石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2004 年2月の世田谷村日記
 一月三十一日
 八時起床。庭の白梅の花が美しい。うっすらと黄色がかって品格がある。やっと花に眼がゆく時間があいた。世田谷村のウサギ、ツトムも急速に人間になじんできた。足許にじゃれつくようになった。前足でトントンと人の足をたたくまでになった。ツトムという名は、なんだか顔付がタレントのラビット関根に似ているからだという。関根の方がラビットに似ているんじゃないのかと思ったが、マア理屈は言わないのである。十一時研究室。ピースウインズ・ジャパンの女性スタッフと会う。しっかりした女性で、「ひろしまハウス」建設の力になってくれるかも知れない。ひろしまハウスプロジェクトは三好シュータクさんに担当してもらうので、良いコンビになるだろう。十二時半難波先生来室。十三時大隈講堂公開講評会へ。三年生の最終課題のクリティークに難波先生を誘ったのは、ここ数年で最良の学年だから、早稲田の最良のモノを見ていただきたいと考えたから。今年の卒計は他人に見せられるモノではない。クリティークは面白かった。良いモノが並べば、こちらも乗るのだ。今年の三年生は最後まで投げずにキチンとついてくるスピリッツがあった。この学年にはしっかり附合うつもり。こういう成果を得た学生達の力と感性に見合った社会・建築の問題を構想しなければならないのだ。十九時過修了。二〇時研究室に戻り、難波先生とワインを少々。雑談。食事をしようと言う事で職安通りの韓国料理屋へ。久し振りに気分も良く、難波さんと青山のカツのところに寄り、深夜帰宅。。

 一月三〇日
 十時研究室、森田群馬県左官連合会会長、長谷川哲ちゃん共に来室。伊豆の件、その他打合わせ。十一時半、青森県下田町精神障害者はくちょう家族会会長山崎市松氏来室。はくちょう会の村づくりを依頼される。面白い仕事になりそうだ。十四時五反田へ、十五時TRCビル、トモコーポレーション社長、新木場プロジェクト打合わせ。十七時友岡清秀君と猪苗代プロジェクト打合わせ。十九時夕食を社長、清秀君と共にする。二十時四〇分世田谷村に戻る。
 微風だが追い風を捉えているのを実感する。ここしばらくズーッと向かい風だった。この風で走りきってみるか。まだ早いか。潮時というのが難しい。上海の風がどう吹くか。

 一月二十九日
 十時杏林病院、脳神経外科。先日のMRIの結果は異常無しで、もう来なくて良い事になった。総合内科の主治医清川先生の指示受ける。これを機に体の全てをクリーンアップしてしまうつもり。十二時半人事小委員会。十三時卒計判定会。今年の卒計は謂わゆる上澄み、つまり早稲田らしい凄モノは一点も無かった。十六時機械Bの先生方と第一回のゼミナール。入江主任と私が小プレゼンテーションした。モバイル研究会を発足させたい。十九時野田さん宅。打ち合わせ。野田さんというクライアントの姿がハッキリ視えて来て面白くなってきた。キチンとお附合いしてゆこう。二十三時過世田谷村。

 一月二十八日
 九時修士設計チェック。九時半四年設計製図採点。建築学科は六年制に移行しているので、四年の卒業設計に学生の力が入らなくなっている。三年の製図よりも力量が落ちている感あり。西谷研究室のアルミ構造の設計に最高点をつけざるを得なかった。十三時フジタ来。十三時半石山研一期生北園徹来。十四時北園レクチャー。十五時日本フィンランド・デザイン協会島崎理事長来室。十七時大成建設来。十八時建築文化インタビュー。

 一月二十七日
 七時半起床。九時半研究室日経新聞インタビュー。千葉の高橋さんより連絡が入っていて、二月に入ったら具体的な打合わせを始めなければならぬ。十二時東京ガス・オゾン。十三時コンペの公開審査。十七時修了。表彰式。十八時修了。世田谷村戻り、休む。

 一月二十六日
 七時過起床。空は分厚い雲におおわれている。9階の窓下にはモノレールが走るのが視える。十時四十分JTA五二便で東京へ。しかし、今朝の朝食はまずかった。沖縄のファーストフードは良くない。規格化されたものは良くない。沖縄の伝統的な「食」には可能性があると思う。東京便は満員だった。十五時前研究室。打ち合わせ。十六時過、高山夫妻来室。十九時人事小委員会。

 一月二十五日 日曜日
 六時過起床。八時五五分羽田発ANA一二三便で沖縄へ。
 今十二時三〇分、宿泊先のグランド・オーシャン・ホテル近くの喫茶店でランチをとる。ホテル近くに昼間開いている食堂が無い。凄いカレーであった。物凄く甘いドローッとしたカレーであった。今日は幸先が悪い。十三時ホテル・チェックイン。研究室よりFAX受け取る。大宜味村にもポスターをE・MAILであらかじめ送ってもらう。十三時過国建コンサルタント課長、照屋君迎えに来て大宜味村へ。名護を経て大宜味村へ。海が寒々として美しい。十五時過大宜味村役場へ。東参事、北部広域組合スタッフと打合わせ。沖縄サイドの意見を大幅に取り入れポスター原案修正。生命と共同体はポスターから消えた。ユイマール(相互扶助)、地域経営、地域産業、村、生命、をサブタイトルにしようという事になった。やっぱり現場で顔を合わせて話し合うのは必須だな。十八時過迄打ち合わせ続く。夕方になると外は寒い。沖縄にも冬はあるのだ。風強し。名護の宮里という沖縄そば屋で夕食。五百円のソーキそば。これは美味。二〇時過那覇に戻る。二十一時ホテルで熱い風呂に入り、横になる。

 一月二十四日
 八時新宿、写真家中里和人と待ち合わせ、指扇の家の撮影に立ち会う。十四時研究室戻り、小樽の平埜さん来室。家づくりの相談に乗る。何年も前からお便りをいただいている方でイヨイヨ建てる決心をしたようだ。十勝の現場と同じ時期にすすめられればいいのだが。これも断れない。今迄とは違う設計のすすめ方をしなければ、とてもこなせない仕事量になっているが、キチンと一つ一つ手を抜かずにやるしかない。似たようなモノを作り続ける気持ちは無いので、スタッフの教育をシステム化する必要がある。聖徳寺打合わせ後、十八時過三ノ輪の藤井さん宅訪問。四階建の住宅の打ち合わせ。二十三時過世田谷村に戻る。

 一月二十三日
 七時二〇分起床。フルーツ入りヨーグルトとお茶をいただき、東京発九時の踊り子101号で伊豆松崎町へ。東海地区HOPE計画の総轄報告会での講演。今、十時前踊り子号の車中でボーッとしている。ボーッとしながら自分勝手な妄想、迷想を巡らせている。自分の事は良く解らぬが気持ちを休ませているのだろう。十一時五〇分蓮台寺着。松崎町建設課長等迎えて下さり、松崎町へ。車中、群馬の森田兼次前日本左官業組合会長にお願いしようとしている伊豆の長八美術館のお色直しに関して相談。美術館附属レストラン、カサ・エストレリータでシーフードカレー喰べながら、産業観光課長等各課長さんと打合わせ。十三時半、東海地区の幾つかの市町村の行政参加の会開始。「松崎町の財産」と題した基調講演を一時間少々。終了後、若手職員に三島駅まで送ってもらう。十七時過三島着。十七時半のひかりで東京へ。
 今日の松崎町の講演で最後に述べたのは町のなまこ壁通りの蔵の件であった。私と佐藤健が近藤家よりお借りしていたものであり、その将来への運営に関してかなり具体的な考案を述べた。会場には近藤先生も見えており、いいかげんな事は言えず、私なりに緊張した。
 近藤家の蔵二棟の維持管理に関しては、石山が責任代表になって、ユニオンを作り会員制にして運営してゆくのがベストかも知れぬという考えに今は巡り着いている。私一人では運営のキャパシティーが小さい。二つのギャラリスペースを運営するメンバーを集めてみようか。これは三月より研究室に来る西岡にやらせてみよう。東京着、TAXIで広尾のフィンランド大使館へ。十九時前着。栄久庵憲司の勲章授与式。駐日フィンランド大使、ソタマ・ヘルシンキ芸術大学長、石垣前フィンランド大使等参会。鈴木博之、隈研吾も列席。勲章授与式の後、会食。二〇名程のディナーであった。石垣元大使夫人と隣りの席になり、色々とお話し出来て良かった。長女徳子が石垣さんの娘さんと同窓生で御縁がある。ヘルシンキの日本大使館でも御世話になった。二十二時過修了。栄久庵さんとチョッと話し二週間後位に会って、フィンランドとの件で相談する事を約す。鈴木博之と地下鉄広尾まで歩き、恵比寿経由山手線で新宿で別れ、二十三時過世田谷村に戻る。考えてみれば松崎町の近藤家の蔵の庭には鈴木博之設計の「会所」もあり、これはまだ誰も知らぬが仲々の名作なのだ。松崎町とフィンランド大使館を巡った一日であったが、不思議な縁で結ばれてもいるな。明日も早い。二十四時頃就寝する。バルセロナの外尾悦郎もどうしているのかな。

 一月二十二日
 九時研究室。広島の木本君と打ち合わせ。福岡忍田邸の吐水口及び幾つかの生活用品の製作を依頼。木本君はドイツで修行した鍛冶屋さんである。十時友岡君来室。猪苗代プロジェクトの建設責任者を依頼。タイに出掛ける前に打合わせを約束。沖縄ワークショップのポスター出来た。美しいデザインで良い。院生相談後教室会議。十六時鳩ヶ谷前村さん来室。家づくりの相談。アベル、蔡さんパビリオンの件打ち合わせ。十九時半新井薬師野田さん宅。打ち合わせ。ステンドグラス、プレゼントされる。ルオーの版画等の件、話しはずむ。二十一時半修了。二十二時半世田谷村に戻る。寒さ厳しい。

 一月二十一日
 十時石山研の内モンゴルの博士課程海日汗の博士論文審査会。吉村作治、中川武、古谷誠章各先生の審査をいただき、色々な指摘を受けたが、OKとなる。「ゲルの方位についての研究−古代四ハナゲルにおける方位システムの解析」の研究で、ゲル発生のコスモロジーに連なる重要な研究である。建築の方位の研究は世界各地の遊牧民の住居に展開できると面白いのだけれど、誰かやってくれないか。海日汗はこれで自信を持ってモンゴルに帰れる。彼女の研究が益々深まり、モンゴル民族の尊厳の基盤の一つになってくれると嬉しい。
 仙台アトリエ海佐々木氏と新木場のプロジェクトの件で連絡。プロの力を最大限に注入しなくてはならぬ物件である。GA「住宅プロジェクト二〇〇四」には友岡さんの山小屋、猪苗代前進基地を出展することに決めた。十三時半中川研、博士論文審査、小野邦彦君の「古代ジャワのチャンディの伽藍構成に関する研究」。ヒンドゥ教寺院の非対称伽藍について。興味深い論文であった。十五時再び中川研、東大の鈴木博之先生も同席、倉方君の博士論文。「伊東忠太の建築理念と設計活動に関する研究」審査。修了後、鈴木さんとコーヒーを5分。プロジェクトの打ち合わせを一つすませて、十七時研究室をたつ。十八時森川と五反田TOC内トモコーポレーション。新木場プロジェクト打合わせ。大枠の合意に達する。二〇時半終了。少し早かったが世田谷村に二十二時過戻り。二十三時過寝てしまう。

 一月二〇日
 八時前起床。九時過チェックアウト。タクシーで那覇空港へ。少し時間を得たので、待合いロビーでスケッチ。沖縄の一月は曇天が続くそうで灰色の風景だ。十時四〇分JTL五一便で東京へ。今雲海の上に浮いている。雲の上はいつも光が溢れているんだ。昼過研究室に戻る。プロジェクト・ミーティング数件。十七時半中川研博士論文審査会。十九時人事小委員会。建築学科は難問山積である。将来を誤らぬ様にしなくては。二十一時半修了。二十三時前世田谷に戻る。二川幸夫が二件の物件を見てくれた様で、マ、厳しい事言われるのであろう。しかし、建築作品が駄目になったら全てが崩壊してしまうのだから、全力を尽くすしかない。一つたりとも手が抜けないのを自戒する。

 一月十九日
 深夜というより早朝か、三時半頃眼がさめた。二階でガヤガヤと声がしている。何だ何だと降りてみれば、なんと淡路の山田脩二がいるではないか。元ダムダンの鈴木を連れている。酔って例によって山田脩二風に自由勝手にやっている。
 流石に参ったナアと思っては見たが、山田なんだから仕方ない。酒持ってこいと叫ぶので、百年の孤独を出せば、アア言う、水を出せばコー言うので、こちらは酒も飲めず、往生したが、山田なんだから仕方ない。家内も附合い、雄大、友美も少し附合い、妙な時間を過した。こういう附合いは今では化石みたいなものになっているのは承知だが、山田なんだから仕方ないのである。幸いにして、今朝は早朝の沖縄便なので、と知らせると、五時頃アッサリ退散して行った。バカヤロー、でも山田脩二なんだから仕方ないのだ。私も家内も苦笑いで、予定より早く六時前に世田谷村を出る。家内の運転でまだ真暗ななかを羽田へ。全く、まだ化石みたいな人間が生きているんだ。佐藤健が亡くなって、化石を一つ確実に失ったが、まだ残っていたんだなあ。七時にまだ、だいぶ間がある時間に羽田に着いてしまう。アト、二時間は眠れたのに、でも山田なんだから仕方ないのである。何か喰べようか。
 今、九時半くらい。知らぬ間に飛行機は雲の上に浮いている。ANA二一九便は八時〇五分発だから、眠っているうちに飛び立ったのだ。今週は休む間もないくらいのスケジュールになっているが、こういう時程寸暇を惜しんで遊ばなくてはならない。十一時那覇空港着。国建の照屋君、課長と共に迎えて下さる。すぐ大宜味村へ。途中名護市では桜の花が咲いていた。色の濃いい桜だ。大宜味村で島袋義久村長以下、助役宮城重徳氏等にお目にかかる。企画財務課の東参事、名護市役所の比嘉氏、北部広域事務所の方々と二時間程の打ち合わせ。その後、大宜味村の幾つかの施設を見て、海を埋め立てた計画地を視て那覇に向かう。ハーバービューホテルにチェックイン。国建スタッフと少々打ちあわせ。照屋君と食事に出る。二十二時四十分ホテルに戻る。いよいよ沖縄での生命と共同体をテーマとしたプロジェクトが始まる。

 研究室のホームページの改良がまだ上手くいっていない。丹羽君に頑張ってもらわなくては。もう少し具体的な指示が出来ると良いのだが、その時間がない。
 スケッチブックと色鉛筆は持ってきているのに、それを取り出すゆとりが無い。体力不足なんだろう、ゆとりをまだ作り出せないのだ。

 一月十八日 日曜日
 休養。午後研究室に出て雑用。ついでに本を何冊か持ち帰る。沢木耕太郎「路上の視野」何でこの本が研究室にあったのか忘れた。パラパラと拾い読みしていたら「記憶を読む職人」向田邦子の一文があって、仰天した。何故仰天したかと言うなら、才あるモノ書きの直覚に震える様な思いを味わったからだ。この小文は「父の詫び状」の解説文として書かれたもので、谷沢永一や山本夏彦の向田邦子評価を職人のすぐれた芸を認める観点ではないかと、今では平凡極まる感想を述べているのだが、たまたま、この解説を書いている最中に向田邦子の死を知り、沢木の文章は急転する。彼は解説文に引用した向田の文章のいずれも暗いのに気がつく。「消しゴム」「ねずみ花火」「隣の神様」といったものの暗さである。そしてその解説文(八一年の十二月)をこうしめくくっている。
「だが、もしかしたら、向田邦子のエッセイには、そのユーモアの影にそれほど多くの死がちりばめられていた、ということなのかもしれないのだが・・・。」
 昨年の暮れだったか、向田邦子の妹さんの書いた本「姉の恋文」だったか忘れたが、それを原作にしたTVドラマを見た。それで向田邦子が恋人を自殺で失っていた事を初めて知った。二〇数年封印されていた秘密が上品にさらされていた。しかし、その事自体は、作家になる様な人物には良くあることであろう。
 私が驚いたのは、恐らく向田邦子の本質的な暗さの核であったかも知れぬ「多くの死」を沢木耕太郎が二〇年以上も昔にかぎ取っていたということなのだ。沢木は向田の本の解説文を書きながら、いきなり向田の死に遭遇する。そしてその衝撃を力にして、向田の秘密の中核に辿り着いていたのだ。ノンフィクション・ライターの直覚はときに、これも又現実を超えてゆくものだ。この、沢木の昔の小解説文は私には長編小説よりも面白く、しかも、少々恐ろしいものであった。こういうことの積み重ねが歴史になるのだ。私にはこんな直覚はないのが、最近ますます知れてきたのが、辛いね。
 今日は完全休養の日であったが、この小文に出会えた事が収穫であった。人間にも時間にも、場所にも時に魔物が棲んでいる。それが、砂をかむ日常に光をもたらすのだ。

 一月十七日
 今、九時四十五分。広島行きの飛行機の中。昨日のメモを記している。夕刻、十六時東大鈴木博之研究室。東大出版会の全十巻の建築史の件。私の役目は第十巻の「現代」のとりまとめなのだが、その役割はとうに鈴木博之におんぶしてしまったから、自分の「何をもって現代とするか」の原稿を書くだけの事なんだが、これが仲々難しい。古代、中世、近世、近代、現代と続いてくるわけだが、それぞれの時代区分、つまり近世と近代、古代、中世の区分と比較すれば誰の目にも近代と現代の区分が最もあいまいで、あいまいどころではなく、無いのであり、その無いモノを書くのだから難しい。人類にとって未来は決して希望に満ちたものではない。今に連なる近代は科学技術の進歩によって「不安」も又増大させた。その「不安」の先に、それでも何か希望があるのかを展する、その展望自体を「現代」とするしかないのではないか。昨日杏林病院のMRIの磁場カプセルの中に突込まれ、脳の輪切り映像をとっている時に聞いた音。ブーン、ブーン、トゥルルルル、キーン、キーンという奴。アレは実に妙な音であった。脳に障害があるや無しやを検索する音、現代の技術の音である。不安な音でもあるが妙に大宇宙に浮いているような、脳は小宇宙の意識、不意識をつかさどっている処だから、その脳の中に分け入ると、そこに大宇宙が拡がっているという様な感じ。ガストン・バシュラールの大と小、外と内の弁証法は詩的直観の中にあると言うよりも、MRIのテクノロジーそのものの中にあるという感じかな。自分でもよく解っていない事を書いているが、要するに、たとえば宮沢賢治が沢山の擬音で表現しようとした、彼の脳の内的風景は今や「不安」を模索する、人体内への探検テクノロジーが表現してしまっているようだ。想像力は現実に超えられ続けている。
 昨夜は又、難波和彦主催の技術と歴史研究会の第一回の集まりだった。東大の松村秀一先生の話を聞いた。ピエール・シャローのダルサス邸。アルバート・フレイのアルミ住宅。バッキー・フラーのウィチタ・ハウスとケース・スタディ・ハウス#22・ピエール・コーニグのSTAHL邸(一九五九年)の松村的解釈を聞かせてもらった。技術という現実を介して、近代の表現の意味を探る、といった趣があった。この考えは最良の歴史家の仕事に通じる。
 今、十時四〇分、飛行機は広島空港に降下を始めた。眼下は雲景色。一℃らしい。空港より一時間二〇分程車で移動。中国山脈の坦々たる山並みを抜けて岩国市へ。十二時過シンフォニア岩国着。デッカイ、コンサートホールが会場。十三時半石井俊一氏の「空港とまちづくり」に続いて講演。「市民運動とまちづくり」市役所総合政策部の重野課長がアレンジしたもの。岩国市長井原勝介氏にもお目にかかる。十六時頃修了。広島空港に走る。十八時十分の214便があって、今待合ロビーでメモを記している。全く広島で時間のアキがなく、上海スタジオの木本君には会う事が出来なかった。今度、福岡の用事の際には岩国に寄ってみるつもり。二十一時前新宿で連絡事項沖縄行のチケット受け取り只今京王線車中。長い一日であった。千歳烏山駅のプラットホームに降りたら小雪がちらついていた。小雪の中を世田谷村に戻る。東京では初雪だな。

 一月十六日
 六時前起床。四十五分原稿書き上げて室内にFAX送る。又、編集部長井に迷惑かけてしまったが、マアマアの出来だと思う。上海と五百万ハウスの事を書いた。九時過杏林病院。事故から一ヶ月経ったので放射線科で脳のMRI撮る。装置の中でウトウトする。色んな音が身体に入り込んでくる感じ。大宇宙っていうのもこんな感じなのかな。無意識と宇宙は連がっているのかね。今、会計受付で所在無い待ち時間の中に居るのだが、それにしても病院は大繁盛だ。十三時前、新大久保で立喰いソバ食べて研究室に戻る。貧しい人生だナァ。立喰いながら、そう思う。

 一月十五日
 七時半屋上に上り、台所の生ゴミを埋める。快晴である。屋上をこれからどうするか考える。八時半バスで成城学園へ。向ヶ丘遊園で待ち合わせ。野田氏と共に現場へ。修正箇所を打ち合わせ。十時四十分修了。新宿で昼飯を簡単にすませ十二時前新大久保。百人町の竹内ビルを見る。竹内さんの希望もうかがう。コンバージョン候補である。十二時半了。十三時教室会議。十四時三好シュタークさん相談。
 指扇の家の件でGAに電話する。二川幸夫が見て「わからない」と言っていると言うので、直接二川氏と話す。「わからない」と言うのは二川さんの場合「キライ」と言う事。何言ってやがると思ったが、この人の言う事には耳を傾けた方が得な事も知り抜いているので、とり敢えず引き下がった。千三百万円のローコスト住宅だからなんて理屈は二川幸夫には通じない。仕方ない、このタイプのモノを幾つか続けて見返してやるしかないだろう。思い付きで私が動くワケ、ネェーだろうと、マ、今日のところは独人つぶやいておこう。木造で「幻庵」やってみせたんだけれど、随所に素人っぽいところが露出してるのも、計算づくなんだが・・・・・マ、仕方ないだろう。こういうイヤな事言ってくれる人も数少なくなってしまった。
 十七時幸脇さん夫妻、講談社園部氏来室。軽井沢の家の相談。十八時四〇分了。いささかの雑用。二十一時世田谷村。室内原稿。書き切れず二十三時過、仮眠のつもりが眠ってしまう。

 一月十四日
 朝八時屋上菜園に上る。冷気厳しく壮快。家内としばらく遠くの富士山を眺めた。丹沢から奥多摩、秩父連山まで一望のもとでこれが世田谷村の自慢だ。都心方向を振り返ればマンションの狭間に東京タワーがしょんぼり視える。猪苗代湖から持ち帰った山の草が芽を出し花を咲かせている。水仙もいくつか咲いていて、凄い霜柱ではあるが屋上の植物達もそれなりに生きている。十時研究室、九大学生相談。十一時発、大野と上福岡の千代田さん宅へ。十二時過駅迄御主人が迎えに出て下さって、物件のコンビニエンスストアーへ。コンビニを一部住宅兼アトリエに再生しようと言う、変則コンバージョンである。コンビニ内で十五時半迄打ち合わせ。やってみましょうと言う事になる。コンビニが家になるのも面白いではないか。十六時半沢山おみやげを頂いて研究室に戻る。幾つか打ち合わせ。十七時過ぎ高松の西岡さん来室。三月より石山研究室メンバーとして加わってもらう事になった。三好シュターク綾さんと共に上海スタジオで見つけた人材である。十八時半三好さん来室。夫君オリバー・シュターク氏来室。研究室で歓談後高田馬場のビア・レストランで会食。今年新加入の人材はこれで出そろったか。今年から女性主体のメンバーになりそうだが中途半端な状態よりはましだろう。普通に考えれば異常な事態ではあるが、仕方ないなコレワ。二人共に三〇才位の女性だが、社会的な問題意識もはっきりしていて、競走馬に例えれば、ゲートに入って、チョット入れ込んでいる風が仲々心強い。二十三時世田谷村に戻る。自然なような、しかし不可解な時代になったな。今日は早稲田の文学部長から連絡をいただき、文学部の共同研究に加えていただく事になった。光栄である。

 一月十三日
 今日から早朝の散歩を日課にしようと決めていたが生憎の雨。こういうものだ。九時世田谷村を発つ。十時半蔵門ダイヤモンドホテル。原口氏と待ち合わせの時間に大分ゆとりがあるので、ぼんやりプロダクトの件等考える。十一時前内閣府打ち合せ。十二時過研究室。厚生館、他打ち合わせ。十五時二年製図講評会。十八時途中で抜ける。二年生の講評は難しい。馬場さん夫妻来室。打ち合わせ。今年は急にと言って良い程沢山な人が訪ねて下さるな。単にTVの影響ではなく、もう少し計り大きなうねりだと良いのだけれど。

 一月十二日
 九時新井薬師駅森川と待ち合わせ。九時半迄駅前コーヒーショップで打合せ。四十五分野田さん宅。野田邸のすすめ方その他で相談。当り前の事ではあるが依頼主とは私が直接会って決めなければならぬ事が多い事、忘れてはならない。野田さんには御心配おかけした。最初にお目にかかった時の、チャールズ・レニー・マッキントッシュへの依頼主の想い、今日は今日でウィリアム・モリスへの想いの共有等、依頼主の想いの強さに改めて触れる。私に仕事を任せて下さる様な依頼主は皆それぞれ、何か強い想いを持っている事を忘れてはならない。ケガをしたり、休んでいたりする時間は実に勿体ない無駄なのだ。十一時過研究室。小ミーティング。森の学校デービッド打合わせ。コンビニ・コンバージョンの件大野打合わせ。小樽の平埜さんと連絡二四日午後に上京して下さる事になった。楽しみだ。十三時過三ノ輪の藤井さん親子来室。打合わせ。あの場所で住宅と駐車場だけでいいのかなーという話しをする。容積率をフルに使った案を作る必要があるな。十五時過アベル、デービッドに愛児園の増築のサイト伝達。十五時半ホセと二人の中国人留学生と打合わせ。十六時半高山さん来室打合わせ。十九時半修了。高山さんの京都の実家の話しが興味深くて遂々長話しになった。この仕事は流通・職人共に私流を貫いた方が良いかも知れない。依頼主に逆に肩をたたかれた感じ。今日は朝から晩まで打合わせに明け暮れた。余計な事考えるヒマも無かった。東大出版会の仕事今週中にまとめないと。少々あせり始めている。二十三時室内原稿書くも終わらず。

 一月十一日
 栃木の御法寺行が中止となったので、朝から「五百万円ハウス」書き続ける。昼前修了。小川さん自宅にFAXで送る。小論だが良いモノが書けた。要約すれば、最近の小住宅ブームの主役の建築家達は居なくなってしまった伝統的な大工、職人の代行者達ではないかと言う事。藤井誠二・鈴木隆之の五百万ハウスは藤井の反体制的生活者の市井の隠の囲いであり、都市に生まれ始めている新しい空隙をデフォルメしたものだ。夕方、室内連載書くもこれは書き切れず。上海ワークショップの件から書き始めたが、どうなるか、解らない。

 一月十日
 開放系技術という考え方を体系的に展開したいと考えてしばらく実践を続けた。#16の九州浄水の忍田邸までナンバリングしてみたが、これ以上の番号付けは意味が無いのに気が付いたので、記録の方法を少し複雑に展開する。そのきっかけは指扇の家#5の完成である。
 開放系技術の考え自体が#1の世田谷村の実践に触発されているのは間違いない。その意味で5番目の試みで、私の方法化への考え方自体が変化を余儀なくさせられたと言うべきだろう。世田谷村は当然私の初期の仕事、幻庵、開拓者の家、中期の仕事、建部町国際交流館、リアスアーク美術館の系統を集合、再組織したものだ。一言で言えば工業化の再組織(アナザーウェイ)である。それに比較するに指扇の家は、工業化の再組織とは言えぬ要素を余りにも含んでいる。しかも、間違いではない。その矛盾の素は何だろうと考えるに、指扇は自然の再組織というニュアンスが強い。その事はおいおい考えてゆく事にするが、今ここでは開放系技術そのものが「再組織」という時間的概念を含んでいた事に留意したい。
 ナンバリングを続ける意味自体を変える為にも「指扇の家」の系列を、自然の再組織としてくくりたいと考える。つまり、開放系技術の体系化の過程に異物が入り込んだのである。この異物も同時に右余曲折させながら育成してゆこうと思う。
 丹羽君にはホームページのオープンテック・ハウスの編集方法を、この考え方の発生によって、再編集して貰いたい。先ず、「指扇の家」の系列のゲートを配する必要がある。
 指扇の家の源は伊豆の長八美術館である。現代っ子ミュージアムひろしまハウス・プノンペン等の仕事を経て今、再組織され始めたのだ。「指扇の家」は森の学校へと展開してゆく計画である。
 七時前起床。温泉につかり、ヒゲを当る。露天風呂の庭の枯木が美しい。身支度をして七時半食堂で朝食。 八時森さんが迎えに来てくれて、蓮台寺迄送って下さる。道脇の畑の霜柱が印象的だった。九時過ぎ踊り子一〇二号で東京へ。十二時二〇分新宿西口GA杉田、安藤待ち合わせ。指扇の家へ。十六時新宿に戻る。十六時半京王稲田堤星の子愛児園。近藤理事長と増築その他打ち合わせ。十八時厚生会新年会。厚生会の三保育園の合同新年会。保母さん百人位の圧倒的な女性ばかりの会。女性のエネルギーにたじたじとなる。二十一時過修了。二十二時半世田谷村に戻る。ワールド・フォト・プレスの連載の原稿書く。藤井誠二・鈴木隆之の「五百万円ハウス」について。

 第II期 世田谷村日記
 初期の目的は果たしたと考えられるので日記のスタイルを変える事にする。日記形式のメモをつけるという私にとっては面倒臭い作業が、お陰様で習慣となり、身体にすり込まれた。頼まれて、お金になる原稿は書かなくても日記だけはつけるというのが当たり前になった。しかしながら、当たり前になる、日常的習慣になってしまったら、それを多くの人に垂れ流し続けるのは余りにも恥が多い。恥をかいても良い年令ではない。止めろと言われて、止めるような、私ではないが、記録を取り続けられる確信を得たので、一度これ迄の日記スタイルを停止して、そしてすぐ続行する事にした。読者諸賢は、何が変わったのか、いぶかしく思われるかも知れぬが、要は、私がホンのチョッと変化したいと思ったに過ぎぬ。そのきっかけを得ただけの話である。

 一月九日
 何故か眠れず、三時半に起きてしまう。眼の前に一枚ペーパーがあって一月八日付で進行中のプロジェクト・リストである。全てこなせたら、一つ上の水準に到達できるのかも知れぬが、我ながら困難だと思うね全く。どうなる事やら。でも、マアやるしかないだろう。
 九時過研究室。向井相談。森川図面チェック。十一時前研究室発。十二時五反田TRC・トモ・コーポレーション。社長、専務、物流コンサルタント、打ち合わせ。昼食を喰べながら。十四時途中で抜けて、品川駅迄タクシー。十四時半こだまで伊豆蓮台寺へ。私のスタッフは皆イイ奴なんだが、皆一様に人間関係に弱い。竹の如く、しなって平気で復元する様な資質を育てて欲しい。竹林の竹が皆ポキポキ折れてしまっては、それを一つ一つ立て直してゆく私の労力は異常なものになってしまう。今、伊豆急下田、伊東を過ぎたところ。今朝の不眠がたたって、猛烈に眠い。十七時蓮台寺、わざわざハンマが迎えに出てくれてイヤーイヤーと言う事になった。お互いにケガをしてから初めての再会である。ハンマのケガは私の軟弱なモノと違って、大変ハードなモノだったが、一見手は元に戻り、小さなホウタイだけが残るだけでホッとした。伊豆の古い友人達は皆、顔を見るだけでホッとするのが救いだ。松崎町まで四十五分程の道中、積る話を色々と。十八時四〇分頃サンセットヒル松崎にとり敢えずチェックイン。いつもの下宿部屋で落ち着く。十九時過森秀己町長公室長迎えに来てくれて共に賀茂村へ。賀茂村鈴木敏文宅へ。敏文の父親鈴木文治郎(九十一才)の葬儀の会へ。魚港安良里の小さな路地をくぐり、小さな燈りに導かれて敏文の家へ。私は実ワ、一度も敏文の亡くなった父親、文治郎さんにはお目にかかった事がない。祭壇の壇上に置かれていた写真で初めてお目にかかった。それでも、ここまで来て良かったと思う。次々と顔見知りの顔が現われる。同様に東京から駆けつけた渡辺さん、昔馴染みのシゲル、法一、その他役場の面々皆、二十年来の知己である。オッ、ワザワザ来たか東京から、と言う様な顔をするだけの触れ合いだったが、満足であった。敏文とは二言三言何か言い交わしただけであった。松崎町に戻り森さんと久し振りにうなぎの三好へ。お酒二本とうなぎ、その他食し、心地好し。サンセットヒル松崎帰着二〇時半頃。二十一時十五分温泉にたっぷりつかって休む。

 一時目が覚めてしまい、温泉へ。やりたい事、やらねばならぬ事は沢山あるのに、できている事は余りに少ない。憮然とする。二〇年前の伊豆の友人達と昨夜会い、月並みだが皆ぞれぞれに年を取って、小じんまりしていたり、かしこそうになっていたり、それでも若い頃の面影だけは皆残していたりで、敏文の父親の通夜を介して、二〇年の才月を実感した。生老病死は避けられぬ宿命だが、その余りの酷薄さを知るばかりだ。友人達の眼にも私がそのようにして、姿を焼き付けられたのだろうことも実感した。他人の眼の中に居るそういう姿のもう一人の自分とも道連れにやっていかねばならないのだろう。世田谷村の屋上菜園を再び手を入れ始めよう。しかし、偶然な事ではあったが、建築の仕事を選んでいて本当に良かった。作っているモノも、作り終えたモノも全て古い友人の様なモノなんだ。建築だって永遠からは程遠い。多分人間の一生と、それ程ちがいがない寿命なのだろう。日々刻々とその相貌を変化させている。建築を成立させている場所も刻々と変化している。その変化の速力の落差を調整するのが設計という事なのだろう。時間は空間を包み込んでいる。宇宙の実体は時間そのもの、変化、動き、無限の多様さに一瞬垣間見る系統の如きもの、それを観相し得たという実感の如きものの連続にあるのではなかろうか。今という時間も又、歴史という一見固形の如くに見える計測器に測られている現実なんだな。墓地は実は、実ににぎやかな祭場なのか。今、生きて、動いている現実は、アンリアルな、自分で見ているだけの時間の断片に過ぎないのかも知れない。我々の妙に変なのは、葬儀という儀式を必ず行う事。そして死者を荘厳し、そこに束の間の死者の華やいだ空間を演出しようと、し続けている事。生まれる時は病院で、実にドキュメンタルに生まれ、死ぬ時は妙な空間に彩られて死ぬって事だ。寺院や聖堂の根拠はそこに在る。建築の母体は墓なのか、墓が聖堂になる形式の変化を我々は様式と呼んできたのか。要するに死という人間の生の変化の一常体の事実を。今は直視せざるを得ない。そういう時代であろうか。二時半、妄想は膨らむばかりになった。断って休もう。

 一月八日
 十時製図ミーティング。十一時研究室全体ミーティング。これから三年程の指針と今年の予定を述べる。新しい担当を決める。デービット、アベル、蔡とサイレンス・パビリオン打合せ。森川TOMO倉庫打合せ。昼飯は弁当。伊豆の鈴木敏之の父君が亡くなったの報ハンマより入る。午後、外国人学生相談。柴原相談。高松の西岡さんから手紙いただく。上海スタジオの学生で二九才の人だった。会ってみよう。広島の平岡敬氏より心強いお知らせいただく。ひろしまハウス、キルティプール計画何とかやり続けられるか。二十二時前迄打合せ続ける。二十二時半世田谷村戻る。小樽の平埜さんより手紙が届いていた。北海道は遠いけれど、この仕事は断れないな。#5指扇の家が出来たので、何かの形でお披露目しなくてはならない。

 一月七日
 昨日は午後三ノ輪の藤井さんの土地検分。都市のド真中の土地で研究室で今抱えている仕事の中では一番都市性の濃いサイトだった。幸脇さんから住宅の相談のお手紙いただく。

 一月五日
 五時二〇分起床。五〇分車で発。六時十五分NHK着。まだ約束の時間まで間がある。七時リハーサルの後八時三五分放送開始。九時五五分迄おしゃべりした。TVもまた楽しからずや。十時半研究室。何人か学生が出ていた。十一時M1修士設計エスキス見る。十二時千代田さん夫妻来室。コンビニを閉じたので、その転用の相談。千代田さんは埼玉の地主さんで一度六軒の建売住宅の計画をした事がある。十三時過研究室を発ち取材へ。千歳船橋にて中里和人と待ち合わせ。藤井誠二宅。鈴木隆之設計の激安五百万円ハウス訪問。十六時過迄。十七時半世田谷村に戻る。藤井さんの家は土地を除けば年収よりも安価な家であるところが良い。アウトノミア運動的なインパクトを持ち得る素材になっているのだが、その社会性を鈴木隆之君はまだ直接に充分表現していないと感じた。もっと建築に集中しないと。マアこれは他人には言えて、自分も言われそうだな。鈴木君はこの五百万円ハウスを持って、日本近代の謂わゆる最小限住宅の様々な試みを総批判したら良い。それが、如何に余りにも建築的な試行であって、現実の社会の住宅問題と遊離したものであったかを、彼は今なら書けるのに。惜しい。難波和彦の箱の家のルーツは池辺陽ではなくて、増沢旬の最小限住宅ではないかと私はにらんでいる。それでなくては箱を主題として掲げる意味がない。池辺陽のNOシリーズの住宅には謂わゆる建築的な空間の質は無い。厳密に言えば視覚的な表れをする建築的価値は乏しい。難波和彦の住宅には池辺には無かった空間が、拡がりとして表われる事がある。箱を主題にしたセキスイ・ハイム・オリジナルの企画者であった大野勝彦には空間というニュアンスは皆無であった。難波和彦は、その空間らしき拡がりを残滓の如く引きずっている。増沢旬に生田勉を混ぜたような感じだ。その点、鈴木隆之の五百万円ハウスには何処にも空間らしきはない。空間なんて言ってられぬ位にその内部の拡がりは要するに狭い。逼迫している。その内部の拡がりは、言ってしまえば隙間だ。その隙間に人間が棲もうとしているところが面白い。都市にキレツが生じて、そのキレツが隙間にまで押し拡げられる。鈴木はキレツを見つけ出した藤井を助けて、要するにそのキレツを隙間にまで押し拡げたのだ。このキレツみたいな現代に特有の場所の認識は難波には少ないように思う。それ故、難波は生産的概念のシステムを言い続けるのだろう。

 一月四日
 久し振りに地下室に降りた。何処か展覧会に出展して戻った世田谷村の模型が壁に吊してあったのを降ろし、積もったホコリをふき取る。夕方、NHKに持ち込む。十七時車で渋谷NHKへ。十七時半着。十九時半まで打ち合わせ。二〇時世田谷に戻る。

 一月三日
 「老子」読み始める。正月世田谷村で過ごしていた八十四才になる母親が緑町に戻るというので、送りがてら、父親の書斎から数冊本を持ち帰った。亡くなったオヤジの書斎は中国文献が多いから、その本を少しづつ読み進めてみる。だんだん父親に似て来る部分があるようだ。昨日は調布の保安神社に初詣し、その足で栄寿司で新年会、だいぶ飲んでしまった。今日は母親から大分説教されてしまう。今年は私は厄年であるらしい。酒が鬼門だな。母親を本格的に世田谷に迎える為に、書庫等の工事を早急に進めなくてはならぬ。夜たわむれに金子光晴の「ほりだしもの」読む。この人のアナーキスト振りは本格的だな。辻潤、宇野浩二も登場する、色話し集である。山本夏彦の匂いに近いものがある。フランス新著聞集が凄味があって面白かった。パリの娼婦の話で、「じゃあ、私、邪魔なものは、みんなとっちゃうからね」と、義足、義手、義眼を取り外してゆく、髪の毛もひっぱると、すぽんと抜けて、かつらであった。白髪の片輪の老女が現れるという話。金子光晴の話しは日本での話しは全て彼程に乾いてハードな感性をもってしても湿気を帯びているのだが、パリの話しは面白い。何がそうさせているのかな。金子は確か上海にもしばらく遊んだ筈だが、その阿片体験記のようなものがあれば読んでみたい。「魔都上海」読了。後半の明治以降の日本文学者達の上海が少し喰い足りぬ感あり。金子光晴の上海体験は彼のパリ体験と共通するデカダンスに根を持つものであった事が解る。彼の「どくろ杯」は読みたい。今の上海に金子光晴のかぎとった匂いがあるかどうか、芥川龍之介が反撥した近代化上海以上のものが、あるのかどうか、まだ解らない。上海に無ければ何処にも無いのかもしれぬし・・・。

二〇〇四年
 一月一日
 一時磯崎宅を辞し、二時世田谷村に戻る。
 十八時迄うたた寝。正月のTV番組は流石に馬鹿馬鹿しくて見ていられない。三月の沖縄ワークショップの前後に上海での展覧会の準備を進めたい。上海スタジオGの常設と、展覧会及びパブリシティのプログラムを工夫してみる。李祖原、登昆艶とのコラボレイションは欠かせない。一月の沖縄行は同時に上海行をセットしてしまおう。上海に居る外国人による「上海スピリッツ」が中心的起点になるだろう。先ず上海在住、あるいは上海長期滞在中の外国人の知り合いを何かの手段で作らなくてはならぬかな。そんな事簡単に出来るわけもないが。

2003 年12月の世田谷村日記

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