石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2002年6月の世田谷村日記 |
五月三十一日 |
まだまだ地下の連中は力にならぬ。力にならぬ事を前提に色んな事を進める必要がある。スタッフを育てようなんて事は甘い夢であろうが。設計は楽しいが教育は実りが少ない。グチじゃないんだ、もう絶叫状態なんだ。
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五月三〇日 |
朝食後リムジンハイヤーで空港へ。三〇分弱千五〇〇バーツ。バンコク−アユタヤの汽車が一時間四五分で十五バーツ。金さえ払えば安全で速く清潔に動けるシステムになっている。九時四〇分ラウンジで休む。昼前の飛行機で東京へ。機内でトモコーポレーションの友岡さんにバッタリ会う。しかも隣の席でお互い仰天した。タイのパートナーのチェンマイの工場で製品チェックとの事。チベットのマンダラを拝見しに来週お会いしましょうという事になった。十九時成田着。家に電話。地下へ電話するも留守電になっている。とんでもない事だ。この時間でノーノーと留守電にするのか、大体私の事ム所が留守電対応なのかとあきれ返る。こんな事教えてないぞ、何回言ってもわからないんだな。プロとガキの、サークルのちがいが。私の地下も今やただの設計サークルなのだ。人材不足人材不足。こんなことは私のキャリアで初めてのことだ。
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五月二九日 |
ゲーテはリドに渡り、海を見た。この巨人はリドに於いて初めて海というモノを見たらしい。北方からの亡命者と己を呼ぶゲーテが海というモノを驚きをもって接し、子供のように波とたわむれ、小蟹と陣笠貝の動きに見とれ、その様子を二時間程も見続けていたのは、それにしても驚きである。全ての創造の素は好奇心なのだという事を改めて思い知る。ゲーテのイタリア紀行を読まねばと考えたのはシシリアへの旅であった。フィンランドからシシリアへ北から南へ動いた経験がゲーテのワイマールからシシリアへの旅を思い起こさせてくれた。バウハウス大学とのワークショップ体験もありワイマールの沈痛で憂鬱な感じも体験していたから、そしてワイマールでゲーテハウスを見た事もあったろう。実に暗く冷い石造の小屋であった。さぞかしゲーテは寒かったろう位にしか当時は思わなかった。あのワイマールの暗い小屋で一人モンモンとして暮らしていたゲーテが、何故光溢れるシシリアくんだりまで足をのばしたのか、突然パレルモで知りたくなったのである。それで旅の中でイタリア紀行を読んでみようと思い立った。東京の暮らしの中でゲーテでもあるまいと思ったのであるが、仲々これは大部な本だ。旅の中の休日にしか読めない。あるいは飛行機の時間を利用するしかないのである。そんなわけで私は今、ゲーテと共に旅をしているのである。こんな巨人に接するにはそれしか方法が無い。しかも年を経て、私の方のイタリア体験も増えている。今が潮時なのである。窓の外はすぐバンコクの大河チャオプラヤでそこを動めく船小船を眺めるのは楽しい筈なのだが、それよりもイタリア紀行なのである。ゲーテは今、リドでカニとたわむれている。おかしい。しかし当然の事ながら啄木みたいなカニとたわむれて泣くというセンチメンタリズムは一切ない。あるのは巨大な好奇心だけ。博物学的な好奇心とそれにある程度見合う知識がある。私にはそれが無いが、今更だめだ。若い時にもう少し読書しておけば良かったと今になって思い知るのみである。少年老いやすく学なりがたし、をバンコクでヴェネチアの旅をゲーテと共にしながら痛感するのである。 ようやくにしてゲーテは二週間チョッとのヴェネチア滞在を切り上げた。夜中の二時の船でヴェネチアを去った。北緯八十一度から北緯四十五度へと南下を始めた。まだイタリア紀行は岩波文庫の上中下三巻の一冊目の半分程である。ゲーテのイタリアはまさに大旅行だ。テラスに出てバンコクの空気に触れてみよう。 チャオプラヤ河の活気はいつ眺めてみても独特なものがある。空気匂い温度騒音あらゆる要素が入混じって都市バンコクの中枢母体をつくり上げている。東京の隅田川に欠けているものが全てここには在る。 昼過ぎ汽車でアユタヤへスケッチの旅。鈍行列車で内装が木の汽車だ。 空が美しい。雲は積乱雲、筋雲様々な種類が入り交じっていて複雑である。気流の変化が激しいのであろう。アジアモンスーン地帯独特の空だ。この空の様相がこの地域の人々が実に多彩極まる祭事を作り上げたもとであろう。と、この辺りはゲーテ風に書いてみました。しかしゲーテがイタリア紀行を書いたのが三十七才の時だと言うのだから恐れいってしまう。賢者は若い時から賢者の顔をしているものらしい。 イタリア紀行を読んでいてただただ恐れ入るのはその筆力、エネルギーなのだ。私だってこのメモをつけているから、質量共にそれがどれ程のものかが良く解る。一日に書いている量が凄まじい。書いている事の裏側には数層倍の書けない事があるのだろうから、ゲーテさんの思考量、諸々の感受の実体の総量は実に驚くべきものである。あらゆる分野への好奇心が巨大だ。建築に対してもパラディオの古代回帰性の正統性を見抜いている当りはゾッとする位だ。歴史絵画、音楽、彫刻、演劇への知識関心共に巨大である。司馬遼太郎の晩年の紀行がこれに近いエネルギーを持つと思われるが、年令がちがう。ゲーテは三十七才でこれを書いた。しかも、その人生の必然としてイタリア行を決行したというみずみずしさがある。しかし、である。五十八才の私だって、みすみす負けていられないんである。ゲーテは馬車、船、徒歩で旅をした。私には飛行機という成層圏を飛ぶ乗物が在る。それにゲーテのスケッチはワイマール近郊で見た事があるんだが、マア下手であった。固苦しいものであった。私のも下手であるが、これは何とかトレーニングすれば追い越せるかも知れない。世田谷村日記をメモし続けているお陰で三十七才のゲーテと張り合うつもりになれるなんて幸せこの上ない。しかしイタリア紀行は長大である。お目当てのシシリー、パレルモに私が辿り着けるのはいつになる事やら。トボトボ追いかけるしかない。 窓の外はチャオプラヤ河のさんざめき。とブーゲンビリアの花そして花。私の心はゲーテと共にイタリアに在る。マ、しかし、ここまで言う必要もないか。
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五月二八日 |
大使館が車を廻してくれて、ナリさんと空港へ。プノンペンを去る。ナリさんは七月には一時帰国するらしいので再会を約す。ネパールのジョニーやらとも会う事になるだろう。プノンペンバンコクのフライトで日経新聞連載コラム書く。人力建築と題してひろしまハウス上棟式のことを書いた。昼過、バンコク、シャングリラホテル着。一日ゆっくり休むつもり。FAXを日経に送り眠る。やっぱりね、疲れているんですよ人並みに。ゲーテはまだヴェネチアに滞在中である。この巨人の好奇心とエネルギーの大きさにはあきれ返ってしまう。一緒に旅なんかしたら殺されちまうだろう。しかしゲーテは孤独になる為に旅をしたのだと言うが、それは本当かね。書かねばならぬ事を伏せている部分が大きいのじゃないか。人間はこんなに、ある意味では大きな文化的感心だけで日常を送ることができる筈がない。それに喰べ物、食事に関する記述が少な過ぎる。文章を読んでいる限り、果物だけ喰べて生きているようだ。酒の話もまだ出てこない。ヴェネチアで酒も料理も出てこないのはおかしい。奇妙である。
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五月二七日 |
朝六時前起床。一人熱を出した女性が出た。予想をはるかに下廻る発病率である。今日が実質的には今回の仕事の終りの日。次回からは休みをはさんで丸々十日間仕事に欲しいが、体が続かないだろうな。結局数名体調を崩した。内二名が石山研。弱い。まことに弱い。 ひろしまハウスはようやくにして全体をどのようにしてゆるやかに秩序立ててゆくか、その方法が視えてきた。次回は七〇名程に人数を増やしてやってみたい。三五人と五〇人がこれ程歴然とちがうのかを実感できたのは大きい成果だ。七〇人までは指導できるような気がする。 十六時より日本大使館のホールで平岡敬石山のレクチャー。やはり平岡さんは気骨のある人物だ。この人物がいる限り広島市民の小市民振りはガマンしようと考えた。まあしかし市民グループの正体はかくの如きであるのを知ったのは俺には良かった。夜食はプノンペンホテルで小川郷太郎大使、平岡さん等と。ナリさん(小笠原氏のニックネーム)がきゅうくつそうに、しかし大胆に北京ダックを一人でむしゃむしゃ喰べていたのがおかしかった。可愛らしい人だよ全く。プノンペン−コンポントム−アンコールワットをメコン河、トンレサップ河で結ぶ観光ルート開発を本格的にやってみよう。先ず何から取組めば良いか。秋のツアーで実際にこのルートを巡ってみるのが一番だな。
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五月二六日 |
五時起床。良く眠った。水浴び。ここでの生活に水浴は必須だ。五、六人で水浴していると、これは浮世風呂ではないかと思うくらいに。 六時集合。今日の日程を伝える。自炊をすすめてみよう。皆外で食べているみたいだから。そろそろ気心も知れてきているようだから自己紹介もさせてみよう。皆良くやっているよ。れんが積みツアーの連中にはいつもそれ程の馬鹿はいない。小笠原野崎両氏にも少し長めの自己紹介をしてもらう。何らかの形で全員の名をこの建築に記してもらう。レンガに名前を書くとか。結局これはしなかった。八時過朝食はいつものヌードル屋。中国人経営の店で小笠原さんなじみの店。現地の事は現地の人が一番知っている。毎朝おいしくいただいている。汗まみれで眠って、汗まみれで飯食って、食後今日二度目の水浴。これだけ汗をかけば体に良いのか悪いのかわからない。三六°Cくらいだとナリさん(小笠原)は言うが陽光の中はもう少しあるな。 女性達が三階でおしゃべりをしている。女達の会話は恐ろしく日常的かつ具体的現実的で、これは生物としたら強いと思うよ全く。女性の哲学者がいない事がよくわかる。勿論日本人のことで、レンガ積みツアー参加者のオバさんたちの生態学的観察の結論である。女学生もいつかはこういうオバさんになるから安心なのだ。男はどうなるんだろう。レンガ積みをやってもらいながら観察するに特に私の学生は弱いな。あのひ弱さの正体は何なのか、あそこまで弱いと矢張り気になる。もう直そうにも直らないしね。イタリア紀行読む。プノンペンで読むゲーテのイタリアは面白く、理解がしやすい。旅の中で旅を読む悦楽の故であろう。九時レンガ積み開始。 終日レンガ積み。海外青年協力隊の若者数名も加わり総勢五〇名程。壮観である。文字通り人間の手でレンガを積み上げている光景は日本ではもう見る事ができない。部分部分は自由に遊ばせて、つまりデザインされて、ゆるく全体を統括する。吉阪隆正の不連続の連続。私の言う開放系の実践である。 五時終了。皆はJETROで夕食をご馳走になりに出掛ける。私は小笠原、野崎とおかゆ。
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五月二五日 |
朝四時起きてしまう。四三名とりあえず寝床をそれぞれ確保して眠っている。何とかなるモノだなあ。五時半そうじ。六時にチョッとした注意をして各自食事へ。七時半現場集合。八時半までレンガ積みに汗を流す。一仕事して水浴小休の後十時ひろしまハウス上棟式。テップヴォン、ウナロム寺院大僧正、プノンペン市長、カンボジアオリンピック委員長、日本大使列席。国近、平岡、石山あいさつ。チアソパラ市長、小川大使、ミイー・サムディーNOC会長の祝辞をいただく。大僧正からは頭から花をふりかけてもらった。 私は四三名のボランティアにお礼を述べると共に、この建築のデザインについて述べた。仏陀の足の下に我々は今いること、それは平穏平和を意味する事、そしてプノンペンの平和を祈っている事を述べた。プノンペンが平和でなくなったらこの仏陀の足は西へ去るだろうと見栄を切ったら、大僧正が嬉しそうに笑ったのが印象的だった。プノンペン市長も気に入ってくれたようで、握手を求めてきた。ナイスデザインと市長から言われるとは思ってもみなかったので意外であった。 今、十三時前、メモをつけてこれから昼寝とする。午後三時から五時まで四十三名全員レンガ積み。広島グループも途中から参加した。四名程の青年海外協力隊のメンバーも飛び入りで参加。又、支援金をいただいた。ありがたい事だ。 水浴びをして休息。女性を中心にフンセン公園での盆踊りに参加した模様。と思っていたら、ウナロム寺院に残っていたのは俺一人だった。もう一人ウナロムに残った野崎善隆さんとふたりでNHKTV船村徹演歌巡礼視ている。美空ひばり北島三郎はやはりカンボジアで聴いてもイイゼこれは。演歌のイイものの中枢は個人の心情の中に在るあきらめなんだろうな。合唱出来ぬ良さと悪さが同居しているのだ。ビートルズの名曲とひばりの名曲の違いは明らかにあって、歌唱力ではなく、詞曲の質の違いじゃないのかな。十九時頃眠くなってきた。
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五月二四日 |
六時起床。当然充分な眠りではなかったが、昨日よりは体に力がみなぎってくるような気がする。プノンペンに着いたら気を引締めないと、四十四名の人数を無事に生活させねばならないのだから。七時三〇分過空港33ゲートで小休している。空港税が五〇〇バーツに値上がりしていた。タイ航空696便八時三五分発でプノンペンへ飛ぶ。考えてみれば今年になって、一月二月三月四月五月と海外に出ている。三月は九州のワークショップだったから、少し動き過ぎかも知れない。しかし、日本に居たって、立ちぐされしてゆくばかりの感もあるし。日本という国、場所自体が立ちぐされし始めているのだ。 メコンデルタの上空を飛ぶ。一ヶ月チョッと前に中国山西省の空を飛んだのを思い出す。佐藤健は今日も闘っているにちがいない。 ゲーテはヴェネチアに到着した。しかし巨人ゲーテもこの高度からイタリアを見る事は無かった。十時前プノンペン空港着。空港内に日本大使館職員が迎えに来てくれて、車でウナロム寺院に。四ヶ月振りのひろしまハウス現場である。小笠原さんと再会。今、十三時、いつものテラスで休み。ひろしま市の十数名も何やら二階で打ち合わせ。上棟式の事らしい。十八時日本大使館レセプション。大使公邸へ。夜食はウナロム寺院に戻り、おかゆを食べに行く。疲れてグッスリ眠った。汗びっしょりで眠った。
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五月二三日 |
今、成田空港ラウンジ。十八時過である。七時過のタイ航空でバンコクへ。明日朝カンボジアへ入る。今朝は朝六時に起きて屋上菜園の手入れをして、荷造り、朝食をとって八時四五分に地下へ。スタッフ松本に一ヶ月休みをとらせてヨーロッパへ行かせることにしたのでチョッと彼と話しをした。午前中大学院面接。眼に余る程の人材不足である。俺のところから本当に建築家らしい建築家が出るのだろうかと、お先は真暗だ。建築家は教育によって生み出せるのかな。もう十年以上教師をやっているが、こいつは恐いな、全く新しい質の才能を持っているなと直観する奴に会った事がない。まあそんなに簡単に現れる筈もないのだが。もうそろそろ大学はやめたいと考え始めているが、やり残してることもあるからそうそう勝手はできない。 筑摩書房から手紙が転送されてきた。笑う住宅を読んださいたま市の女性からで、娘さんと二人暮しで頑張ってきた。五四才になって家を建てたいと考え始めた。土地はあるので相談に乗れというモノである。北海道の女性に引続いて、女性だけの家族からの相談である。この人達は私のマイノリティへの考えを知らない。一組はTVで私を知り、一人は本で知ってくれた。彼女たちは私の正体らしきのうちに何を嗅ぎとってくれているのだろうか。私の正体本質はかくの如き他者の中にある。 日本時間二四日一時過、タイ時間二三日二三時過飛行機は高度を下げ始めた。あと一〇〇KM程でバンコクだ。良く眠ったような、眠らなかったような六時間のフライトだった。バンコクは三〇°Cらしい。十二時三〇分バンコク、アマリ・エアポートホテル、チェックイン。暑い。若いころ南廻りの飛行機でユーラシア大陸の様々な場所を訪ねた。台北、香港マニラ、バンコク、カルカッタカラチ、テヘランイスタンブールアテネなんていう飛び方だってした。貧乏であったが時間は無限にあると思っていた時代だ。どこの空港に降りても面白かった。驚きがあった。今は時間は有限なのを知っていて、無駄を省き、エアポートホテルに憮然としている。若い頃だったら朝まで空港内をブラついていて飽きなかっただろう。しかし、何があんなに面白かったのだろうかといぶかしむ。ゲーテのイタリア紀行上中下三冊持ってきたが多分読まないだろう。とメモしたら読む気になって朝の一時に読んでいる。このメモを書き始めた功徳だ。日本時間朝の三時だぜ。読書も日記もノルマになってきたな。ヴィツェンツァまでゲーテは辿り着いた。ヴェローナは過ぎた。パラディオのテアトロオリンピコをゲーテの眼で眺めることができた。しかし、ここはバンコクである。ゲーテにアジアを旅行させたかった。チャオプラヤの船旅をさせて暁の寺、エメラルド寺院など訪ねさせたかった。何を書いたかな。
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五月二二日 |
演習G、送ったFAXに返事が来た。サンパウロ大学オレゴン大学バウハウス大学との共同スタジオを試みる事にする。インターネットでのクリティックもやってみる。グライターにも参加してくれるよう依頼する。 十三時名古屋大学有賀助教授レクチャー。 アイデアが生まれて、プノンペン、ウナロム寺院、コンポン、ソム、アンコールワット、トンレサップ河の観光ルートを作るプロジェクトを行うというもの。二七日のプノンペン日本大使館でのレクチャーでプレゼンテーションしてみる。中川武教授に話してみたら、同じ様な事を考えていて、カンボジアのフンセン首相にも話した事があると言う。二七日のひろしまハウス上棟式記念レクチャーにはプノンペン市長も来るらしいから、よい機会だ。当然カンボジアの日本大使にも協力を依頼したい。 明日の午後からカンボジア行だ。ウナロム寺院でゆっくりジタバタしてこよう。
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五月二一日 |
世間が凍結したような感じになっている。衰退期に特有なものだろうか。と言ってもかかってくる電話の数が減ったくらいの事なんだが。大ゲサだなあ我ながら。午後ワークショップ卒業生高橋香里さん来室。近況報告。陸海、石井相談。その後二件面談し学校を去る。中国のコンペの話が持ち込まれた。スタッフ土谷の次のステップを考えなくてはならない時期になった。頼りになるのは志だけなんだ最後は。志なんて古い言葉のようだけれど、今風に訳せば日々の目標をを持つ生気の持続って事。言うは易し、行うのは困難極るけれど、そうして欲しい。
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五月二〇日 |
ゲーテのイタリヤ紀行読み進めているが、この巨人は意外に直観的な自然科学者の風がある。天候に関する記述などは今にも通用する。地球環境的概念はゲーテの天候に関する感覚によってとうに先取りされていた。宮沢賢治の鉱物学好みも、ゲーテと比較すると・・・・いかにも無念なものだなあ。 夜河口湖聖徳寺打合わせ。帰りにBar TOTAN再訪。夜中の一時半頃帰宅。
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五月十九日 日曜日 |
いつも何をやろうかと計画ばかり立てている気がするな。午後プノンペンの渋井修さん来宅。ひろしまハウスは今年中に完成はしなくとも使えるようにしようという事にした。金をひねり出さなければならない。
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五月十八日 |
雨が上がらない。今日は星の子愛児園の開園のお祝いの会が午前中にある。 十一時星の子愛児園落成式。近藤理事長より過分なごあいさつと感謝状をいただく。高橋工業ブラザー、熊谷組佐々木所長と烏山宗柳でソバを喰う。縁というものはつくづく不思議なものだ。
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五月十七日 つづき |
夕方梅沢良三事務所へ。三物件の打合わせ。何とか三物件共に共通した構造形式に持ち込めたのでハードルは超えているとは思う。次へ進みたい。ようやく自分のスタイルらしきものに辿り着いたかとも思うが、また変わるだろう。同じモノを作り続けるという、そういうタイプの欲求が、自分には無いのかも知れない。
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五月十七日 |
朝大学院レクチャー。ヨーロッパの辺境とアルバ・アールト。石山研究室の仕事、時に日用生活用品関係のモノの理論的根拠につながる考えも述べた。
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五月十六日 |
午前中昭和医大の歯医者へ。こりゃ大変ですよとおどかされる。歯ぐらいどうなってもいいのであるとも思うが、歯一つで人生悲観的にもなってしまうからやっぱり直そうとしばらく通院することになる。十八時明治通りコンバージョン、明和会の方々が十数名集まって会合。具体化への第一歩になってくれれば良いのだが、皆さんスーパーリアリストだから簡単には動かないだろう。二〇時まで。 ゲーテのイタリア紀行読み始める。ワイマール体験がようやく役に立つ読書になりそうだ。
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五月十五日 |
「室内」目ざわりデザインはスリッパとする。あと三時間で書くためには一時間内にスリッパに関する情報、データを集めなくてはならない。いつもすべり込みだよこの連載は。考えてみれば、他の事も全部すべり込みだな私奴は。十六時杉並渡辺邸現場。仲々良く出来てた。世田谷村をちょっとカジュアルに仕立てた感じが出てる。自画自賛にたえるねコレだったら。十七時二〇分世田谷に帰り室内原稿書き始める。二一時長井にFAX。面白いだろうと自慢の電話も入れた。 深夜、久し振りにニーチェ読む。
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五月十四日 |
朝、地下で数人のスタッフとコーヒーを飲んで雑談。こんなささいな事も久し振りのような気がする。ゆったりした時間だった。たったの二〇分の事だったけれど。九州より權籐君上京。メシを喰う。六月に九州で再会を約す。
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五月十三日 |
九時定例ミーティング。ミーティングというより伝達の確認になっているが、仕方ない。オープン・テック・ハウスのインターネットへのプレゼンテーション。日常生活用品のプレゼンテーションに関して指示。六月六日の石山研のホームページは必見ですぞ。 菜園で毎朝イチゴとさやえんどうがとれて助かっている。 世田谷村新聞は今のところ余計なモノの様なので休刊とする。中途半端なのだ。活字で新聞まがいをやっても意味がないことが読者の反応でわかった。 今二十四時前。今日は一日よく打合わせをして、良く考え、良くスケッチもした。キチンと疲れた。しかし何も進んでいない様な気もする。
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五月十二日 |
昨日早稲田大学大隈講堂で鈴木博之の講演会があり出掛けた。元気そうで安心した。ル・マルスの田中さんの依頼で「住宅の街路化」のような事を書いた。確か田中さんは津野海太郎の友人だった人で、要するに生前の小野二郎と交友があった。久保覚という懐かしい人も居たな。 小野二郎の不在はやっぱりどう考えてみても痛手だった。住宅の街路化はその小野の小エッセイであった。ウィリアム・モリス主義者であった小野二郎のことを田中さんは思い出させてくれた。世田谷村でささやかにやり始めている事と、ウィリアム・モリスのことが結びついているよと遠くから指摘してくれたのだ。わかってはいたんだけれど他人から言われるとわかり方が深くなる。 私が今やっている事、特に日用生活品をインターネットで市場に流していこうとする事、住宅もいづれそうすることは、コンピューターを手に入れたモリス工房の活動なのだ。手作り、職人の仕事、総じてモノ作りは今余りにも情けない状態である。勿論装飾も。世田谷村でやりかかっている事の本質はどうやらそれらしい。らしい、なんて情けない言い方は申し訳ないが、職人芸術建築ワークショップを母体とした 早稲田バウハウス佐賀の三年間もどうやら事の核心はそうだった。 B・フラー、川合健二、J・プルーヴェへの持続的な関心の母体もそれであった。その事を明らかにしたい。ただし戦略としてコンピュータの交信能力の拡張を主軸としなければならない。現代の技術の中心は通信、つまり様々な交信能力の拡張という事だ。それを核に据えると何が想定され得るか。モノ=イメージを飛躍的に開放してゆく事ではないのか。開放という意味は交信、交流、つまりコミュニケーションの拡張につながるだろう。これは間違いない。 私が家族の反対を押し切って世田谷村日記をインターネットに垂れ流し続けるようとする事の本質、原理もそこに行き着く。 「建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる」という私の一番か二番かに変テコリンな本もそこに行き着く筈だった。私の性格がチョッとねじ曲っている風があって、その事が率直に伝わらなかった嫌いがあった。そのあんまり役に立たないねじ曲り方はもう捨てる時期に来ている。チョッと惜しいけれどね。 だいぶ昔のことになってしまったが、津野海太郎がモリス日報だったが、モリス新聞を出そうぜという話があって、立ち消えた。今なら出来そうだ。世田谷村日記、通信をグレードアップすれば良いのではないか。 ウィリアム・モリスの工房の日常を克明に再現してみるというのが津野海太郎の考えの主旨であった。まあ、非力と無知を覚悟でそれらしきをするしかないだろう。 ひろしまハウス・プノンペンのレンガ積みツアーは秋からワークショップ形式にする。装飾の問題に今の日本で立ち向うのは余りにも労が大きく得られるモノは小さい。それならばプノンペンでやれば良いのだ。カンボジアは今こそ装飾芸術が必要な場所なんだから。考えてみよう。
世田谷村では今、五月中に三〇種の日常生活環境用品をインターネットに流そうという計画を進めているが、コレはどうやっても、デザインの水準をとやかく言う前に実現しなくてはならない。平山がやっているトタンの椅子も仲々よろしい。サッカーじゃないけれどスピードと展開力が問題なのだ。屋上菜園の矢車草が満開である。
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五月九日 |
今日は一日大学だ。明らかに健康に悪いな大学という場所は。
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五月八日 |
朝肌寒いくらいの冷気。屋上菜園に上り、少しばかり草むしり。植えた唐辛しやピーマン、しそ等が育っている。今日は午前中地下打ち合わせ、午後大学の予定。 十三時中谷礼仁の講義を聞きに階段教室へ。学生との対話形式を取り入れ、何だか建築同好会的であった。痛く失望する。聞かなきゃよかった。学生に媚びている内に考えている事の中枢がいかにも生ぬるくなってしまっている。十四時四〇分二川幸夫の設計演習G。一時間三〇分の独演会。いつもの通り決して耳ざわりの良い話し振りではないが私には何度聞いても面白い。小才ではない生身のエネルギーそのものが生き生きと語っている。学生は呆気に取られるばかりだろうが、それで良い。受講者が多過ぎるので六月に二〇名程度に絞る。最終的には五、六人だけ残るようなプログラムにするつもり。どの様な記録に残すかが問題だ。ライブだから、空気を伝える工夫が必要だろう。夜、久し振りに難波和彦と飲む。何と彼の事務所は仕事の花盛りらしい。二五件の物件を抱えていると言う。正念場だな。 ヘレンケラー記念塔の宿泊棟をやる事になった。アメリカのヘレンケラー財団とコンタクトしてみる。
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五月七日 |
朝、棚を整理していたら木島安史の孤風院白書がポロリと出てきた。木島さんが亡くなってだいぶ時間が経った。前向きで自己を拡張する努力を惜しまなかった人だった。「孤風院」のネーミングはこの建築家の内面の孤独をフッともらしてしまったものだろう。誰も明日のことは知らない。それぞれの内を知ることもない。飯島洋一から送られてきた現代建築、アウシュヴィッツ以降読んでいる。面白い観点から建築を遠望しているが、この批評家は実体としての建築を感受することへの関心が極めて薄いな。書かれた本、発言等から建築的観念を紡ぎ出そうとしている。核心はサイバースペースに関する関心だろう。その現実界からの距離感が現代的なのだろうか。オヤジゆづりの詩的直観ならぬ生身の観念性が書物の形式の中に散乱している印象だ。流動体への関心は独自なものがある。明日より二川幸夫の演習G始まる。この人物の怪物性をキチンと生かすプログラムをまともに考えてみたいのだが。何処かこのスタジオの進行状況を本かビデオにしたいという出版社はいないかね。面白いと思うんだけどネェ。余りの今風からのブッ飛び方が。 カンボジア、プノンペンから連絡あり、プノンペンでの五月二七日の講演題目を「ひろしまハウスはカンボジアの町おこしのモデルである。」としたいと伝える。レンガ積みツアーには定員をはるかに超える応募者が集まり、結局四〇名とした。今回参加できなかった人達は秋のツアーに参加していただきたい。 十八時前佐藤健より電話あり。東大病院で結果が出た。私のこのメモに佐藤健が登場する事はしばらくは無しにする。私の方に佐藤健のこれからを記す勇気も気力も備わっていないし、佐藤健の人間としての尊厳は最大限守らなくてはならない。数少ない友人達に、体だけは大事にしてくれと伝えたい。この件に関してはもう言葉の逃げがないのだ。
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五月六日 |
朝屋上菜園。野菜の世話はやり出したら際限が無いことが解ってきた。この際限の無さは機械を相手の仕事とはチョッと違うな。 川合健二が畑仕事に精を出していたのが少しばかり解るような気がしてきた。無限に近い複雑さを相手に手を動かし、身体を慣じませてゆく細妙さの感得のようなものだろうか。人間の脳の複雑さ、突拍子のない動きも又、自然に対応する相対性から生まれてくる事が解るような気がしないでもない。不思議だなあ。午後地下で仕事する。静かだ。 日経連載コラム書く。「職人」これが自分の核の一つであろう。現代の職人もセルフビルドも要するにモノを作るのを楽しんでいる人たちを顕在化させようとしていた。ただ楽しみというのは今ではモリスのユートピア便りのようには現れはしない。もっと冷たい、酷薄とも考えられるシステムを故障させようという演技性の内から発生するのではないか。コンピューターに病原菌のごとくに入り込むハッカー達の情熱の源は何なのだろうか。
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五月五日 |
朝から屋上菜園で野菜の手入レ。草花の面倒を見る。こういう奴等は手入レするだけ育つからいい。人間はそうはいかないからね。汗ばむ位に植物と遊んで今日はゆっくりと休むつもり。 気温は29℃。カンカン照りの真夏の様な日である。こんな日は通りを行く人影もない。先程地下に人影があったような気がして降りてみたら誰も居なかった。明日は地下で仕事をしよう。誰も居ない休みの日は一番仕事ができる。 開放系技術世界。マイノリティーの建築。作家論。それぞれに進める。現代とは何か、まとめにかかる。むづかしい。
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五月四日 |
聖徳寺現場へ。朝早く発ったのに大渋滞の只中に巻き込まれる。住職に会って、掘りすすめた凹部の底に入ってみて、東京に引き返す。折角の富士山麓なので、こちらの力は入っているのだけれど造園に関する知識が少な過ぎるので、その力みが空廻りしているのが自分で良く解る。疲れて夜は早く寝た。庭は独学でやるしかないな。
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五月三日 |
九州宮本邸の図面チェック。A〜Zまでの作り出すべきオリジナル細部をピックアップする。部分を独立させたドローイング形式をとれば無駄が無くなりやすいかも知れない。アトはゆるやかなモデュールのガイドラインを設定して、細部を充実させていけば良い。繰り返し必要とされる細部は値段も物体も次第に洗練されてゆくだろう。 九州宮本邸はオープン・テックハウスの#4であるが、日常生活に細部を組み込んでゆくのがもう一つのテーマになっている。構造は不明快であるという明快さを持っている。鉄の柱の林の中で暮らしている感じが良い。その林はまばらで、大きな森林ではない。連休に入ったが、地下では何人かが仕事をしている。
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五月二日 |
朝星の子愛児園竣工検査。細かい事を言い出せばキリが無い。マア研究室の今の実力ではこんなものだろう。次に進む。
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五月一日 |
中国旅行のおわりに気付いた事がある。 この世田谷村日記を何の為に記録し続けているのかを、少し考え直す必要がある。家族からは苦情が噴出している。アメリカに居る長女徳子からも彼女の友人達から自分の家の内情を知らされてビックリした、オヤジのアレを止めさせろと、強い抗議が家内の許に寄せられている。次女、長男もそれに習って冷たい。家内は子供達に従って、更に輪をかけて冷たい。「アレ止めてよスグに」の連続だ。確かに彼等の言い分にも一理ある。この日記は何処で誰が読んでいるか解らない。想像を超えた読み方をしている人が居るだろう。例えば泥棒盗人を職業としていたりの人も居るかも知れぬ。変質者と呼ばれかねぬ人も居るにちがいない。妙なモノばかり売りたがるセールスマンは意外に世間に多い。そんな人々にとって世田谷村日記はどんな風に読まれているだろうか、と考える。暗澹たる気持に落ち込まざるを得ない。しかしネガティブな要素は確かに在るには在るが、それにも増して私が日々を暮らしてゆくのに良い事もある。 私は自己分析するに、決して社交的な人間ではない。人間を選り好みする強いクセがある。だから友人は徹底的に友人であるし、関心の無い人間にはヒドク無関心である。酷薄と言われてもおかしくはない。時に私の無関心振りに気付かぬ慣れ慣れしさを振舞う人間は一気に嫌いになる。そして残念な事に嫌いな人間の方が圧倒的に多勢なのだ。要するに器が小さいのである。極度なピンポイントなのだ。文章や絵を作ったり、学問を突きつめたりの職業であればそれで良い。むしろ望ましい。愛想のイイ一流の学者や作家に会ったためしがない。彼等や彼女達は皆そんなに謂はゆる堂々たる器、つまり受容力を持つ人達であるとも思えない。何処かにトンガッたところがある筈なのだ。どこかに傷がある。 ところが私は建築家という職業を選んでしまった。マアこれはほぼ天職であった。他にヤリようが無かっただろう。天プラ屋にもなれなかったし、どんなタイプの会社員にもなれなかった。まあそれはいたしかたなかった。 建築家は面白い職業なんだけれども、一つだけ私にとっての難点がある。これは当然商いの一変種である。自分の能力の売り買いそのものだからだ。商いは社交に直結する。当然のことながら愛想が良く、人あたりが柔らかい人間の方が得だ。しかしながら、私は極めて愛想が悪く、人あたりもハードである。充二分に自覚している。これでは建築を作り続けるのは絶対に不利だ。何処かで私は若干の無理をして、つまり演技を打って社交家を振る舞う必要がある。つまり社交家としての私の舞台を何処かに構える必要がある。そこで私は実に多くの人々に素直に、時に愛想よく、サービスもして、多愛の無い冗談の一つ二つも言って見せて、社交家振りを演技しなければならない。 その舞台が私の場合はインターネットであったらしいのだ。だからこの日記形式の演技満々振りは、人当たりが悪い、非社交家でパーティー嫌いの私の、それでもコミュニケーションしなきゃしょうがネェだろうの窮余の一策なのである。チョッとひねくれてはいるけれどマア、そんな事ではあるらしい。 実物の私は年とともに増々人間嫌いで、狷介な人間になってゆくだろう。近附かない方が良ろしい。インターネット上の私にはそんな不自由さは無い。蝶のように舞い、蜂のように刺す、つもりなんである。何せバーチャルだからね。あるいはパーティー会場を流れるように動き廻り、過不足のないアイサツを万遍なく振りまき、時に女性にも品の良い何げなさを振舞える、そんな感じを作り上げようと、している最中なのである。つまりバーチャルと実生活の二重生活を試みている。 足かけ三年世田谷村日記は続いている。インターネット上に流して眼に視えて悪い事は起きていない。家族からの冷たい苦情だけである。勿論、大方のクライアント、そしてスタッフ、身近な学生達もこの日記は読んでいるだろう。私は充分に吟味した言葉の組み立てを使わなければならぬ立場に追い込まれているのである。 しかし、この状況は極めて現代的であるとも言えよう。私のスタッフも学生も直接、生身でコンタクトしてくる人間は居ない。私だってそんなエネルギーの消耗はもう出来ない。これ位のうすいコミュニケーションが一番今の時代には良いのだろう。誰も傷つかぬし、なにより平穏だ。しかし、傷つかず、痛みも無く、本物、スーパーな物を作り得る事があるのか。そりゃ、ないのだよ。それは断言できる。 建築づくりに関しては、やっぱり自分で全てに眼を光らせていかなければならない。スタッフと私の間の距離は一向に縮まらぬ益々、加速度的に開いていく一方だ。もちろんこの人達の成長を座して待つことはできない。これからの人材にもそれ程に期待はできないだろう。これは、キッパリあきらめるしかない。十三時三十分代々木GAギャラリー。二川幸夫と会う。何だか壮大なシリーズを考えているようで、アントニオ・ガウディの建築について秋までに書くように依頼される。現代建築は相変わらず世界的な不作状況が続いているらしい。レム・コールハースの評価を面白く聞いた。二川由夫が写真を撮り始めたようで、由夫はオヤジ程天性の感性を持たないけれど、それを知的に補って行く術を知っているから、上手くなると思う。ニ代目登場だろうか。
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2002 年4月の世田谷村日記
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
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