カバーコラム8 石山修武
 

八月二十九日の世田谷村日記八月二十九日の世田谷村日記
ジョン・ラスキンとウィリアム・モリス

074 八月二十九日の世田谷村日記
 二十七日は午後、友岡社長と相談、アジアの紙ビジネス展開に関して話す。彼はリアルな人だから、観念やら、コンセプトなんて青くさい言葉は一切通じない。小林秀雄言うところの実際家そのものである。私の浮足だっているのが良く解る。二十八日は、母のケアーに出掛けた。八十六才になる母のリアルさにも圧倒される。
 今日は、夜、独人で左官職の為の、と言うよりも研究室の為のプロジェクトをまとめようとする。いささか必死である。これまでやってきたことの、現段階でのまとめだから。急ぎ足でやらねばならない。整理しながらの実感だが、我ながら、日本全国の左官職、左官事業所のそれぞれをマア良く知っているなと思う。思い起こせば、杉山三郎、森田兼次他歴代日本左官業組合連合会会長との附合いの時代、何処か、四国だったか、中部地方だったか、もう定かではないが、組合員千人以上の、盃をやりとりした事もあった。アレは気が遠くなるような体験であった。何しろ、全国大会の参加者が千五百名程。日本全国からだった。それが大座敷に一堂に会し、座敷の向う側も見えぬ位。その全員が盃と、一合どっくりを持って、私が座らされていた上座にやってきたのだから。まともに呑んだら、死んでたなアレは。お流れちょうだいの流し酒だって、大オケに五杯位あったからね。そんな馬鹿な体験があって、四国の土佐に行ったら、若い十八才の職人が、父親が世話になったと言って、突然、銭湯で背中を洗い流してくれたりの、泣けてくるような事もあった。そんな歴史はチョッとでも生かさねば、それこそ勿体ない。私が生きてる意味もない。日本の左官職人達、盛時三十七万組合員、これは大工の全建連よりも、はるかに巨大な組合だった。それが今は十数万組合員に減少した。左官の組合は日本最大だった。これは本当は重要なんだ。ワレサの連帯の中枢は何であったのか。大工職に何故、連帯、つまりユニオンが実らずに、左官職に、日本最大の組合が出現した歴史があるのか。
 ジョン・ラスキンがかつて言った如く、そして、ウィリアム・モリスがそれを継承して言挙げした如くに、愛情を込めてモノを作る存在としての職人が消失した時に、その国の建築文化の一切は消失する。建築家は居なくなっても良い。建築の原質は建築職人なのである。建築家は消失しても、文化は消えぬ。しかし、リアルに、実に、実際にモノを作る職人が無ければ、建築文化は成立せぬ。モノを組合わせるだけの設計者や現場労働者では、結果としての価値を文化の領域に持ち込む事は出来ない。
 私が呼ぶ職人は、いかなるスケールの現場でも、何らかの愛情とプライドを注ぎ込む人達を呼ばざるを得ない。「職人」という存在を、私は労働者と、少しだけ区別したい。これを中世主義者と呼ぶのはシニシズムだ。今の建築のシニシズム的状況を乗り越えるのには、これは大事なんだがなあ。
 石山修武

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北京とプノンペン

073 北京とプノンペン
 極端に意味(価値)がちがうプロジェクトを幾つか走らせている。自死した天才的な落語家、桂枝雀を取材 (現代の職人)した時、枝雀さんは、自分はいつも六頭立ての馬車みたいに六つ位の噺のネタを走らせていると言っていたのを思い出す。要するに六つのプロジェクトを同時に脳内で展開している、練っているというわけだ。
 とてもそんな芸当は私にはできない。しかし、枝雀さんの言葉は忘れる事ができぬ。
 枝雀さんはその結果自爆テロみたいな自死に至った。英語で噺をしかもアメリカで演ずる迄の事をやってのけた枝雀さんだ。伝統芸能、しかも徹底した個人芸である落語世界の拡張を試み続けていた事は良く知られた事だが、その拡張作業が余りにも急で、それが日本的風土の壁に衝突し、いささかの錯乱が生じ、自爆の結末に至ったと読めなくもない。
 六頭立ての馬が皆違う方向に走り出し、御者としての枝雀さんはそれをコントロールできなくなってしまったのかも知れない。今となっては知る事もできぬ。
 私だって数頭立ての馬ならぬロバを走らせている。ロバだから暴走はしない。ただただ勝手に立ち止まってしまう事が多い。ムチをくれても、エサを与えても知らぬ振り。進み振りは遅々としたものだ。

   北京のプロジェクトに関しては、「北京より」の新連載で書き始めているので、それをクリックして下されば、概要は知る事ができる。天安門広場を二十世紀の中国のセンターだとすれば、始まったばかりの二十一世紀のセンターは二〇〇八年北京オリンピックサイト周辺であろう。そこを舞台にグローバリズムの極北を試みてみよう、が北京でのプロジェクトの根本である。
 一方、カンボジアの首都プノンペンで進めている「ひろしまハウス」はそれとは全く逆方向のオリエンテーションを持っている。シンプルに言えば、北京の計画は全て資本の流れ、投資の流れ、ビジネスの流れで決められる典型だし、プノンペンの「ひろしまハウス」はドネイションの集積、つまり喜捨のお金の積み重なりである。それが二つのプロジェクトの根本的な幹なのだ。

 最近は北京に軸足が移り過ぎていて、肝心の「開放系技術の体系化、すなわちデザイン化」のプロジェクトは自分の中でも静か過ぎる。一人で出来る事には当然限りはある。が、始まりは一人の脳内風景の造作からが良い。が錯乱に落ち込む危険性は充二分にあり得る。一匹のロバの暴走が全てを崩壊させかねぬ。プノンペンの「ひろしまハウス」はある意味では自制と、ブレーキの役割を果たしている。中心は「開放系技術」の構築だ。
 石山修武

 

二〇〇五年宇宙の旅
"2001: A Space Odyssey" Keir Dullea, MGM 1968: Stanley Kubrick
072 二〇〇五年宇宙の旅
 二〇〇一年宇宙の旅で出現した数々の映像で、何と言っても最大の?は最終シーンのニーチェの「超人」となったボーマン船長が、丁度、今度の野口さんが乗ったディスカバリー号と同じような位置から巨大な眼で青い地球を見据えるシーンだった。ボーマン船長は宇宙服など着用していなかった。胎児の状態の如くに羊水カプセルに包まれて、全身ミジンコ状態となり、眼だけがエネルギーを持つ様であった。
 キューブリックが描いてみせたテーマは輪廻と転生だ。新石器時代の猿人達が動物の骨を道具として、つまり武器として使い始め、その進化が宇宙船ディスカバリーに転生してゆく。ディスカバリー号の頭脳の中枢としてのコンピューター、ハルになる。ハルはやがて感情を持つ人工生命となり、ある種の破滅が訪れる。その転機、転生をうながし続けるのが、絶対の無機体として表現された超越的存在、全知全能のモノリスであった。モノリスは十字架の一片を取り除いた形とも言える。十字架は二つの直方体がクロスするイコンだ。しかし、月の裏側に十字架が出現してしまっては、大いなる西部のカウボーイ、チャールトン・ヘストン主演の十戒になってしまう。でキューブリックは神を映像化するに、最も何も意味しない形を選んだ。余計な事だがモノリスが二つ並んだら、それはいきなり俗世界になってしまう。我々はNYの9・11テロでその事をようやく知った。キリスト教文化圏が双子を忌み嫌うのはそれと関連するのかは知らぬ。キリストが鏡像であったり、複製可能であったりしては困る何ものかがあるのだろう。
 二〇〇一年宇宙の旅で提出されたデザインは二つに分化されていた。ニーチェの超人の羊水カプセルと、居なくなった筈の神の形としてのモノリスとに。解りやすく言ってしまえば、フレデリック・キースラーのエンドレス・ハウスとミースのシーグラムビルが行き着く先が描かれていたと言えるだろう。
 今、フレデリック・キースラーのエンドレス・ハウスはいかにもアメリカ的な方法でF・O・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイムとなり、ミースのユニヴァーサル・スペースはレム・コールハースのシニシズムへと変転退化した。
 石山修武

 

野口宇宙飛行士のラーメン NASA
071 野口宇宙飛行士のラーメン
 野口さんをはじめとする宇宙飛行士達も無事に地球に帰還した。宇宙ラーメン試食の映像が流されたり、彼が妙にエキゾチックな扇子を持って小泉首相と宇宙から対話したりの映像も流された。
 こうして稀少な神話的価値の創出の機会はアッという間に泥まみれの現実に包摂されてしまう。遊星が遊星化した人間に修理されるという人類史上の神話の誕生は、アッという間に新型カップラーメンの販売促進アドバタイジングビジネスとアメリカの宇宙開発に対する日本政府の経済的支援の責務という現実に引き落とされてしまった。宇宙に出た飛行士はまだ帰還する事を前提にした旅の輪廻の中に在る。その点では、その現実はスタンリー・キューブリックの二〇〇一年宇宙の旅の想像力に届いていないと言えるだろう。
 二〇〇一年宇宙の旅に描かれた世界を、我々はすでに四年過ぎた。今は二〇〇五年。
 二〇〇一年に描かれた世界の何がしかを我々は今は少しだけ懐かしく思い出す。宇宙ステーション内のインテリアがエアボーンの、今になってはキッチュまがいの家具であったり、ディスカバリー号のコンピューターハル九〇〇〇が余りにも巨大過ぎたりの若干の、見込み違いは、それはあった。宇宙飛行士野口さん、イヤ、ボーマン船長が終幕近く住み暮らす部屋も、ガラス張りのニューヨークアールデコみたいなもので、アレも少々奇異であった。しかし、キューブリックのあの映像は、今流行の宇宙スペクタクルの映像の全てをいまだに覆い尽くして止まない。ルーカスの三部作だって商業的には大成功だが、到底二〇〇一年には届いていない。商業主義の限界ではなく、想像力の現実に対する限界を示している。

 宇宙飛行士野口さんには帰還後、安穏で凡俗な生活が保証されるのだろう。いみじくも彼が宇宙で仲間の飛行士に語ったように、サインをし続ける英雄としての人生に入るのだろう。まさか、カップラーメンのCMに出るような事は無いだろうが・・・。ワッカラネェよ。世界中の企業が宣伝媒体としての宇宙船、及び宇宙飛行士に触手を延ばしているだろう事は充分に予測し得る。それはそれで仕方ない。グローバリズムは市場社会の拡張だけが理念だ。地球が一様になったら宇宙に出るだろう。少なくとも宇宙に出る装置を媒体に使うだろう。アポロ十一号が月面着陸して、星条旗を月に押し立てた時、すでに宇宙開発の国家間競争は終わっていた。次のステージは世界企業間の競争の場の一部が宇宙を舞台として演出されるのであろう。
 宇宙には無数の遊星が新しいイコンとして遊泳する事になろう。ネスカフェ号、ニッシン号、 S&Bカレー号、GM、GE、 MAN、ズルザー、その他諸々。これ等の八百万のイコンが旧世界のキリスト教、イスラム、ヒンディーの諸々の神学的イコンを浸蝕してゆく事になるのだろうか。
 野口さんが何故か、喰べてみせた宇宙ラーメンはそのゲートだ。
 石山修武

 

ディスカバリー号 NASA
070 ディスカバリー号
 三〇〇 KM 上空の宇宙ステーションのアームロボットに固定されながら浮遊している、スペースシャトル・ディスカバリー号の宇宙飛行士達は、今何を考えているのかなあと思ったりしてみる。
 彼等だけが特別な状況に置かれているわけではない。宇宙飛行士達が眼下に眺めているであろう青い地球の大地に固定された住居や建築と共に浮遊している私達だって、少なからぬ危機的状況の只中に在る。そんな圧倒的な相対性の極みを宇宙飛行士達は得る事があるだろうと予測する。地球と共に無の只中に浮遊している現実を外から達観できるからだ、彼等は。
 ディスカバリー号の宇宙飛行士達は我々がTVから得られるだけの情報とは、質量共に異なる情報を得ているに違い無い。それは彼等に地球への帰還への何がしかの不安を与えるものであるやも知れぬ。しかしながら、宇宙飛行士達はその不安が、眼下に浮遊してしる地球全体にも、同時に共有している不安である事を、眼を介して知覚しているのではないか。禅で言う観相のようなものだ。
 自分達の不安、地球に帰れぬかも知れぬが、自分達だけではなく、地球上のすべての生物にも共時のものだと言う直観である。

 確かに、宇宙飛行士達は今、特別な状態の只中に在る。ディスカバリー号に発生した幾つかの傷が、それを作り出した。
 しかし、彼等が眼下に眺めおろしているいに違いない地球、宇宙船地球号だって無数の傷だらけなのを、彼等は瞬時に悟達しているに違いない。眼の悦楽の極みから得ている。
 地球から離脱して、一個の遊星となって、初めて得られる視覚と知覚の通底体験の状態であるかも知れぬ。  彼等は今、何がしかの不安を持ちながら、宙に浮いている。私達も地上に居ながら、彼等と同様に、多くの傷を持つ地球と共に虚空に浮いている。そうか悟達と言うのは、この感じ方に近いものなのではないか。

   二〇〇一年宇宙の旅、スペース・オデッセイの映像の幕切れは確か、地球のはるか遠い上空から、超人となった生物が、まじまじと青い地球を見据えている風景だった。
 今、その名も同じ、ディスカバリー号をアームロボットに固定した宇宙ステーションから、帰るべき、青い地球を眺めおろしている筈の宇宙飛行士達の姿と同じだな。彼等には帰還すべき地球の姿が見えている。しかし、我々にはそれが視えていない。日常の中には視え難い。それが問題なのだ。科学、技術の進歩は何に向けて我々を歩ませているか、あるいは何に向けて帰還させようとしているのか。
 石山修武

 

ディスカバリー号 再びの傷ディスカバリー号 再びの傷
NASA
069 ディスカバリー号 再びの傷
 八月三日にセラミック・タイルの接合部に発生していた突起部がスティーブン・ロビンソン飛行士の宇宙服に包まれた右手の指で除去された後、再びNASAは新しい不安材料がある事を発表した。今度はディスカバリー号の腹の部分ではなく、操縦席に近い外部の本体部分に 50 センチメーターの長さの凸部が見付かったらしい。すっかりTVでお馴染みになったNASAの当局者が、突起部そのものの問題というよりも、その 50 センチ長の突起パネルが高速帰還中に発生する千度Cの熱の中で剥離し、それがディスカバリー号の垂直尾翼等に衝突した場合に起きる問題こそが大きいのだと言う。どうやらNASAはそのケースのシミュレーション実験の最中らしい。もしも尾翼等に当たる可能性が大きければ、欠陥部を修理、除去、細断するしか無いようだ。細断というのは、患部を細かく分割できるように細工して、剥離して尾翼に衝突したとしても、すぐにバラバラに破断するようにして、被害を最小限にとどめようとする考えだ。ディスカバリー号の機体は今や危機管理のシミュレーションの舞台になった。機体自体は予想以外にローテク、手作り部が多そうだと解った。自動車の様に大量生産される筋合いのモノではないから、一品生産の精度が支配する部分がかなり大きそうだと知る。恐らく最新鋭のジェット戦闘機くらいの荒い精度なのだろう。その辺りはまだ良く解らない。
 しかし、機体の欠陥が遭遇するであろう、危機への予測、すなわちシミュレーションの能力は全くもって機体修理の日曜大工の域をはるかに超えている。
 不思議な世界に我々は今、入り込んでいるのだと思う。世界の実体はモロクあやうい。その世界を仮想現実が精密に包囲している世界である。
 シミュレーションの世界は想像力が作り出す世界とは異なる。現実がどのように動くかの次の一秒一分一時間の予測計算能力の世界だ。天気予報や台風の進路予測、あるいは株の価格の動向予測と酷似している。  この部分の技術の進化が、著しく偏向しながら進んでいるのを知ることが出来る。
 B・フラーの時代は宇宙船地球号操縦マニュアルの総合的視点の提示で良かったが、今はディスカバリー号修理・帰還シミュレーションの時代に移行している。つまり、地球全体を一個の遊星として把握する知の詩的全体性にも増して、一個の個別な遊星の出現と、その故障が引き起こしている人間社会への批評性に耳を傾ける時なのだろう。
 石山修武

 

ディスカバリー号の傷ディスカバリー号の傷
NASA TV
068 ディスカバリー号の傷
 特に、TV報道の焦点はスペースシャトル・ディスカバリー号が地球に帰還できるのか?と帰還出来ぬ場合の悲劇の可能性を予測する方向へ向かっている。日常生活の中の事件、スキャンダル、政変と並列して報道されるTVの現実が、その傾向を一層強めている。
 八月三日の宇宙飛行士の船体修理の作業風景は実に興味深いものだった。
 一、宇宙空間での遊星修理の実際は実にあっけなくいものだった。二カ所の突起物はスティーブン・ロビンソン飛行士の右手、親指と人差し指で、実に簡単に引き抜かれた。管制から 4 kg から 10 kg 以内の力で引っ張る様にの指示がTVによって報道されていた。
 宇宙空間に浮遊する現代テクノロジーのキングの手術の実況中継の趣きがある。その手術のあっけなさと舞台装置の壮大さのギャップは余りにも大きい。
 二、現代の技術の最先端成果物の一つであろう、ディスカバリーの欠陥は人間の親指と人差し指だけで、まるで自動改札口に切符を差し込むような容易さで除去される。
 と、するとディスカバリーの細部はかくの如き日曜大工の様な水準で作られているらしい。ディスカバリーは何回も使い廻しが可能な、それでも手作り一品生産品なのだ。
 三、NASA関係者の発言。シャトルはたった百数十回の試験飛行しか経ていない。商業用旅客機の数十分の一の実験、試験しか経ていない。

 ディスカバリー号とは如何なる物体であるか。使い捨ての大型ロケットと宇宙船が、アメリカの強大な軍事費をもってしても負担が困難となった。それはソビエト連邦の崩壊によって宇宙開発はアメリカのほぼ独占事業になり、競争者を失いアメリカはアポロ十一号迄の単純で強い目標、スプートニクによってソ連に先を越されたという負い目からの自由を獲得していたので、それ以上の事を求め難くなった。それ故、経費節減の為、何回も再利用が可能な宇宙船、スペースシャトルを開発した。
 それ故に、シャトルには兵器そのものでもあった、打ち上げ用大型ロケットや使い捨て宇宙船とは異なる要素が入り込む事になった。
 何度も再利用する為に必要な素材が必要になったが、その素材、特殊セラミックがシームレスなものではまだ無いので、ユニットの貼り付け接合部に充分な性能が得られていない。その部分の性能は誤りを犯しやすい人間の手にゆだねられる程度のものである。
 どうやら、ディスカバリー号は謂わゆるハイテク建築に酷似した、基本的性格を持つ物体のようだ。アメリカ型ハイテクの枠なのだろう。ディスカバリー号の欠陥部の問題はそのまま、現代建築の抱える問題でもある。
 石山修武

 

宇宙での修繕  NASA
067 宇宙での修繕
 八月二日付けの夕刊各紙は、一斉に、今宇宙に居るNASAのスペースシャトルに修理しなくてはならぬ耐熱タイルの接合部の突起部が在る事を報じている。その突起部は二〇 mm チョット位のものだが、除去せぬとスペースシャトル・ディスカバリー号の地球への帰還の安全が保障されぬらしい。
 NASAから世界中に公表されている情報がこれ位のものだから、おそらくディスカバリーの宇宙飛行士達にはもう少しシビアーな情報が送られているに違いない。この小さなシャトルの腹の突起物を取り除かねば、確率○%で事故が発生するのだろう位の通信は成されている筈だ。新聞報道では、この小さな突起物はノコギリ状のもので切断されるだろうと知らされている。
 ディスカバリー号船外活動の担当者であるスティーブン・ロビンソン氏と野口聡一氏には計り知れぬプレッシャーが今、かかっているだろう事は容易に予測できる。この突起物除去作業は宇宙空間では初の困難な作業になるようだ。
 二人の宇宙飛行士の胸中はいかばかりのものだろう。

 ロッククライミングの世界ではザイルのトップを決めるのがとても困難な事である。単独登高者を除き、普通、高度なロッククライミングでは二名がパートナーとして、それぞれの役割を担う事になる。トップ、つまり最初に登り始める者と、それを支えるラストの役割に機能が分割される。当然の事ながら、トップの役割は困難極まる。登高のルートをデザインし、しかも死につながる事故の確率もはるかに大きい。その点、二番手、ラストの役割は少し楽だ。トップの墜落を支え、その安全を確保する役割だからである。
 しかし、ロッククライマーの優秀な者は誰もが、トップをやりたがるものだ。危険で何が起こるか不明のトップをやりたがる。何故なのか解らない。しかも、そのトップをどちらが取るかの決定を仲々に言い出せぬものなのだ。それで眠れぬ夜を過ごす事だってある。登高の現場まで、いづれがトップかの決断がもつれ込んで、ジャンケンみたいなプリミティブな賭けに任される事もある。死を賭けるような危険な事は避けたいのが普通なのに、良いロッククライマーはどうしても、それに対面したい者なのだ。
 今、世界注視のスペースシャトル・ディスカバリー号では、二人の宇宙飛行士がそのような状況に追い込まれているのだろうと予測する。彼等二人は、どちらも、この危険な作業の為に宇宙船外に出たいに違いない。  史上初の宇宙船外修理遊泳の危険度は極度に高い筈だ。しかし、ロビンソン、野口両宇宙飛行士は、どちらも、何としてでもその作業、つまり、ロッククライミングに於ける、ザイルのトップを、やりたいと願っているだろう。大体、宇宙飛行士になろうと願う様な人間はその手の者が大半であるに違いないのだ。
 八月二日夕の朝日新聞には、双方のどちらかになるだろうと報じられ、毎日新聞にはロビンソン氏がこの歴史的作業の担当者になるだろうと報じられている。
 二人の宇宙飛行士は、自分の生命の危機も充分に考慮に入れて考える知力を持っているに違いないが、それでも、ザイルのトップを渇望しているだろう。人間はそういう不思議な尊厳を抱く生物なのだ。
 石山修武

 

スペースシャトル  NASA TV
066 スペースシャトル
 宇宙に飛び立ち、宇宙ステーションとドッキングしたスペースシャトル、ステーションに幾つかの故障が発見されている。宇宙飛行士がかなり長時間の船外活動を行い、その故障を修繕している様子が宇宙から送られてきている。アポロ十三号の故障は小さなカプセル内の緊迫したものだったが、今回の故障は大きな宇宙空間で青い地球をバックにした映像で、アポロ十三号のより人間身体の故障への対応能力という、ブリコラージュ的要素が直接伝わってはこないが、同様な問題が浮き彫りにされている。今や、スペースシャトルによる宇宙空間への拡張の主題よりも、宇宙飛行士達の地球への帰還への関心が全世界的な関心の中心になっているのを痛感せざるを得ない。
 船外修理活動をしている野口聡一、スティーブン・ロビンソン両宇宙飛行士は壮大な宇宙空間の中で、ロボットアームと共に姿勢制御装置の故障修理に取りかかっている。地球上のNASA当局よりのTV会見他も同時に伝えられている。九〇%の地球帰還への安全が保障されたが、残りの十%は未知だとされている。次の宇宙船飛行士達の船外活動は地球帰還の為の、スペースシャトルの船体に発見された二十八mmの突起部二カ所の修理になるかも知れぬと報じられている。この突起部の修理はアームロボットの能力外の空間でなさねばならぬ、宇宙飛行士の宇宙遊泳能力と全くの手作業に委ねられるようだ。つまり、宇宙飛行士は自身単独の遊星となり、これも又、一個の星であるスペースシャトルの修繕をするわけだ。地球を背景にして。技術の進化によって作り出された人工の星が、宇宙服一つで身を守るしかない人間の身体の小惑星によって修繕されなくてはならないようなのだ。それが宇宙へ飛び出した宇宙飛行士達の地球への帰還の条件になりつつあるらしい。NASAの歴史でもこれは初めて事であると報じられている。
 地上のNASAスタッフのTVで視る表情はまだ自信に満ちているように見受けられるが、内実ははたしてどうなのかはうかがい知れぬ。報じられぬ、舞台裏があるだろう。ともあれ、ここ数日のスペースシャトル地球帰還のドラマからは目を放せない。人間が技術の進化の果てに飛び出した宇宙から、人間の生命の尊厳を賭けて、地球へ戻ろうとしている。その道具は再び人間の手作業の能力である。アポロ十三号のドラマの再現の渦中を我々は共時体験している。人間というのは実に不可思議極まる生物である。戻る為に出掛けてゆくのだから。それを共時に自覚できるのは拡張の意志への故障であり続けている。何の誰の為の科学技術なのか。
 石山修武

 

ひろしまハウス展  写真:塚田忠則
065 ひろしまハウス展
 カンボジアの首都プノンペンの大寺院ウナロム寺院である。ポルポト政権下、司令部に使用された歴史を持つ。遠くに小さくひろしまハウスのシンボルである。仏足が見える。写真が示すように本殿と比べれば控え目な大きさだ。ひろしまハウスはこのウナロム寺院の西端に在る。ウナロムはカンボジア仏教の総本山であり、ひろしまハウスはその境内に位置する。それ故、当然、この建築はウナロム寺院、カンボジアにとっては宗教建築に属する事になる。
 西早稲田観音寺富士嶺観音堂、等幾つかの寺院建築を手掛けてきたが、プノンペンのひろしまハウスは殊更なモノがある。カンボジヤ近代の歴史の中心に、それが位置すると考えた事。そして、日本近代の最大級の悲劇である「ひろしま原爆被爆」と重なった事だ。
 ここには記念碑としての建築が必要だと確信した。忘れてはならない歴史がある。忘れさせぬように働く建築がある。モダニズムデザインでは一種のタブーであった記念碑性を帯びた建築である。

 ウナロム寺院の本殿の足許をよおく見て欲しい。モーターバイクが走っている。恐らくHONDAのモーターバイクだ。モーターバイクは現代カンボジアの近代化のイコンである。その現実は巨大に見えるウナロ寺院より、余程大きい。カンボジアには様々にモーターバイクが大量に流入している。ヴェトナム、タイ、中国からも流れ込む。メコンの流れのように。アジアの近代化の現実はそれだ。
 ウナロム寺院のシルエット、ひろしまハウスの仏足のイコンはその大河の流れの背景だ。芝居の主役は経済、すなわちモーターバイク。記念碑性を帯びた建築は、その主役を見守る書割りなのだ。
 二〇〇八年北京オリンピックが開催される。近代中国の恐らくは歴史の節目となるだろう。日本の東京オリンピックがそうであったように。あるいはそれ以上の巨大なスケールで。アジアの中心は歴然として北京になる。その背景となるサイトの計画が北京モルガンセンターの計画だ。
 はからずも、北京とプノンペンのセンターで、それぞれの背景を担う計画に参加している。縁としか言いようがない。
 石山修武

  8/2 - 8/7 ひろしまハウス展

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