カバーコラム 石山修武 
 


 
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芸術はゴミか

098 −コラム的連載 芸術はゴミか 8

 藤野忠利 様

 沢山なモノ送っていただき有難うございます。
 山口勝弘さんの絵本の件、そして堀尾貞治さんの事と、自分に自然に、何の作為もなく動いてきましたら、こんな事になりました。堀尾さんの事は現代っ子ギャラリー上棟式でお目にかかっていながら、鈍感の極で展開をはかる事の面白さに気付きませんでした。あの時の上棟式はまさに街頭ミュージアムでしたし、街頭劇場でした。具体のアーティストのエネルギーが街路に溢れ出て、町の人にも楽しんでもらえて良かった。何より、藤野さんのところの子供達が主役のように動いていたのが良かった。
 良かった、良かったと昔を振り返るのは、しかし、面白くない。
 ここ数ヶ月の動きを経て、少し前へゆく径筋が視えてきたようい思います。フッと昨日そう思いました。
 山口勝弘さんの生き方、表現は絵本のようなメディアで表現するのがベストだと思います。堀尾さんをそれに引きずり込むのは失礼だし、どう考えを巡らせてもしっくりこない。堀尾さんの在り方は、建築的表現で示すのが面白いのでは、ピッタリなのではと思いついたのです。
 堀尾貞治ミュージアムを設計します。先ずはコンピューターの画面の中に。次に、東京に。小さなものが無数にあるのが良い。
 勿論、ドデーンとした、今、在る様なミュージアムではない。それと知らさなければゴミとしか眼に映らぬものになるんじゃないか。期間もせいぜい一ヶ月くらいのものでしょう。それの方が格好いい。ドデーンとしたのはもう見苦しく思える時があります。
 プランは日々、お送りするようにします。
 それで一つお願いがあります。
 一、堀尾さんに、了解をとっていただきたい。
 二、堀尾さんの作品コレクションのあらかたを教えて下さい。藤野さんの手許にあるもので結構です。
 三、そんなに、金がかかるとは思えませんが、やっぱりかかるモノはかかります。それを全てネットその他で集めます。
 四、ドネイション(喜捨)や、補助金、スポンサーは当初からアテにするのは望ましくありません。それが必要になるのは頭に入れておいて、先ず自力で集めてみたい。
 五、それで入場券を先売りします。予約販売です。そのチケットを堀尾さんに製作してもらいたい。
 横浜トリエンナーレの百円均一絵画のようなものです。値段は御相談したい。
 六、以上です。堀尾さんに相談して下さい。藤野さんは画商でもあります。横浜では堀尾さんは、ほぼ一万人の人に作品を手渡しました。ネット上ではどうか試みたい。マネージメントは現代っ子ミュージアムと共同で行いたい。
 七、御返事は差仕えなければ、私のウェブサイトに公表したいと思います。その件も含めて、連絡お待ちしています。
 山口勝弘さんも絵本も、いずれそのような形式の中で展開していきたいと考えております。

 寒くなりました。暮々も御体御自愛下さい。
  二〇〇五年 十二月十五日 石山修武

 追、今日は十二時より、二十一世紀農村研究会を大学で開催します。いずれこの会にも御参加下さい。農、食、美術は密接な関係がある筈です。

 

芸術はゴミか

096 −コラム的連載 芸術はゴミか 7

 再び、藤野忠利の私信より。
 「兵庫運河で一年」
 堀尾の家から歩いて十分程の所に運河がある。彼のアートの源になっている。
 運河の水をバケツに汲んで、走りながら道路にまく。水の型をチョークでかたどる。発砲スチロールに色をつけて、運河に浮かす。ブルーシートを運河面に張りつめる。ブルーシートは、風にあおられて、空中に舞い上がった。
 運河に浮かんだイカダの上に廃材を集めて、家をつくり、一年間住みついた。鳥の巣をつくっていた・・・。
 周りの人々は次々と廃材を持ち寄って、空気美術館は広まった。
 イカダ上の空気美術館は夕ばえに美しい。水面に映った影がもっと美しいことに気づいた。写真を撮りに来る人々が増えて、運河のまわりに写真パネルが立った。次々に人々が写真を貼っていく。
 この話しがパリに伝わって、堀尾は二〇〇四年パリでパフォーマンスをやることになったのである。
 普段の生活そのものが、そのままアートになってゆくという事だろう。職業芸術家を潜在的には目指して止まぬ芸術家とはいささか異なる径が示唆されている。
 古くは、中世主義者ウィリアム・モリスが実践した小芸術・装飾芸術の考えに近い様な気もするし、全く違うかも知れない。日々の生活の為のアート、あるいは生活に総合化された芸術というユートピア主義に限りなく近い。あるいは、一種の修行のような気もする。修行のようだな、という印象は同時に極めて東洋的な仏教世界、あるいは禅の世界を想いおこさせもする。
 考えるな、即行動というのは、行動の部分を少しそげば、極めて禅の教えに近いものだ。
 普段の生活の時間から花のように、ゴミのように作品が排泄される如くの世界は、禅画の世界に極めて近い。
 刻一刻の時の移り変わりを、止観しようというわけであろう。
 モリスの芸術観はそれとは全く違うが、その違いはプロセスにあって、行き着く先の全体像は同じようなものだ。ただ、時間のとらえ方がもっともっとゆっくりしていて、ある意味ではとりとめが無い。又、優れて集団的な表現への希求があるように思われる。堀尾のものは、やはり東洋的で、基本的には個人の尊厳をベースにしている。

 今、手許に藤野氏より送られてきた、堀尾貞治の箱シリーズとやらの作品数点がある。
 これは明らかに、彩色された、色つきの禅画だ。描かれたモノの意味を考えようとしても無意味である。もともと、無意味を目指して描かれているから。
 石山修武

 

芸術はゴミか

094 −コラム的連載 芸術はゴミか
 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 6

 横浜トリエンナーレの事、そして堀尾貞治さんの事はもう打ち止めにしようと思っていたら、そんなわけにはいかなくなった。
 宮崎の藤野忠利さんから、ゴッソリ便りやら資料が送られてきた。藤野さんは宮崎市で現代っ子センター、現代っ子ミュージアムを運営する、具体派のメンバーである。
 小さなスクール経営者であり、アーティストであり、コレクターであり、メールアーティストと名乗り法外な形状の便りを送りつけてくる、やさしいテロリストでもある。
 その便りに触発されて、もう少し堀尾貞治さんの事や、現代アートの諸々について書いてみることにする。
 藤野さんの私信の差さわりの無かろう部分を引用させてもらう。
 「毎日が楽しいことは芸術」
 人から誉められたり、売ったりすることがワイの芸術ではない。
 「毎日が楽しいことは芸術」であると考えて「即行動」する。そうすると忙しくなる。「忙しいことは幸せ」であると堀尾は私に言うのである。
 「即行動」
 堀尾貞治が色紙に「即行動」と書いて送ってきた。
 “考えたらアカン、即行動することや”と言う。朝五時に起床したら、畳一枚程の土間(前は道)に立って、木片に一日一色の色を塗る。木片は、大中小、壁に掛けてあるのを手に取って塗る。お経を唱えるように、毎朝塗る作業から一日が始まる。
 堀尾に手紙を書くと、ハガキに色鉛筆、文字と絵入りで、翌日には返事が届く。
 私は、ハガキを入れたスクラップブックが数冊たまっている。
 「多忙は幸せ」
 堀尾は、一月に数本の個展をかついで忙しい毎日を送って六十五才になる。大阪、神戸、京都の展覧会へもまめに足を運ぶ。実に忙しい毎日を朝から晩まで過ごしている。
 近場は自転車、遠くは電車と徒歩でどこでも行く。
 「家の中を走ってまっせ!」
 と言うのが堀尾の口ぐせだ。あるとき、これを聞いた友達が堀尾ハンの家は狭うて、狭うて、走れるか!と言った。
 二階がアトリエになっていて、ざぶとんの右側に墨汁と筆と紙とえのぐなど、いつでも取りかかれる準備がしてある。
 勿論ハガキも置いてある。
 多忙な人は几帳面である。

 横浜トリエンナーレ会場に堀尾貞治が神戸の日常をそのまんま持ち込んだ事が知れる。川俣正が堀尾をピックアップした事も同時に理解できる。要するに川俣の仕事をより純に計算抜きで実行してしまっているのが堀尾なのだ。
 石山修武


 

芸術はゴミか
現代っ子ミュージアム上棟式

086 −コラム的連載 芸術はゴミか
 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 1

 宮崎現代っ子ミュージアムの藤野忠利さんと横浜トリエンナーレ見物に出掛けた。藤野忠利さんは関西の具体派の一員だった。具体は何しろ人をアッと言わせる事を目標とした芸術家の集まりだった、と藤野さんは言う。代表的な画家に白髪一雄がいる。足で絵を描いたんだ。藤野忠利は具体のコレクターでもある。それで現代っ子ミュージアムの上棟式のセレモニーには具体の連中がそれぞれに作品を寄せて祝ってくれた。あのインスタレーションは横浜トリエンナーレのそれよりも余程良かった。町の生活にとけ込んでいた。具体の人たちの気持ちが品格をもって表現されていた。しかも、町にとってはスキャンダルでもあった。具体の活動に品格という言葉をあてるのは奇異に思われようが、横浜トリエンナーレを見るとつくづくそう思わざるを得ない。  つまり、ゆきがかりがあって私は具体派の作品には多く接していた。
 話に聞く、実験工房の人達とは全く違うタイプの連中だなと実感した。
 堀尾貞治さんとは現代っ子ミュージアムの上棟式でお目にかかっていた。横浜に出掛けたのは堀尾さんに会う為だった。何故、会いたいと考えたかと言えば、トリエンナーレでの堀尾さんの生活振りが面白いからだ。その面白さは藤野忠利が伝えてくれた。
「堀尾さんはトリエンナーレに住み込んでしまったんです。大きな倉庫の中に小屋を建てて、そこでいつもと同じように絵を描いてるんです。」
「トイレと風呂はどうしてるの。」
「近くにアパートも借りてるようです。」
 藤野さんの話は要を得ない。
「描いた絵を、そのまんま売ってるんですよ。しかも、百円で。」
「そりゃ、面白い。どうやって売ってるの。」
「それがですね。音の絵画ってのを売ってて、百円玉を小屋に入れると、チャリンと音がして、それで絵が出てくる仕掛けになってるようです。」
「堀尾さんの小屋が賽銭箱になっているわけだな。」
「会場でホームレス生活しているようなものですね。芸術家は皆、ホームレスですから。」
「その賽銭箱は拝みに行かなくちゃいけない。」
 で、横浜に行った。
 頭のどこかで、多摩プラーザの介護センターの一室でくらす山口勝弘の「箱」とトリエンナーレの堀尾貞治さんの「箱」とが衝突したのだろう。
 石山修武

 

芸術はゴミか

087 −コラム的連載 芸術はゴミか
 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 2

 横浜トリエンナーレのゲートは中古のコンテナが幾何学的に構成されていた。入ると五百メーター程長い距離を歩く。赤白の三角旗が延々と続いている。フランスの著名なアーティストのインスタレーションらしい。中古車の展示場によくあったものだ。伏見稲荷の鳥居みたいなものだが、このフラッグをくぐり抜けると何が待っているのか。すでになんとなくウソ寒い予感がある。予感通り、長い距離を歩いて着いた会場の倉庫二棟は、貧しい現代芸術の廃墟があった。全て省く。二棟目のどんづまりが堀尾貞治のブースであった。最後に辿り着いた。芸術のゴミだらけを巡り巡って、ようやく到達したら、堀尾貞治のブースも全体がこれゴミなのであった。しかし、このゴミには唯一芸術そのもの展開してゆく力らしきがあった。
 ディレクターの川俣正がゲートに中古車売場のフラッグの鳥居を置き、終着点に、つまり本殿にゴミの小屋をセットするのをコンセプトとして想い描いていたとすれば、それだけは見事である。つまり会場全体のアート自体がゴミであり、本殿に本物のゴミが在るという構図である。

 堀尾貞治の考えている事、そして日常の振舞い、キャリアは不勉強で良く知らぬ。横浜での堀尾の展示スペースは三つに分かれている。一つは、芸術家集団空気とやらのスペースで、落書きみたいなペインティング、他を千円で展示即売しているのであった。これは余り、というよりも全く面白くも何とも無い。二つ目は倉庫の壁に色を彩色している部分。どうやら、藤野さんに言わせれば、この部分が芸術家堀尾の中心であるようだ。
 堀尾さん自身の関西での日常生活が、毎朝何かに色を積み重ねてゆくと言う生活であるらしい。毎日、毎日である。そんな仕事はヨーロッパで評価されているようだ。その日常の延長を堀尾は横浜に持ち込んだようだ。
「会場にはワイがいつも一番早よう来る。途中の信号は無視しちゃって、自転車で来る。」
 関西弁はうまく活字に移せない。
 そして、この大きな壁のペインティングを続けるのだろう。淡い、落ち着いた色調の迷彩色みたいなモノが描き続けられている。しかし、私には良くわからなかった。その面白さが、あるいは退くつさの価値らしきものが、感じ取れなかった。
 そして、三つ目。これが面白かった。
 四畳半位の木の箱があって、高さは三メートルチョッとか。
 箱との初対面、堀尾は不在であった。壁のアチコチに安手のオブジェ、ペインティングらしきが乱雑に貼り付けられている。こいつもゴミか、学芸会かと憮然とした。やがて、堀尾が何処からか帰ってきた。再会のあいさつをして、すぐに堀尾は箱の中に入って行った。急に、人間が箱の周りに集まり始めた。何だろうと誰でも思う。
 よくよく、眺めれば箱には、百円投入口という穴が開いていて、百円入口と乱雑になぐり書きされている。足許には、いつの間にか営業中の看板が立てかけられ、作品、出口と印された、これも横長の穴がある。大きな、手描きの説明書があって、十一の番号がふられている。読んでみる。
 石山修武

 

芸術はゴミか

088 −コラム的連載 芸術はゴミか
 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 3

 絵らしい絵、ビシャビシャの絵、これでも絵か、本日のおすすめSADA絵画、音の出る絵、とか、まあいいかげんな十一の絵画商品名が書きつけられている。
 興味ある人は、先ず百円を穴に入れる。百円コインは箱の中の床に落ちる。床には鉄板が置かれていて、チャリンと音がする。それから、ペットボトルを切断した伝声管みたいな口に、話しかければ良い。一番下さい。四番。とか十一種の変なカタログから、たったの百円で買いたいモノの番号を箱の中に話せば良い。
 木製の箱の中には堀尾貞治が座り込んでいて、オーダーに応じて、絵を描いてしまう。一点三十秒くらいかな。もう少しかかるのもある。音のする絵を注文したら、ガンガンと箱の中で音がして、たがねで紙に穴があけられたモノが、作品出口の穴から出てくる趣向も用意されている。
 何とも言い様がないくらいに馬鹿馬鹿しい。しかし、人がどんどん集まってくる。そして実に多くの人が百円を箱に入れる。下の穴からつるりと作品がすべり出てくる。伝声管に小声でしゃべり掛ける人がいると、箱から堀尾さんが飛び出してくる。
「大きい声で言って、聴こえないから。」
又、出てきては、
「百円入れてから、話さにゃー。同時にしたら聞きとれまへん。」
アッという間に三十名くらいの人が百円を入れて、堀尾さんの作品を入手してしまった。箱をのぞき込んでみたら、床に正座した堀尾さんが一心不乱に制作しているのが視えた。箱の片隅には百円コインが散乱している。

 休息をとる堀尾さんと、海辺に置かれた、腸づめのオブジェクトの中でビールを飲んだ。
「イヤー。大変な人気ですね。」
「ハァ。大変ですねん。紙が一枚二十二円で、それに描きますから、トントンにもなりまへん。」
「大体、今日までどれくらい売ったんですか。」
「大体、五千人くらいでしょう。」
「エーッ、そんなに。」
「今日はウィークデイだから、まだのんびりできますが、明日は休日だから、大変でっせ。五〇人くらい行列つくりよりますからな」
今日、倉庫の入口に、祝入場者十万人の看板が出ていたから、入場者の二〇人に一人は堀尾作品を手にした事になる。
「一度だけ、あんまり大変なんで手ェ抜いてチョッと手助けのモンに描かせましたんや。そしたら、外に出てみたら、沢山、それが捨てられていた。人間仲々 厳しいナア。それからは全力投球です。手ェ抜いてまへん。」
 石山修武

 

芸術はゴミか

089 −コラム的連載 芸術はゴミか
 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 4

「一人、一枚と書いて貼り出してまんのに、一万千円払うから十一枚描いてくれという人もいました。もちろん、ワイはイヤヤと。でもナア。百円やと言うの に、大金おいて帰った人もいるなあ。奇遇な人もいるもんや。」
 奇遇なのはアンタの方だろうと思ったが、言わぬが花である。堀尾さんは自虐的にこんな事をしているわけではない。何だか当然な、それこそ当たり前な事としてやっているフシがある。
「百円ショップで買うたモン、紙に貼りつけて出したりすれば、それだけでアシがでます。一度ナア。気分が乗ってしもうて、千円札、貼って出しました。出 したらナア、外でウワーッて歓声が上がって、もうしません。」
 画家と人々は明らかに、百円でコミュニケーションしている。
 それが横浜に集まった他のアーティスト達には無い。中古車センターの良いところは、車の一台一台に値札がつけられているだろう。馬鹿馬鹿しくて誰も考え つかなかったんだろう。
「川俣ハンがな、電話してきて、何やってもエエから、言うんで、やってきたんや。来てみたら、それだけは本ま見事やった。何やっても、イカンと言われへんのや。」
 他のアーティストのブースでもカタログやDVDは売られている。通常の市場の価格感覚である。堀尾さんの隣りでも、縫いぐるみを作り続けて八百円で、沢山のキレイなハンガーに吊して売っているアーティストもいる。アチラには手描きの人相画を八千円で販売している画家もいる。でも、何となく、暗い。だから人々は乗りにくい。町工場と大道絵師だこれでは。
 トリエンナーレ会場全体も、アートサーカスと銘うっているらしいのに、断然、暗い。明るげに演技しているのもあるが、あんまかり考えられていないから、白ける。何でこんなモノに附き合わなきゃならんのだと反撥してしまう。それは、出展しているアーティストがいまだに自分を職業アーティストだと思い込んでいるからではないか。だから、何を作り、何を展示しても観てる方が恥ずかしくなって しまう。
 で、会場全体が昔懐かし、木下サーカスのようになってしまった。アーティスト達の自意識自体が昔、なつかしの体になっているのが本能的に相互に分かっていなかったからだ。これでは芸術家達は酷薄な世界を生きてゆけないだろう。
 石山修武

 ここまで、私のネット上のカバーコラムを書いてきて、流石愚鈍なる私でも気がついた。俺は堀尾さんよりも、もっと変な事、奇妙な事をしてるなって。
 私のコラムは堀尾さんの百円作品よりも、少なくとも時間はかかっている。なのに私のコラムは〇円で読まれている。これは面白くない。世の中にタダ程怪しいモノは無い。
 だから、この先の「芸術はゴミか 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ」の一番面白い所を読みたい人は百円払ってもらいたい。その人にだけ、続きをメイルなり、原稿コピーでお送りする。支払いの方法は、数日中に考えるので、編集長の丹羽君に連絡すること。編集長は少々、体が不自由なんで反応が遅いかも知れない。せっかちな人はこのプロジェクト、フフ、プロジェクトだって、気取ってるね。の、担当者である渡辺君まで連絡して下さい。


お名前と以下の文面を、百円を投入するつもりでメールでお送り下さい。
To: ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp

「芸術はゴミか 堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ
 百円で購入いたします」

「百円プロジェクト」に参加登録され、メールにて「堀尾貞治 IN 横浜トリエンナーレ 5」が返信されます。

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