石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2002年7月の世田谷村日記
 六月三〇日
 朝屋上菜園で草むしり。汗ばむ位に雑草取りに夢中になってしまった。川合健二に初めて出会った時、川合は五十八才であった。ミカン畑で野良仕事をしている時にとんでもなく良いアイデアが生まれるんだよと教えてくれたのを思い出した。私はアイデアは生まれないが色々と妄想をたくましくする。午後三鷹の植木屋で水蓮、その他買い込んで屋上に植え込む。垣根のクチナシを切って三階の読書机のワインのビンに生けた。アジサイも切って地下に四ケ所程生けてみた。
 二〇時サッカーワールドカップ決勝ブラジルvsドイツ。どっちが勝っても構わないが、家内も次女もブラジルを応援しているので、私はドイツびいきでいようとTVを見ているが、凡戦なので三階に上り、何をするでもなく、ボーッとしている。サッカーとか野球とかには全く興味無いのだ。

 六月二九日 つづき
 中野区在住の初老の方が来室。住宅を依頼される。住宅の仕事が多くなっている。中途半端はいけない。もっと多く受け容れなければ。

 六月二九日 土曜日
 昨夜の件を思い出してみる。良い一日であったと思う。昨夜があったからこそ、良い一ヶ月になり、良い一年で、良い十年になった。健さんが淡々として死と対面できるようになった平安が光った夜であった。第二ハードルは超えたとのある種の自信と達成感がそう言わせている。第五ハードルくらいまで来ると予感してるとも言っていたな。肝臓ガンの手術後の痛さは想像を絶していたとも言っていた。焼け切ったフライパンを背中に押し当てられたようなものらしい。痛さで泣くことがあるのを知ったと言っていたな。東大病院の放射線科の病室の話しも興味深かった。厚さ六〇センチメーターくらいのコンクリート打放しで放射線を当て始めると、健を一人台上に残し、パタパタと全員が室外に去るのだと。その際のアッケラかんとしたセキリョウ感を彼は良く表現していた。ヒットラーの地下ゴーのコンクリートはもっと厚かったらしいが。六週間放射能をマキシマムに食道ガンの中枢に当て続けたのだ。体にマーキングされてその一点に射撃されたのだ。俺は原爆の子だと、笑っていた。夕陽のガンマンから原爆の子へ、ようするに健は解脱を成し遂げたのだ。私はそんな彼をマジマジと視ていた。顔で笑って心で泣いてなんて感じ、ちゃんちゃらおかしい感じはこえて、マジマジと視て、聴いていた。
 究極の家、つまり彼の墓をデザインする。その一部始終を記録して残す。今日から始める。

 六月二八日
 今朝の院のレクチャーは岡山県建部町国際交流館の設計について。伊豆の長八美術館高崎第七官界建部町に共通して通じる考え方に関して述べる。始まりは佐渡の宿根木である。北前船に体現していた技術がコトの始まりなのを伝えたい。
 朝ゲーテはようようの思いでナポリを去った。本当に彼は誠実な男であった。しかし学びたいけれど学びようが無い。ゲーテのシシリアの旅に同行した画家クニープのその後はどうなったのだろうか。ゲーテのイタリア紀行に名をとどめるに終ったのか、それだけでも彼は運が良かったのかもしれないが。
 佐藤健から電話があって、今夕自分の位牌を見せに世田谷に来るという。そして、寿司はいいからソバを喰わせろという。ゲーテうんぬんどころじゃないよ。
 午後GA杉田君来室。楽しいおしゃべりをして帰った。GAJAPAN星の子愛児園発表。まあ、こんなもんだろう。次へ進むぞ。十八時世田谷村地下へ佐藤健自らの位牌をもって現れる。自業自得大明王。こんな戒名は日本で初めてである。と淡々として述べて、説教するでもなく、何でもなく、宗柳でソバを喰べて帰った。覚悟が決まったんだと考えた。今のところ淡々として平安であると言っていた。俺にはとても想像も出来ぬ境地だな。

 六月二七日
 七時起床。中国でもワールドカップは放映されている。グローバリズムだね。ブラジルがトルコを下し決勝へ。正直なところ韓国を決勝まで行かせたかった。朝食後天壇見学。生憎の曇天であったが天壇は面白かった。これも中国独自の王の宇宙観念性が一つのランドスケープとして建築化されたものだ。万里の長城と同じ類のものなのだ。しかし中国的悪趣味はなく堂々とした建築らしい建築だった。西安の大雁塔にも通じるものを感じる。磯崎が言ったようにローマだね。ゲーテはシシリアで妙な悪趣味を感じたようだが、中国にもそんな悪趣味は度々歴史上にも顔をのぞかせる様な気がする。しかし都市を水平に延ばしてゆこうとする意志は強く、軸がなければ何も統御できないだろう。強い軸性は観念の表明に他ならぬから、その根本を考える必要もあるだろう。天壇を見終り十一時前ホテルに帰る。昼食前にこのプロジェクトを起こしている公司を訪問。大きな葫廬島市の土地模型が置いてあった。相当荒っぽい計画だぜこれは。西部開拓時代を思わせる、と言ったって私はそんな時代を知らないのだが、まあ感じとしたらそんなものだな。国家による計画経済、計画主義と芽生え始めた民間の資本主義とが渦巻いて、そのすき間に私のような不良外人が動めくという構図である。堀田善衛の上海が時代を超えて再出見している。ちがうのは服装と乗物だけではないのか。
 この荒っぽさ、雑さに引かれて多くの外国人が中国へ中国へと参入しているのだろう。バタイユの言う外国人が多いバルセロナと同じか。日本や西欧アメリカでは体験できない空間だから。この荒々しさ、すき間だらけの空間は。磯崎新の中国通いを遠くから眺めていたら、その縮小版に対面してしまった。対面して、その空間に身を投じて、やっと色んな事がわかってくる。
 しかし、大分前の事になってしまったが、磯崎の海市計画でマカオに何故かついて行った時に食べた、場所は忘れたが昼飯はうまかったな。突然その味のディテールまで思い出した。北京で食べてる昼飯はそんなにおいしくないが、今回もメシだけは欠かさず、良く食べた。レストラン全体にウォーンという熱気とエネルギーが渦巻いている。凄惨な喰べ残しも出るのだろうが、そのゴミは何処へ行くのだろうか。中国の謎だな。食文化が国全体のシステムにまで波及しかねない。日本の食は細いね。十四時前、北京国際空港のラウンジで休んでいる。日本に戻れば又、チマチマした仕事の山だ。半島一ヶ何とかしろみたいな事はありようもない。
 ゲーテはナポリに戻り、北方の民族特有の自省の日々を送っている。
 短い箴言の中で彼は彼の正体も語っている。「現世を軽蔑せよ、汝自身を軽蔑せよ、人が汝を軽蔑するのを軽蔑せよ。」ゲーテは言う。もちろんこの中にすべては尽きているのだ。初めのニ句は実行できると憂鬱病者でも思うだろうが、第三の句を甘んじて実行するには、聖者となるほどの修養が必要であろう。と。ゲーテその人が現れているように直観した。イタリア紀行を時間をかけて読んでいて良かったよ。しかしゲーテはこの紀行に於いて、書けぬことが余りにも多過ぎたように思うと再び考えた。字面に現れただけの男だったら、頭は良いけど、それ以上じゃないぜという感じだよ。ダンテの神曲は建築家の想像力をふるわせるが、イタリア紀行にはそんな震源地はまだ視えてこない。
 飛行機は朝鮮半島を横断している最中だ。朝鮮半島はアッという間に横切ってしまった。ワールドカップの熱狂が去った韓半島の上空を横切っているのだが当たり前のことではあるが、うたかたの熱狂には関係なく、朝鮮半島は地政学的に存在している。建築にもしも価値があるとするならば、そんな地政学的状態に基盤を持たざるを得ないという事だろう。

 仕事でする旅も旅である。旅というのも実に正体がわかりにくく厄介なものだ。三、四日世田谷を離れて中国で過すのも旅ならば、三時間世田谷を離れて早稲田で過すのも、原理的には旅である筈なのだが、やはり何かが違うよな。世田谷の私の寝床を離れて、一時間屋上菜園に上るのだって旅の筈なんだが、やはり何かが違う。旅というのは日常の連続、退屈さを、一時しのぐ、あるいは解放され、想像力が少し自由になるという、身の廻りの空間そのものの規定そのものの内に、意味を見出すものなのなんだろう。旅は現実には思考を倍化する。このメモだってやっぱり東京を離れている時のほうが量を書いている。思考の量と質が人間の最終的な意味であるのならば、そうであるならば、日常を旅状にしてしまう方法を身につけるのが、一番合理的な様な気がするけれども、そりゃ疲れるぜ。人間は休息というものが生理的に必要な生物なんだよね。隠岐の島の上空である。少し眠ろう。
 日本時間十八時半頃成田着。成田エクスプレスの車内でイヤな風景を見た。通路向いのBOXシートの四人の若い娘、二〇代半端か、これが全員ケイタイ使って何やらピコピコしてやがるの。大方のケイタイ常用者の顔は何処かが一本ネジの抜けてる間抜け顔が多いのだがこの四人は完全な白痴状態で暗号記号めいた短い会話のやりとりに終止しているのだった。考えてみればケイタイのやり取りは幾分か記号化されざるを得なく、当然常用者は言語表現がステレオタイプ化して貧しく均質化していかざるを得ない。うちの地下の連中を特に常用者を観察するにケイタイ常用者の会話は対面していてもケイタイ的な薄さから抜けない。言語表現が貧弱である事はそのまま想像力の欠如につながるから、モノを作ることもおぼつかない。ケイタイ常用者は想像力の減退、停滞の傾向を帯びざるを得ないのである。ゲーテは間もなくナポリを去る。
 二十二時前世田谷に戻る。今度の中国行は太田の資料作りと野村の誠実さに随分助けられた。地下に降りてみたら松本が一ヶ月弱のヨーロッパ旅行から帰っていた。少しばかり話しを聞く。良い年令で良い旅をしたように思う。私も少しは彼に良いプレゼントができたように思う。人間が育つのにはやはり時間がかかるのだ。七月の地下は腰を据えてスタッフ教育にかかろう。少数精鋭に戻すしかないだろう。一人一人の人間にキチンと対面するしかない。それでなければ本当に良い建築はできようが無い。それにしても建築家達はこの難問にどう対処しているのだろうか。

 中国から帰って世田谷村の空間に身を置いている。別にドラマチックな旅ではなかったが、何故か私にとっては大きな区切りの旅であったように直観している。この直観をどう形にするか、どう現実化できるか、それが大事だ。拡散を続けるのはすでに得策ではない。私もすでに自身のエネルギーの限界がチラホラ見えてきた。これからは収縮させていかねばならない。その縮めてゆく力を表現すれば良いのだ。建築という形式を使って。無駄なことはしない。できない。まず、具体的に地下の人材を絞ろう。今のままでは敗けてしまう。子供の遊びになってしまう。手勢を絞って態勢を建て直すことから、すぐに始めよう。

 日経夕刊、あすへの話題、最終回は「手書き」毎週木曜日、半年間の連載を終えた。面白い仕事だった。これ迄私が書いたモノでは一番読まれたものになっただろう。それは実感している。スタジオヴォイスの連載も終わりで、これも又一つ区切りである。色んな意味で区切りと言うか転換点、転換期というのは実に平々凡々たる時や、場所でおきるものだ。私の場合は、旅から帰った世田谷村の大きな部屋で、たった今起きている。この自覚を生かせないようでは私の未来はないな。しかしまあ、こういう事が起きるから面白いのだ、とも言えるか。今日はグッスリ眠って、明日動き出そう。ベーシーの菅原も言っていたな、石山さん無駄しないでって。わかってる積りがわかってなかった。ようやくにしてわかった。馬鹿者だなあ俺は。

 六月二六日
 昨夜は中華料理とマオ台酒をいただいて、良く眠った。ようやく体がスッキリしてきた模様。朝七時起きる。風呂を使い七時半朝食。野村が昨夜デベロッパーが用意していた小報告書を読んでくれていて、朝食前に小レクチャーを受ける。今日は天気が良く、葫廬島のシャングリラである由縁を知ることができるか。なんだかそうでもなさそうな気もしきりにするんだが。その土地に何か夢中にさせるものが無いと、一所懸命にはなれないものだ。龍頭回の碑と土地の形と龍の話があるらしいので、それを野村に調べさせよう。
 九時より各国の第一次プレゼンテーション、シンガポール、米国日本米国フランスの順。私は手短かに飛行機の中で用意したモノを少し修正してプレゼンテーションした。プレゼンテーション直後に新聞記者が私のプレゼンの内容を記事にして良いかと来たから、マア良かったんじゃないか。フランスは幼稚ポイ。シンガポールは的外れ、アメリカの一つは古く、もう一つは何も内容がなかったから、これが一番の強敵かな。最初のプレゼンテーションで手の内を見せてしまうのは馬鹿だ。
 昼食を喰べて葫廬島を去り、北京へ。
  先程十五時頃トイレ休みでサービスエリアに立寄った。なんとその間近まで万里の長城が走り下っていた。間近の急峻な山岳にも延々と長城の壁は建設されていた。あんな山岳をモンゴルの大軍が越えてくるとはとても考えられず、万里の長城は中国的観念とある種の原理的なモノへの希求がなさしめた構築物であるのが理解できた。中国の歴史ではこの手の観念は度々皇帝、王によって体現されてきた。やはり毛沢東は王だったのだ。彼の死後、今にいたるまで中国に王は現れていない。
 ゲーテはようやくにしてパレルモを去り、ジルジェンティの古代ギリシャ遺跡に辿り着いた。鈴木博之と半日程神殿を巡ったジルジェンティ(イタリア紀行ではこう表記されている。)が夢幻の如くによみがえってきた。こうして高速道路を北京にむけて走っている自分と、ゲーテに連れられてシシリアを旅している自分と、二人の自分がいる。
 ゲーテの旅は少しはかどってシシリアを去り、再びナポリに戻った。十九時現在バスは北京に向けて走っている。シルクロード、アジアハイウェイの砂漠をバスで旅するのも単調な時間だった。朝から晩まで風景は変わらなかった。でも心地良く緊張していた。何故だったのかな。ようやく北京間近になったようだ。世界中同じ郊外の風景に入っている。二〇時前ホテルチェックイン。

 六月二五日
 朝五時半起床。六時にレストランへ降りてみたが、真暗であった。六時半朝食。韓国の観光客が多い。七時大型バスでHOTEL発。コンペ参加者は全員集まったようだ。アメリカ二社フランス一社シンガポール一社そして日本は私。バスの中で昨夜伝えられた予定がすでに変更されたと知らされる。何もアテにしてはいけない。かなり激しい雨の中を走っている。
 十二時過バスはまだ高速道路を走っている。先程葫廬島まで八〇KMの標示が出ていたからまだ小一時間はかかるのだろう。雨は上った。風景は変わらない。山西省よりも豊かな感じはする。京沈高速道というのか。多分北京から三四五KM地点だな今は。トウモロコシ畑が続く。土で囲んだビニールハウスの中で何を作っているのかは視えない。
 十三時過葫廬島市着。十三時三〇分国際酒店チェックイン。予定より二時間遅れ。ここは夢うつつの町だな。ガーデン花園シティ構想のもとに動いているようだ。ミラージュシティだねここも。イルミネーションが似合いそう。昼食後葫廬市長らとレセプション。スピーチを一つこなして、計画地見学。中国型のレジャーについて、余暇について考える必要がある。ちょっとここでは国際化うんぬんには無理がある。中国文化の西欧化のパターンだろうな率直にやれば。
 磯崎のマカオ、海市計画をここにもってきたらどうかな。こうやって自分も中国の現場に身を置いてみて、はじめて磯崎の中国での冒険が少し常軌を逸している理由がわかってくる。当然私も無茶苦茶な提案をすることになるし、もう半日の体験でそれを決めている。巨大に中国型の遊びを提案してみよう。

 六月二四日
 朝九時地下でちょっとした指示のあと歯医者へ。あっさり一本抜かれてしまう。歯石のねばりだけで抜けずに持ってるような具合だと女性のアシスタントがぬかして、抜いちゃえ抜いちゃえという事になった。今夕から中国なのでレセプションの席でスピーチもしなくてはならないから歯抜けはまずいなと思ったが、本当に下の前歯がグラグラしているので、これでは中華料理は喰えないと考えたり私の考えもグラグラしているうちに、アッという間に抜かれてしまった。抜かれたアトは少し痛みが残って我ながら元気が失せ、外で何をやる気も失くし又世田谷に戻った。人間はまことに多愛のない生物である。佐藤健は良く放射線治療を四十二日間連続で耐えたなあ。俺なんか歯一本でこれなんだから。アレはえらいと再び沈思黙考。少し休んで又地下へ。地下のメンバーへ再び文句言ってもダメだろなこいつ等はと思いながら、しかし文句を言う。男も女も二〇代は全滅だ。打つ手はない。ヌカに釘だ。
 十五時前の新宿発成田エクスプレスで成田へ。野村同行。隣の席でゴボゴボせきをしている。オタクは風邪を引きやすいというのは本当なんだ。只今、日本時間七時二〇分。ANA北京行の機上である。三〇分程かけて明日の中国でのレセプションの演説の草稿を作った。隣で野村がそれを整理清書してくれている。北京到着までかかるかと思っていた作業が意外に早く終ったので、ホッとしてブルゴーニュのワインを少しいただいた。年をとって、やるべき事をいつ何処でやれば良いかの原理だけは解るようになった気もする。そうでもないか。この類の原理、つまり、全て相手あっての事なのだの諸原理のようなものは磯崎新から色々と学んだような気がする。我ながら度胸だけはついてきたよね。仕事は小さいのに肝玉だけは大きくなってしまうのも危険な事ではあるのだが。
 今、飛行機は朝鮮半島を横断して黄海に抜けつつある。北京では北京大学の張永和と二一時に会う予定があり、演習Gのインターネットスタジオその他の相談をするつもりだ。北京時間二〇時過北京着。空港に出迎えあり。HOTELで二一時半北京大学の張永和と会う。相変わらず柔和な人柄で大人だな彼は。インターネットスタジオへの参加を依頼する。度々日本へは来ている様だ。
 コロ島開発にからむ人多数と会う。何がなんだかわからぬが、マどうとでもなれという感じ。コンペ参加者を代表して明日祝辞を述べよとの事で思わぬ事がドデンドデンとおきるなコレワ。何が起きてもガタガタしない気持だけは用意した。深夜北京の高層ホテルの一室に居る。明日はコロ島へ出掛け政府関係者市長その他と会う予定だが何が起きてもおかしくない。今夜会った中国の連中の雰囲気がそう伝えてくる。今の日本にはない荒々しく、大ざっぱな感じ。それを楽しめるかどうかは私次第なのだ。別に何も期待していないし失望もない。

 六月二三日 日曜日
 午後、聖徳寺二代目住職兄弟檀家代表、中川さん友部栗畑トモコーポレーション社長我家に参集。聖徳寺プロジェクトの進め方について相談。顔を合わせて話し合う事の重要さを再確認した。世田谷村スタッフのコミュニケーションの薄さが気になる。ケイタイ、メールは人間の何か最奥の尊厳を破壊しているように思うな。ケイタイ風コミュニケーションのうすさを世田谷村地下に持ち込んだ人間が確実にいるのだが。イヤな予感がする。
 佐藤健と電話で話す。健さんは本当に立派な男になった。病気になる前のエネルギッシュで自由な時よりも、病気と対面して痛烈な絶望と対面していた時よりも、第二ハードルを乗り越えて、少しの平安を勝ち取った今の方が私にはまぶしく見える。電話の声だけでそれを感得することができる。私にも実ワ、大変な経験だった。この一ヶ月は。お蔭様で私も我ながら一皮ムケたような気がする。他人の病気で自分の下らない皮を一枚二枚とむいていくのは失礼な話しではあるが、私にはありがたい体験だった。

 六月二二日
 十時住宅建築取材インタビュー。十四時大学院希望者面接。十七時世田谷村全体会議。夏の仕事について。それぞれのプロジェクト担当者のプレゼンテーションを聞く。ようやくそれぞれのスタッフ学生の意欲の構造が理解できたような気がする。どうやら女性の使い方を誤っていたようだ。女性の使い方は極めて方法的姿勢を貫徹しないとむづかしい。すぐに対処しよう。
 久し振りに佐藤健から電話をもらう。第二段階の治療。これは放射線照射なのだが、それがうまくいったようだと。心が少し平安になったのだろうか。これから先何をやろうか考えるゆとりができたとも言っていた。位牌ができてきたそうで自業自得明王、俗名佐藤健、命名者上山杉浦石山於鳴砂山。大きさが五〇センチメーター程の立派なものらしい。ようやく、自分の位牌のことをしゃべれるようになるまで力が戻ったようだ。えらいなあ、健さん。俺なんかとても真似できないよ。本当に自分の中に強いモノを育てていないとここまで気力を回復する事はとても出来ない。肝臓さえやられていなければ、持ち直せるのになあ。三〇日から秋田の温泉に行くって言ってた。又、寿司を喰える位になったって寿司までさいそくする位だから気力は明らかに回復している。凄いと思う。健さんは今、凄い力を持ち始めているな。私は独人ではここまで気力を回復させる事はとても不可能だろう。多分女々しく自分で崩れていってしまうのではないか。
 ゲーテはようやくシシリヤ、パレルモにナポリから到着した。

 六月二一日
 朝院レクチャー。今日は太陽の光がまちに溢れている。午後尾島先生と建築学部構想で議論。建築学科は正念場だな。演習Gインターネットスタジオの開設を急ごう。中国行きが一日早まったので急ぎ明日夕方様々な打合わせをしなければならなくなった。

 六月二〇日
 午前中世田谷市場打合わせ。午後理工学部長選挙。その結果、建築学科はむづかしくデリケートな運営を強いられることになった。と考えられる。夜、予定通りホテルオークラで学科の将来について話し合う会。

 六月十九日
 午前中国立神保邸訪問。私が五年前に建てて差し上げた「おばさんの家」である。友人達と七人で展覧会を自宅で開催しているのを見せていただいた。
 神保さんは大変お元気そうで、とても家を気に入ってくれているようで安心した。中もきれいに使って下さっていて、この家は成功したなと得心した。住んでいる人が元気はつらつとしているのに会うのは嬉しいものだ。スケールと素材の使い方にミスが無かった。二階に居間その他の主要な生活の場を持ち上げたのもうまくいったようだ。北のテラスも上手に使われていた。女性のための家づくりに関しては我ながら肩の力が抜けて依頼主の言うがままに作ることが多く、それが家の全体にある種のゆるやかな受容力を備えさせることになっている。依頼主によって私も開放されているのかな。女性にただ弱いのだと言うのが本当のところかも知らん。面目ない。
 中国の都市計画のコンペには二五〜二八に出掛けなくてはならなくなった。北九州市ビール工場跡地の仕事も進めるつもりなので今夏はワークショップは無理だな。

 六月十八日
 いかにも梅雨空で雨が降り続いている。
 午前学部レクチャー。久し振りに松崎町のまちづくりの話しをする。話しをしていて我ながら面白かった。自分が面白がれるのが何よりである。しかしながらアレは年相応な情熱が私の方にもたぎっていた頃の仕事だな。今だったら別のやり方でやっていたかも知れない。

 六月十七日
 カンポジアから匂い草の種と覚しきがごっそり送られてきて、昨日屋上菜園にまいたが、時期的にはどうなのだろうか。しかしカンボジアは雨期乾期しか無いのだから、梅雨時の今にまくのが良いのじゃないかと思う。東南アジアの草を屋上に群生させるのは悪くないアイデアだと思うんだが。一人よがりだよなコレワ。
 朝、朝山邸浜島邸打合わせ。安藤向井はゆっくり育てるつもり。今日は竹橋の国立近代美術館で森正洋さんの展覧会のオープニングだ。毛綱の三〇年前の奇館異館の文章を読み直してみると当時二〇代の私は一個の独自な才能と遭遇していたのが良くわかる。死んでいなくなった人間のりんかくは時が経つにしたがってハッキリしてくるというのは本当だな。死者は生きている者がそれを忘れない限り生き続けるのだ。歴史というモノの本体はそれだろう。
 中里和人とのセルフビルドの連載の延長戦に関する企画を作らねばならない。都市内農園のような事だろうな。
 十四時竹橋の国立近代美術館へ。森正洋先生の「陶磁器デザインの革新」展。森先生にもお目にかかることができた。十七時世田谷へ帰る。

 六月十六日
 朝室内原稿書く。夕方杉並渡辺邸オープンハウス。屋外デッキの水洗いをさせて、古材も洗わせてマア、ギリギリに間に合わせた。しかし、石山研の人数は多いな。
 渡辺さんの家に関しては施主の人柄にも助けられて、自由な作り方ができた。これでセルフビルドの可能性も証明できるような気がする。昔、菅平の正橋君の鉄の家を十五年もかけて作ったのが夢の様だ。あれはマンツーマンだったからな。一人切りはどうしても凄絶になりやすいのだろう。

 六月十五日
 スタジオボイス取材で神戸、アートガーデンへ。三〇年程も昔毛綱に教えられた場所で、連載最終回で再訪した。昨日から室内連載の下調べをするうちにビートルズのアビイロードを調べていた。アビイロードが一九六九年、アートガーデンのアポロ十一号月着陸記念碑、要するにアポロ十一号が一九六九年で、これも何かの因縁だろう。アートガーデンはすっかり廃園になっていた。緑に侵蝕され、人工物の命の短命さをことさらに思い知らされた。大石画伯の不思議な情熱によって生みだされた庭園であるが、ヴァン・ゴッホの碑、柳宗悦、ロマン・ロランの碑など全て苔むし、崩れ始めていた。私的な遺跡について少し考えてみたい。グライターが言うように遺跡自体の持つメランコリアと建築的想像力の問題に関係性があるのは確かだろう。日本の場合それがかくの如く極めて私的な表れ方をする。その事について考えなくてはならない。二十二時東京に戻る。一日中眠たかったな今日は。スタジオ・ボイスの連載も今回が最終回で、中里和人さんと相談して、もう少し続行できるような方法を考えてみようという事になった。
 ゲーテはぴくりともナポリから動かない。汽車でも飛行機でも車ですら、ひたすら眠いのだからどうしようもないのだ。

 六月十四日
 朝九時前地下へ下りたら誰もいない。今日は皆出払っているらしい。

 六月十三日 つづき
 十七時過清水建設大山氏来室。四方山話の後新宿へ。昨夜酔って財布を失くしたと思われる台湾料理屋、屋台へ再び行く。我ながら失くしモノには執念深い。勿論失くした財布は出てくるわけもないが、ビールを飲んでいる内に二日酔は消えた。酒で参った体は酒で直すのが一番なのか。これではただの酔払いではないか。本当馬鹿者だ。

 六月十三日
 胸焼けで苦しい。二日酔いである。全く我ながら馬鹿者です。世田谷市場打合わせ。丹羽平山太田。この類の小モノや生活用品ファッションに関しての太田の感覚は光る。もっと本格的にやってくれたらこの事業はきっとうまくまわるのに。

 六月十二日
 寝苦しい夜を過した。朝久し振りの小雨。梅雨に入ったのか。体調は万全ではないような気がするが良く解らないのが本当のところだ。ここ十数年歯医者以外の医者らしきにかかった事がない。自分でも危ないなと思う事もあるのだけれど、何故だか病院へは行かぬ決心のようなものがあって、これは固い。倒れてからようやく医者にかかる最悪のタイプなんだろう。
 この先、生活雑貨の製作販売をすすめてゆく戦略が仲々むづかしい。インターネット情報をたれ流していれば良いものではないし、たれ流さなければ事は始まらぬのも確かなのだ。スタッフへの課題の出し方もどうやら良くない。私の方に工夫がない。私とスタッフ、チョイスした学生の関係をもっと楽しむ必要があるな。例えば、まだオムツの放れない道明クンの使い方だって、きっとある筈なのだ。何処か、はるか彼方の山のあなた方面に。道明みたいな阿呆がもっと自由にイキイキとなるようなキッカケがデザイン、すなわちモノつくりなんだろうというのは解ってきたのだが、その先の具体的な方法が皆目視えてこない。
 十五時埼京線指扇で朝山さん待ち合わせ。土地見学。野草咲き乱れる本当によい土地だった。その後朝山さんの実家見学。大黒柱がすばらしい。この古民家の部材が使えたら面白いプロジェクトになるだろう。彼女の考え方を聞いている内に早稲田バウハウススクールで学生達に何回か出題した「母の家」の課題に自分も対面していることに気付いた。夜南新宿でナーリさん(カンボジア)に教えられた台湾料理屋でいっぱいやった。面白く仕事ができそうな時はやっぱり嬉しい。

 六月十一日 つづき
 昼過ぎ元ゼミ生富井来室。東南アジアの旅を終えて、大学院入試の意向。奴は眼に力があって2年生の時から仲々良いと思っていたから世田谷村に来ることをすすめた。よい新人になるだろう。そういえば今朝菜園に上ったら百合の花が満開であった。そろそろ八車草の花は盛りを過ぎたな。盛夏の花を考えなくては。朝顔は陽差しが強すぎて干からびそうだ。陽陰を作ることを考えなくては。

 六月十一日
 朝学部講議。中国のコンペに参加する事にした。二五日に北京へ行く予定。
 昨日私のゼミ生の青木からメールが入っていて、私のメモを読み雄大と連絡をとりたいとの事。ヘェーあいつ学院のヨット部だったのか。懐かしい奴である。加藤しんじが社内で超大型新人だと。笑わせるネェ。あんな馬鹿がネェ。世間の質はだいぶ急落しているな。

 六月十日
 朝カシイよりJRで小倉へ。住宅供給公社へあいさつ。磯崎さんの図書館、西日本展示場その他北九州の仕事を見学。門司へ。正后サッポロビール工場跡地見学。門司港のアルド・ロッシ設計のホテル、レストランで野村、ゴンドー両氏と食事。福岡空港十六時過の便で東京へ。十九時八重洲富士屋ホテルロビーで台湾中原大学黄先生と会う。設計演習Gへの学生参加の意向を頂く。インターネット上の演習が可能になればこんなに楽な事はない。のだが、やってみなくては解らないのだ、こういう事は。案ずるよりも生むが易し。
 三日間の巡行の旅は終った。疲れた。

 六月九日 日曜日
 六時起床。昨夜は窓を開けて眠ったら寒いくらいだった。今日は宮本邸地鎮祭。
 昨日の浜島さんの家の計画はやりようによっては私の仕事の中では独特なものになるだろう。松崎町の倉の保存改修の仕事がこれが続いて初めて生きてくる。いつも偶然のようにして始まる仕事に一つの道筋を発見できたような気分になる時がささやかな喜びを得られてマア自己満足の極みである。いつかチャンスがあれば石山棟の改造をやってみたい。レム・コールハウス棟のうねる屋根越しに石山棟を眺めるたんびに頑張らなくちゃいけないと思ってしまうのがここの良さだ。ここで事務所を開設したのもその由縁である。
 八時四〇分ゴンドー君待ち合わせ。九時過藤崎現場。位置出し。縄張り。十時半頃終了。宮本一家も現場に来て、位置確認。近くで食事の後十四時地鎮祭。石山ゴンドー安藤野村列席。野村を宮本さんとの打合わせに残し引き上げる。四時過カシイ。休み。ゴンドー君と七時過長浜通り第八協進丸での会食を約す。暑さでチョッと疲れた。

 六月八日 土
 朝七時起床。おふくろが朝食を用意してくれて、腹ごしらえ。九時東京駅。九時半過ぎの新幹線で名古屋へ。名古屋から名鉄に乗り換えて本星崎へ。歩いて5分程の浜島さんの家へ。予想していたよりもずっと立派な民家だった。角にバラの花が咲いていて、二棟の築百年、七〇年の民家である。全部壊して新築してしまう案を用意していたのだが、これは誤りであるのを直観する。理屈ではない、本能的にこれは壊してはいけないというよりも、旧屋の増改築で考えた方が面白い仕事になることを確信した。良い民家だった。全く背のびしたところがなく、自然に生活そのものが家になっている風格があった。浜島さんのお祖父さんが大工仕事の心得があって、半農の仕事のかたわら作り上げたものらしい。
 浜島さんの御両親も立派な大庶民で飾り気もなく、正直な方々であった。大都市のサラリーマンにはないタイプだ。地下から三階まで一気に上る階段は年寄りには危なそうだが、見事なもので、おまけに途中にチョッとしたからくり仕掛けがあって一階から床を引き出して、階段をシャットアウトできるようになっているのだった。毛綱モン太と二人で実測した金沢市の妙立寺、忍者寺を思い出したりもした。天気も良く風が吹き抜けて実に居心地の良い空間なのだ。等身大の生活の工夫が集積したとでも言おうか。お母さんは仕切りに不便で、しかも大雨になると地下は浸水してしまうのだと、取り壊し新築を望むのだが、しばし待て、チョッと努力して保存改築案を考えてみるからと申し述べた。考えてみれば設計者が自分で考えた新築の案を、これは良くないから止めましょうと力説しているのだから、我ながらおかしい。しかし壊さずに作る案を作ってみる価値はあるのだ。
 十四時半、再プレゼンテーションを約し辞す。院生に実測させてみる必要があるだろう。笠寺駅より名古屋に戻り、十五時半過ののぞみで博多へ。只今、十七時過岡山である。十九時博多着。春吉橋のまめ丹へ。ここはいつ来ても美味。それにおばちゃんが実に良い。ネクサス・スティーブン・ホール棟泊。

 六月七日
 九時三〇分北海道十勝の後藤さん来室。十勝体験ツアーをオーガナイズしてみようという事になった。フィールド・カフェ+ヘレンケラー記念塔+ネパールのソバ屋さん+北の屋台+モール温泉の組み合わせで一泊二日というもの。七月十七、十八日に行う。後藤さんはいつ会っても明るく声もでかくて気持ちがイイ。  が、しかしヘレンケラー記念塔の宿泊施設はすぐにも建てたいとさいそくされてしまった。
 今朝、菜園に上ったら、ゆりの花が咲いていた。大輪の鬼ユリが沢山花を咲かせ、屋上は又一段と風趣が増した。誰かに自慢したいのだが、誰も相手にしてくれないだろう。
 昨夜石山研ウェブサイト、オープン・テック・ハウス及び世田谷村市場を予定通り、一新。まだ成熟したものではないが、とり敢えずは良いだろう。やらないよりはマシだ。明日から名古屋、福岡、北九州市巡行の旅である。
 十五時杉並渡辺邸。今日引越しなのだけれど、工事は残っている。住みながら手を入れさせていただく事にする。石山研究室院生総動員で仕上げクリーニングしていた。なんとかこのプロジェクト、すなわち素人でも家を作る事はできるのだ。は実践することが出来た。渡辺夫妻と元気な三人の子供たちに感謝したい。  屋上のデッキも気持ちよく出来ていた。やっぱりここへはハシゴじゃなくて上りたいね。

 六月六日
 昨夜来小雨が降ったらしい。屋上菜園の土がぬれていた。今日は埼玉市で家を建てたい人が面会に来るので楽しみだ。十二時明治通りコンバージョンプロジェクトで来客。十五時半、朝山さん等来室。家を建てたいという中身をうかがう。好人物でこちらが恐縮してしまうような人であった。こういうひとは裏切れない。朝昼抜きで腹ペコペコで十七時おにぎり2ケ食う。
 時代はまわる。昔、秋葉原感覚で住宅を考えるを出した時、沢山の人間が私の事務所に押しかけてきた。年間百五〇組くらいの依頼、相談に乗った記憶がある。一九八〇年代の謂わゆるバブル期、それはパッタリ途絶えた。合理的な値段で家を作ろうなんて人はいなくなったからだ。家土地は投企的意味合いを強めた。バブル経済が崩壊し、今二〇〇二年静かなペースではあるが再び依頼相談の件数が増えつつある。再び静かな時代になったからだ。私はズーッと同じことを言い続けている。時代が勝手にまわるだけなのだ。

 六月五日
 今日から家内がアメリカ在の長女に会いにゆくため一週間程の旅をする。長女徳子のPh.D取得のお祝の会がニュージャージーで開かれるので、それに出席するため。
 朝心配になって杉並現場へ。案の定色んなボロが出ていて何点か指示。テラスと一階の広い部屋の関係はうまくいっている。しばらくはこの感じで続けてゆこう。車で現場に行く道すがら長男雄大と四方山話。少しはしっかりした考えを持ち始めたようだ。プロセスはともかく将来は自分で何かをやってみようという意志があるようだ。体育会系のヨット部でだいぶんもまれたな。良い先輩方も多いようでマア良かったのではないだろうか。
 十五時二川幸夫来室。演習G。バウハウスのツィンマーマン教授から正式に演習Gへのアテンドの意向が届いた。
 二川幸夫「君も良くインターネットに色々書くね、何故あんなことするの。」しかし、こればかりはね、いかに二川さんといえども、俺は止めないの。このメモはもう呼吸するみたいになってきてるから。

 六月四日 つづき
 十七時五反田TOC・TOMOコーポレーションで2M×3Mの曼陀羅を見る。世界中の民芸品その他を販売している会社で、アジア各地で見かけるおみやげ物としての民芸品はあらかた扱っているようだ。面白い商売があるものだ。カトマンドゥで売っている手描き風カレンダーは皆この会社のデザインであるらしい。先年宮崎のアフリカ屋という民芸屋でフィリピン製のアフリカ家具をつかまされた事があり、この世界の品物の流通が極めて歪んだものになっているのを知った。ここTOCでは更にそれが歴然と理解できる。世界中のありとあらゆるその土地の民芸品らしきは何処で作られているかわからない。

 六月四日
 朝菜園に生ゴミ埋める。昨夜は何故か眠れず。頭がボーッとしている。
 午前中学部講議。サクラダファミリア教会の職人達、ワッツタワーの事。学部二年生にはモノを作る面白さ、スピリッツというような事も時に話さなければならないのではないかと思いそうしたが、最前列で眠ってる失礼な奴がいた。眠るなら外に出て眠れと怒鳴った。本当どれくらいイヤな感じなのか解ろうともしないな。こういう蚊とんぼは。増々学生達の蚊とんぼ化現象は進行しつつある。
♪昼焼け小焼けのアー蚊とんぼ、眠って見たのはいつの日か♪
ゲーテに恥ずかしい、我ながら。私の詩心なんてこんなもんです。
 午後博士過程三人相談。十六時大学出。五反田トモコーポレーションへ。先日バンコクでぱったり会った友岡社長のマンダラを実見させていただく。この曼陀羅は聖徳寺観音堂に掛けられるものだ。
 明治通りコンバージョンで学生、留学生の入居者募集、アンケート収集を開始する。インターネットに情報公開することにした。野村が珍しく動いている。よろしい。

 六月三日
 朝地下で全体のミーティング。全体のミーティングは意味がないからもうやらないというミーティング。石山研の小史を述べて今がいかに危機的状況なのかを知らせた。要するに私が居なけりゃしょうがない集団なのだから、もっと歴然とそうするぞと宣言したのだ。全体は私だけが知れば良い。サークル(同好会)状態なんだよな。建築同好会的心情の持主達にサークル状態から抜け出せと言っても仕方ない事なのは充分に承知してはいるのだが、ついつい言ってしまうのだね。無駄と知りながら。これが教師になってしまう危険さなんだろうが。九州研究所の野村悦子を本格的に設計作業に組み入れる事にする。学者オタクでもまだアレにはいいところがあるからな。
 十八時日経原稿入れた。鈴木博之さん関係のモノも完了に近づいている。一本完了させなくちゃ面目なくて電話もできないよ。我ながら気が小さい。
 ノロマの野本にウィリアム・モリスの壁紙を真似たカーテン布地をつくるように指示する。ノロマにも出来る事はあるに違いないのだ。と思いたい。入江長八もモリスの版木みたいな工夫で塗壁を作っていたんだからなあ。
 世田谷村市場の照明器具には皆さんの反応が速い。サッカーワールドカップを時々TVで視るが、アルゼンチン、イタリア等のスピード、テクニックは桁が違うな。恐らく日本は予選リーグでも一勝も出来ないだろう。選手が発散するエネルギーというかオーラみたいなものの格が違うような気がする。瞬発力に欠けるよね日本人は色んな意味で。ゲーテはナポリでなかなか動こうとしない。

 六月二日 日曜日
 屋上菜園の八車草が花盛りで我ながら見事である。種から育てたので非常に親愛感を覚える。植物鉱物は人間とちがって裏切らないのが良い。人間はやっかいな生きモノだ。夕方杉並渡辺邸現場。大方仕上がっていたが細部に諸々の問題が残っている。しかしこの現場作業から院生は様々な事を学んだだろう。それをどう生かせるのかが彼等にとっては最大の試練だろう。

 六月一日 土曜日
 大学院補講十時から十二時過まで。転形期の建築について。俊重坊重源の建築を介して。毎年この講義に関しては我ながら力が入ってしまうな。キャンパスは休みで学生もわざわざ聞きにくるのだから私もついつい乗ってしまうのだ。
 ゲーテはようやくにして長いローマ滞在を後にしてナポリに向かった。
 午後講評会。久しぶりに教師達と食事する。

2002 年5月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
サイト・インデックス

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory ,1996-2002 all rights reserved
SINCE 8/8/'96