カバーコラム 石山修武 
 


 
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酒仙山田脩二
書:佐藤健

080 酒仙山田脩二
 山田脩二が来春、安藤忠雄設計の兵庫県立美術館で山田脩二の軌跡と題した展覧会を開催する事になった。喜ばしい事である。
 良く知られるように、山田脩二は良いカメラマンであった。日本村を代表とする写真集には山田の感性による戦後風景の乾いた哀切さが突きはなした距離感の中で写し撮られていた。それから山田は印画紙焼くのも、土焼くのも同じ事の名文句を残して、淡路島で瓦屋になった。山田のプロデュースした淡路瓦はやがて日本中に広がっていった。山田は瓦復興運動家になったのだ。それは日本の戦後の虚妄、あるいは幻影的発展の全体にとっては一抹の清涼剤の如き役割を果たしたのである。何故、清涼剤であり得たかと言えば、瓦の生産という、土を素材としたしかる故に地域の個性を最大限に基盤とする小産業の存続という命題と結びついていたからだ。それは柳宗悦の民芸運動とは異なる地平を拓く可能性の発芽でもあった。風景写真家の直観と瓦業への転身は実に一直線に結びついていたのである。それは理論的支柱の無いままに、あくまで日本的あいまいさの内に溶融されつつある地域主義、伝統的保守主義、敢えて言えば、無意識下の退行主義の中にしっかりした核にもなり得た行動であったのである。
 しかしながら山田脩二はそのパーソナリティの余りの豊かさ故に、その内に安住したきらいがある。山田の周囲に在った建築設計者達も無意識を放置したままであり続けた。それ故、山田脩二の仕事は山田個人の芸、キャラクターの世界に押しとどめられたままにあり続けた。それは一流の芸であった。
 その結果が、県立美術館での展示会となった。山田脩二の展覧会を企画した美術館の館員は立派である。山田脩二を美術館に引っ張り出そうという考えは美術の側、文化の側からは実に面白い。見事だ。その天晴れ振りに応えようと山田脩二も久し振りに高揚しているようだ。その元気な姿を視るのは友人として嬉しい。

 山田脩二の今は飄逸の人である。戦後、一律にツルツルピカピかになった日本村風景の中で高潔に浮き続け、それに埋没するのを良しとしなかった。その少数派の生き方を実に見事に表現し続けた。生き方そのものが実に瓦みたいなものでもあった。あるいはモノクロ写真の印画紙状であった。来春の大展覧会を前に、それで上がりであって欲しくないからこそ、ないモノねだりであるやも知れぬが見果てぬ夢の、その又夢を一つ申し上げる。
 飄逸の先の境地に風狂とやらがあるらしい。
 勿論、私のような俗人には双方共に不可能である。すでに飄逸の境地にある山田には、どうせなら風狂の世界に進んでみたらと、他人事のように勝手を言う。山田脩二から時折届く手紙の字体はそれは見事なものである。その写真と同じ位に。禅僧は時に書によって自分の境地を表現した。
 人生の終わりは炭焼きだと、大分前から一人ごちしていたのは知っている。それも良いけれど、墨黒々の書も良いのではなかろうか。小筆ではなくでっかい筆で、でっかい紙か壁に描いてしまう。それは見事なモノになるだろうと予測する。
 一休禅師の激しさは無くても、良寛さんの世界は山田には近い。山の中の炭焼き小屋はさて置いて、今の淡路の家の広間で淡々と何かを描き始めるというのを、余計な事だが妄想するのは楽しい。
 石山修武

 

屋台 モバイル 場所

079 屋台 モバイル 場所
 ウーンと昔、だけれども、たかだか十五年位昔の事だったかな。タイの首都バンコクで、死んでしまった毎日新聞の佐藤健とカメラマンの杉全泰に会った事がある。杉全はまだ元気に生きている。
 何月何日頃にバンコクで会いましょうかね、位の実に、何の約束にもならぬ予定らしき、であった。
 これは本当の事。会うべき相手のホテルも解らず、アテもなかった。しかも家族を連れていた。皆、私を取り敢えず信頼している。お父さんなんだから、間違いはない位のものだ。勿論ケイタイ電話はまだない。
 私も別に、心配はしていなかった、というのは嘘で、何とかなるだろう位の何ともならないバカな状態でTOKYOを発ったのだ。マ、バンコクの何処にいるか知らないが、会えるに違いないという、ルーズさだけ、それだけが頼りなのだった。途中ははしょるが、結果、バンコクの名も知れぬホテルで二人とは会ってしまったのだった。何故、会ったのか、遭遇し得たのか今でも謎だ。しかし、深夜に着いたバンコク国際空港から、私はそのホテルを探り当てた。三千分の一位の確率だったろう。しかし、別に驚かなかった。到着したバンコク空港の案内で、無数のホテルから私は一つだけ選び出し、それはドンピシャリだったのである。コレも本当の事です。ホテルのロビーというか、場末の食堂みたいなところで再会した二人と私の家族も別に大騒ぎしなかった。当然再会したのだという位のものだった。

 佐藤健は記憶力が人三倍すぐれていて、美空ひばりの唄は、六十曲位、歌詞も何もかもそらんじていた。同時代の唄は皆、ハッキリ憶えていた。それで、彼は、唄の歌詞の意味のようなモノから、時代を語る事ができた。そんな記憶力を元に、彼はバンコクで泊るであろうホテルの感じを何がしか、私にしゃべっていたのだろうと思う。
 「チャオプラヤ河から遠くない。出来ればオリエンタルホテルの近く。安宿が望ましいが、いかがわしい女性はたむろしていない。安宿だが、ホテルのレストランは在る。そこでいつでも、チャプスイ等麺類位、スープ位は喰べられる。」
 そんな記憶が私の方にもあったので、実ワ、ホテルを特定するのはそれ程困難な事ではなかった。

 そのホテルは今は無い。取り壊されて、大きなホテルに名を代えている。しかし、周辺の屋台やら、の群れはそれ程の変わりが無いようだ。私の印象ではバンコク随一の飲食街、ヤワラート(中華街)よりも、味は良く、値段も安い。
 東南アジアの屋台街、今風に言えば、モバイル商店街には不思議極る、存続、変転の定理があるように思う。
 何を言いたいかと言えば、アジアの屋台に代表されるような小資本による商売の、集団動向には、グローバルな大資本による都市の形成よりも、強い運動の持続力があるのではないかという事だ。
 グローバルな金の力に対抗し得る場所の力があるとするならば、それは小さく変転し続ける人間の生活の道具とも呼ぶべきモノの性格の集合から生成されているのではあるまいか。
 バンコクで佐藤、杉全に会えたのは、彼等の場所を特定する力、つまり、場所のイメージの伝達力が私を呼び寄せたのではないかと、思う事仕切りだ。場所は記憶とその伝達力とも不即不離なのである。
 石山修武

 

友岡さんの開放系技術友岡さんの開放系技術

078 友岡さんの開放系技術
 猪苗代湖鬼沼で、友岡さんが始めた村作りが順調なようだ。コルゲートパイプを地中に埋めた宿舎づくりが未完のままに、中古コンテナを積み重ねた新しい作業所がほぼ完成した。私は時々、アドバイスらしきをしたような、しないような。何故そんな曖昧な位置に身を置いているかと言えば、友岡さんは私が考えている開放系デザイン技術世界の住人だからだ。私が考えている世界に、理論的には最も近い行動をしているからなのだ。
 開放系技術世界を解りやすく言い切れば、自分の世界は出来るだけ自分でブリコラージュしようという事である。もう少し言えば、あり余る程に作られ過ぎているモノの組み合わせを変える事で、新しい働きをさせ、又、その組み合わせする事に労働に勝る楽しみを発見してみよう。と言う事なのだ。
 脱工業化社会の神話体系をイメージしているのだが、そんな事、言っても今の社会に通じるわけがない。今は、イコンが崩壊している時代だと言うのに、そこに神話の種を見ようと言うのだから、これは仲々理解され難い。それは自然だ。そこで、私はサンプル作りに精を出す事になる。少しは理解されるような開放系技術入門の手引きゲートが欲しい。あんまり、小むずかしい事言わずに、アッそうなのかのサンプルが欲しい。  で、友岡さんなのだ。
 鬼沼前進基地の二つ目の建築は友岡さんの自作自演である。自分の身の周りの環境は出来るだけ自分でブリコラージュした方が良い。私の主張を、ほぼ友岡さんはその通りに実践してくれている。
 コンテナを自分で買って、運び組み合わせて、骨組みを作り、それに沢山の廃材、中古材、時に新品を組み合わせて三階建ての倉庫兼作業所を作った。かなりの規模の土地造成も自分で、地元の業者を見つけてきて、全て指示して、要するに自分でやってしまった。見事である。アッという間の事であった。
 私が口を出し過ぎたり、デザインという手を出し過ぎたりしたら、こうはいかない。二〇年も昔の、長野県菅平の「開拓者の家」みたいな事になってしまう。アレは結局住み暮らすようになる迄に十年位もかかってしまった。私が手を出した、つまりデザインしたからだ。
 だから、私は友岡さんの仕事に手を出さなかった。それ故、テキパキと物事は進んだ。
 アッという間に出来つつある建築の写真を見せられて、理論的には良しとしなければならぬが、でも違うんだよナァと私はつぶやく。
 石山修武

 

言葉

077 言葉
 紙に、考えようとしている事をとどめるにしても、単なるいたずら描きにしても、描く道具や、紙片の性質は随分、その考えようとしている内容にまで踏み込んでくる。柔らかい鉛筆でするスケッチと固い鉛筆のそれは全く異なる世界のものである事が多い。ゼブラのサインペンに慣れてしまった手は、時にそれが無いと手の動きを介した想像力のジャンプを不自由にしてしまう。ボールペンの太さについても同じだ。
 人さまざまなのだろうが、私の場合は歴然とそうだ。徹底的に道具、マテリアルに影響されてしまう。他人の眼を意識する必要が無い。自分だけの為のアイデアのストック場所としてのスケッチブックに接するのだってそうなのだ。
 その余りの不自由さに嫌気がさして、今はコクヨの小さなノートに何でもかんでも書き付けるようにしている。しかし、それを長く続けていると自分の余りの乱雑さだけが浮き彫りになってくる。何の宝石も、その乱雑さからは掘り出せぬのが自覚されてしまうだけなのだ。こんな状態は自分の想像力のゴミ状態の連続だけを知る羽目になる。無意識の垂れ流しは、無意味な日常の連続と同じ事。何かで断ち切らぬとどうしようも無い。

 偶然出会った自然、例えば雲や水や木や陽光の有様が何かを触発してくれる事はほとんど無い。皆無だとは言えぬが、そのほとんどは文学的感傷や、抽象的観念を思い浮かばせはしても、物質の組み合わせや、フォルム、構造のヒントになる事はほとんど無い。
エスキススケッチは自分が何を考えようとしているのかを知る手段だ。例えば具体的な建築物へのイメージスケッチの前段階でするスケッチは極めて言語に近い性格がある。
 言葉と文字の関係はどんな構造を持つのか。特に象形文字の世界では文字は意味を表わす。それ故漢字で考える世界は同時に全てフォルムと酷似している筈である。

 銅版画に何を描いているのか知りたい。銅も鉄筆も固く抵抗する。自由ではない。だから何らかの意志がないと出来ない。明らかにコクヨのノートにたれ流すスケッチとは違う。どうやら心象スケッチの如きを連続させていると、次第に言葉に近いモノを彫り込んでいるのではないかと気付き始めた。「荒地」とか 034 コラムの「メリーランドのかたつむり」とかの題は出来上がった線描への後付けの呼名でしかない。描き始めにそんな名付け方が意識されている事は少ない。
 言葉を残すように線描を描く事ができたら、もう日記は不要になる。
 石山修武

 

元ダムダン鈴木隆行君のこと 大図解九龍城

076 元ダムダン鈴木隆行君のこと
 鈴木隆行君が亡くなった。九月六日夕方、病院で独人死んだと言う。何年か前、深夜二時頃だったか淡路瓦師山田脩二と二人、酔って世田谷村に、あれは明らかに乱入だったが、訪ねてくれて会ったのが最後になった。
 鈴木君はダムダン空間工作所では私のスタッフだった。幾つもの建築をつくる手助けをしてくれた。伊豆松崎町の伊豆の長八美術館も彼の手助けによった。誠実な設計家だった。
 最後に会った時の印象は、真夜中の歓迎されざる客であった事もあり、どうしたんだ鈴木、しっかりしろよ、と言いたい位に良くなかった。ヒゲだらけの顔ばかりでなく、体中から疲れと投げやりになっている感じがにじみ出ていた。
 私が良く知っていた鈴木君との余りの違いに仰天した。彼はキチンとした野心も持つ男だった。香港の九龍城調査を熱心にやり遂げ、立派な本にまとめたりもした。そういう事にのめり込むパッションがあった。しかし自身の内にあるカオスをそのまま容認してしまうところがあった。だから、それぞれの仕事にものめり込んだ。彼をオペレーションするのにも、それ故エネルギーが必要だった。一言で言えば、情熱と馬力が彼のカオスをそのままにしていた。一緒に乱入してきた山田脩二にもそのようなところがあるが、山田には不思議な矜持があって、決して崩れる事がない。自分のライフスタイルへの淡々とした自信がある。だから山田は湯布院に居をかまえ、淡路島に移った。決して都市では暮らそうとしなかった。都市は山田にとって泥酔する場所でしかなかった。
 鈴木君は晩年、東京で呑み屋を開店して、そこのオヤジになっていたと聞く。私は一度も訪ねなかった。彼は都市の中心で生き続け、そのカオスの中に死んだ。
 九龍城の巨大な迷路に身をひたし過ぎた結末なのだろうか。

 鈴木隆行君は都市の迷宮の闇に独人、死んだが、私は彼の本当の姿を知っていた。
 純で直情径行、そこぬけに人を信頼して、明るく笑っていた鈴木君を知っていた。伊豆西海岸の午後の光のようにキラキラと陽気な彼を知っていた。
 人間の一生は一言でまとめられる程に単純ではない。しかし、独人で死んでしまった彼の記憶は、やっぱりキラキラとした人間を信頼しようとする笑っている姿にまとめられるのだ。
 スペイン・バルセロナで彼と遭遇した事があった。彼はきっとアントニオ・ガウディの建築と、カタロニアのキラリとした青空を満喫して、幸せだったろう。本当の自分に会えている充足の中にいただろう。
 いまだに、力不足でチャンスに恵まれぬままだが、私だってキラキラと底抜けに明るい建築、ガウディだって抜けていってしまうような奴を本当は作りたい。その情熱は連綿としてある。
 鈴木隆行君が生き続けてくれていれば、その建築を共にできたのにと、今はかなわぬ哀しさの中にいる。人間は生きなければならない。迷宮に踏み迷ったままに死んではならない。死んでしまった鈴木君に言う言葉ではないけれど、敢えて言う。
 もう少し生きていてくれれば、共に凄い、底抜けに明るく光る建築を作る事ができたのに、と無念でもある。
 彼が手伝ってくれた建築は皆、明るく、希望に満ちて輝いていた。それが彼の本体だった。そんな建築が残る限り、鈴木君を忘れる事はないだろう。
 光の中に彼は生きる。サヨナラ。
 石山修武

 

左官教室編集長小林澄夫

075 左官教室編集長小林澄夫
 久し振りに小林さんに会って話した。小林さんは四半世紀程昔私に伊豆の長八美術館を建てる機会を開いた人だ。小さな美術館を昭和の左官職達と建てる事で私はマアまともな建築家らしきになった。それ以前の私はコルゲート鉄板による非建築、木製のフラードーム、アメリカからの住宅輸入、商店等の標準化建設といった事を試み続けるほぼ完全に建築の枠外者であった。
 小林さんは私を枠の中に入れる手引きをした。
 それが無ければ恐らく私は野垂れ死んでいただろうが・・・あるいは全く別の径を歩いていたに違いない。六〇才を越えてつくづくそう考える。そして最近はその全く別の径というのを深く考える事が少なくない。考え続けていると言っても良いくらいだ。

 久し振りに会った小林さんとは左官職の再生プランのような事をまともに相談した。今、日本の左官職人達は苦境に立っている。それを何とか出来ぬかのレジスタンスだ。レジスタンスではあるけれど小じんまりとしたまともな話しの合間にフッと小林さんに尋ねた。
 「小林さん、ご家族はお元気ですか。」
 六十二才は答えた。
 「私、ズーッと独人です。」
 四半世紀の間私はこの人物を誤解していた。色んな事を全て。一瞬の内に了解した。そんな時が人生にはある。
 私をまともな人間に丸めちまった小林さんは、四半世紀も昔から、俗に言うまともな人間ではなかったんだ。
 そう言えば、昔から会えば変な詩集みたいな自家本をいつも手渡されていた。ページを繰ると気恥ずかしいような言葉が並んでいて、この人、イイ年してまだまだ文学青年なんだ、なんて思っていたものだったが・・・あの詩集は業界紙編集長の片手間のものでなくって、小林さんの、むしろ中枢だったのか。
 今度も、手渡された「過客」と題された自家本はジャック・デリタの死の直前の言葉に始り、いなくなるのは風景でなくって人間なんだというような終り方をするのだった。
 裏に「青空結社」と赤い印があったので、聞いた。
 「この結社はどういう人達の?」
 「イヤ、俺一人の」
 「エーッ、一人の結社なの」
 「俺、樺太からロシアに渡って、シベリア鉄道で、死ぬのはバイカル湖と決めてる」
 六十二才ですよ、小林さん。大丈夫かな・・・。
 「大丈夫じゃない医者に見て貰ったら、栄養失調だって。」
 四半世紀昔にあった小林さんと今の小林さんは全く変わっていない。ピクリとも変わっていない。
 とすると、この、昔は気付かなかったけれど、どうやら本格的な枠外者、変人、単騎独行の人、にまともな、丸っこい人間にされちまったのは俺の方で、この人は相も変わらず、我道を行っている。
 とすると。
 この人間に会わなかったら、あったかも知れぬ別の道っていうのは、今、眼の前にいる、この人物みたいな道なのかも知れない。
 青空結社というのだって、ポール・ニザンの青空から来ているのかも・・・。十八才を若いだなんて誰にも言わせない・・・と言ったニザンを、六十二才の小林澄夫は生きているのかも・・・。
 丸っこい、いかにも積まらない今の私は、この人間の孤独な狂気によって作られたものだとすれば・・・。

 六十二才の不良ジイさんの顔を、私はまじまじと見つめた。昔はいささか風采の上がらぬ、ヒョロリとした人物が、急に得体の知れぬ風狂の人の風格を帯びてそこに居た。
 人間はそれを見る人の観方が変われば、いかようにも変身してしまう存在なのだ。他者の中に人は生きざるを得ない。だとすれば、他人からどう観られるかなんて事は、本来の自分にとっては全く関係のない事だ。こんな考えればすぐにわかる真理も俺は身につけてはいなかったらしい。少なく共、ここ二〇年程の、彼の手引きで、まともに小さく、丸められた人間になってしまってからは。別に丸くなって悪かったとは、思わなくたって良い事だが、それが不自由に過ぎるのなら、・・・・。
 あったかも知れぬ別の径を、思い描き始めているって事は、すでに身体は歩き始めてるって事でもある。
 小林さんと久し振りに会った。もう一つの地図が見えたような、相も変わらず無明のままのような。
 小林さんにも複雑に揺れ動く多様な世界があるだろう。私はある日ある時の、一つの切断面らしきに接触したに過ぎない。小林さんも又、何がしかとの他者の世界に生きている。
 私が今、想い考えている世界は、要するに唯一のものではない。私を時に視ているかも知れぬ人間の視線が持つ世界と等価な、一つに過ぎぬ。
 石山修武

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