナロジーなのかは知りません。何しろ、貴兄の交信に附されたスケッチに菌類の世界を見たのは少々驚きでした。菌類は定形を持たぬ、原始的な生命体です。
 南方熊楠は日本の博物学、エコロジストの始祖として、近年再評価への動きがうねり始めているようです。御承知の通り、南方熊楠には南方曼荼羅なる、貴兄のイメージスケッチ状の手描き曼荼羅が残されています。この通信と同様に、私的な友人の僧に宛てた私信内に残されています。折口は柳田国男の近代的民俗学と比較すると顕著な様に、初源へ、初源へと遡行し続けた探求者です。そうでなければ、マレビトに行き当たる筈もない。柳田民俗学は海上の道等を除けば、システム志向のモダニズムの変種だったように考えられる。
 あくまで怜悧な実証をベースにした。だから、確実なのだがその怜悧さに比例して積まらないところもある。
 きっと柳田が貴兄の通信を霊界ウェブサイトで見たならば、十二単の長い黒髪の女性は京の河原には、出現しようがない。河原はアウト・オブ・カーストの世界だったとたしなめたでしょう。
 初源への遡行者であった折口が求めたに違いない、その先にある、カオスそのものに初期的に対面していたのが南方熊楠でした。南方の曼荼羅は南インドのヒンドゥー文化への強い関心から来ているらしいのですが、ヒンドゥー教は、それこそ仏教以前のカオスそのものでしょうか。この辺りの事は不勉強で、まだ良く解りません。
 南方熊楠には当然、柳田という初期モダニストには全く無いものがあった。折口信夫という初源への遡行者(想像力を持ち過ぎた歴史家)つまりポストモダニスト的振舞にも外れた何かがあった。
 貴兄のポンチ絵に、それを感じたいというのは私の勝手です。そうした方が面白く、消費的生産スタイルである様な気分になれるから。
 それは兎も角、貴兄のスケッチを論じても、それ程多くの収穫は得られない。熊楠曼荼羅との類似性を、開放系技術世界を描こうとしている私が指摘したという事で、今のところは充分でしょう。生意気を演技しているわけですが、そう言っておきましょう。

 一つ、リクエストがあります。
 南方熊楠の現代性について少し計り触れました。曼荼羅とは名ばかりの、延々たる並列性(均質性とは異なる)と、それが誘導するカオスに問題あり、同時に可能性ありと考えます。彼が示したカオスは「十二支考」に良く表われている。しかし、もっと端的に表現されているのは、彼が自身のキャリアを記した、いわゆる経歴書のようです。
 ほぼ一週間をかけて、自分の生い立ち、交友、その他諸々を脱線なぞものものともせずに書き続けたそうです。巻紙に二〇数メーター(記憶は定かではない)あったそうです。
 渡辺さん、是非これと同じ事をやってみせてくれませんか。
 貴兄の生の曼荼羅を並列的に、あらゆる価値を等価に書き記してみて下さい。面白いモノが出現するように思います。
 貴兄や毛綱の建築の、最良のモノは原理的に何時もイスラム建築の如くでありました。その中枢を解明しておきたい。
 私の方は貴兄の自邸(餓鬼の舎)と、毛綱の反住器、そして私の幻庵をテキストの始まりに、母の家というプロジェクトをサイト上に示そうと考えております。私の母は今八六才。終のすまいのプロジェクトにもなります。

 貴兄の九通目の交信にいささか触発されて、またもや前口上が長くなりました。でも、今一番必要とされているのが前口上なのだという確信もあるんです。悪しからず。

二〇五〇年の交信 02 渡辺豊和X石山修武
二〇五〇年の交信 最新 渡辺豊和X石山修武
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