淵瀬問答 '04
編集人雑記: 丹羽太一
 Thu. 30 Sep. 新しい場所
九月十八日 昨夕、久し振りに研究室のスタッフ丹羽太一君と話した。
□というわけで久し振りに石山さんと話しをした。最近の興味などをひとしきり、そしてサイトに関して。
□石山さんも何かと忙しい身である。研究室にいてもなかなかゆっくり話をする機会はつくれない。普段は書棚を隔てたスペースにいるから姿を垣間見るぐらいで、来客、打ち合わせのときには笑い声が聞こえることはあるけれど、だいいちこちらはコンピューターに囲まれて見通しが良くない。ずっと同じ所にいるから、むこうから時々ふらりとやってきて日記の更新を催促しに来るぐらいが唯一面会の接点だ。
□ただ、石山さんは毎日日記を書いて置いていく。石山さんは毎日この日記で考え、問いかける。つまりそこには頻繁に現れる。現れるし、語る。今は誰も答えぬから、広い野原で黙々と独り立ち回るが如しだ。こちらから投げるばかりでなく受けるやつがたまには欲しいよ。そうかそこには居るのだからな。
□そこでこちらからちょくちょくそこへ出掛けていくことにした。滅多に会わなくてもそこなら通じることもある。ここからある程度自由に行ける、いつもとは別の場所だ。それが対話になるか、勝手な話しになるかはわからない。いまはただ淵瀬問答としかいいようがない。
 Mon. 4 Oct. 情報の空間
□この新しい場所は、実際に在る場所ではない。そもそも場所と言う場合、本来はある存在のポイントを指している。そしてそれが実際に在るという場合は物理的な物としてあるということで、つまり触知的な実体を伴う。
□場所という言い方は、そのポイントを大局的につまり垂直軸上から眺めた相対位置を指す。その場所へ降りていってその位置における視点を取り巻く環境を指すときはそれを空間と言えばよいだろう。
□空間というのはある拡がりを持った空隙のイメージだ。ただ空間というイメージは物理的な空隙とは他にもう一つ、物理的に存在しない場合でもただ空間的に拡がっているイメージとして使われる。
□情報の空間もそうだ。この空間には、拡がっているイメージがあっても存在する実体がない。実体がないから大きさもない。実際に触れることも形を見ることもないから、身体に対して距離感、スケール感がない。だからここでは物理的な身体との関係がつくられない。そこは実際に存在する空間と大きく違う。
□だからこの新しい場所にあるのは、身体との関係において少しばかり特異な空間になる。ヴァーチャルというのは身体とは非連続の空間だ。それは身体とは繋がらず、しかし思考とは繋がっている。
 Fri. 8 Oct. イメージという空間の像
□思考は身体内部で行われる。しかし思考は空間的に身体に限定されるわけではない。脳は身体の一部であるが、その物理的な働きは意識されることなく、思考するということこそがその働きどころだ。頭の働きは特に外部空間に対しては、身体の働きという場合以上に空間を拡張する。つまり頭では物理的な身体の制約を超えた領域を往き来することが出来る。どんなマクロもどんなミクロも決して実際見ることのないものも、想像し思考を巡らせることは出来る。これは身体だけでは決して辿り着かない空間の感覚だ。
□頭が思考することを意識というならば、意識は身体外部から経験することによってその外部空間を認識する。物理的空間の経験は身体から受けるが、情報はその意味するところを直接思考に受ける。身体を介して経験しうる空間も、身体とは直接接しない情報も、思考は身体外部をいったん思考内部に取り込み、いわば意識が全てを内部化した上で外部空間に再投影する。意識はイメージ=像として世界を構築し、イメージ=像として外部を視る。つまり意識は常に像として投影された空間を視ている。少なくともある主観にとっては、全て空間は意識によって知覚され認識され意味づけられている。身体を介して外部を知覚し、認識し、それを思考して拡張し、想像し、今度は身体を介して表出し、或いは行動する。現実空間としての世界は意識によって再構築されている。
□意識が空間にイメージ=像として空間性というものをあたえる。それで、ヴァーチャルを空間として捉えることもできる。
□身体の空間も非身体の空間も意識によって現実化される。身体と非連続ということは、ただ身体の知覚する物理的空間には規定されないということだ。
□逆に言えば、身体性は身体と時間−空間との連続がその本質と考えられる。
 Wed. 13 Oct. 時間と記憶
□石山さんが日記というモノを何故記すのかといえば、忘れるからだという。
□時間と共に忘れるということは、自分ではどうにもならない。そもそも時間は、どうにもならないことの代表だ。どんなに大切な時間も、どんなにイヤな時間も、時間というものは容赦なく流れていく。流れていくという表現はこの場合的確な言い方ではないけれど、他にいいようもない。それは流れていくのか消えていくのか、そもそも存在するものではないから頭で考えるしかない。
□しかも自分で体験できる時間は自分の一生分しかない。歴史は思考できるが体験はできない。その時間は記憶として一人一人が自分の頭の中に仕舞っておくより他、残る術がない。そして記憶はその人の人生と共に消滅する。記憶のはかなさ。これもまたどうにもならない。それは身体と共にあるが、身体として存在するものではない。
□しかしそれ故に、それらが身体を自分の身体たらしめている。
 Mon. 18 Oct. 身体の空間
□身体というのはまず物理的実体としての肉体を指している。運動機能はその身体の働きだ。
□身体は、それを主体と一致した外部と考えれば、そこにいる瞬間の自分を含めた外部の全体空間を経験することで自分を取り巻く外部の空間と連続している。身体は、その瞬間のスケール感で外部空間を常に知覚し続ける。運動はさらにそのスケール感を次々変化させる。身体空間は物理的外部空間と重なりながら連続している。
□この身体空間、瞬間の物理的外部空間の知覚を、時間に沿って蓄積し記憶するのは頭の働きだ。身体を介して頭が認識する、時間を伴う空間感覚だ。この記憶の時間−空間認識が身体を、自己の身体たらしめている。記憶の時間軸がなければ、身体の存在は過去とは無関係に宙に浮いてしまう。
□だから全く新しい体験が、理解を超えた衝撃となることもあるのだけれど。
□身体性は空間と時間双方と身体の連続性からできあがる。空間の記憶の時間軸的蓄積が、いま感覚している身体をそこに出現させている。
□そのとき認識されている物理的外部空間は、同時にその身体感覚がつくる身体空間としてのイメージ=像である。いま実存的空間という言い方があるとすれば、その主体にとって時間−空間と身体が連続しているそのイメージ=像がその空間だ。いわば空間のその主体にとっての意味だ。
 Fri. 22 Oct. 思考の空間
□物理的外部空間のイメージ=像は、時間−空間と連続する身体性が規定する。
□情報の空間は、その身体性を飛び超えて思考と関係する。それは身体だけでは決して辿り着かない空間の感覚、形の見えない空間だ。つまり身体を介さない空間は無形であり、情報空間はイメージ=像としてのみ存在するものだ。
□情報は外部にあるが、そこに意識をさしむけたとたん、思考のつくる像としてすでに内部と関係している。知り得た外部情報はすでに内部化されている。物理身体の経験も、情報となりうるものは情報化され、その内部イメージ=像の形成を強化する。だから情報空間のイメージ=像は常に内観的だ。
□しかし情報には物理的な距離がないから、そのイメージ=像の空間パースペクティブがあったとしてもそれは恣意的にならざるを得ない。形がないから空間的定位がない。いうなればこの空間には関係性という意味しかない。関係性とは主体が構築しうる世界の意味だ。
□こうして、ある主体をとりまく空間には二つの局面が同時に存在している。敢えていうなら、物理空間のイメージ=像はより身体的で情報空間のイメージ=像はより思考的だ。
 Fri. 29 Oct. 情報の時間
□空間に対するイメージ=像はあらゆる主体にとって常に主観的なものだ。記憶はそういう主体の時間軸に沿ってつくられる身体的なイメージ=像の蓄積である。
□情報はその時々に記憶と関係して蓄積されそのイメージ=像に関わっていくが、同時に主体の外部では常に様々な主体にとっての共有空間として存在している。それは客観的知識とでもいうべきものの日々更新されながらある関係性、いわば社会といわれるようなものだ。
□社会が持つ時間軸があるとすればそれは歴史といわれるものだ。つまり情報の空間をとりまく外部の環境は、歴史という時間のつくり出した共有イメージ=像と言える。これは社会的主体にとっての、社会の空間のイメージ=像だ。
□身体の時間は記憶として身体の空間を意味づけ、情報の時間は歴史としてその空間をとりまく情況的存在になる。
□空間は常に時間によって規定されあるいは時間と一体であって、初めて知覚され感覚されるイメージ=像となっている。
 Thu. 18 Nov. 時間と空間
□空間をイメージ=像として視ているとき、その空間には必然的にその空間と関係する主体が、視るものとしてとりこまれている。だからその主体が認識している空間は、その主体の時間認識の上にある主体と空間の時間上の関係性のイメージ=像であり、つまり常にある時間の中にある。
□物理空間においてはその時間−空間体験は身体的なものであり、情報空間においてはむしろ社会、歴史という時間そのものが空間を成しているように思われる。空間を認識するという関係性において、空間の問題はだから身体の問題、そして時間の問題に帰せられる。
□対象としての空間というものは、時間的拡がりの瞬間瞬間の体験にほかならない。
時間は空間を包み込んでいる。宇宙の実体は時間そのもの、変化、動き、無限の多様さに一瞬垣間見る系統の如きもの、それを観相し得たという実感の如きものの連続にあるのではなかろうか。今という時間も又、歴史という一見固形の如くに見える計測器に測られている現実なんだな。(世田谷村日記 040109
 Wen. 24 Nov. 現実の身体に起こる事態
□この研究室ではいつも、何を問題にしてそれをどのように考えればいいのかを考えさせられる。その対象も多様だ。特に学生のゼミでは、社会的経済的状況の話しから近現代の技術、歴史的あるいは機能的、装飾的、技術的な建築、そして空間のデザインについて、様々なやりとりが行われる。
□先日久々に参加したゼミでは、学生の設計課題のテーマに関して、宗教観の違いからコミュニケーションの形態の特殊性について、コミュニケーションの演技性、情報空間と身体・都市の空間といった現代的な空間の問題ともいうべき話しを聞いた。
□石山さんはこれらを身体の問題として考え始めているのではないか。それはしかし決して抽象的ではなく、老いや病、障害といった現実にここにある身体の問題と、社会そして建築の転換期とを重ね、現在を考えている。それは日々の体験が消化されまた滲み出るような何か、自身の身体にピッタリと寄り添った思考だ。
□この問答はいわば自分のための、言葉を整理するための思考過程として始まった。当然言説としては何においても敵うはずもない。それでも現在に対する問題意識がある限り、それが何かを考えなくてはならない。それで少しは考える端緒になった。しかしそれをもっと現実の自身の事態として考えることの方がさらに高度で難しいのだな。
 Fri. 24 Dec. 情報空間と現実空間
電車の中はケイタイと小型コンピューターに没頭する人が多い。彼等はここに居て、同時にここに居ない。距離によって生まれる古典的パースペクティブの外に居る。こうして風景、空間は情報という無数の記号や言葉によって侵蝕されてゆく。無数の記号は空間浮遊し、散在するのではない。それは空間をむしばんでいる。むしばまれた空間を我々はそれでも生きてゆかねばならない。(世田谷村日記 041201

□既に情報という形のない物が現実の全ての表象を決定している。情報空間が新たな生活基盤となり現実のそこここに実体を結晶している。情報のイメージ=像から現実は思考されている。
□都市においては情報が場所の個性を振り分けて人を交通させ、雑誌を手本にできあがった流行が街のファッションとして風景に現れ、つまり何処に行くかは情報によって決まり何を着るかは情報によって決まる。そこで何をするかも予め情報によって決められる。
□そこにいてもあらゆる場所とケータイで連続し、空間のスケールはどんどん曖昧になっている。
□そうしてあらゆる場所は都市と同じ、情報のイメージ=像の風景になっていく。
□現実は情報の滲んだ投影となっている。情報空間と現実空間の役割は既に逆転しているのかも知れない。
何の感慨もしくは感傷さえも湧き起こらぬように全てのシステムが動いている。そのシステムと人間は赤裸々に対面しなくてはならない。空間にまだ存在意義があるとすれば、それはシステムと人間の関係のクッション材だな。(世田谷村日記 041222

石山修武 世田谷村日記
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