二十一世紀型農村研究会
二十一世紀型農村研究会 
 





 










 






 



 



 







2009 年 田園都市にいがた 食と農の学校 越前浜教室 参加者募集

10 月 9 日(金)〜 12 日(月・祝) <3 泊 4 日>

詳細は新潟市・食と花の推進課のサイトへ

2008 年 田園都市にいがた 食と農の学校 越前浜教室

10 月 10 日(金)〜 13 日(月・祝) <3 泊 4 日>

詳細は新潟市・食と花の推進課のサイトへ

2007 年 田園都市にいがた 食と農の学校 越前浜教室 開校

夏コース  7 月 13 日(金)〜 16 日(月・祝) <3 泊 4 日>
秋コース  9 月 21 日(金)〜 24 日(月・祝) <3 泊 4 日>
冬コース  11 月 23 日(金・祝)〜 26 日(月) <3 泊 4 日>

詳細は新潟市・食と花の推進課のサイトへ

2006 年 9 月 17 日(日)〜 9 月 24 日(日)
田園都市にいがた 食と農の学校 越前浜教室

 九月十七日九時半頃の新幹線で新潟へ。十二時半頃越前浜スクール着。
 新潟食と農「越前浜スクール」は、私が福岡オリンピックに時間をとられ充分な準備が出来ず、参加者は十七名である。短期間ではあるが手を抜かずにやろう。十三時半開校式、引き続きオリエンテーションとチーム作り、石山レクチャーを十六時五〇分迄。巻地区公会堂で行う。若い学生は畳の上で座りながらの聴講が苦しそう。椅子生活に完全にそまってる世代だからな。おじさん、おばさん世代は畳の上でも堂に入った風がある。夕食は宿舎の越前浜栄旅館でとり。十八時三〇分西遊寺へ。西遊寺住職朝倉さんのお話をうかがう。朝倉さんは当然朝倉の流れをくむ一族で、この集落は朝倉家二十八人衆の残党、そして一向一揆の残党によって興されたという歴史を聞く事ができた。昭和二十七、八つまり一九五〇年の高度経済成長の頃から、越前浜の集落からその共同体意識が崩れてきたという感慨をお聞きできたのは良かった。日本の本格的な近代化は池田勇人内閣の高度経済成長計画の実践にあった事が知れる。今の中国は要するに同様な歴史を歩んでいるのだろう、更に大がかりに。二〇時過修了、住職と少し話して、宿舎に戻る。

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 十八日早朝四時起床。昨日は久し振りにネパールのキルティプール・ワークショップ以来の参加者にも再会できて嬉しかった。大人の学校は面白い。学生にとっても良い体験になるだろう。まだ夜は明けぬ。稲光りが凄い。七時朝食。朝食後鳥の子神社見学、越前浜集落の中心的場所。細川の残党の依り処であった神前である。石彫りの鳥が多く奉納されている。角田山の中腹に旧社があり、一族が定着した後ここに移されたものとの事。越前浜が細川党、一向一揆党双方の混成隊によって形成された事がこの集落の独自なアイデンティティだろう。その後四班に別れて農業実習に出掛けたそれぞれのグループの現場を廻る。ネギ班、ジャガイモ班、グリーン・プラント班は廻れた。ネギの農家、ジャガイモの農家共に話をうかがう。妙光寺岩穴を見学し十一時四〇分栄館に戻る。浜に出て佐渡島スケッチ。台風十三号はどうやら新潟は直撃をまぬがれたようだ。空晴れて、フェーン現象となり三十三度Cの暑さになった。

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 昼食はランチパック。農文協甲斐さん来校。講義十五時修了。高野さん来校。講義。十七時修了。高野さんの話しをまとまって聞くのは初めてであったので面白かった。鴨川里山王国の事、その他諸々であった。TVで観る高野さんとは別の顔があった。半農半漁の新しいスタイルだ。十八時前、今日の宿舎となる民家へ。新潟市長と再会。栄館、海の家の広間で参加者、市役所スタッフ、先生方、地元の方々との交流会。どうやら台風は新潟への影響は小さそうで、佐渡の夕景が見事であった。十九時半宿舎に戻る。結城、高野、甲斐氏と談笑。二十三時頃休む。古い民家で、盆と正月だけ家の持主が戻り使っているらしい。十九日朝六時半高野氏帰京の為サヨナラ。七時過結城、甲斐さんと栄館へ。昨夜は日本海に面したこの建物には強風が吹きつけ、室内に砂が流れ込んできたと言う。今朝は六時半より地びき網体験の予定であったが波が高いので不可能、中止となった。朝食は空腹で御飯お代り。あまり体を動かしていないのに腹がへるのは気分の問題か。八時半、参加者の発表会。五組のチーム毎の発表。昨夜は準備のため徹夜になったチームもあるという。

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 皆、予想していたよりもズーッと成果をあげていた。三日で、これだけの事ができるのだ、と思った。津島由里子、豊崎富子、他のチームの発表にある種の感慨を得る。両氏はネパール・キルティプール、カンボジア・プノンペン等の私のワークショップの体験者達である。ヒマラヤの峰々を望むキルティプールの丘の集落調査迄ご一緒した位だから、問題意識もハッキリとしており、大人である。この様な御婦人方が現われ、社会を視ている事は、今の日本にとっては大変な財産である。こんな事を書けば彼女達はビックリしてしまうだろうが。常識、倫理感、そして普通の義務感がバランス良く備えられている。自己表現なぞの考えは小さいが、生活のスタイルそのものがそれになっているようだ。
 今度のワークショップの特色は参加者にある。団塊の世代と八〇年代生まれの世代にほぼ二分された。津島、豊崎両婦人は団塊の世代の婦人達である。この世代はともすれば男達が主役として考えられやすいが、二人を視ていると、オッとドッコイと考えざるを得ない。男達は生命力は弱くはないが、何故か空理空論好みなところがある。しかし、この婦人達にはそれがない。しっかりした現実感と適度な存在感がある。他人を威圧したりはせぬが、サラリとある。かくの如き生活感を持つ女性は日本の社会には初めて登場しているのではあるまいか。
 山本夏彦から「現代の職人」インタビューの人選について極く極く普通の人間が一番良いのだけれどなあ、と言われた事を思い出す。男性の大人の参加者のほとんどは帰農希望者である。皆、今の生活の後は農の生活を送ってみたいと考えている人達だ。三〇〇万〜五〇〇万人といわれる団塊の世代の動向は大きな社会問題である。この人達の老後の生活スタイルは日本社会の実質的モデルになるだろう。
 今度の越前浜ワークショップは小さな試みではあったが、社会問題の縮図でもあった。そして、この世代の婦人達の価値観、趣味、理想というもののハッキリした存在を知り得た事は収穫であった。インタビュー(聞き書き)をしたチームは皆良い成果を上げていた。中途半端な自分の意見や、アイデアを出そうとするものも多少見られたが、これは良くなかった。人の生活を、農的生活を聞く事に徹するのが、どれ程自分の生活の為になるかを、体験的に知った人間は得をしたのではないだろうか。

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世田谷村日記より
第一回、第二回の二十一世紀型農村研究会・対談資料をお届けしています。
十月に行った二回の結城登美雄・甲斐良治・石山修武の座談会の模様をそれぞれA4四十枚ほどに記録しました。送料別二回分1セット 1,200 円です。ご希望の場合は
 EMAIL: ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
までお申し込み下さい。
二十一世紀型農村研究会
二十一世紀型農村研究会 第四回
 新日本百景 山田脩二(淡路瓦房主宰)
 利根町百人スクールのまちづくり 佐藤多喜子(利根町百人スクール代表)
 日本各地の現場から 甲斐良治(現代農業増刊号編集主幹)
 結城登美雄、高野孟、甲斐良治、利根町長井原正光 座談会、他
第四回二十一世紀型農村研究会 第四回二十一世紀型農村研究会 第四回二十一世紀型農村研究会
85 名の参加で行われました。御参加ありがとうございました。
二十一世紀型農村研究会 第三回 11 月 15 日開催
 食と農村 結城登美雄(民俗研究家・農家)
 十勝の畑のカフェ 後藤健市(場所文化プランナー)
 日本各地の現場から 甲斐良治(現代農業増刊号編集主幹)、他
二十一世紀型農村研究会
45 名の参加で行われました。御参加ありがとうございました。
二十一世紀型農村研究会1
 二十一世紀型農村研究会の不完全だが、方向性、大筋のプログラム、プランを述べておきたい。

 一、二十一世紀農村研究会はひろく、食文化、農業、地域、まちづくり等に関心を持つ人材の参加を求めます。年令、その他一切を問わない。
 二、二〇〇五年は基本的には人材の発掘期間とする。それ故に基礎的な学習期間とする。
 三、私達が目的とするような、一つの集落づくりを含む、ありとあらゆる計画は基本的に実践者、研究者と、観客、観察者、企画者、資金提供者によって成立する。二で言う人材も然り。
 このプロジェクトは日本の何処かに、先が視えにくくなっている二十一世紀に我々の生き方のひとつのモデルになり得る、コミュニティを実際に立ち上げる事を第一の目標とする。
 今、研究会がイメージしているのは日本の前近代の財産の一つである「結」の維持に適した、十家族、あるいは十団体程度のスケールの集落作りである。彼等はそれぞれ一つの場所に十家族(十団体)ほどで、それぞれ三反程度の農地を購入する。その為に必要な経費は三〇〇万円程であろう。五反でも良い。出来得れば一つのエリアに集中している事が望ましい。相互扶助型の村を作り易いからだ。
 その為に、東北を中心に、県、市町村からの土地の情報を収集。又、農業特区の情報も集める。その為に、地方自治体、諸団体の会員としての参加を求めたい。
 四、農地取得して百姓にならなくても、例えば、それを観ていたい、いずれその作物を町で買いたい、あるいは少しだけ参加体験したいという人達も大歓迎です。そんな人達が二十一世紀型農業の主役であるかも知れないからです。サポーターが大事です。あんまり頑張りたくない人も研究会に参加して下さい。農機具メーカー、肥料メーカー、サプライヤー、食品加工業、環境機器メーカー、バイオ企業、等の参加、研究資金投資も求めます。
 五、参加方法
 九月十月は実験的にIT中心のダイアローグ及びレクチャーとしたいと思います。教室に集合してのレクチャー、対論は何回かのネット上の研究会を作り上げてから必要に迫られれば随時開催する予定です。
 六、研究会の発足メンバー
 二〇〇五年夏のロシア・チェルノゴロフカ・ダーチャ・ワークショップの予定メンバーを中心に構成します。参加者、会員のリストはおって公開します。
 七、問い合わせは、電話、メールで東京、石山研究室まで。
 TEL: 03-3209-2278   FAX: 03-3209-8944
 EMAIL: ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp

石山修武
二十一世紀型農村研究会2
 九月七日に第一回を開く、二十一世紀型農村研究会の最初のレクチャーは結城登美雄による。結城はすでにこのコラムで紹介済みであるから繰り返さぬが、今をときめく東北の百姓である。今をときめくと言うのには、ときめいている人に本物は少ない、そんな宿命もあるが、少しはときめかぬと現代のシステムには通用しない側面もある。結城はその意味合いでは誠に天性のバランスが取れているのだ。ときめきながらクールに引いてもいる。
 そんな事はとも角、結城登美雄は農村復興なくして地域なし、の確信の持ち主でもある。食文化に対しての独自な見解を持ってもいる。
 暑さ負けで挫折気味の私の世田谷村菜園計画も元をただせば、結城の影響下にあってスタートさせた。これはまだまだ、お話し出来る域には到底達してもいない。
 結城の最初のレクチャーは都市住民の食生活と農村の関係、というようなテーマになるのではないかと予測している。この研究会は遅々としたスピードで展開したい。それで長持ちさせたいと考えている。結城も私も若い頃は性急に過ぎて、多くの挫折の経験を持つ。だから、のんびり、頑張り過ぎぬように進めるプログラムを考えている。

 利根町「百人スクール」の皆さんの参加も呼びかけたい。「猪苗代アジア工芸村」の友岡社長、 Jr. の参加も。遠いけれど、北海道十勝の十勝環境スクールや、沖縄の「生命と共同体」ワークショップの参加者達にも呼びかけたい。
 自分達の日常生活の中の「食」世界を、農村からの視点で考え直してみよう。

 結城さんには先ず、仙台での都市居住での食生活と古川の農村生活での食生活の日常、というようなところから始めていただきたい。それは恥ずかしいよ、と言うのなら、結城さんの仙台の独人暮らしのお母さんの、それも興味深い。結城さんの高齢な母君は元気で、山形の山を歩き廻っているようだ。山中の、実に様々な木の実、山草を採取し、それを食し、隣人にも配布していると聞く。
 沖縄でお目にかかった、一〇〇才を超えようという、お婆さん達の自作小農園の作物作りと、食生活を、縄文式に東北山中の採取生活で実現していると言えなくもない。へ理屈はとも角、そんな日常の身辺のディテールから話して貰えたら、誠にありがたい。
 いずれ研究会ではオリジナル農村モデルを提案したい計画があるが、それは日常の食卓風景へのイメージが無ければ覚つかぬだろうの思いもあるからだ。食は生きる事の根幹である。

石山修武
二十一世紀型農村研究会3
 東北古川田尻で百姓やってる結城登美雄に、研究会の事で電話したら、夫人が電話に出られて、「今、外に出てるんです・・・。」だった。
 私はと言えば冷暖房無しの世田谷村で、炎天下の外へなぞ出る気力も、勿論猫の額程の庭の菜園まがいにも出る体力もなく、裸で、家の内にゴロゴロして、総選挙報道や、再びのホリエモン騒動に耳目をこらしていた。誠に情けない。であるから、夫人の外に出てます、の一声は殊更に厳しかった。ナタの一振りである。
 百姓が外に出てるって事は、散歩や図書館のカフェに行っているって事ではない。外の、田畑で農作業してるって事だ。そうか、結城は今、外で百姓の仕事で、私は内でゴロゴロかと、一瞬の内に彼我の凄まじい迄のギャップを身にしみさせられた。この距離は東北と東京の物理的距離をはるかに天文学的に超えてしまっている。そうか、結城はこの炎天下、畑に出ているのか、イヤ待て、東北は異常に涼しいのかも知れぬと、全国天気予報を見れば、東北もやはり酷暑である。宮沢賢治の、日照りの夏はオロオロ歩き、迄思い出してしまい、結城は賢治みたいな観念論者ではないからオロオロするヒマもなく、農作業にいそしんでいるのかと、登美雄は賢治を超えたのか、とまで想い込んでしまう体たらくである。
 あんまり遠い存在として、距離を離されるのは口惜しい。しかし、私には外に出て働く田畑も無い。あるけど、小さ過ぎる。それに、いくら結城が外で汗をかいているからと言って、いきなり、庭に出て、クワを振り廻すってのもおかしいと、冷静になって考えてみた。これは机上の百姓になるしかない。結城が外の畑で作物の世話をしているのなら、私は内で何かを耕せば良いのだの負け惜しみである。
 それで、外に出て汗を流しているだろう、結城の姿を想いながら、内で、私に出来る事を少しばかり考えてみる事にした。汗はかかぬが、ヒヤ汗は充分にかく。

 一、先ず、農村計画で私が出来る事と言えば、農家づくりだろう。結城試案の如くに八〇〇万円位で作れる、農家のモデルを考える必要がある。当然、農業の生命線は土地である。家が広いより、土地(農地)が広い方が良く生きられる。これから農業をやるか、あるいはまだまだやるぞの人々にはそれ故、農家(民家)に投資できる経済的余裕は、せいぜい一千万円だと、結城は言明していた。それは理解した。だから、私は八〇〇万円で作れる農家を目標にしなければならない。
 二、一戸の農家(民家)の考案と同時に、その集合の形を想い描く必要がある。そうすると、何軒かで共有する、あるいは持ち株スタイルでの自給エネルギー装置の必要が発生する。太陽光発電と風力発電の可能性、及び超小型水力発電の可能性をまとめる事が必要だ。

 一、二、に関しては開放系技術論としても展開が可能である。
 これにはすでに構想がある。
 次に、私にとっても新しいフィールドの研究が必要になってくる。

石山修武
二十一世紀型農村研究会4
 二十一世紀型農村の農家(民家)は、エネルギー自給自足型の開放系技術による家であるべきだと考えている。しかも結城登美雄が言うように八〇〇万円くらいで入手できるのが良いと言う事になれば高度消費社会の悪しき家の常識は当然捨てなければならない。
 先ずは厳しい経済的現実に対面する。八〇〇万円の家なんである。この途方もない条件をクリアーするには余程の工夫が必要だ。例えば考えられるのが構造体は完成させた中国製でなければその値段の実現は困難だと言う事。だから、主構造の家は中国にオーダーして、輸入する。そんな大掛かりな工夫が前提になる。結城の考えを実現するのには、本当の地域をつくるのには国の枠を外す事さえ考えねばならない。日本製の住宅はその値段からして日本の農業の現実には不向きだ。農家は農家を建てる為に生きるのではなく、家は生活の道具だから。
 次に農家の広さは、どれ位が理想だろう。まあこれも値段次第ではあるが、最低四〇坪(百三十二平米)位は必要だろう。その規模の中国製の構造体は、上海からの海上運賃も込みで基礎も含めて約三百万円(鉄骨製)で、これには屋根も壁もついてはいるが、農家は諸設備に金がかかるから、これで充分である。内装にはたっぷり日本の木を使いたい。タタミも今は六十%は中国製と聞くが、広い座敷には必要だろう。内装に二百万円、設備に二百万円、予備に百万円。それで八百万円。自給自足のエネルギー等やりたい人は一千万円までの二百万円を使えば良い。これは研究会のプロジェクトとして公表する。ただし、輸入手続き、建設マネージメントは教えてさしあげるけれど、皆、自分達の責任でやっていただく。農家、民家は自分で作るものです。
 農家に倉庫、作業所はつきものだが、これに関しては私共も新たに研究しなくてはならない。自分の家にどれ程の倉庫、作業所を持つべきなのか、あるいは持たぬ方が良いか。共有の倉庫、作業所はどれ程合理性を持つのか、持たぬのか等。
 作業所には当然、販売所、加工場のような機能がついてくるだろうが、そのリアリティもチェックされるべきだ。
 相互扶助形式の農業経営のビジネスモデルが無いと、これらのすべては決める事ができない。ビジネスモデルは、それぞれの人間のライフ・スタイルから生み出されるものですから、これにも幾つかのタイプが用意されてしかるべきでしょうが、余り多様になっても物事はすすめる事が不可能になります。
 本論にもどるが、結城登美雄のアイデアの骨子は、自分の体験をモデルにした、シンプルな生活設計のビジネスモデルからの出発に特色がある。今、日本の、東北の農地は一反百万円で入手可能である。農業基本法が改正され三反以上を専業農家として認め、優遇するから先ず三反の農地を得る。それに三百万円必要となる。結城の場合は五〇才を超えてからの転業農家である。息子さんの強い希望もあって、家族ぐるみの転業だった。少しのゆとりもあったので一町五反歩を入手した。幸い家も納屋も含めて土地も含めトータルで千五百万円くらいで、謂わゆる、農業のインフラを入手出来たようだ。その自分の生活感覚、金銭感覚が全てのベースにある。だからこそ説得力もあり、強いのだ。
石山修武
二十一世紀型農村研究会5
 東北田尻の結城登美雄親子を訪ねた時、印象深かったのは、結城の口から次から次へと様々な計画が語られる事であった。計画とわざわざ呼んでみせる程には堅苦しくない。それは抱負とか、夢と言っても良い類のものであった。
 結城の一町五反の田畑には南下りのゆるい傾斜がある。畑もある。隣の畑との境界に巾一・五メーター程の小径がある。傾斜は農作業には大変だろう。しかし、フラットな大地に内からエネルギーが加わって、それで傾斜、斜面が出来るわけだから、傾斜にはエネルギーがあると空想するのには理がある。つまり、フラットな土地よりも傾斜地は面白いのを言いたい。
 建築する事は、原理的にはフラットな場所を起伏に富む、つまり傾斜地交じりの場所に作り直すって事だ。
 結城はこの長い、自分の畑の中の作業道を、近い将来ぶどう畑にすると言った。道の上にぶどう棚を作って、それでぶどうを育てると言う。私は東京世田谷の自宅近くのNさん宅を思い浮かべた。Nさんの家は私の家から三〇米位のところにある。道を挟んで隣の隣だ。小さなガレージを持つ。既製品のガレージだ。そのガレージの天井とスケスケの壁部分をNさんはブドウ棚に作り変えている。それが仲々良いのである。毎年、秋になると驚く程多くのぶどうが房を実らせる。その一つ一つをNさんは紙袋でていねいに包み込む。町の中で、その一角だけが生きている風がある。
 結城さんだって、ほんの少し前までは大都市仙台に住み、仕事していた典型的な消費社会の消費的な人間だった。仕事は広告代理店経営だった。つまり私の家の近くのNさんと大きな違いはない筈だ。Nさんはリタイアしたが、以前は住宅メーカーにつとめていた人と聞く。
 結城がこの斜面の道にぶどう棚を作って、ぶどうを作るという計画と、すでに、なされているNさんの家のぶどう棚とぶどう作りは何が違って、何が同じなのだろうか。Nさんと結城さんの年齢はほぼ同じ。Nさんは悠々の都市リタイア生活者。結城さんは今はフリーランサー(自営業)だから、悠々というわけにはいくまいが、成熟した年齢を生きているという事では何も変わりはない。
 つまり、何を言っているかと言えば、読者の皆さんと東北の百姓結城登美雄には同じ基盤があるのを言いたい。他人事ではない。結城登美雄が六〇才を前にして百姓になろうと試みているのも、Nさんが何年も前から東京世田谷のガレージでぶどうを作り始めていたのも根は同じだ。しかし、やっぱり、違いもある。百姓とガーデニングの延長とは何処かで何かが異なる境界がある。
 この問題は開放形技術が抱える問題でもある。Nさんの作るぶどうと、これから結城さんが作るであろうぶどうについて考えたい。
石山修武
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