石山修武 世田谷村日記 |
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石山修武 世田谷村日記 PDF 版 |
2002年5月の世田谷村日記 |
四月三十日 |
昨日私のワークショップの卒業生である大工の市根井君が椅子を作って持ってきてくれた。受賞のお祝にという事らしい。生憎屋上で生ゴミの仕事中だったので話しが出来なかったが誠に嬉しい事だ。広島の木本君とも連絡を取らねばならないのだが、聖徳寺設計の進行状況が思わしくないので、正式な発注ができない。ドアハンドルから先ずやってもらおうかな。コロニア・グエルと勝負してやろう、てんだから大変なんだ。連休中に一度べーシーに行けるか。まず無理だな。 十時前学校へ。行ってみて驚いた。全学休みになっているとの事。テヤンデー、俺はやるよ講議は、という訳で学部二年生の住宅論の第一講。受講者は四名の大学院生のみ。四〇分住宅論の概論をやった。何で大学はゴールデンウィークの中日を休みにするんだ。馬鹿ヤロー。学生の休みの事情なんか関係ネェーだろう。午後雑用。学生相談数件。中国旅行のスライド現像仕上がる。もう随分昔の事のように想ってしまうから不思議だ。たった九日間の旅だったけれど場面が目まぐるしく変化していたな。佐藤健の気持の揺れのように。 十九時αインターネット社長若松氏来室。その後会食。この人の良さはどんな時にもめげない事だ。大いに気炎を上げていた。十二時前帰宅。
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四月二九日 |
午前中屋上菜園の手入レ。昨日植えた朝顔がもうツルを棒に巻き付けようとしている。西洋朝顔の生命力は凄いもんだな。頑張れ和風朝顔。午後、ベーシー菅原正二、坂田明、結城登美雄と電話で話す。坂田明は無事退院したらしい。見舞いに行ってみようか。夜、NHKTVの樹海特集に出てやがんの。倒れた奴がピンピンで映像に写ってる。現代だね。日経連載コラム書く。「唐桑臨海劇場」一九八八年から数年間のアノ体験はそろそろ客観的に書きとめておく時期になったのかも知れない。
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四月二八日 日曜日 |
連休中の地下室メンバーのスケジュールを昨夜決めた。本当は休みを休むようじゃ見込みはないんだけれど、だって設計なんて面白くって毎日が休日みたいなもんじゃないの。設計デザインは高度で複雑な遊びなんだよ。 烏山センターで園芸市が開かれていて行ってみる。レモンの木、しそ、バジル、朝顔、にがうり等沢山買い込んで来た。昼前屋上に早速植える。午後杉並渡辺邸現場へ、今日も沢山の見学体験者の参加があった。不思議だねこういう動きは。皆何を求めようとしているのかな。二日目という事もあったのだろう。参加者が昨日より自然に現場にとけ込んでいた。子供達、自分のコーナー作りにいそしんでいた。仲々いいぞ。フジTVの女性が一人でカメラを振りまわして頑張っているが、私は関係ない。なるべく写らない様に逃げた。イヤなものはイヤなのだ。WBワークショップの学生達がだいぶ来ていたようだ。 静かでおだやかな夕暮れ。世田谷村の3階からの眺めは典型的な世田谷区の住宅地の風景なのだろうが、こういうところからどんな新しい抒情や、それに裏付けられた哲学思想が生まれるのだろうか。生み得るのか。自信ネェーよ。旅に病んで夢は枯野をかけ巡る。芭蕉の句だが、佐藤健の今はそんなところだろう。阿弥陀の道第四回今日掲載されていて読むも、少しばかり文章に乱れがあり心配だ。 こんなおだやかな夕暮れに、底知れぬ絶望と闘っている人間達がいる。
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四月二七日 |
世間は今日から連休に入るらしい。朝八時屋上菜園に上がり生ゴミを埋める。風がチョット冷たい。今日は本を読む時間がありそうだ。十一時過杉並渡辺邸現場へ。今日は現場見学会で参観者が三〇名弱集まっている。人数が多過ぎて二日に分けたらしい。明日も又、三〇名程の参加者があるようだ。見学に集まった学生達には庭のテラスの基礎を作る穴掘りをしてもらった。皆一生懸命やっていた。福井から学生が来ていたのは驚いた。藤塚から山本夏彦さんが入院していて、つい最近退院したのを聞く。周りが皆バタバタ倒れてゆく感がある。他は大丈夫なんだろうな。夜檜垣と食事。これからのことを話す。 そうだN棟の二軍を現場に駆り出そう。
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四月二六日 |
七時半起床。今日は九時半から大学会議に始まりズーッと大学で雑用。夜は唐桑町の佐藤和則町長と会食の予定。午前大学院講議。午後GA杉田インタヴュー。杉田は成長したな。M1ミーティング。丹羽平山とホームページの相談。Mrツィンマーマン、バウハウス大学長と電話で、これからのバウハウス大学とのコラボレーションに関して話す。もちろん前向きにやってゆく。グライダーとも話ししなければならないのは勿論の事だ。夕方明和会会長来室。明治通りコンヴァージョンの件。フジTVより渡辺邸取材の依頼あり、私は嫌だが渡辺さんの判断にお任せしよう。TVは、得に民放は何が映し出されても馬鹿馬鹿しく視えてしまうような気がするから嫌いだ。と言って時折馬鹿面してそれを見ている自分も居るのだけれどね。 二〇時過 佐藤和則唐桑町長と会う。気仙沼市との合併問題で頭を痛めている最中だ。ワザワザ会いに来てくれたらしい。光栄である。八十八年唐桑臨海劇場以来の附き合いであるが、日本の田舎の困難さをかいくぐりながら彼は一まわり大きくなった。私みたいな単なるインテリゲンちゃんとは違う現実と対面し続けているからだ。久し振りに良い酒を飲んだ。二十四時頃世田谷村に帰る。唐桑を久し振りに訪ねてみたい気がするね。唐桑で八十八年から四年間やった劇場作りを中心とした運動を振り返ってみれば、不良青年、不良中年達のレジスタンスだったんだと思う。そこで養われた気分が町長になっても和則に単純に合併に走らせぬ何ものかを養わせたのである。
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四月二五日 |
「世田谷村市場」 椅子、子供コーナー、ゴミ箱、食器、シンク、台所収納、床下収納、収納BOX、棚等の生活用品@ 住宅の架構、ヘイ、門、インターフォン、郵便受、等の生活用品A 開放系技術のすすめ。 ガイドブック作り。と平行して進める。 世田谷村新聞はホームページからの要約で有料。 世田谷村市場はホームページで生活用品の情報と販売。 世田谷村日記は石山の考え方の展開を知ってもらうための道具、というコミュニケーションの系をデザインする。 午前中渡辺さん夫妻来村。杉並の家の細かなつめを打ち合わせる。屋上菜園に生ゴミを埋め、しばしの休息。二三時まで打合わせ。開放系技術の考え方による住宅(オープン・テック・ハウス)の展開が少しづつ進んでいるのが救いだ。
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四月二四日 |
昼前世田谷村菜園に上る。花咲き乱れていた。イチゴも実っていた。さやえんどうも採れた。夜まで打ち合わせ。聖徳寺霊園計画やはり全部自分ですすめなければ駄目そうだ。夜聖徳寺打ち合わせ西調布へ。 杉並渡辺邸見学体験会沢山の人が集まってくれそうで良かった。ひろしまハウスプノンペン・レンガ積みツアーの申し込みも順調なようだ。インターネットは情報の流れを変えつつある。次女友美カルマンギアー2シートの真赤なスポーツカーを何処からか入手してしまった。図々しいやつだ。世田谷村はいつの間にか車が四台になった。グランド・フロアーの考え方を変えなければならないなコレでは。世田谷村市場の野菜シリーズは面白く展開できるかも知れない。照明器具マスカットはあっという間に売れてしまった。と言ってもたった三つだけだけれど。たった3つだけの商品なんだから。そして三つしか作らない商品でもある。この野菜市場を先ず三〇商品までそろえてみる。それから先の方針はその結果を見てから決めれば良いだろう。
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四月二三日 |
五時二〇分起床。六時食事。佐藤健平熱に戻る。体の芯は強いのだ。日経新聞にFAX入れ直す。坂田明脳出血で入院スの報がベーシーの菅原から入ったらしい。バタバタいくな同世代が。大同市からの最後の一枚が着いていなかった。八時大原空港より北京へ飛ぶ。九時北京着。十四時五〇分まで時間をつぶさねばならない。念のため空港より再FAX。コーヒーショップでボーっと過す。つぶす時間がある内が花なのだろうな。人間には休息が何故必要なのだろうか。眠い。これからのプログラムを確認しようと思っても、眠くて出来ない。健さんは一人で買い物に歩ける位にはなった。十五時離陸。中国では良く学べた。何よりも佐藤健の旅に同行出来たのが良かった。生老病死は逃がれられぬ宿命だが、毎時毎日毎週毎月毎年を停止する事なく、ゆっくりと歩き続けたいものだ。 世田谷村日記をもっと充実させる事からプログラムを組み直す。佐藤健との敦煌その他、西域の旅で学んだのは、一日一日をことさらに観念的にもならず、センチメンタルな心情からも逃げまくり、しかも淡々としてやってゆくことの大事さだ。その事を突きつめれば、日々の暮らしを深化させる努力を続けるという事で日記を付けるように考えを拡張し、また同時に集中させる事でもあろうか。つまり日記を付けるように建築を作り、いろいろな身の廻りのモノを作り、スケッチをして、絵を書くということだろう。日々の生活が深まってゆく事が意識できれば、それがいつ中断されても、それ程に無念な事ではあるまい。機内の日本の新聞を読んでいたら、つい先だって佐賀で書いた「未完の芸術」ガウディ論が掲載されている雑誌ナレッジ「HOME」の広告が出ていた。 すでに日本上空である。
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四月二二日 |
旅のおわりの日である。昨夜は髪を洗い、たっぷりと風呂に入ったので熟睡した。七時十五分起床。 私には農業農村の問題に取り組む時間が残っていない。陸海にやらせるのか、高木か。アジアの農村の諸問題に関して誰か弟子を取り組ませたい。M1にチームを作らせるのが最善だろうが人材がいない。誰も農業って顔してない。これからは農業なのに。 十九時HOTELに戻る。佐藤健発熱。明日はどうしても日本に連れて帰る。弱くなった姿を見せたくない意地は解るが、弱くなったママで良いのだから無理しないで欲しい。こんな健を見るのは初めてで俺も動テンしかねない。冷静な判断が必要だ。何しろ明日はどうしたって日本に連れて戻る。こちらの病院になんか残せない。時間がバラバラに混乱しているが、朝九時HOTEL出発。玄中寺へ。車で一時間二〇分程の行程。国営緑化公園中の静かなたたずまい。建築はよろしく無いが、ボタンの花が咲いていた。僧侶にインタビュー中に健が寒い、悪寒がすると言い出して、彼一人ガイドがついてHOTELに帰る。心配な予感が現実となる。十七時ドライバーが玄中寺に戻り私と滝カメラマンをピックアップ、HOTELに戻る。健さんはとりあえず無事であった。明日はどうなる事か予断を許さない。滝氏ガイドの 蘆明東さんと旅の終わりの食事。健さんはHOTELに残った。これが健さんとの最後の旅になるのかも知れない。今更ながら、老いる事の困難さを痛感する旅であった。明日はモーニングコール五時三〇分朝食六時。八時の便で北京へ。そして帰国の予定。何しろ佐藤健を無事に日本まで連れて帰る事が一番だ。突然禁煙を決意する。が、今迄に何回決意した事か。我身の愚かさを知るばかりだ。世田谷村の屋上菜園はどうなっているのだろうか。帰りの飛行機ではこれからの計画を少し整理する必要があるな。二三時十五分入浴混乱しかねない頭をスッキリさせよう。
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四月二一日 日曜日 |
六時五〇分起床。荷造りをする。今朝は雲岡石窟見学。それに昨日見つけた懸崖造の寺にできれば行きたい。旅に出て一週間目。酒も呑まず淡々としてやっている。自業自得明王とあの世の名まで上山学長につけられてしまった健のこの後はどうなるのだろうか。帰ったら昭道と相談してみよう。方法的な交友関係にしないと俺も気持ちが平穏でいられない。感傷は禁物である。大同市は石炭のまちだ。黄砂が吹いて空は真黄色。陽もうすい。この町の将来もしんどいのだろう。一次産業は辛いのだ。 朝食時に相談してみたらあの懸崖造りの寺はとても今日一日では無理らしい。五台山にあるとの事。今回はあきらめよう。又アレを訪ねる機会があれば良いのだが。五月末のカンボジア行きの帰りに寄ってみるか。朝食後雲岡石窟へ。市内から三〇分程のところ。 車を降りて、遠くに敦煌莫高窟と似たガケの連鎖とカケ屋が見える。参道はおみやげ物屋で一杯だ。佐藤健今日も完全に行程をこなそうとしている。意地だろう。全四十五窟を巡るのはそんなに困難ではなさそうだ。先ず東部の一〜四窟へ。初めに入った四窟が良かった。一、ニ窟を早足で見る。主要な五、六窟は人が多くてゆっくり見る事ができない。しかし見事なものだった。アジャンタの仏教窟と時代は同じ頃か。帰国したら調べ直してみたい。余りにも有名な二〇窟には少々失望した。しかしこの二〇窟は私の大学院時代の恩師である田辺泰先生が伊藤忠太と共にシルクロードの旅をした時に立ち寄った写真を何かで見たか、見せられたか、した記憶が鮮明にあり、どうしても訪ねたかったモノであった。雲岡石窟群については又後に記したい。 昼食後、太原に向けて走る。昨日の強烈な農村の印象もあり、滝毎日新聞カメラマンどうしても農民のインタビューをとりたいと言う。私も中国山西省の百姓の話は聞いてみたかった。二度程ストップして百姓達の撮影とインタビュー。凄く面白かった。面白いというよりもショックだった。これもいずれ記してみたい。今すぐには考えがまとまりようにない。石炭坑の村の写真も二ケ所で取材して、太原に着いたのが十九時過。佐藤健のつき合いで地図を買ったりして山西大酒店にチェックイン。 佐藤健体力の限界に達していたようで、イラついている。今日は最高気温二十九度だったらしく疲れたのだろう。夕食はおかゆ屋へ行った。おかゆ屋で健が爆発。そりゃそうだろう肝臓癌で死と対面している健さんと、どうしたってそれを身体的に実感し得ぬ我々、つまり滝カメラマンと私とでは会話の切迫感が違ってしまうのは仕方ない事なのだ。この旅で健さんはかろうじての超低空飛行を続けている。その低空飛行振りを解りながらも、つまり佐藤健は今現在突極の試練と対面しているのだ。というのは頭で理解し、対応し得ていても身体、感覚は対応できない。共に悲しみ共に苦しむ事ができぬ。釈迦の慈悲など到底こちらには及ばぬ現実の只中なのだ。俺はまだ良いのだ。毎晩同室でいる滝カメラマンの大変さは異常であろう。俺は一人になれるから。率直に言えば佐藤健の頭の中は自らの身体の事で一杯なのであろう。死との対面まで当然考えているに違いない。敦煌雲岡どころではないのだ。しかしその絶対的現実にどう対応すれば良いのか皆目わからぬ。とても私の手に負える問題ではないのだ。アト一日である。何とかやってみよう。センチメンタリズムとエエカッコシーだけは避けなければ。しかも正直過ぎてもいけない。最低限誠実な演技力が必要なのだ。佐藤健の辛さと比べればこんな事はどおって事ない。しかし辛いぜコレワ。面と向かって「自殺するよ俺は」なんて言われてみろ。どんな言葉を返せば良いのだ。 俺もいづれこんな事になるのだろうが、出来得ればそんな時は一人に引き込もりたい。あがいている健を見ているとそう思う。しかし出来るかなー。出来ネェよ。明日一日佐藤健の気持ちが平穏であるように祈る。
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四月二〇日 |
六時起床。三〇分荷物造り。食事へ。定例の三人で朝食。佐藤健の池尻での生活の一日の話、及び永六輔淀川長治チャップリンの逸話なども聞きながら、今日も旅の一日が始まった。昨夜東京よりFAX入って佐藤滋日本建築学会副会長当選の報その他。良かった。私もかろうじて義務を果した。早稲田への義務はもうこれ位で良かろう。アトは鈴木だ。薄日が差してきて天気は良くなる模様。しかしこのHOTELの大きなアトリウム空間は良くない。こんなに広大な土地に何故高いビル建てなければならんのか。西安中四、五階建てに押えれば良かったのに。人間の都市ができたのに。少なく共、城壁内はそうすべきであった。チャンスはあった筈だ。中国は愚かに急ぎ過ぎている。 八時半西安空港着。九時半発大東行の飛行機は待てど暮せど来ない。十一時半発くらいになるだろうとの事だが、アテになるまい。今迄が順調に行き過ぎてきたのだ。やっと中国らしくなってきたな。ジタバタしないで待つしかない。十一時ようやく故障を直して出発できる模様。滑走路上で随分待たされた。無事飛ぶことを祈る。今、離陸した。大原までは五十五分のフライト。中国西北部を飛んでいるのだが意外に大地にディテールがあるんで驚いた。中国ってのはこちらの勝手な思い込みで大平野の連続というイメージがあったから。 北京の人民大会堂を訪ねた時巨大な部屋に毛沢東が八八だったかの少数民族の人々とともに旗を振って前進している絵があった。中国の指導者は皆自国内の少数民族、つまりマイノリティーの扱い次第では中国という国家は瓦解する可能性があるのを知り抜いていたのだ。十一時五五分下降を始めた。なんとか無事に飛べたようだ。しかし古い飛行機のエンジン部は手で直せるのかね。私の眼に狂いがなければ先程滑走路上で修理していた後部エンジン排気部はエクゾーストガスの流れをコントロールする部品が完全に取り外されていたから、機体の主要部分に故障があったわけで、普通考えれば人間が四、五人よってたかって手で直せるものではない筈だ。古い小型ジェット機は手で直せるように作られているのかな。ともあれ小型ジェット機(二〇数名乗っている)は今のところ実に安定して飛んでいる。意外だ。十二時只今、アト十分で大原飛行場に着陸するとのアナウンスがあった。農村集落はえらく近代的なマスタープランで人為的なコミュニティ単位になっている。人民公社の名残りか。只今、二一時十五分大同市雲岡大賓館のHOTELに戻ったところ。夕食は火鍋料理。レストランは若い工員で一杯だった。 今日の午後はこの旅で一番ショックだった。山西省第一の都市大東市から第二の都市大同まで四〇〇KM程を五時間チョッとで走り抜けた。車から眺めただけの風景に過ぎなかったが農村は廃虚同然に荒涼としていた。黄砂舞う中でモヤの中に農民が動物同様に立ちすくんでいる風があった。西安、上海の狂騒は何なのか。こんな農村の廃虚振りと立替えに中国は幾つかの都市の狂騒を手中にしているのか。走る車の中で言葉を失った。大地の乾き切った泥を素手で耕そうとする百姓。上海の超高層ビルの馬鹿騒ぎ。その距離は余りにも遠い。現代中国の絶対矛盾。中国石炭発掘の70%を占める地域らしく沿道は石炭の掘り出しが盛んで、その黒ずんだ風景が荒涼たる風を倍増している。風もビョービョーたる吹き方をして、風立ちぬ、なんてセンチメンタリズムの差し込む余地もない。宮沢賢治が中国の農村風景を見ていたら、彼はアレラの詩を書いただろうか。他人の国の事ながら私は久し振りに冷く怒った。こんな大矛盾を眼の当たりにして、建築だけを考えられる筈がない。と思った途端にHOTELの案内書にはさんであった絵葉書の一枚に仰天。恒山懸空寺名の寺院は三仏寺の投入堂そのもの、否三仏寺を二〇倍くらいスケールアップしたものではないか。初めて知った。もし時間が許せば明日見たいものだ。世界は広い。大同まで来て良かった。大問題も面白いが、建築という小問題もそれはそれで仲々に面白いのである。困ったもんだね。〇時四〇分、日経連載コラム、書き終える。中国・都市・農村とした。さあ寝よう。明朝は七時三〇分朝食だ。全く軍隊みたいな日々だ。しかし色んな事を考えることができて良い。ありがたい。
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四月十九日 |
上山大峻、杉浦康平両氏を送るため早朝五時四十分起床。彼等は今日北京へ発つ。たった四日御一緒しただけだったが親しくなれて良かった。敦煌までやってきた功徳だろう。時間が少しあるので世田谷村日記をチェックする。この日記も情けないことに世田谷村を出て旅にいる方が量が書けている。普段の生活に細部を見ようと思って始めた事だが、やっぱり旅には敵わないか。屋上菜園のディテールを書くのは敦煌書くのよりも面白い筈なんだけれど、まだ力が無いんだな。七時過上山杉浦両氏を見送る。残るは病人と介護人二人。阿弥陀の道を巡るどんづまりの旅である。体調は良い様な気がするのだけれど本当のところはどうなのかは知らぬ。今日日経の連載コラム書かねばならないか。一応毎日新聞隊の一員で来ているので、敦煌のことは書かぬのが仁義かと思うが、かと言って他に何を書けば良いのか。あんまり考えずに先ず朝食だ。7階から見る西安の風景は大気の状態も都市の状態も極めて悪い。八時朝食。佐藤、滝と三名で。今日も一日淡々として暮そう。午前中香積寺とやらに行くらしい。香積寺は浄土宗法然の源になる寺であるとの事。偉い人が二人去った。少し自分勝手にスケッチ三昧してみたい。滝カメラマンの人生ってのも興味津々になってきたな。三十半端くらいかと思っていたら、すでに五三才なんだって。良く佐藤健と附合っているよね。 九時HOTEL発香積寺へ。西安県つまり郊外のひなびた寺で、ミニ大雁塔がシンボルだ。周辺は中国農村の面影を残しており、のんびりとして気持ちよい。佐藤健住職の繹存昌氏インタビュー。この寺は法然の浄土宗ゆかりの寺で善導師が興した。善導香積寺と呼ばれる由縁だ。浄土宗はここから起きたと言って良い。梧桐子(ウートンス)の樹の花が満開であった。繹住職も若い人であったが柔和で大きな人柄を感じさせた。スケッチをして気分も和んだ。次第に建築のスケッチよりも人間の方が面白くなって困りものだ。帰路、道沿いのレンガ工場の写真を数点撮影。中国の大地の力を感じた。土は面白そうだ。大雁塔に寄り、青龍寺へ。空海が恵果に出会った寺だが、今は寺は阿弥陀が幅を利かせている。密教の寺の筈なのにおかしいな。昼食後ショッピング少々。日本人向けのイヤな店に連れていかれ、案の定佐藤健爆発。中国人店員の態度が余りにも悪過ぎた。中国の旅行社より店に抗議させて、結局夕方態度の悪い店員とマネージャーがHOTELに謝罪に来た。これ位やった方がイイのだ。ヒスイの指輪なんか謝罪の印ですとか言って持って来て、佐藤健突き返し、受取らず。当然である。いたる所で現代中国人の金権体質を見せつけられて本当に嫌になってしまう。中国人は全く金だけが好きになってしまったようだ。 夕方西安中心街の回教人、つまりイスラム教徒街のバザールをひやかす。ここは商売が健全に働いている。中国の少数民族は信頼するに値するな。晩飯は火鍋料理でこれはおいしかった。食事の後回教徒のバザールを再び訪ねる。近代化された中国の商行為の質は倫理的水準が極めて低い。イスラム教徒及び少数民族の力を信じよう。漢民族主体のシステムははなはだしく危険なのだ。佐藤健ようやく気嫌が直ってHOTELに帰る。十時過、洗濯物をたたんでパッケージする。疲れて風呂も使わずに休むつもり。もう西安はヨイ。居たくない。俺はやっぱり田舎者なんだな。土の匂いと草が無いと息苦しいのだ。年々、それが解ってくる。
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四月十八日 |
朝六時起床。折角持ってきた東山健吾著敦煌三大石窟読もうとする。上山大峻、劉永増敦煌研究所員の会話中に東山氏の名が良く出ていたのを思い出す。昨夜予定されていた上山杉浦石山の敦煌対談は落日の撮影その他で中止となり、後日京都でという事になった。内心ホッとした。杉浦さんのアジア図像学上山さんの敦煌学に対して何を持って立ち向かえば良いのか見当もつかなかったからだ。かと言って少し計り延期されただけの事で、まことに気が重い。鈴木博之とジョサイア・コンドルと近代日本について対談せよと言われたら誰だって逃げるだろう。敦煌くんだりまでノコノコ出かけて来てしまった自分を悔やむしかない。しかし莫高窟大仏前で三人一緒の対談用の写真までとられてしまったから、日本に帰っても絶対逃げられないぜこれは。その仕掛人の佐藤健はと言えばヨロヨロしながらも今のところ全行程に附合っている。莫高窟の急な階段もこなしたし、三危山の中腹へも登った。並の気力じゃない。鬼気迫ると言うのが本当なのだろうが、佐藤健の場合は、それが笑いになっているのが凄いと思う。昨夜も中国茶を飲みに行って、店の者に何種類かの茶を飲まされた。雪茶、ウーロン茶、その他の茶だ。どのお茶が一番好きですかの問いに「僕の小学校の時に好きだった女の子がお雪ちゃ(茶)ん」だって。駄洒落を文章にするとこんなに下らないものか。そんな洒落敦煌まで来て通訳付きで中国人の若い娘に言ってる場合じゃないだろうと思うのだが、やっぱり笑えるよね。これが佐藤健が一生賭けて辿り着いた境地なんだろうと考えてしまった。誠に俺は甘い。 朝食後鳴沙山へ。登らなかったけれど絵葉書みたいに美しい大砂丘だった。月牙泉を巡りのんびりする。昼食後ついでのつもりで敦煌魏晋墓に寄る。何年か前に発掘された古墳で約千七〇〇年昔のものと言うから、日本では当然古代。この時代の日本にはロクな遺跡はない。最近一般公開されたそうで扉を開けてもらい中に降りてみて驚いた。三層分くらいの高さに掘られていてそこに実に堂々たる建築が埋められているではないか。黒レンガ赤レンガの構成も素晴らしく又構造的にも実に堅固に作られている。玄室は寄棟がゆるやかにムクリを見せ、天井の中心には絵が描かれている。玄室への入口はしっかりしたアーチだ。 二つの墳墓共に見事としか言い様のない構成デザインで圧倒された。AD 三〇〇年頃のものらしい。何故こんな素晴しい建築技術を持っていた民族が敦厚莫高窟にこれを引継げなかったのだろうか。良く考えてみれば土中と言うよりも砂礫中にレンガ積みで建築を作る方が、同様に石窟を掘り、左官で塗り固めるよりも困難で良質な技術の使い方だ。莫高窟は明らかにこの墳墓よりも建築技術の水準は低いのである。何故この墳墓のように地中に建築を建てなかったのか。 恐らく金銭的な問題があったのではないか。莫高窟は私的な寄進の連続で作られた群れだ。国家的事業ではない。投入される金には一定の限度があった。その配分は大まかに絵師、左官、荒彫り職人、足場掛け、差し掛け屋根職人(大工)の順序だったのではあるまいか。絵師に投入される金が膨大で、それでレンガ積みの建築を地中に作れなかった。この墳墓を見る限り敦煌には建築を作る技術は充二分にあった。 それはとも角、凄いモノを見せて頂いた。敦煌を考えるのには墓が何かしら大事だとの予感は的中した。 五時二〇分の中国民航で西安へ。敦煌は最後の墳墓が圧巻であった。地中の建築について色んなアイデアを手中にできた。大地に関して考える事が多くなっていて、又仕事も墓や寺を手掛けているので、自然にそうならざるを得ない。窓の外は黄砂なのだろうか、薄曇りで下界は何にも見えない。 墓の事克明に調べ抜いたら面白いだろうに。無茶苦茶面白いぜよ全く。残念ながら俺にはもうそんな遠廻りしている時間が無い。ありとあらゆる建築の父は墓で、母は住居だろう。誰かそんな巨大な地中住居=墓を発注してくれないか。今なら出来るんだけれどなあ。飛行機は西安に向けて降下を始めた。西安は秦始皇帝の墓の近くに作られた都市である。 十九時二五分西安空港着。三日前に泊まった長安城堡大酒店泊。九時三〇分からの夕食は西安名物のギョーザ。多分何年も前に来たことがあるギョーザ屋の筈なんだが、余りにも都市の姿が変わってしまったので記憶が失くなってしまった。みやげ物売りの人間が多くなって、しかもしつこい。観光バスが大量に押し寄せて再び西安は国際都市になり、同時に西安は崩壊しているような気がする。六〇年代の東京の変転がもっと急速に起きているのだ。大気の汚染もはなはだしい。
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四月十七日 |
昨夜は二二時前に寝た。今朝六時三〇分まで眠る。この旅で初めて眠れた気がする。室内日経共にゲラが送られてくる。便利になればなる程に大谷探検隊の苦労と彼等が見たものが気になる。七時半食事。八時半HOTEL発。敦煌へ。第十六、七窟その他を見学。阿弥陀図像のある窟を三ツ程巡る。昼莫高窟に対面する三危山に登り全景を眺める。ミャンマーのパガン以来の荒涼たる風景で気持ちが和む。午後は再び敦煌研究院劉永増氏の案内で幾つもの窟を巡る。どれがどれやら記憶はすでに錯乱している。 敦煌に来て莫高窟を実見してわかったこと。 一.これはアースワーク。つまり地球の特別な一点になされた絵画的作業である。 ニ.建築として体験しようとするとかなりルーズなもので、洞穴に建築的概念が彫られたものではない。洞穴はただただ壁画用の天井、壁として彫られたものだ。つまり最初から絵画の収蔵庫としてだけ考えられていた。その意味では莫高窟の沢山の穴は、コンピュータであり、それの集積である。空間は消えている。洞窟は無数の仏教的意味(イコン)のネットワークである。 三.絵画の下地は分厚い左官工事である。莫高窟は卑弱で、それ故に彫りやすい崖を左官工事で厚化粧したものだ。左官工事は水が命であり、それ故にオアシスの河の流れが命綱でもあったろう。 四.建築として唯一面白いのは、全ての木造部分が差し掛けででつくられていて、その一部は宗の時代のものである事。約一〇〇〇年前の宗の建築様式が実見できること。日本建築で例えれば三仏寺の投入堂が群立しているのである。それ故に一に戻り、漠高窟はアースワーク、つまり大地に仮留めされた建築群でもある。工事中、制作中の漠高窟には木造の足場が林立し、差し掛けの堂とあいまって巨大で独特な風景を出現させていただろう。全山足場と差し掛け屋根ばかりという、特異な風景だったに違いない。彫刻としての仏像その他はルーズなもので、絵師の下地造りの意味しか与えられていなかったのではないか。 夕方、敦煌の外れの田舎屋風レストラン、日本で言えば民芸レストランで食事。一九〇七年の敦煌の写真が掛けられていた。スタインが撮ったものだと劉さんが言う。ヘェー。ホテルに戻り、町へ散歩に出る。杉浦さん等と中国茶飲んで健は足のマッサージへ、我々はみやげ物屋をひやかして二一時過ホテルに戻る。丸二日振りに熱い風呂に入り、洗髪する。二三時過ぎ寝る。敦煌学というものがあるらしく、平山画伯が権勢を振るっているらしい。漠高窟の前には竹下登元首相がODAで寄付した日建設計による博物館もあった。今日はスケッチを一枚できたのが良かった。莫高窟の懸崖造りを描いたのだが、手を動かしていると色んな事に気付くものだ。かと言ってカメラは捨てられぬ。
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四月十六日 |
早朝四時四〇分起床。昨夜はとぎれとぎれに眠った。七時三〇分過ぎ西安空港より敦煌へ飛ぶ。佐藤健チケット紛失してチョッとした騒ぎ。上山さんが砂漠の上を飛ぶのは気持ちが良いと言っていたのを思い出し全員窓側の席に移るも雲厚く下界は視えず。ウトウトとして九時過眼を覚ますと飛行機は砂漠の上を飛んでいた。実に美しく砂漠が見える。砂漠は単調ではない。無限に多様な地形を出現させる。蛇のように視える風紋や、よじれた毛髪のような地形。時々、白と緑のオアシス。白は岩塩だろう。昔人々は空を飛べなかった。しかし様々に想像力を働かせて空から今、私が見ているようなモノに似せて造形物を作り出していた。今私たちは空を飛び時に成層圏を飛ぶ。そして昔の人々が視なかった光景を間近にする事ができる。それを良く生かしているかどうかは別だけれど。大谷探検隊は大変な苦労をして陸路敦煌に辿り着いた。私たちは現代の技術を使ってニ日目に敦煌に到着できる。しかし、そこで何を見るかは別なのだ。釈迦は修行の末ある種の状態に辿り着いた。その状態は成層圏から眺めるヒマラヤの落日の荘厳のようなモノではないか、とスペインの貴族ディエス・デル・コラールは著「アジアの旅」で述べる。実ニ、私のアジアの旅の折り返し点はこの視点の存在である。十一時前敦煌空港着。ゴビ砂漠の外縁に位置する砂漠の中の空港。土と砂の他は何も無い。体の中をフッと風が吹き抜けて何故かイイゾとただただ嬉しい。若い時からの感じなんだなコレガ。空港前の広場もただ風が吹いていて誰もいない。敦煌賓館にチェックイン。空は灰茶色一色。ポプラの小木が風にゆれている。 午後敦煌莫高窟見学。どう表現して良いのか解らないモノだった。要するにこれは砂漠のガケを荒っぽくくり抜いて、分厚く左官工事で補修し、彩色したものである。今日のところは中央の大仏しか内部は見ていないが、いささか気が抜けた。ただし木造部分の謂わゆる差し掛けの構造が宋時代のものらしく、明日詳細を見るが、大仏様であるかも知れない。
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四月十五日 |
五時起床。室内原稿書く。六時半家を出れば良いか。新宿で立喰いソバ食って七時〇七分のナリタエクスプレス。 十二時過ぎ、只今JAL791便で上海へ向けて飛んでいる。杉浦康平、佐藤健、滝雄一カメラマン、私の四名。成田には馬場昭道が見送りに来ていた。佐藤健の変わり方にはボー然とするしかない。元気な時を知っているから殊更だ。旅から無事に帰れたら、その先の健さんの事は昭道さんに任せよう。自分にはこれくらいが精一杯だ。弱っていく友人を見続ける度胸は俺には無い。こういう佐藤健はスーパーマイノリティなんだろうな。機内食をボロボロ喰べ損じている健を横目で見なくてはならぬのは本当に辛い。早く帰して畳の上で休ませなければいけないのに西域行きとは。これは狂気の沙汰の最中に居る。杉浦康平も痛風で足が動かぬのに、無理して彼も同行している。健の狂気がそうさせている。重病人介護ツアーだぜこれは。それを西域まで行ってやろうと言うのが健の意気地だ。杉浦さんがさっき成田で言ってたよ。健さんは今、気力の人だって。狂気は一定を過ぎると喜劇風に見えてしまうものなのか。 上海空港昼過着。上山大峻龍谷大学長と合流。ガイドの廬さんと合わせ総勢六名となる、上山学長の提案で上海博物館見学。古代の各室は中国の底力を見る思いがする。遠く離れた旧空港で地方便を使うシステムになっている。上海という都市は遊戯的趣きが露出したプロレスシティだ。この事は室内の連載に書こうと思う。西安には二〇時過に着いた。西安のホテル長安城堡大酒店着は二十二時。名前は変わっているがこのホテルは数年前磯崎夫妻と中国に来た時宿泊したホテルだ。室内原稿上海西安便でほとんど書き上げていたので、十二時前終えて、長井にFAX送る。ヤレヤレ。 明朝は四時四十五分モーニングコール。ハードな旅になった。まあしかし大谷探検隊の足跡を辿るのが目的の一つなのだから、これが自然か。佐藤健の体調は極めて悪い。ガイドの廬さんにまで異常さに気付かれてしまう。今晩ぐっすり眠れるかどうかがこの旅の成就いかんの境目であろう。 今日は短い上海論が書けたのが収穫だ。
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四月十四日 |
今日原稿三本書けないと西域へは行けない。キツイなあ。午前中大学へ。学生のエスキース見る。結局全員怒鳴り散らしただけ。十四時石山研同窓会。大隈会館。石山研OBは現在百二〇名程らしい。今日は六〇名ほどが参集した。早稲田バウハウスの参加者が延べ千人くらいだから私は十年程で随分沢山な人間と会った事になる。日経、スタジオボイス二本書き終る。いつ書いたのか自分でもわからなくなっているくらいだ。アト室内を書ければ西域に行ける。十七時世田谷戻り。安藤と宮本邸打ち合わせ。二一時三〇分終了。地下の連中に色々と伝えたい事があったのだが結局出来なかったな。明日は七時〇七分のナリタエクスプレスなので五時起きで荷作りをしなければならない。只今一時。疲れたので眠りたいが室内原稿を書く二時間をひねり出すと二時間しか眠れない計算になる。佐藤健は本当に西域まで行くのか、今日になっても半信半疑なのだ。どういう旅になるのやら想像がつかぬ。 ヤケくそだ。もう眠ってしまおう。明日の成田までの電車で原稿はやっつけてみよう。
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四月十三日 |
朝八時過起床。今日は何本原稿書かなくてはならんのか、自分でも把握できていない。先ず敦煌のホテルからFAXがうてるかどうか確認した方がいいな。西安は大丈夫だろうが、山西省太原はむずかしいいかも知れない。二日で五本は無理だよね。逃げるしかない。ずいぶんセコイ逃亡者ではある。 九時地下室へ。昨日べーシーの菅原正二からFAXレターが着いていた。いつもハイセンスな内容で気持ちが和む。十時過NEC企業誌取材。ルポライター吉村克己氏他三名来訪。世田谷村を案内する。十二時過住宅建築編集長海光他来訪。世田谷村を案内する。今日の私はガイドだ。オープンテックハウス打ち合わせ夕方まで続く。
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四月十二日 |
今日から大学院の講議始まる。伝えたい事は山程あるのだけれど聴く耳を持っているのかどうかは知らぬ。砂漠に水をまく感がある。朝、院講議ミースファンデルローエのバルセロナパビリオンとP・ジョンソン、ガラスの家について。まがいの意味の現代性について話す。昼4年課題出題。夕方、明治通りコンヴァージョン。右肩下りの時代のまちづくりについて。明治通りの方々や明和会の人々も含めて、大会議室に超満員の人々が集まった。何とかこのプロジェクト具体化したい。東大松村研の院生にも世話になった。夜西調布へ佐藤健と。夜半十二時前帰宅。若干のスタッフが残って仕事を続けていた。他愛ないもので真夜中に仕事場に帰りついて、灯りがほのかについていて、誰かがただ居座ってコツコツやっているのを見たりすると、マアもう少し頑張ってみるかとつぶやいたりしてしまう。全くバカだねー、我ながら。
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四月十一日 |
朝椅子二脚デザインする。できる時は五分で出来るし、できない時は一ヶ月経ってもできない。人間の頭は機械とは異るのが良くわかる。午後椅子ゼミ。夕方六本木国際文化会館で会合。二十二時帰宅。
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四月一〇日 |
薄曇り。昨日雨は降らなかった。屋上菜園に種をまいたから今朝は水をまかなければならぬ。十時沖縄県東京事務所へ。沖縄でのワークショップ開催について支援を依頼する。十二時過大学へ。雑務処理。大津のこの先を考えねばならんなあ。二川幸夫に電話するも不在。海外へ出ているとの事。本当に大丈夫なのかねアノ人は。自分の体力の現状を考えるに、チョッと異常だぜ二川さんは。呆然である。 オープン・テック・ハウスの展開について今夜も考え抜こう。
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四月九日 |
今日も高曇り。来週から西域に出掛けなければならぬので今週しなくてはならない事が多い。東大出版の原稿は一部書き直す。たった二〇枚のモノに苦しんでるな我ながら。現代とは何かの主題は何とも巨大過ぎて私の知識量では荷が重い。古代とは何かを書けるわけがないのと同じだ。阿良里の藤井晴正にも会いたいのだが、どうしても時間が捻出できない。オープン・テック・ハウスの展開方法がゆき当りバッタリでなければ良いのだけれど。考えながら進行させねばならぬところが辛いところだ。時間の速力だけは今は早いからな。 朝一時間程をかけて屋上菜園に、トマト、キューリ、ナスの種をまく。今日雨が降ってくれれば良いのだけれど。十時梅沢良三さん来宅。三件の新規プロジェクトの構造を相談する。梅沢さんとの打合わせはいつも楽しい。プロフェッショナルな人物との打合わせはスピードに溢れていて無駄が無い。その後、スタッフと打合わせ。コイツ等は無駄だらけだ。オープン・テックハウスの展開に意を尽す。今度は大がかりに総力戦で攻めたい。十九時渋井修さん夫妻とカンボジア留学生来宅。世田谷村スタッフと会食。次女友美も参会。小さなパーティーとなる。渋井さんのカンボジアでの将来計画、すなわち、アト何年頑張れるかのプログラムを聞く。人生有限を知る。渋井さんが日本に帰って寺を興すような事になれば手伝わなくてはね。
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四月八日 |
高曇り。こういう晴れでもなく、風が吹いているでもない淡い光が差しているだけの、そんな天気は良い。地下打合わせ九時ジャスト開始。十六時高橋工業社長佐々木所長来宅。佐々木さんにはお世話になりっ放しでもある。何とか将来に向けて突張ってもらいたい。具体的な応援ができぬ自分が歯がゆい。新人三名の女はどうにもならんな。早目にたたき出すのが本人達の為か。
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四月七日 |
檜垣が杉並の渡辺邸で、昨日カラスに襲われ、歯を折る事件があって今日予定していた松崎行は中止。大の男がカラスにやられるとは、気味悪いな。俺も屋上では用心しなくては。イヤな目付きのカラスがいるからね。 久しぶりの休日である。 朝、家内と佐藤健にヨーグルト届ける。渡辺邸構造スタディ。夜、安藤鈴木と宗柳でソバ。
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四月六日 |
朝、杉並渡辺邸スタジオボイス取材。渡辺さん家族の工事振りを撮影。おじいさんが堂に入った大工振りであった。良い子供達だ。昼前、上九一色村へ。十五時前聖徳寺現場へ。土地造成工事の具合をチェック。考えていたよりも作った凹地が小振りな感じだった。底に降りなかったので作った凹地がどれ位の内部空間を作れるのか、まだ不明。十六時富士吉田市のトタン建築取材。期待していなかったが、前田久一さん自作のブリキ建築は良かった。特にブリキの波板で作ったファサードは見事なものだった。この素材が持つ薄い金属特有の乾いたリリシズムが生かされていた。でもノスタルジックなんだなあ。五〇年代の匂いがすることも確かである。好ましく思っていても良いがのめり込んではいけない素材だ。内部は外に比べると数段落ちる。十八時過、外が薄暗くなると、小さな青い電球がポッと点灯して、このBarトタンはルネ・マグリットの真昼のたそがれの絵のような、フッとした狂気のような感じを漂わせる。 世田谷村の小さな小屋はトタンで作ってみるか。気持ちがチョッと傾く。用心用心ナノリウムで中里和人展を見て帰京。二十二時三〇分帰着。 今日は丸一日、疲れた。変な一日だった。
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四月五日 |
昨夜来の強風続く。朝家内と屋上に上り、バジルの苗を植え、色々と野菜の手入れする。富士山がクッキリ見えている。 九時半地下へ。 オープンテックハウスの展開プログラム作りに手をつける。一時間チョッとで作りあげて、それぞれのスタッフ、見習いの担当も決めた。午後に指示する。 日経のコラムに大分反応があって全国から便りをいただく。新入りの院生の仕事振りを見るに、又も恐ろしい位の馬鹿さかげんに仰天絶句。もう投げ出したくなるぜ。小さな自己主張の固まりだなコイツ等は。素材を生かすという一歩からたたき込まねばならん。学部の時に何をしてたんだろう。これでは物は作れない。十九時佐藤健来地下。共に西調布へ。神だのみでも何でもしてやる。
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四月四日 |
午後大学、春は大学が忙しいので気をつけぬとアタフタしているだけの時間を、充実している、なんて錯覚してしまう。目一杯の雑務を片付けて夕方世田谷へ。日本デザイン機構の理事会は欠席してしまう。世田谷村地下で打ち合わせ。今現在地下の総数は十九名。丹羽君太田をカウントすると二十一名の世帯である。チョット多いな。育ちも悪かろうから間引きしてゆこう。
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四月三日 |
午後椅子ゼミ。ある程度成果が上ったモノ三名を世田谷村へコンバート、要するに一軍テスト生に昇格する。十五時名古屋から依頼者来室。東洋医学の医院と住宅併用の建築設計を依頼される。良い人のようなので、とり敢えず案を作ってみよう。 久しぶりに海光来室。住宅建築で世田谷村取材したいとの事。新しく進めている住宅ならいいですよと返事。主に技術的な問題をルポルタージュしたいらしい。海光なら仕方ないだろう。杉並、渡辺邸現場は取材の申し込みが多い。ガードしなければ。 GAHOUSESに渡辺邸の模型が出ていて、我ながら若作りだと思う。甘いか。 十八時三〇分。赤坂で伊東豊雄さんが声を掛けてくれて石井和紘設計の街燈の見学会、及び私の芸術選奨の内々のお祝い会。他に山本理顕、隈研吾、妹島和世、小嶋一浩が集まってくれて食事。久し振りに建築家達と会った。よいメンバーで流石伊東豊雄である。しかし原木を使った十七基の街灯が全て傾いていて、その角度が三度なんだそうだ。それで三度笠のおちが付いていた。石井和紘らしい。
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四月二日 |
朝六時起床。今日は日用雑貨集中デザインの日。エネルギーをたぎらせよう。考えてみれば究極の家のプロジェクトは佐藤健がこんな事になるとは思っていなかったのに、予見的なプロジェクトであった。そう考えてみるならば我孫子の酔庵、花咲かハウスプロジェクト、そして究極の家計画、松崎町の倉と、私は佐藤健の為に四つも建築を考案工夫していたことに気付く。驚くべき事ではある。鈴木博之の椅子と悪戦苦闘しているのと同様なのだ。 良く考えてみよう。我ながら遊び、冗談でやっているんだと考えて、遊んでいたプロジェクトが意外や意外、深い意味を持っていたのだ。遊び、とはなにか。商売ではないと言う事。金がまつわり難いという事ではないか。マイノリティの為のデザイン、近代デザインの治療、修理の意味合いだけではそれこそ近代的な思考の枠にはまってしまうのではないか。これは深く遊び、遊ぶ、金銭の授受、贈与の問題と結びついているな。無意識にやっていた遊びの価値について考えてみる必要がある。「究極の家」を再考してみる。 十時前星の子愛児園。近藤理事長とお目にかかる。理事長の強いサポートがなければこの建築はできなかった。コルビュジェとサンテグジュペリを融合させてみよ、こんな依頼には私はふるい立つのだ。子供たちの遊ぶ姿が似合っているかどうか、大丈夫だと思う。この建築で私は一歩前に進んだ。細かいところに多くの傷はあるが全体としては前進した。 十五時黒田太田八頭司親子来宅。屋上その他案内する。お茶を供して、すぐに星の子愛児園見学へ。安藤同行させる。遠方からの客だ。大変だけれど素直に大事にしよう。 いくつかの生活用品私のスケッチをもとに若い学生達にすすめさせる。 夜十二時まで仕事する。 明日は学校。新入生オリエンテーション。地下は二、三日は戦闘状態に持ち込み、週に一日はゆっくりさせよう。生活にはリズムが必要だと言うのを痛感させなくては。
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四月一日 |
眠れず、二時半に起きてしまう。建築の事しか考えたくないなもう。他のことは全てわずらわしい。体がいつまで持つか時間との勝負に入っているから、これからは。随分乱暴な暮しをして来たしそれで年取ってから大変だろうと思っていたが、やっぱり大変だ。狙いを絞ってエネルギーを拡散しない様に生きてゆかなきゃならないね。それを肝に命じたい。 私の場合どうしても建築の事だけの、その建築世界がハナからどうやら拡散しているので、色んな困難さに対面してしまう。それにジタバタしないでゆっくりやらなきゃいけない年になっているのだが、ジタバタが体にしみついているんだ、もう。三時、又眠ってみよう。眠れればいいんだけれど。こんな事を努力しなければならくなるとは想像もしてなかった。 朝九時より打ち合わせ続く。聖徳寺現場が動いたのが救い。日用雑貨品を本格的に動かし始めた。スケッチを猛然とする。スタッフに期待しては駄目だ。十九時半毎日新聞佐藤健六車編集委員を伴って現われる。毎日新聞阿弥陀の道のポスター持参。病状を詳細に説明してくれる。どうなるか全く分からないがキチンと附合ってゆくしかない。西域の旅は無理だと再び言うが、覚悟の上だから止めぬと言う。 私にとっても初めての事態に対面しているのを痛感する。佐藤健としたら一日一日の重みを痛烈に感じ取っているのだろう。もう冗談、ジョークが通る場合ではないが、これ以上ない深刻な事態との対峙は笑いしかないのじゃないか。と覚悟した。栄寿司で一緒にすし喰った。家内も同行。こういう時の家内は肝が座っているから明るい。堂々たるもんだ。流石酒豪で鳴らした六車氏も神妙であった。 私も覚悟の上でキチンと附合っていこう。二十一時過、六車氏佐藤健を自宅まで送り届ける。二十二時家内と帰宅。ひどく疲れてすぐに休む。グッタリと泥のように眠った。
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2002 年3月の世田谷村日記
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