カバーコラム3 石山修武
 

野本君のこと
佐賀ワークショップでの野本君の堀干しプロジェクト

030 野本君のこと
 野本君が三月一杯で研究室を去る。彼は不思議な人物だった。何より不思議なのは自尊心らしきものが一切無い人であった。かと言って劣等感の固まりも無い。空の人間であった。私の研究室には程々の自尊心を持つ人間が集まってくる。設計製図一番、二番なんてのはまだ可愛いい。九年かかって大学出て、後、会社四つ変わったという○○も居る。外国からの連中もそれぞれのキャリアとナショナリティを背中に、露わにはせぬが自尊心と希望の固まりでもある。野本君にはそのような青春期に特有な野卑さは一切無かった。
 野本君は謂わゆる、研修生であった。三年間続けた。
 私が野本君に会ったのは九州佐賀のバウハウス建築大学とのワークショプだった。
 常に教室の最前列に席を占めるのだが、常にすぐ居眠りを始めるのであった。君、眠るんだったら後の席に行きなさいと注意すると、ハッ気をつけますと言って、又、眠るのであった。眠っても、眠っても最前列だけは離れようとしないのであった。それで情が湧いてしまった。
 「君ね、居眠り防止の特効薬はタワシだよ、タワシを背中に貼つけておけば、コクリコクリとするたんびに痛いから、飛び起きるよ。」野本君はタワシを背中にレクチャーを受け続けたけれど、それでも矢張り眠るのであった。
 要するに、眠ろうとする自分に忠実なのである。
 三年間、野本君は私の研究室で眠り続けた。昨年、家の事情があって九州福岡に帰らねばならぬ事になった。私は眠る野本は放っておくしかないなと決め込んでいたのだが、五年も附き合って、それでまだ眠っていたんでは自分の名折れだぜ、コレワと思い当り、昨年末より野本君に仕事を与え、何かと細かい文句を言うようにした。少しは細かく文句を言うようになり、野本君の変えようの無い基本的な人格が少し私にも理解できるようになった。
 要するに、「空」なのである。これは考えようでは宗教的存在とも言える程に「空」である。クウと読みたい。カラと読むと、そのままただの愚鈍という事になってしまう。
 際どい言い方になるが、これは諧謔だけではない。野本君の真空振りを眼の当たりにして、私はいささかたじろぐのだ。
 程々の自意識、自尊心の類がどれ程、人間本来の自由を縛りつけてしまっているか。野本君位に「空」であれば、どれ程に自由にあらゆるモノを吸収できるだろうかと、その可能性にたじろぐのである。

 野本君のこれからも「空」のままであろうと予測する。それで一生を通したらイイのにと思うのだが、そうはさせぬと最近の、眠りながら少し目覚めた、野本君が言うのが、残念である。
 石山 修武

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アジアのモリス
029 アジアのモリス
 週刊建築 004 号「森の中の森」で書いた、タイ製サーペーパーで作った紙袋である。タイ語のサーは桑の木の事。サーペーパーとは直訳すればタイの、手すきの紙って事です。どう、ひいき目に見てもウィリアム・モリスの壁紙見本、柳の枝(二一〇番)の繊細な装飾的感覚はない。一九三六年にメイ・モリスはこう書いている。
「父(ウィリアム・モリスの事)は葉のフォルムの細部や多彩な様態を指さしておりました。その後まもなく、この壁紙が制作されたのです。我が家の柳を鋭く観察した結果から描かれており、ロンドンの多くのリビングルームを緑の葉でかこまれたようにしたものです。」
 良く知られるように、モリスはその壁紙を作る職人(労働者)の仕事の喜びの質について考えた人でした。それ故に職人の手仕事にこだわり、結果その商品は仲々高価なものになってしまったわけです。モリス商会の家具やらは高価で普通の庶民の手に届くものにはならなかった。そんな中でわずかにこの壁紙は版木によるモリスパターンの印刷で、ある程度の量産が可能で、それ程に高額にならず、大変沢山売れたようです。
 サーペーパーはモリス商会の壁紙と比較したら、まことに間の抜けた風情の、しかし同じように手作りの紙です。タイの農村の人達が桑の葉をていねいに観察して作り出したものではなく、ていねいに桑の葉を採取して、一枚一枚を紙にすき込んで作ったものです。タイの制作者には作る喜びは意識されていたかどうか。むしろ金になる喜びだけがあったとは思われます。が、芸術的な喜びは意識されなくても、しかし、それでもやっぱり作る喜びはいささかあるのだと知れます。それが、私達に少しばかりは伝わってくるのがサーペーパーの妙味です。
 建築や住宅の壁や天井に使ってみて、仲々イケルぞと思いました。よし、これならウィリアム・モリス商会のアジア版になるぜ、とも考えて、このサーペーパー、その他を使った紙袋をデザインして作ってもらいました。アジア版もモリスですから、当然安値です。
 日本の村にもすでに失くなったアジアの村のスローな手作りの趣向を、チョッと感じてもらえるとも考えました。
 モリスの時代には消費生活という感覚は無かった。それでモリスはモノを作る職人の喜びを一方的に考えた。もう一方の、それを買う人にも喜びがあることを考えなかった。買う人々、つまり私達の事、消費者です。消費者の喜びの一つは「オッ、安いぜコレワ」です。だから皆、百円ショップに出掛け、ドンキホーテに行くのです。モリスの生きた十九世紀はまだモノを作ろうとする人間の視野にモノを買いつのり、使い捨てる消費者という種族は入っていなかった。それ故、冒頭に引いたメイ・モリスの一九三六年の発言はヨーロッパでは消費社会が定着した時代からウィリアム・モリスを見返すという趣があります。「ロンドンの多くのリビングルームを緑の葉で囲まれたようにしたい」の言はまさに消費者の一人として父モリスを回顧したものとも思えるのです。
 石山 修武

 →世田谷村市場

 

川合健二再考川合健二再考
028 川合健二再考
 あるのか、ないのか、わからぬままの直観だけを頼りに自邸を「世田谷村」と名付けた。川合健二夫妻のライフスタイルに、これも又、影響されていたのは充分には気付いていなかった。川合は豊橋郊外二川の丘の上に、千八百坪の土地を耕し、晴耕雨読の生活を続けていた。ミカン畑を無農薬で営み、できたミカンを度々私のところへ送ってくれていた。世界企業を相手にアイデアを売り、特許を沢山取得していて、生計はそれで立てていたが、普段は土を耕し、野菜を作り、決してそれから離れようとはしなかった。多分、その事が頭の何処かに棲みついていたのだろう。時に世田谷村の屋上菜園に生ゴミを埋めるだけのささやかな土との触れ合いしか無い今ではあるが、やっぱり、生ゴミ埋めは淡々と続けてゆくしか無い。それが私の橋頭堡になるだろう。川合はメルセデス・ベンツのユニボブ・トラクターを所有していた。高額なマシンだった。変な人だった。運転免許も無いのにポルシェを持っていた。エンジンの音がまことに良いからだ、といささかの自慢もしていた。ポルシェは夫人の買いものの足であったが。やがては運転が難し過ぎると走る事もなくなり、錆びついて青大将の住みかになっていた。もっとくさったら鉄のマシンは土に帰して、酒をまいてやるのだと言っていた。
 あれは実にリアルなファンタジーであった。その事に今でも大きな価値が在ると思う。夢は現実であり、現実も又、夢である。
 私の世田谷村と世田谷村日記及びウェブサイトもそうかも知れぬ。インターネットはファンタジーなのだ。人間は夢と現実の狭間の行き帰り続ける生物だ。考える事も又、その事である。亡くなって初めて人間はその姿を明らかにする。川合も又、そうだ。彼の姿は今ますます私にはリアルになり同時に又、ファンタジーにもなり始めている。
 石山 修武

 

結城登美雄のこと
027 結城登美雄のこと
 結城登美雄さんが芸術選奨を受賞して、授賞式で上京したついでに研究室に寄ってくれた。結城さんは現在仙台の北、古川で農業を営んでいる。その前は東北では名の知れた広告代理店の経営者だった。以前から広告代理店経営に座りの悪さを感じていて、それで転職した。その間の事情は室内( '04 年 8 月号)に書いたので興味があれば読んで欲しい。
 結城さんとは、農村計画を立案中である。研究室の連中に結城さんの人柄を先ず体験してもらわなければ、この計画を描く事は困難だと考えて、忙しい時間を割いてもらった。

 私の師であった川合健二は天才的な技術者だったが、本当は百姓をやりたかった人間だ。千八百坪の豊橋郊外の土地にミカン畑や野菜畑を耕し、晴耕雨読の生活だった。私はそれに共感したが、真似も出来なかった。結城は偉い。川合みたいな事を本当にやってしまった。古川に田畑を買い求め、息子さん共々百姓になった。ウームと私はうなった。負けたなコレはと痛切に思った。負けたと解れば事は簡単である。結城に教えを乞えば良い。そう考えていたから昨年から「農村計画」を、結城の手引きで作り始めた。研究室の人間の一部も学び始めた。それで三月十五日はスタッフと結城の顔合わせをした。結城の母親は今でも東北で暮らし、時間があれば山形の山に入り、歩き廻り木の実を採取し、それを食して暮らしている。その血が結城には脈々と流れている。結城を知る私は彼の言葉のリアルさを知っている。そのリアルさを先ず学んで欲しいからこそ、結城に先ずは会ってもらう必要があった。頭デッカチな人間は結城の真意に届かぬきらいがある。「農村計画」は先ず、結城塾を研究室で何回か開かねばならぬな。それが、今の私の実感だ。
 石山 修武

 

追悼 黒田澄子さん
026 追悼 黒田澄子さん
 黒田澄子さんが亡くなった。享年六十三才であった。つつしんでお悔やみ申し上げる。黒田さんは私の佐賀での早稲田バウハウススクール、建築ワークショップの学生だった。印象深い学生だった。何しろ若者達に混じって紅数点の美しいおばさん学生であった。佐賀での三年間のワークショップの財産は数多くの人材と知り合えた事に尽きる。職業、年齢、勿論学歴も不問、それが私達のワークショップの基本的な考え方だった。
 黒田さんの参加はそれ故に私にとっては、実は華であった。若い学生達をいささか厳しく指導し続けた私を、いつも黒田さんは笑みを絶やさずに見守り、時にアドバイスを下さった。それが有り難かった。
 聞くところによれば黒田さんは地元福岡で地域の活動その他にも熱心に参加され、時に指導的役割を果たしておられたようだ。私の母は八〇半ばで幸せな事にまだ健在だ。今でも時々私をたしなめるエネルギーを持つ。
 居なくなられて、それで初めて言える事だが、私は黒田さんに母を二重写しにして、眺め尊敬していた。少なくなり始めている日本のお母さんの、しっかりしていて、気配りがあり、やさしい日本のお母さんの典型を見て、それで安心しながらワークショップも運営できた。お母さんと呼ぶのは照れるから「おばさん、おばさん」と呼んで尊敬していた。
 もう会えないのかと考えると、残念である。
 「ワークショップは又あるのかな。待ち遠しいな。」
 そう言って下さっていたらしい。
 私の非力であの様なワークショップは今は続けていない。
 別の形で、そう言って下さっていた黒田さんの叱責に応えなくてはと思う。
 遠くに居た、一人の華あるおばさんの友人を失くして、寂しいが、黒田さんの如き人物に会えた事の有り難さだけは忘れまいと思う。
 さようなら。
 石山 修武

 

初期之発光建築初期之発光建築
025 初期之発光建築
 電子時代の建築はどんな形式のものになるのか考えている。未知なモノは必ず既視の世界の中にその芽がある、すなわちデジャビュ。
 台湾中央部台中の中台禅寺を訪ねて、度肝を抜かれたのはだいぶ前の事である。研究室を共有している李祖原設計の寺院だ。良く知られる様に李祖原は中国の巨大建築設計の第一人者である。台湾の高雄に二本、台北に一本超高層建築をすでに建てている。台北のモノは台北101ファイナンシャルセンターで五〇〇メーターを超え、今のところ世界最高の高さを誇っている。中国大陸では北京、上海、西安に超巨大建築を設計中である。北京ではオリンピック主会場の隣に全長六百メーター、高さ二百メーターの北京モルガンセンターが建設中だ。
 台中の中台禅寺も巨大な寺院だ。巨大を求める意味は中国思想の根底である、というのが李の考えであるから、こんなに巨大な建築を設計して如何なる意味があるや、無しやと考え込む日本人建築家の縮み志向というか、ミニマム志向にとっては想像を絶するとしか表現のしようが無いのである。杉山二郎氏によれば日本に巨大という概念が入ってきたのは古代の事で、そのルーツはバーミヤンの大仏だったらしい。巨大という概念も遠い地からやって来たものだと言う。

 中台禅寺の禅だって、中国のモノと日本の禅とは別世界のように思う。中国の禅はむしろ在世密教世界に近いように思われるが、その印象は建築の印象からだけ得ているものなのであてにならぬ。
 中台禅寺は高層の僧房群と頂上にメディテーションルーム、宝物殿、仏舎利、五重塔がタテ積みに構成された高層寺院だ。何しろデカイ。奈良の大仏殿は大仏のシェルターだけだが、中台禅寺はそれに僧房、僧院、ミュージアムがビルディングとして複合化されている。
 夜景が凄い。
 空飛ぶディズニーランドの趣きがある。
 今、地球上で最も神秘的とも言うべき風景の一つは、明らかに大都市の夜景であろう。昼間の俗にまみれた現実とは打って変わり、夜になり、建築群の姿が皆闇の中に沈み、建築が発光し始める。
 それは現代の曼荼羅とも呼ぶべき様相を呈し始める。上空はるかジェット機の窓から見おろす大都市の夜景は、まさに曼荼羅そのものである。宇宙の縮図であろう。
 中台禅寺の夜景にはその片りんがある。
 まだ発芽状態としか言いようが無いが、電気建築のはじまりと遭遇しているのではないかと思わせるものが ある。
 電気には皆無ではないが距離が無いと言える。電子にはほとんど無い。あるのは速力だけだ。速力は眼に見え難い。光に変換されて初めて眼に写る。
 だから、夜光都市、夜光建築というのはとても現代的なのだ。昼よりも、夜、光って初めて意味を持つとさえ言えよう。その現代の意味とはグローバリズム=資本主義の意味でもある。
 中台禅寺の夜景は資本主義的寺院を良く表象しているのである。
 ハリウッド資本をバックにスチーブン・スピルバーグが描いた未知との遭遇のマザーシップと同じ世界だ。
 石山 修武

 

ベーシーベーシー
024 ベーシー
 二つ目の防音扉を開けると、暗闇の中に大音響が鳴りひびいている。それがベーシーのいつもなのだが… 流石に三〇年もジャズ喫茶という日本独特な店を営み続けてくると、大音響に疲れを感じるのか、最近の菅原正二は時に音の無い完全な静寂を楽しんでいる事もある。
 東北一ノ関のジャズ喫茶ベーシーは今や神話の一つになった。オーディオファン、マニアならば誰でも知るように、ここの音は凄い。どう凄いかって説明するのは容易な事ではない。いつだったか訪ねた時にはソニーミュージックの連中がその音の研究に来ていた。又、ジャズの本場アメリカの若いプレイヤーがベーシーに来て、その音を聴き、仰天して言ったという。
「ジャズってこんな凄いものだったのか。」
今や当然、デジタルの時代である。レコードのみぞをレコード針でこすって、真空管アンプで増幅し、さらに工夫を極めたスピーカーから音を出す。真空管は30年間あたため放しでスイッチが切られた事がないと、まことしやかな噂が流されている。
 ジャズの頂点は一九六〇年代であった。ジョン・コルトレーンの死をピークにしてジャズはゆっくりと衰退しつつある。アメリカにジャズ喫茶ってのは一軒も無い。だからアメリカのプレイヤーも頂点の音を聴く事ができない。それで日本の東北、一ノ関にやってきて菅原のレコード演奏ライブを聴き、ブッ飛ぶ。
 ここは黄金の六〇年代の音の神殿なのである。

 まだ訪ねた事の無い人は是非とも訪ねてみると良い。東北新幹線一ノ関に降りる。駅前の銅像やらを横眼で眺めながら客待ちしているTAXIに乗る。一言、ベーシーとつぶやけばいい。哀切に満ちた真昼の街を通り抜け、北上川近くの山小屋風のベーシーにすぐに着くだろう。駅前から歩いても十五分くらい。午後遅くには菅原は店を開ける。水曜日は休み。店内は暗いから眼が闇に慣れてから席を定め、コーヒーやらを頼んだら良い。店主は最近世間様のあり方に不機嫌だから、多分愛想は良くない。でも無愛想の陰に類稀れな品位と、人なつこさが隠れているのを知るがよい。知ったか振りのリクエストは控えるように。店主には店主としてのキャリアが三〇年も積み重なっているのだ。その日の天候、湿度、客の品格に応じて空間を作っているのだから、当然レコードの演目は店主任せが良い。お気に入りのレコードが聴けなかったら、二度三度と訪ねれば良ろしい。三、四度目には顔を覚えてくれるだろうから、ポツリ、ポツリと雑談して、その中に、これが聴きたいの想いをさり気なく伝えたら良い。多分すぐにはかけてくれないけど、一年程経って、もう忘れた頃に必ず、その曲はベーシーに流れると思う。鳴かぬなら、鳴くまで待つに限るのだ。
 農夫が土を手入れするように、漁師が道具を愛おしむように、菅原は三〇年もこの空間にさり気なく工夫をこらしてきた。野口久光先生の数万枚のコレクションや手描きのポスターもある。ベーシーをこよなく愛し、一ノ関に遂には居を構え、客死した作家、阿佐田哲也さんの背広だって昔、かかっていた。
 三〇年ピクリとも動かず、好きな事だけに没頭、他をかえりみる事、ヨソ見もしなかった人間の、音作りの現場そのものを楽しめば良ろしい。
 ベーシーには珠玉の音の化石が散乱している。それを手に取って賞味できるか、どうかはあなたの品格に関わる問題である。
 石山 修武

 

玉串殿
023 玉串殿
 研究室の高橋敦君が考案した風鈴のようなものである。大学の金工室に引きこもって何やらやってるなと思っていたら、コレが出てきた。良いデザインだと思う。音も仲々に良い。磁石の玉が使われているのが味噌だ。アルミ板は軽いから風に反応して揺れる。しかもアルミには微量の鉄分が入っているので、磁石玉とアルミ板はつかず、離れず、くっついたり、はなれたりの微妙な音を出す。風と物性を上手に利用したところがヨイ。風鈴と当り前に名付けようしたが、うまいネーミングではない。玉姫殿というチェーン展開の結構式場があるが、玉串殿と名付けてしまった。名付けた名より良い妙なる音が出るのは保証する。
 石山 修武

 →世田谷村市場

 

屋上の悲哀
022 屋上の悲哀
 どうやら高所恐怖症なのではないかと思い始めている。二、三百メーターの垂直な岩壁にへばりついていても、それ程の恐怖感はなかった。もう、どうにも上には行けなくなって近くを飛ぶ岩つばめの飛翔の自由さをうらやましいと感じた事は何度もある。飛べない人間の、マ、悲哀だ。
 ビルの屋上って奴が苦手だ。三階以上の建物の屋上のヘリが異常に恐い。しかし、頭の中では好きだ。ビルの屋上の小さなペントハウスで暮らしてみたいと考えて、実際に探し廻った事もある。観念では好きだが、身体がついていかない。
 超高層ビルが主役の映画が随分とあった。キング・コングが美女を片手に抱きながらよじ登らねばならなかったのは今は亡きワールド・トレード・センターやエンパイアーステート・ビルディングであった。フランク・ロイド・ライトと覚しき建築家をゲーリー・クーパーが演じ、これ又、美女がうっとりとその姿を眺め上げるのも高層ビルの屋上に立つ姿であった。その背景には星条旗がへんぽんとひるがえっていた。
 タワーリング・インフェルノからヒーローは少々傷つき始めた。超高層は大事故の現場として想定され、破壊されるのが常になった。ブレード・ランナーでは高層ビルはすでに廃墟として描かれ、ダイハードでは犯罪の場所として設定されていた。ヒーローはエレベーター・コアや非常階段、そして巨大な空調ダクトの内外をジャングルのように走り廻り、そこは戦場となった。最近のスパイダーマンでは高層ビルはクモ男がはり付く壁の意味しか持っていないようだ。つまりゲームの装置になってしまった。
 これからの映画の舞台に高層ビルは主役として登場するチャンスがあるのだろうか。

 新宿のNTT所有のビルを眺めるビルの屋上である。実にモノ哀しい。これ以上に哀切な風景は稀であろう。ニューヨークの摩天楼の一つをコピーとした姿。しかも、そこには窓らしい窓は1つも無い。コンピューターの倉庫だからだ。これは高層サティアンなのだ。オウム真理教の若者達に、もう建築は必要なかった。彼等は内だけを問題にしていたからだ。身体の内、自己そのものの内。彼等は外に関心が無かった。内外の関係そのものを扱うのが建築デザインであった。
 オタクが内に興味を集中し、特化しているのもこの流れの中にある。技術も内に向かい始めている。コンピューターは一見ネット、速力等のヴェールをかぶってはいるが、突きつめれば内への技術である。
 ビルの屋上のエッジに立ってNTTビルを眺める。恐怖がジワリと押し寄せてくる。
 渚にてという映画が昔あった。第三次世界大戦が起きて地球の都市という都市は壊滅してしまう。原子力潜水艦の乗組員だけが生き残る。彼等が潜望鏡で視いた故郷サンフランシスコの風景。人一人居ない。圧倒的な死の都市の風景。この風景はすでにアノ風景と酷似している。潜望鏡のファンタジーを介して眺める事もなく、その風景を我々は肉眼で眺めている。
 石山 修武

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